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神の宝石類

NO. 2970

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1906年1月11日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる」。――マラ3:17


 この言葉が語られたのは、非常に堕落した時代であった。信仰は、ことのほか民衆にとって不快なものとなっており、彼らは神の祭壇をあざけり、神への奉仕については、「何と七面倒くさいことか!」、と云っていた。また、軽蔑をこめてこう問うていた。「神の戒めを守っても何の益になろう?」*[マラ3:14] それでも、そうした暗黒の夜さえも、輝かしい星々によって慰められなかったわけではない。確かに神の家の大会衆はまがいものでしかなかったが、神が喜びのこもったまなざしで見つめる、ずっと小さな集会がいくつかあった。確かに国民の礼拝の建物はしばしば閑古鳥が鳴いていたが、「主を恐れる」者たち、また、しばしば「互いに語り合」う者たちの秘密集会のいくつかがあり、量よりも質を重んじる私たちの神は、こうした二、三人の選ばれた者たちを顧みておられた。神は「耳を傾けて、これを聞かれた」。そして、ご自分の聞かれたものを非常に気に入り、それを心に留めて、公にしようと宣言された。「主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた」[マラ3:16]。しかり。そして、主はこうした隠れた者たち――「不信仰な者らの中にあって忠実な者であると見いだされた」者たち――を尊ばれるあまり、彼らをご自分の「宝」と呼ばれた。また、こう宣言された。来たるべき大いなる日には、――ご自分が、自らの「宝」、自らの王家の表象、王にのみ属する宝物を集めるそのときには、――この隠れた者たちを、翠玉や、紅玉や、真珠にもまさって、きわめて貴重なものとみなすことにする、と。「彼らは、わたしのものとなる」、と神は仰せになった。「わたしが、わたしの宝を集めて、わたしの宝石箱に入れて永遠にそこにいさせる日に、そうなる」、と。

 これから詳しく解き明かそうと思うのは、この宝石類という比喩である。私たちの第一の点は、神の民は宝石にたとえられている。第二の点は、事を行なうことである。そして第三の点は、それらの間に見いだされる特権である。

 I. 《主はご自分の民を宝石にたとえておられる》

 はるか太古の昔から、人々は宝石を重んじてきた。そのためには、ほとんど信じられないような代価が支払われてきたし、その光輝と大きさゆえに名にし負う、いくつかの宝石を所有するために、この上もなく血生臭い戦争が行なわれた事例さえいくつかある。人々は黄金をあさるが、金剛石は、それにもまさる熱心さをもって追い求めてきた。伯剌西爾の金剛石鉱山では、一年間の成果が手のひらに載るほどのものでしかなくとも、五百人の男たちが丸々十二箇月もの間、働くものである。燦然と輝く、たぐいまれな宝石一個のためとあらば、数々の君主たちがその属国のすべてを与えるか、一国の半分の地所と交換しようとするであろう。それゆえ、他の箇所では、高価なシオンの子らを純金で値踏みしている主が[哀4:2]、ここで彼らを宝石になぞらえておられるのも不思議はない。人々からはいかにちっぽけなものと評価されていようと、かの偉大な《宝石鑑定人》、主イエス・キリストは、彼らをいかなる値もつけられないほど尊い者と評価しておられる。主のいのちは、私たちのいのちが私たちにとって貴重であるのと同じくらい、主にとって貴重なものであった。だがしかし、主はご自分の持てるすべてを、そのいのちすら含めて、ご自分の選びの民のためお与えになった。主はご自分の宝石の価格を、あの陰鬱なゲツセマネの園における血の汗の一滴一滴で数え上げられた。主の心臓そのものに飲み口があけられ、値踏みもできないほど尊い血潮がどくどくと流されたのは、ご自分の民を贖うためであった。私たちは、あの良い真珠を捜している商人[マタ13:45]に主をたとえて良い。主は、ご自分の《教会》という一個の宝石を見いだしたとき、その喜びゆえに、持ち物を全部売り払っても、それをわがものにしようとされたのである。

