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愚かな鳩

NO. 2984

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1906年4月19日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1863年


「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった」。――ホセ7:11


 エフライムのような人種は絶滅してはいない。人々は、今日に至るまで、預言者たちの時代と大差ないあり方をしている。同じ叱責が、今なお適切であり、同じ慰めがやはり適切である。人は、その外的な身体構造において、――たとい少しでも変わったところがあるとしても、――ごく僅かしか変わっていないし、そのように、内的な性分においても変化してはいない。人は、ホセアの時代とほとんど同じあり方をしている。この会衆の中でも、ロンドンという町のただ中でも、あまりにも多くの人々の集団は、「愚かで思慮のない鳩のよう」である。

 ただちにこの聖句の学びに進むこととし、四つのことに注意してほしい。第一に、1つの聖徒に似た喩え、第二に、1つのひそかな区別、第三に、1つの厳格な描写、そして最後に、1つの深刻な考察である。

 I. ここには、《1つの聖徒に似た喩え》がある。エフライムは「鳩のよう」である!

 この民は、ここで、高く舞い上がり、そのえじきに遠くからのしかかる鷲にたとえられてはいない。腐肉をむさぼり食らうことを喜ぶ禿鷹にもたとえられていない。彼らは、律法の下で排斥されている、いかなる汚れた不潔な鳥たちにもなぞらえられてはいない。むしろ、彼らがたとえられているのは、聖潔の美しさを示すために絶えず選ばれている象徴そのものである。信仰者を描写し、全《教会》を描き出すための象徴、――否、聖潔そのものであられるお方、聖霊なる神を示すための表象そのもの、――その、同じ鳩というたとえが、ここで、思慮のない者たちを描写するために用いられているのである。「エフライムは鳩のようである」*。――これは、聖徒に似た喩えである。

 思い起こしてほしいが、いかなる会衆の中にも、鳩のようではあるが、キリストの鳩ではない者たちがいる。決してその巣を岩の裂け目[雅2:14]、《救い主》の御胸にかけることがない者たちである。彼らは、鳩のようではある。純粋な信仰者たちとの区別はつかない。そして、鳩のように、完璧に無害である。その生き方によって、他人に何の迷惑もかけない。そうしたければ、彼らの後をつけてみるがいい。決して彼らが居酒屋にいるところは見つからないであろう。彼らは酔いどれの歌を歌わない。商売上、彼らによって損をさせられる人は誰もいない。人々は町通りですりに遭うかもしれないが、彼らによってではない。人々は傷を負ってよろめきながら帰宅するかもしれないが、その傷は決して彼らの手から受けたものではないであろう。彼らの心には何の曇りもなく、彼らの舌には何のそしりも上らない。彼らは愛想良く、感心な人々である。私たちは、ほとんど彼らを礼節の鏡として掲げ上げて良いかもしれない。悲しいかな! 悲しいかな! 内側をのぞき込んだだけで、彼らが見かけ通りの者でないことが分かるとは。

 さらに、その無害さゆえに鳩のようであるばかりでなく、彼らは良いつき合いを愛することについても鳩のようである。私たちは、鳩が鷲の群れとともに飛んでいるのを見かけない。むしろ、鳩は、その同族たちと仲間になる。あなたがたの中のある人々が、この上もなく幸せになるのは、このタバナクルの中にいるときか、この会衆の様々な会員たちによって形成される、いくつかの組の中にいるときである。また、あなたは、祈祷会の中で非常に快い興奮覚えるので、仕事上の不都合がない限り欠席することがない。あなたは、神の民が行くところにいることを愛している。彼らの賛美歌はあなたの耳にとって甘やかであり、彼らの祈りのうちに、あなたはある種の慰めを見いだし、みことばが説き聞かされるのをあなたは楽しむ。あなたは雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んで来る[イザ60:8]。そして、あなたがそうするのを見るのは私たちにとって喜びである。だがしかし、あなたは、鳩のように集まるすべは知っていても、単に「愚かで思慮のない鳩のよう」であるだけかもしれない。

