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「その大きな愛」

NO. 2968

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1905年12月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年8月15日、主日夜


「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」。――エペ2:4、5 <英欽定訳>


 見ての通り、この章の4節からは、驚くべきしかたで主題が変化している。それまでパウロは、非常に悲しい描写を行なっていた。聖徒たちでさえ、生まれながらに、また、回心前のふるまいからすれば、いかなるものであったかという説明である。だが、続いて彼は、その痛ましい話題について書くことに全く飽き飽きしたとでもいうかのように、こう云う。「しかし、あわれみ豊かな神は」――と。そして、神が何を行なわれたかを引き続き語っていくのである。私たち自身から、また、私たちの同胞である人間たちから、神に目を向けるのは、何と救われる気持ちがすることか! そして、いかなるときにもまして、あわれみ豊かな神が私たちの目に麗しく思われるのは、私たちが自分自身のおびただしい数の罪を凝視してきたばかりの時ではないかと思う。金剛石がいやが上にも燦然と輝くのは、その輝きを引き立たせる、適当な金属箔の上に置いたときである。そして、人間は、神のいつくしみとあわれみにとって、金属箔のような役目を果たすと思われる。ことによると、あなたも思い出すかもしれない。あの詩篇作者が、心慌てて、「すべての人は偽りを言う者だ」、と云ってから、たちどころにその題目から転じてこう云ったことを。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」[詩116:11-12]。それは、あたかもこう云ったかのようである。「私は、もう人間とは何の関わりも持つまい。彼らは、水を貯めることのできない壊れた水ため[エレ2:13]でしかないことが分かった。だが、私の神について云えば、決して私を裏切ったことがなく、これからも決して裏切ることをなさらないのだ。だから、『私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう』[詩116:13]」。

 このたび私は、この2つの主題を織り合わせるだけとしたい。――自らの堕落における私たち自身と、その恵みにおける神、――自らの罪のうちにある私たち自身と、その愛のうちにある神である。「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」である。私は、説教するというよりは、あなたの記憶を新たにするだけで事足りるであろう。――主がその恵みによってあなたに何をしてくださったかという喜ばしい訪れの記憶を、あなたによみがえらせるだけで良いであろう。私が、主を知っているあなたに願うのは、あなたがいかなる者であったか、また、主があなたに何をしてくださったかを思い出すことである。この2つの主題によって神の愛の大きさは引き出されるであろう。そこで、その2つをこれから瞑想することにしたいと思う。第一に、私たちはいかなる者であったか。そして、第二に、神は私たちのために何をなされたか

 I. まず第一に、《私たちはいかなる者であったか》。この聖句は云う。私たちは「罪過の中に死んでいた」、と。

 おゝ、信仰者よ。今日のあなたがいかなる霊的な種類のいのちを自らのうちに有していようと、それは神によってあなたに与えられたのである。それは、生まれながらにあなたのものではなかった。神が愛と憐れみによってあなたをご覧になり、「生きよ!」、と仰せになる前には、あなたは死んでいた。つまり、霊的な事がらに関する限り、あなたは無感覚だった。――天来の御怒りの運び手たちについても、天来の愛の音色についても無感覚だった。あなたは、シナイの麓に横たわりながらも、恐れることも震えることもせずにいられた。モーセが実に恐れて、震えた[ヘブ12:21]としても関係ない。また、あなたは十字架の根元に横たわりながらも、インマヌエルの断末魔の叫びに心溶かされずにいることができた。その憂いに沈んだ音に地は揺れ動き、岩は裂け、墓は開いたが[マタ27:51-52]関係ない。あなたは思い出さないだろうか? 愛する方々。自分が、私と同じような時を通り過ぎていた時のことを。そのときの私たちの内側には、心の全くの鈍感さと冷たさが君臨しており、この世は――事実そうである通り、化粧した遊女のように――私たちを魅惑することができた。だが、私たちは、あのすべてが愛しい[雅5:16]お方、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの云い知れようのない美しさには無感覚だった。

 そして、霊的な事がらに対して私たちが無感覚で、死んでいたのと同じように、私たちはそのとき、何を行なう力もなかった。私たちは説教を聞かされ、召され、やって来るよう命じられていた。だが、あらゆる良いことに関する限り、私たちは屍のようであった。いかに甘やかな音楽も聞こえず、頭上で響きわたる、最後の審判を告げる雷鳴も聞くことができなかった。あなたは思い出さないだろうか? 愛する方々。自分もそうであった時のことを。そのときのあなたは、自分が自力で何か良いことを行なえると考えていた。だが、そうしようと試みたとき、すさまじく失敗するのだった。あなたの決意という決意は、――ようやく決意できたときには、――すべて地に落ちた。というのも、あなたは、パウロの力強い言葉によると、「何の力もなかった」[ロマ5:6 <英欽定訳>]からである。しかり。あなたは無感覚で、無力であった。

