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信仰者は孤児ではない

NO. 2990

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1906年5月31日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。――ヨハ14:18 <英欽定訳>


 注意して見ると、欄外にはこう書かれている。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。私たちの主イエス・キリストがいなければ、弟子たちは両親を奪われた子どもたちも同然であった。主がともにおられた三年の間、主は彼らのあらゆる困難を解決し、彼らのあらゆる重荷を負い、彼らのあらゆる必要を満たされた。彼らにとって難しすぎたり、重すぎたりする問題があれば、彼らはそれを主のもとに持って行った。彼らの敵たちがほとんど彼らを圧倒せんばかりになっていたとき、イエスは救いにやって来て、戦闘の形勢を一変させてくださった。彼らは、《主人》が一緒にいる間は、みな幸福で十分に安全であった。主は、父親が大勢の子どもたちの間を歩み、家中を喜ばせるのと同じように、彼らの真中を歩んでおられた。しかし、今や主は、不名誉な死によって、彼らから取り去られようとしていた。そして、彼らがこう感じても当然だったかもしれなかった。自分たちは、血を分けた愛する庇護者を奪われた小さな子どもたちのようになるだろう、と。私たちの《救い主》は、彼らの心にあった恐れをご存知であり、彼らがそれをあえて表現しようとするより先に、こう云ってそれを取り除かれた。「あなたがたは、この荒れた砂漠の世の中にひとり残されるのではない。わたしは、肉においては、あなたがたのもとからいなくならなければならないが、それでも、ずっと効果的なしかたで、あなたがたとともにいるようになるであろう。わたしは霊的にあなたがたのところに戻って来るであろう。そして、あなたがたが、わたしの霊的臨在から引き出すことになる益は、あなたがたの間にわたしがずっととどまることにした場合わたしの肉体的な臨在から引き出せるだろうものよりも大きいはずである」、と。

 I. 第一に、ここでは《1つの悪が防がれている》

 主とともにいない信仰者たちは、聖霊を抜きにすれば、他の孤児たちのように不幸で、孤独となるであろう。いかに多くのものを彼らに与えても、彼らの損失は埋め合わされないであろう。いかにおびただしい数の燭火も、太陽の代わりにはなれない。それらがいくら燃え上がろうと、夜は夜である。いかなる友人の輪も、夫に先立たれた婦人の喪失を満たしはしない。夫がいない限り、彼女はやはり寡婦である。それと全く同じように、イエスがおられなければ、聖徒たちが孤児のようになることは避けられない。だが、イエスはこの聖句で、私たちがそうならないと約束してくださった。この試練を取り除くことのできる唯一のことが、私たちのものとなると主は宣言しておられる。「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。

 さて、思い出すがいい。孤児とは、その親に死なれた者である。他に何もなくとも、そのこと自体大きな悲しみである。あれほど大切な、愛する父親が突如として病で打たれてしまった。家族は気遣わしげに見守り、かいがいしく看病するが、彼は息を引き取ってしまった。その愛に満ちた目は、彼らにとっては暗闇の中に閉ざされる。あの活発な手は、もはや家族のために精を出して働くことがない。その心と頭脳はもはや彼らのために感じることも考えることもない。あの緑の草の下に父親は眠っており、その神聖な塚を眺めるたびに、その子の心は悲嘆で一杯になる。愛する方々。私たちはそうした意味で孤児ではない。私たちの主イエスは死んではおられないからである。確かに主は死なれた。あの兵士たちのひとりが、主の脇腹を突き刺し、そこから血と水が出て来た[ヨハ19:34]。それは、心膜が突き刺され、いのちの泉が割り砕かれたという確かな証拠である。主が死なれたこと、それは確かである。だが、主は今は死んでおられない。墓に行って主を探してはならない。御使いの声は云う。「ここにはおられません。……よみがえられたからです」[マタ28:6]。主が死の縄目につながれていることなど、ありえなかった[使2:24]。私たちは死んだキリストを礼拝してはいないし、いま主のことを屍としてさえ考えてはいない。ローマカトリック教徒が描いたり礼拝したりする壁の絵は、キリストを死んだものとして表現している。だが、おゝ! キリストを生きた、現実の、真の存在であり続けているお方として考えることは、非常に素晴らしいことである。キリストは、死なれたにもかかわらず生きており、むしろ、墓の門を通り抜け、今や永遠に統治しておられるがゆえに、いやが上にも真にいのちに満ちておられる。ならば、見るがいい。愛する方々。孤児の悲しみの苦い根は私たちからなくなっている。というのも、私たちのイエスは今は死んでおられないからである。いかなる霊廟も主の灰を納めてはいない。いかなる金字塔も主の遺骨を保蔵してはいない。いかなる記念碑も、主の恒久的な墓所の場所を記録してはいない。

