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私たちの旗

NO. 2979

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1905年7月29日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1863年


「あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、真理のために、これをひらめかせるためです」。――詩60:4


 この詩篇について注釈するほとんどの著者は、この旗をダビデの王国と呼んだ後で、ここにはメシヤへの言及があると述べている。私たちもその通りであると信ずる。また、その言及は、ぼんやりとしたほのめかしではない。主イエスのうちに私たちが見いだすのは、歴史を解く鍵と、預言の解明である。主こそ旗である。――民の前に掲げ上げられている旗印である。主はアドナイ・ニシ、「主はわが旗」[出17:15]であられる。この方に従うことこそ私たちの喜びであり、この方の回りにこそ私たちの楽しみは集まる。私たちは、ここで意味されている旗が、ほかならぬ主イエス・キリストであることを長々と証明しようとは思わない。――そうしようと思えば、たやすくできるが――。実際、これは、そのご人格の威光に包まれた主であり、――その功績の効力を表わした主であり、――その義の完全さにおける主であり、――その勝利の赫々たる成果を伴われた主であり、――その来臨の栄光を帯びた主である。もし主に目を注ぎながらこれを読むなら、その意味はたちどころに明らかである。「あなたは、あなたを恐れる者のためにキリストを授けられました。それは、真理のために、この方をひらめかせるためです」。それで、私たちの主イエス・キリストを、第一に、旗にたとえられるお方として考察しよう。第二に、どなたによって与えられたかによって考察しよう。第三に、誰に与えられているか、第四に、何のために与えられているかによって考察しよう、

 I. 《私たちの主イエス・キリストを、旗にたとえられるお方として》考察しよう。

 思うに旗は、古代には、現代の戦争においてそうであるよりも、はるかにすぐれて有用なものであった。時代は変わってしまったし、私たちも時代によって変えられつつある。それでも、私たちは今なお古い旗について畏敬とともに語る。「一千年もの間、戦闘をも波風をも、ものともしなかった旗」という語句には、大きな意味がこもっている。兵士は今なお自国の旗を振り、水夫は今なお愛国的な誇りをもって、かくも長きにわたって英国の檣頭に浮かんでいる旗を仰ぎ見る。しかしながら、この箇所の比喩は、どちらかといえば現代よりも古代における用い方を指し示している。

 私たちが注意すべきは、まず最初に、旗が掲げられ、ひらめかされるのは、団結の一点としてであった、ということである。ある指揮官が戦争のために軍隊を集めようとするとき、彼は自分の旗を揚げた。すると、あらゆる者がこの軍旗のもとに結集した。軍旗のもとに来ること、この旗の回りに結集することは、君主と行をともにし、その大義を支持するということであった。戦いの日に、軍が総崩れになりそうな兆しが少しでもあるとき、勇者たちはみなこの旗の回りで戦った。それを守ることが何をおいても最も重要なことであった。軍用行李は、しばらく放っておけた。各師団の小旗は捨ててもよかった。だが、血で赤く染まった大旗、祈りとともに聖別されたこの旗の回りには、全員が集まらなくてはならず、必要とあらば、そこで彼らの心臓の血を流さなくてはならなかった。