 そして、それよりさらに悪いことに、そのときの私たちには、神のもとに行こうとする意志も願いもなかった。主に近づこうとしたがる性向も、聖さに対する熱望も、自分の《創造主》との交わりを求める切望も全くなかった。世を愛し、そのはした金で自分たちの宝物庫を満たすことに満足していた。それが、私たちの気遣う唯一の分け前のように思われていた。金持ちになり、財産をたくさん持つことができていたとしたら、私たちはこう云っていたはずである。「魂よ。さあ、安心せよ。お前にはもう足りないものは何もないのだ」[ルカ12:19参照]。

 それが、生まれながらの私たちの状態であった。私たちは死んでいた。だのに、主はそのときの私たちを愛してくださったのだろうか? 私たちの中には主に好印象を与えるものなど何1つなかったというのに。――主の御前で価値ある状態に上れるかもしれないような手がかりなどまるでなかったというのに。その私たちを主は愛されたのだろうか? しかり。主はそうされた。だとすると、主が愛された、その大きな愛の中には、驚くべき恵みがあったに違いない。そのときの私たちは「罪過の中に死んでいた」のだから。

 私たちが霊的な事がらについて死んでいた間、私たちの中には、悲しいかな! 別の種類のいのちがあった。本日の聖句が記されている章を読めば、この死人たちが歩いていると記されていることが分かる。彼らは、歩く屍であった。――奇妙な比喩の混じり合いだが、しかし、間違いなく、不敬虔な人々全員について真実なことである。彼らは、良い人々に対しては死んでいる。だが、彼らの内側にある悪について云えば、いかにそれが生気に満ち満ちていることか! 内なる悪魔はぎらぎらと輝き、彼らの内側の肉はそれでも躍動していた。そして、屍が腐り出して、墓を腐敗で満たすように、私たちの罪は絶え間なく悪の息吹を放散していた。それは神にとってこの上もなく吐き気を催させるものだったに違いない。だが、こうしたすべてにもかかわらず、神は、「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださった」。

 ここで、そうした死んだ状態にあった際の私たちの中に神が見ておられた、醜く不快な物事のほんの一部に言及させてほしい。そうした最低のものの1つは、このことである。私たちは恩知らずであった。恩知らずな人間たちを愛し続けるのは、至難のわざである。もしあなたが彼らに善を施そうと努めても、彼らから何の感謝も受け取らない場合には、――また、もしあなたが彼らに善を施すことをねばり強く続けても、それでもやはり、いくらそうしても、彼らがあなたに対して意地悪である場合には、――なおも彼らを愛し続けるのは木石ならぬ身には無理である。だが、キリストにある私の兄弟姉妹。かつての私たちの心の中には、神に対していかに恩知らずなものがあったことか! 主はいかなる恩顧を私たちに授けられたことであろう。――単に日々の糧や、数々の物質的な祝福のみならず、その恵みから出た本物の霊的な賜物がいくつも私たちに提示されていた。だが、私たちはそのすべてに背を向けた。そして、さらに悪いことに、それらを私たちにお与えになったお方に自分の背を向けた。多くの人々は、年々歳々、いかに悲しい生き方をしていることであろう。これほど豊かなあわれみと祝福を自分たちに与えてくださる神をまるで認めることがないのである! ことによると、時には、「神に感謝します」、という一言が、特にこれといった意味もなく、あるいは、お世辞のように口から出てくることもあるかもしれない。だが、そこには全く心がこもっていない。私たちの中のある者らの恩知らずぶりは、他の人々よりもはるかに大きかった。というのも、私たちは敬虔な両親から生まれ、敬神の念に富む家庭で育てられ、イエスの御名が入り混じっていないような声を幼少期にほとんど耳にしなかったからである。だがしかし、私たちは、長ずるつれて、まさにこうした事がらが、自分を縛るもののように感じられてきた。時には、他の人々の子どもたちがしているように行なうことができれば良いのにと願うことがあった。自分のふるまいを、これほど注意深く見守っている敬虔な友人たちがいるのを残念に思うことがあった。主は、私たちに向かってこう仰せになっても当然であったろう。「わたしは、お前のためにこれほどのことをしてやったのに、お前は何の感恩も表わさなかった。それゆえ、わたしはお前から離れ、こうした恩顧を別の者たちに与えることにしよう」。だが、その大いなるあわれみによって神は、私たちのこれほどの忘恩ぶりにもかかわらず、そのようにはなさらなかった。

