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ユダの頌栄

NO. 2994

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1906年6月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年11月7日、主日夜


「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」。――ユダ24、25


 パウロの書いたものには、頌栄が満ちている。それは、様々に形を変えて、彼のあらゆる書簡に散りばめられている。しかし、彼だけが、そのように立ち止まっては神の御名をあがめている使徒ではない。ここにいるのは、「イスカリオテでないユダ」[ヨハ14:22]である。真実な心をしたユダである。彼が書いている書簡の中では、雷が明々と閃きわたり、ある特定の種類の罪人たちに対して激しく燃え上がっている。ユダの書くほぼ一字一句には、雷鳴がこもっているかに思われる。彼は、新約のユダというよりは、旧約のハガイのように見受けられる。だが、彼は自分の短い書簡をしめくくるに当たって、神に賛美を帰す言葉を含めずにはいられなかった。

 愛する方々。ここから学ぶがいい。もしも私たちが人間の罪を非難するよう召されたとしたら、そのことによって、いやまさって神のいつくしみ深さと栄光をあがめさせられるべきである。罪は世を汚す。それで、あなたが全力を尽くしてそれを一掃しようとした後には、こう決意するがいい。人間が神の御名の名誉を汚してきたのと同じくらい、自分はその御名をあがめるよう努めよう、と。確かに、なされてしまった害悪を現実に正すことはできない。だが、いずれにせよ、罪の流れが増加されるとしても、真実で畏敬の念に富む賛美の流れを増加させることはできよう。そうするよう心を用いるがいい。ユダは、単に人々の子らをその罪ゆえに叱責するだけで満足してはいない。向き直って、自分の神に栄光を帰している。

 注目すべきは、こうした頌栄が、どこに現われても、決してぴったり同じ文言ではないということである。それらは同じ神に向けられ、同じ霊でささげられてはいる。だが、ある頌栄において、その理由としてあげられているものは、別の頌栄におけるものとは違う。本日の午前中の聖句[エペ3:20、21]が私たちに告げていたのは、神に何がおできになるかということであり、この聖句もそうである。双方とも、神の能力を賛美することから始まっている。だが、パウロの語っていたのが、私たちのために何ができるかという、その能力の偉大さであったのに対し、ユダが語っているのは、私たちをつまずかないよう保ち、完成させることにおけるその能力の偉大さである。その御力によって、私たちは傷のない者として神の栄光の御前に立てるようになるのである。この崇高な主題について、私たちは、あがめる心持ちで考えようではないか。

 I. 第一に、《私たちをつまずかないよう守ることのできるお方をあがめよう》

 もちろん、私がいま話しかけているのは、神ご自身の民たちだけである。このような区別立てをつけずにすむような会衆を、私たちはいつ目にすることになるだろうか? 私は、あなたがたの中のある人々に対しては、あなたをつまずかないように守ってくださるがゆえに神をあがめよと命じることはできない。というのも、悲しいかな! あなたはまだ、真っ直ぐに立つことを学んでいないからである。神の恵みは、決してまだあなたによって受け入れられていない。あなたは千歳の《岩》の上にいない。まだ天的な巡礼の旅に出ていない。そうしたみじめな状態にあなたはいる。この場合、あなたは、御使いたちが礼拝しているお方を礼拝できない。このような人はみな、悲しい心の状態にある! 神の御前における、並みいる喜びの歓呼からはじき出されている――自分で自分をはじき出している。なぜなら、あなたはそのような喜びを全く感じることなく、それゆえ、そのような歓呼に加わることができないからである。