 孤児は自分の親の死から湧き起こる、1つの鋭い悲しみを覚える。すなわち、自分がひとりぼっちで残されているということである。今や、自分を導くことのできる親の知恵に訴えることはできない。かつてしたように、倦み疲れたとき、親の膝によじ登るために駆け寄ることはできない。ずきずき痛む頭を親の胸にもたせることはできない。「父さん」、と云うことはできるが、何の声も応えない。「母さん」、と泣くことはできるが、その優しい呼び名も、眠っているとしたら呼び覚ましたであろう母を、死の床から起こすことはできない。その子はひとりぼっちである。自分の最上の同伴者であった、その2つの心に関する限りひとりぼっちである。親は、愛する人はもういない! その小さい者らは、見放され、捨てられるとはいかなることか知っている。しかし、私たちはそうではない。私たちは孤児ではない。確かにイエスはからだをもって地上にはおられないが、その霊的臨在は、その肉体的な臨在がそうあったはずのものと全く等しくほむべきである。否、それよりも良いものである。というのも、かりにイエス・キリストが肉体をもって地上におられるとしたら、あなたがた全員がやって来て、その着物のふさに触れることはできないであろう。――いずれにせよ、全員が一度にそうすることはできない。世界中に、主と話をしようとする者が何千人も待っていることであろう。だが、もし主が単にからだをもって地上におられたとしたら、いかにしてその全員が主のもとに行けるだろうか? あなたがたはみな、何かを主に告げたいと欲するであろう。だが、からだにあっては、主はあなたがたの中のひとりか二人しか一度に受け入れることができないであろう。

 しかし、霊にあっては、あなたが会衆席から立ち上がる必要はない。一言も口にする必要はない。イエスは、あなたの思念が語ることを聞き、あなたのあらゆる必要に同時に注意を払ってくださる。私たちが主のもとに行こうとして大群衆の中を押し合いへし合いする必要はない。というのも、主は、あなたの間近にいるのと同じくらい私の間近におり、米国にいる、あるいは、南洋諸島にいる聖徒たちの間近にいるのと同じくらい、あなたの間近におられるからである。主は至る所に臨在しておられ、主の愛する者たちはみな主と話ができる。あなたは、今この瞬間にも、主に向かって、他の誰にもあえて明かそうとはしないような数々の悲しみを申し上げることができる。あなたは、それらを主に打ち明ける中で、こう感じるであろう。自分はそれらを空中に囁きかけているのではない。現実の《お方》が自分の云うことを聞いておられるのだ。その手を握れるような、また、その愛に満ちた眼差しの閃きが見えるような、また、その顔つきの同情深い変化が見てとれるような現実の《お方》が聞いていてくださるのだ、と。

 あなたにとって、これは真実ではないだろうか? あなたがた、生ける《救い主》の子どもたち。あなたは、それが真実であると知っている。あなたには、兄弟よりも親密な友人[箴18:24]がいる。近しく、愛する《お方》がいる。この方は、真夜中にも寝室の中におり、日中の働きの場でも、その労苦と焼けるような暑さ[マタ20:12]の中におられる。あなたは孤児ではない。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」[イザ9:6]があなたとともにおられる。あなたの主はここにおられる。そして、母に慰められる者のように、イエスはあなたがたを慰めてくださる[イザ66:13]。