 それよりさらに悪いことに、私たちは不平を云い、つぶやいていた。あなたは思い出さないだろうか? 愛する方よ。回心する前には、自分の喜びとなるものが、いかに僅かしかないように思われたかを。このことは、自分の願いと全く正反対に起こった。あのことは、全く自分の気に入らない。また、別のことは、こうあるべきだという自分の考えと合わない。預言者エレミヤは、「生きている人間は、なぜつぶやくのか」[哀3:39]、と尋ねた。しかし、私たちは、こう尋ねていたように思われる。「私たちは、なぜつぶやきをやめるべきなのか?」 私たちは、主から受けた数々の大きなあわれみにもかかわらず、主に向かってつぶやいた。主に反抗し、ますます悪に落ちて行った。つぶやいている者を愛するのは難しいことである。あなたがある人に善を施そうとしても、その人があなたのしてくれたことについてぶつくさ云うだけだとしたら、あなたは、おそらくこう云いたくなるに違いない。「ならば結構。私の親切は、もっとありがたく受け取る人々に施すことにしよう」。しかし、神は私たちに対してそのようにはなさらなかった。「私たちを愛してくださったその大きな愛」は、私たちのつぶやきや不平によってさえ、私たちからそらされなかった。

 そして、その間ずっと、愛する方々。私たちは、霊的な事がらを軽くあしらっていた。あのたとえ話で言及された人々が、結婚の披露宴に招待されたとき、「気にもかけ」なかった[マタ22:5]のと、私たちは同じだった。私たちは地獄から逃れるように警告されたが、それは、あまりにもたわいのない話と思われた。天国を求めるよう命じられたが、私たちはこの世の物事を愛しすぎていたために、それを、目に見えない永遠の喜びと交換する気にはなれなかった。私たちには、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]、と告げられたが、それは耳にたこができるほど聞かされた物語のように思われ、私たちはそれを「陳腐なこと」と呼んだ。キリストをつかみ、キリストのうちに永遠のいのちを見いだすように強く勧められたが、私たちは、「もしかしたら、明日にでも」、と云った。そして、結局は、そうしたことにかまいつけず、自分の都合の良い時が来るまで、自分勝手に神を待たせておくことにするのだった。さて、例えば、もしもある人の健康状態が悪くなり、医者であるあなたがその人を助けに行ったとしよう。だが、相手が自分の病気をただ笑い飛ばして、自分はこんなもの全く気にしないと云う場合、あなたはおそらくこう云うに違いない。「ならば、どうして私がやきもきすることがあるでしょうか? あなたは病気なのです。そして、私はあなたをぜひ治してあげたいと思っているのです。ですが、あなたは治りたくなどないと云われる。ならば結構です。私は、私の持てる腕前の限りを尽くして自分を治してくださいと懇願するだろう別の患者のところに行きますよ。その人なら、私が自分の腕を発揮したときに、感謝してくれるでしょうからね」。しかし、主は私たちに対してそのようにはなさらなかった。私たちの軽いあしらいにもかかわらず、主は真剣であられた。私たちの魂の病を本気で治そうとし、事実それを治された。私たちを救おうと決意していた主は、私たちの無頓着さや鈍感さから出た素気ない拒絶を気にとめることなく、なおも私たちに対して、倦むことなく明らかに示そうとされた。「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」を。

 私たちの人格のおぞましさをさらに悪いものとすることに、――私たちは、その間ずっと高ぶっていた。――暁の子[イザ14:12]ほども高ぶっていた。私たちには、自分の義など何もなかったのに、それがあると思っていた。数々のよこしまなわざによって神から遠く離れていたのに、あの宮に来たパリサイ人のように[ルカ18:11]、神の前に立って、自分が他の人々のようでないことを感謝した! 満足できるものなど何もないのに、満足しきっていた。「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」だったくせに、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」、と云っていた[黙3:17]。悔悟の涙を流すことについて云えば、そのわざは、自分たちよりもずっと深く罪を犯していた者たちにまかせていた。いかなる戒めもみな、小さい時から守っている[ルカ18:21]と想像していたからである。このようにして、私たちは自分を高く上げていたために、《救い主》を軽蔑した。自分を重んじていたために、キリストを軽んじた。そして、そのようにして自分の高慢によって、ちりの中の虫けらであったにもかかわらず、まるでどこかの大人物ででもあるかのように、永遠の御座の前にあえて立とうとしていた。高慢な人を愛することは、世界中で最も難しいことの1つだと思う。たとい一千もの欠点を持っている人であっても、高ぶっていたり自慢たらたらであったりしさえしなければ、愛せるものである。だが、その人が非常に高ぶっている場合、人間性はその人を敬遠するように思われる。だが神は、「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」によって、このように高慢な私たちをも愛し、この罪深い状態にあった私たちをも愛してくださった。

