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御国の近くか、中か

NO. 2989

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1906年5月24日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年10月24日、主日夜


「あなたは神の国から遠くない」。――マコ12:34


 いくつかの点で、すべての人は似た者である。――同じように堕落しており、同じように《救い主》を必要としている。こういうわけで、私たちには福音が二十もあるのではなく、たった1つしかないのである。また、福音が、異なる階級や社会層、異なる道徳状態の程度に応じた、それなりの等級別にされてなどいないのである。私たちには同じキリストが、あらゆる種類の罪人たちの前に、その唯一の希望として示されている。また、どのひとりに対しても宣言すべき同じ使信がある。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。

 そうではあるが、もし私たちがあらゆる人を全く同じしかたで扱うなら、途方もなく大きな間違いを犯すことになる。というのも、全人類が全く同じようではないからである。そして、私たちの《救い主》ご自身、地上におられたとき、みもとにやって来た人々について、いくつかの区別をされた。主は、律法学者たちの何人かに対しては非常に激しい言葉を発したが、この特定の律法学者に語りかける際には、非常に異なる口調をお用いになった。主は云われる。「あなたは神の国から遠くない」、と。

 疑いもなく、一部の罪人たちは、神の国から非常に遠い所にいるに違いない。そのよこしまな行ないによって、彼らは生来そうあるよりもはるかに遠ざかってしまっている。彼らは、生まれつき自分のものである原罪に、種々の悪習慣から出たありとあらゆる腐敗を加えてきた。そして、光にその背を向け、罪の夜闇の中に深く、また深く突き進んで来た。他の人々は、神の抑制の恵みを通して、決してそのようにしてはこなかった。確かに、その人々も堕落した被造物ではある。だが、それでも、その品性には多くの美しい点がある。実際、彼らはあまりにも愛すべき者であるため、イエスでさえ、そうしたひとりの青年を眺めたときには、彼をいつくしまれた。確かに彼に対しても、「あなたには、欠けたことが一つあります」[マコ10:21]、と仰せにならないわけにはいかなかった。その1つが欠けていたことは致命的であった。それでも、キリストは彼のうちにあった美質を認められた。そして、確かに主は、ご自分に仕える教役者たちが、また、魂を主のもとに導こうと努めるあらゆる者たちが、同じようなしかたで行動することを臨んでおられると私は感じる。それに、ある人に満足すべき点が伴っているときは常に、それを率直に認めるならば、あなたはその人に対して一本取ったことになる。そして、その人は、あなたがその人の欠点を指摘し、その人の品性がしかるべきあり方からどこでなおも外れているかを示すとき、あなたに耳を傾ける見込みがずっと高くなるであろう。この会衆の中には、「神の国から遠くない」多くの人々がいるものと完全に確信して、私は、特にそうした人々に向かって語るつもりでいる。あるいは、むしろ、聖霊が私を通してその人々に語ってくださるよう祈るものである。御霊こそ、心と良心に対して力をもって語るお方だからである。

 第一に、この人物がいかなる状態にあったかを描写することにしたい。それから第二に、その種々の危険を指摘することにし、第三に、その種々の励ましに注意することにしよう。

 I. まず第一に、《この人物がいかなる状態にあったかを描写する》ことにしたい。「あなたは神の国から遠くない」。

 キリストは、このように彼に対して語られた。そして、この人物の心を読むことができた主は、絶対の正確さをもって、この人物がいかなる状態にあったかご存知であった。そして、今この瞬間にも私たち全員の心を読むことがおできになる。栄光の御座から見下ろして、主は、愛する方々。あなたが主の御国に関して、いかなる状況にあるかを正確にご存知である。――どこまであなたが近づいているか、また、まだどこまではるかに及ばないかを。主の過つことない知識により頼みつつ、私は主に祈るものである。主がその御霊を送り、語られる言葉があなたの特定の場合にふさわしいものとなり、そのようにして深く心に突き入れられるようになることを。そのようにして、願わくは、あなたがこう悟れるように。神ご自身があなたに語りかけておられるのだ、また、あなたがそこまで近づいてきた御国に真っ直ぐ入って行くよう召しておられるのだ、と。

