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十字架を負う者たちの行列

NO. 2946

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1905年7月27日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1875年5月2日、主日夜


「十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。――マコ10:21 <英欽定訳>


 あなたの心の目には、向こうの行列が見えるであろう。注意深く見つめるがいい。その先頭には、私たちが正当に《主人》とも主とも呼ぶ《お方》が歩んでおられる。この方は、その御手と御足につけられた釘跡からそれと分かるであろう。見れば主は、一本の十字架を背負っておられる。非常に重い十字架である。また、主の後に長々と続く列が見えるではないだろうか? 彼らはみな、この世がふさわしい所ではなかった[ヘブ11:27]人々である。その列は、この日に至るまで続いており、現在の経綸が幕を閉じるときまで続くであろう。キリストに従う、この行列の中の様々に異なる人々を見つめているうちに、あなたは、あることに感銘を受けるはずである。――あれこれの点でいかに大きく異なっていようと、彼らはみな1つのことにおいては似通っているのである。――彼らは、ひとり残らず一本の十字架を背負っている。この規則には何の例外もない。この《主人》から最後の弟子に至るまで、これは、十字架を負う者たちの行列である。やがて来たるべき日には、この光景が一変し、こうした十字架を負う者たちがみな王冠を戴く者たちに変わるであろう。しかし、確信しているがいい。かの古い格言、「十字架なくして栄冠なし」、は確かに真実であり、地上でキリストに従って十字架を背負うことを拒む者たちは、決して星々の彼方にある国で栄冠を戴くことが許されない。

 キリスト者の主たる務めはキリストについて行くことである。キリスト者の生涯は、その一言に要約できよう。キリスト者はキリストをうちにいだき、キリストは日々、ご自分のいのちをその人にお与えになる。そして、そのいのちが自らの力を大きく広げるしかたは、まさにキリストについて行くことにあるのである。愛する方々。あなたや私がキリストについて行き、そうする歩みの身近さゆえに名を上げることができればどんなに良いかと思う。というのも、天国にいる一部の者たちについてはこう書かれているからである。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」[黙14:4]。そちらにいる人は、部分的にしか主について行かないように見受けられる。そうした人々の人生には多くのさまよいがあり、多くのちぐはぐさがある。だが、果報な者とは、カレブのように主に従い通す[民14:24]者、また、心を堅く保って[使11:23]自分の十字架につけられた主の足跡そのものの中に足を踏みしめて行く者である。もしあなたがイエスの弟子だとしたら、あなたの主な務めはイエスについて行くことである。しかし、その途上には種々の困難がある。この困難こそ「十字架」によって意味されたことである。種々の困難が、イエスを信ずる信仰を告白する道、その告白にふさわしく歩む道にはある。また、こうした困難は、血肉が背負うには重すぎる重荷である。ただ恵みだけが私たちにそれを負わせるのであり、私たちは、それを負うとき、この聖句の言葉を実現しているのである。「十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。

 私は、あなたがたひとりひとりに、いくつかの自問をするよう促そうと思う。第一に、「何が私の十字架だろうか?」 第二に、「それに対して私は何をすべきだろうか?」 そして第三に、「私がそうすることを何が励ましてくれるだろうか?