 私の兄弟たち。キリストは、十字架の兵士たち全員が団結すべき一点である。あらゆるキリスト者たちが相会うことのできる所を、私は他に1つも知らない。私たちは――残念なことだが――バプテスマの流れのほとりには全員集まれない。ある人々はバプテスマを受けようとしない。彼らは今なお、制定された大水の代わりに水滴をつけ、信仰が要求されているところに幼児を連れてくるという罪にとどまり続けている。私たちは、聖餐の卓子の回りにさえ全員では集まれない。ある人々は自分の兄弟たちを押しのける。彼らと意見が一致していないからである。そして、聖餐卓でさえ時として戦場と化してしまう。しかし、いかなるキリスト者も、キリストというお方においては相会うことができる。これこそ私たち全員が愛する旗である。――私たちがキリスト者だとしたらのことだが、それ以外の者は、はるか彼方に去れよかし。おゝ、イエスよ。ここ、あなたの十字架のもとに私たちは参ります! 英国国教徒は、その数多くの形式や祭服をかかえたまま、また、長老派信者はその厳格な《契約》と、御柳擬を自らの血で汚した人々に対するその愛をかかえたまま、また、独立派信者は自由に対するその熱情と、自由教会の国家からの分離をかかえたまま、また、メソジスト信者は、その入り組んだ《教会》政治――時として隷属的な形にはなるが、なおも力強い形をしたもの――をかかえたまま、また、バプテスト信者は、自分の古来からの家系と、父祖たちがキリスト者たち自身からさえ迫害され、キリスト者と名乗る価値のない者とみなされていた日々を覚えながら、彼らはみなキリストのもとにやって来る。数多の意見が彼らを分断している。多くの問題について彼らの意見は一致しない。そこここで彼らは、古い地境を巡って小競り合いをするであろう。また、それは正しい。というのも、私たちはヨシヤのように、執拗に主の目にかなうことを行ない、右にも左にもそれるべきではないからである[II歴34:2]。しかし、私たちはキリストの十字架のもとに結集する。そして、そこでは、あらゆる内輪もめの武器は投げ捨てられ、私たちは兄弟たちとして、ほむべき《福音主義同盟》の戦友たちとして相会う。全員が、愛する主のためなら苦しみも死も受ける覚悟ができている。ならば、キリスト者たち。この団結点に前進せよ! この、暗闇の諸力に対する十字軍において、罪人たちの救いを自分の脇目もふらぬ目当てとしている私は、私の《主人》の福音を掲げ上げ、主の流れ出る血潮によるあわれみのみことばを宣布すること以外に、ほとんどかまいつけはしない。

 また、旗は、戦時においては、偉大な導きの星であった。兵士を方向づけるものであった。あなたも覚えているだろうが、戦いの日に、旗手が倒れるようなことがある場合には、それでも戦士たちを導くための何らかの手段があるようにと、彼らは特別の配慮を払った。

 そのように、今日に至るまでキリストは、戦いの日におけるキリスト者の偉大な《導き手》であられる。きのうもきょうも、いつまでも同じイエス・キリスト[ヘブ13:6]が、倒れるような恐れは全くない。キリスト者よ。あなたの目を主に据えるがいい。そして、もしも最上の戦い方を知りたければ、主の足跡に立って戦い、主のあらゆる行動にならい、あなたの生き方を主の生き方の複製とするがいい。あなたが方向づけを求めて立ち止まる必要は決してない。キリストの生涯がキリスト者の模範である。あなたが、仲間の信仰者の方を向いて、こう云う必要はない。「戦友よ。私たちはいま何をすべきだろうか? 戦闘の硝煙がたちこめて、叫び声が乱れ飛んでいる。私はどちらへ行けば良いだろうか?」 使徒パウロが私たちの方角を示している。「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」[ヘブ12:1-2]。キリストの足跡を踏んで前進し、こう云うがいい。「私の《救い主》よ。神は私のためにあなたを旗として授けられました。それは、真理のために、あなたをひらめかせるためです」。

 この2つの点において、――結集すべき中心点として、また、戦士にとっての方向づけとして、――キリストは私たちの旗であられる。

 また、旗は、思い出してほしいが、常に主たる攻撃目標である。敵がそれを見た瞬間、彼の目標はそこを襲撃することとなる。それは最も脆弱な点でなくとも、少なくとも、敵の力が最も感じられる点となるであろう。古において、彼らはその照準を旗竿に合わせ、旗を叩き落とそうとしなかっただろうか? 古の赤十字騎士団がサラセン人と戦ったときには常に、彼らはマホメットの軍旗を握った男の兜の上に、その鋼鉄の輪を囲繞させようと努力した。戦いは、その軍旗の周囲が最も熾烈であった。時として、戦闘が終わった後の戦場には、足や、腕や、めった切りにされたからだが散らばっていたが、ある場所には兵士たちがうずたかく積み上げられ、肉体と武具、折れた骨と粉砕された頭蓋の大きな山をなしていることがあった。ある者は尋ねるであろう。「これはどういうことだろう? なぜこの人々はここにやって来たのだ? なぜ互いに踏みつけ合い、人の血だまりの中で戦ったのだ?」 その答えはこうなるであろう。「これは、旗手が立っていた場所なのだ。そして、最初に敵が突撃をかけて旗を奪取した。そこで五十人の騎士たちがそれを奪還しようと誓いを立て、自分の敵たちへと再突撃し、強襲によって旗を奪い返した。それから両軍はその旗を巡って白兵戦を重ねた。ある者の手から、別の者の手へと、一時間ごとに持ち主を変えたのだ」。