 まず最初に、この律法学者の場合を眺めて、なぜ彼がこれほど御国に近づいていたかを見てとろう。彼について、まず最初に有望であったしるしは、このことだと思う。彼は明らかに、それまで、また、その時も、率直な精神をした人物であった。彼は、他の律法学者のほとんどのようには偏見にとらわれていなかった。彼の思いと心は道理に服そうとしていた。古の聖書を読むとき、彼は、自分の目を閉ざしたままそれを読んだり、律法学者の大多数がかけていたラビ的な色眼鏡を通して見つめたりしなかった。むしろ、彼は、そこにある真理を知りたいと願いながらそこへと赴いたし、真理を見てとったとき、その真理に反発せず、自分をそれに服させた。明らかに彼は率直な律法の学徒であった。その最も大切な戒めが、神への愛であり、自分の隣人への愛であるとの結論に達していたからである。彼の同輩の律法学者たちが、純粋に儀式的な問題――ことによると、割礼に関する何かか、種を入れないパンを食べることに関する何か――それぞれの分野においては確かに重要ではあるが、律法の中で最も重大なものとみなされるべきではないもの――を第一のこととしていたのに対して、この人物は、真理を知ろうとの明白な決意をもって読んできたし、そこまでは真理を見いだしていた。

 彼がその虚心坦懐さを示したのは、単に真理を探究するその勤勉さによってばかりでなく、率直な論争家となることによってであった。彼は、キリストに対して発された数々の問いをすでに耳にしていた。そして、キリストがいかに賢明な答えを返されたかに注目していた。また、質問者の誰ひとりとして、キリストが見事に答えられたと口にするだけの雅量を有していないことにも気がついた。彼らは、キリストに質問を投げかけた結果、明らかに自分たちの威厳が形無しになってしまったことを強く恥じていた。だが、この人物は、自分の問いかけに対する答えを受けとるや否や、この偉大な《教師》の知恵を認めたように見受けられる。それで彼は、キリストが見事な答えをされたという意見を云い表わしたのである。私は、彼が次のように云ったとき、これ以上ない立派な返答をしたと思う。「先生。そのとおりです」[マコ12:32]。知っての通り、人が議論しているときには、感情が激するものである。往々にして一方の論争者は、相手の言葉がその通りであると認めようとしないことがよくある。自分では全くそうだと確信しても、そう認めようとしないのである。それゆえ、論戦の渦中で、ひとりの人が自分の敵手に負けたことを告白するというのは、実に率直な精神を示す証拠である。それは、その人が単に勝つためにだけ戦っているのではなく、真理を求めていることを示している。そして、そうした種類の人には常に有望なものがある。愛する方々。私はあなたがどういう立場にあるか知らないし、あなたの特定の意見が何であるかも知っていない。だが、もしあなたが、真理に従おうと堅く決意しており、そのことによってどこへ導かれようとかまわないというのであれば、私はあなたに向かって、キリストがこの律法学者に云われたように云うことができると思う。「あなたは神の国から遠くない」、と。自己満足したり、自分自身の判断に頼りすぎたりしてはならない。むしろ、あなたの精神を道理に服させるがいい。何にもまして、それを天的な光に服させるがいい。もしそうするなら、私はあなたについて望みを持てる。あなたが一千もの間違いを犯すとしても関係ない。誠実に真理を求める人は、じきに真理によって見いだされ、本人も真理を見いだすものである。

 この律法学者の品性について、もう1つ好ましい点は、彼は明らかに、ある程度までは、霊的な認識を有していたということである。――ことによると、あまり大したものではなかったかもしれない。だが、それでも、この場合、その当時としては、たいそうなものであった。彼は、律法を読むことを通して、見いだしていたのである。神がより重きを置くのは道徳的な実践の問題であって、儀式に関わる問題ではないことを。より重要視されるのは、心に関わる問題であって、多くの外的な行動ではないことを。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは」、とこの律法学者は云った。「どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」[マコ12:33]。彼は、多くのローマカトリック教徒よりも、はるかに先に進んでいた。というのも、ローマカトリック教徒は到底、彼が云ったようなことさえ云わないだろうからである。「教会の種々の外的な儀式は、この上もなく重要なものです」、とカトリック教徒は云うであろう。「ですから、他の何かを優先させることなど思いもよりません」、と。しかし、この人物は、すでにそうではないと教えられていた。真の心の働きと、神への真の愛こそ、律法のあらゆる儀式よりもずっと大切なのである。それが神ご自身によって定められた儀式であろうと関係ない。彼は、非常に教理的な私たちの友人たちの一部よりも、さらに先へと進んでいた。そうした人々にとっては、正統的信仰こそ何にもまして重要なことであるように見受けられる。とはいえ、あなたも重々承知しているように、彼らのいわゆる正統的信仰とは、単に彼ら自身の説でしかない。だが、人々がその説を信奉していさえするなら、それが彼らには何にもまして大事なものであるため、他のすべては二の次となるのである。しかしながら、この律法学者はそれよりもはるかに進歩していた。そして、彼なら疑いもなくこう云っていたことであろう。心を尽くして神を愛することは、世界中のあらゆる博士や神学者によって公式化されたいかなる教義を信じることよりも重要です、と。