 I. まず第一に、《何が私の十字架だろうか?》

 いま述べたように十字架とは、キリストに従う際の種々の困難を伴うものを意味する。ある人々にとって、キリスト者になった場合に背負わなくてはならない十字架とは、キリストゆえの非難と叱責という十字架である。ことによると、その人々には、真のキリスト教信仰を憎んでやまない親族がいるかもしれない。それで、自分は回心したと告白すれば、あざけられ、馬鹿にされ、誹謗中傷されることになる。その人のすることなすこと、よこしまな目的のためだとねじ曲げられ、その人が自分では忌み嫌うような種々の動機をなすりつけられるであろう。若い人々、特に不敬虔な家庭の中にいる人々にとって非常に辛いのは、自分が《十字架につけられたお方》に従う者だとあえて公言することである。作業場にいる労働者にとっても、同僚たちのいわゆる「冷やかし」に絶え間なく耐えるのは容易でない。彼らは、そのように自分より善良な人々を嬉々として冷やかすのである。これと同じ種類のことは、社会の他の階級においても起こる。一般には、これほど露骨な形ではなされないが関係ない。よそよそしくされたり、それとなく皮肉られたり当てこすられたりする場合がある。また、決然と主の側につくことにした人々は爪弾きにされる。あなたがたの中のある人々は、こうした類の扱いのことを、あまり良く知らない。あなたはこの点において、安楽な膝の上であやされている。というのも、あなたの両親は、あなたが回心したときそれを喜び、キリスト者であるあなたの知人たちはみな、あなたがキリストに従う者になると決心したのを聞いたとき、いわば、盆と正月が一緒に来たかのように喜んだからである。だが、果たしてあなたは、もしもキリスト教に関する事がらについて最初に口にしたとき、悪態をつかれたり、乱暴な父親などからそれ以上の仕打ちを受けて、ぞっとするような脅迫を受けたりしたとしたら、私たちが望むほど全く堅固にしていられただろうか。そして、多くの子どもたちは、そうしたすべてを忍ばざるをえなかったのである。あるいは、もしあなたの夫が粗暴な酔っ払いで、イエスという名前そのものを憎んでいるとしたら、果たしてあなたは、私の知っている一部の善良な婦人たちが年々歳々耐え忍んでいるような、一生続く殉教の生活をイエス・キリストのために忍ぶことができるだろうか。さあ、愛する方々。あなたがいかなる者であれ、もし誰かから、あなたがキリスト者になったからといってあざけられたり、見下されたり、悪口を云われたりするとしたら、それがあなたの十字架なのであり、キリストは本日の聖句であなたにこう云っておられる。「十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。

 時として、その十字架は別の形を取る。人は神に回心すると、こう気づくことがある。人生における自分の立場は、キリスト者としてふさわしいものではない、――確かに、敬神の念が生き生きと成長するようなものではない、と。こうした事例は、しばしば私の目にとまってきた。人は頻繁に私のもとを訪れては、云うのである。「先生。私は主を愛していると思っています。私は、可能な限りタバナクルに出席しています。ですが、申し訳ないことに、五、六人の女給を使って、居酒屋を営んでいるのです。そうした考えに私は全く我慢できません。今の私は、この商売に耐えられません。それで私は手を引かなくてはなりません」。こうした困難はしばしば私の前に持ち出されてきたし、私を満足させてきたことに、人々は、主への愛ゆえに、このように云ってきた。「こうした商売を、もはや私は決して営んではいられません。そうするには、私の主を愛しすぎています。いかにして私は、この膝を主に屈めながら、このような商売に主の祝福を願うことができましょう?」 それで、こうした人々は、可能な限りすみやかにそこから逃れ出てきた。そして、世にある多くの立場は、人が取引上そこを占めると、悪にからみつかれてしまうものである。もしその人が全く自由だとしたら、その人は正しく、真っ直ぐなことを行なえるであろう。だが、ことによると、その人の共同経営者はそれと正反対のことを行なうかもしれない。それで、その人には悟られるのである。間違ったことを行なっている責めを、常に別の人に投げかけながら、利益の半分を自分のかくしにつっこんでいることは、自分にとって益にならない、と。それでその人は云う。「何が起こるにせよ、この商売からは足を洗おう。この世で最も貧しい乞食と同じくらい貧しく暮らすことになるとしても、その方が、罪深い商売を繁盛させながら地獄に落とされるよりもましだからだ」、と。

 また、多くの人が商売で種々の損失をこうむるのは、キリスト者になるや否や、非常に多くの変更を加えなくてはならないからである。「日曜は絶好の商売びよりだ」、とある人は云う。よろしい。ならば、そこには、あなたが格段に大きな犠牲を払ってもイエスに対する愛を証明すべき、ずっと多くの機会がある。鎧戸を閉めるがいい。それも、今すぐにそうするがいい。もしもキリストのために何らかのしかたで失うものがあるとしたら、それがあなたの十字架であり、キリストはあなたにこう仰せになっているのである。「十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。

