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聖徒たちに対する神の愛

NO. 2959

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1905年10月26日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年7月11日、主日夜


「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」。――Iヨハ3:16


 真の愛は、長く潜伏していることができない。それは、火に似て、活発な性質をしている。働かずにはいられない。愛は、自分を表わすことを切望する。押し黙っていることができない。愛に向かって何も表わすなと命じるのは、死ねと云うようなものである。それで真の愛は、自らを言葉で表わさずには満足しない。それは言葉を実際に用いる。だが、言葉のひ弱さも痛感している。というのも、愛の完全な意味は、人間の言語では伝えられないからである。愛の意味するところを、余すところなく言葉の上に載せたとしたら、その背骨をへし折り、微塵に粉砕してしまう。愛は、行為によって自らを表わさざるをえない。私たちの古い格言がこう云う通りである。「行動は、言葉よりも大きな声で語る」。また、愛は犠牲をも喜ぶ。自己否定を喜びとする。自分のふところを全く痛めないようなものをささげようとはしない。苦痛や、損失や、十字架に耐えることを愛し、そのようにして最も自らを表わす。

 これは、単に人間たちについて云えるばかりでなく、神ご自身にさえ至る1つの一般原則である。というのも、「神は愛」[Iヨハ4:8]だからであり、愛であられる神は、愛を明らかに示さずにはいられないからである。また、神は、ただご自分の愛について語るだけでは安んじられないからである。それだけでなく、神は、ご自分にできる最大の犠牲を払い、ご自分のひとり子を罪人たちの身代わりに死ぬよう引き渡さない限り、安んじることがおできにならなかった。そうし終えたとき、初めて神は、ご自分の愛のうちに安らぐことがおできになった。神は決して私たちのもとにやって来て、こう仰せにはならなかった。「人間たちよ。わたしはあなたがたを愛している。それで、あなたは、わたしがあなたを愛していることを信じなくてはならない。わたしは、あなたに対する愛を証明するようなことを何も行なわないが」、と。神は実際、ご自分の愛を信ずるよう私たちに求めておられる。だが、その証拠をあふれるほど与えてくださった。それゆえ、神は、私たちがそれを信ずるよう要求する権利をお持ちである。本日の聖句が含まれている章を書いた愛の使徒はこう告げている。「これによって私たちに分からされたのです」。――それが、原典の文字通りの翻訳である。――「これによって私たちは、神の愛を知るようになったのです。現実に知っているのです。なぜなら、神が私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになったからです」*。さながら、ある人々が私たちのために喜んで犠牲を払おうとするのを見るとき、その人々の愛が分かるように、神ご自身の愛も、それと全く同じようにして分かる。私たちが、私たちに対して神のいだいておられる愛を発見し、識別し、察知し、知らされるのは、「神が私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになった」、という事実によってなのである。

 I. 第一に、私が示したいのは、《神の多くの行為の中には、その愛が非常に明らかに示されているが、ほとんどの人はそこにその愛を見てとることができない》ということである。

 神の行為の多くについては、こう云うことができる。「それによって、神の愛は明らかに示されています」、と。だが、多くの人々は、そうした行動の背後にある愛を察知できない。私たち自身を吟味してみよう。この件において、自分はいかなる状態にあるだろうか? 私たちの中のある者らは、誕生したときに自分が至らされた環境のうちに、自分に対する神の愛を察知すべきである。私がいま語りかけている中の多くの人々は、私自身と同じように、親がキリスト者であったことに、非常に大きな恩恵をこうむっている。私たちの中の多くの者らはまことに、あの子ども賛美歌の歌詞のように、こう云うことができる。――