 この律法学者は、単なる道徳家よりもずっと先を進んでいた。道徳家の教えるところ、人は自分が正しいと思うことを行なっていさえすれば、そのことについてだけ心配していれば良いのだという。しかし、この律法学者ははっきりと、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして」主を愛することについて語った。彼は、全人をささげて神を愛さなくてはならないことを見てとることができた。さもなければ、律法の文字に従って生きているという、一切の外的告白だけで事足りていたであろう。さて、愛する方々。もしあなたが、単なる種々のうわべの儀式に対する以前の愛着を断ち切れる力を与えられているとしたら、――また、真のキリスト教信仰が単なる外的な問題ではないことを完全に理解しているとしたら、――あなたは「神の国から遠くない」。あなたは、次のことを学びつつある人々のひとりなのである。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」[ヨハ4:24、23]。御父はあなたを求めておられると私は思いたいし、じきに、あなたが単に御国の近くにいるだけでなく、実際にその中にいるようになってほしいと思う。ひとりの人が、深い内的な確信によって、ウォッツ博士とともにこう云えるようになるとしたら、それは大きなことである。――

   「うわべの形式(かたち) すべてをもても
    神の給いし 儀式(さだめ)をもても
    人の意欲(おもい)や、血や、家柄(うじ)もても
    引き上げられじ、魂(たま)は天国(みくに)へ」。

もしも救われたければ、魂の内側に、聖霊による新生の働きがあって、魂が霊的なものとされ、霊的礼拝を行なえるようにされなくてはならない。そして、このことを本当に知っている者は、「神の国から遠くない」。

 この律法学者の品性においてもう1つ賞賛すべき点は、彼は明らかに律法について少なからぬ知識を有していたということである。主の律法を知ることは、福音を知る次にすべきことである。誰もがこの真理を理解しているわけではないが、それは本当にそうなのである。老ロビー・フロックハートは、エジンバラで路傍伝道するのを常としていた伝道者だが、時として自分の聴衆たちにこう云うのだった。「私は今晩、あなたがたに向かって律法を説教しよう。律法だけを。というのも、律法は鋭い針であって、それがなければ、福音という絹糸をあなたがたの心の中に送り込めないからである」。そして、彼の言葉は真実であった。パウロはガラテヤ人に向かってこう書いている。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」[ガラ3:24]。律法がある人を罪に定めるとき、その人はキリストのもとへ飛んで行って赦しを求める。だが、その人が自分自身の魂の中で律法の宣告を受けるまで、決してキリストおよびその贖罪のいけにえのもとへと飛んで行き、罪から自由にされようとはしないであろう。もし律法が正しく用いられるなら、それは罪人を《救い主》へと押しやる。そして、この律法学者にはついては希望があった。なぜなら、彼は明らかに律法の要求を知っていたからである。彼は、それをただの外的な道徳に丸め込まなかった。むしろ、律法が霊的なものであること、人に霊的な性格の要求をしていることを知っていた。彼は、さほど長くかからずに、自分がそうした要求を満たしていないことを確信したはずだと思う。そして、そのように確信させられたとき、この違反された律法の要求を満たせる贖罪の尊さを見てとる方に向かっていたのである。それで、律法の要求に関する自分の知識に助けられて彼は、「神の国から遠くない」者となっていたのである。