 孤児は、また、食物や着物を供し、食糧を十分に蓄え、家内が快適に保たれるよう常に配慮してくれた親切な手を失っている。あわれな弱い者よ。誰がその求めを満たしてくれるだろうか? その父親は死んでおり、母親は亡くなっている。だれが、今、この小さなさまよい人の面倒を見てくれるだろう! しかし、私たちはそうではない。イエスは私たちを孤児にしてはおられない。ご自分の民に対するその配慮は、「イエスが愛しておられた」*[ヨハ11:5]マリヤや、マルタや、ラザロとともに食卓に着いておられたときとくらべて、今も少しも少なくなってはいない。その供給は、少なくなる代わりに、増し加わっていさえする。というのも、聖霊が私たちに与えられている以上、私たちには、より豊富な食べ物があり、より多くの霊的な慰めにふんだんにあずかっているからである。その慰めは、《主人》の肉体的な臨在が離れ去る前の信仰者たちにまさっている。あなたの魂は、今晩、飢えているだろうか? イエスはあなたに、天からのパンを与えてくださる。あなたは今晩、渇いているだろうか! あの岩からの水は、流れるのをやめていない。

   「来て、知らしめよ、入用(もとめ)と重荷(に)をば」。

あなたは、自分の必要を知らせるだけで、そのすべてを満たされることができる。キリストは、この集会の真中で、いつでも恵み深くなろうとしておられる。主は、その黄金の御手をもってこの場におられ、その御手を開いては、あらゆる生きた魂の入り用を満たそうとしておられる。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は悩む者、貧しい者です」、と。こう引用しながら行くがいい。「主よ。私を顧みてください」[詩40:17]。「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「私は三度も、この肉のとげをもぎ取ってくださるよう主に願いました」、と。主がパウロに何と云われたか思い出すがいい。「わたしの恵みは、あなたに十分である」[IIコリ12:8]。あなたは、自分の必要とする力なしに放置されてはいない。主はなおもあなたの《羊飼い》であられる。主は、あなたを養い続け、ついには死の暗い谷を通ってあなたを導き、栄光の丘の頂上で輝く牧草地へと連れ出してくださる。あなたは窮乏してはいない。あなたは、不敬虔な世間に避難所を乞い求め、その云いなりになる必要はない。あるいは、その空しい約束に頼る必要はない。イエスは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない[ヘブ13:5]からである。

 やはり孤児は、教えられないまま放り出されている。教えは、子どもに最もふさわしいものである。私たちがいかに好き勝手なことを云おうと、子どもの人格を形成するのにふさわしい者として親にまさる者はいない。地上で過ごす日々に、父か母を失うのは、子どもにとって非常に悲しい喪失である。というのも、いかに優秀な教訓者が、神の祝福によって非常な力を尽くしたとしても、それは急場しのぎでしかなく、《摂理》による原初の定めを部分的に埋め合わせることでしかないからである。元来は、親の愛が子どもの精神を形造るべきなのである。しかし、愛する方々。私たちは孤児ではない。私たち、イエスを信じる者たちは、教育を受けないまま放置されてはいない。イエス自らが地上におられないことは真実である。たぶん、あなたがたの中のある人々は、こう願っているであろう。主の日にやって来て、主のことばに耳を傾けたい、と! この講壇を見上げて、あの《十字架につけられたお方》を目にし、その説教を聞くとしたら、それは甘やかなことではないだろうか! あゝ! そうあなたは考える。だが、使徒は云う。「私たちは……かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」[IIコリ5:16]。