 さらに、こうした人々がより一層、鳩のようであるのは、見かけ上は、鳩を特徴づけるのと同じ柔和さを有しているということである。彼らは神の民が聞くように聞き、神の民が座るように座る。彼らは懐疑主義者ではない。自分が耳を傾けている諸教理の講解に決して反対しない。決して説教者のあら探しをしない。――その講話の様式にも内容にも格別に何の欠陥も見いださない。礼儀正しく神の家を足繁く訪れ、その中ではきちんと行儀良くしている。否、それ以上に、はた目には、素直にみことばを受け入れているように見える。現実には、彼ら自身の心に植えつけられたみことば[ヤコ1:21]を、素直に受け入れているわけではないが関係ない。彼らは、その種が自分たちの上にまき散らされたとき、みことばを喜んで受け入れさえする。だが、根を張らないために[マコ4:17]、その良い種は何にもならない。おゝ、話をお聞きの愛する方々。あなたがたの中のこれほど多くの人々が進んで、また、喜んで、深くうやうやしい敬意とともにみことばに耳を傾けようとしていることは、大きな感謝のもとである。だが、私はこのことを忘れないよう懇願したい。あなたは、この点で鳩のようではありながら、結局において、エフライム人の上に落ちかかったのと同じ網に捕えられ、同じ破滅で滅びるかもしれないのである。彼らは、「愚かで思慮のない鳩のよう」であった。

 知っての通り、は清潔に食べる鳥である。そのように、私たちの中にいる多くの人々も、そのようにあることまでする。彼らは、尊いものと卑しいものの区別が分かる。律法を養いとしようとはせず、ただ恵みにのみ養われようとする。彼らは福音の諸教理を知るようになっており、それを養いとしている。――良くあおぎ分けられた純良な小麦を養いとしている。ちょっとでも自由意志を持ち込めば、たちまち、もみがらと麦を見分けて、それを受けることを拒む。彼らはそれを屑鉄として投げ捨てる。それは彼らにとって何の価値もない。しかし、彼らは、正統的な頭を有している一方で、異端的な心を有している。真理を知り、それを感じていながら、なおもそれは正しい種類の感じ方ではない。彼らは決してそれを受け入れて、自分の存在そのものにまで組み込むことがない。彼らがそれを受け入れた種類の信心や、その信じ方は、シモンがサマリヤでそうしたのと変わらない[使8:13]。しばらく経って、苦難や迫害がやって来て、暑くなりすぎると、彼らは脇道へそれてしまうであろう。

 しかし、ここでさらにつけ加えなくてはならないことがある。こうした人々の中のある者らは、さらに、一層異様な点においても鳩のようなのである。すなわち、鳩がありとあらゆる種類の猛禽類によって苦しめられるように、こうした人々も、しばらくの間は、神の民に降りかかる運命に実際にあずかる。何と、ある人々は、ただ神の家に来るというだけで、「聖人君子」という仇名をつけられる。彼らは聖徒ではない。だが、聖徒たちに浴びせられるあざけりを忍ばなくてはならない。そして、私の知っているある人々は、やがて大罪人になりはしたが、一時的には、キリストのために大きなあざけりと叱責に耐えなくてはならなかった。町通りで指さされるときに、自分がこうした礼拝の場所をしばしば訪れていると認めることは、彼らの性格の男らしさの一部であった。彼らの魂は決して《天来のみことば》によって打たれたことはなかったが、それでも、それは耳の中できわめて甘やかになっていた。それゆえ、ある程度までの非難は甘受するのである。私は、正確にどこで聖徒たちが外的なしるしによって区別されるべきか云わなくてはならないような羽目には陥りたくないと思う。というのも、本当に、近頃のまがい物はあまりにも純正品と似ているため、無謬の神ご自身の知恵がない限り、その一方を他方から識別できないからである。私たちは、にせの信仰、にせの悔い改め、にせの希望、にせの良い行ないを有することがありえる。私たちにはありとあらゆる種類の物事がある。――塗料、漆剤、金銀糸がある。――そして、本物そっくりの木目に塗ることができるため、熟練の目をもってしてもほとんどそれが本物の木か職人芸か見分けがつかなくなるのである。金属の下処理をするしかたは数多くあり、時として、合金の方が、何らかの目的のために、合金でない金属に欠けた資質をいくつも有しているように見えることがある。おゝ、主よ。大いなる心の《探り主》よ。私たちを探ってください。私たちが自ら聖徒のような名を名乗り、聖徒のような評判や性格を使い、聖徒のようなな職務にありながら、結局、廃物とともに壁の向こう側に投げ捨てられて、永久永遠に焼き尽くされるよう放置されないように! しかし、この点については、もう十分であろう。