   「わたしと違い 幾万(おおく)の人は
    神を知らない 国に生まれて、
    むなしい祈り 教わりました。
    木切れや石の かたまり信じて」。

しかし、奴隷や異教徒に生まれつかなくとも、ロンドンの貧民靴で子供時代を過ごさざるをえないこともありえたであろう。あなたがたの中のある人々は、自分がずっと善良だったと思っている。だが、もしあなたが、わが国の感化院にあふれている少年たちや、わが国の監獄に満ちている人々と同程度の教育しか受けていなかったとしたら、――というよりも、彼らと同じくらい教育に欠けていたとしたら、――果たして彼らよりもまともになっていただろうか? もしもあなたが彼らの有していたような模範を有していたとしたら、――もしもあなたが最初に耳にしたのが冒涜の言葉だったとしたら、――もしもあなたが泥棒たちの情報交換所で暮らしてきたとしたら、――彼らよりも咎を免れてきただろうと思えるだろうか? 私たちが他の人々を見下し、軽蔑するとき、もしかすると、彼らの受けてきたすべての誘惑、彼らの生まれ育ったすべての状況を知るならば、今よりも悪くならずにいたことで、ほとんど彼らを尊敬して良いかもしれない。人によっては、正直であるために大きな代償を払わなくてはならない。また、ことによると、私たちは、このすさまじいロンドンの中にいる多くの婦人たちのことを悪く考えているかもしれないが、それにもかかわらず、彼女たちはほとんど殉教者のような苦しみを受けてきており、誘惑との厳しい戦いを戦い抜いてきたのであって、たといどこかで堕落してしまったとしても、それ以上に堕落していないことで尊敬されるべきなのである。

 しかし、私たちにとって、これは何という祝福であったことか。私たちがこの世で目を覚ましたとき、私たちが見上げた顔は私たちに微笑みかけてくれ、その唇は、じきに私たちにイエス・キリストのことを語ってくれたのである。私たちが最初に有した模範は、今日に至るまで、私たちが見習いたいと願うようなものであった。私たちは、年少の頃から、敬虔な性質の人々に囲まれていた。その中にいて、今は天国にいるある人々は、私たちの人格形成に大いに関わり、そうした人々ゆえに私たちは常に感謝すべきである。さて、私たちが賢明であったとしたら、――この恵み深いご配慮の意味を理解していたとしたら、――自分が生まれ育った境遇そのものの中にも、自分に対する神の愛を察知していたことであろう。だが、私たちの中の多くの者らはそうしなかった。あなたがたの中のある人々が、あのように厳格な家庭の中に置かれ、人生の快楽――とあなたがみなすもの――を抑制され、それから遠く引き離されてきたからといって、不当な扱いを受けてきたと考えているとしても、私は驚きはしない。多くの青年は、自分が母親の前掛けの紐にあまりにも固くつながれすぎていると感じてきた。自分は他の青年たちが楽しくやっているのを目にしても、そうはできなかったのだ。父親は、容赦ない看守のように、常に自分から目を離すことがなかったのだ。それこそ、私たちの中の多くの者らの、無知だった頃の云い草である。だが、神が私たちの目を開いてくださった今、私たちはそうしたすべての中に神の愛を見てとることができる。だが、そのときはそれを見てとらなかった。そして、一般的に云って、キリスト者の親とキリスト教的な教育という特権にあずかっている青年男女は、その中に神の愛を察知することがなく、しばしばそれに反抗し、これほど大きな辛苦――と彼らがみなすもの――を耐え忍ばなくても良ければいいのにと願う。

 それから、愛する方々。神の愛が、私たち全員について明確に見てとれるのは、私たちに賢明で思慮深い律法を与えておられることにおいてである。あの十戒という律法は、人の子らに対する大きな親切の賜物である。というのも、それは最も賢く、最も幸いな生き方を告げているからである。それが禁じているものは、私たちの害となるもののほか何もなく、それが差し止めているものの中に、私たちにとって真の楽しみとなるものは何もない。「あなたは〜してはならない」、あるいは、「あなたは〜せよ」、といった命令は、時として海水浴場に立っている立て札のようなものである。そこには、「危険! ここから何々米以内に近づくべからず」、という言葉が書いてある。神が律法を作られたのは、真に私たちの益となるだろうものを私たちに与えないためではない。あなたの庭には、毒苺が生っており、あなたの子どもはそれを食べてはならないと告げられている。もしその子が賢い子どもなら、毒苺を食べるなと云われても、それが自分に対するあなたの愛であると理解するであろう。もしあなたがその子のことをまるで気遣っていなかったとしたら、その子は好き放題にどんな毒でも食べかねない。だが、その子を愛していればこそ、あなたはその子に云うのである。「坊や。これをしてはいけないよ。あれをしてはいけないよ。もしそれに従わないと、お前のからだにとても悪いことが起こり、もしかすると死んでしまうからね」、と。私たちは、律法という賜物のうちに、神の愛を見てとるべきである。だが、いかなる人も、それとは違うしかたによって神の愛に導かれない限り、そうすることは決してない。私たちは、こう云うべきではあるが、それができないのである。「それによって私たちに愛がわかったのです」、と。