 最もあなたのためになるのは、あなたが真理の御霊[ヨハ16:13]を受けるとき、それを、地上におけるキリストの現実の臨在という黄金の器を通してではなく、私たちのような、神の卑しいしもべたちという、あわれな土の器[IIコリ4:7]を通して受けることである。いずれにせよ、私たちが語ろうと、天から下った御使いが語ろうと、語り手は問題ではない。神の御霊だけが、みことばの力なのであり、みことばをあなたにとって生きた、息吹を与えるものとするお方なのである。さて、あなたには神の御霊がある。聖霊が与えられているのは、あなたに理解できない真理がないようにするためである。その教えによれば、いかに深い奥義の中に導き入れられることもできる。これまで困惑させられてきた、神のことばの中の難解な点をも知り、了解することができる。へりくだってイエスを仰ぎ見さえすれば、その御霊はなおもあなたを教えてくださる。私はあなたに告げるが、たといあなたが貧しく、無知であっても、また、聖書の中のほとんど一言も読めないかもしれなくとも、そうした一切にもかかわらず、あなたは、神のみこころのこと[Iコリ2:11]において、神学の博士よりも深い手ほどきを受けられる。もしあなたが聖霊のもとに行き、聖霊によって教えられるならばそうである。ただ書物や文字にしか行かず、人間たちから教えられる者たちは、神の御前においては愚か者たちとなることがありえる。だが、イエスのもとに行き、その御足元に座る者たち、また、その御霊から教えられることを願う者たちは、知恵を与えられ、救いを受ける[IIテモ3:15]のである。神はほむべきかな。私たちの中にいる少なからぬ数の人々はそうである。私たちは孤児にされてはいない。私たちのそばには、今も《教師》がいる。

 孤児がしばしば、自分が孤児であることを痛ましく思い起こさせられる点が1つある。すなわち、守り手を欠くことである。小さな子は、どこかの大きな少年にいじめられたとき、ごく自然に、「父ちゃんに云いつけてやるぞ!」、と叫ぶ。いかにしばしば私たちはそう叫ぶのが常であったことか。また、その後でも、いかにしばしば小さな者たちがこう云うのを聞いてきたことか。「母ちゃんに云いつけてやるぞ!」、と。時として、そのようにできないということは、私たちが推測できる以上に過酷な損失となることがある。意地悪で残酷な人々は、父がその愛によって後に遺したなけなしのものを孤児たちからひったくって行く。そして、裁判所では、孤児たちの財産を保護しようとする守り手はひとりもいない。もし父親がそこにいたなら、その子は自分の権利を握って、それを侵害しようなどとする者はまずいないであろう。だが、父親がいないがために、その孤児はパンのように食い物にされてしまい、地の悪人がその子の持ち物をむさぼり食らうのである。この意味で、聖徒たちは孤児ではない。悪魔は、できるものなら私たちから私たちの相続財産を奪いたいだろうが、御父の御前で私たちを《弁護してくださる方》[Iヨハ2:1]がおられるのである。サタンは私たちからあらゆる約束をひったくり、契約のあらゆる慰めをはぎ取りたいだろうが、私たちは孤児ではない。彼が私たちに対して訴訟を起こすとき、また、私たちが身1つで自分を弁護するしかないと考えるとき、それは思い違いである。いと高き所には、私たちを《弁護してくださる方》がおられるからである。キリストが割り込んで、罪人の《友》として私たちを弁護してくださる。そして、正義の法廷で主が弁論なさるとき、その陳述が効果を発揮しない恐れは全くなく、私たちの相続財産は安全である。主は、私たちを捨てて孤児にしてはおられない。

 さて、私は多弁を弄さずに、あなたがた、《主人》を愛する人たちに、こう思えることがいかに尊いことか感じさせたいと思う。あなたはこの世でひとりぼっちではないのである。そして、たといあなたに地上の友がひとりもいなくとも、たとい自分の思い煩いを持って行ける人が誰ひとりなくとも、たとい外的な友人たちに関する限り全く孤独であるとしても、それでも、イエスがあなたとともにおられ、本当にあなたとともにおられ、実際的にあなたとともにおられ、あなたを助けることができ、いつでも助けようとしておられるのである。また、あなたには、善良で親切な《庇護者》が、いまこの瞬間にも間近にあるのである。というのも、キリストはこう云っておられるからである。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」。

