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赦し

NO. 2972

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1906年1月25日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1863年6月21日、主日夜


「しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」。――詩130:4


 本日の聖句の「しかし」という言葉が、いかに意義深いことか! あなたの耳には数々の叫びが聞こえるかに思われる。正義は、「罪人を殺せ」、とやかましく要求している。地獄の悪鬼どもは、「奴を火に投げ込め」、と怒号している。良心は金切り声で、「この人を滅ぼしなさい」、と叫んでいる。そして、自然界そのものが、その人の重みの下で呻き、大地はその人をかかえていることに倦み、太陽はこの反逆者を照らすことに疲れ、大気そのものが、いくらその人に息を見つけてやっても、それが神に逆らうためだけに費やされることにうんざりしている。この人は破滅寸前であり、生きながら呑み込まれんばかりとなっている。そこへ突然、この果報な「しかし」がやって来て、この向こう見ずな破滅の道行きを食い止め、その力強い手で、この罪人と破滅との間に黄金の大盾を差し入れ、この言葉を宣告するのである。「しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」。

 かりに、この問題の決着がついていなかったとしよう。――赦すべきか、赦さざるべきか? 私たちは、自分が神に違反していることを知っている。だが、――これはかりの話としてだが、――何らかの赦しがあるかどうかが、これから見つけださなくてはならない未解決の問題だったとしよう。どこでそれを見つけだせただろうか? 私たちは自然界における神のみわざに向かい、こう云ったかもしれない。「よろしい。神はいつくしみ深い。神は木々に果実をたわわに実らせ、畑にはこれほど豊かな収穫を生み出させておられる」。だが、そのとき思い出されることがある。神の稲妻は、いかに時として樫の木を打つことであろう。また、神の暴風雨は、いかに全海軍を深海に呑み込んでしまうことであろう。そのとき私たちはたちまち、神は優しいお方だが、それと同じくらいすさまじいお方だと云い、果たして神が罪をお赦しになるかどうか分からず途方に暮れるかもしれない。特に、あらゆる生き物が死ぬこと、そこには何の例外もないことを見るときそうである。死が罪ゆえの罰であると知っていたとしたら、私たちは、いかなる赦しも神の御手からは受けられないのだと恐れることになるはずである。だが、この開かれた聖書の頁に目を向け、神がいとも恵み深く、私たちを教えるために書いてくださった言葉を読めば、もはや疑いはなくなる。ここには明白にこう宣言されているからである。「あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」。聖書においてのみ、この啓示はなされている。だが、本日の聖句の言葉でしかなされていないわけではない。この頁は、神の御座から発される一千ものこだまの1つにすぎない。それらはみな、神は喜んで罪人たちを救おうとしておられると語っている。

 赦罪を受ける可能性はある。今晩、この偉大な教理を、罪人の思いの前に持ち出そうとするにあたり、私たちはそれを2つか3つのしかたで扱いたいと思う。第一に、私はそれが真実であることを証明し、その人がその事実を確信できるようにしたい。それから私は、その人を惹きつけて、この教理を受け入れさせるため、その赦罪そのものについて詳しく述べることにしたい。そうする中で、私の言葉とともに神の御霊が働いてくださることを期待したいと思う。そして、話を終える前に注意したいのは、いかなることが、この赦罪から確実に生じてくるかということである。人が神のあわれみによって赦されたとき、その人は主を恐れることができるようになり、すぐれたしかたで主を礼拝できるようになる。

 I. これは確実なこととして、おゝ、人よ! 《あなたのもろもろの罪のためには赦しがある。それが、いかなる罪であれ関係ない》。あなたの人生がこれまでいかに罪深いものであったとしても、神はあなたさえも赦してくださる。神のむきだしのみことばだけで、あなたには十分でなくてはならない。だが、神の御霊とあなたの良心が、ある程度まであなたの罪について示しており、かつ、あなたが弱り果てて意気阻喪し、疑いに満ちている以上、私はあなたに、神のむきだしのことば以上のものを与えて、あなたにこう確信させた方が良いであろう。神は赦してくださる、と。