 私たちの神は、ご自分の宝石とお呼びになる者たちに大きな値をつけておられる。なぜそう云えるかというと、単に彼らの高価な贖いのためばかりでなく、あらゆる摂理が彼らを研磨し、完璧なものとする磨き車でしかないからである。あの、エゼキエルが見た途方もない車輪たちは、この大いなる《宝石細工人》の工具類の一部でしかなかった。それによって、この方は、ご自分の燦爛たる宝石の各面を切削し、その金剛石をご自分の外衣のために整えられる。というのも、こう書かれていないだろうか? 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <英欽定訳>]、と。主はご自分の民の価値を非常に高く見られる。彼らの中の富者ばかりでなく、彼らの中の最も恵み深い者ばかりでなく、信仰者の中の非常に小さく、最も取るに足らない者も、エホバの宝なのである。主を恐れ、その御名を尊ぶことは、敬神の念を示す非常に小さなしるしである。だが、もし私たちがそうした証拠によって示唆される基準にだけでも達するなら、私たちは神にとって貴重なものとなる。かりに私たちが、際立った賜物や、卓越した恵みを何1つ持っていないとしよう。私たちの声が人口稠密な町々の群衆の間で決して聞こえないとしよう。それでも、もし私たちが「主の御名を尊ぶ」[マラ3:16]としたら、また、私たちの心が主イエスに向かっているとしたら、私たちは主にとって高価なものなのである。

 宝石類がキリスト者を良く描写しているといえるのは、彼らが、この上もなく硬く、耐久力に富んでいるからである。ほとんどの宝石は、硝子に傷をつけることができる。そのいくつかは、硝子を切り裂きながらも、自らはいかに鋭利なやすりによっても削られることがない。ほとんどのものは、いかに強力な酸によっても損なわれない。キリスト者とはそのようなものである。キリスト者が内側に有している原理は朽ちることも、汚れることもなく、永遠に持ちこたえる運命にある。ポンペイやヘルクラネウム*1で、掘削人たちが発見してきた宝石類は素晴らしい保存状態にあったが、鉄製の彫像や器具はぼろぼろになっていた。宝石は、この世の存続する限り持久し、太陽が輝いている限りきらめき続ける。盗人が穴をあけて盗み出すことはあっても、錆で傷物になることはなく、しみにむしばまれることもない。キリスト者が生まれたのは、朽ちない種からであり、それは、生きていて、いつまでも変わることがない[Iペテ1:23]。この世は、しばしば神の金剛石たちを砕くか破壊しようと試みてきた。だが、そうした悪意ある憤激の試みはことごとく潰えてきた。その敵意が成し遂げてきたのは、せいぜい、神の御手の中にあって、神の宝石類の尊さと輝きとの引き立て役になることどまりであった。練り粉の宝石でしかない似非キリスト者なら、たちまち試練に屈する。蒸発してしまい、うぬぼれという、幾ばくかの臭い気体に化して、一巻の終わりとなる。ちょっと迫害の熱が熱くなると、人造のキリスト者は、――どこにいるだろうか? しかし、純粋なキリスト者、真の宝石、神のえり抜きの宝石は、時の猛火にも耐え抜き、かの、溶解し去る日がやって来ても、傷1つなくその炉から出てくるであろう。

 宝石は、その輝きゆえに尊ばれる。宝石の燦然たる輝きこそ、大部分の場合、その価値を証しし、試すものである。宝石類の色は、これまで知られている中でも最も輝かしく、いまだかつて発見された中でも、太陽の分光の光に最も近いものであると云われる。確かに、真摯なキリスト者から反射される光のようなものは何もない。その更新された心は、《義の太陽》[マラ4:2]の光箭をとらえて、それを反射する。――ある程度の屈折はある。私たちが定命の者だからである。だが、それでも、大きな栄光がそこにはある。私たちは不滅の者であり、神が私たちの中に宿っておられるからである。金剛石がいかなる閃光と煌めきを発するか見るがいい! 最良品質の金剛石は、他のいくつかの条件が重なるとき、何の曇りも、しみもないものである。そして、おゝ! キリスト者である人が真にしかるべき聖徒のあり方をしているとき、そこにはいかなる光輝、いかに燦然たる輝きがあることであろう! その人は主イエス・キリストのようである。へりくだっているが大胆で、教えられやすくはあるが堅固で、優しいが勇敢である。その《主人》のように、その人は、巡り歩いては、自分を遣わしたお方のみこころを行なう。悪人は、その人を愛さないだろうが、その輝きを感じとらないわけにはいかない。