 II. いま私があなたの注意を引きたいのは、《1つのひそかな区別》である。「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようである」。これは、理解力の欠けを暗示している。鳩はほんの僅かなことしか知らず、経験によってもほとんど何も学ばない。この鳥の飛ぶ先に罠を広げてもかまわない。それでも、この鳥はそこに飛び込んで来る。それほど愚かなのである。鳩は、少なくとも外的な目には、こうした、羽ある種族の別の者らが有している知力や分別を有していないように見える。鳩には、ほとんど、あるいは、全く理解力がない。そして、おゝ、いかに多くの人々が霊的には鳩のようであることか。彼らには、真の真理の知識が全くない! 彼らは文字に安住し、それで十分だと考えている。私が厳粛に信ずるところ、ある人々は、その言葉の意味がひとかけらも分かっていないにもかかわらず、安息日ごとに祈りの形で耳にしている。彼らはそうした祈りを、その意味について全く理解していないまま繰り返している。おそらく、その言葉が何か別のしかたで云い表わされたとしても、気づかないであろう。疑いもなく彼らは、それらがてんでばらばらに寄せ集められたとしても、今のように美しく、整然と並べられている場合と同じくらいの恩恵をこうむるであろう。多くの人々は、やって来て、単純きわまりない真理を聞いては、家に帰りながら、こう云う。「あれは私たちには謎だ。どうして、人が座って、あんなものに耳を傾けていられるのか理解できない」。彼らは、説教者の言葉を陳腐だとして非難するか、狂信的だとして非難するかのいずれかである。彼らにはそれが理解できない。あなたは、無骨などん百姓を連れてきて、その前に卓越した古画家の傑作を置き、彼にこう告げて良い。「この絵は、六千ポンドの値打ちがあるのですよ」、と。彼は目を皿のようにして眺め、口をぽかんと開き、もう一度眺めてから、自分には理解できないと云うであろう。彼は、そんな金銭が何になるのか分からない。彼なら、荷車や、馬や、豚や、牛や、羊の方を買うであろう。よろしい。さて、ある程度まで、私たちはほとんど彼に同情できる。だが、高尚な芸術批評家たちは、自分の土塊を越えた何の魂も持っていないとして、たちまちこの男を軽蔑するであろう。霊的事がらについても全くそれと同じである。キリストのご人格の数々の栄光と、救いのご計画の比類なき知恵を提示してみても、その人はそこに何も見てとれない。出席したり、その他のことを行なうこと、「疑いもなく、それは非常に善良で、非常にしかるべきことだ」。それで彼は教会に行き、自分が敬神の念に富んでいると考え、自分の座席に座り、慣例の手続きを踏み、それから自分は神と和解させられていると思う。おゝ、いかに多くのそのような愚かな鳩たちが、私たちの礼拝所の内外を羽ばたいていることか! ひとりの奇矯な老説教者が云ったように、話を聞きにやって来る大勢の間抜けどものため、聖徒たちのための座席は、ほとんど足りてはいない。

 しかし、さらに、彼らが愚かで思慮のない鳩のようになったのは、理解力ある心に欠けた彼らは、決然たる心にも欠けていたからである。しかしながら、時として鳩は、この点における比喩として用いるとしたら中傷されることになることもあろう。あなたは、鳩がその鋭い目によって、自分の小屋を見てとり、真っ直ぐに飛んで来るのを見たことはないだろうか? 何哩もの海陸を越えて、自分の愛する家へと直行して来るのである。その点で、鳩は不敬虔な人々の比喩として用いることはできないであろう。むしろ、イエスの子どもの比喩として用いられるであろう。罪の荒波を越えてイエスのもとに飛んでくる子どもたちの比喩としてである。しかし、ことによると、あなたは鳩が最初、空に舞い上がると、ぐるぐると円を描いて飛ぶのを見たことがあるかもしれない。鳩は、どちらが正しい方角か見いだすために、わざとそうしているのであり、自分の心を決めると、矢のように目標を目ざして、まっしぐらに飛んで行く。しかし、鳩がそのようにぐるぐる羽ばたいている間は、ある人々の恰好の象徴である。彼らは、果たして神かバアルかを決められない。彼らは、エリヤのものの例えを用いれば、どっちつかずによろめいている。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」[I列18:21]。日曜には彼らは教会に行く。だが月曜には、自分たちの宗教的な習慣を脱ぎ捨てる。天気が荒れ模様すぎるか、何か他の妨げがあって祈祷会に来ることができない。日曜には、彼はこう云う。――