 それでは、ぜひ私の後について、あの園に戻ってみてほしい。あなたと私の親たちが最初に罪を犯した園である。それは、これまで犯された中でも、私たちの主なる《救い主》の殺害を除けば、最も重い罪であった。――アダムが、自分の《造り主》によって彼の従順のしるしとして与えられた1つの優しい命令に、知りながら、自ら進んで反逆した罪である。これは、他の一切の罪を生み出すことになった母なる罪であった。世界を水没させた不義という大河が最初に流れ出した泉であった。この罪が犯されたとき、主は何と仰せになっただろうか? ご自分の怒れる御手を上げ、この咎ある夫婦をたちまち打ち殺しただろうか? 私たちの最初の親たちに呪いをもって訪れ、彼らをしなびさせ、底知れぬ所にある、彼らの永遠の相続地へと叩き込んだだろうか? 確かに主は呪われたが、それは土地をであった。怒りの言葉を語られたが、かの蛇こそその重みを感じたものであった。人について云えば、確かに神からの判決を云い渡されはしたが、――それは1つの呪いと呼べるが、1つの祝福と変えられてきたものである。――むしろ、主は、あらゆる約束の母となる、かの無類の約束をお与えになった。「女の子孫は、蛇の頭を踏み砕く」*[創3:15]。この1つの約束、すなわち、神ご自身がひとりの《解放者》を供してくださり、そのお方によって誘惑者が滅ぼされ、そのあらゆる仕業が挫折させられるというのである。この約束のうちに、私は、太陽の日差しと同じくらい明瞭にこう書かれているのが見てとれる。神は、私をあわれもうとしておられたのだ、と。神が、蛇の頭を踏み砕く女の子孫についてお語りになった以上、あなたや私の慰めとなることを何か意図しておられたに違いない。私は云うが、神が私たちの最初の親たちをエデンからは追い出されたが、地獄へ追い落とされなかったという事実は、――また、神が彼らをパラダイスから追放しても、たちまちご自身の燃える怒りへと引き渡しはしなかったという事実は、――また、その場でただちに彼らに1つの輝かしい約束をお与えになり、それが何世紀もの間、堕落の濃密な暗黒を覆う唯一の約束となったという事実は、――その事実は、それだけでも、神が赦してくださることを希望させてしかるべきである。

 しかし、私は切に問いたい。あの、煙を立てている、若い雄羊や雄牛を載せた幾多の祭壇は何を意味しているのだろうか? あの、血糊で深紅に染まった、のみを当てられていない石で築かれた、数々の祭壇は何を意味しているのだろうか? 何にもまして、あの祭司の人は何を意味しているのだろうか? 宝石をちりばめた胸当てをつけ、神に服従して前に進み出て、毎朝毎晩、若い雄羊をささげているあの人物は何だろうか? あるいは、毎年一回、彼が一頭のアザゼルのための山羊[レビ16:8]を用意するのは何を意味しているだろうか? その山羊は、民のもろもろの罪を負って荒野に放たれるのである![レビ16:22] あの祭壇から出た血の河と、あの灰の山とは、神が罪をお赦しにならないとしたら何だろうか? こうしたユダヤ教の長く絢爛な大絵巻の一切に少しでも意味があるとしたら、それは、見ているすべての者にこの偉大で厳粛な教訓を教えることにあったに違いない。すなわち、神は正しくあられ、血は流されなくてはならないが、それでも神は恵み深く、身代わりを受け入れ、罪人が放免されるようにしてくださるということである。こうした煙を立てる祭壇や、雄羊の血や、子羊や、山羊や、雄牛といった一切によって、おゝ、罪人よ。信じるがいい。神は身代金といけにえを得て、それにより、罪を赦すことができるし、赦そうとされるのである!

 たといこうした事がらがこの箇所ではぼんやりとしか見えないとしても、それは別の事実によって、ずっとはっきり見てとれるであろう。あなたは知っているではないだろうか? おゝ、人よ。神はあなたに悔い改めるよう命じておられる。以前の無知の時代を見過ごしておられたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられる[使17:30]。何のために? 確かに神は、私たちに悔い改めを命じておきながら、その後で罰そうとしておられるはずがない。神が、ご自分に立ち返るよう罪人たちにねんごろに語りながら、彼らを赦すつもりがないなどということは不可能であろう。神がご自分に仕える者たちたちを遣わし、ご自分の《書》を送り、熱心かつ愛情こめて罪人たちに悪の道から立ち返れ、自らのもろもろの罪を悔い改めよ、と招きながら、たとい彼らが悔い改めても、その不義ゆえに彼らを罰するおつもりでいるなど、私は、そのような馬鹿げた理屈を信じることはできない。そのようなことは不可能である。

