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蜂蜜入りの軽焼き菓子

NO. 2974

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1906年2月8日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1963年


「わたしの恵みは、あなたに十分である」。――IIコリ12:9


 いかなるキリスト者も、このからだに留まっている間は、苦難を全く免れることができると想像してはならない。たといあなたが幻や主から出た啓示に恵まれ、第三の天まで引き上げられたとしても、また、パラダイスの中に入ることを許され、人間には語ることを許されていないことを聞く特権にあずかったとしても、自分が鞭を逃れたと結論してはならない。むしろ、それほど高い特権を与えられたからには、重い患難でその釣り合いを取る必要があるはずだと予想するがいい。もし神があなたに大帆と順風を与えているとしたら、神はあなたに重い底荷をも与えて、竜骨が海中深く沈むようにされるであろう。愛する兄弟たち。自分が信仰において強められたからといって、肉体の重荷から解き放たれるだろうと期待してはならない。また、他の人々を力づける器とされたからといって、自分にとって苦難が軽くなるだろうと期待してはならない。あなたの舟にさえ大水が浸水することはありえる。その水密性を過信して、単に波浪が激しくぶつかるだけだろうと考えてはならない。あなたは重苦しさを感じるように召されることがありえる。力がほとんど枯渇してしまうために、あなたの信仰がほとんどよろけんばかりとなり、あなたの魂が深みから叫び声をあげることはありえる。

 主は、ご自分の子どもたちを懲らしめて、そうしたことを感じさせられる。私たちは――私たちの中のある者らは――ある程度の苦難を忍んだ後でこう考える。自分も、これほどの苦難に慣れてきたのだから、もはや以前のように動揺させられることはないであろう、と。使徒パウロは鞭で打たれ、難船して翻弄されたことがあり、さらに飢えと、渇きと、裸に苦しみ、ついには、もし誰かが肉によって誇る権利があるとしたら、それは自分であると感じるまでとなった。それでも、その彼でさえ、主が自分の心に達して、それに疼痛を与えることがおできになることを見いだした。彼の肉体にはとげがあった。彼を最も手ひどく打ちのめした、サタンの使いである。私たちも幾多の試練を受けるに違いない。――ある種のいばらが私たちの肺腑をえぐり、私たちの骨髄と、私たちの血肉に触れるに違いない。

 また、愛する方々。贖いの蓋の特権でさえ、私たちをその鞭から防護するとは考えないようにしよう。懲らしめられるとき私たちは祈りに頼る。だが、そうしても懲らしめを免れるわけではない。使徒であるパウロが祈っているのである。「働くと大きな力がある義人の祈り」*[ヤコ5:16]を確かに理解していたに違いない彼が、三度も主に願っているのである。だが、肉体のそのとげは、取り除かれるどころか、鈍ることさえなかった。なおも彼は以前と同じくらい苦しまなくてはならなかった。おゝ、いかにしばしば私たちは、贖いの蓋を自分の情欲のために用いることができると考えることか! 祈りは、私たちが利己的に用いるには神聖すぎるものではないだろうか? 神が私たちにご自分の蔵の鍵を与えて、何でも好きなものを取り出すようお命じになるとき、私たちは神のみことばのただ1つの約束さえ、単に私たち自身の願望に迎合し、私たちがキリスト・イエスの立派な兵士として苦しみをともにする[IIテモ2:3]ことから逃げられるようにするため用いて良いだろうか! たとい私たちがこのように祈りを誤って用いても、その過失を大目に見てもらえるかもしれない。だが、その祈りがかなえられることはないであろう。パウロでさえ、肉のために願ったときには、その訴えが却下されている。彼は苦難から全く解放されていない。しかしながら、それよりも良いものを受けている。というのも、主は彼にこう仰せになったからである。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」。愛する方々。私たちは、自分に降りかかるに違いない種々の逆境をそのようなものとみなさなくてはならない。「あなたがたは、世にあっては患難があります」。これは天来の意志と予告の1つである。主はご自分の愛する者たちを懲らしめることを意志し、主の子どもたちは確実にその懲らしめを苦しめることになる。それは、ことによると、世にある他の物事と同じくらい確実である。「あなたがたは、世にあっては患難があります」[ヨハ16:33]。