 キッダミンスターのリチャード・バクスターを見るがいい。何と煌めき光る金剛石であったことか! 彼にもいくつかのしみがあったことは間違いない。だが、彼の光輝は最も驚くべきものであった。居酒屋の前に置いた座椅子に座って悪態をついている者らでさえ、彼が天から生まれた霊であることを悟らずにいることはできなかった。キリスト教の全教会の中からは、栄誉ある名前をいくつも引用できよう。その名を聞けば、たちまちそれは、神の燦々たる宝玉であると認められよう。なぜなら、彼らには天性の曇りがあまりにも少なく、恵みの光輝があまりにも多く伴っているため、よほどの盲人でもない限り、彼らを称賛せずにはいられないからである。宝石は鉱物界の花々であり、地の洞窟に咲いた薔薇また百合である。これまで人の目がとまったものの中でも、ほとんど何にもまして美しい物品は、あの十二の宝石をちりばめた、大祭司の胸当てである。その宝石の1つ1つが、別々の光箭を放っては、壮麗な調和へと溶け合っているのである。そして、虚飾のごまかしは正気の頭をした人にほとんど影響を与えないとはいえ、紅玉や、真珠、翠玉、その他の高価な宝石の輝かしい並びで飾られた王冠の影響を全く受け付けない人がひとりでもいるとは、私はまず信じられない。

 キリスト者には、1つの美しさがある。天来の、超自然的な美しさがある。その人は、質素な身なりをし、みじめな住まいにいるかもしれない。貧乏で、その名前は、世の大物たちの間で決して言及されないであろう。だが、宝石商は、たぐいまれな宝石があれば、いかに飾りつけが悪くとも、その価値を高く評価する。愛する方々。ご自分の愛する御子のご人格に次いで、神を何にもまして喜ばせるのは、ご自分が主イエスに似たものとした者たちのひとりの姿である。あなたがたは知っているではないだろうか? キリストが人の子らを喜びとしておられ[箴8:31]、御民の聖さ、忍耐、献身、熱心、愛、そして信仰が主にとって尊いものであることを。《いと高き方》にとって、被造世界のすべてにもまさって麗しいのは、ご自分の聖められた民が集まっている姿である。彼らの中に神がご覧になる美しさは、ご自分の人格の反映なのである。願わくは、あなたや私が、もっと多くの「聖なる飾り物」を聖霊によって与えられるように! 願わくは、主が私たちを見て、私たちのうちに、ご自分の言語に絶する完璧さから分光した光箭を見るがゆえに、天来の満足をお感じになるように!

 キリスト者たちが宝石にたとえられるのは、彼らの希少さのためである。世には、あまり多くの宝石はない。平凡な種類の宝石なら数多くあるであろう。だが、ごくまれな宝石の方は、あまりにも数少ないため、ほんの幼児でさえその名前を書けるほどである。世間に知られた大金剛石(いわゆるパラゴン*2)は六個しかない。そして、神の民の希少さにくらべれば、未回心の大群衆など、小川の玉砂利のようなものである。キリスト者は、紅玉や、金剛石、翠玉のように、被造物の中でもえり抜きのものに属している。こうした宝石類は、鉱物の貴族たちである。バトル大修道院の巻き物に目を通したことがあるだろうか? よろしい。それは重要ではない。それよりも、はるかにすぐれた巻き物がある。そして、もしあなたの名前がそこに記されているとしたら、その方があなたにとって無限に重要であろう。由緒ある十一世紀の土地台帳に、あなたがたの名前に似たものが記載されているだろうか? されていようがいまいが、かまうことはない。その土地台帳が人々の子らの間でかつて価値を有していた以上に、世の終わりの日に、ずっと価値を有することになる一冊の《台帳》がある。この世の知者の多く、また、権力者や身分の高い者の多く[Iコリ1:26]は、そこに名前が登録されていない。だが、天国で記入されているすべての人々は、別の意味で、知者であり、権力者であり、身分が高い。神が彼らをご自分の恵みによってそのようなものとしておられるからである。国々を富ませる宝石は多くないし、人々の間に聖徒たちは多くない。天国への道は狭く、《救い主》は悲しみながら仰せになる。「それを見いだす者はまれです」[マタ7:14]。真珠と、碧玉と、柘榴石と、翠玉とがありふれたものである町がある。おゝ、麗しいエルサレムよ。いつこの目はお前の数ある小塔や尖塔を見るのだろうか?