 また、あなたは知らないのだろうか? 神は、あなたが赦しを求めて祈るよう命じておられる。この祈りは何を意味しているだろうか? 「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」[ルカ11:4]。キリストが、このように云うべきであると教えられたのに、何の赦罪もないなどということがあるだろうか? 赦しを求めるよう教えながら、赦しが不可能であるなどということがあるだろうか? 神は人々を欺くのだろうか? 乞食に乞い求めるよう教えておきながら、拒絶するつもりなのだろうか? あなたを膝まずかせ、あなたが嘆く姿を見ながら、あなたの絶望を笑い物にしようとしているのだろうか? あなたがちりの中を転げ回り、荒布と灰をまとう姿を見ることを望みながら、後で、その鉄の踵であなたの首根っこを押さえつけ、あなたを砕き潰して地獄のどん底に叩き込もうというのだろうか? そのようなことがあるはずはない。あなたに悔い改めるよう命じる神は、正しく、あわれみ深く、あなたのもろもろの罪を赦してくださる。そして、ご自分の御顔を求めよと命じているお方は、ヤコブの子らに、「むなしくわたしを尋ね求めよ」とは仰せにはならなかった[イザ45:19]。

 さらに、罪人よ。――そして、ここで私たちはなお一層はっきりとしたことに至るが、――あなたはイエスが死なれたことを知らないのだろうか? あの驚異に満ちた物語を聞いたことがないだろうか? 神の御子がいかに天から下り、罪深い肉と同じような形[ロマ8:3]にされたか聞いたことはないだろうか? あなたは知らないのだろうか? 御子がいかに三十年間、聖い生き方を送り、そこで天来の律法に完璧な従順をささげ、それを誉れあるものとした後で、自らの上に、誰にも数えられないほど大勢の人々の咎と、もろもろの罪悪と、不義とを負われたかを。それは、多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする[イザ53:12]ためであった。また、できるものなら、そこに見るがいい。その月明かりに照らされた橄欖の木々の間で、地面に膝まずいている、ひとりの人を。否、それ以上である。そこに膝まずいている、受肉した《神格》を。――その頭に、頭髪に、衣服に血が染み込んでいるのは何を意味しているだろうか? 一体いかなるわけで私は、向こう側の地面に、大きな血糊の塊を見ているのだろうか?――それはどこから来たのだろうか? それはこの方の額から出たのか? しかし、何がそれを押し出させたのか? 向こう側の光景に何の意味があるのか! この人が引きずられて行く姿が見える。また、全くあずかりしらぬ犯罪について、破廉恥きわまりない告発をされるのが見える。この方は柱にくくりつけられ、ローマ人の鞭で打たれ、ついには、珊瑚の海に浮かぶ象牙の島々のような、白い骨が見えるまでとなり、その背中の全面が血の海となる。――このすべては何を意味しているだろうか? また、向こう側の眺めがある。そこでこの方は横木の上に引き延ばされ、釘がその手足に穴をあけ、そのいのちを、極度の苦悶と苦痛の中でじくじくと流れ出させている! あの、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」[マタ27:46]という甲高い叫びは何を意味しているだろうか? この方は正しい人である。神は義人を罰されるのだろうか? この方は、神の愛する御子であり、何も悪いことを行なわなかった。神は何の意味もなくこの方を憎み、罰しているのだろうか? この方の上に理由もなく怒りを注ぎ出しているのだろうか? あなたは、そのわけを知っている。人の罪はキリストに転嫁されたのである。御民の不義はキリストに負わされたのである。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。そして、ここに謎は解ける。この方が死ぬのは、私たちが生きるためなのである。

   「われらが決して 受けぬため
    主は受け給いぬ 御父の憤怒(いかり)を」。

ならば、赦しはあるに違いない。《救い主》が血を流しておられる以上、必ずや赦罪はあると理解するしかない。ゲツセマネ、ガバタ、ゴルゴタは、3つの聖なる言葉である。3つの抵抗しがたい議論である。これにより、議論の余地なく、罪人のかしらのためにさえ赦しはあると証明される。