 I. この宣言の真実さを体験してきた人々にとって、この聖句はことのほか甘やかなものであろう。《世には霊をいたく悩ませる特定の事がらがあり、恵みだけがその痛みを鎮める香膏である》。主は、「わたしの摂理があなたを守る」、とは仰せにならない。決してそうした類のことではない。――この場合には、恵みが治療薬なのであり、私の受け取るところ、これは使徒が彼の存在の心臓部また中心において苦しんでいたからであった。世には、通常の摂理によって完全に緩和されることのできる、多くの試練がある。だが、やって来ると人を骨髄まで痛めつけるような試練に必要なのは恵みであり、それが唯一効き目のある香膏なのである。

 こうした場合、恵みの過去の経験は何の役にも立たない。この聖句の中で約束されているのは、現在の恵みであり、現在の恵みこそ必要なものである。私たちは、時としてうなだれ、暗闇の中を歩き、何の光も見えなくなったときには、夜に自分の歌を思い起こそうとした。私たちの霊は熱心に探し求めた。だが、その歌そのものが記憶の中のわめき声となってしまい、私たちが感じたと思っていたこと、知っていたと思っていたことはみな、私たちの目の前から消滅してしまった。あなたがどうであったか私には分からないが、私には過去の経験に何の価値も見いだせない時があった。悪魔は、それがみな幻想だったのだと告げた。私の信仰は単なる増上慢、私の希望は単なる興奮、私の一切の喜びは動物的な精気の発露でしかないのだ、と。やがて来たるだろう時、彼はあなたに後ろを振り返ってみろと命ずるであろう。すると、道のすべては死の影の谷のように見えるであろう。そこには、有望なしるしが1つも見えない。そこで、経験という数々の書物をめくって、それを読んでみると、あなたはこう思うことになる。「よろしい。私のいる所は神の子どもたちの居場所ではないし、私の足跡は、主の群れの足跡のようには全く見えない」。私はあなたに告げるが、もしあなたが大海の真中で働いたことが一度でもあるとしたら、故国にある錨など嵐の中では何の役にも立たないこと、一年前には非常にしっかりとしていた錨でも、故国の浜辺に置き去りにされているとしたら、いま嵐の中にあるあなたには何の役にも立たないことに気づくであろう。いま役に立つのは現在の恵みであり、現在の恵み以外の何物でもない。あなたは、冷たい食事のすべて食べてしまったし、食料棚から、見いだせる限りのかび臭いパンの皮をを持ち出してしまい、今やあなたの魂は最後の最後まで引き下げられ、あなたの内側で絶え入るばかりとなっている。今のあなたは、あなたの悩みの中で、あなたの神に、今の火急の必要時に、現在の恵みを得させ給えと叫ばざるをえない。

 そして、もし過去の経験が全く役立たずだとしたら、過去の成功はそれ以下である。ある人は使徒の肩に触れて、こう云ったかもしれない。「パウロ、パウロ、パウロ! サタンの乱打が何だというのだ? あなたはコリントに教会を設立したし、小アジヤ全域に数々の教会を創立してきたではないか! あなたほど自分の神に対して忠実に仕えてきた者がいただろうか? あなたは幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、剣の難に会い、たびたび眠られぬ夜を過ごし、しばしば食べ物がないこともあったではないか。あなたはすべての教会への心遣いをしてきたではないか? あなたの《主人》は、あなたを高く際立たせ、使徒のかしらに毫も劣らぬ者としてくださったではないか。いかにおびただしい数の霊たちが今や御座の前にいることであろう。彼らは、神の下にあって、あなたの伝道活動によって生まれたのである! そして、幾千人の人々が今なお道を歩いていることか。彼らはあなたを自分の霊の父と呼んでおり、あなたは彼らに対して子どもを養う母のようであったではないか!」 もしあなたが使徒にそう云ったとしたら、彼はこう答えていたであろう。「しかり。時にはこのことが私の慰めとなったこともあった。もしそれが私の使徒性の問題だとしたら、これは申し分ないものだったろう。もしも、いま考察しているのが私の伝道活動が神のものと認められてきたかどうかということだとしたら、それは決定的なものとなっていたであろう。だが、私はいま別の所で痛い目に遭っており、その傷があまりに深く、私のただれがあまりにむごたらしく、私の心があまりに激しく重くなっているため、他の人々がどれほど親切に考えてくれたとしても、また、自分自身がどれほど心地よい黙想をしても、私にはこれっぽっちも救いがないのだ。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください![イザ38:14]」 主はいかにすれば彼を扶助できるかご存知であり、それゆえ、彼にこの恵み深い確信をお与えになったのである。「わたしの恵みは、あなたに十分である」。