 私たちは、また、天来の摂理の、日ごとの気前の良さの中に、神の愛のあふれるほどの明らかな現われを有してきた。もし私たちの目が本当に開かれていたとしたら、一個一個のパンも、私たちの御父の配慮のしるしとして私たちのもとにやって来るし、私たちの飲み水の一滴一滴も、私たちの御父の気前よさのしるしとしてやって来るであろう。私たちは御父の愛によって着物をまとわされてはいないだろうか? 私たちの鼻の中にある息――それを私たちに与えるのは、私たちの《創造主》でなくて誰だろうか? 私たちを健康のうちに保つのは、私たちの偉大な《恩恵施与者》でなくて誰だろうか? あなたが今晩、病の床に就いていないのは愛の証しではないだろうか?――あなたが癲狂院にいないのは、――墓場の瀬戸際にいないのは、――左様、地獄に落ちていないのは、どなたのおかげだろうか? 私たちは悲惨の塊、罪の塊である。あわれみと忘恩が混ぜ合わされて作られているかに思われる。しかし、もし主が私たちの目を開いてくださるなら、私たちは自分の受けている無限のあわれみが分かり、神の愛が分かり始めるであろう。だが、これは人が神の愛を見てとる最初の場所ではない。十字架こそ、神の愛が最も良く見える鋭尖窓である。だが、その窓が開かれるまで、神の摂理のいかなる気前よさも私たちに神の愛を確信させはしない。見るがいい。いかにおびただしい数の人々が自分たちの収穫を刈り取りながら、収穫を与えてくださる神のことは決してほめたたえないことか。見るがいい。いかに彼らが満載の大荷車を御して穀物倉へ行き、麦を脱穀し、それを市場に送って売らせるかを。だが、彼らが最初の新穀を売りに市場に持って来たとき、賛美の歌が歌われるのを一度でも聞いたことがあるだろうか? そのようなことについて噂にでも聞いたことがあるだろうか? 何と、人はマーク小路[穀物取引所がある]に新穀の見本が到着したとき、私たちがこう歌い出すとしたら、私たちの頭が全くおかしくなったと思うであろう。――

   「たたえよ 恵みのもといなる神を」。

おそらく、そこにいる人々の多くは、その麦が一、二シリング下落したからといって、また、貧しい人々が多少とも安くパンを手に入れるようになるかもしれないからといって、悪態をついていることであろう。神をたたえることは、廃れてしまっているように思われる。そして、私たちは、しかるべく物を知っているはずの哲学者たちから、麦はひとりでに生えてくるのであって、神とは何の関係もないのだと告げられるのである。彼らによると、雨が降ろうと太陽が照ろうと、自然界の諸過程は鉄の法則によって支配されており、その法則に神は何の関心も持っていないのだという。彼らは実質的にはこうほのめかしているのである。神は休暇に出かけており、世界を自力でやりくりさせているのだ。あるいは、目覚まし時計のように、その螺旋を巻き上げ、自分の枕の下に突っ込んで眠ってしまったのだ、と。それが哲学者の宗教である。そして、私に関する限り、哲学者たちは勝手にそれをいだいているがよかろう。それは私の宗教ではない。私の宗教が信じるのは、雨を降らせる神であり、太陽を照らす神であり、収穫を与える神である。私が信じるのは、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」[Iテモ6:17]である。それゆえ、その御名がほめたたえられるように。私たちの心が神と正しい関係にあったとしたら、私たちは「それによって」神の愛が分かるはずである。だが、私たちには分からない。それが分かる光は、色付き硝子を通して私たちのもとにやって来る。キリストの尊い血によって真紅の色がついた硝子である。その場合には、また、その場合にのみ、私たちは神の愛が分かる。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てにな」ったからである。