 しかし、これでも満足しないとしたら、おゝ、悩める罪人よ。ここに、あなたが思い巡らすべきもう1つの事実がある。――これまで、いかにおびただしい数の人々が赦罪を得てきたことであろう! あなたは、天空の彼方をあえて見上げられるだろうか? 白い衣をまとった、あの大群衆が見えるだけの視力があるだろうか? この人々は、今日、神の御座の前に立っている。もし何の赦しもなかったとしたら、そうした人々のひとりたりとも、そこにはいられなかった。彼らの衣は常に白かったのだろうか? 彼らの答えを聞くがいい。――「私たちは、この衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから神の御座の前にいるのです」[黙7:14-15参照]。赦しによってこそ、彼らはそこに至らされた。贖われた魂の1つたりとも、赦罪を与える神のあわれみがなかったとしたら、永遠の栄光を見ることはなかったであろう。

   「祭壇(おき)の回りの 祭司ら告白(つ)げり、
    その白き衣(きぬ) 雪にもまさらば、
    救いのきみの またき義と
    血のみぞ、かくも 変えたるは。

   「かれらは誰ぞ? 地上(つち)にては
    以前(さき)はアダムの 種族(すえ)の罪人、
    咎と、恐れと、苦痛(いたみ)感ぜど、
    救いうけたり、主権(たか)き恵みに」。

この場にいる私たちの中の何十人、何百人もの者らは、神が私たちに赦罪を与えてくださったという証人である。私は、たとい何を疑おうとも、キリスト・イエスにある自分の赦罪をあえて疑いはしない。時には、人は自分の種々の証拠をよく調べて、もう一度イエス・キリストのもとに行かなくてはならない。だが、1つのことだけは分かっている。すなわち、キリストは、「わたしを信じる者はさばかれない」*[ヨハ3:18]、と云っておられるのである。そして、私は真実に主を信じる。もし私が存在しているとしたら、自分が主イエス・キリストを信頼していると知っている。そして、もしそうだとしたら、私は赦罪を受けているのである。そして、おゝ、このことを知っているとは何と甘やかなことか! それがいかなる平安をもたらすことか! 私は生きることをも、死ぬことをも、同じくらいの喜びをもって待ち受けることができる。今や私は、「わが罪は赦されたり」、と云えるからである。あなたは、私と同じくらいしばしば、このケントの甘やかな言葉を口にすることができる。――

   「罪より放たれ 安けく歩まん
    主の血ぞ われの自由の証し
    御足のもとに われくつろぎて
    かつての咎びと 永久に仕えん」。

青年よ。あなたは赦されるとはどういうことか、知っているだろうか? 知っていないとしたら、天国の外にあるものの中でも最も甘やかなものをまだ味わっていないのである。おゝ、何たる喜び! 御使いたちも、もろもろの罪が取り除かれるという至福を越える喜びは、ほとんど味わったことがないであろう。そこに生まれる静謐さはあまりにも深く、あまりにも深遠なものであるため、ただこう云うしかない。「人のすべての考えにまさる神の平安」[ピリ4:7]、と。