 愛する方々。私も、主の過去のいつくしみ深さを思い出すことは有益であると思う。だが、それだけに頼って生きてはならない。前進して、天から清新な供給を得なくてはならない。今日においても、天から降ったものとはいえ、古いマナを保存しておけば常に虫がわき、悪臭を放つのである[出16:20]。このことはモーセの時代から何の変わりもない。大切なのは、この瞬間におけるマナである。あなたはマナを受けるときにそれを食べ、より多くを求めて常に進まなくてはならない。だが、古いマナはあなたにとってまず何の役にも立たないであろう。安息日、すなわち、あなたの魂が完璧に落ち着いて穏やかにしているとき――魂が時として恵まれる、そうした甘やかで、静穏な瞬間にだけ、過去の記憶は非常に甘やかなになるのである。あなたは日ごとに現在のマナの配給を神の御座から受けなくてはならない。

 使徒が至らされたこのような場合には、確かに、彼の高い職務、また、彼の卓越した恵みの境地という事実では十分な重みを持たなかっただろうという気がする。パウロよ。あなたに誰が比肩するだろうか? それほどの深い知識と、それほどの熱烈な熱心を有するあなたは、熾天使の霊を有しているように思われる。それほど言葉に力がありながら、それにもかかわらず、それほど自分自身の評価においては謙遜であるあなたは、確かにイスラエルの君主[エゼ45:16]であるに違いない。パウロは、恵みにおける赤子のひとりであるどころか、若い者たちのひとりでさえもなかった。彼は、「父は多くあるはずがありません」[Iコリ4:15]、と云うが、確かに彼自身は族長と呼ばれるに値していた。だが、その事実は彼を慰めなかったであろう。そして、兄弟たち。あなたもそうした非常な窮地に陥ることがありえる。そうしたとき、恵みにおけるあなたの成長も、あなたの数々の美徳が生き生きと成長していることも、あなたにとっては一滴の慰めにもならない。あなたは、永遠の泉へと飲みに行かなくてはならないであろう。というのも、こうした大理石の水ためでさえ壊れてしまっており、全く水をためておけなくなっているからである。

 さらに注目すべきは、兄弟たち。主がこうは仰せにならなかったということである。「あなたの兄弟たちの慰藉は、あなたに十分である」。おゝ、同信のキリスト者たちから慰めを受けることはいかに甘やかなことであろう! そうしたい者は孤立した歩みをするがいい。だが私には甘やかな交わりを与えてほしい。というのも、自分の試練をキリストにある真の兄弟に告げることは、しばしばその重みを軽くし、その半分ほどにも軽くしてくれるかのように思われるからである。時には、その重さは全くなくなってしまう。というのも、私たちのイスラエルにいる何人かの賢人の言葉は、まことに傷ついた者に即座の癒しをもたらす香膏だからである。しかし、傷によっては、他人が容喙すべきではない、否、最愛の友人でさえ触れることができないものがある。ある特定の霊の悩みは、また、魂の動揺は、人力の及ぶところではない。私は、時として、何人かの教会員と会話をしなくてはならず、つくづく自分の無力さを感じたことがあった。どれほど彼らを慰めようとしても、うまく行かないのである。私は、それは自分が経験を積んでいない子どもにすぎず、より年季を積んで知恵を深めた、イスラエルにおける父親が語ったであろうようには彼らと語れなかったからだと思った。だが、私の見いだしたところ、父たちでさえ失敗し、年季を積んでも必ずしも悩める良心を慰めるのに、あるいは、その肩から重荷を取り除くのに十分な知恵は得られないということである。しかり。場合によっては普通の開業医が匙を投げることがある。そのときは、かの偉大な《医者》へとまっすぐ連れて行かなくてはならない。というのも、その目的に耐える唯一のものは恵みであり、現在の、全能の神の恵みだからである。