 II. 第二に、そこには《1つの慰藉が供されている》。悪を防ぐ救済策は、ここにある。私たちの主イエスはこう云われた。「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。

 これは、いかなる意味だろうか? 前後関係からすれば、これは、「わたしは、わたしの御霊によって、あなたがたのところに戻って来る」、という意味ではないだろうか? 愛する方々。私たちは《神格》のそれぞれの《位格》を混同してはならない。聖霊は神の御子ではない。神の御子イエスは聖霊ではない。両者は、1つの《神格》の、2つの異なる《位格》である。しかし、そこには素晴らしい一致があり、ほむべき御霊は、キリストの《代理人》として素晴らしいしかたで活動するため、御霊がおいでになるとき、イエスもまたやって来られると云うのは全く正しいのである。そこで、「わたしは、あなたがたのところに戻って来る」、の意味は、こうなる。――「わたしは、わたしの御霊によって、すなわち、私の地位に就き、わたしを代表する者によって、あなたがたのところに戻って来る」。ならば、見るがいい。キリスト者よ。あなたのうちに、また、あなたともに聖霊がおられるのは、キリストの《代行者》としてなのである。キリストは、今あなたとともにおられる。肉体をもってではなく、その《代行者》によって、――有能で、全能で、天来の、また、永遠の《代行者》によって、――ともにおられる。この《代行者》は、キリストの代理として立っており、あなたの魂の中におけるその臨在において、あなたにとってはキリストとしておられるのである。

 このように、あなたはキリストをその御霊によって有しているため、あなたが孤児となることはありえない。というのも、神の御霊は常にあなたとともにおられるからである。喜ばしい真理は、神の御霊が常に信仰者たちのうちに住んでおられるということである。――時々ではなく、常に住んでおられるということである。御霊は、信仰者たちの中で常に活発にしておられるわけではなく、悲しまされるあまり、その感じとれる臨在が全く引き込められてしまうこともありえるが、その隠れた臨在は常にそこにある。いついかなる瞬間も、神の御霊が完全に信仰者から出て行くことはない。信仰者は、そうしたことが起こりえるとしたら、霊的に死んでしまうであろう。だが、それはありえない。イエスがこう云っておられるからである。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」[ヨハ14:19]。信仰者が罪を犯すときでさえ、聖霊はなおもその人のうちにおられる。「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」[詩51:11]、は非常に汚らわしく堕落したひとりの聖徒の祈りであった。だが、彼のうちに神の御霊はなおも居住しておられた。彼の咎や罪の一切の汚らわしさにもかかわらず、そうであった。

 しかし、愛する方々。このことに加えて、イエス・キリストは、その御霊によって、ご自分の民に、ある特定の種類の訪問をしてくださる。聖霊は、特定の清新の時期に、素晴らしいしかたで活発になり、強大になられる。そのとき私たちは、特に、また、喜ばしく、その天来の力を感じとる。その影響力が、私たちの性質のあらゆる部屋から流れ込み、太陽が力の限り輝くように、その栄光に富む光箭で私たちの暗い魂をあふれさせるのである。おゝ、これはいかに喜ばしいことか! 時として私たちは、主の食卓でこのことを感じたことがある。私の魂は、あなたがたとともにその食卓に着くことを慕いあえいでいる。なぜなら、このパンと葡萄酒という表象が私の信仰の助けとなり、私の魂の熱情を天的な炎へと燃え上がらせてくれた数々の幸いな時のことを覚えているからである。それと等しく私が確信するところ、祈祷会において、また、みことばが宣べ伝えられる下において、また、個人的な瞑想の中において、また、聖書を調べている中において、私たちはイエス・キリストが私たちのもとにやって来られたと云うことができる。何と! あなたは何のミツァルの山[詩42:6]も思い出さないのだろうか?――

   「いかなタボルの 訪れも、
    みそばで聖山(みやま)に ある折も」?