   「わが喜べる たましいは
    かく心根(こころね)に とどまりて
    座してみずから 歌いおらん
    永久(とわ)にぞ続く 幸いを」。――

だが、月曜か火曜には、町通りの車輪の音、また、売り買いする者らの騒音が、エルサレムの音楽を彼らの耳から追い出してしまい、彼らは喜んでこの世に舞い戻って行く。あゝ、彼らは愚かな鳩であり、理解力も、決断もない!

 否。ある人々は、一時的にはある種の決断を有しているとは云えよう。だが、彼らが鳩のようであるのは、彼らに決意がないことにある。仮に、鳩たちが、1つの方角に飛ぼうとしているとする。誰かがその手を叩くと、鳩は一瞬で心を変える。さもなければ、人が一つかみの大麦を地面にまき散らすと、鳩は向こうへ飛びつつあっても、もう一度ここに戻って来る。いかに多くの人々がそうした種類の人々であろう。自分の顔はシオンに向けて、教会に加わろうとしている。ことによると、長老たちや牧師と面会して、受け入れられているかもしれない。だが、少し経つと、彼らは云う。「よろしい。私たちはこのすべてについて知ってはいない。私たちが夢見たよりも多くの恐ろしいことがこの中にはあるのだ!」 あの柔順者のように、彼らは天国に行きたいとは思うが、《落胆の沼》に陥ると、奇妙なものが耳や口に入り込んでくる。それで、家に一番近い所に這い上がると、基督者に向かって、君はその結構な国を自分ひとりで持つがよい、と云うのである。その途中の泥だらけの場所を好まないからである。あるいは、もしかすると、誰か風変わりな同伴者が田舎からやって来ては、彼らをどこかの娯楽場に招待するか、あるいは、ことによると、仕事上の何らかの分枝で利益を得られる見込みがあるかもしれない。それは、あまり正直な利益ではないかもしれない。しかし、その金銭も価値は同じではないだろうか? その使いでは同じではないだろうか? 他の人々は、それがどのように得られたにせよ、掛け値無しの金銭だと考えるではないだろうか? こうした人々は、いかにも真実で暖かな心をしているように見えるが、愚かで決意のない鳩のようであり、自分の古い寝ぐらに再び戻って行き、かつてのあり方そのものになってしまう。

 それと同じように多くの人々は、鳩のように、大胆な心がない。彼らは決して迫害者にたてつけない。決して真勇者とともに、手に剣をかざし、身をもって防ぐことができない。彼らはイエスのために口を開くことができず、獅子のようにその敵どもに向かって立ち上がるべきときに逃げ出してしまう。自分のうちにある希望[Iペテ3:15]について決して説明することができない。わが国のおびただしい数のバプテスト教会は、何十人単位で臆病者たちを教育している。彼らは決して教会全体の前に出て行くことができない。――それは、彼らの神経にはあまりにも耐えがたいことなのである。彼らは決して、大胆に出てきて、主の側につくよう期待されることがない。あまりにもしばしば、バプテスマは、できるだけ少人数の人しかいないときに、どこかの片隅で施される。そして、そのようなしかたで、獅子のような者たちであるべき場所で、私たちは自分の主義を隠すような者たち、キリスト者という名前を帯びていられる限りどんな派の人々とも進んで混合したがるような者たちを育てているのである。愛する方々。私たちが、私たちの主であり《主人》であるお方のために、もっと大胆な人々を有していればどんなに良いことであろう。愚かなのは、神のために大胆な心を全くしていない鳩たちである。来たるべき日には、ただ大胆な心だけが勝利するであろう。というのも、臆病者や不信仰の者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある[黙21:8]からである。