 もう一言云うと、この律法学者は明らかに教えられやすい心をしていた。彼は、この偉大な《教師》が仰せになることを喜んで聞こうとする心持ちをしていた。私は、彼が揚げ足を取ろうとしてキリストのもとに来たとは思わない。おそらくキリストを試そうとして来たが、試した後で揚げ足を取ろうとしてはいなかったであろう。そして、キリストを試した後では、喜んでキリストから学ぼうとしていた。私たちが喜んで子どもたちの足元に座ろうとしているとき、それは有望なしるしである。弟子たちに対するキリストのことばを思い起こすがいい。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」[マタ18:3]。ある人々は、あまりにも大物すぎて天国の門をくぐり抜けることができない。彼らは、自分自身の考えによると、あまりにも賢いため、無限の知恵によってさえ教えられようとはしていない。彼らの判断はあまりにも正確で、彼らの知性はあまりにも明晰であるため、彼らは、神の知恵そのものであるお方による教えにも服そうとしない。彼らは、自らの内側に、善と悪、真理と過誤を間違いなく区別できる力を有していると考える。それで、《全能者》にさえ、彼らに指図したり、彼らの人生の《裁決者》となったりすることを許そうとしない。あゝ、兄弟たち! このような状態にあるのは、誰にとっても悲しいことである。だが、私たちに教えられやすい心があるとき、それは有望なしるしである。その場合、あなたは「神の国から遠くない」。

 さて、この律法学者についてはそこまでとし、「神の国から遠くない」所にいる、もう少し別の人々に注意を向けようと思う。多くの人々は、幼い時から常に、悪いことに対して大きな恐怖をいだいている。また、これまで常に――完全にではなくとも、相当の程度まで――正しい良いことに喜びを感じてきている。そうした人々は、自分自身が正しく善であると感じてはいないが、そうありたいと願っている。そうした人々が人生で最初に接したのは、敬虔な人々であった。また、この人々は常に敬虔な事がらを愛してきた。家庭礼拝を退屈なものだと思いはしない。思うとしても、そのような心の状態にあることが何と間違っているかを悟っている。自分が暮らしている所で、キリスト教の定めがないがしろにされていると、非常に遺憾に思う。安息日は、この人々にとって喜びであり、この人々は神の家に行くことを愛している。この人々は、自分がなぜそのように感じるのかほとんど分からない。というのも、自分がこのことについて何の関係もなく、それにあずかることもできないのではないかと恐れているからである。それでも、この人々はそこに行くことを好んでいる。もし何か良いことを聞けるとしたら、それにあずかりたいと願っているからである。良い事がらが、あるいは、善良な人々が、誰かから悪口を云われると、この人々は非常に深く悲しまされる。神の御名が冒涜されるのを聞きでもすると、恐怖に襲われる。この人々は、子どもの頃から、正しい物事の肩を持とうとする向きがあったのである。だが、これは霊性によるものというよりは、天性によるものである。この人々は、まだ明確に全くキリストを求めてはいない。まだキリストを自分の《救い主》として信じてはいないし、自分を完全にキリストに明け渡してはいない。私は、この、「神の国から遠くない」、という表現によって正確無比に描写される若い人々が非常に多くいるものと確信している。もちろん、私が語っているのは、そうした人々の最良の面であって、彼らの人格には別の面があることは百も承知している。だが、その人々には有望なものが数多くあるのである。

 私の知っているある人々は、いま私が描写した人々さえ越えて、ずっと御国の近くにいる。というのも、そうした人々は、自分の罪深さを痛切に感じているからである。そのうちの誰ひとりとして、次のように云おうとするほど愚かであったり、よこしまであったりしはしない。「神よ。私はほかの人々のようではないことを、感謝します」*[ルカ18:11]。しばしば、この場所に座って、慰めに満ちた説教を聞いている間も、この人々は、自分がその慰めを受ける資格はないと感じる。おゝ、いかに彼らが、自分も信じることができればと、自分も本当に救われることができればと願うことか! 1つのことだけは悟っている。自分は失われており、滅びており、破滅しているということである。この事実によってこの人々は、大きな悲しみを心にいだいているが、まだ、事を決する死に物狂いの努力を行なうほどにはなっていない。自分が罪に定められていることを悟っている彼らは、安心を感じることができない。そして、時として、自分のそむきの罪ゆえに、滂沱の涙がその目から流れ落ちる。あゝ、私の愛する方々。もしそれがあなたの状態だとしたら、あなたは「神の国から遠くない」。