 しかし、神の民に対しては、こう云わなくてはならない。愛する兄弟姉妹。私たちには守りが必要である、と。それゆえ、私たちを守ることがおできになるお方をあがめようではないか。救われた魂として、私たちは決定的な背教から守られる必要がある。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「先生は私たちに、いったん救われた者たちが決定的に背教することは絶対ないと教えてこられたと思っていたのですが」、と。確かに私はその教理を信じているし、それを宣べ伝えることは私の欣快とするところである。だが、救われた者たちが、ひとり残らず背教せずにいるためには、主が彼らをお守りにならなくてはならないということも真実である。いかなるキリスト者の内側にも、その人個人として考えた場合には、何の安定性もない。その人の内に神の恵みがあればこそ、その人は立っていられるのである。私は人の魂が不滅であると信じているが、それは、それ自体としてではなく、ただ神がご自分の本質的な不滅性から人の魂に授けてくださる不滅性によってのみである。私たちの内側にある新しいいのちもそれと同じである。それは決して滅びることがない。だが、それが永遠であるのは、ただ神がそれを生かし続けてくださるからでしかない。あなたの最終的堅忍は、あなたの内のいかなるものの結果でもなく、神があなたに与え続けてくださる恵みの結果であり、あなたをまずお選びになった神の永遠のご計画の結果であり、今なおあなたを生かし続けておられる神の全能の御力の結果である。あゝ、私の兄弟たち。地上で最も輝かしい聖徒たちでさえ、地獄のどん底に落ち込まずにすんでいるのは、神が彼らをつまずかないように守っておられるからにほかならない。それゆえ、神を賛美するがいい。おゝ、あなたがた、《教会》の天空に輝いている星たち。というのも、あなたがたが油切れしたともしびのように悪臭を放ちながら消え去らないでいるのは、主があなたの天的な炎を燃やし続けておられるためだからである。ご自分の《教会》の《保持者》なるお方に栄光あれ! この方は、ご自分の愛する者たちを最後まで守ってくださる!

 しかし、決定的かつ致命的につまずくこと以外にも、つまずき方にはいくつかある。悲しいかな、兄弟たち! 私たちはみな、教理上の数々の過誤に陥りがちである。いかに良く教えられた人であっても、天来の導きから離れれば、可能な限り最大の馬鹿者になりえないこともない。高貴な霊たちは、時として異様な弱さに取りつかれることがある。そのため彼らは、間違った新奇な説にのぼせあがりながら、何か偉大な真理を発見したものと思い込んでしまうのである。探求心に富み、感受性の高い人々は、しばしば昔からの通り道[エレ6:16]――幸いな古くからの道――からおびき出される。そして、真理を追究しているつもりでいながら、地獄に落ちて当然な過誤に導き入れられてしまうのである。自分の種々の思考や教理的見解について守られているのは、神によって守られている人だけである。世には、できれば選民をも惑わそうと[マタ24:24]するような数々の過誤があるからである。また、この世にのさばっている多くの男たちや女たちは、滑らかな舌ともっともらしい理屈をかかえ、その唇には蜜のような言葉を上せながら、その背後には抜き身の剣を隠しているからである。幸いなことよ。こうした羊の皮をかぶった狼どもから保たれている人々は。主よ。あなただけが、私たちを、時代の悪質な過誤から保つことがおできになります。あなたは、「私たちの救い主である唯一の神」であられるからです。

 そして、愛する方々。私たちは悪しき精神から守られる必要がある。私には、どちらがましか分からない。――私の愛するキリスト者の兄弟たちが教理的な過誤に陥る姿を見るのと、非キリスト教的な精神に陥る姿を見ることとでは、どちらも同じくらい見たくない。というのも、安全な規則はこうだと思うからである。――2つの悪があるときには、どちらも選ぶな。ある人々の語っているのを聞くと悲しいことに、まるでその人だけが正しく、他のあらゆるキリスト者が間違っているかのようである。もしもキリスト教の真髄であり魂であるものが何かあるとしたら、それは兄弟愛である。だが、兄弟愛はこうした人々から全く忘れられているように思われる。そして、他のキリスト者たちは、冷静に判断してみれば、そうした人々自身と同じくらい真剣で、誠実で、用いられているにもかかわらず、何らかの悪徳の体制に属しているかのようにみなされているのである。――彼らの悪罵には際限がないように思われ、ありとあらゆる汚名を浴びせかけては、そうすることがキリスト教の気高い様式だと考えられている。願わくは、そうした人が赦されるように。その人は、自分の人生の価値ある目的が、他のどのキリスト者たちとも交わりを持とうとしないという、独特な特徴の分派を探すことにあると考えているのである! そうした人が及ぼしてきた害悪は、全く計り知れず、私はただこう祈るしかない。神の摂理によって、その一部でも、その人とともに死滅するように、と。

