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広く開かれた大きな門

NO. 2954

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1905年9月21日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年6月6日、主日夜


「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。――ヨハ6:37


 ひとりの在郷紳士が、それなりの数の人々の訪問を待っている。正餐をともにするためである。その庭園への入口の所には、旋回戸のついた小さな通用門があり、普段はそこを通って出入りがなされていた。だが、人々を迎える予定があるこの日には、彼は召使いのひとりにこう云う。「ジョン。大きな門の方を必ず広く開いておくのだ。お客様たちがやって来ることになっているからな」。そして、それこそ、私の《主人》から私が受けている命令にほかならない。主には人々を迎える予定がある。ロンドン南部で予定されている幾多の伝道礼拝は、大勢の人々を引き寄せ、私たちの主の宴席で主とともに祝宴を楽しませることになると思う。そして、私の信ずる主のみこころは、私が大きな門を広く開いておき、そうしなければ通り過ぎてしまうかもしれない何人かの罪人たちがそれを、自分たちを中に招こうとして行なわれたこととして受けとるようになることである。そうした人々がやって来ることは確かだと感じる。神はそうした人々を連れ込もうとしておられるからである。神は、今しもその全能の御腕を差し伸ばし、人々を無理にでも連れて来て、ご自分の家が一杯になるようにしておられる[ルカ14:23]。それで、この講話における私の目的は、神の恵みの満ち満ちた豊かさと無代価さとを宣言することである。そうすることで、何人かの人がキリストのもとへと至らされ、永遠のいのちを獲得してほしいと望むからである。

 しかし、まず本日の聖句は私たちの前に、やや難解な点を提起している。だが、それは、その結び目を解く素晴らしいしかたを明らかに示している。これは難解な点である。この聖句によると、御父は、何人かの人々をキリストに与えておられると思われる。そして、この聖句からだけでなく、非常に多くの他の聖書箇所からも、明らかに神は、永遠のいのちへと選んでいる1つの民を有しておられ、キリストは人々の間から1つの民を贖っておられる。一部の人々のように、この真理に対して目を閉ざそうとしても無駄である。それは、ここにあるからである。そして、言葉の平易な意味を本気でねじ曲げたいと思うのでない限り、また、聖書が自然に教えてもいないことを聖書から引き出したいと思うのでない限り、私たちは決して天来の選びという教理から逃れることはできないはずである。――神が特定の人々を永遠のいのちに予定しておられるという教理である。

 さて、良ければ、その真理にどれほど多くの異議を唱えようとかまわない。そうしたければ、あなたの前にはこの通り、一個の森があり、木なら簡単に見つけられよう。それで、あなたの首をつる絞首台を作るがいい。確かに、もしも聖書を曲解して、自分自身に滅び[IIペテ3:16]を招きたいというのであれば、非常に下手な推論を用いない限りそうできないであろう。だが、それは、他の多くの人々があなた以前に用いてきた推論よりも下手なものにはならないであろう。確かに、あらゆることは予定されており、起こり来る物事はみな神の変わらざる目的とみこころに従って定められている。だが、あなたは、今晩床に就くときも、明朝起床して自分の仕事に取りかかるときも、決してその予定のことなど考えることなく、常識ある人間のように行動しながら、健全な判断という普通の規則に従ってそうするであろう。つまり、普通の物事においては、そうするであろう。だが、あなたがたの中のある人々は、霊的な事がらにおいては、それと同じ分別あるしかたで行動しようとせず、この教理をねじり上げては、ありとあらゆる奇妙な見方をしたあげくに、それを眺めて目がくらんでしまう。そして、そこから何だかんだと弁解しては、イエス・キリストのもとに行こうとしないですませようとする。