 また、あまりにも多くの者たちが愚かな鳩のようであるのは、彼らが無力な心をしていることにある。もしあなたが、何か大きな製造所を訪れ、そこに巨大な推進機関があるとしたら、あなたは、その工場で用いられる力の総量が、その蒸気機関の能力に比例していることに注意するであろう。もしそれが微弱にしか作動しなければ、車輪はそれに比例した比率でしか回転せず、あらゆる部分はすぐに、原動力に何か欠陥があることに気づく。さて、人の心はその全存在にとって大いなる蒸気機関である。そして、もし人が早鐘のように動悸する心を持っているとしたら、それはその人の全性質を動作させ、その人は自分の主であり《主人》であるお方のために力強くなるであろう。だが、もしその人の心が小さく微々たるもので決して明々と輝かず、決して燃えることなく、決して神の愛の暖かみも、いのち、熱も、力も、祝福も知らないとしたら、その人は自分の時間を空費するであろう。善を知りながら悪を行ない、ある種の美しいものを愛しながら、奇形のものになおも従い、自分の名前を神に告げながら、自分の有するなけなしの力を別の側に与えているであろう。兄弟たち。願わくは、私たちの共同体の中に、鳩の心しか持たない者らや、何の心も持たない者らがあまり多くないように。

 問題の根源はここにある。このエフライム人たちには、更新された心がない。それで彼らは失敗するのである。まことに、まことに、このことは、イェスの時代と同じく、今の時も真実ではないだろうか? 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]。多くの人々は、自分なりのやり方で神の国を見ようともくろむ。だが、神の有効な恵みが下って、彼らの高慢な肉が自らの行ないに対して有している、大きく異常な信頼から彼らの心を向け直さない限り、彼らは決して神の国を見ることがなく、見ることができないであろう。では、いかに多くの人々が、エフライムのように、更新されていないがために全く間違った心をしていることか。それゆえ、その心は、その人をずっとしかるべき人にするのに貢献する資質を何1つ有していないのである。

 III. ごく手短に第三のこととして注意したいのは、《1つの厳格な描写》である。「エフライムは、愚かな鳩のようである」*。

 これは見事な言葉である。この「愚かな」という言葉、――これほど描写にすぐれた言葉を私はほとんど考えつけない。馬鹿であることには、ある種の威厳があるかもしれない。だが、愚かであること、――あざけり以外に何の注意も引かないこと、――それはあまりにも見下げ果てたものであるため、これ以上に辛辣な形容辞をいかにして当てはめることができるか分からない。

 「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようである」*。では、なぜ愚かなのだろうか? 何と、それが愚かなのは、もちろん、仮にも鳩であると告白していながら、心では鳩でないからである。愚かなのは、自分が市民でもない国の慣習の奴隷となっている者である。――自分が家族でもない家の規則に縛りつけられている者である。見ると人々は、別の国に行くとき、そこで徴用がなされている際、それを避けようとして、自分自身の国籍を躍起になって申し立てようとする。だがしかし、私たちの見いだす人々は、キリスト教の徴用において奉仕しようとしたがっている。神の民がささげるようにささげ、外的には神の民が行なうように行なうが、しかし神の国の生まれではなく、イスラエルの国から除外され[エペ2:12]ているのである。これは愚かではないだろうか?――うんざりするような骨折り仕事を引き受けながら、その喜びや恩恵を得ないというのである。愚かなのは、行って、葡萄畑で働きながら、その房を一度も食べたことがなく、神に御前に心が正しくなるまで決して食べられないということである。ならば、仮にも鳩であると告白しながら、鳩でないということは愚かではないだろうか?

 また、自分の心が間違っているときに、検閲を通過できると考えるのも愚かではないだろうか?――群衆とともに行けば、姿を隠しながら天国に入れると思い描くのは愚かではないだろうか? あなたは《全知なるお方》を欺けると考えているのだろうか? 無謬の知恵があなたを見破らないと考えているのだろうか? 自分の魂が神から遠ざかっていながら天国に入れると考えているのだろうか? ならば、まさにあなたは馬鹿以下である。そうしたことを考えているあなたは「愚か」である。いかにしてあなたは、このようにあなたの神を欺くことを希望できるだろうか? これほどいい加減な態度を取ること以上に愚かなことがあるだろうか?――まず、シオンの歌を歌い、それから好色な歌を歌うのである! 悪魔そのひとにさえ、威厳めいたものはある。彼の邪悪さの壮大さには畏怖すべきものがある。なぜなら、そのことにおいて首尾一貫しているからである。だが、あなたのうちにはそうした首尾一貫さは何もない。なぜなら、あなたは、そこにもここにもおり、至る所にいながらどこにもいないからである。順々にあらゆる所にいて、どこにも長居をしないからである。