 そのように、愛する方々。キリスト・イエスは常に攻撃の的となってきた。あなたも覚えている通り、カルバリの上で天来の正義がキリストめがけて押し寄せたとき、この偉大な旗には五箇所の裂け目ができた。そして、いずれも栄光に富むこの五つの裂け目は、今なおこの旗についている。その日以来、多くの銃弾がそれを蜂の巣にしようとしてきたが、その1つたりとも触れることはできなかった。最初に、ある手によって、それから別の手によって高く掲げられたこの旗は、ヤコブの全能者[詩132:2]が旗手たちの力であられたため、世と肉と悪魔との同盟軍に対して公然と挑戦してきたが、決して泥の中を引きずられたことも、あざけり笑う敵の勝利によって持って行かれることもなかった。この旗の裂け目はほむべきかな。というのも、それらは私たちの勝利の象徴だからである。《救い主》のみからだの、この五つの御傷は、私たちにとって天国の門である。しかし、神に感謝すべきことに、それ以上の傷が許されることはない。私たちの主のみからだは永遠に安全である。「彼の骨は一つも砕かれない」[ヨハ19:36]。主の福音もまた、傷1つない福音であり、主の神秘的なからだも無傷である。しかり。福音は代々のあらゆる闘争の後でも傷を受けてはいない。不信心者は福音をちりぢりに引き裂くと脅しているが、それはこれまでと変わらず栄光に富んでいる。現代の懐疑主義は福音の細糸一本一本を引き抜こうとしてきたが、その断片すらちぎり取れないでいる。時折、新手の敵たちが帰納的な、あるいは、大袈裟な新方式を発見し、福音が虚偽であること、キリストが詐欺師であることを証明しようとしてきた。成功しただろうか? 否。まことに彼らはみな戦場から逃走せざるをえなかった。《全能の主》の素晴らしい古い旗、すなわち、キリスト・イエスは、今なお彼らすべての上に真っ直ぐに立っている。

 また、この旗が攻撃の的となっている理由は、それが公然たる反抗の象徴であるからでなくて何であろう? 旗は、掲げ上げられるや否や、いわば敵の面前で翻るのである。それは、彼に向かってこう云っているかのようである。「お前の最悪のことをしてみるがいい。さあ! われわれはお前など恐れていない。――できるものならやってみるがいい!」 それで、キリストが宣べ伝えられるとき、そこには主の敵どもに対する公然たる反抗があるのである。何らかの説教が御霊の力によって行なわれるたびに、それは、耳をつんざくような喇叭の音で、地獄の悪鬼どもを目覚めさせるかのようである。というのも、そうした説教は彼らに向かってこう云うからである。「キリストが再びやって来られ、ご自分の正当なとりこたちをお前たちの力から解放なさるのだ。王の王がやって来られ、お前たちの領土を取り上げ、お前たちから、お前たちが盗んだ宝物をもぎ取り、ご自分をお前たちの《主人》と宣言なさるのだ」。教役者が時として感ずることのある、1つの厳格な喜びがある。自分が地獄の諸力の敵対者となっていると考える喜びである。マルチン・ルターは、こう云ったとき、それを感じていたように思われる。「さあ、詩篇46篇を歌おう。そして、悪魔にその最悪のことを行なわせようではないか!」 それは十字架の軍旗を掲げ上げることであった。もしあなたが悪魔に戦いを挑みたければ、哲学を説教して歩いてはならない。腰を下ろし、四分の三哩もあるような長大な文章が連なる洗練された説教を執筆してはならない。人々の耳に甘美に響くだろう瀟洒な語句をえり抜こうと努めてはならない。悪魔はそのようなものに全くかまいつけない。むしろ、キリストについて話をするがいい。《救い主》の苦しみについて説教するがいい。この方を仰ぎ見ればいのちがあると罪人たちに告げるがいい。すると、即座に悪魔は非常な怒りを感じる。ロンドンの教役者たちの多くを見るがいい! 彼らは自分の講壇に立ち、元日から大晦日まで説教しており、誰も難癖をつける者はいない。なぜなら、彼らはしごく人々の気に入ること[イザ30:10]を預言するからである。しかし、ある人がキリストを宣べ伝え、イエスの救う力について宣言し、単純かつ大胆に福音の真理を心に尽き入れるや否や、暗闇の悪鬼たちがその人に立ち向かうであろう。そして、たとい噛みつくことはできなくとも、喚き声を上げ、吠え立てることはできることを示すであろう。十字架の旗には、公然たる反抗の象徴がある。それは、神の公然たる反抗の象徴である。連合した暗闇の諸力に投げつけられた神の挑戦の手袋である。だが、その手袋を彼らはあえて取り上げようとはしない。キリストの十字架を掲げ上げることに、いかに途方もない善への力があるか知っているからである。ならば、あなたの旗を振るがいい。おゝ、あなたがた、十字架の兵士たち。めいめいの地位と階級にあって、不断の警戒をするがいい。だが、それでもあなたの旗を振るがいい。というのも、敵は激怒に満ちていようが、それは、ひとたびキリストの十字架が掲げ上げられるとき、自分の時が縮まっていることを知っているからなのである。