 おゝ、兄弟姉妹たち。私はあなたに命じる。いかなる過ちを犯そうとも、この1つの過ちは犯してはならない。――たといあなたにあらゆる知識があっても愛がなければ無益である。たといあなたが完璧な信条を手にすることができ、自分の礼拝方法が絶対に使徒的なものだと知ることができても、それでも、あなたが、他のキリスト者たちなどと一緒に礼拝できないとか、彼らはまるっきり自分たちとは別の陣営にいるのだとかいう考えに染まっているとしたら、あなたの過誤は他のあらゆる過誤を寄せ集めたものよりも悪質なものであろう。というのも、心が誤っていることは、頭が誤っていることよりも悪いからである。私はあなたが神の真理に対して真実であってほしいと思うが、何にもまして神の愛に対して真実であってほしい。私の兄弟。私はあなたがこの件、あるいは、別の件において誤っていると思うが、あなたは主イエス・キリストを愛しているだろうか? もしそうなら、私はあなたを愛する。疑いもなく私もまた何らかの事がらにおいて誤っているに違いない。だが、だからといって、あなたの手を引っ込めて、私となど交わりを持てないとは云わないでほしい。私は、天におられる私の御父と、その御子イエス・キリスト、そして、そのほむべき御霊と交わりを有している。そして、もしあなたが、それと同じ神の子どもであると自称しているとしたら、その神と交わりを有している私との交わりを拒むことは、あなたにふさわしくないと思う。神があなたをこの悪しき霊から救ってくださるように。だが、あなたが易々とそれに落ち込まずにすむには、主があなたをお守りになるしかない。真理に対するあなたの熱心そのものが、キリスト者の愛を忘れさせてしまいかねない。もしそうなるとしたら、それは実に哀れなことである。おゝ、主よ。私たちをそのようなしかたでつまずくことから守り給え!

 しかし、別の種類のつまずき方は、いかに輝かしいキリスト者たちにさえも起こることがありえる。すなわち、外的な罪に陥るつまずきである。ユダの手紙を読み通せば、何が一部の信仰告白者たちを背教させたのかが分かるであろう。そして、こう叫ばされるであろう。「主よ。私がつまずかないようにお守りください」、と。また、もしあなたが、この教会のような大教会の牧師であるとしたら、あなたはユダのような裏切り者が決して死に絶えていないと確信するだけのことを見ることであろう。――真実な者たちの間には、不真実な者たちがいる。――取っておくべき良い魚だけでなく、投げ捨てるべき悪い魚もいる。そして、そのつど私たちは何らかの戒規を執行する。――そのつど、兄弟のように見えていた者の転落を嘆かなくてはならない。――私たちは、自分が守られてきたことを神に感謝し、この頌栄を歌って良い理由がある。「私たちを、つまずかないように守ることができる方に栄光、権威が永遠にありますように」。

 そして、愛する方々。ある特定のつまずき方をするとき、そこから回復する人々はまれである。すなわち、公然たる罪に陥る場合である。これは、自然法の、あるいは、キリスト教の義務を無視してふるまうようになることを意味する。私の知っている何人もの信仰告白者たちは、家庭内では非常にしまりのない生き方をしていた。――自分の両親に従順でない子どもたち、――しかるべきほどに妻を愛さない夫たち、――あれこれの集会では全くくつろいで過ごしていながら、自分の家庭内の義務は放置し放題の妻たちであった。そして、よく聞くがいい。そうしたことが云える場合、これは嘆き悲しむべきことである。というのも、キリスト者は自分が行なうべきあらゆることにおいて、絶対に信頼が置ける者たるべきだからである。私が鼻もひっかけたいと思わないのは、商売をしていながら、不正な取引をしているという人のキリスト教信仰である! たといあなたがダビデのように歌い、パウロのように説教できようと、もしもある品物の尺数をしかるべき吋数で測らないとしたら、あるいは、あなたの秤が正確な重さを測りとらないとしたら、あるいは、あなたの商売の全般的なやり方が公明正大でも真実でもないとしたら、あなたはキリスト教信仰など告白していない方がましである。「信仰的」と呼ばれるものを、「世俗的な」ものから分離させることは、考えうる限り最も大きな間違いの1つである。日曜日だけの、また、会堂や教会内だけのキリスト教信仰などというものはない。少なくとも、あるにせよ、身につける値打ちはない。キリストの信仰は、一週七日間の信仰である。――あらゆる場所、また、あらゆる行為のための信仰である。そして、その教えによれば、人は食べるにも、飲むにも、何をするにも、主イエス・キリストの御名によってなし、神の栄光を現わすために行なうべきである[コロ3:17; Iコリ10:31]。どうかあなたがたは、こうしたキリスト教信仰に落ち込むことから守られてほしい。そして、あらゆることにおいて主に仕え、日常生活のごく些細な事がらにも申し分なく勤勉に励むようにしてほしい。