 この目録をもっと長くすることもできよう。だが、あなたがた、経験的にその真実を知っている人たちは、あなた自身の経験から知っているはずである。ある種の試練、また、患難の中にあるいくつかの点を、少しでも慰められるには、神の恵みが直接に注ぎ出され、それを受けるしかない。

 II. さて今、愛する方々。第二のこととして、こう云わせてほしい。《この十分な恵みは確実な香膏である》。それは、いかに急性の疾患や、いかに慢性的な疾病をも癒すことができる。「恵みは」まことに「十分」なのである。

 何と、あなたは悟らないだろうか? それがまさに試練によってかき立てられる恐れにとって十分であることを。キリスト者が困惑させられ、試みを受け、患難に遭うときには、何を恐れるだろうか。私の知るところ、もしそのキリスト者が正気を保っているとしたら、その人は罪を恐れる。彼の云うことを聞いてみるがいい。「私は貧しくなるのが恐ろしい」、と彼は云う。「貧乏が嫌いだからではない。むしろ、私は自分の信仰が心配なのだ。私が神につぶやくといけないからだ。私は苦しみが恐ろしい」、と彼は云う。「もし神がそれを私にお送りになるとしたら、私は進んでそれを受けるつもりである。だが、私は私の信仰が心配だ。その苦痛が激しすぎて、私が私の神を疑うことになるといけないからだ。私は決して中傷や迫害を恐れてはいない。そうしたことの中にあっても喜ぶことを会得している。というのも、そうすることで私は、あの殉教者の素晴らしい仲間たちの一員とされるのだから。だが、私は自分の主を否定したり、主を恥としたり、結局背教者となるかもしれないことが恐ろしい。この世の種々の誘惑、また、サタンの様々なほのめかし、また、種々の肉の腐敗がこれから私に襲いかかるだろうと予期されても、それらがやって来ることは恐ろしくない。ただそれは、それらが私に罪を犯させないという保証がありさえすればのことだ」。というのも、キリスト者が真に受ける唯一の傷は、彼が罪を犯したときだからである。種々の苦しみは単に傷跡であり、肉こそ傷ついているのである。真の傷もそれと同じである。私たちがサタンによって蹂躙されることは決してない。いかに私たちの霊が沈みこもうと関係ない。ただ、私たちがくじけて、恐怖そのものの中でやむなく降伏し、恐れ始めるときこそ、サタンが本当に勝利を得るのである。罪の戦いは、サタンが勝利を得る戦いである。だが、苦しみや、恥辱や、苦悩や、危難や、裸や、剣は、サタンにとって何の戦勝でもない。というのも私たちは、「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」[ロマ8:37]からである。

 ならば、あなたも見てとるように、恵みは、それが罪を処理するがゆえに、まさに危険に対して十分なのである。あなたは、自分の忍耐が尽きるのではないかと恐れている。それで主は云われる。「わたしの恵みがあなたの忍耐に影響を及ぼし、あなたを耐えさせる」、と。あなたは、自分の信仰がくじけるのではないかと考えている。それで主は云われる。「わたしの恵みがあなたにあなたの信仰を与えたのだ。そして、わたしの恵みは、壁の反対側に立っている《者》からひそかに火に供給されている油のように、あなたの信仰を燃やし続ける。悪魔がそれを消そうと大水を注ぎ出しても関係ない。わたしの恵みこそ、わたしの大いなる名を愛するよう最初にあなたに教えたものであった。そのように、迫害されるときも、わたしの恵みはあなたにわたしをより良く愛させることになろう。わたしは、これまであなたを背教から守ってきた。そして、何が起ころうとも、わたしの恵みはあなたに十分であろう。わたしは、恵みによって、あなたの最終的堅忍を保証している。そして、あなたは、あなたの試練と苦難のすべてから、炉をくぐった銀のように出て来るであろう。汚れた者としてではなく、火によってきよめられ、精錬された者として出て来るであろう」。ならば、あなたも見てとるように、兄弟たち。この確信は現実に、キリスト者が自分の眼前にしている恐れに現実に作用するのである。否。それは単にその恐れに触れるだけでなく、真の危険すべてに絶対的な作用を及ばす。それはあたかも、主がご自分のしもべたちのひとりにこう云われたかのようである。彼は孤立して立ち、幾千もの敵から矢を射かけられているが、主は云われる。「彼らはお前に矢を放つだろうが、わたしはお前を頭から足まで鎧兜で覆っているのだ」。あるいは、それはあたかも、あなたか私が、深い海を渡ることを考えて震えているとき、主がこう云われたかのようである。「この海は深く、あなたはそれを渡らなくてはならない。だが、わたしがあなたのそばにいる。そうすれば、あなたは足を濡らすことなくそれを通り抜けることができよう」。あるいは、主がこう云われたかのようである。「この火は熱く、あなたはその真中を歩き通さなくてはならない。あの赤々と燃える炭は、あなたの足に触れるに違いない。だが、わたしはあなたをわたしの力で覆うであろう。それで、その火はあなたを損なわないし、あなたはその火を歩き通し、火の臭いもしないであろう」。