 しかしながら、その十字架は、いささか異なる種類のものとなることがある。それは、あなたが特に満足を覚える何らかの楽しみか習慣をやめることかもしれない。キリスト者となったその人は悟るのである。その習慣は、他の人々にとっては許されるものかもしれないが、自分にとっては許されないものである。それは自分に害を与え、自分を滅ぼすものとなるだろう、と。この習慣にしがみついている限り、その人は祈ることも、天来の事がらを考えることもできない。自分の魂の成長を、あるいは、キリストとの交わりを妨げるものが何かあるとしたら、それをただちに振り捨てることが、その人の義務である。パウロが、あの蝮をただちに火の中に振り捨てたように[使28:5]振り捨てるべきである。だが、ある人々はそうすることが困難であるのを見いだしてきた。愛する方々。もしあなたがそうした立場にあるとしたら、あなたの右の目をえぐり出し、右の手を切り捨てるがいい[マタ5:29]。その方が、それらを保ったまま罪の中で滅びるよりもましである。他の何を失おうと、魂を失うよりは良い。他の一切のものを投げ捨てても、永遠のいのちの希望を投げ捨てるよりは良い。

 しかしながら、ある人々の場合、十字架はそのような形を取らない。もし私たちがいやしくもキリストの弟子となるとしたら、主は私たちが全く、何も留保せずに、自分を主に明け渡すことをお求めになる。イエス・キリストは、ある人の半分をご自分のものにしようとはなさらない。その人の全部を――からだも、魂も、霊もひっくるめて――ご自分のものにしようとされる。キリストの弟子になりたければ、自分の持てるすべてを主の意のままに放棄しなくてはならない。例えば、場合により、キリスト者となる者がキリストゆえに投獄されなくてはならないとしたら、喜んで牢屋に横たわり、キリストゆえに死ななくてはならない。かつてあったように、円形演技場に引きずり出され、野獣に引き裂かれなくてはならないとしたら、当時のキリスト者たちのように、喜んでそうしなくてはならない。――必要とあらば、キリストのため、そのように死ななくてはならない。私の主なる《主人》は、ある人の上べだけで満足しようとはなさらない。その人の心、魂、存在すべてを有さなくてはならない。そして、このように自分をキリストにささげようとしない者は、キリストの弟子になれない。これは多くの人々にとって十字架である。そうした人々は、ある程度の留保をつけるか、肉のために少しは心を用い続けたがるのである。もしあなたがそうした立場にあるとしたら、ぜひともこの十字架を負って、キリストに従ってほしいと思う。

 忘れてならないのは、この十字架が、キリストに関わる限り、単に恥辱や非難といった問題ではなかったということである。それは人間相手のことであった。だが、神の御前において、イエスは、その十字架を背負ったとき、御父がお載せになった1つの重荷を負われたのである。そのように、ある人の十字架は、貧困である。その人々は、いかに懸命に労苦しても、決して極貧から脱することができない。他の人々にとって、それは肉体である。ごく幼少の頃から虚弱でか弱いからだである。ある人々にとって、十字架は、ごく頻繁に病や痛みに陥ることである。他の人々とっては、ほとんど寝たきりにさせられる、うんざりするような病である。他の人々にとっては、苦痛である。それなりの体力を有してはいられるが、しかし、しばしば自分の心臓そのものをむしばみ、このように痛ましく長い人生は死ぬほど大儀すぎると感じさせる苦痛である。おゝ、いかに多くの神の子どもたちがこの十字架を背負わなくてはならないことか! あるいは、たといそうでなくとも、ことによると、十字架は不敬虔な夫か、恩知らずな子どもという形を取るかもしれない。しかし、あなたがたの十字架の一覧表を作成する必要はないであろう。ことわざに云う通り、いかなる家にも骸骨[外聞を憚る秘密]はあるものであり、確かに、いかなる運命にも不幸があるものである。