おゝ、否! こうしたほむべき時期のいくつかは、私たちの記憶にその刻印を残しており、私たちの今際の思いの中にあっても、そのほむべき時期、イエス・キリストがご自分を、世には現わそうとしないようなしかたで私たちに現わしてくださった[ヨハ14:22]時期の思い出と入り混じり合うであろう。おゝ、その、深紅の衣に包まれて、ぱっくり開いた御脇に強く押しつけられること! おゝ、私たちの指をその釘跡に差し込み、私たちの手をその御脇に差し入れること! 私たちは、これがいかなる意味であるかを過去の経験から知っている。

 そして、今、ここまで口にしてきた多少の思念をまとめつつ、思い起こさせてほしい。愛する方々。この聖句のあらゆる言葉は教えに富んだものである。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。そこに、「わたしは」、が二度繰り返されていることに着目するがいい。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない。父親や母親なら、そうするかもしれない。だが、私はそうはしない。ユダは反逆者になるかもしれない。アヒトフェルはそのダビデを裏切るかもしれない。だが、わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしない。あなたは多くの失望を味わってきた。心引き裂かれるような悲しみを味わってきた。だが、わたしは、あなたをそうした目には遭わせない。わたしは、――この忠実で真実な《証人》[黙3:14]は、――不変の、変わることがありえないイエスは、――きのうもきょうも、いつまでも、同じ[ヘブ13:8]であるわたしは、あなたがたを慰めのないままにはしない。わたしは、あなたがたのところに戻って来る」。その、「わたしは」、という言葉に飛びつくがいい。そして、あなたの魂にこう云わせるがいい。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。[マタ8:8]。たといあなたが、『わたしは、御使いをあなたのもとに遣わす』、と仰せになったとしても、それは非常なあわれみだったでしょう。ですが、あなたは何と仰せになっていることでしょう。『わたしは、あなたがたのところに戻って来る』? もしあなたが、私の兄弟たちの何人かに命じて、私のもとに来させ、慰めの言葉をかけさせてくださるとしたら、私は感謝することでしょう。ですが、あなたは、それをこのように第一人称で云い表わしてくださいました。『わたしは、あなたがたのところに戻って来る』。おゝ、私の主よ。私は何と云えば良いでしょうか。何をすれば良いでしょうか。ただ、こうしたことに飢え渇きを覚えるだけです。あなたが、ご自分のこのみことばを成就してくださるまで、何も満たすことのできない飢え渇きを。『わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしない。わたしは、あなたがたのところに戻って来る』」。

 それから、これが語りかけている相手の人々に注意するがいい。「わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしない。お前、ペテロよ。わたしを否定することになる者よ。お前、トマスよ。わたしを疑うことになる者よ。わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしない」。おゝ、あなたがた、イスラエルの中でも小さい者すぎて、そもそも自分の名前が教会員名簿に載っていることも残念だと考えている人たち。自分をあまりにも無価値で、取るに足らない者と感じている人たち。主はあなたを、あなたさえも、慰めのないままにはしない。「おゝ、主よ」、とあなたは云うであろう。「もしあなたが、あなたの羊たちの残りの面倒を見るとしたら、私は彼らに対するあなたの優しさゆえにあなたをほめたたえます。ですが、私は、――私は取り残されて当然の者です。たとい私があなたから捨てられても、私にはあなたを非難できません。というのも、私はあなたの愛に対して遊女のようにふるまってきたからです。だがしかし、あなたは仰せになります。『わたしは、あなたを離れない』、と」。天国の相続人よ。この約束におけるあなたの関係を失ってはならない。ぜひこう云ってほしい。「主よ。私のもとに来てください。そして、あなたは私の兄弟たちすべてを清新にしておられますが、それでも、主よ。私の愛のほんの数滴をもって私を清新にしてください。おゝ、主よ。この杯を私のために満たしてください。私の渇いた霊はそれを慕いあえいでます。

   『渇き、衰(おとろ)う、われは証(あか)さん、
    贖い給う 愛の大きさ、
    われに対する キリストの愛を』。

「今、主よ。あなたの役に立たないはしために対するみことばを成就してください。私は、ハンナのように、御前に立っていますから。あなたのしもべなる、私のもとに来てください。目を天に上げるほどの価値もなく、ただ、あえてこう云うしかないこの者のもとに。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』[ルカ18:13]。あなたの約束を、この私にさえも果たしてください。『わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしない。わたしは、あなたがたのところに戻って来る』」。