 さらに述べておく価値があるのは、一個の宝石は、神の製作物であるということである。金剛石は焼かれてきたし、他の宝石類もその各分子に還元されてきた。だが、いかなる化学者が精励刻苦のきわみを尽くした後でも、なおも金剛石を作ることはできていない。人々は、ゴルディオスの結び目*3を断ち切ることはできるが、それを結び直すことはできない。幾多の生涯が、宝石類を製造しようとする徒な試みのために費やされたが、その発見はいまだなされていない。宝石とは神ご自身の腕前による秘伝の製作物なのであり、化学者たちは、それらがいかに製造されるかを告げることができない。その構成分子が何であるかは分かっていても関係ない。そのように、この世は一個のキリスト者がいかなるものかを知っていると思っている。だが、そのひとりたりとも作り出すことはできない。世界中の叡智を寄せ集めても、天から生まれたいのちの秘密を見つけ出すことはできなかった。そして、ローマカトリック教のいかなる秘蹟も、式服も、司祭も、祈りも、あれこれの装具も、キリスト者を創造することはできない。「いいえ」、とある人は云うであろう。「私たちは、少量の水を取って、幼児をキリストの一部とし、神の子どもとし、天国の相続人とします」。方々。あなたは、そのように語るとき、自分を偽り者としているのであって、それ以上の何者にもなっていない。というのも、いかなることを行なおうと、あなたにも、他の誰にも、魂を新生させる力はないからである。水を使おうと使うまいと関係ない。そう思うくらいなら、火打ち石を水で長いこと洗えば金剛石にできると考えた方がましである。キリストの王冠のための宝石を作るのは、神おひとりのみわざである。私たちは口がくたびれるまで説教し、人々の耳が聞こえなくなるほど口をきわめて教えるかもしれない。だが、私たちの話だけでは、死に行く魂が天来の恵みを決して受けとることはない。御霊がその言葉に伴わない限り、息が無駄になるだけである。主だけが恵みの子どもを作り出すことがおできになる。そして、キリスト者とは、墓の中からよみがえったラザロと同じほどに奇蹟である。信仰者を創造することは、世界を創造するのと同じように、《神格》の大いなるみわざである。

 また、やはり言及する価値があるのは、宝石には多くの種類があるということである。ことによると、光の分光のうち、宝石類によって再現されていない光箭は1つとしてないかもしれない。金剛石の汚れなき白さから、紅玉の赤、翠玉の明るい緑、青玉の青に至るまでそうである。神の民もそれと同じである。彼らはみな似たものではないし、これからも決して似たものにはならないであろう。均一にならせようという、いかなる試みも失敗せざるをえない。そして、それが失敗することは非常に適切である。私たちは、均一さという意味で1つになることを願う必要はない。それが必要なのは、一致という意味においてのみである。王冠に嵌め込まれる宝石は、一種類ではなく、多くの種類がある。私たちの放つ光は、青玉の青さであろうと、翠玉の緑であろうと、紅玉の赤であろうと、金剛石の白であろうと、主が事を行なわれる日に私たちが主のものでありさえすれば、大した問題ではない。