 しかしながら、たといあなたがそのようにふるまおうとしているとしても、本日の聖句はあなたの議論の根拠を崩してしまう。というのも、それが告げるところ、――そして、それ以上は何もあなたが知る必要はないが、――神に選ばれた者らを示す目印は、彼らがキリストのもとにやって来ることだからである。主がこう云われる通りである。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」。だから、キリストのもとに来る者たちは、神の選民なのであり、キリストのもとに来ることなしに生き死にする者たちは神の民ではないのである。もしあなたがキリストのもとに来て、キリストに信頼するなら、あなたは御父がその御子にお与えになった者たちのひとりである。もしキリストのもとに行くことを拒否するとしたら、――いかなる弁解を持ち出そうと関係なく、――あなたの血の責任はあなたの頭上に帰するであろう。キリストのもとに来なければ滅びる。そして、もしあなたが主のもとに来ないとしたら、主の羊のひとりでなかったからであり、御父があなたをキリストにお与えにならなかったからである。ロウランド・ヒルは、選民だけに説教するように求められたとき、こう云った。もし誰かが彼らの背中に白墨でしるしをつけてくれるならそうしましょう、と。そうしたことはできない。だが、神は、時が経つにつれて、彼ら全員に目印をつけてくださる。背中にではなく、心にである。御子を信じる者は永遠のいのちを持つ[ヨハ3:36]。そして、人が信仰を持つということは、神によってそのいのちへと選ばれていた証拠である。だが、御子を信じない者が、そうした不信仰を押し通し続けるとしたら、確実に滅びるであろう。この天来の宣言には、いかなる揺らぎもないからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。これこそ、私たちが扱わなくてはならない内容である。願わくは神が私たちを助けて、思慮ある者のように、それを真剣に扱わせてくださるように!

 I. そうした難解な点を全く離れて、この栄光に富む、無代価で広やかな聖句、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」の中で注意したいのは、そこには《1つの必要な行動》があるということである。そして、それは、私たちがキリストのもとに来るということである。

 それ以上先に進む前に、こう問わせてほしい。「私たちの中に、すでにキリストのもとに来ている者はどれほどいるだろうか?」 この場にいる人々のうち、圧倒的に大多数はすでにそうしていると私は信ずるし、そう信じることができることに感謝している。もしあなたがたの中の誰かが、主の食卓のもとに来ようと考えていながら、一度もキリストのもとに来たことがないとしたら、私は切に願う。真に回心するまでは、聖餐式に集わないでほしい。この神聖な象徴にあずかる権利を有する唯一の人々は、キリストを信ずることによって、すでにキリストとの真の交わりを有している人々だけである。もしあなたがまだキリストのもとに来ていないとしたら、来たことがあるかのように行動してはならない。それはあなたに益することがなく、むしろ主を侮辱することになり、あなた自身の良心に大きな咎をもたらすことになるからである。しかり。兄弟姉妹たち。私たちはイエス・キリストのもとに来なくてはならない。救われたければ、それが私たちの唯一の務めである。――キリストのもとに来るとは、単にその主要な点であるというだけでなく、その天辺であり、底面であり、真中であり、全体なのである。

 「キリストのもとに来るとは何ですか?」、とある人は云うであろう。ここで、私は1つの厳粛な身震いが臨むのを感じる。というのも、あまりにもしばしば私たちは、信仰とは何か、また、キリストのもとに来るとはどういうことかを説明しようとして、「知識もなく言い分を述べ」[ヨブ38:2]、摂理を暗くすることがあるからである。そして、私がそうするようなことがあっては決してならない! キリストがお用いになったことばを眺めてみるがいい。「わたしのところに来る者を」。主は、1つの行動、1つの運動について語っておられるが、からだの行動や運動について語っているのではない。というのも、多くの人々は、物理的な意味ではキリストのもとに来たが、そのように来ることによって救われはしなかったからである。この来ることとは、精神が行動し、運動し、向かうことである。あなたにも、精神がこれこれの点に向かうとはどういうことか、十分容易に分かるであろう。しかし、事の要点がここに存していることに注目するがいい。「わたしのところに来る者を」。救いに至る信仰とは、キリストのもとに来ることである。――キリストというお方のもとに来るとは、単にキリストが神であると信じることではない。確かに救われたければそう信じなくてはならないが。それは単にキリストが罪のためのいけにえであると信じることではない。確かにそう信じなければならないが。それは単にキリストが私たちの救いのために生きて、死んで、よみがえられたと信じることではない。確かに、そうした3つのほむべき事実は信じられなくてはならないが。むしろ、それは《このお方のもとに》来ることである。もしもあなたが、このことばを発されたときのこの方を見たことがあったとしたら、ことによると、それをより良く理解していたかもしれない。というのも、そこに主は、「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]お方として立っておられたからである。――バプテスマのヨハネが、こう云った当の《お方》として立っておられたからである。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]。その主がこう云われるのである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。ある教理を精神が信頼するとはどういうことかは誰にでも分かる。だが、教理しか信頼していないとしたら、あなたは滅びるであろう。救いの真の道は、神に任命された《救い主》であるイエス・キリストという生きたお方を信頼することである。ことによると、あなたがたの中のある人々は、バプテスマに信頼し、堅信礼に信頼し、聖礼典に信頼するとはどういうことか分かるかもしれない。だが、そうしたものしか信頼していないとしたら、あなたは滅びるであろう。あなたは行かなくてはならないのである。それらのもとにではない。――滴礼だの浸礼だの、弥撒だの聖餐式だののもとにではない。――《このお方》のもとに、キリストのもとに、あの呪われた木の上で、ご自分に信頼するすべての者のために償いを成し遂げられたお方のもとに行かなくてはならない。あなたは、信仰によってその十字架のもとに来て、この方をあなたの《身代わり》として受け入れなくてはならない。この方は天に上られたが、そこで罪人たちのためにとりなしておられる。そして、あなたは、自分の精神の目で上を見つめて、この方を仰がなくてはならない。死者の中からよみがえり、栄光の中に上って行かれたこの方を信頼するようなしかたでそうしなくてはならない。それがキリストのもとに来ることである。――精神がそのご人格のうちに、また、その贖罪の犠牲のうちに安らうことである。