 この比喩の意味は、まだきわめ尽くされてはいない。旗は、常に傷ついた者にとって慰藉の源であった。そこに彼は横たわっている。勇敢な騎士である。恐れることなく、非難されるところもなく、立派に戦ってきた。だが、流れ矢が彼の鎧の継ぎ目を射抜き、彼のいのちはその恐ろしい傷から流れ出しつつある。そこには、彼の兜の緒をほどいてくれる者も、一杯の冷たい水を与えてくれる者もいない。彼の体は、その固い鋼鉄の箱の中に閉じ込められており、彼は苦痛を感じてはいても、助けを得ることができない。彼には、入り乱れた叫び声が聞こえる。敵方めがけ、憤怒に燃えて突進する者らのしわがれ声が聞こえる。そして、彼は目を開く。――まだ、出血によって失神してはいない。彼がどこを見ると思うだろうか? 彼は頭を回す。何を探しているのだろうか? 友人だろうか? 戦友たちだろうか? 否。彼らがやって来るとしても、彼は云うであろう。「私をかついで、その木にもたれるように座らせてくれ。だが、戦いに行ってくれ」、と。その落ち着かなげな目は何を捜しているのだろうか? それが目探ししている的は何だろうか? しかり。見つけた。そして、死にかけている男の顔が輝く。彼は、旗がなおも翻っているのを目にする。そして、今際の息で彼は叫ぶ。「行け! 行け! 行け!」 そして満ち足りて眠りにつく。旗が安全だったからである。それは、まだ打ち倒されてはいなかった。彼は倒れたが、旗は安泰だった。それと同じように、十字架のあらゆる真の兵士は、その旗の勝利を喜ぶ。私たちは倒れるが、キリストは倒れない。私たちは死ぬが、キリストの御国は生き生きと成長する。前に話したことがあるように、私の心が最も悲しみを覚えていたとき、――それ以前もそれ以後も決してなかったほどの悲しみを覚えていたとき、――あの甘やかな聖句、「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」[ピリ2:9]、は全く私の魂を鼓舞し、再び私を平安と慰めの中に落ち着けてくれた。イエスは無事だろうか? ならば、彼らに何が起ころうと決して大したことはない。旗には問題ないだろうか? それは高々と翻っているだろうか? ならば、敵は勝利を得ていないのだ。敵はひとり、またひとりとなぎ倒してきた。だが、敵自身もやがて粉々に砕かれることになるのだ。あの旗がなおも日の光の中でまばゆく輝いているからである。

 そして、最後に、旗は勝利の象徴である。戦いが終わるとき、兵士は国元に戻ってくる。何を持ってくるだろうか? 血に染まった彼の旗である。また、街路を練り歩く行進の中で最も高く掲げられているのは何だろうか? 旗である。人々はそれを大寺院に吊り下げる。屋根に高く掲げる。また、歩兵たちが煙草を吸い、賛歌が立ち上る所、そこには旗がかけられる。栄誉を与えられ、重んじられ、争闘の中をも危険の中をもかかえられてきた旗が。さて、私たちの主イエス・キリストは、最後の日に、そして、私たちのあらゆる敵が私たちの足で踏みつけられるときに、私たちの旗となられる。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない[ヘブ10:37]。もうしばらくすれば、私たちはこう歌うであろう。――

   「エホバの旗は 巻きとられ、
    御刀(かたな)仕舞われ、のたもう、完了(おわり)を!
      かくて、この世の 国はみな
      御子の国とぞ なりぬべし」。