   「ひとりシモンが 十字架(き)を負いて、
    余の者自由に 行くべきや?
    否とよ、誰にも 十字架あり、
    そして十字架は われにあり」。

私たちはみな、何が自分の十字架であるか分かっている。そして、もし私たちの天の御父がそれを私たちのために定められたとしたら、それを負って、キリストについて行かなくてはならない。

 II. さて、第二に、《その十字架に対して私は何をすべきだろうか?》

 よろしい。最初のこととして、決して自分で自分の十字架を作り出してはならない。私の知っているある人たちは、そうしようとする。その人々は、ほとんど心の望みうるものすべてを有していながら、不満足をかかえている。苛立たしげで、不満足な性根をしており、自分の悩みとなる何かを常に見てとることができる。たといそれが他の誰にも見えなくとも関係ない。私はあなたに命ずる。愛する方々。そうした心の状態を警戒するがいい。そうした人は太陽を見上げるときも、「あゝ、あの表面には黒点がいくつもある」、と云い、さやかな月光を眺めても、ただ、「この月の光の、何と冷ややかなことか」、としか思えない。この世で最も青々とした景色を眺めても、その人は云うであろう。この地下のどこかには死火山があるはずだ、もしかすると、それは休火山でしかなく、再び猛然と噴火するかもしれない、と。聖書の中に何を読もうと、その人が常に好んで読むのは、あの数々の鉢[黙16:1]がぶちまけられる場面であり、ことさらに好むのは、あの《苦よもぎ》と呼ばれる星[黙8:11]である。戦争のことや、戦争の噂が聞かれ、方々に地震その他もろもろが起こる日[マタ24:6-7]が来るのを見たいと、ほとんど希望している。ある人々は、自宅の裏手に小さな苦難製造工場を持っているかに思える。そうした人々は、常に種々の新しい十字架を作り出すことに携わっている。私がしばしば云ってきたように、自家製の苦難は、自家製の着物のようなものである。――ぴったり合うことはほとんどなく、長持ちする見込みも低い。おゝ、神の子どもたち。あなたの人生を、絶えざる呻きとしてはならない! それよりもはるかにまさっているのは、あなたの人生を1つの幸いなほめ歌、《いと高き方》に対する、喜ばしい感謝の詩篇とすることである。自分で自分の十字架を作り出してはならない。

 そして次に、自分の十字架を選り好みしてはならない。もちろん、そのようなことはできない。だが、多くの人々は、自分が誰それのような運命であれば良かったのにと願っている。あゝ、あなたは知らないのである。その人の十字架がいかに重いかを! あなたは、あのお伽話を一度も聞いたことはないだろうか? 昔々、十字架を負っている者たち全員が、その十字架を持ってやって来るよう招かれた。そして、その十字架を1つの山にして、各人が最も自分好みの十字架を負って良いことになった。そこで、もちろん、誰も自分が持ってきた十字架を負うことはなく、各人が自分の隣人の十字架を背負って帰って行った。しかし、何時間もしないうちに、彼らはみな戻ってきて、以前の十字架を持たせてくださいと云った。というのも、彼らは悟ったからである。以前に背負っていた十字架は、自分の肩をあまりにもすり減らしてしまったため、彼らはその特定の重荷に慣れてしまっていたのである。だが、新しい十字架によって彼らは、真新しい部位が擦りむけることになった。それで、ひとり残らず隣人の十字架を下に降ろし、元々の十字架をかかえて喜んで帰って行った。総じて見るとき、あなたは、あなたに持てる限り最上の運命を有している。というのも、たといあなたが何らかの点でより良い運命を有することになったとしても、それは別のいくつもの点であなたにとってより悪い運命となるだろうからである。今の自分に満足するがいい。そして、別の人の十字架を選びたいと思ってはならない。キリストは、「十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」、と云われる。「他の人の十字架をほしがりなさい」、とは云っておられない。