 他の人々は、それよりも有望な状態にある。その人々は非常に熱心にみことばに耳を傾けている。この人々が祈りの家にやって来るのは、福音を聞くためであり、それなりのしかたで、この人々は福音が自分にとって祝福となるよう祈っている。私は、こうした種類の人々に向かって説教するのを嬉しく思う。人は、このように話を聞く群衆さえいるなら、一日中、また、夜を徹しても説教したいと願うであろう。そうした人々はひとり残らずこう祈っているのである。「おゝ、私の神よ。私を祝福してください! おゝ、私の神よ。私をお救いください!」 今でも覚えているが、私がこうした状態にあったとき、私は説教の間中こう祈っているものであった。「おゝ、主よ。私とお会いください。今晩、私とお会いください!」、と。そして、私の愛する方よ。もし、あなたが今そのように祈っているとしたら、あなたは「神の国から遠くない」。

 私は、それよりもさらに先に進んでいる人々のことを知っている。というのも、そうした人々は、どこにいようと祈り続けてきたからである。その人自身は、自分が正しく祈ってきたかどうかほとんど分かっていないが関係ない。愛する方よ。あなたは、先週の安息日に、家へ帰って、膝まずき、「主よ、私をお救いください!」、と祈ったことを知っている。そして、先週の間中、あなたは自分にできる限り頻繁に、他人を避けてひとりきりになっては、僅かでも祈る時を持ってきた。働いているときでさえ、――他の人々があなたを見ているかどうかなど頓着せずに――深いため息をついたり、目を天に見上げたりしてきた。時として、あなたはほとんど自分が生まれてこなければ良かったのにと思った。自分が決して《救い主》を見いだせないのではないかという、すさまじい恐れをいだいたからである。別の折には、もしかすると見いだせるかもしれない、という小さな希望をいだいた。そして、いずれにせよ、あなたは真の求道者であって、私は、あなたが「神の国から遠くない」と信ずる。

 それに加えて、あなたが聖書を非常に熱心に読んでおり、永遠のいのちを獲得できないかどうかを見いだそうと努めているとしても、私は驚かない。それと同じ目的のために、あなたは信仰の良書を学んでいるかもしれない。――かつては退屈きわまりなく、ぞっとするとさえ思ったことがある当の書物をである。そうした本を、今のあなたは寸暇を惜しんで読んでいる。これまで書かれた中で最も心奪うような浪漫小説を読むよりも、そうした本を読みたいと思う。というのも、あなたは熱心に永遠のいのちを求めているからである。確かにあなたは、「神の国から遠くない」。

 II. さて、第二に、もしあなたが「神の国から遠くない」としたら、《あなたの状態に特有の危険に注意を払う》ようであってほしい。

 その大きな危険とは、確かにあなたは神の国から遠くないが、まだその国の中にはいない、ということである。ひとりの人が沈没しつつある船の中にいた。彼はほとんど救命艇の中に飛び込むところだったが、鼻の差でそれを逃し、溺死してしまった。誤って人を殺してしまった者が命がけで駆けていた。血の復讐者は彼の間近に迫っていた。彼はほとんど逃れの町に到達するところだったが、ちょうどその門の直前で敵に追いつかれ、殺されてしまった。ほとんど救われんばかりだったということは、全く失われるということである。地獄にいる多くの人々は、かつてはほとんど救われんばかりであったが、今や全く断罪されている。それを考えてみるがいい。あなたがた、神の国から遠くない人たち。魂を救うのは御国の中に入ることであって、御国の近くにいることではない。もしあなたが、境界線上にいるだけで、まだ現実に中に入っていないとしたら、安泰ではない。あの五人の愚かな娘たちは、ほとんど宴会場に入るところであった。彼女たちと婚宴との間は、ほんの扉一枚の厚さでしか隔たっていなかった。だが、彼女たちは、このすさまじい宣告を聞くしかなったのである。「遅すぎる! 遅すぎる! あなたがたは今では入ることはできない」。あなたの大きな危険は、御国の近くにいることに満足するようになり、現実にはその中に全く入らないでしまうことである。私の知っているある人々は、そうした危険な立場のまま何箇月も何年もとどまっており、とうとう最後には、それがその人々の慢性的な状態となってしまった。そして、その人々は決定的な一歩を踏み出そうとする何の努力もしなかった。おゝ、このように絶望的に有望な人たち。私たちがこうした人々に対して何をできるだろうか? この人々は、一時は有望だったが、決して有望以上の者にならない。そして、最後には私たちはこう認めるしかなくなるのである。この人たちの、一見したところの善良さは、単に上っ面だけのもので、この人たちが私たちの中に引き起こした一切の希望は惑わしだったのだ、と。この人々は私たちを笑い物にしており、残念ながら、神をも笑い物にしているのではないかと思う。