 いかに私たちが苦しむとしても、私たちがそれに耐えられる恵みを有しているとしたら、何のことがあろうか? あなたの望む所に信仰者を置いてみるがいい。彼の《主人》が彼に恵みをお与えになるとしたら、彼は安泰を得るためにうってつけの場所にいるのである。私はある兄弟たちが時々こう云うのを聞いたことがある。「これこれの教役者は大きな危険に陥っている。彼の立場は高く、彼の頭はひっり返ってしまうであろう」。あゝ! 兄弟たち。もし彼が自分で自分の頭を保っていたとしたら、それはとうの昔にひっくり返っていたことであろう。そして、あなたの頭も、もしあなたが地上におり、自分でそれを保っているとしたら、ひっくり返るであろう。だが、もし神がある人を星々ほどの高さに置かれ、そこに彼を保っておられたとしたら、その人はこう歌うことができるであろう。「あなたは私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる」*[詩18:33]。私たちの占めている立場ではなく、私たちの有している恵みこそ、重要なことである。もしある人が十分な恵みを有しているとしたら、あなたがその人を最悪の罪の溜まり場に置こうと、そこにいることによってかえって良くなるであろう。さて、私が自分の知りもしないことを語っていると考えてはならない。ソロモンは、石垣にヒソプが生え、レバノンに杉の木が育つのを見たが[I列4:33]、私は杉の木が石垣に生え、ヒソプがレバノンに育つのを見てきた。きわめてちっぽけなキリスト者が最上の場所におり、最上のキリスト者が最悪の位置にいるのを見てきた。私は、遊女の溜まり場の真中に、恵みが、麗しい女性らしさのきよさと貞節さのすべてにおいて輝いているのを見てきたし、盗人や押し込み強盗の溜まり場の中に、神が何人かのえり抜きの聖徒を有しておられるのを見たことがある。それは、正直さと、誠実さと、聖い生き方にかけては、主教公邸の中を歩むか、英国中でもっとも福音主義的な客間を飾るにふさわしい人々であった。肝心なことは立場ではない。最上の人々が最悪の場所で育つこともあるし、最もいくじのない信仰者たちの何人かが、最も勇敢きわまりない者たちがいてしかるべき場所に見いだされることもある。この点については、ここまでにしたいが、もう一度だけ云っておこう。ある人が忍ばなくてはならない心の試練がいかなるものであろうと、この確信はそうした場合にとって、まさに十分なものなのである。

 III. そして最後に、《私たちが十分な恵みを受けるとの確信は、私たちをこの上もなく喜ばせるべきではないだろうか?》

 「わたしの恵みは、あなたに十分である」。――ならば、どうだろうか? 「私は、……むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」[IIコリ12:9]。単に喜んで、ではなく、「大いに喜んで」である。他の何物もあなたを幸いにすることはないであろう。やって来る神の恵みは、あなたの場合にとって十分である。さて今、あなたはいかに幸いになるべきであろう! この事実の確かさについて考えるがいい。十分な恵みが私たちのものとなるというのである。私の愛する兄弟たち。私は今晩、説教することには気を遣っていない。私は単に、あなたも知っており、あなたも証しできるいくつかのことを主題にした話をしているのである。あなたの経験でもこのことはそうではなかっただろうか。もしこの場にひとりでも自分の主を非難できるという聖徒がいるとしたら、名乗り出るがいい。主はあなたにこう告げることがおできになるであろう。「わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか[エレ2:3]。あなたがたの中の誰を私が助けそこなったことがあるだろうか? いつわたしは、わたしの約束を破っただろうか? あなたは大水の中にいた。――あなたは溺れただろうか? あなたは火の中を通り抜けてきた。――あなたは黒焦げになっただろうか? あなたの種々の苦難によって、いかなる損失をあなたは受けただろうか? わたしは一度でも、あなたがわたしに呼びかけたとき、あなたの叫びを聞くのを拒んだことがあっただろうか? 戦いの日において、いつわたしはあなたの頭を覆わず、あなたを放置して滅ぼす者のえじきとしただろうか?」 私の答えはこうである。――おゝ、主よ。あなたは一切のことをご存知です[ヨハ21:17]。そして、あなたのしもべの証しが次のようなものであることをご存知です。――