そして、そのときイエスは、私たち全員を越えて高く上げられ、聖なる都の町通りという町通りでこう宣布される。「ホサナ。ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」*[マコ11:9]。

 II. しばし、私たちの第二の点に目を向けよう。それは、このことである。誰が私たちにこの旗を与えてくれたのだろうか? 《誰によってキリストは私たちに与えられたのか?》

 兵士たちが軍旗を尊重するのは、しばしばそれを最初に自分たちに授けた人のためである。あなたや私が、私たちの尊いキリストを大いに尊重すべきなのは、このお方を私たちにお与えになった神のためである。「あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました」。神は、古の永遠にこの旗を私たちに与えてくださった。キリストは、永遠の御父によって、永遠から、すなわち、大地の始まりから[箴8:23]、ご自分の選びの民に与えられ、神のメシヤ、世の《救い主》となることとなっていた。主が飼い葉桶の中に与えられたとき、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」[ヨハ1:14]。主が十字架上で与えられたとき、御父は御子の血潮のあらゆる一滴一滴を、また、御子のからだの全神経を、また、御子の魂のあらゆる力を流れ出させ、死なせた。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:18]。「あなたは……旗を授けられました」

 その旗は、私たちひとりひとりが回心した日、私たちに与えられた。キリストは、その時以来、私たちの栄光となり、私たちの誇りとなった。そして、主は、私たちの中のある者らに対しては、私たちが伝道牧会活動へと召されたとき、あるいは、聖霊の導きによってキリストのための何か並外れた働きにつけられたときに、特別に与えられた。そのとき、この旗は、直接の、また、特別なしかたにおいて、私たちの手にゆだねられた。この場にいるある人々は、《日曜学校》の真中で携えるために、この旗を与えられている。この場にいる、ひとりの愛する姉妹は、それを有している。ひとりの愛する兄弟は、それをこの会衆の多くの人々の真中で携えるために有している。私たちの《学校》の、私たちの《夜間学級》の青年たち、また、あなたがたの中の他の多くの人たち、キリストのための働き人たちは、その旗を持っている。それを様々な町通りの中で携え、幾多の土手道において、また、様々な集会所の中でイエスの御名を掲げ上げるためである。そして、ある程度において、主を愛するあなたがた全員に、その旗は与えられている。あなたの様々な奉仕の領域の中で、あなたがイエスについて話をし、その聖なる御名を高く上げるためである。

 さて、神ご自身がこの旗を私たちに与えてくださった以上、いかなる畏敬をもって私たちはそれを眺めるべきだろうか? いかなる熱烈さをもってその回りに群がるべきだろうか? いかなる熱心さをもってそれを守るべきだろうか? いかなる熱狂主義とともにその後に従うべきだろうか? いかなる信仰と信頼をもってそれを守るためには死そのものの中にさえ突進して行くべきだろうか!

 III. 第三に、《誰にこの旗は与えられているだろうか?》

 この聖句は云う。「あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました」。すべての人々にではない。神には選ばれた民がある。この選ばれた民は、時が来れば、その外的な性格によって知られる。そうした外的な、恵みによって作り出された性格とは、このことである。彼らは神を恐れる。そして、神を恐れる人々こそ、この旗を持ち運ぶべき唯一の人々である。この旗を酔いどれの手に渡して良いだろうか? キリストの偉大な真理が、罪の中に生きる者らにまかされて良いだろうか? おゝ、何とも浅ましいことは、講壇に立って説教する当の人々が、自分では福音の力を知ることも感じることも全くしていないという場合である! 以前であれば、――だが、時代はいささか変わってしまったが、――私たちの数々の教区の講壇の多くで、まるで聖くない人格をした人々が、自分の全く実践したことのないようなことを他の人々に向かって説教していたものである。このような人々に、この旗は与えられるべきではない。人々は神を恐れていない限り、それを携える価値がない。

 さらに、こうした人々以外の誰もそれを携えることはできない。他の人々が携えているのはこの旗ではない。その模造品である。彼らが宣べ伝えているのはキリストではない。水増しされた、イエスの福音ならぬものである。彼らが他の人々にこれを宣言するには、自分自身で、それを知るしかない。それを与えられているのは神を恐れる人々である。なぜなら、そうした人々には、それを携える勇気があるだろうからである。恐れはしばしば勇気の母である。神を恐れることで、人は勇敢になる。確かに人を恐れれば臆病になる。だが、へりくだった畏怖と聖い畏敬とともに神を恐れるのは、非常に高貴な情動であり、私は私たちがいやまさってそれに満たされ、いわば、イサクの恐れと、アブラハムの信仰が混ぜ合わされることを願うものである。神を恐れることにより、私たちの中のいかに弱い者らも男らしく振る舞うようになり、私たちの中のいかに臆病な者らも私たちの神である主のために英雄となるであろう。