 また、私たちが非常に心配なのは、あなたがた、「神の国から遠くない」人たちが、自分には何か良いものがあるのだというような考えを頭に入れはしないかということである。そして、自分の中に良いものがある以上、それが自分を救うだろうと思うのではないかということである。だとすると、あなたは、得手勝手に御国から遠ざかっている場合よりも、実はもっと御国から遠くにいることになるであろう。私の知る限り、他のいかなる考えにもまして効果的にあなたを御国から閉め出し続けるのは、自分は閉め出され続けるには善良すぎると考えることである。――確かに神は、自分のように卓越した人間を罪に定めることなどしないだろう、と思うことである! そして、それに加えて、自分はこれほど近くにいるのだから、いつの日か、するりと紛れ込めるだろう。もしそうした考えを頭に入れているとしたら、残念ながら、あなたは決して紛れ込めず、むしろ、現在のあなたの失われた状態のまま滅びることになるのではないかと思う。おゝ、願わくは神が恵み深く、あなたがたの中のすべての人々をこうした、自分を義とする致命的な思いから救い出してくださるように!

 私は1つのことをあなたに指摘したいと思う。それは、このことである。もしあなたが御国にこれほど近づいた後で失われるようなことになるとしたら、いかにすさまじく恐ろしいことか! あの、誤って人を殺した人が血の復讐者に追いつかれ、めった切りにされた死体となって転がったのは、逃れの町の入口の真上であった。それは、まことに恐るべきことと思われないだろうか! もう一歩だけで、その人は安全になっただろうに、その一歩を踏み出せず、殺されたのである。私が常に悔しがらされるのは、鉄道駅に着いた所で、自分がつかまえたいと思っていた列車が駅から出て行ってしまうことである。もしそれが十分前に発車していたとしたら、私もそれほど乗り損なったことを気に病まなかったはずである。だが、ほんの鼻先でそれが出て行くのを見ると、落胆がひどく深まる気がする。そして、確かに、あらゆる人にとって最も腹立たしいこととなるのは、これほど御国の至近にいた後で失われることであろう。私はほとんど想像できる。失われている他の魂たちが、あのイザヤがバビロンの王に当てはめたような口調であなたに語りかける様子を。「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、……彼らはみな、あなたのもとに来て言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』……どうしてあなたは落ちたのか」*[イザ14:9-12]。この咎ある暴君が、かつて自分の抑圧し粉砕した者たちの真中にやって来たとき、いかなる恐怖にとらわれたことであろう! そして、あなたがたの中のある人々が、これほど御国に近くいながら失われるとしたら、私は地獄にいる悪態つきがあなたにこう云うのが想像できる。「あゝ! お前は、俺が罰当たりなことを云うからって叱りつけてくれたよなあ。だが、お前が今どこにいるか見やがれ!」 それから別の者が云うであろう。「あんたは、あっしをいつも助けてくれましたなあ。酔いどれたちを立ち直らせようとしてなあ。ですが、あんたは今どこにいるんで? あんたは、タバナクルにいつも座って、お説教を聞いてた方たちのひとりでしたなあ。あっしは、あそこには一度も行きませんでしたが、あんたは行ってましたなあ。ですが、あそこに行って、あんたに何の変わりがありましたんで?」 そして、彼らの中のある者らは云うであろう。「おゝ、もし俺たちがお前と同じ機会さえあったなら、もし俺たちがお前と同じくらい福音を聞いてきたとしたら、もし俺たちがお前を包んでいたような聖なる尊い雰囲気の下に置かれていたとしたら、確かに俺たちは、お前がしたような馬鹿なふるまいはしなかっただろうよ!」 そのとき何が起こるかという空想上の絵像を描き出す必要はない。あなたは私たちの主イエス・キリストが、その話を聞きながら悔い改めなかった者たちに対して何と云われたか知っているからである。「そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ」[マタ11:24]。もしあなたが福音を聞き、神の国があなたがたに近づいた[ルカ10:9]というのに、イエス・キリストを信じる決定的な行為が欠けていたために、自分の罪の中で滅びるとしたら、あなたの運命はツロやシドン、あるいは、ソドムやゴモラのそれよりもずっと恐るべきものとなるであろう。

   「御国は近し! 何を汝れ欠く?
    御国は近し! なぜ汝れためろう?
    偶像(ものがみ)棄てよ、いかに愛好(す)くとも、
    来たれや、救主(きみ)は 汝がため嘆願(ねが)えり。

   「いとも近けく、賛歌(うた)ぞ聞こゆる、
    信じて、赦罪(ゆるし) 受けたる民の!
    汝れ いと近くも 罪を捨てえじ
    イェスは汝れをば 待ちおりたるに!