 このように私は、神が赦してくださるという偉大な真理を提示しようとしてきた。そして、この点を後にする前に一言云わせてほしい。神のことばの中には、あなたも赦されると云える保証があることを、ぜひとも覚えておいてほしい。あなたのもろもろの罪がいかに大きなものであったとしても、――そこには1つしか例外がない。それは、聖霊に逆らう罪である。それは、あなたの良心の中に少しでも柔らかい部分が残されているとしたら、まだ、あなたが犯していないものである。――だが、その1つの罪を除くと、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。私は、その桟敷席をぐるりと巡り、その会衆席のもとに行き、どこかに痛みを覚える心がいないか見いだしたいと思うことによると、私はこう云っている人を見いだすかもしれない。「おゝ、先生。私は、二、三十年もの間、一度も礼拝の場所に集いませんでした。私は赦されるでしょうか?」 私は答えよう。「しかり。あなたをも神は赦してくださる」、と。別の人は云うかもしれない。「何と、私は面と向かって神を呪いました。できるものなら私の魂を地獄に落としてみろと云ったのです。私でも赦されるでしょうか?」 私はこの聖句の言葉で答えるであろう。「神は赦してくださる」、と。その次に出会う人はこう云うかもしれない。「しかし、私はずっと女房をいびってきました。自分の子どもたちをむごく扱ってきました。あれらが神に仕えているためにです。私も、私のような、かたくななろくでなしも、――私でも赦されるでしょうか?」 「神は赦してくださる」。さらに出会う別の人はこう云うかもしれない。「私は、何年も前には、幸いな信仰告白者でした。ですが、この世に雁字搦めになり、腐りきってしまいました。私は追い出されるのではありませんか?」 そこで私は云うであろう。「神は赦してくださる」。しかし、別の人はこう云おうとするであろう。「私がどんな犯罪を犯したか大きな声では云えません。どうか身を屈めて、お耳に囁かせてください」。そして、私がそのぞっとするような言葉を聞いたとき、――それは二度と口にしてはならないものであるが、――それでも私はあなたがた全員の前で云うであろう。「神は赦してくださる」、と。そして、たといそれが殺人であれ姦淫であれ、他のいかなるものであれ、また、いかに頻繁に犯されたものであれ、また、たといその婦人が遊女であれ、その男が泥棒の名人であれ、それでも、私たちには、あらゆる人のための同じ目当てを有している。「神は赦してくださる」。そして、たといあなたが八十歳か九十歳だったとしても、「神は赦してくださる」。たといあなたが光と知識に背き、あわれみに背き、神とその愛する御子キリストに背いて罪を犯してきたとしても、それでもやはり、「神は赦してくださる」。あなたは、絶壁の縁に至っている。おゝ、神よ。私にはそれが見える! あなたはまさに落ちる寸前である。すでに片足は虚空に浮いており、よろめいて今にも転落しそうである。おゝ、人よ。この両腕であなたをつかまえさせてほしい。そして、云わせてほしい。なおも、「神は赦してくださる」、と! もう一歩で、あなたは全く赦されない所へ至ってしまうであろう。そこでは、絶望という、暗黒のすさまじい棺が永遠にあなたの魂の上を覆い、あなたについてはこう云われることになる。「いかな恩赦令(ゆるし)も、下ることなし。かの者行きし、冷えし墓には。かの者は失われたり! 失われたり! 永遠に失われたり!」、と。

 II. さて第二に、《私はこの恵み深い赦しにあなたを注目させよう》

 私はこの赦しをその性質ゆえにたたえたいと思う。これは完璧な赦罪である。あらゆる罪がすぐさま拭い去られる。――多少の罪ではない、あらゆる罪がである。たといそれらが数え切れなくとも、すべてが消え去る。たちまちことごとくなくなってしまう。また、それは永遠の赦罪である。それらはみな、未来永劫になくなる。ひとたび赦されたなら、それらの責任を負わされることは決してない。それらは、葦の海の中のエジプト人のようである。深みが彼らを覆ってしまい、彼らのひとりたりとも残らなかった。――この赦罪は、あらゆる点で完全である。先日、私はひとりの男がその同輩についてこう云うのを耳にした。二人の人が仲違いをしており、私はその仲裁をしようとしていたのだが、「分かりました。あいつのことは赦しますよ。ただし、――」。こうした云い方を神はなさらない。神は、その赦しに何の「ただし」も有しておられない。あなたは時々こう云う。「分かった。あいつのことは赦すことにしよう。ただし、二度とあいつなど信用するものか」。主はそうではない。あなたが一切を洗いざらい告白するなら、神はあなたの罪を洗いざらい赦してくださる。神は、あなたが犯したあらゆる罪を完全きわまりなく片づけてくださるため、それらがあなたを責め立てるために思い出されることはもはや永遠になくなる。また、この赦罪は瞬間的なものである。知っての通り、負債が支払われたとき、領収書に領収済と書くのは一瞬ですむ。そして、イエス・キリストはあらゆる信仰者の負債を支払っておられ、なされるべきことはただ、神があなたに領収書を与え、あなたの心に「義と認めらる」という一言を書き記すことだけである。そして、このことを、神は一瞬のうちに行なわれる。この赦罪の性質について考えるとき、それがいかにあらゆる罪、また、いかに罪のあらゆる結果を瞬時に片づけてしまうかを思うとき、私は、この場に御使いたちの聖歌隊がいて、こう歌ってほしいような気がする。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。