 あなたがたの中のある人々は、愚かさのあまり、自分自身の断罪を早めている。あなたも知る通り、神なく、キリストから離れている者は破滅である。だがしかし、あなたは、自分をキリストのもとに行かせないようにすることを行なっている。あなたがキリストをつかむのを妨げるもろもろの罪を抱きしめている。天国の門をあなたに対して閉ざすことになると分かっている種々の情欲を膝の上であやしている。エフライムのように、あなたは愚かさのあまり、自分の破滅になるだろうものに信頼している。あなたがたの中のある人々は、良いわざにより頼んでいるか、種々の良い感情によって救われようと希望している。エフライムを抑圧していた二大国、エジプトとアッシリヤは、なおも彼の信頼する大国であった。あなたは、彼の愚行を真似して、あなたを破滅するだろうものに信頼するのだろうか。

 また、あなたが愚かなのは、これほど大きな危険があるときに、隠れ場へと飛んでこないからである。おゝ、愚かな鳩よ。鷹か外をうろついているときに、岩の裂け目を求めて身を隠さないとは! そして、あなたがたの中のある人々は何と愚かであろう! 一日一日、年々歳々、サタンは空をかけてあなたを襲いつつある。かの大猟師はあなたの破滅を求めている。だが、キリストの御傷はあなたのために開かれており、福音の招きは無代価であなたに与えられている。だのに、あなたは愚かさのあまり、分別があるにもかかわらず、永遠の喜びよりも一日の快楽の方を好んでいる。だが、あなたが本当にそれを好んでいるかどうかは分からない。ただ、なぜかあなたは、その愚かさのあまり、自分の好みを証明できず、蝮の穴の上でたわむれる子ども[イザ11:8]のように、自分の断罪の上で陽気にし続けているのである。愚かさのあまり、天国と地獄のどちらを選ぶべきか心を決められないのである。私は、この建物の中にそのような人々がいることを知っている。願わくは、この矢がまさにそうした人々に的中するように。だが、あまりにもしばしば、こうした鳩たちは別の点でも愚かすぎて、福音の訴えが自分に突き入れられないようにする。彼らは云う。「これは私のためではありえない。というのも、私は甲先生、あるいは、乙先生の組に通っているからだ。これは私のためではありえない。というのも、私は祈祷会に通っているからだ。私は《学校》にも、あらゆる良い働きにも寄付しているのだ」。だが、その間ずっと、それは、あなたが自分自身の気紛れな思いつきに立って行動しており、神のためには行動していないことを意味している。あなたは何をささげても自分の心だけは神にささげず、すべてを犠牲にしようと神があなたに求めておられるものだけは拒んでいる。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」[箴23:26 <英欽定訳>]。ローマの占官が去勢牛を殺して、何の心臓も発見しなければ、それは大災厄のしるしと考えられた。そして、ある人々が神にささげるべき何の心も有していないとき、それはあらゆる災厄の中でも最悪のことである。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」[マタ15:8]は、古のイスラエルに対する文句の1つであり、預言者たちを泣かせ、エルサレムが畑のように耕される[エレ26:18]原因となったもろもろの罪の1つなのである。

 IV. しめくくりに私は、第四の点について、ほんの数言だけ述べよう。それは、《1つの深刻な考察》である。私は、1つか2つのことを厳粛に、柔らかく、希望をもって語りたいと思う。おゝ、それがあなたがたの中の多くの人々の記憶と良心の中にとどまり続けるならどんなに良いことか!

 話をお聞きの方々。あなたがたの中の、このタバナクルに長い間座ってきた人たち。これが建てられて以来、また、それ以前にも他の様々な場所で、私たちの伝道牧会活動の下にありながら、かつてのあなたと全く同じままであり続けている人たち。あなたは思い起こすべきである。いかなる悲しみをもって私たちが救われていない人々を眺めているかを。聖所の案内係が不信者であることはまれなことではない。回心した親たちの子ども、《日曜学校》で教育された少年、神の家に常に座席を有してきた男性が、なおもこの世にあって望みもなく、神もない人たち[エペ2:12]であることは普通である。それを考えてみるがいい! 欺かれてはならない。福音は、あなたのような人々をかたくなにするであろう。人間的な云い方をすれば、(というのも、神にはどんなことでもでき[マタ19:26]、主権者なる神はみこころのままに行なわれるからだが)、あなたがこれほど長く座ってみことばに耳を傾けてきた後で、あなたが恵みによって召されることは、いやまして見込み薄になっているように思われる。かつてはあなたを跳び上がらせた声は、今ではあなたを安らがせている。かつては目を引きつけ、時には心に触れることもあった挙措は、そのどちらも行なわない。そして、かつてはあなたの頭上を、雷鳴の轟音のように通り過ぎた当の真理が、今やその中には僅かな力しかなく、その響きの下であなたは眠れるほどである。それを考えてみるがいい。あなたがた、愚かで思慮のない鳩のような人たち。