   「希望(のぞみ)なく死す! その代価(かた)いかに?
    主なくして死に、汝が魂(たま)失(ほろ)ぶ?
    御国は近し! おゝ、来よ、切に!
    イェスは嘆願(ねが)えり、来たりて入れよ!」

 III. 本日の主題の、その悲しい部分については、これ以上云うまい。そこで、もうほんの少々の間だけ、ずっと気を楽にして語れるのではないかと思える最後の点を取り上げたいと思う。すなわち、《あなたがた、神の国から遠くない人々への励まし》である。願わくは神が、その無限のあわれみによって、あなたを今晩、御国に入らせてくださるように! 願わくは、明日の朝の太陽が東から上るときには、未回心のままであるあなたを見下ろすことがないように!

 というのも、まず最初に、神がすでにいかに大きなことをあなたのために行なわれたか、考えてみるがいい。あなたは、ロンドンの裏貧民街の1つで生まれていたこともありえる。あるいは、ホッテントット部族として、あるいは、人食い部族として生まれていたこともありえる。ことによると、あなたの生まれがあればこそ、今のあなたがこの祈りの家に座っており、ごてごて飾り立てた安酒場にも、監獄にも、地獄そのものにもいないという事実があるのかもしれない。ただ天来の摂理による配剤によってのみ、あなたと、極悪の人間との間の違いが生み出されてきたのである。神がすでにあなたのためになさってこられたことについて、大きな感謝をささげるがいい。――その摂理と、キリスト者である両親や友人たちがあなたに今まで供してくれた、この有利な立場について。

 そして次に、神があなたのためにこれほど大きなことを行なってくださった以上、それに励まされてあなたは、さらに多くの恵みを神に求めるべきではないだろうか? もし神がその恵みによってあなたをこれほど御国に近づけてくださったとしたら、神に向かってこう云うのが賢明ではないだろうか? 「私の神よ。あなたは私のために大きなことをすでに行なってくださいました。いま、こうしたすべての集大成が私の救いとなるようにしてくださらないでしょうか? 私に新しい心と、ゆるがない霊を与えてくださらないでしょうか? 私を新しく生まれさせ、今晩、イエス・キリストを信じることができるようにしてくださらないでしょうか? そして、私を死からいのちへ移らせてくださらないでしょうか?」 あなたは、福音の使信に大いに引きつけられてしかるべきだとは思わないだろうか? あなたは、私の理解に間違いがなければ、率直に話を聞く人である。そして、良い事がらに対する何がしかの愛を有している。さて、これにまさる天来の使信があっただろうか? 神はその御子イエス・キリストをこの世にお送りになったのである。キリストはご自分の上に、咎ある人間の罪を引き受け、咎ある人の代わりに、代理に、成り代わって苦しまれた。そして、いま私たちに、この無代価の福音、主権の恵みを宣告しておられる。そして、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:16]のである。キリストは、罪の完全な罰を忍ばれた。イエスは人間の咎という耐えがたい重荷を背中におかかえになった。そして、それを運んで、海の深みに投げ込まれた。そこでは、罪は二度と再び見つからないのである。いかなる人の責任にも二度と帰されないのである。あなたは何事をすることも求められていない。何かを感じることさえ求められていない。あなたに求められているのは、ただ、この受肉された神の御手に自分自身をゆだねることだけである。これ以上に単純で、恵みに満ち、あなたの失われた絶望的な状態への憐れみに満ちたものがあっただろうか? それはみな、この単純な使信に込められている。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。これこそ、高き諸天におられるキリストからの使信である。「仰ぎ見よ、仰ぎ見よ、仰ぎ見よ」。これが、あなたに行なうよう主が命じておられるすべてである。――単に主を仰ぎ見て、主を信頼し、主に頼るがいい。確かに、これ以上に神にふさわしいことを願うことはできない。これこそ、神の御名において私たちがあなたに宣べ伝えている、神の恵みの福音である。