 どちらの言葉を取ろうと、それぞれは、このようなしかたで輝き、光を放つのである。

 また、この聖句の満ち満ちた豊かさに着目するがいい。「わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。イエスは、こうは約束しておられない。「わたしは、あなたがたに聖化の恵み、支えのあわれみ、あるいは、尊いあわれみを送ります」。むしろ、主はあなたが孤児にならないようにする唯一のことを約束しておられる。「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。あゝ、主よ! あなたの恵みは甘やかなものです。ですが、あなたの方がまさっています。葡萄の木は良いものですが、その房の方がまさっています。あなたの御手から贈り物を受けるのは十分に良いことですが、おゝ、御手そのものに触れることは! あなたのくちびるのことばを聞くのは十分に良いことですが、雅歌の中の花嫁がしているように、そのくちびるに口づけすること、それははるかにまさっています。知っての通り、ひとり孤児になった子どもがいれば、その子が孤児のままでい続けることを妨げることはできない。たとい、どれほどの親切心をその子に対して感じようと、いかにその必要を満たそうと、いかに可能な限りのことをしてやろうと、それでもその子は孤児のままであろう。その子に父親と母親を戻してやらない限り、その子は孤児のままであろう。そのように、私たちのほむべき主は、このことを知っておられたため、「わたしは、あなたがたのためにこのこと、あのことをしよう」、とは仰せにならず、こう云われるのである。「わたしは、あなたがたのところに戻って来る」。

 あなたは、見てとっていないだろうか? 愛する方々。この一言の中には、あなたが必要とすることがありえる一切のものがあるばかりでなく、あなたが必要とすることがありえると考えている一切のものがあるのである。「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ……てくださったのです」[コロ1:19]。それで、キリストが戻って来られるときには、キリストによって、「満ち満ちた」ものがやって来る。「満ち満ちた神の本質が御子のうちに宿」っているため、イエスが来られるとき、まさに神そのものが信仰者のもとにやって来るのである。

   「『いかに広大(おお)くを 汝れ求むとも、
    よく汝れは 豊けく満たさん』。――

「そして、もしあなたが私のもとにやって来られるとしたら、それは、あなたの契約の一切の賜物にまさるでしょう。もし私があなたを得るなら、私はすべてを得、すべて以上のものを、たちまち得るのです」。

 ならば、この約束の言葉遣いと十分さに着目するがいい。

 しかし、私がさらにあなたに注意してほしいのは、この約束の、引き続く清新さと力である。この場にいるある人が、別の人に五十ポンドの借金をしているとして、相手に、「五十ポンドの返済を約束する」、という約束手形を渡すとする。よろしい。その人は明日、その約束手形を持って訪れ、五十ポンドを手に入れる。では、今やその約束手形が何の役に立つだろうか? 何と、それにはそれ以上、何の価値もない。それは支払われている。いかにあなたは、常に有効な約束手形を持ちたいと願うであろう? それは、まさに素晴らしい贈物となるであろう。「わたしは、永久に支払うことを約束する。そして、この証書は、一千回支払われても、それでも有効なものとする」。このような種類の証書を持ちたくない人がいるだろうか? だが、それこそキリストがあなたに与えておられる約束なのである。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。ある罪人が最初にキリストを仰ぎ見るとき、キリストは彼のもとに来られる。それからどうなるだろうか? 何と、次の瞬間も、やはり、「わたしは、あなたがたのところに戻って来る」のである。しかし、ここにいるひとりの人は、キリストを知ってから五十年になっており、この約束が一年間に一千回も果たされている。それは、効力が切れてしまっただろうか? おゝ、否! それは、イエスが最初に、「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」、と仰せになったときと同じくらい全く清新なままである。ならば、私たちは私たちの主を、主ご自身のしかたで扱い、主のことばをそのまま信じるであろう。自分にできる限りしばしば主のもとに行くであろう。というのも、私たちが主をうんざりさせることは決してないからである。また、主がその約束を最もお守りになるとき、そのときこそ、私たちは主のもとに行き、さらにそれをお守りになるよう願い求めるであろう。そして、その約束の真実さが一万回も証明された後でも、私たちはただ、再びそれが果たされてほしいという、さらなる飢え渇きを覚えるであろう。これは、人生における必要のためにも、死における必要のためにも、ふさわしい備えである。「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。最後の瞬間、あなたの脈が微弱になり、あなたが今にも幕を通り抜け、目に見えない世界に入ろうとしているとき、あなたはこのことをあなたの唇に上せて、あなたの主に云ってかまわない。「私の《主人》よ。なおも、あなたが私に希望をいだかせてくださったこのことばを、私に果たしてください。『わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです』」。