 また、やはり思い出すがいい。この世に生を受けた中で、最も邪悪な罪人たちの何人かは、この原料から形作られたということを。最悪の人間たちの何人かは、かつては、見たところ柔和な心をした、みことばを聞く者たちだった。だが彼らは福音が宣べ伝えられる下で座り続け、ついには神を否定し、神を呪うまでに熟しきってしまったのである。聖められないまま福音を聞いていると、時として、眼鏡蛇のふさがれた耳[詩58:4参照]よりも巨大な罪の標本が生み出される。話をお聞きの方々。用心するがいい! あなたが、ハザエルとともにこう云うだろうことは承知している。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」[II列8:13]。しかり、あなたの中には犬も悪魔も十分に巣くっており、あなたが恵みによって変えられない限り、あなたが決して夢にも見たことがないようなこと、また、その他の二十もの事がらを行なわせることになる。考えてみるがいい。いま地獄にいる中でも、いかにおびただしい数の魂が、あなたのような者であるかを。――愚かで思慮のない鳩のようであるかを。その呻きの場所にある住民の多くは、かつては福音を聞いており、それを喜んで聞き、しばらくの間はそれを受け入れたように見えるが、根を張らなかったため、その印象はしおれてしまったのである[マコ4:16-17]。彼らは決して恵みによって有効に召されたことがなかった。決して心において新しくされたことがなかった。外的には聖潔のように見えるものが山ほどあったが関係ない。彼らは行ってしまった! 今しも、あなたの魂は、彼らの唸りや恨みが聞こえるであろう。なかんずく、それはこのようなものであろう。「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとせよ。実は死んでいるのに、生きているとされていることに満足してはならない」[IIペテ1:12; 黙3:1参照]。

 願わくは生ける神の御霊が、あなたをこのことにかき立ててくださるように。というのも、そうでなければ、私にはあなたに繰り出すべき、もう1つの考察すべきことがあるからである。思い出すがいい。いかにすみやかに、あなたが、あなた自身、地獄の中にいるようになりかねないかを。そして、そこに行く者たちは、もしもこれまであなたのような者であったとしたら、徹底的にそこに行くのである。講壇のすぐ近くから、その穴に行くのは恐ろしいことである。聖餐式の杯から、悪霊の杯[Iコリ10:21]に行くこと、――聖徒たちの歌から、失われた魂たちの鳴き声、呻き声、歯ぎしりのもとに行くこと、――神の安息日、神の家、神のみことばという一切の神聖な喜びから下に降り、神への愛を全く持たず、昼も夜も神を呪っている霊どもの言葉に尽くせぬ醜行へと行くこと、話をお聞きの方々。それが一時間か、一週間か、一年以内にあなたの運命となりかねない。その期間がどれだけであれ大した問題ではない。というのも、もしそれがあなたの運命だとしたら、過ぎ去った時は、その喜びについては、一瞬のことのように思われ、あわれみの日があなたに必然的に負わせるだろう、すさまじい責任については、数限りない時代のように、あたなには見受けられるであろうからである。「悔い改めなさい。そして、それぞれ……バプテスマを受けなさい」[使2:38]。そうペテロが云ったように、私も云う。もしあなたがたがまだキリストを受け入れていないとしたら、永遠のいのちをつかむがいい。そして、おゝ、生ける神の御霊が、私が一般的にみことばを宣べ伝えている一方で、特定的にそれを当てはめてくださるならどんなに良いことか。ご自分の選びの民を見つけ出し、彼らを《堕落》の廃墟から集めてくださるならどんなに良いことか。それは、彼らが《贖い主》の王冠の宝石類となるためである!

 主が私たちを鳩としてくださるように。だが、決して私たちが「愚かで思慮のない鳩」にはならないように。

 

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愚かな鳩[了]

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