 また、愛する方々。さらに考察してほしいのは、単にこの赦罪そのものだけでなく、いかなる人にそれが送られるかである。思い出すがいい。それは、あなたに送られているのである。堕落した御使いたちにではない。彼らはあなたよりも偉大であった。だが、彼らが堕落したとき、堕落した後では、神のいつくしみのもとへ回復される希望が全くなかった。それは、罪に定められて地獄にいる者らのもとに送られてはいない。おゝ、そのためなら彼らは何を惜しむだろう? いかに必死に手を差し伸ばすことであろう。――いかに片言隻句も聞きもらすまいとするであろう! そこに一瞬しかいなくとも、彼らはあなたや私以上に神の怒りについて分かる。そして、おゝ、いかに彼らはキリスト・イエスにある永遠のいのちの提示を貴重なものと思うことであろう! それは、彼らには送られていない。だが、あなたには送られている。あなたは、これまで自分がいかなる者であったかを知っている。自分の心のかたくなさについて、また、自分の過去の生き方の罪深さについて、ある程度は知っている。それでも、神はこの使信をあなたに送っておられるのである。「神は赦してくださる」*。

 また、あなたに思い出してほしいのは、この赦しをどなたが送っておられるかである。それは、あなたが違反した神、あなたが呪ってきたであろう当の神なのである。あなたが破ってきた安息日の神、あなたが蔑んできた《書》の神、あなたが笑い者にしてきた教役者たちの神、あなたが迫害してきたしもべたちの神なのである。だが、神が、その神が、こう仰せになっているのである。「あなたが赦してくださる」、と。そして、あなたがそれを疑うといけないからと、あなたがた全員の前で神は厳粛に誓っておられる。そして、神は決して必要もなしに誓いを立てることはなさらない。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」[エゼ33:11]。これ以上、何が求められるだろうか? この赦罪をどなたが送っておられるかを考えて、それを称賛し、心奪われるがいい。

 また、やはり考察すべきは、いかにして、また、いかなる経路によって、これがあなたのもとにやって来るかである。それは、あなたの最上の《友》の傷口を通ってやって来る。打つ者にその背中をまかせ、ひげを抜く者にその頬をまかせ[イザ50:6]てくださったお方の苦しみを通してやって来る。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」[イザ53:3-4]。おゝ、罪人よ! あなたは、これほど天来の経路を通して自分のもとにやって来るものをつかむことができて、この上もなく嬉しく思うではないだろうか? その経路は、死に至るまで罪人の《友》であられる《お方》の心血ではっきりと染められているのである。

 それから、ぜひとも思い出してほしいことがある。もしもあなたに宣べ伝えられているこの赦しを受けとらなければ、天下に、あなたが救われることのできる別の道は1つもない。この扉を通って入るか、外側で永遠に震えながら立っているかである。膝をかがめて、御子に口づけするか、鉄の杖で打ち砕れ、焼き物の器のように粉々にされる[詩2:9]かである。「悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11]。しかし、もしあなたがたが、この神の赦罪を拒絶するなまら、あなたがたは自分自身の死刑執行令状に署名し、あなたの魂の破滅となる綱を用意するのである。

 私に大きな説得力が与えられて、神があなたに提示しておられる、この尊い赦罪をあなたにつかませることができればどんなに良いことか。私がいかに訴えても、神の御霊が一緒に訴えてくださらない限り無益であることは重々承知している。だが、この建物の中では、何度も何度も、全く豊かな神の御霊について私が話をしているとき、一部のあわれな魂が、そこには神から自分に対する使信があると感じてきたのである。そして、今晩もそうであることを私は信頼する。希望する。覚えておくがいい。このあわれみの使信において、私はいかなる者を除外しない権威を与えられている。私は、すべての造られた者に[マコ16:15]これを宣べ伝えるよう命じられており、そうする。その条件はただ1つ、――神が無代価で与えておられるものを受けとることである。さながら、兵役を志願する者が、徴募軍曹に何も与えずに、一シリングを受けとるのと同じようにである。あなたの魂が救われる道は、キリストが無代価であなたに差し出すものを受けとることによる。それは、あなたに無代価で提示されている、キリストがその生と死によって作り出された、完成された義である。あなたは受けとるべきであって、与えるべきではない。そこに条件があるとしたら、それはごく単純である。それは、罪過と罪との中で死んでいる者[エペ2:1]にふさわしく云い表わされている。キリストは、まさにあなたがいる所に来てくださる。あなたには何の力も、何の霊的いのちも、何の善良さも、何の心の柔らかさもない。だが、イエスは、あの良きサマリヤ人のように、あなたがいるその所にやって来て、あなたの耳に大声で云われる。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」[エペ5:14]。キリストは、あなたにこう告げるよう私に命じておられる。確かにあなたの手は萎えているが、「手を伸ばしなさい」、と。この命令とともに力が発され、あなたは健康にされるであろう。