 II. そこから私の第二の点に至る。すなわち、《ご自分のいのちをお捨てになることにおいて、キリストの愛は最も良く見てとれる》

 すでに云ったように、神の多くの行為の中に、神の愛は見てとれるべきである。だが、この聖句によると、私たちが「それによって」神の愛が分かるのは、「キリストが、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになった」*からである。これは、あまねく認められていることだが、人が、愛する者のために自分のいのちを捨てることよりも大きな愛の証拠はどこにもない。いかなる種類の犠牲も愛情の証拠にはなるが、いのちを放棄することは愛の至高の証拠であって、誰にも疑うことはできない。人は祖国を愛していると云うかもしれない。だが、かりにその人が、古代ローマの寓話にいうクルティウスの立場にあったとしよう。そのとき、公広場に巨大な亀裂が口を開き、これを閉じるにはローマで最も貴重なものをそこに投じるしかないと宣言された。その物語によると、クルティウスは軍装を固め、軍馬に跨り、その亀裂の中に飛び込んだ。すると、それはぴたりと閉ざされたという。よろしい。誰もそのような人の祖国愛を疑うことはできないであろう。もし問題が人類愛だとすれば、マルセイユにいたひとりの医師の話がある。――これは実話だが、――もし私たちが彼が行なったように行動するとしたら、誰も同胞に対する私たちの愛を疑うことはできないであろう。その町では疫病が猛威を振るっており、人々は何千人単位で死につつあった。有徳の司教は彼らの間にとどまり、死に行く者への最後の務めを果たし、生きている者を励ましていた。また、その町の医師たちの多くも、去ろうと思えばできたのに、とどまって病者の看病に当たっていた。彼らの間の協議において、この悪疫の最悪の症例であった者の検死解剖を行なうことが決定された。だが、問題は誰がそれを行なうかであった。というのも、それを行なう者は誰であれ、数時間以内にその病気のため確実に死ぬに違いなかったからである。彼らの中のひとりが、立派なことに、こう云った。「私のいのちは、他のどなたのいのちほどの値打ちもありません。もしそれを犠牲にすることで、この恐ろしい悪疫の原因を究明し、町を救えるとしたら、どうしてそうせずにいるべきでしょうか」。彼はその気味悪い務めを果たし終え、その症例に関する自分の所見を覚え書きに認め、それから自宅に帰って死んだ。誰も彼がマルセイユを愛していたことを疑いはしなかった。彼はそのために自分のいのちを捨てたからである。そして、おそらくあなたも先日、ひとりの母親の愛の物語について読んだことであろう。その愛も、誰にも疑えないものである。先の大水害において、揺りかごに乗せた二人の幼子をかかえた、ひとりの母親がある丘を上りつつあった。彼女は、一本の木か、何か他の頼りない避難所に達した。愛しい二人の愛児をささげ持っていた彼女は、自分が乗っている土台が彼女と二人の幼子を支えるだけ強くないことを発見した。それで、二人をできるだけ危険から遠い所に置くと、彼女は濁流に飛び込み、すぐに姿が見えなくなったのである。誰もこの母親の愛を疑うことはできないであろう。自分の子どもたちのために彼女はいのちを捨てたのである。これは、愛の証拠の絶頂である。いかなる「天の邪鬼」も、この真理に異論を唱えるために立ち上がりはしないであろう。他の人々のために死ねる人は、確かに自分がいのちを捨てる人々を愛しているに違いない。

 さて、私たちの主イエス・キリストは、罪人たちに対するご自分の愛を証明するため、彼らに代わって死なれた。この物語をもう一度あなたにして聞かせる必要があるだろうか? おゝ、私の兄弟姉妹たち。自分でそれを読むがいい。何度となく読むがいい! それは四度も記されているが、決して多すぎはしない!――野蛮なしかたで十字架に釘づけられ、血を流していのちを捨てた「神の御子の物語」である。その物語を読み、見てとるがいい。いかにこの方が私たちに対するその愛を証明されたかを。