 そして、知っての通り、愛する方々。別の種類のつまずき方がある。それは、心が次第に冷たくなり、キリスト者の道からだんだん外れてさまよい出すときのことである。――生き方が、多かれ少なかれ信仰告白と裏表のあるものとなっていくときのことである。おゝ、いかに多くの信仰告白者がこの状態に陥ることか! そうした人々は、以前ほど健康ではなくなってきたいる人のようである。その人は、自分がいつ具合が悪くなり出したか分からない。そうなってから、もう数箇月になっており、日ごとに力が衰えつつあり、今や、かつては丸々と太っていたところが、骨と皮ばかりになり果てている。かつては疲れることもなく十哩も歩いて行けたのに、今では半哩も行かないうちに疲れはててしまうことに気づく。その食欲も、徐々に減ってきている。その理由はほとんど見当もつかない。あゝ、こうした病人たちを前にするとき、医者は、何かよく知られた疾病に突然倒れた人々を扱うよりもずっと苦労するものである。そして、そのように霊的健康がゆっくりと減退していき、いきなりそうはならずに、徐々にそうなっていく場合、それは最も危険性の高い悪の1つである。そして、私たちは絶えず主に向かって、「主よ。この悪から私たちをお守りください」、と叫び、かつ、主が私たちをそのように守ってくださることで御名を賛美するべき必要がある。

 このように私は、自分たちに守りが必要であることを示してきた。そして、兄弟たち。主のほか何者も私たちを守ることはできない。いかなる人も自分で自分を守ることはできない。神の恵みがなければ、失敗するに決まっている。また、いかなる場所も私たちの守りにはならない。ある人々の考えによると、もしこれこれの家庭内に加われば、罪から守られることができるという。だが、それは間違いである。人は、いかなる立場を占めようと、誘惑を見いだすであろう。ある隠者のことを聞いたことがある。彼は、あらゆる罪を取り除こうとして、ある洞窟に住もうとした。持っていったのは、小さな茶色のパン一塊と、水差し一杯の水だけであったが、その洞窟に入るや否や、自分の水差しをひっくり返して、水をこぼしてしまった。泉までは相当離れていたため、彼は自分のしたことに無性に腹を立ててしまった。それで、たちまち悟られたのである。悪魔は自分と同じくらい素早く洞窟に入り込むことができるのだ。ならば、普通の人里に戻って、試練に向かい合っても同じことだ、と。また、スコットランドには、ある家族のことが云い伝えられている。彼らは倹約することを全くせず、そのため全く家計が楽にならなかった。だが、彼らは「妖精たち」のひとりが、自分たちを貧乏暮らしから抜け出させないようにしているのだと考えた。それで、彼らは「とんずら」することに決めた。全財産を荷車に積み込んだ。だが、出発しようとしたまさにその時、彼らはある物音を聞いて、こう叫んだのである。「妖精が、撹乳器の中にいるよう」。それで、撹乳器が行く所どこにでも妖精もついて行くのであった。あなたも、自分の好きなところに引っ越して、こう考えることはできよう。「もしも、これこれの立場になれたら、私は誘惑から免れるだろう」、と。だが、あなたは見いだすであろう。「妖精が、まだ撹乳器の中にいる」こと、そして、あなたがどこへ行こうとついて来ることを。別の状況を選んでも、つまずくことから守られることはありえない。兄弟よ。あなたは今ある場所にとどまり、そこで悪魔と戦った方が良い。というのも、ことによると、あなたが次の戦闘地として選択する場所は、いま有している場所よりもふさわしくないかもしれないからである。

 「あゝ!」、とある人は云うであろう。「私も行けたら良いものを。

   『広き荒野に 結びし庵、
    人里離れし 果てなき封土、
    虐げ、策謀(わな)の 噂(こえ)も聞こえず、
    戦争(いくさ)の 勝敗(かちまけ)
    絶えてわれには とどかじな』」。