 思い起こしてほしいが、この聖句は、この瞬間にも有効である。そして、そのことゆえに、私はそれを喜んでいる。「わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしません」。これは今を意味している。「わたしは、、あなたがたを慰めのないままにはしません」。あなたは、今この時、慰めを欠いているだろうか? その責任はあなたにある。イエス・キリストは、あなたをそのまま放り出してはおられず、そうならせてもおられない。この約束には、豊かで尊い事がらがある。「わたしは、あなたがたを慰めのないままにはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。わたしは、、あなたがたのところに戻って来るのです」。今は、あなたにとって非常に倦み疲れる時かもしれない。また、あなたはキリストにより近づくことを思い焦がれているかもしれない。よろしい。ならば、この約束を主の前で申し立てるがいい。今のあなたがいる所で、座ったまま、この約束を申し立てるがいい。「主よ。あなたは、私のところに戻って来ると云われました。今晩、私のもとに来てください」。

 信仰者よ。あなたがそのように申し立てるべき理由は数多くある。あなたは主を必要としている。あなたには主が必要である。主の必要がある。それゆえ、この約束を申し立て、それが果たされると期待するがいい。そして、おゝ! 主が来られるとき、それは何たる喜びであろう。主は部屋から出てくる花婿[詩19:5]のようにおいでになり、その着物はアロエと肉桂[詩45:8]の香りを放っている! その喜びの油[イザ61:3]は、いかにあなたの心を芳香で満たすであろう! いかにすみやかにあなたの荒布は脱ぎ捨てられ、喜びの着物があなたを飾ることであろう! いかなる心の喜びによって、あなたの重い魂は、イエス・キリストがこう囁いてくださるとき、歌い出すことであろう。あなたは主のものであり、主はあなたのものである[雅2:16]、と! さあ、私の愛する方。遅れないでください。別離の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください[雅2:17]。そして、あなたの約束が真実であると私に証明してください。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。

 さて今、愛する方々。しめくくりとして、こう思い起こさせてほしい。多くの人々は、この聖句に全くあずかってはいない。そのような人々に対して、何が云えるだろうか? あなたがた、キリストの愛が何を意味するか知らない人たち。魂の底から、私はあなたを憐れむ。おゝ、もしあなたが神の民の喜びを分かっていさえするなら、あなたはそれを持たずには一時もじっとしていられないであろう! 覚えておくがいい。もしあなたが真摯にキリストを見いだしたいと願うなら、キリストは信仰の道において見いだされるはずである。主を信頼するがいい。そうすれば、主はあなたのものである。主の犠牲の功績により頼むがいい。あなた自身をそれに全くゆだねるがいい。そうすれば、あなたは救われ、キリストはあなたのものとなる。

 願わくは私たちがみな、天上の御国でパンを裂き、イエスとともなる祝宴に列して、その栄光にあずかることができるように! 私たちはその再臨を期待している。主は、その肉体をもって、栄光に富むしかたでやって来ようとしておられる。これこそ、その民の最も輝かしい希望である。これが、彼らの贖いの成就であり、彼らの復活の時である。愛する方々。それを待ち望むがいい。そして、願わくは神があなたの魂を喜び歌わせてくださるように!

 

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信仰者は孤児ではない[了]

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