 私たちの内なる高慢よりも悪いものがありえたとしたら、さらに悪いものがあった! というのも、高ぶっていたのと同じく、私たちは欺く者だったからである。「そんなことはありません」、とある人は云うであろう。「それを私たちの責とするのは云いがかりというものです」、と。よろしい。告白しなくてはならないが、私自身がそうであった。私は病気になったとき、自分がこう云ったことを覚えている。もし神が私のいのちを助けさえしてくれるなら、これからは違った生き方をするようにします、と。だが、私の約束は、神が私のいのちを助けてくださったにもかかわらず、守られなかった。心をかき乱すような説教の後で、しばしば私は人目につかずに泣ける場所を求めては、こう云った。「これからは、きっぱりと主のために生きることにします」、と。だが、そうはならなかった。おゝ、いかに何度となく私たちは主に対する約束や誓いを破ってきたことか! 神の子どもたち。回心する前のあなたが、どれほど多くの誓いや契約を結んだことか。だが、あなたの誠実は朝もやか、朝早く消え去る露のようであった[ホセ6:4]。信頼できない人間を誰が愛せるだろうか? だが、神は、「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」によって、これほど幾度もご自分を欺いた私たちをも愛してくださった。

 私が言及してきたこうした事がらは、神の子どもたち全員に付随しているものである。だが、彼らの中のある者らは、それよりさらに大きな罪を犯してきた。私はこの場にいるすべての回心した人に願いたい。自分自身の伝記に目を通してみてほしい、と。ことによると、あなたがたの中のある人々は、まだ若い頃に回心し、他の人々が陥ったようなはなはだしく重い罪から守られてきたかもしれない。だが、ある人々は、酩酊に、不潔さに、あるいは、ありとあらゆる種類の不義に陥ることを許されてきた。私の兄弟。神はあなたを赦して、一切の悪をイエスの尊い血で洗いきよめてくださった。だが、あなたは自分を決して赦せないと感じている。私が、あなたの前に非常に不幸な記憶を持ち出していることは承知している。それについて、あなたはこう云うであろう。「あの夜がなかったならば良いものを! さもなければ、あの日が私の頭上を一度も通り過ぎなければ良かったものを!」、と。願わくは、そうした自分のもろもろの罪を振り返ってみるとき、あなたが深くへりくだらされ、それと同時に、敬虔の念をもって神に感謝できるように。神があなたを愛してくださった「その大きな愛」に対して!

 ある人々は、罪の最果てまで行き着いてしまったかのように思われる。――向こう見ずにも《いと高き方》に真っ向から逆らってきたかに思われる。だがしかし、その極悪の罪にもかかわらず、無代価の恵みは勝利を収めた。ある場合には、罪と恵みの間で厳しい戦いが繰り広げられたように見受けられた。罪はこう云うかのようであった。「俺は、恵みが離れ去るまで神を怒らせてやろう」。だが、恵みはこう云った。「主は怒らされはしても、それでもご自分の恵みの目的を守られます。主が、ご自分の愛の聖定に背を向けることはありません」。キリストにある愛する兄弟姉妹。どうかこの主題を、あなたの個人的な瞑想の主題としてほしい。ある種の事がらは、神の耳以外のいかなる耳にも入れることも正しくないであろう。確かに私たちは、神から取り出される前は、すさまじい滅びの穴にいたからである。神から引き上げられる前は、すさまじい泥沼の中にいたからである[詩40:2]。だから、私たちは賛美して良いであろう。「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」を。

 II. 私たちの瞑想すべき第二の主題は、私たちが「罪過の中に死んでいた」時でさえ、《神が私たちのために何をしてくださったか》である。

 よろしい。まず最初のこととして、神は、私たちをお選びになったことについて、忠実であり続けられた。神は、大地の始まりからご自分の民を選んでおられた。また、何も知らずに彼らをお選びになったのではなかった。彼らがどのような性質の者となるかも、その性質からいかなる行状が育っていくかも、完全にご存知だった。だから、神の民のいかなるひとりに関しても、これまで起こったことのうち、主を驚かせたことは1つもなかった。主は、あらかじめ彼らのあらゆる腐敗や不潔について重々承知しておられた。だから、私が先に述べたようなしかたで彼らが行なうのを見ても、彼らを救おうとするそのご計画をお見捨てにならなかった。このことゆえに、主の御名はほむべきかな。これは、その恵みの驚異の1つである。神はその愛の偉大さを証ししておられる。

 それから次に、神はご自分の選びを悔やまなかったのと同じように、ご自分の民を贖ったことをも悔やまれなかった。聖書にはこう記されている。「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」[創6:6]。だが、主が贖いを悔やんだとはどこにも書かれていない。聖書のどこを見ても、このような箇所は見当たらない。「主は、このように無価値な者たちのために御子を与えて死なせたことに心を痛められた」。しかり。愛する方々。神は、一切の予測もつかないほどの代価をもって私たちを買い取られた。すなわち、ご自分の愛するひとり子の心血をもって買い取られた。それで、確かに私たちは罪から罪へと渡り歩き、一時の間、福音のあらゆる招きに抵抗していたが、神はご自分の愛とあわれみとの計画を見捨てることも、私たちのための贖罪を無効にすることもなさらなかった。