 宝石類は、ありとあらゆる大きさをしているが、すべてが宝石ではある。1つは高価な大型金剛石であり、まさに山なす光である。だが、それが大きなものだからといって、より金剛石になるのではない。より高価なものとなりはするが。宝石細工人の磨き車から出てくる、いかに小さな金剛石の粒も、王侯の冠できらめいている最も豪華な宝石と同じ材質である。それと全く同じように、こうした、ごく小さな信仰、小さな恵みしか有していないキリスト者たちも、それが天来の作品であることは、信仰を有する家族の最も輝かしく、最も価値ある者たちにも劣らないのである。そして、それ以上に、彼らは、他の者たちとともに同じ宝石箱の中におさめられることになるであろう。というのも、彼ら全員についてこう云われているからである。「彼らは、わたしのものとなる。……わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる」。

 もう一言云えば、宝石類は、世界中どこでも見いだされる。この上もなく凍りついた地帯でも、山脈の頂上でも、鉱山の奥底でも宝石類は発見されてきた。だが、最も数多く見いだされるのは熱帯地帯だという。そのように、キリスト者たちは至る所に見いだされる。神の御名はほむべきかな。極北凍原居住族は、永遠の凍土の上でインマヌエルへの賛美を歌ってきた。太陽の子らは、灼熱の地方のただ中で《義の太陽》を崇敬することを学んできた。だが、英国は、天来の恵みの熱帯地方であり、福音が町々の通りで宣べ伝えられている国である。ここに私たちが見いだすところ、――私たちのこの麗しい国と同様の、他のもう少々の幸いな国々においてと同じく、――ほとんどの信仰者たちは、福音の特権という昼夜平分線の上に横たわっており、神の恵みは福音を、その最も純粋きわまりない形で与えているのである。

 宝石類が見いだされる所では常に、いかにそれらがいくつかの点で異なっていようと、それでも、それらはみな他の点では相似しており、王たちはそれらを大いに喜び、それらが王家の装飾となることを嬉しがる。そのように、主がご自分の尊い者たちを見いだす所どこででも、東方であれ西方であれ、北方であれ南方であれ、主は彼らの中に、彼ら全員が一致するものを見いだし、彼らをお喜びになる。私たちの主イエスは、彼らをご自分の真の装飾品とみなし、彼らによってご自分をお飾りになる。さながら、花婿が自分を装飾品で飾り、花嫁が自分を宝石類で装うのと同じである。神はキリスト者たちを喜ばれる。彼らがどこの地方の出身であろうと関係ない。彼らが、幾多の国語を喋ろうと、また、彼らの肌の色が違っていようと、それでも彼らは神の御目に、非常に非常に尊く、彼らは神が事を行なわれる日に神のものとなるのである。

 II. 第二のこととして考察したいのは、《こうした宝石類が完成されること》である。

 この宝石類が完成される日はまだ来ていない。その一部が、現時点ではまだ隠されており、発見されていないからである。疑いもなく、多くの宝石はこれから見いだされることであろう。金剛石を追い求める人々は、今のこの瞬間も、地の洞窟で探究を続け、鉱山の土を水で洗っては探し出そうとしつつある。神の選民の多くは、まだ明らかに示されていない。異教国の説教者たちは、偶像礼拝の泥沼の中から彼らを発見しようと労苦しつつある。私の日ごとの務めと召命は、金剛石を追い求める人のそれであり、この講壇は、私が尊いものと卑しいものをふるい分けようとしている作業場である。《日曜学校》教師や他の働き人たちも、やはり金剛石を追い求める人々である。こうした人々は、何百万もの金銀よりはるかに貴重な宝石を取り扱っている。おゝ、あらゆるキリスト者が魂を追い求める者となればどんなに良いことか。というのも、いくら手があっても足りず、この働きのため労する者には良い報いがあるからである。選ばれた者は、まだ全員は救われていない。血で買われた大群衆は、まだ集められてはいない。おゝ、彼らを勤勉に探し求める恵みがあればどんなに良いことか! 主の宝石たちのこれほど多くが欠けているからには、「事が行なわれ」、宝石類が完成される時はまだ来ていないが、急ぎつつある。