 しかし、キリストの死におけるいくつかの点は、非常に並外れたものであり、ここまで言及してきた何物にもまさる愛の証明である。その最初のものはこうである。イエスには全く死ぬ必要がなかった。あのマルセイユの医師が死んだとき、彼は単に、もうほんの数年もすれば必然的に起こったに違いないことを行なったにすぎない。あの母親が身を捨ててもその子どもたちを救ったとき、彼女は、自分の寿命よりほんの何週間か、何箇月か、何年か早くそうしたにすぎない。というのも、定命のものである以上、彼女は死ななくてはならないからである。たとい私たちが自分のいのちを他人のために与えるとしても、本当は自分のいのちを与えているのではない。自然の負債を、本来よりも多少早めに支払っているだけである。だが、それは主イエス・キリストの場合、全く異なっている。主に対して、死は何の力も持っていなかった。パウロは主について、「ただひとり死のない方」[Iテモ6:16]、と書いている。この方が自ら同意しなかったとしたら、誰がこの《いのちの君》[使3:15]である神の御子におのれの手をかけて、「お前を死なせてやる」、などと云えただろうか? いかなる者もそのようなことはできなかったであろう。キリストの死は、純粋に自発的な行為であった。――単に十字架上で死ぬことばかりでなく、そもそも死ぬこと自体が、主による自発的な行為であった。そして、その結果、それは私たちに対する主の愛を著しく示す証拠となっているのである。

 さらに思い出すべきは、私たちの主の場合、主が死なれた者たちの方には、主に対して何も要求する権利がなかったということである。母親が自分の子どもたちのために死ぬことは理解できる。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」[イザ49:15]。気高い市民が自分の町のために喜んで死のうとすることも、どうにか納得はできる。カレーの主立った六人の市民が、首に縄をかけてエドワード三世のもとに行き、同胞市民たちに代わって死ぬことを申し出たとき、彼らの行動は理解できる。彼らはその共同体の指導者ではなかっただろうか? 彼らが就いていた責任と名誉ある立場は、確かにそうした犠牲を正確に要求してはいないものの、少なくとも、真に気高い精神の持ち主にとっては、そうすべきであるとの思いをはなはだ強くさせるようなものではなかっただろうか? しかし、私たちの主イエス・キリストに、そうした要求をするものは何もなかった。エレノア女王が、自らのいのちを危険にさらしても、夫の傷口から毒を吸い出したとき、彼女がそうした理由は分かる。彼女にそうする義務があったとは云わないが、夫と妻の結びつきからして、彼女の行動の説明はつく。しかし、神の御子イエス・キリストと私たちの間に何か結びつきがあるとしたら、それは主がそのような結びつきを自らお選びになるからでしかなかった。そして、主は無限の同情ゆえに、私たちと結びついてくださったのである。それまで、主と私たちの関係は、陶器師と粘土の関係でしかなかった。そして、ろくろの上の粘土が出来損ないになるとしたら、陶器師はそれを取り上げて、すみに投げつけることしかしないではないだろうか? そのように、大いなる《創造主》も私たちに対して行なってしかるべきであった。だが、そうする代わりに、主はご自分の血を流しても、私たちを、ご自分にとって有用な、尊い器にしようとされた。おゝ、神の御子よ。いかにしてあなたは、これほど低く身をかがめて、私たちの性質を取り、その性質において血を流して死ぬことなどおできになったのでしょうか? そのとき私たちとあなたとの間にあった隔たりは、蟻と智天使の間、あるいは、蛾と御使いのかしらの間よりも無限に大きかったというのに。それでも、あなたは、何の要求に迫られることがなくとも、あなた自身の自由な意志によって、ご自分を死に服させてくださいました。私たちに対するあなたの驚くばかりの愛ゆえにです。