しかり、しかり。だが、それは罪に打ち勝つ道ではないではないだろうか。かりに、ワーテルローの戦いが今まさに始まろうとしているところだとしよう。ここにひとりの兵士がいて、勝利を得たいと願っている。そこで彼は逐電し、――ブリュッセルへと逃げて行き、ある地下室に身を隠すというのである! 彼は、その日の英雄たちのひとりとして数えられるだろうか? 否。兄弟たち。そして、もしこの世に何か打ち勝つべき罪があるとしたら、このように云う人は全く信用されないはずである。「私は、この世から離れたどこかに身を隠すことにしよう」。しかり、しかり。私の兄弟よ。神があなたに供された運命を受け入れるがいい。神の兵士たちの隊伍に位置を占めるがいい。そして、いかなる誘惑がやって来ようと、あなたをつまずかないように守ることができるお方を仰ぎ見るがいい。だが、夢にも逃げ出そうとしてはならない。それは、つまずきの道、戦いが始まる前から記念碑におさまることだからである。神のほか何者もあなたを守れない。あなたの好むいかなる教会に加わろうと、また、つば広の帽子をかぶり、「汝は」とか「汝を」とか云っていようと、また、パンを裂き、神の恵みの福音のほか何も説教しない人々とともに集会を守ろうと、また、この世に生を受けた中でも最上の人々とともに生活しようと、それでもあなたは誘惑を受けるであろう。いかなる場所や人々も、いかなる様式や習慣も、あなたをつまずかないように守ることはできない。神のほか何者にもそれはできない。

 しかし、ここにあわれみがある。神には、それがおできになる。ユダの頌栄がそれをいかに云い表わしているか注意するがいい。「私たちの救い主である唯一賢き神」<英欽定訳>。神だけが賢いお方であるがゆえに、神だけが私たちをつまずくことがないように守ることがおできになるのである。そのため神は、私たちに真理を教え、隠れた罪を警告し、その摂理によって導いてくださる。時として、神は誘惑を私たちから遠ざけ、別の時には、誘惑が私たちのもとにやって来るのをお許しになる。それは、それに打ち勝つことによって、私たちが強くされ、別の誘惑に立ち向かえるになるためである。往々にして、神は私たちを誘惑から救い出すために、患難が私たちのもとにやって来るようにされる。多くの人が罪に陥ることから守られてきたのは、病床に横たわっていたからであった。目を失っていなかったとしたら、そうした人々は空しいものに目を留めていたであろう。その骨が折れていなかったとしたら、不敬虔の道をひた走っていたことであろう。私たちは、自分がつまずかないように保つ、いかに多くの部分が、自分の損失や数々の十字架のおかげであったか、ほとんど分かっていない。聖ポール大寺院の丸天井画を描いた、ジェームズ・ソーンヒル卿の物語は、おそらくあなたも良くご存知だろう。彼は、ある区画を描き終えたとき、それを良く見ようとして一歩ずつ後ろに下がった。そして、足場のほとんど端に達してしまい、もう一歩で転落せんばかりとなった。だが、ひとりの友人が、彼の危険を見てとって、賢明にも彼の絵筆の一本をつかむと、その絵にいきなり絵の具を塗りつけたのである。この画家は、かんかんになって、自分の絵を守ろうとして突進してきた。そして、自分自身のいのちが救われた。私たちはみな人生を描いてきた。何と麗しい絵を描き出してきたことであろう。そして、それを嘆賞する内に、私たちは遠く後ずさりし、さらにずっと神と安全さから遠ざかり、危険な誘惑へと一歩また一歩と近づいていった。そのとき、なぜかはほとんど分からなかったが、前進して救われた。神が、私たちをつまずかないよう守るため、私たちのもとに苦難を送られたのである。

 神がしばしば私たちをつまずかないよう守るのは、私たちの過去の罪を苦々しく痛感させることによってである。私たちは、あえて二度とこの火に近づこうとはしなかった。私たちの以前の火傷が、ほとんど癒えていないからである。また、自分自身の場合に気づいてきたのは、罪に対する願望が力をもってやって来るとき、罪のための機会がそこにはないのである。また、悪の機会が現にあるときは、その願望が欠如していたのである。素晴らしいことに、神はこうした2つの事がらが並び立たないようにし、ご自分の民がつまずかないように守っておられる。