 それからさらに、私たちに対するその大きな愛によって、神は、キリストのもとに私たちを導くまで、私たちが死ぬことをお許しにならなかった。もしかすると、私たちは多くの危険を通り抜け、何度もそれを免れてきたかもしれない。あなたも思い出すように、ジョン・バニヤンはある晩、歩哨に立つことになっていたが、別の兵士が彼の代わりを買って出て、撃ち殺されたのだった。ジョン・バニヤンは、その時には、なぜそうした交替がなされたのか分からなかったが、神は、バニヤンがキリストに導かれるまで死なないように定めておられたのである。無鉄砲な彼は、ある折、毒蛇の牙を素手で抜き取ったこともあったが、何の害も受けなかった。神は、彼がそのように命知らずなうちは、彼を死なせようとはなさらなかったからである。そして、ある人々は難船から、殺人から、熱病から、一千もの形の種々の事故から何と素晴らしいしかたで難を逃れてきたことであろう。それは、神が彼らを滅ぼすまいとしておられたからにほかならない。神は、これから彼らを、羊のようにご自分の囲いに連れ込もうとしておられるからである。少し前にあなたがたに告げたように、私はかつて、かの有名なバラクラヴァ*1の突撃に参加していた紳士と話をしたことがある。そのとき私は、心に感ずるものがあって彼にこう告げた。「確かに、神には、あなたに対する何らかの愛のご計画があるに違いありません。さもなければ、あれほど多くの人々が取り去られた時に、あなたのいのちを守ることはなさらなかったでしょう」。よろしい。いかなるしかたで私たちのいのちが守られてきたにせよ、私たちはそれを神の愛に帰すものである。罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛に。

 その大きな愛の現われは、神が私たちが数多くの罪を犯すのを押さえてくださったしかたにも見てとることができる。私たちは、これまでの経歴の中のある時期、もしもある神秘的なしかたで引き留められなかったとしたら、実際よりずっと悪い罪を犯していたはずであった。そうした種類のことが起こったのが、有名なガードナー大佐の場合である。彼は、非常にはなはだしく重い罪を犯すような約束を1つしたが、主は彼を永遠のいのちに選んでおられた。それで、彼が罪を犯すつもりであったその晩が、彼の神への回心の時となったのである。そして、あなたも、彼がいかに敬神の念に富む、熱心なキリスト者となかったかは知っているであろう。主は、誰かにこう云うべき正しい時を知っておられる。「そこまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」*[ヨブ38:11]。神は、人々の思いと心とに、海のようにご自分のみこころを知らせて、その天来の命令によって動かしたり、静まらせたりされる。あなたがたの中の誰かも、思い起こせるではないだろうか? 私の兄弟たち。いかに神がこのようにあなたを引き留めて、行き過ぎた悪の激発へと至らせないようにしてくださったかを。

 それから、神の大きな愛が見てとれるのは、神がその恵みによって私たちを招き続けてくださったしかたによってである。私たちの中のある者らは、自分がいつ最初に《救い主》のもとに来るよう命じられたかをほとんど知らない。しかしながら、母の涙と、父の祈りとは、そうした幼少の頃に受けた招きの、優しく大切な記憶の中に含まれている。あなたがたの中のある人々は、あの愛に満ちた《日曜学校》教師が、熱心にあなたに嘆願したことを思い出さないだろうか? また、あの敬虔な教役者が、いかにその全身全霊を傾けるかのようにして、《救い主》に身をゆだねるようあなたに懇願したか、思い出さないだろうか? あなたがたの中の他の人々は、いかにキリスト者である友人たちが、良い本や、手紙や、誘いや、説得によって、あなたを追いかけてきたか、忘れることができない。それはあたかも、主が、ありったけの媒介によって、あなたを、あなたの罪の中から狩り立てようとしておられたかのようであった。だが、あなたは身をかわしたり、右へ左へ交互に折れ曲がりながら進んだり、あちらへこちらへ急転回したりすることで、自分の恵み深い《追っ手》をまこうとした。あなたは、狩人が長いことかけても捕えることができない鳥のようであった。あるいは、羊飼いが何日かかっても見つけることのできない迷子の羊のようであった。しかし、この良い《羊飼い》は決して探索をあきらめなかった。あなたを見つけようと心に決めており、実際にあなたを見つけた。この方はあなたを救おうと決心していた。そして、あなたが何をしようと、その決心からそらされなかった。そして、とうとうやって来たそのほむべき日に、あなたを征服してご自分のものとされた。あなたの反逆の武器はあなたの手から落ちた。すでにキリストがあなたをご自分のものとしておられたからである。では、いかにしてそうされたのだろうか? 「その大きな愛」によってである。――その全能の恵みによってである。あなたが罪過の中に死んでいたとき、主の御霊がやって来て、あなたに働きかけられた。だが、よみがえられた《救い主》の御名によってやって来た御霊は、不可抗の愛という全能の力をもって来られたため、あなたはとりことされ、――心から望んでとりことされ、――自分の《天来の征服者》の戦車の車につながれた。そのほむべき時を一度でも忘れて良いだろうか? 私たちは、「幸いな日よ! 幸いな日よ!」、と歌う。そして、そう歌うのが当然である。というのも、この征服こそ、「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」の、第一にして最も重要な証しだからである。