 キリストの愛について、もう1つ異常なことは、主に向かって、その死を懇願する者はどこにもいなかったということである。先に引用した他の場合において、口ではどのような訴えもなされなかったと云われるかもしれない。揺りかごの中の幼子たちは、自分たちのため死んでくれと母親に云ったわけではない。しかり。だが、その子たちの姿だけで、その母親にとっては十分な訴えであった。疫病のため死にかけていた町の場合、あの医師は――検死によって、その悪疫の秘密を発見できると信じていたこの人物は――町通りを歩けば、不吉な十字のしるしをつけた戸口という戸口を目にし、やもめや子どもたちの泣き叫ぶ声を耳にしていながら、それらが何にもまして切々と自分の心に訴えているのを感じずにいられただろうか? しかし人間は、自分のために死んでくれるようにとは、全く神に対して訴えなかった。私たちの父祖アダムは――そして、彼は私たち全員の代表者であったが――神の御前に崩れ折れて、こう云いはしなかった。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください[ルカ18:13]。おゝ、神よ。私はあなたにそむきの罪を犯しました。どうか私のために《救い主》をお与えください。そして、あなたの御怒りからお救いください!」 いかなる祈りもアダムの唇からは出てこなかった。罪の告白さえなされなかった。ただ、自分の不従順の責めを神に転嫁しようとする、よこしまで卑劣な試みがなされただけであった。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」[創3:12]。通常、人間性はせいぜいそうしたことしか行なわない。自分が《救い主》を必要としていると認めようとはしない。自分の犯した罪が、なだめの犠牲を必要とするほどのものであると告白しようとはしない。その結果キリストの愛は、こうした人間のむっつりした態度によって――何事かによってそうされることがありえるとしたら――麻痺させられていても当然だった。あなたはあわれみを請わなかった。――贖いを乞い求めなかった。――自分の罪のためのなだめを願わなかった。それでも、イエスは来られた。頼まれも、願われも、求められもしないのに、ご自分のいのちを罪人たちのために捨ててくださった。

 また、注意するがいい。イエス・キリストは重々承知しておられた。たといご自分のいのちを捨てても、主が、ご自分の死なれた者たちから愛し返されるには、主ご自身でその愛を作り出さなくてはならないということを。そして、主はこのことをご自分の民の心の中で行なってくださった。だが、放っておかれた他の者らの心の中には、イエス・キリストに対する何の愛もない。ここでは、安息日ごとに、死に給う《救い主》を、死に行く罪人たちに対して宣べ伝える特権が私たちに与えられている。だが、私たちの話を聞いている人々の一部にとって、それは、この世のありとあらゆる主題の中でも、最も感銘を与えること少ないもののように思われる。かりに私たちがここにやって来て、ハワードの献身的な行為について語ったとしたらどうであろう。わが国の監獄にいる囚人たちの悲惨な境遇を必死に改善しようとしたこの博愛主義者に、多くの人々は感動し、彼を賞賛するであろう。だが、ほとんどの人々は、いかに僅かしか私たちの甘やかな主なる《主人》を賞賛しないことか! それは聞きあきた話だ、とあなたは云う。聞きすぎて、もう何の関心もないというのである。さて、子どもたちのために死んだ、あの母親は、その子たちが自分を愛しているのを感じていた。この二人は自分の胸に抱かれている間、そのキャッキャッという声や、微笑みによっていかに愛しい思いをかきたててくれたことであろう。それで彼女は、その子たちのためなら自分のいのちを捨てても惜しくないと感じたのである。しかし、私たちの主イエス・キリストは、ご自分が石のような心をした怪物たちのために死のうとしていることを知っておられた。彼らが主の愛に対して返す報いは、放っておけば、主に対する徹底した拒絶しかないであろう。彼らは主を信じないであろう。主の義よりも、自分自身の義に頼ろうとするであろう。そして、種々の秘跡や儀式によって天国に至る道を探そうと努め、主が罪人たちのためにいのちを捨ててまでして作られた、功績の犠牲を信じる信仰のことはかまいつけないであろう。