 やはり明らかなこととして、私たちは、何かのもとに来るときには、別の何かから出て来るものである。そのように、キリストのもとに来ることは、あなたがたが何かを後に残して来ることを暗示する。そして、救われたいと願う者は、自分の後に、かつて愛していたもろもろの罪を残して来なくてはならない。その人が聖なる《救い主》のもとに来るのは、その人自身が聖なる者とされるためでなくてはならない。その人がイエスの足元に座りに来るのは、イエスの命令を学んで、それを喜んで行ないたいからでなくてはならない。イエス・キリストは、自分のもろもろの罪にとどまっている者を誰ひとりお救いにはならない。主が来られたのは、ご自分の民をその罪から救ってくださる[マタ1:21]ためである。イエス・キリストは、単に罪の咎と罰からの救いであるだけでなく、罪そのものからの救い、罪の汚らわしさと堕落性からの救いでもあられる。もしキリストのもとに来たければ、私たちは罪を後にして来なくてはならない。悔い改めによって罪から遠ざからなくてはならないし、信仰によってキリストのもとに向かわなくてはならない。そして、やはりキリストのもとに来たければ、自分を義とする思いを後にして来なくてはならない。この自分を義とする思いと手を切ることは、一部の人々にとって非常に難しいことである。そうした人々は鏡を眺めては、自分に恋するまでとなり、自分の愛する自我と切り離されることに耐えられない。自分で自分のことを善良で、しかるべき者で、体裁が良く、衆に抜きんでいて、愛すべきで、麗しく、愛しい者と感じすぎるあまり、こうした自分を義とする思いに喜んでしがみつき、それをできる限り長く抱きしめていたいと思うのである。しかし、方々。あなたはそれを後にして来なくてはならない。それを忌まわしいものと眺めるようにならなくてはならない。また、神がそれをご覧になる光に照らしてそれを見ることができるとしたら、それはそのようなものに見えるであろう。そして、あなたはあらゆる信頼を打ち捨てて、ただ主イエス・キリストだけを信頼しなくてはならない。では、これが主のもとに来るということである。――あなたの罪深い自我から離れ、あなたの義となっている自我を離れてやって来て、あなたの信頼をただこの唯一の偉大な、罪人たちのための《保証人》かつ《身代わり》にだけ置くことである。

 来るというこの言葉の完全な意味において、私たちがあるお方のもとに来るとき、私たちはそのお方とともにとどまりもする。もし私が町通りである人を通り越すとしたら、確かに私は、ある意味でその人のもとに来ることはしたが、その人を越えて行くこともしたわけである。そのようにして、その人のもとから離れて行ったのである。だが、ある魂が本当にキリストのもとに来るとき、その魂は立ち止まってキリストと一緒にするようになり、キリストのうちに安らう。その魂には、他の何かが必要ではないだろうか? 否。確かにその魂はもう少し聖くなることが必要ではないだろうか? 否。より完全な赦罪が必要ではないだろうか? 否。付加的な支えが必要ではないだろうか? 否。その義の衣に何かをつけ足す必要があるのではないだろうか? 否。別の洗いが必要ではないだろうか? 否。というのも、使徒はキリストのもとに来た者たちに向かってこう云っているからである。「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」[コロ2:10]。キリストのもとに来た上で、あなたは立ち止まってキリストと一緒にするようになり、キリストのうちに安らう。救われた魂は、キリストと一時的に同宿するのではなく、キリストのうちにとどまる。