 また、キリストがこうも云っておられないことに注意するがいい。「あなたの十字架についてつぶやきなさい」、と。これは、十字架を負うことと正反対である。人が生きてある限り、また、地獄の外にいる限り、愚痴を云うべき理由など全くない。人は、いかなる場所にあろうと、――考えうる限りいかに悲惨な状況に陥っていようと、――本来受けてしかるべき状態よりもはるかに良い所にいるのである。ならば、一言たりとも愚痴をこぼしてはならない。幸いなのは忍耐という恵みであるが、それを獲得するのは大変である。願わくは主が、その無限のあわれみによって、私たちに教えてくださるように! 私たちがその聖なるみこころのすべてを忍び、それを朗らかに忍び、そのようにして自分の十字架をイエスゆえに負うことを。

 キリストは私たちに、自分の十字架から逃げ出せ、とも告げておられない。ある人々はそうしようとする。しばしば私の目にとまってきたところ、人が試練から逃れようとして自分の立場を変えるとき、古い格言がその人々には当てはまるものである。というのも、そうした人々は、焼き鍋を逃れて火の中に跳び込むからである。私の知っている、そうした人々の何人かは、この国での困窮した生活ゆえに外国へ移民する。そして、ほぼ六箇月もすると、この故国は、結局において――私もそう思うが――天下で最高の国だと思うようになる。そして、自分が出てきた場所に戻れさえするなら何と嬉しいことかと考えるのである。もしあなたが、忍ぶべき何の試練もない国に行けると期待しているとしたら、私の知る限り、そのような場所は、天国を除くと1つしかない。それは、愚者の楽園である。そして、そこには入らないように勧めたい。おゝ、しかり! 私たちがこの世に生まれ出たのは、額に汗を流して糧を得る[創3:19]ためである。その汗は何らかの形で私たちの額に流れなくてはならないし、その重荷が私たちの背にのしかからなくてはならない。もしも茨と薊[創3:18]があなたの庭に生えるとしたら、隣の町通りに引っ越しても役に立たない。そこでもそうしたものは生えてくるからである。また、別の国に移っても役に立たない。英国と同じく仏蘭西でも茨は生えるからである。――英国諸島においてと同様、豪州においても、あなたの十字架から逃げ出すことは役に立たず、それは卑怯なことでもある。キリストに命じられた通りに行なうがいい。「十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。

 また、愛する方々。ともすると私たちが行ないがちなことがもう1つある。それは、自分の十字架の下で気を失うか、これは自分が背負うには重すぎると感じることである。いま話を聞いている方々の中に、そのような人がいるだろうか? 愛する兄弟よ。あなたの場合にふさわしい数多くの約束がある。「永遠の腕が下に」[申33:27]。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」[イザ40:31]。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」[Iコリ10:13]。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」[申33:25]。こうした聖句を、あなたの霊にとっての強壮剤とし、こう云うがいい。「私は結局、気を失うまい。私には、これから息を吹き返す望みがあるのだ」。自分の目で天を見上げて、神を自分の御父だと呼べる者のうち、誰が絶望などして良いだろうか?

 ならば、十字架を負うとは、このことでなくて何だろうか? 最初に、愛する兄弟たち。もしキリストについて行くことによって、何らかの蔑みや恥を受けざるをえないとしたら、それを忍び、喜んでそれを忍ぶがいい。もしもそれで何らかの損失をこうむるとしたら、パウロとともに云うがいい。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ……る、という望みがあるからです」[ピリ3:8-9]。おゝ、私の愛する方々。あなたは地上の知り合いたちのために地獄に行きたいというのだろうか? そうではないと思う。そうした知り合いは切り離すがいい。あなたとキリストとの間が切り離されるよりはそうするがいい。この世の子らは、あなたを睨みつけるだろうか? イエスが微笑んでおられるとしたら、睨ませておくがいい。人々はあなたがキリスト者だからといって、自分たちの会堂から追い出すだろうか? 追い出させるがいい。キリストがあなたを見つけ出してくださるからである[ヨハ9:35]。そして、イエスがあなたを迎えてくださるとしたら、誰があなたを追い払おうと大した問題ではない。それゆえ、キリストのゆえに忍ばなくてはならないものを大胆に忍ぶがいい。そして、キリストについて行くことにおいて、死に至るまで忠実であるがいい[黙2:10]。