 また、思い出すがいい。私たちの主は、人々のために死なれたのと同じく、人々の手にかかって死なれた。あのマルセイユの医師は、自分の同胞市民によって殺されたのではなかった。あの母親は、自分の子どもたちの手によって死んだのではなかった。クルティウスは、あの亀裂に飛び込んだとき、怒り狂う同胞市民たちから突き落とされたのではなかった。それとは逆に、人々はみな彼らが生き長らえることを喜んだはずであった。しかし、これこそ、キリストの死を悲しくも独特なものとすることであった。キリストがやって来て死なれた当の者たちは、キリストが殺されることを願っていた。「十字架につけろ。十字架につけろ」[ヨハ19:6]、と激昂にかられた彼らは口角泡を飛ばして叫んだ。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、私たちはそんなことを云ったことはありませんよ」。しかり。そのときは云わなかった。だが、ことによると、今そう云っているかもしれない。というのも、今なお多くの人々は、キリストの福音を憎んでおり、福音を憎むとはキリストご自身を憎むことだからである。福音はキリストの本質そのものであり、心だからである。また、キリストを拒絶してあなた自身の快楽を選ぶことや、あなたがたの中のある人々がしているように悔い改めを先に延ばし続けること、また、キリストに敵意をいだきながら生活することは、「十字架につけろ」、と叫ぶことと大同小異であり、長い目で見れば同じことなのである。あなたは知っているはずである。もしも何のキリストもなく、何の神もなく、何の天国もなく、何の地獄もないことを全く確信できるとしたら、自分が完璧に幸福になるだろうということを。つまり、あなたは、できるものならキリストを十字架につけ、その存在を、主にまつわる一切のものとともに消滅させたいと願っているのである。よろしい。それは、あの古のユダヤ人たちに、「十字架につけろ。十字架につけろ」、と叫ばせたのと全く同じ精神である。

 だが、なおもまた、キリストの死には1つ尋常ならざることがあった。――私たちのために死ぬ際に、主はすさまじい量の恥辱と不名誉を身に負い、この上もなく密接な罪との関わりを持たれた。あの亀裂に飛び込んだクルティウスには何の恥ずべきものもなかった。そこにいて彼を見ていたとしたら、私は拍手喝采して叫んだであろう。「天晴れ、クルティウス!」、と。同じように叫ばない者が誰かいただろうか? しかし、私たちの主が死んだとき、人々は主に向かってその舌を突きだし、主を嘲った。主の死は実際、恥辱に満ちた死であった。そして、思うに、あの母親が自分の赤ん坊たちを安全な場所に置いて、自分自身は濁流に身を沈めたとき、御使いたちはそのように英雄的な行為を前にして悲しむと同時に微笑んだかもしれない。しかし、イエスが濁流に身を沈めて私たちを救おうとしたとき、神ご自身でさえ主に微笑みかけはしなかった。私たちの《救い主》の断末魔の叫びの1つは、この苦悶に満ちた一言であった。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] これは、主が私たちの《代表者》として、人間の罪と接触し、そのように人間の恥辱とも接触されたからであった。正しく聖い神の御子が、私たちのために呪いとされたのである。あるいは、パウロが告げるように、神は、「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」[IIコリ5:21]。

 こうしたすべては、キリストの驚くばかりの愛を明らかに示す助けとなってくれる。それで、私はこの講話のしめくりにこう尋ねたい。――この聖句は云う。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」。――あなたや私は、その愛が分かっただろうか? 分かっているだろうか? これは実に単純な問いである。だが、あえて私はあなたに対して強く問いたい。アリストテレスだったと思うが、彼はこう云っている。――そして彼は偉大な思索家であった。――人が、自分は愛されていると感じていながら、そのお返しに何らかの愛を感じずにいることは不可能である、と。一般的な法則として、それは正しいと思う。では、もしあなたが本当にキリストはあなたを愛して、あなたのため死ぬほどであったと分かっているとしたら、あなたの心の、いずれにせよどこかには、キリストに対する何らかの愛が顔を出すであろう。ある日曜日の番、私は次の言葉から始まる賛美歌をエクセター公会堂で読み上げていた。――

   「わが魂を 愛するイエスよ」。

すると、まさにそのとき、場内にひとりの人がふらりと入ってきた。その人は、上流階級に属する、世俗的な人で、霊的な事がら一切について無頓着であった。だが、その一節が耳をとらえた。――

   「わが魂を 愛するイエスよ」。

彼は自分に云った。「イエスは本当に私を愛しているのだろうか? 彼が私の魂を愛するというのだろうか?」 そして、その一節がきっかけとなって、その人の無思慮な心の中に愛が生まれ、その場そのとき、その人は自分をキリストの愛に明け渡したのであった。おゝ、ここでその物語を繰り返すことによって、同じような結果が生ずるとしたら、どんなに良いことか。――今の今まで主イエス・キリストを全く愛してこなかった、ある人々が、こう云うようになるとしたら、どんなに良いことか。「キリストはそのように自分の敵たちを愛したというのか?――不思議なことだが、そのように死に至るまで愛したというのか? ならば、われわれは、これまではキリストの敵であったが、もはや敵でいることはできない。むしろ、われわれに対するその大きな愛ゆえに、キリストを愛し返すことにしよう」、と。