 さて、愛する方々。私はこの問いを個人的にあなたがたひとりひとりに発することはできない。だが、あなたがたがひとりひとり自分に向かってこう問うことはできる。「あなたはキリストのもとに来ているだろうか?」 すなわち、キリストはあなたの唯一の信頼の的だろうか? それとも、あなたには何か他の望みがあるだろうか? あなたはイエス・キリストだけに信頼しているだろうか? しているとしたら、あなたはキリストのもとに来ているのであり、この聖句の約束はあなたのものである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。

 II. ここから次の点に至る。すなわち、《1つの不必要な恐れが払いのけられる》

 ある人々は、こう云う。自分は喜んでキリストのもとに来たいと思っていますが、たとい本当にキリストのもとに来ても、キリストが自分を拒絶するのではないかと思って恐ろしいのです、と。その理由を聞いてみるがいい。そうした人々のひとりはこう云うであろう。「私は年寄りすぎてキリストのもとには行けません」。愛するご年輩の方よ。どうかこの聖句を読んでもらえないだろうか? 「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。さて、もしキリストがご自分のもとに来た誰かを年寄りすぎるからといって捨て去るとしたら、この聖句は正しくないことになるであろう。行間には何も書かれていない。いくら長く眺めていても、このようなことは何も見いださないであろう。「わたしのところに七十五歳になるまで来る者を、わたしは決して捨てません」。キリストは、そうした種類のことを全く仰せになっていない。たといあなたが百歳だったとしても、――二百歳だったとしても、――それはキリストには何の違いでもないであろう。主はそれでもこう云われるであろう。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。

 ことによると、別の人は云うであろう。「私は若すぎてキリストのもとには行けません」。もしかすると、この場には、心の中でこう考えている子どもたちが何人かいるかもしれない。「私たちは幼すぎるのでキリストのもとには行けません」、と。しかし、そのようなことはありえない。主はこう仰せになったからである。「わたしを早いうちに捜す者は、わたしを見つける」[箴8:17 <英欽定訳>]。また、主はこうも云われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」[マコ10:14]。あなたがキリストのもとに来るのに幼すぎるなどということは到底ありえない。主はこう云っておられるからである。「わたしのところに来る者を」――そして主は、みもとにやって来るどんなに幼い者をも含むおつもりがあるのである。――「わたしは決して捨てません」。

 しかしながら、多くの人々は、自分たち自身に関する限り何の困難も見てとらないが、自分の立場ゆえに何らかの困難があると考えている。「私などが来ても良いのでしょうか?」、とある人は尋ねるであろう。「私は貧乏人すぎます」。あなたが貧しければ貧しいほど、あなたが来ることは歓迎される。ここには財産のことなど一言も云われてない。キリストは単にこう云っておられる。「わたしのところに来る者を」、と。あなたが襤褸を来てやって来ようと、救貧院の支給服を着て来ようと問題ない。あなたの外側がどのような見かけをしているかは、私たちのほむべき主には全く重要なことではない。あなたが貧困そのもののように貧しいとしても、もし誰かが少しでもひいきされることがあるとしたら、あなたはその貧困ゆえにいやが上にもキリストに歓迎されるだろうと思う。というのも、古には、特にこう言及されたからである。貧しい者には福音が宣べ伝えられている[マタ11:5]、と。そして、神はしばしば、この世の貧しい人たちを選んでは、ご自分の恵みによって、信仰に富む者としてこられた[ヤコ2:5]。そのままやって来るがいい。私の貧しい兄弟姉妹たち。

 「おゝ!」、と別の人は云うであろう。「ですが、私にとって困難なのは貧しさではありません。私の教育の欠けなのです」。よろしい。愛する方よ。もしあなたが読み書きできないとしたら、非常にお気の毒だと思う。それは、多くの意味であなたにとって不幸なことである。だが、それはあなたの救いとは全く関係ない。初期のキリスト者の中に、読み書きができた者はごく少数だった思う。確かに、地下墓所の中に碑文を書きつけた人々は、ありとあらゆる種類の綴りや文法の間違いを犯しているし、その人たちは、そこに葬られたキリスト者たちのほとんどと五十歩百歩の教育しか受けていなかったものと思う。キリストの福音が教育と何の関係があるだろうか? 大学からの学位など必要ない。――文学修士号や文学士号など、キリストを見いだすためには必要ない。知識は時として霊的な事がらにおいて人を誤り導くものである。むろん私は、無知を薦めはしない。だが確かに、事実を云えば、ベツレヘムの羊飼いたちが新しく生まれた《王》を拝みに行こうと欲して、真っ直ぐその方のもとに向かったとき、東方からのあの賢者たちは、大きく回り道をしてみもとに行かざるをえなかった。アウグスティヌスはよくこう云っていたものである。「パリサイ人や哲学者たちが神の扉の掛け金をごそごそ探している間に、貧しく文盲な者たちは天の国に入ってしまっている」、と。もしあなたがイエス・キリストが神の子であると信じて、全くキリストに自分をゆだねさえするなら、たとい半分白痴であったとしても、キリストはあなたを捨てはしないであろう。しかり。もしあなたの魂の中に、知性のほのかな光が微かにしかないとしても、信仰の炎を捕えるに足るものがあるとしたら救われるであろう。では、そうした問題で、あなたがたの中の誰も尻込みしてはならない。