 何にもまして、《天来の御霊》によってこそ、神は私たちを鷲の翼に載せるように持ち上げてくださる。御霊は私たちに罪を憎むこと、義を愛することを教えてくださり、そのようにして私たちは日ごとにつまずかないよう守られている。

 兄弟たち。私たちを最後までお守りになる主を、あがめるがいい。私たちは、イエスの御手に自分の魂をゆだねただろうか? ならば、私たちの魂は永遠に安全である。私たちは主が、ご自分の現われの日まで、私たちをお守りになると信頼しているだろうか? だとすれば、主は私たちをおまもりになり。主の群れの羊や子羊には、その一頭たりとも、狼だの、熊だの、地獄で吠え猛る獅子だのによって滅ぼされる可能性はない。彼らはみな、数を数える者の手を通り過ぎる[エレ33:13]日に、主のものであろう。

 II. さて、第二に、《私たちは、最終的には、「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立」つことになるがゆえに、このお方をあがめよう》

 来たるべき日には、兄弟たち。人は神の宮廷において神の廷臣として立つことになるか、神の権威に逆らう反逆者としてその審きの座に追いやられるかのどちらかとなる。私たちは信頼に満ちた期待とともに待ち望んでいる。私たちがキリストの友として、父なる神の前に立つことになることを。そして、それは実際、あがめて感謝すべき理由である。

 あなたは、ユダがこのことをいかに云い表わしているか注意しているだろうか? 「傷のない者として……立たせる」。天国には、決して傷のない者しかいない。その聖なる宮廷の中には、決して汚れた者[黙21:27]は入れない。天国は完璧にきよい。そして、もしあなたや私がそこに達すべきだとしたら、私たちは吹き寄せられた雪のように純白でなくてはならない。罪のいかなる痕跡も残っていてはならない。さもなければ、私たちは神の廷臣たちの間には立てない。神の燃え上がる御座には、《いと高き方》の宮廷にあえて立とうとするような、咎ある魂をみな焼き尽くすような炎の柱が立ち上っている。そのように立つことが可能だとしたらであるが。しかし、私たちは不潔である。――私たちのもろもろの行為において不潔であり、最悪なことに、私たちの性質そのものにおいて不潔である。ならば、いかにして私たちはそこに立とうなどと希望できるだろうか? だが、愛する兄弟姉妹。私たちは、自分がそうできると信頼している。なぜ?

 それは、キリストが私たちを傷のない者としてそこに立たせることがおできになるからでなくて何であろう? さあ、キリスト者よ。しばしの間、考えてみるがいい。あなたの過去の罪に関する限り、キリストがいかにあなたを傷のない者としてくださったかを。主を信じたその瞬間に、あなたは主の尊い血によって完全に洗いきよめられ、罪のしみ1つ残らなかった。悟ろうと努めるがいい。あなたの過去の人生がいかなるものであったにせよ、もしあなたが今イエス・キリストを信じるなら、あなたはその贖罪の犠牲のおかげで一切の咎からきよめられ、主の完璧なきよさと、御父のみこころに対する完璧な従順という、ほむべきご生涯のおかげで、しみ1つない義の衣で覆われるのである。あなたは今、あなたの過去の罪に関する限り、傷のない者とされている。というのも、主はそれを海の深みに投げ込んでしまっているからである。だが、あなたは自分の性質に関して云えば、傷のない者とは感じていない。

 「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「私は、悪という悪が時として自分の内側から起こり立つのを感じます」、と。しかし、そうした悪はみな、死刑宣告を受けている。キリストはそれをご自分の十字架に釘づけられた。十字架刑は、長々と続く、非常に苦痛に満ちた死であり、犯罪人は大いにもがき苦しんでから、ようやく息を引き取る。だが、あなたのもろもろの罪はすでにその致命的打撃を受けてしまった。キリストがあの十字架に釘づけられたとき、あなたのもろもろの罪もそこに釘づけられたのであり、それらは二度と再び下りてくることはない。それらは、主が死んだように死ななくてはならない。罪がついに息を引き取るとき、それはほむべき時であろう。――そのときには、私たちの性質の内側には罪への傾向すらなくなるであろう。そして、私たちは神の御座の前に傷のない者として立たされるであろう。