 よろしい。私の愛する方々。あなたは御国の近くに来ている。だが、あなたには、自分自身の中に見いだせる以上のものが明らかに必要ではないだろうか? あなたは自分にできる限り遠くまで行った。だが、他の人々が今いる所に比べれば遠いとはいえ、実は、それがいかにちっぽけであろうか? 私は、あなたが祈り始めていると云ったが、あなたの祈りはいかなる種類のものだろうか? 私は、あなたが熱心にみことばに耳を傾けていると云ったが、いかにちっぽけなことで、恵みのほむべき現実を追求することからあなたはそらされてしまうことか! あなたも知る通り、確かにあなたはある程度まで柔らかくされているが、あなたの心はまだかたくなである。あなたの魂の中にはまだ多くの不信仰がある。時たま信仰に似たものがほの見えることはあるが関係ない。事実、歯に衣着せずに云うと、あなたは、今の状態のままでは、神のあわれみの妨げがない限り、早晩地獄に落ちるであろう。というのも、あなたは確かにまだ救われていないからである。あなたは、そうだと知っているだろうか? 本当にこのことを感じているだろうか? ならば、あなたは、(願わくは神の助けによって)1つの死に物狂いの信仰の努力によって、自分自身をイエスの足元に投げ出し、こう申し上げることができないだろうか? 「私は決してここから立ち去りません。おゝ、ほむべき《救い主》よ。あなたが私をきよいと宣言してくださるまでは。私は今、この指先を差し伸ばします。かすかで弱い私の信仰ですが、あなたに触ります。あなたが罪人を救えるとしたら、イエスよ。私をお救いください。私はあなたがそうなさると信頼しています」。愛する方よ。あなたは救われたのである! その単純な、指先による一触れによって、活力がキリストからあなたへともたらされ、主はあなたに、安心して帰るようお命じになっている。

 思い出すが、私が罪の確信の下にいたときには、あたかもキリストが、鋭い剣を両手に持って私の前に立っているかのように思われた。だが、私はこう感じた。「どのみち私は失われるのだ。では、あの剣にもかかわらず、主の御腕に飛び込んで行こう」。それで私は、破れかぶれに飛び込んでそうした。私はこう感じた。「私は、自分を救おうとしてあらゆる試みをしてきた。キリストこそ私の唯一の《救い主》なのだ。私には、主があの呪われた木の上で私の救いを完了されたことが分かる。ならば、主により頼もう。全体重をかけて、思い切り主によりかかろう」。生まれつき咎あり、どす黒く、卑しく、汚れてはいたが、私は、主の尊い血に満たされた泉で身を洗い、今やどの点からもきよくなっている。《いと高き神》の御目においてさえそうである。おゝ、愛する方よ。あなたが同じようにするならどんなに良いことか! 私の信ずるところ、あなたはそのことを行ないつつある。神はあなたがそうすることを助けておられる。私は感じる。確かに主がそうしつつあり、あなたが自分のあらゆる愚かな信頼を手放しつつあることを。あなた自身の祈りや、あなた自身の信仰さえ、あるいは、あなた自身の何かを頼りとする一切の思いをも、あなたが手放しつつあることを。そして、あなたがまさに自分を、乗るにせよそるにせよ、主イエス・キリストにゆだねようとしていることを。信仰は、泳ぎを覚えることに非常に似ている。私は泳ぐことなど簡単にできるとしばしば思っていた。だが、決して地面から自分の爪先を離して水に飛び込むことができなかった。そして、そうするまで泳ぐということはできないのである。あなたは、自分を全く水にゆだねなくてはならない。そのように、あなたは自分をイエスにゆだねなくてはならない。しかし、あなたは地面から爪先を離すことを恐れている。あなたは、自分を頼るごく小さな心を捨てることができない。おゝ、栄光に富む信仰によって飛び込めればどんなに良いことか! あなたは自分が溺れるだろうと恐れているが、そうはならない。あなたは泳ぐことになる。イエスの永遠の愛が、いかに大きな罪人をも地獄に落ちないように浮かすであろう。その人が自分を、イエス・キリストの完了したみわざの上に置くとしたらそうである。キリストこそは、神が人の罪のなだめの供え物[Iヨハ4:10]として遣わしてくださったお方である。ただ主を信頼するがいい。そうすれば、主はあなたを救ってくださる。願わくは神があなたに主を信頼する恵みを与えてくださり、神にすべての栄光があらんことを。アーメン。

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御国の近くか、中か[了]

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