 「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「私は、そのような事がらで尻込みしはしませんが、私の過去の品性こそ、私の妨げなのです」。よろしい。愛する方よ。私はあなたの過去の品性についてあれこれ詮索すまい。だが、それが可能な限り悪辣なものであったということにしてみよう。だが、それであってさえ、キリストは本日の聖句で何と仰せになっているだろうか? 品性について何か云っておられるだろうか? 否。ただこう云われる。「わたしのところに来る者を」、と。そして、もしキリストのもとにやって来る誰かが、人類に可能な限りの犯罪という犯罪を犯したことがあったとしても、本日の聖句は、その人でさえ排除されることを許しはしないであろう。私は実際、私たちの主なる《主人》をほめたたえるものである。主はここに何の除外条項も例外も差し挟んでおられない。泥棒も、酔いどれも、遊女も、姦淫者も、殺人者さえも、ここでは閉め出されていない。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。この聖句はそのようなものとしてあり、そのようなものとしてあり続けるはずである。もしその人がキリストのもとに来さえするなら、自分のもろもろの罪ゆえに捨て去られることはありえない。むしろ、その人の罪は、多くはあってもことごとく赦されるであろう。その人は永遠の愛が脈打つ心で抱きしめられ、赦罪の口づけを頬に強く与えられるであろう。

 他の誰かがこう云うのが聞こえるような気がする。「私は、そうしたどぎつい罪は何も犯してきませんでした。私はほとんどこう願いたいほどです。――もしかすると、それはよこしまな願いかもしれませんが、――自分がそうした罪を犯してくれば良かったのに、と。というのも、そうすれば私は、今よりもずっと心に感じることができるだろうと思うからです。摂理の恵み深い計らいによって、私ははなはだしい外的な罪から免れてきました。それで、私は自分が悔い改めについて感じたいことを感じられないのです」。しかり。愛する方よ。だが、主は、あなたが自分の犯してこなかった罪について悔い改めるよう求めてはおられない。ただ、あなたが行なってきたことだけを眺めるがいい。そして、あなたの罪がそれよりも少しでも大きければよかったのにと思ってはならない。それは実際、悪い願いになるからである。「私は自分がしてきたことをちゃんと眺めています」、とある人は云うであろう。「それでも、悔い改められないのです」。では、あなたは自分がキリストのもとに来る前に悔い改めることを期待しているのだろうか? それが福音の計画に対するあなたの考えだろうか? 私が理解するところの福音は、――ジョウゼフ・ハートの有名な一句を引用すれば、――こうである。

   「まことの信仰 真の悔悟
    われらを近づく あらゆる恵み、
    金銭(あたい)なくして
    イェス・キリストに来て 購(え)よ」。

私は、ペテロがキリストに関して大祭司に告げたことも思い出す。「神は、イスラエルに悔い改め……を与えるために(この、与えるという用語に注目せよ)、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」[使5:31]。あなたが悔い改めを持って行くのではない。むしろ、悔い改めを求めてキリストのもとに行くべきなのである。あなたがたの中のある人々は、律法に目を向けて、自分の罪を意識しようとしてきた。あなたはこのことを知らないのだろうか?――

   「律法(おきて)も恐れも それのみにては
    人かたくなにする ほかあらず」。

しかし、もしあなたがイエスのもとに来て、イエスに信頼するとしたら、そのときは、――

   「されど血による 赦し悟れば
    石のこころも 溶け砕けん」。

あなたはイエスを信頼して、新しい心、悔い改め、柔らかな良心を求めなくてはならない。そうしたものをもって主のもとに来られないとしたら、そうしたものを求めて主のもとに来るがいい。おゝ、あなたがた、心の打ち砕かれた人たち。キリストのもとに来るがいい。だが、あなたが心打ち砕かれていることを申し立ててはならない。また、あなたがた、自分の心が打ち砕かれることを欲している人たちは、キリストのもとに来ることによってそれを打ち砕くがいい! 主は、その福音の恵みという大鎚によって、石の心を砕くことがおできになる。