 この尊い真理については、もう語るまい。だが、もうほんのしばし自由になる時間を用いて、本日の主題を実際的に適用してみよう。

 愛する方々。もしも私たちが罪過の中に死んでいたときでさえ、主がこれほど大きな愛によって私たちを愛してくださったとしたら、あなたは、神が私たちを見放して自滅にまかせたりすると思うだろうか? あなたは、そのような考えをいだいたことがあるだろうか? 現在のあなたがいかなる試練の下にあるにせよ、自分は、自分の神から見捨てられるのだなどと考えたことがあるだろうか? やもめとなった私の愛する姉妹よ。あなたは、ご主人が死んだ今、主があなたを捨ててしまうだろうと恐れているだろうか? そちらにいる愛する方よ。――あなたは、商売で重い損失をこうむっている。――あなたは、主があなたを最後まで助けてくださることを信じていないのだろうか? 神は、あなたが罪過の中に死んでいたときにあなたを愛したというのに、今あなたを見捨てようというのだろうか? あなたは、詩篇作者とともにこう尋ねることになるとでも考えているのだろうか? 「主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか」[詩77:8-9]。もしもあなたがこのように語っているとしたら、自分に向かって問うがいい。ひとたび神がその愛のわざを始めた以上、それを完成させるつもりがなかったなどということがあるだろうか? あるいは、結局、あなたを投げ捨ててしまうつもりだったなどということがあるだろうか? 初めからそうする意図があったとしたら、あなたに働きかけ始めるなどということを神がなさったと思うだろうか? 神は、あなたに何が起こるかすべて知っていたし、あなたが何をすることになるかすべてご存知であった。だから、神の不意をつくようなことは何も起こらないのである。あなたのあらゆる試練、また、あなたのあらゆる罪が初めから神に知られていたにもかかわらず、なおも神はあなたを愛された。あなたに起こる一切のことを見越していながらそうされた。ならば、いま神が、あるいは、これから神が、あなたをご自分のもとから投げ捨てるなどとあなたは思うだろうか? そのようなことがないことを、あなたは知っているはずである。

 また、もし神が、罪過の中に死んでいたときさえ、あなたを愛されたとしたら、神は、ご自分の栄光のためになり、あなた自身と他の人の益となるいかなるものをも、あなたに拒んだりされるだろうか? あなたはこれまで祈ってきたが、自分の求めたあわれみが決してやって来ないのではないかと恐れている。しばし考えてみるがいい。――あなたが生まれる何世紀も前から、あなたのためにご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、今やご自分に対して生きた者となっているあなたに、あなたが当然求めて良いすべてを恵んでくださるではないだろうか?[ロマ8:32] ジョージ・ハーバートは語っている。葉っぱは露を求めることはできないが、葉の上には露が降りる、と。だが、あなたは神に向かって、その恵みを与えてくださるよう呼び求めているのである。では、その恵みは、神がお送りになるときには、露が降りるようにふんだんにあなたのもとにやって来るはずではないだろうか? 神は、地面がその無言の口を開くとき、水で潤されるだろうか? 「黙(もだ)し追わるる家畜ら」にも食物を供してくださるだろうか? ならば、あなたが愛する御子の御名で神を呼び求めるとき、神はあなたの叫びと祈りに耳を傾けてくださるではないだろうか? もしあなたが腐敗の人であったとき神があなたを愛されたとしたら、今や神は、あなたのうちに天の相続人を有しておられるとき、また、ご自分の御子に似たものにあなたを形作られた以上、あなたの願いに答えてくださるではないだろうか? おゝ、愛する方々。慰めを受けるがいい。そして、いかなる意気阻喪した思いも、不信仰も、あなたの心をよぎらせないようにするがいい!