 さて、この旗が神を恐れる人々に与えられている以上、あなたが神を恐れているとしたら、それはあなたに与えられている。私は、いかなる能力によってあなたがそれを携えるべきかは分からないが、あなたがそれを運んで行かなくてはならない場所がどこかにあることだけは分かる。商人よ。この旗をあなたの商売の家にしっかり釘づけておくがいい。おゝ、船乗りよ。それを広げて、あなたの檣頭にはためかせるがいい! おゝ、兵士よ。あなたの連隊の中で、この旗を携えているがいい! あなたの義務は厳格なものである。というのも、悲しいかな! キリスト者である兵士は、ごく僅かな人々しか踏んだことのない茨の道を行くからである。神があなたを忠実な者としてくださり、あなたにイエス・キリストの立派な兵士[IIテモ2:3]として誉れを与えられるように! あなたがたの中のある人々は貧しく、神を恐れない多くの職人たちの真中で重労働をしている。あなたの旗を持って行き、あなたの軍旗を決して恥じないようにするがいい。じきにあなたの作業場の中では、あなたとともにいる人々が自分たちの軍旗を引っ張り出すであろう。じきに彼らは、自分たちの罪深い快楽や、自分たちの娯楽や、ことによると、自分たちの不信心な原則についてあなたに話し出すであろう。同じようにあなたの旗を取り出すがいい。彼らに告げるがいい。その手で来るならこちらもその手で行くぞ、と。人が自分の旗を示すときには、必ずやあなたの旗を示すようにするがいい。これ見よがしにそうしてはならない。へりくだりつつ、そうするがいい。だが、真面目に、また、真摯にそうするがいい。あなたの旗が、決して恥じる必要のないものであることを思い出すがいい。これまで最上の人々がその旗の下で戦ってきた。否、人であると同時に神であられるお方が、その紋章にご自身の御名を書き記されたのである。ならば、確かに、いずこにおいても、どんな場合にも、それを振ることをあなたが恥じる必要はない。あなたは勇敢に考えることができる。今、あなたが考えてきたように行動において大いなる者となるがいい。

   「精神(こころ)保(かた)くし 苦難(なや)めど勇敢(いさ)めば
    軍(いくさ)にまして 成功(かち)おさむべし」。

 IV. これが私たちの最後の問いである。《何のためにこの旗は私たちに与えられたのだろうか?》

 本日の聖句は、その点について非常にはっきりしている。それが私たちに与えられたのは、「真理のために、これをひらめかせるため」であった。それは、ひらめかされるべきである。旗をひらめかせるには、入れ物の中から取り出さなくてはならない。この会衆の中の会員たち。この教会の兄弟たち。私はあなたに切に願う。聖書を大いに学んでほしい。私は人々が何らかの力を有していない限り、説教することを試みてほしいと思わない。ある程度の学びもなしに出て行くのは、火薬は詰まっていても弾丸を込めていない銃によって威力を発揮しようと試みる人のようになるであろう。旗を広げるがいい。そのためには、時間を有効に利用するがいい。青年たち。あなたの空き時間を節約して、聖書を学ぶがいい。他にどうしようもなければ、睡眠時間を削るがいい。《日曜学校》教師たち。自分の学級のために勤勉に準備するがいい。あなたの旗を入れ物から出すがいい。隊列の中で旗を掲げ上げても、巻かれたままだったとしたらほとんど役に立たない。あなたがたが、旗を広げるという聖なるわざを知るようにするがいい。それを実践するがいい。学ぶがいい。神の知恵であり、神の力であるお方[Iコリ1:24]を良く知るようにするがいい。