 「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「私は、自分がキリストのもとに来たと信じています。自分が主を唯一の信頼の的としたいと願っていると知っています。ですが、私は、他の人々について読んだような経験をしていないのです。私の読んだある人々は、恐ろしいほど心を引き裂かれ、苦悩し、罪の辛い時期の下で恐怖したといいます。ですが、私はそうなったことがないのです」。一体誰が、そうなるべきだなどと云ったのか? もう一度この聖句に耳を傾けるがいい。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。キリストは、経験や、律法の働きや、そうした一切の種類のことを云っておられるだろうか? 神はほむべきかな。確かに人間たちはこうした幾多の障壁をキリストの十字架の回りに打ち立てるが、主がそうしたものを打ち立てたことはない。もしあなたが主のもとに来るなら、主はあなたを捨て去ることはない。――捨て去ることはありえない。私が読んだことのある、ある説教者たちは、御国から罪人たちを閉め出すことに驚くほどせっせと励んでいるように見受けられる。彼らは、しかるべき数よりも多い人々が救われることになるのを恐ろしく心配している。彼らは天国を一種の統制選挙区とみなしており、その中には一定の数の家屋所有者たちは認められるが、その他の誰も認められないのである。彼らは、天的な囲いの中に、主イエス・キリストの羊でない者がひとりでも見いだされることを恐ろしいほど心配する。そのような恐れは決して私の心を貫いたことがない。私は、自分がイエスのもとに多くの人々の来ることを熱烈に切望している点で、主の御名をほめたたえる。そして、そうした種類の霊は、あらゆるキリスト者のうちにあるべきだと思う。キリストのことばがそう示唆しているからである。「わたしのところに来る者を」――ある特殊な、あるいは何か別の種類の「者」ではなく、誰であろうとやって来る「者」を――「わたしは決して捨てません」。

 「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「ですが、私たちにはこれほど小さな信仰しかありません」。あなたが小さなものでも信仰を有していることについて、神はほむべきかな。私はあなたにしばしば告げてきたではないだろうか? もしあなたにほんの星明かりさえあるなら、そのために神をほめたたえるべきである、と。そうすれば、神はあなたに月明かりを与えてくださるであろう。また、もしあなたに月明かりがあるなら、そのために神をほめたたえるがいい。神はあなたに日の光を下さるであろう。あなたが所有するいかなる純粋な信仰についても感謝するがいい。キリストはこう云われるだろうか? 「わたしのところに大きな信仰をもって来る者を」、と。否。兄弟たち。もしあなたがキリストのもとに来るとき、心の中にほんの一粒の信仰でもあるなら、この聖句はあなたを中にかかえ込んでくれるに違いない。あなたを閉め出すことはありえない。キリストのもとにただ来るがいい。キリストをただ信頼するがいい。そうすれば、いかにあなたの信仰が微弱であろうと、それがイエスを信じる真摯な信仰である限り、あなたはイエスによって救われる。というのも、イエスはあなたの救いのすべてであり、あなたの願いのすべてだからである。あなたの信仰の強さがあなたを救うのではない。むしろ、あなたがより頼むお方の強さがそうするのである。キリストはあなたがみもとに来るならば、あなたを救うことがおできになる。あなたの信仰が弱かろうと強かろうと関係ない。

 「しかし」、と別の人がこう云うのが聞こえる気がする。「私は自分が選民のひとりではないのではないかと心配なのです」。この反論にはすでに答えた。もしあなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたは選民のひとりである。一切の疑いを越えて、もしあなたがキリストのもとに来るなら、キリストが何か隠れた理由のためにあなたを閉め出すことはありえない。というのも、主はこう云われたからである。「わたしは決して」、すなわち、いかなる理由ゆえにも、また、いかなることがあろうとも、決して、「捨てません」。それゆえ、運命というその閉ざされた書物の中には、あなたが閉め出されるべき、いかなる隠れた理由もありえない。もしあなたがキリストのもとに来さえするなら、キリストはあなたを受け入れてくださるに違いない。さもなければ、キリストはご自分の約束を破ることになるが、それは主が決してできないことである。