 思い起こせば、かつての私は、もしも誰かが完全で無代価の、無料の、その場で手に入る赦しを私に宣べ伝えようとしたなら、自分のからだから抜け出さんばかりに躍り上がったはずだと思う。時として、メソジスト信者たちやウェールズ人たちは立ち上がって踊り出すと聞いたことがあるが、このことを本当に完全に見てとっているとしたら、さもありなんと思う。このでかくて、どす黒くて、汚れきった罪人である悪漢が、イエス・キリストを信頼した瞬間に、赦され、神の子どもとなり、受け入れられるというのである。何と、それは、本当だとしたら話がうますぎるように聞こえる。また、それが私からだけ出たことだとしたら、真実ではありえないであろう。私は一介の人間でしかなく、人間のようにしか考えることも、行動することもできないからである。だが、それがまことの神から出ており、まさに神にふさわしいものであるからには――なぜなら、それは、神の恵みと真実という属性に一致しているからである。――、私たちはそれが真実であると分かる。「わたしは神であって、人ではない」*[ホセ11:9]、と神は云われ、それをご自分のあわれみの理由として示される。何と、もしも、天が神の大地よりも高いのと同じくらい、神の愛が私たちの愛よりもすぐれていないとしたら、いかなる形においても、あわれみなど全く提示されないはずである。いわんや、このような形のあわれみが提示されるはずがない。あなたには何も要求されていない。ただ、無となって、キリストにすべてとなっていただき、キリストの御手から、キリストが無代価であなたに贈られるもの――その尊い血による赦罪――を受けとることである。

 III. さて、愛する方々。私は、ここまでしてきた以上に平明にこの真理を云い表わすことはできない。だが、この聖句の最後の部分については、もう少し語っておきたい。「あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」。

 見ての通り、神を本当に恐れる唯一の人々とは、赦されている人々である。他の人々は、そうするふりをするかもしれないが、そうすることができない。何と、私の信ずるところ、信仰を告白するキリスト者たち十人のうち九人のキリスト教信仰は、単に次のようなものである。「私は定期的に教会、あるいは、会堂に通っています。これなら自分が非常に立派にしていると思います」。これが人々の考えていることであり、外の世界がいだいているキリスト教信仰観である。「もしある人が正直で、素面で、廉直に歩き、その他の長所を有しているとしたら、その人に天国に行くのだ」、と。しかし、こうしたお高くとまったパリサイ人たちの一部にとって、今朝の説教は何と驚愕させられるものであったことであろう。その中で私たちは彼らに告げたのである。天国に行くことになるのは義人ではなく、罪人なのだ、と。使徒ヨハネは、「もしだれかが善行を行なったなら、その人には、弁護してくださる方があります」、とは云わなかった。むしろ、「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります」、と云った。マルチン・ルターが栄光に富むしかたで云い表わしたように、「イエス・キリストが死んだのは、決して私たちの良いわざのためではない。そうしたわざは、主の死に値しない。むしろ、主は、聖書の示す通りに、私たちののためにご自分をお与えになった[Iコリ15:3]」。私たちの《救い主》ご自身は何と云われただろうか。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」[ルカ5:32]。

 主を真に、また、受け入れられるしかたで恐れる者とは、かつては罪人であり、また、罪人として主の贖いの代価を受け入れるよう導かれている者たち以外にいない。こうした人々だけが、本当に主を恐れるのである。真にイエス・キリストを愛し、キリストのためなら石膏のつぼを割ろうという、心暖かな女がどこにいるか知りたいだろうか? こう呼ばれて良い女の中に見いだすであろう。「ひとりの罪深い女」[ルカ7:37]、と。頬に流れ落ちる涙とともに、キリストのことばを宣べ伝えようとする男がどこにいるか知りたいだろうか? かつては汚れ果てていた者、使徒からこう呼ばれた者たちの中に行って見いだすがいい。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、……あなたがたは洗われ……たのです」[Iコリ6:11]。主が、聖書に次ぐ有益な書物――『天路歴程』――を書かせるために、ひとりの男を欲されたとき、主はランベス宮[カンタベリー大主教公邸]や、この町の瀟洒な町通りのいずれかに行って、どこかな道徳的な人物を選び出すことはなさらなかった。そこには、日曜日のエルストウ緑地で「棒打ち」遊びをしている男がいた。そして、主は、「これがその男だ」、と云われた。主は彼をつかみ、その心をやつれさせ、キリスト・イエスにある新しい人とされた。そこで、かの夢の大家ジョン・バニヤンが、あの尋常ならざる書物を私たちに与えることとなったのである。また、主が聖メアリーウルノースにおける説教で、ロンドンを隅から隅まで揺さぶり動かす男を欲されたとき、どこで彼を見いだされるだろうか? 何と、アフリカ沿岸で奴隷の革紐を扱っていた薄汚い男たちの間である。世界の掃き溜めであり、かすである者たちの間である。全能の恵みはジョン・ニュートンを選び出し、その心を変え、もっとも力ある教師のひとりとした。