 「そのようなことが、できるでしょうか?」、とある人は云うであろう。兄弟よ。よくぞ聞いてくれた。そのようなことがありえるのだろうか? 私たちが、いかなる汚れた情欲によっても誘惑されず、いかなる放逸な情動によっても心乱されず、ねたみや高慢といった情緒をも二度と感じなくなるようなことが、ありえるのだろうか? しかり。確実にそうなる。キリストはこの祝福をあなたのために確保しておられる。その御名はイエス――《救い主》である。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」[マタ1:21]だからである。主は、ご自分を信頼する者たち全員のためにこのことを行なうに違いないし、行なってくださるであろう。主がそうしてくださることを喜ぶがいい。というのも、神のほかいかなる者もそうすることはできないからである。このことを成し遂げることができるのは、「私たちの救い主である唯一の神」でなくてはならない。だが、この方はそれを成し遂げてくださるであろう。あなたは、信仰によって描き出すことができるだろうか? 自分が傷のない者として神の御座の前に立っている姿を。よろしい。ならば、主にしかるべき栄光を帰すがいい。これほど驚くべき恵みの行為を行なわれる主に。

 このようにして、あなたは栄光のうちにキリストによって立たされるのである。ある家庭では、一家の娘が宮中で拝謁にあずかる時には大騒ぎになり、おびただしい数のことが考えに入れられるものである。だが、いつの日か、イエスを信じているあなたや私は、御父に拝謁することになる。そのとき私たちは、いかに輝くばかりの麗しさをまとうことであろう。神ご自身が私たちに目を留め、私たちを傷のない者と宣言してくださるのである。――そのとき、悲しみの種は全く残っておらず、それゆえ、私たちは大きな喜びをもって立たされるであろう! そうなることであろう。私の兄弟。そうなることであろう。私の姉妹。それゆえ、疑ってはならない。それがどれだけ間近なことか、私たちには分からない。もしかすると明日かもしれない。ことによると、太陽が再び上る前に、あなたや私はキリストによって「大きな喜びをもって栄光の御前に」立たされるかもしれない。私たちには、それがいつかは分からないが、主の最善の時にそうなるであろう。私たちは完璧になるであろう。「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]るであろう。それゆえ、「神に、栄光、尊厳、支配、権威が……永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」。

 III. 最後にこう述べて、本日の講話をしめくくらなくてはならない。《この2つの大いなる祝福、すなわち、最終的堅忍と、御栄光の前に立たされることとゆえに、私たちの最高の賛美を主に帰そうではないか》

 ユダは云う。「今も、また世々限りなく」、と。よろしい。私たちは、永遠が経つ間も、「世々限りなく」そうしよう。だが、神への賛美には「今も」携わろうではないか。――この瞬間にも。「神に、栄光、尊厳、支配、権威が今もありますように」*。さあ、兄弟姉妹。この日まであなたを守り、これからもあなたを手放すことをなさらないお方に、いかなるおかげをこうむっているか考えてみるがいい。今のあなたが本来ならどこにいたかもしれないか、考えて見るがいい。また、こう云って良いと思うが、あなたが新生前の状態にあったとき、どこにいるのを常としていたか考えてみるがいい。だが、今のあなたはそこにはいない。むしろ、この場にいて、自分を義とする思いもなく、自分の同胞である人々とは全く違ったものとされている。それは神の恵みのおかげである。あなたは、ことによると、二十年、三十年、四十年、――もしかすると、五十年も、――守られてきたかもしれない。よろしい。神に栄光をささげるがいい。まさに今、栄光をささげるがいい。