 さらに、もし主がこのようにあなたが罪過の中で死んでいたときでさえあなたを愛されたとしたら、今あなたは神を大いに愛すべきではないだろうか? おゝ、神の愛よ! 使徒は神が私たちを憐れんだとは云っていない。それは真実ではあるが。使徒は主が私たちに同情したとは云っていない。それもやはり真実ではあるが。むしろ、パウロは「その大きな」について語っている。私は、神が私を憐れむことは完璧に理解できる。神が私に同情されることは完璧に理解できる。だが、神が私を愛してくださることは合点がいかない。それが何を意味しているか考えてみるがいい。――神があなたを愛されるのである。他の一切のものにまさって甘やかなものが愛である。――母の愛、父の愛、夫の愛、妻の愛、――だが、こうしたすべては、神の愛のかすかな象徴でしかない。あなたは、自分にとって愛しい人から受ける地上の愛によっていかに大きく喜ばされるかを知っている。だが、パウロは、神があなたを愛されると云うのである。天と地を造ったお方、その前ではあなたが蜻蛉でしかないお方が、あなたに情愛を寄せてくださるというのである。この方は、あなたを愛するあまり、あなたのために大きな犠牲を払ってくださった。日々あなたを祝福してくださる。そして、あなたがいなければ、天国にいたくはないと思ってくださる。それほど親愛で、それほど強い愛を神はあなたにいだいておられる。そして、それは、あなたが罪過の中に死んでいたときでさえ、そうだったのである。おゝ、ならば、あなたに対するその「大きな愛」へのお返しに、あなたは神を大いに愛したくはないだろうか? 愛する神のためなら、辛すぎて我慢できないことなどあるだろうか? これほどあなたを愛してくださった神のためなら、困難すぎて行なえないことなどあるだろうか? 愛する主よ。私たちは自分をあなたにささげます。それが私たちにできる唯一のことです。

 あなたが黙想すべきもう1つのことは、私の愛するキリスト者たち。このことである。もし神が、罪過の中に死んでいたときでさえ、これほどあなたを愛してくださったとしたら、あなたは自分にひどい仕打ちをする人々をも愛すべきではないだろうか? この世にいる多くの人々は、まるで醜いことしか行なえないかのように見える。その性質には、ただの一点も寛大な所がない。へそ曲がりで、年がら年中云い争いをしている。そして、彼らと穏やかに暮らしたいと思っている人は、時々それが非常に困難であることに気づく。私の知っている何人かの優しい霊は、自分の親族か仲間から云われるか行なわれるかする、無情で残酷なことによって深く傷つけられる。よろしい。愛する方々。もし私たちの中の誰かがこのような目に遭うとしたら、そうした残酷な人々を愛そうではないか。彼らの不親切を私たちの愛で覆うことにしよう。というのも、もし神が、罪過の中に死んでいたときでさえ、――私たちの中に愛せるようなものを何も見ることができなかったときでさえ、――私たちを愛してくださったとしたら、私たちも神ゆえに他の人々を愛するべきである。たとい、一千もの欠点を彼らの中に見てとるとしても、こう云わなくてはならない。「神が、キリストのゆえに私たちを赦してくださったように、私たちもあなたを赦します」、と。自分に苦痛を与えた、いかなる不親切な言葉や行為も、永遠の忘却の中に埋葬できるというのは、大したことである。もしあなたがたの中の誰かが、他の人に対する怒りの思いを心に有しているとしたら、――もしあなたが何らかの恨みをいだいているとしたら、――もしあなたが受けた数々の不正を記憶にとどめているとしたら、――もしあなたを苛立たせ、深く悲しませるものが何かあるとしたら、来て、それをことごとくイエスの墓に葬るがいい。というのも、もしもあなたが罪過の中に死んでいたときに主があなたを愛してくださったとしたら、あなたが自分の同胞のあわれな罪人を赦すことは、その半分も驚くべきことにはならないからである。いかにあなたが意地悪な目に遭わされてきたとしても関係ない。