 そして、あなたがた、キリストを愛するキリスト者である人たち。もしあなたが、これまで主の愛を何かしら知っていたとしたら、さらに大きく知るように努めて、いやまして主を愛するようになるがいい。また、もしあなたが本当にいやまして主を愛しているとしたら、それを表に示すように努めるがいい。本日の聖句を含んでいる、この節の残りに目をとめるがいい。私がこの後半部を省いたのは、それを恐れているからではなく、それをしかるべく扱う時間がなかったためである。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」。私たちは、神に対する自分の愛を証明するために、同胞の人々を愛すべきである。特に、私たちの同胞キリスト者たちを愛すべきである。そして、私たちの愛を私たちの行動で証明すべきである。私は、一部の信仰告白者たちの愛にどれほどの値打ちがあるか分からない。おそらく、その人々には分かるであろう。自分の一年間の支出を書き出すとしたら分かるであろう。残念ながら、一部の信仰告白者たちのキリスト教信仰は、その人々の飾り紐や、何か馬鹿らしい道楽ほどの値打ちもないのではないかと思う。そうした人々は、自分の靴磨きにかけるほどの金額も、自分の教役者に支払っていない。自分の全くの浪費のためにしっかり費やす金額の方が、福音を伝播し、異教徒たちを救い、貧者を助け、堕落した人々を救い出すために費やす金額よりも百倍も多い。私たちは、そのようなキリスト教の価値を認めないし、確かにそのようなキリスト教を実践したいとは思わない。もし私たちがキリスト者であると告白するなら、本物のキリスト者になろう。そして、特にキリストに対する自分の愛を示すため、自分の同胞キリスト者たちを愛するようにしよう。もしその誰かが困っているのを見たら、力の限り助けてやろう。彼らが励ましや慰めを必要としているとしたら、励ましてやり、慰めてやろう。だが、もし彼らに実質的な助け、金銭的な助けが必要だとしたら、それを与えてやろう。古の迫害時代には常に、いのちを狙われているキリスト者たちをかくまってやった高貴な人々がいたものである。そうした人々自身のいのちが危険にさらされることになっても関係なかった。また、多くのキリスト者は、自分の同胞キリスト者たちのいのちを救うために、自分を死に引き渡してきた。年老いた人々の中には、判事の前によろよろと進み出てきた者もいた。自分たちがいなくなっても、年下の者たちほど教会の損失は大きくないだろうと考えたからである。また、彼らの中のある者らは、自分たちには、年下の者たちよりも大きな信仰があると思っていたかもしれない。大きな信仰がある以上、ずっと死ぬ覚悟ができており、そのようにして年下の者たちが、信仰と希望と愛においてもっと強くなるまで生かそうとしたのである。しかし、それとは逆に、時として年下の者が優しく父たちを押しのけて、彼らに云うのだった。「いいえ。あなたがたの方が年長です。あなたがたは、もう少し地上にとどまって、若い者を教えるべきです。しかし、私たち若者には力があります。ですから、私たちが行ってキリストのために死にます」。そして、迫害の時期の神の《教会》には、誰が最初にキリストのために死ぬかを巡って多くの紛糾があった。彼らはみな、自分の兄弟たちに代わっていのちを捨てることを望んだ。この自己犠牲の愛は今どこへ失せてしまったのか! 私は、そうしたものの一部を見たいと思う。それを発見できると思えるなら、この目に顕微鏡をつけても良い。だが、残念ながら、発見はできないのではないかと思う。何と、もし私たちが今、当時のキリスト者たちが愛し合ったように愛し合うとしたら、私たちは町の噂の的となり、この世の子らでさえ云うであろう。「見るがいい。あのキリスト者たちが何と愛し合っていることか」、と。だが、それは、私たちの義務でしかない。だから、キリストにある兄弟姉妹たち。それを私たちの願いとしようではないか。願わくは神があなたがたを助けて、そうさせ給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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聖徒たちに対する神の愛[了]

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