   「苦難(なやみ)はせまり 暗雲(くも)のごと
    群がり、雷鳴(いかずち) 大鳴(な)るときも、
    主はわがそばに 常に立たん、
    そのあわれみぞ、いかに妙なる」。

そして、キリストにある私の兄弟姉妹たち。あなたの場合もそうではなかっただろうか? そうであると私は確信する。よろしい。ならば、これはあなたを喜ばせるべきである。「わたしの恵みは、あなたに十分である」、と主は云われる。あなたの過去の経験がそれを証明している。それゆえ、心楽しく喜ぶがいい。あなたが、この主の良きみことばを再び試し、実験してみる機会を得ていることを。

 また、神の恵みは、あなたの現在の緊急の折にも、あなたに十分ではないだろうか? あなたはきょう、何らかの苦難をかかえてきただろうか? いやというほどかかえてきたと思う。というのも、私は苦難が十分に詰まっていない一日を決して見いだしたことがないからである。実際、「労苦はその日その日に、十分」ある[マタ6:34]。――よろしい。だが、あなたは、きょう、十分な恵みを有してこなかっただろうか? あなたは神の祈りの家で、鈍重で、心重く、気が塞いでいるだろうか? よろしい。だが、持つことのできる恵みはある。それゆえ、あなたが寝床に入る前に主を仰ぎ見るがいい。いずれいつの日か、あなたは、必要な時に与えられた十分な恵みについて歌うことになるかもしれない。「おゝ、ですが」、とあなたは云うであろう。「それは今ではありません。私はきょうは神を信頼できます。ですが、私の前には黒雲が薄気味悪く迫りつつあり、私はその雲の中に入っていくのが怖いのです」。よろしい。だが、私の愛する方。もし主がきょうあなたに対して真実であるとしたら、それを、主が昨日も真実であられたという事実に加えてみるがいい。主は、きのうもきょうも、いつまでも、同じ[ヘブ13:8]ではないだろうか? ならば、あなたはただちに主にあって喜ぶべきではないだろうか? さらに、あなたの父上に聞くがいい。父上はあなたに告げてくれるであろう。霊感された記録に目を向けるがいい。それがあなたに教えるであろう。正しい者が見捨てられたことがあっただろうか? いつ主はご自分の選びの民を捨て去っただろうか? 彼らは確かに、あなたの知っているいかなる海とも全く同じくらい深い海の中に入ったことがあった。あなたはまだ、あなたの全財産を失ったり、子ども全員を失わされたりしたことはない。また、ヨブがしたように灰の中に座し、土器のかけらを取って自分の身を掻いたこともない[ヨブ2:8]。まだ、目一杯にこう云うことはできない。「町通りで客を引いていた者たちすら私を罪ある者とした」、と。まだ、かの杯から飲み、こう云ったお方のお受けになったバプテスマを受けたことはない。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46]

   「主の道は わが道よりも 険しく暗し」。――

だがしかし、あなたの主は勝利を得られた。そして、あらゆる時代の、あらゆる状況下における主の民はみな、主にあって勝利を得てきた。もしあなたが、神の子どもたちのひとりでも見放されたのを見いだすことができるとしたら、また、もしあなたが、神があなたに対して不誠実であられた場合を一度でも見いだすことができるとしたら、そのときは、あなたが霊において抑鬱しても無理はない。だが、それまでは、あなたはこの上もなく喜んでいるべきである。