 そして、主が真にご自身を恐れる者、また、主のために何か大きなことを行なう者を引き出されるとき、それは外的には大罪人であった者たちか、さもなければ、その良心の中で自らの咎を感じさせられ、そのようにして、他の人々を扱うにふさわしくされた者たちの間からである。おゝ、私は、自分が耐え忍ばなくてはならなかった絶望の五年間について、いかに何度となく神をほめたたえてきたことか! いかにあわれな魂も、私以上にひどく責め苛まれ、悪魔から追い立てられたことはない。五年の間、私は神が決して自分を赦されないのだという暗黒の思いにいたぶられていた。そして、私はそれゆえに神の御名をほめたたえる。私が、罪人たちのかしらに説教することができるのは、そうした経験があったためにほかならない。もし私が母親の前掛けの紐からそのまま出て来て、罪を深く感じることが全くなく、多くの多くの若者とまるで変わらないしかたで、あっさりと、たちまちキリストを見いだしたとしたら、私は決して低く下って、泥濘の中に手をつっこみ、不潔な者たち、邪悪な者たちに至りたいとは思わなかったはずである。しかし、今、私はあの苦悶の時期を振り返って見る。――何と、その頃の私は、自分のことを地獄にいる悪霊どもにも劣っていると思っていた。その頃、誰かが私に自分の人格についてどう思うか尋ねたとしたら、確かに私に良くない部分があるとは誰にも知れていなかったが、私はこう云ったであろうし、こう感じてもいた。神の大気を吸ったことのある、地獄にいるのがふさわしい大悪党の中で、私にまさる者はありません、と。私は自分を下劣な者だと明言した。もし誰かが、「何と、君は道徳的な生活をしているじゃないか」、と云ったとしたら、こう云ったはずである。「ええ。ですが、ぼくの心は、悪臭で鼻も曲がるほどの糞土の山で、不潔なもので一杯なのです」、と。そして、私は心でもそう感じていた。というのも、私の唇は決して神を呪ったことがなくとも、私の心はそうしていたからである。考えても身震いするほど不潔な冒涜によってそうしていたからである。私が悪魔のえじきとして引き渡されていたとき、また、自分の心の中に悪の巣窟があるかのように思われていたとき、そのとき、私は知ったのである。暗黒の地でいたく砕かれることがいかなることかを。また、帆柱が横倒しになり、船材という船材がきしみ、船倉が水で一杯になったまま海に追い払われた船のようになるとはどういうことかを。《全能》のほか何物も、それが深海のどん底に沈没するのを引き留められないとはどういうことかを! あゝ! そのとき私は知ったのである。自分が大きな罪人たちのための大きなキリストを必要としていることを。そして、いま私は小さなキリストを宣べ伝えることなどできないし、小さな罪人たちにキリストを宣べ伝えることなどもできない。おゝ、話をお聞きの方々。あなたの罪はいかに大きなものであろう。だが、イエス・キリストはそれよりも大きくあられる! あなたがたは罪に深々と沈み込んでいるが、全能のあわれみはあなたに達することができる。あなたがたは遠くまでさまよい出してしまったが、愛の目はあなたがたを見ることができる。そして、愛の声が今あなたがたに呼びかけている。「来よ、来よ、来よ。そして、迎(い)れられよ。来て、迎(い)れられよ」、と。ありのままのあなたで来るがいい。そうすれば、あなたが捨てられることはなく、《愛する方》にあって受け入れられる[エペ1:6 <英欽定訳>]であろう。「あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」。そして、いかなる者にもまして神を恐れ、愛し、ほめたたえ、賛美するのは、神が赦してくださることを知っている者たちにほかならない。

赦し[了]

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