 多くの宝石は見いだされているが、彼らはまだ研磨されていない。彼らは高価な宝石だが、鉱山から最近持ち上げられたばかりでしかない。金剛石は、最初に発見されるとき、ほとんど光らない。それが貴重な宝石であることはわかるが、ことによると、その半分も切り落とさなくては、完全な光輝を煌めかせることはないかもしれない。宝石細工人は、それを自分の磨き車の上で責め苛み、何百ポンドも費やさなくては完成できない。場合によっては、何千ポンドも消費して初めて、その金剛石はその余すところなき素晴らしさへと至らされる。主の民の多くの者らについても、それと同じであろう。彼らは義と認められているが、完全には聖化されていない。腐敗が抑制され、無知が取り除かれ、不信仰が切り落とされ、世俗性が取り去られなくては、かの大いなる《王》の王冠に嵌め込まれることはありえない。というのも、このことをも《王》は待ち望んでおられ、その宝石はまだ「事を行な」われていないからである。

 主の宝石類の多くは、部分的にしか研磨されていない。実際、地上の誰ひとりとして、まだ完璧ではない。ここは完全の国ではない。一部の人々はそう夢見ているが、その主張は夢でしかない。私たちは、一部の人々が自分は完全であると云うのを聞いたことがある。だが、彼らは謙遜という美徳において完全ではない。さもなければ、あれほど虚栄心もあらわに自慢したがりはしないであろう。聖徒は、今なお宝石細工人の手の中にある。《主人》は、最初に1つの角を切り落とし、次に別の角を切り落とし、私たちが愚かにもいとおしんできた多くのものをもぎ取られる。だが、この切削工程によって、私たちはじきに栄光に富むしかたで煌めくようになり、地上で私たちを知っていた人々は、天国でその違いを目にして驚嘆するであろう。ことによると、それが天国の喜びの一端となるのかもしれない。自分が罪に打ち勝ったことを感じとり、天来の御手がいかなる栄光と美とを、地上の粗末でさえない石たちに降り注がせたかを見てとる喜びである。

 この完成が遅れている理由は、一部の宝石が、部分的に研磨された後で、紛失してしまっているからでもある。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「主がご自分の宝石のいずれかをなくすことなどあるでしょうか?」 否。永遠になくすことはない。だが、一時的にそれらは紛失している。ある青い金剛石は、非常な高名を馳せていたが、どうしたことか、フランス革命の時期に失われてしまい、行方知らずとなっている。しかしながら、それがどこかにあることは確実であり、神はその在処をご存知であり、それは今なお金剛石である。それと同じように、神の民の一部の者らも道を踏み外しており、私たちには行方が分かっていないが、それでも、「主はご自分に属する者を知っておられる」[IIテモ2:19]。そして、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」[ルカ19:10]。信仰後退者よ。あなたはかつては教会内の宝石だった。教会員として名簿に記載された。だが、教会というその宝石箱からサタンはあなたを盗み出してしまった。あゝ、だが、あなたがサタンに属したことはないし、サタンがあなたを手元に置いておくことはできない! あなたは彼のものとなることに同意したが、あなたの同意には何ほどの意味もない。あなたは自分のものではなかった。それで、自分を誰かに譲り渡すことなどできなかった。キリストこそ、あなたについて第一にして唯一妥当な請求権をお持ちの《お方》であり、ご自分の恵みの全能性によって、ご自分の数々の権利を再び獲得なさるであろう。こうした失われた宝石のゆえに、神は忍耐して待っておられる[Iペテ3:20]のである。だが、来たるべき日には、――その車軸は急速の回転のため熱くなっている――紅玉髄や、黄玉や、柘榴石は、同じ王冠で、翠玉や、青玉や、金剛石とともに光を放つことになる。黄水晶も、瑪瑙も、紫水晶も、緑柱石も、縞瑪瑙も、碧玉も、欠けることはない。それらはみな、「金のわくにはめ込ま」[出28:20]れることになる。