 また、思い起こすがいい。兄弟たち。私たちは決して、恵みがいかに十分であるかを、こうした数々の試練がないとしたら、決して知ることがないのである。それゆえ私たちは、この恵みがいかに広大かつ十分であるかを私たちに確信させてくれる、あらゆる教訓を喜ぶべきである。私は、あらゆる兵士が戦いのことを喜び勇んで考えるかどうかは分からないが、多くの兵士は軍事行動を心から乞い求めている。いかに多くの下士官たちがこう云ってきたことであろう。「われわれが出世も、昇進も、栄誉も得られないのは、平時だからだ。もしわれわれが大砲の口に突撃できるとしたら、少しは昇進の見込みもあるものを」。火薬の臭いを知らない人々の胸に勲章がずらりと吊り下がることはめったにない。ネルソンやトラファルガーの、いわゆる勇壮な日々は過ぎ去ってしまい、私たちはそのことゆえに神に感謝するものである。だが、それでも私たちは、勇敢な古強者たち、この時代の子孫たち、わが国の病院の中になおも残存しているのが見いだされるような人々、わが国のかつての軍事作戦の名残である人々のような風采になることは期待できない。しかり。兄弟たち。上へ進むには試練を経なくてはならない。少年たちは、グリニッジの学校に入学し、陸の上で帆柱登りをするだけで、士官候補生になることはない。彼らは海に出て、嵐の中の甲板に出なくてはならない。そして、もし私たちが勇士たちに列したければ、ダビデ王の傍らに立たなくてはならない。洞穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺すか[I歴11:22]、ヤショブアムのように、槍をふるって八百人を殺さなくてはならない[IIサム23:8]。幾多の争闘は経験をもたらし、経験は恵みにおける成長をもたらす。この成長は、それ以外の手段では達成されないのである。

 それに加えて、兄弟たち。この世にいる他の人々が神の恵みを見てとる道が、私たちの試練以外にあるだろうか? 恵みが与えられているのは、私たちが罪から守られるためであり、それは大きな祝福である。だが、試練がやって来るとき以外に、恵みが何の役に立つだろうか? 確かに、誘惑や患難のときに立ってもいないような恵みは、非常にまがいものの種類の恵みである。そんなものが私たちにあるとしたら、取り除いた方が良かろう。ひとりの敬虔な婦人の子どもが死ぬとき、不信心者の夫は母親の信仰を見る。船が沈没し、海中に失われるとき、不敬虔な商人は、自分の同胞の男の忍従を理解する。激痛が私たちのからだの表に現われ、身の毛もよだつ姿で死が現われるとき、人々は死につつあるキリスト者の忍耐を見てとる。私たちの種々の疾患は、神の愛という金剛石を一層きらめかせる背景の黒天鵞絨となる。自分が苦しみうることを神に感謝するがいい。自分が恥辱と軽蔑の的となりうることを神に感謝するがいい。というのも、このようなしかたで、神は栄光を現わされるからである。これは多くの人々を驚嘆させ、神ご自身の恵みを賛美させることとなる。それは、これほど卑しく、蔑まれるべきものが、主の目的を果たす媒介とされたからである。

 もうこれ以上は語るまい。ただ、この確信をあなたに推賞し、これを家に持ち帰って、あなたの舌に載せてほしいとだけ願いたい。これは、蜂蜜入りの軽焼き菓子のようになろう。それを明日の朝、あなたの朝食として食べるがいい。そして、それをあなたの常食とするがいい。これを糧として生きるがいい。「わたしの恵みは、あなたに十分である」。この「あなたに」という言葉を心に突き入れることである。神がそれをあなたに語られたかのように、また、神がそれをこれまで他の誰にも決して語られたことがないかのように。

 あなたがたの中のある人々にとって、この聖句はほとんど当てはまらないであろう。ただ、次のような見方だけはできる。あなたには多くの罪がある。だが、もしあなたがキリストに信頼するなら、主の恵みはあなたに十分である。あなたは、罪の巣窟に頭からはまり込んでいた。だが、主の血の力はあなたを白くするに十分である。また、たといあなたが悪の領土においてまさに君主となり貴族となっていたしたも、キリストの恵みは十分にあなたを吹き溜まりの雪よりも白くする。願わくは、主がその祝福をこの弱々しく、とりとめのない言葉に加えてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

蜂蜜入りの軽焼き菓子[了]

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