 私の最後の言葉は、まだ回心していない人々に対するものであり、それは非常に甘やかで、尊い言葉である。回心していない方々。あなたは自分が決してこう云う必要がないことを見てとっているだろうか? 「私はイエス・キリストを通して神のもとに行くなどという大それた事はできません。私の中には何も良いものがないのですから」、と。あなたは決してそう云う必要はない。というのも、パウロは、「罪過の中に死んでいたこの私たちさえ愛してくださったその大きな愛」について語っているからである。さて、もし神の民の全員が、罪過の中に死んでいたときに神から愛されたとしたら、神がその愛を給う条件、あるいは、理由として、人の内に何か良いものがあることを要求なさるなどということが考えられるだろうか? 天国にいる聖徒たち全員について、こう云うことができるであろう。神が彼らを愛されたのは、神がそうしようと思われたからである、と。というのも、生まれながらの彼らは、神から愛されるべきものを、地獄にいた悪鬼どもと同じ程度しか持っていなかったからである。そして、地上にいる神の聖徒たちについて云えば、もし神が彼らを愛しておられるとしたら、――そして、神は実際に愛しておられるが、――それは単に、神がそうしたいと望んでおられるからでしかない。というのも、生まれながらの彼らには、何の良い点もないからである。神は彼らを、その大いなる愛に満ちた性質の無限の主権によって愛される。よろしい。ならば、あわれな魂よ。なぜ神はあなたを愛さないことがあるだろうか? そして、神がみもとに来るようあなたに命じておられる以上、いかにあなたが一切の良いものに欠けているとしても、神のもとに来て、迎(い)れられるがいい。この聖句によって、何かを行なって神の愛をかちとろうなどという考えを、ことごとく、すっぱり頭から叩き出すがいい。そして、もしあなたが自分を全人類の中で最低最悪の最も下劣な者だと感じているとしたら、私はあなたがそう感じていることを嬉しく思う。というのも、主は、自分をむなしくした、また、神の御前で申し立てるべき自分の美点を何1つ持たない者たちをご覧になることを愛されるからである。こうした者たちこそ、神の愛を尊ぶことになる人々であり、こうした者たちの上にこそ、神はご自分の愛をお授けになるのである。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」[マコ2:17]。病院は、病んだ人のためのものであって、健康な人のためのものではない。そして、主イエス・キリストが開いておられる《病院》は、不治の病人たちのためのものである。――人間の道徳だの、外的な宗教だのといった一切の薬では治らない者たちのためのものである。キリストはそうした者たちに、みもとに来るよう命じておられる。ご自分で彼らを健康にするためである。

 私は、いま罪人に対する神の愛について語ることで、その人を主イエス・キリストのもとに行かせることができれば良いのにと思う。だが、きわめて平易で簡単な筆遣いをすることにして、この講話をしめくくることにしよう。話をお聞きの方々。この時点まであなたが何をしてこようと、――たといあなたが神を蔑んできた、不信心な冒涜者だったとしても、――たといあなたが罪に罪を重ね、いくつもの巨大なそむきの罪によって地獄のようにどす黒い者となり果てているとしても、――それでも、そうしたすべてのことは、決して神があなたを選んでおらず、あなたを愛しておられない理由にはならない。また、そうしたすべては、神が今あなたを赦し、あなたを受け入れてくださらない理由になるだろうか? 否。神はそれをご自分のみことばの中でこう云い表わしておられる。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。ならば、来るがいい。あなたがた、罪人たちの中でも最もどす黒い人たち。――あなたがた、自分が祈りの家にいるなど場違いだと感じている人たち。――あなたがた、あの宮に上った取税人のように、その目を天に向けることもほとんどできずにいる人たち[ルカ18:13]。――あなたがた、有罪宣告を受けている人たち。自分には何の希望もないと恐れている人たち。――私にこう請け合わせてほしい。あなたのうちには、神のあわれみが明らかに示される余地があるのだ。その恵みが働けるゆとりがあるのだ、と。ありのままの自分でイエスのもとに行くがいい。主ご自身の血によって成し遂げられた贖罪を受け入れるがいい。そして、今ここで救われるがいい。というのも、主はいつくしみ深くあろうと待っていて、こう云われたからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。何年も前のことを思い出す。その時の私は、今晩ここまで語ってきたような真理を聞くことができさえすれば、この両目を失っても惜しくないと思っていた。誰からそれを告げられるかなど、どうでも良かった。たといそれが、どもる舌と、間違った文法の人であったとしても、私にこう云ってくれさえしたらかまわなかった。「救いは神の恵みによるのです。あなたの功績によるのではありません。それは神のいつくしみであって、あなたの聖さではありません。あなたはただ、キリストが行なわれたことにより頼みさえすれば良いのです。というのも、神は罪過の中に死んでいたあなたをさえ愛してくださるからです」、と。――もし私がそれを知っていたとしたら、私は、神との平和をずっと早く見いだしていたことだろうと思う。誰か、このように云う人がいるだろうか? 「ですが、私は、このことを、あのことを、そして別のことを感じたいのです。行ないたいのです。見いだしたいのです」。あなたはそうした種類のものを何も必要としていない。罪人よ。キリストがすべてを行なってくださった。何であれあなた自身の功績をキリストのもとに持って行くことは、屋上屋を重ねるよりも悪い。ただ、ありのままのあなたでやって来るがいい。むなし手の罪人、破産した罪人、飢えた罪人、地獄の門の真前にいる者としてやって来るがいい。このことは真実だからである。――

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり。
    汝れにもこの瞬間(とき) いのちあり。
    見よや、罪人。――主を見て 救(い)きよ。――
    釘をば打たれ 木につく主(きみ)を」。

 


(訳注)

*1 バラクラヴァ。クリミアのセヴァストポリの南東にある村、黒海に臨む海港。クリミア戦争の古戦場(1854)。テニソンの詩 'Charge of the Light Brigade' で有名な英軍騎兵隊の突撃があった。[本文に戻る]

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「その大きな愛」[了]

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