 III. エホバの戴冠用宝玉とともに数えられる《栄誉ある特権について》、私はほんの一言二言しか語るまい。そして、それには、自己吟味の言葉という前置きをつけるであろう。

 「彼らは、わたしのものとなる」。ここに含まれるのは、すべての人々ではない。「主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たち」だけである。この膨大な集会の真中に立ち、話をお聞きの方々の相当大部分が、キリストへの信仰を告白するキリスト者であることを覚えるとき、私は、これほど巨大な宝石置場にいられることを幸いに思う。だが、実際、宝石の模造品はたやすく作れること、そのため偽物を見抜けるのは最も熟練した宝石商だけであることを思い返すとき、私は厳粛に願わさせられる。あなたがたの中の誰も騙されないでほしい、と。つい先頃、ひとりの令夫人が一個の青玉を所有していた。その値打ちは一万ポンドと考えられていたが、彼女は自分の親族には知らせずにそれを売り払い、その模造品を調達した。それはあまりに巧みに作られていたため、彼女が死んだとき、それにかかる相続動産税を支払うために、ひとりの宝石商によってその値段が見積もられたという。そして、その財産の受託人たちは、実は二、三ペンス程度の値打ちでしかしないもののために、実際に一万ポンド相当分の相続動産税をわが国の政府に支払ったのである。それが本物の青玉だと想像したからである。さて、もしも物理的な宝石を吟味する際にも、熟練の人々がこのように騙されるとしたら、精神と霊という宝石との関連で詐欺を見抜くことが非常に困難であることも不思議はないであろう。あなたは教役者も、執事たちも、教会も騙せるかもしれない。否、あなた自身もころりと騙され、相続動産税すら払うかもしれない。自分の考えるところの真のキリスト教信仰ゆえに幾多の犠牲を払い、義務を果たしているが、実は、その信仰は、ただ名ばかりのものでしかないかもしれない。主にある愛する方々。生きた敬虔さのために熱心になり、偽善を憎むがいい。欺きを避け、形式偏重に警戒するがいい。私はここで一休みして、あなたに時間を与えたい。ほんの数分間沈黙して、あの古の、必要な祈りをささげる時を設けたい。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」[詩139:23-24]。あらゆる練り粉の宝石、あらゆる硝子の模造品は確かに、かの、かまどのように燃えながらやって来る日[マラ4:1]に見破られる。願わくは、私たちが、その恐ろしい試験の日に、主の純粋な宝石の間に見いだされるように!

 もし私たちが主のものなら、そのとき私たちの特権はいかなるものであろう! そのとき私たちは安全である。もし私たちが最後に、その天秤ばかりを通るなら、もはや何の審問も、疑念も、鞭打ちも、計量も、切削もないであろう。もしも、かの《大いなる評価者》が私たちを純粋なものとして受け入れてくださるなら、私たちは永遠に安泰である。

 これがすべてではない。愛する方々。私たちは、誉れを与えられもするであろう。この宝石類が永遠にどこにあることになるか思い出すがいい。イエスご自身がそれらを自らの栄光、また喜びとして身につけられる。信仰者たちは、代々の時代を通じて、天来の恵みの栄光を示す無比の例証となるであろう。あなたは、私たちの栄光に富む《愛する方》が見えるだろうか? そこにお座りになり、御使いたちに称賛され、人々に崇敬されておられる! しかし、この方はいかなる装飾品を身につけておられるだろうか? その指にはめられた王璽となるには、幾多の世界でも小さすぎる。また、その足の靴紐を結ぶには、十二宮も貧しすぎる。しかし、おゝ、この方がいかなる栄光に富んでおられることか! そして、いかなる宝石がこの方を美しさを明らかに示しているだろうか? それは、この方の死によって、底知れぬ所へ行くことから贖われた魂たちである。血で洗われた罪人たちである! この方がおられなければ、炎の中で永遠に苦しんでいたはずだが、今やこう歌って喜んでいる人間たちである。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方に栄光と力とが、とこしえにあるように」*[黙1:5-6]。それで、ひとたびキリストのものと認められたならば、あなたは単に安全であるばかりでなく、永遠を通じて、キリストとの親密きわまりない交わりの中にあることになるのである。それは至福である。そう考えるだけで、今でさえ、あなたの心の隅々まで、激しい炎を閃かせて良い至福である。あなたは、いつの日か、インマヌエルの栄光をさやかに示すことになるのである。天の所にいる主権や力に対して、《教会》を通して、神の豊かな知恵が示される[エペ3:10]のである。あなたは、この方の、「タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒」となり、あなたをご自分の報いとして、このお方は「サファイヤでおおった象牙の細工」[雅5:14]のようになる。あなたがこの方にとって最も愛しいものであるため、この方はあなたをご自分の血で買い取られた。それは、あなたが「純金をもってしても得られない。銀を量ってもその代価とすることができない」[ヨブ28:15]からである。この方の死によってあなたが贖われたこと自体、あなたの魂がオフィルの金でも値踏みできず、高価なしまめのうや、サファイヤでもそうできない[ヨブ28:16]証拠である。そして、永遠に栄光に富む神が、あなたの聖化された霊を、ご自分の栄光に富むご人格、また、みわざの例証として顕示されるとき、珊瑚も水晶も云うに足りないであろう。あなたは純金の器とも取り替えられないからである。クシュの黄玉もあなたと並ぶことができず、純粋な水晶でもその値踏みをすることはできない[ヨブ28:18-19]。