 「ですが」、と別の人は云うであろう。「たとい私がキリストのもとに来ても、私は決してキリストにつかまっていることができません」。その見込みは非常に高いであろう。だが、もしキリストがあなたをつかまえておられるとしたら、どうなるだろうか? 「あゝ、ですが私には堅忍する強さがありません」。しかし、もしも地上にいる者であれ、地獄にいる者であれ、いかなる者もあなたを主から引き離すことができないとしたら、――というのも、「主は聖徒たちの足を守られ」[Iサム2:9]るからだが、――どうなるだろうか? 考えてみるがいい。あなたが主のもとに来たところで、主はあなたにこう仰せになると。「わたしはあなたに永遠のいのちを与えます。あなたは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手からあなたを奪い去るようなことはありません」[ヨハ10:28参照]。何と、魂よ。あなたが、救いにおける第一歩を、キリストを抜きにしてあなた自身で踏み出したのではなかったのと同じように、あなたの二歩目や、三歩目や、四歩目や、他のいかなる一歩についてもそれと同じである。あなたはただ、地上と天国との間にある全道中について、ただ主により頼まなくてはならない。私の信ずるところ、たといあなたや私が、はるか彼方の天国の戸の上がり段の所までさえやって来たとしても、私たちがその門の掛け金に自分の指をかけるべきであった場合、私たちは決して中に入らないはずである。神の恵みによって私たちが、途上の最後の一吋を連れて行ってもらわない限りそうである。しかし、そのとき、神の恵みはそれをするであろう。イエスに信頼するがいい。というのも、――

   「わが主の栄誉(ほまれ) かかりたり、
    いかな小羊(ひつじ)の 救いにも。
    天父(ちち)の給いし ものみなを
    主の御手かたく 守り抜かん。

   「死も地獄(よみ)もなど 分かちえじ
    主の愛すものを 御胸より。
    御神のいとし ふところに
    御民(たみ)とこしえに 安くあらん」。

だから、全世界のいかなる「者」であれ、ただキリストのもとに来さえするなら、捨て去られることはないのである。

 III. 私たちはこの聖句の中に、第一に1つの必要な行動を見てとり、次に1つの不必要な恐れが払いのけられるのを見てきた。さて、次に見てとりたいのは、《1つの最も筋の通った信頼が示唆されている》ということである。

 望むらくは、この場にいる多くの人々が救われることを願っていてほしいと思う。もしそうだとしたら、使徒パウロがコリント人に対して何と書いたか思い出すがいい。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」[IIコリ6:2]。あなたがたはみな理解しているものと思う。救いの全過程は、あなたに関する限り、あなたが主イエス・キリストとその完成されたみわざとに対する頼りのほか、一切の頼りを捨て去ることにあるのである。よく云われてきたことだが、天国に至るにはたった二歩しかなく、その二歩とは、実は一歩だという。――自我からキリストへと足を踏み出すことである。もしあなたが、今の瞬間に、他の何かを信頼し、それにしがみついているとしたら、ぜひともそれを手放して、イエスの御腕の中に身を投げてほしい。そして、知ってほしいと思う。――神がそう云っておられるからだが、――イエスを信ずる瞬間に、あなたは救われているのだ、と。あなたは、決して死に絶えることのない天来のいのちにあずかる恵みが授けられる。それと同じ瞬間に、あなたの罪の塊はあなたの内側からことごとく取り去られ、決してあなたを罪に定めることができなくなり、決してあなたの上に戻ってくることはない。また、あなたの上には、1つの完璧な義が転嫁され、それは決してあなたから取り去られることはなく、このしみ1つない衣を着て、あなたはあの最後の大いなる審判の日さえ大胆に立つことができる。

 私たちはみな、まさに今やって来て、イエス・キリストを信頼できないだろうか? これは、今まで一度もイエス・キリストを信じたことのない、私たちの中のすべての人たちについてだけ意味しているのではなく、私は、すでにイエス・キリストを信じている、私たちの中のすべての者が喜んで再び主に信頼し始めることを喜んで希望したい。私は、自分がいかにしばしば自分の霊的生活を十字架の根元でやり直さなくてはならなかったかと思う。私は常にそうしているし、私がこの上もなく幸いで、安全なのは、あるいは、この上もなく聖くなっていると信じるのは、最初のときにそうしたのと全く同じように、十字架の根元に立って、私の愛する主なる《救い主》を仰ぎ見て、こう申し上げるときなのである。――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