 どのようにすれば、そうできるだろうか? よろしい。あなたの心の中でそれを感じるがいい。あなたの隣人たちにそれを語るがいい。あなたの子どもたちに向かってその話をしてやるがいい。あなたの出会うあらゆる人に告げるがいい。この方が、いかにいつくしみ深く、ほむべき、真実な神であられるかを。そして、そのようにして今、神に栄光を帰すがいい。また、幸福で朗らかにしているがいい。あなたが何にもまして神の栄光を現わしたければ、穏やかで、静謐で、幸せな生き方をするしかない。この世に知らせるがいい。あなたがいつくしみ深い《主人》に仕えていることを。苦難に陥ったときには、その苦難があなたの霊に触っていることを誰にも見せてはならない。――否、それ以上に、その苦難によってあなたの霊を騒がせてはならない。神にあって安らうがいい。幸いと同じように災いをも神から受け[ヨブ2:10]、神を賛美し続けるがいい。あなたが暗黒のうちにある時期も神を賛美するとしたら、そのことであなたがどれほど大きな善を施すことになるか、また、いかに大きく神の栄光を現わすことになるか分からない。この世の子らが私たちの詩篇詠唱に大いに注意を払うのは、私たちが苦痛と悲しみの中にあるのを見て、私たちがそれでも神を賛美しているのに注目するときである。私が好むのは、そして、この世が好むのは、洗いきよめる宗教である。――多くの不幸を経ても、大きくゆさぶられても耐え抜く宗教である。一部のキリスト者たちの喜びは、人生の荒波の中で消滅する。それは、この世に手荒な扱いを受けると持ちこたえられない。

 私たちはそうならないようにしよう。愛する方々。むしろ、私たちが少しでも存在している限り、主の御名をほめたたえ、あがめようではないか。

 このように云うとき、私が単に、私の会衆の一部だけに語りかけているのではないことは承知している。私は、この場にいるあらゆる人がいま主を賛美していてほしいと願う。そして、確かに、永遠を通じても、あなたは、今にまさる機会を得られないに違いない。覚えておくがいい。もしあなたが神を賛美しないとしたら、あなたが天国に入ることは不可能である。というのも、それが、天国で携わるべき主な務めだからである。また、さらに覚えておくがいい。あなたの唇から出る賛美は、その唇が天来のしかたできよめられていない限り、豚の鼻につけた宝石のような全く場違いなものとなるであろう。話をお聞きの、まだ救われていない愛する方々。あなたにとって第一のことは賛美ではなく祈りである。――否。祈りでさえ第一ではない。信仰である。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。それから、信仰によって、神が受け入れてくださる祈りをささげるがいい。しかし、あなたはまずイエスを信じなくてはならない。「では、イエスを信じるとはどういう意味ですか?」、とあなたは尋ねるであろう。それはこういう意味である。あなたの罪は罰に値する。というのも、義なる神は罪を罰さなくてはならないからである。そして、今や神は義でありながら、イエスを信じるあらゆる魂を義とお認めになることがおできになる[ロマ3:26]。ご自分の御子の肉体によって、神は一本の木にかかり、悪漢同然の死を遂げられた。あなたは、その死の功績を信じ、神の愛を信じるだろうか? 私たちを救うために、ご自分の御子をさえ惜しまれなかった神の愛を信じるだろうか? あなたはキリストを、あなたの神また《救い主》として信頼できるだろうか? それをいま行なおうとするだろうか? ならば、あなたは救われている。このように神を信頼した瞬間に、あなたは神に関して新しい足場の上に置かれ、神に対するあり方全体が変えられる。悔い改めがあなたの霊を堅くつかんでしまい、あなたは種々の新しい動機に駆り立てられ、新しい願望に支配されるようになるであろう。また、事実、あなたはキリスト・イエスにある新しい人となる。これが救われるということである。――罪への愛から救われ、罪へ戻って行くことから救われ、つまずくことから救われる。その救いは完全なものであるため、キリストはいつの日かあなたを、「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせる」ことであろう。願わくは、話をお聞きの方々。神がこのことを、その恵みの豊かさに従って、あなたがたひとりひとりのために行なってくださるように! 私の心のいだく最後にして、最上の、そして、最も強い願いは、あなたがたの中のひとりひとりが救われることである。願わくは私たちがみな天国の、神の御座の前で会うことができ、二度と別れることがないように! 私がともにいない間は、私以外の、十字架の《伝令官》たちの話に一心に耳を傾け、主に祈るがいい。あなたの救いにとって、――もしも私の話があまり祝福されていないとしたら、――彼らの使信が祝福されるように、と。私が祈るのは、何らかの媒介手段によって、あなたがたがみな主にあって救われ、永遠の救いを手にすることである。アーメン。

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ユダの頌栄[了]

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