 しかし、私には、悲しみに沈んだ声がこう叫ぶのが聞こえる。「こうしたすべては、尊い者たちに関わっています。ですが、私のためのものでは全くありません」、と。よろしい。ならば、あなたは何者だろうか? あなたは宝石ではないのだろうか? 「違います」、とあなたは叫ぶ。「私は宝石ではありません。何の変哲もない石ころにすぎません。拾い上げる価値もないものです。人生の岸辺に転がる砂利石の1つであり、死の潮がじきに私を『永遠という大海』へと押し流して行くことでしょう。私は神に考えていただく価値がありません。神に踏みつけられる価値さえありません。私は、他の大群衆とともに、御怒りの大きな深みに呑み込まれては、二度と行方知らずになるのです!」 「魂よ。あなたは一度もこの聖句のことを聞いたことがないのだろうか?」、と私はあなたに云う。「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」[マタ3:9]。それはどのような石ころだっただろうか? ヨルダン川の河床にあった、普通の、てんでばらばらな石ころであった。ヨハネは川の中に立ってバプテスマを授けていた。そして、こうした無価値な、拾い上げる価値もない砂利石を指さして云ったのである。「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」、と。それと全く同じように、今晩、神は、この大群衆の中で私の回りにいる、こうした石ころたちの中から宝石を作り出すことがおできになる。ご自分が事を行なわれる日に、ご自分の宝物となる宝石をである。あなたは、そのように自分を高く上げることはできないし、私もあなたをそうしてやることはできない。だが、1つの隠れた、神秘的な過程があり、それによれば、天来の技術により、たたの石ころが金剛石へと変換されるのである。そして、確かにあなたは罪で黒く汚れた石か、罪悪で赤く染まった石だが、また、確かにあなたは冒涜というぎざぎざの角だらけの火打ち石だが、また、確かにあなたは、真理めがけてサタンが喜んで投げつけるような石ころだが、それでも神は、あなたを宝石に変質させることがおできになる! 一瞬のうちにおできになる。それをどのようになさるか知っているだろうか? 一本の素晴らしい杖があり、それで神は比類なき変質を行われる。その杖とは十字架である。イエス・キリストが苦しまれたのは、罪人たちが苦しまずにすむためである。イエス・キリストが死なれたのは、罪人たちが死ぬことなく、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。あなたは罪人ではあるが、十字架の下にやって来て、信頼を込めて神の愛する御子を仰ぎ見るなら、救われる。そして、その救いには完全な性質の変化が含まれており、それによってあなたは主を恐れ、その御名を尊び、互いに語り合う者らと混じり合うようになる。そして、主が事を行なわれる日には、主のものとなる確信をいだくのである。

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(訳注)

*1 ポンペイやヘルクラネウム。ともに西暦79年、南伊太利のヴェスヴィオ山の噴火により埋没した古代都市。[本文に戻る]

*2 パラゴン。百カラット以上の完全な金剛石。[本文に戻る]

*3 ゴルディオスの結び目。フリギア王ゴルディオスが戦車のながえをくびきに結びつけた結び目で、将来アジアの支配者となる人でなければ解けぬとされていたのをアレクサンドロス大王が剣を抜いて切断した。[本文に戻る]

神の宝石類[了]

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