もしどこかの兄弟が自分は完璧になっていると思うとしたら、そうした性格においては私よりも見場が良いかもしれない。私は、そのようなしかたでは神のもとに行けないからである。私が、「より高いいのち」において進歩しつつあると考える瞬間に、十字架のもとに立ち戻るなら、私の「より高いいのち」は雲散霧消してしまう。事実、私にはいかなる「より高いいのち」もない。私が有しているのは、ただキリストが私に与えてくださるものだけである。私は浅ましく、みじめな乞食であって、あらゆることにおいて主に依存している。そして、私がいかなる時にもまして主の御前で正しくあるのは、自分がそのような者であると感じ、初めて主のもとに来たときにしたのと全く同じように主を仰ぎ見て、自分の信頼を主にかけるときである。一部の兄弟たちが、恐ろしい転落をしてきたのは、彼らが自分の空想上のちっぽけな体験を、私がある山の頂上で見たことのある架台のようなものに建てていたからである。ある人々は、他の誰よりも少し遠くのものを見たがる。それで小さな木製の踏み台を建てては、その上に立つ。疑いもなくそこに立って、自分が他の誰よりも何呎か高い所にいると感じるのは非常に愉快なことに違いない。しかし、その踏み台は時が経つにつれて腐っていくため、突然壊れて、その上に乗っていたものが一緒に壊れていまう。すると彼らは、往々にしてこう云いがちなのである。山そのものが崩れていくぞ、と。馬鹿くさい。山には全然問題などない。ただ、あなたが山以上に高くなろうとしただけである。もしあなたが初めからしかるべき所にい続けていたなら――あの花崗岩の上にいたなら、――あなたが転落することはなかったはずである。私は、あらゆる神の子どもに対して、力を尽くして完璧な聖さを求めて努力するよう命じる。だが、決して自分がこれよりも高く達したと考えてはならない。「イエス・キリストは、私にとってすべてのすべてであり、私はキリストを離れては全く何者でもありません。キリストに私はすがりつき、キリストにのみ私は信頼します」。

 この聖句の慰めに満ちた確信はこのことである。「もしイエス・キリストが私を捨て去らないとしたら、キリストは私を抱きかかえてくださるであろう」。キリストは、そのどちらかを行なわざるをえない。中間はない。私の読んだことのある人々は、ただ主に祝福される人か、呪われる人しかいない。――主がいのちの香りとなる人々か、死の香りとなる人々しかいない。それで、いま云ったように、もし主が私を捨て去らないとしたら、私は主が何をなさるか分かる。主は私を抱きかかえ、私を洗い、私をきよめ、私に衣を着せ、私を養い、ご自分を私に明らかに示し、私をご自分の兄弟とし、ご自分の友とし、いのちにおいて私を保ち、死において私を保ち、ご自分のおられる所で私をご自分とともにいさせ、私にご自分の栄光を見させてくださるであろう。

 さて、誰がイエスとともに始めたいと思うだろうか? あるいは、イエスとともに再び始めようと思うだろうか? 主の恵みによって、私はそうしたい。《救い主》よ。私は、あなたの尊い血のほか何も信頼しません。私はあなたの福音を長年にわたり宣べ伝えてきました。そして、そうすることによって、多くの罪人たちをあなたご自身に導く手段となってきました。ですが、このことを私は、自分の永遠のいのちの基盤としては無以下のこととみなします。そのためには、私はあなたに、あなただけにより頼みます。

 さあ、罪人たち。やって来るがいい。そして、願わくは聖霊が恵み深くあなたを導いて、私たちが新しく行なっていることを行なわせてくださるように。そして、それから、あなたがたひとりひとりが家路に着くときには、こう云うことができるように。「主は決して私を捨て去ることはないであろう。私は主のもとに行ったのだから」、と。イエスを信頼してほしい。私は切に願う。主はあなたが信頼するに値するお方である。主は神の御子であり、ご自分に信頼するすべての者の咎を取り除くために死なれたからである。私は誰かがこう云ってほしいと思う。「私は自分で自分を救おうと努めてきました。ですが、それは不可能なことでした。私は主に信頼してそうしていただきます。そして、主がそれをおできになること、また、それを行なってくださることを信じます」、と。あゝ、愛する方よ。もしそのようにほむべき決意をするとしたら、あなたは決して失望することがないであろう。願わくは神が、その恵みによって、あなたにそうする力を与えてくださるように。そして、神に誉れが永久永遠にあらんことを。アーメン。

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広く開かれた大きな門[了]

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