 また、この旗は、広げられた後で、掲げ上げられる必要がある。それで、キリストをひらめかせるために、あなたはキリストを掲げ上げなくてはならない。明瞭な声でキリストを掲げ上げるがいい。人々に聞いてほしい何かがある人のようにそうするがいい。キリストについて大胆に語るがいい。その使信を恥と思っていない人のようにそうするがいい。愛情をこめて語るがいい。情熱的に語るがいい。あなたの魂すべてをこめて語るがいい。あなたの全心が、あなたの一言一言にこもっているようにするがいい。それが、この旗を掲げ上げるということだからである。

 しかし、旗を掲げ上げることに加えて、あなたはそれを持って行かなくてはならない。というのも、旗手の務めは、単にある場所で旗を保持しているだけでなく、戦闘計画が変更されるとしたら、それをそこここへ携えて行くことにあるからである。そのように、キリストを携え行くがいい。貧しい下宿屋にも、救貧院にも、牢屋にも、もし入ることを許されるなら路地裏にも、孤独な屋根裏部屋にも、人で一杯になった部屋にも、大路にも脇道にも携え行くがいい。そして、特にあなたがた、説教者ではない、市井のキリスト者たち。家から家へとこの旗を携えて行くがいい。先日、私たちに苦情を云う人があった。あなたがたの中のある人々が、家から家へと渡り歩き、他の人々をつかまえては、その魂について話をしているというのである。あなたが、公認猟場番人の教区境界を侵害したというのである! 私はあなたが再び侵害してほしいと思う。何が私の教区だろうか? 全世界が私の教区である。全世界があなたの教区でもあるようにするがいい。もし世界が人々の間で分配されているとしても、それでどうということがあるだろうか? おそらく彼らはほとんど、あるいは、何も行なわないのである。私たちにできるすべてのことをしよう。いかなる人も、私に対してこのように云う権利はない。「これこれの地区は訪問するがいい。この地区はいけない。――ここは私の縄張りだ」。誰があなたにそれを与えたのだろうか? 誰がその人に世界の――あるいは、その何らかの部分の――支配権を与えたのだろうか? 「地とそれに満ちているもの……は主のものである」[詩24:1]。地があなたの畑である。それが誰の地区であり、領域であり、教区であっても関係ない。あなたがた、《救い主》を愛する人たち、あなたがた、純粋な福音を有している人たちを励まさせてほしい。行って、それを広めるがいい。あなたの力と時間以外の何物によっても閉じ込められたり、あなたの労働を制限されたりしてはならない。

 それでも、結局において、たとい私たちが福音を持って行き、この旗を掲げ上げるとしても、それがひらめかされるためには、それをはためかせる風がなくてはならない。何の風もなければ、旗は、旗竿にだらりと垂れ下がるしかないであろう。さて、私たちはその旗を広げる風を作り出せないが、天的な助けを切願することはできる。祈りは、私たちがこう云うとき1つの預言となる。「目覚めよ。天的な風よ。そして吹くがいい。この旗をひらめかせよ」。聖霊こそ、真理を聞く人々の心の中でそれを明らかに示す、恵み深い風である。その旗をひらめかせ、キリストについて話し、キリストを生き、至る所でキリストを云い伝えるがいい。キリストがあなたに与えられているのは、まさにそのためである。それゆえ、あなたの光を枡の下に隠しておいてはならない。「あなたがたは、世界の光です」。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ……なさい」[マタ5:14、16]。古の旗が、確固たる手で捧げ持たれるようにするがいい。新しい時代の中に、新しい決意とともに出て行くがいい。そして、願わくはあなたの前に新しい機会が開かれるとともに、絶えざる刷新があるように!

 おゝ、だが、あなたがたの中のある人々は、この旗を携えることができないのではないだろうか? そうした人には、来て、この旗の下に避難するよう招かせてほしい。私の《主人》の旗は、それがどこに行こうと自由を与える。古の英国の旗の下には、ただのひとりも奴隷は生きていない。彼らはわが国を踏みしめ、わが国の大気を呼吸する。すると彼らの枷はガチャリと落ちるのである。キリストの旗の下でも、いかなる奴隷も生きることはありえない。イエスを仰ぎ見さえすれば、また、あなたの身代わりとしてのその御苦しみに、あなたの代理として、あなたに成り代わってあなたのもろもろの罪を負われた主により頼みさえすれば、ただちにあなたは《愛する方》にあって受け入れられ[エペ1:6 <英欽定訳>]、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれる[ピリ4:7]であろう。では、神があなたをこの旗の下にある軍隊に入れてくださるように。その御栄光のために! アーメン。

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私たちの旗[了]


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