 次に、十字架を負うという意味は、あなたの父なる神のもとからやって来る種々の患難を甘んじて受けることである。私の愛する方々。これは、あなたも知る通り、云うは易く行なうは難いことである。しかし、それでも、そこには私たちの天の御父が私たちのために満たしてくださった杯があるのである。それをどうして飲まずにいられようか?[ヨハ18:11] 御父は、私たちに背負わせるためにその十字架を作られたのである。ならば、「私たちはそれを背負いたくありません」、などと云えるだろうか? そうした不従順な霊は、必ずやあなたに恐ろしい懲らしめをもたらすものとなるであろう。だが、従順な子供となり、温和で素直な霊をしていれば、その十字架は、そうでない場合よりもずっと軽くなるであろう。願わくは神が私たちにそうした素直な霊を授けてくださるように! 私はそれを目にすると嬉しくなる。また、いかにしばしば神のあわれな、病んだ子どもたちの中にそれが見られることか! 私たちはそうした人々を憐れむ。その苦痛が大きく、ほとんど耐えられそうもないからである。だが、その天の御父について話をすると、その人々は御父に逆らう言葉を一切こぼさず、御父をたたえる言葉を一千も口にするのである。その人々は私たちに告げる。いかに御父が自分たちを支えてくださるか、――やるせない夜の間も、いかに自分たちの心がイエスの臨在によって喜ばされているか、――あまりにも激しくなった苦痛のゆえにこれ以上耐えられないかに思われたときも、いかにイエスの臨在が自分たちの魂に喜びをあふれさせたかを。キリスト者たちが自分の十字架を甘んじて負い、天におられる自分たちの御父のみこころを受け入れている姿を見るのは幸いなことである。そして、これこそ私たちが行なうよう召されていることである。私は、こうした両方の意味、すなわち、キリストと真理とのゆえに喜んで大胆に苦しみを受けることにおいても、天来のみこころを、それが何であれ忍耐強く進んで受け入れることにおいても、私たちは自分の十字架を負い、キリストについて行くのが良いと思う。

 しかし、大きな点はこのことである。私たちが自分の十字架を背負う際に、キリストについて行くべきである。私たちは、そうし続けなくてはならない。火水を辞さず、主について行かなくてはならない。生死を問わず、主について行き、決して、決して、脇道にそれてはならない。そして、このような主について行くことを許されるとは、私たちにとって何たる誉れであろう! 私がいま思っていたのは、もし天にいる栄化された霊たち――イエスがその尊い血を流された者ら――がみな、なだらかな通り道によって、涙も吐息もなくそこに行ったとしたら、――もし彼らが主のために全く何の苦しみも受けなかったとしたら、――私はほとんど目に浮かべることができる。彼らが天でその主の回りを囲んでこう云っている姿を。「愛する《主人》よ。私たちがあなたのために何か苦しむ機会を得ることはできないでしょうか。私たちは地上であなたのために何事かを行なうことは許されました。私たちは宣べ伝え、祈りました。ですが、決して苦しみませんでした」。そして、悪魔はその地獄のすみかからこう囁くかもしれない。「もしあの連中が試みられていたとしたら、――もし神が手を伸べ、奴らの骨と肉とを打っていたとしたら、――奴らはきっと、神を呪っていたに違いない[ヨブ2:5]」、と。しかし、愛する方々。悪魔は決してそう云うことができない。というのも、彼らはその骨と肉とを打たれてきたからである。家に帰ってから、フォックスの『殉教者伝』を手にとってみるがいい。――私は、あなたがた全員がそれを持っていてほしいと思う。というのも、その本はあらゆるキリスト者の家に常備され、ローマ教会の永遠の恥辱とされるべきだからである。――それを手に取り、自分のいのちを少しも惜しいと思わなかった殉教者たちの長い一覧を眺めるがいい。それは、イエスがその目をおとめになったことのある光景の中でも、最も高貴なものの1つであった。主は彼らを眺めて、彼らが愛する主のために喜んで死んで行くのを見ることがおできになった。御使いたちは、天国の狭間胸壁に鈴なりになり、下界を見下ろしては、こう云ったに違いないと思う。「見るがいい。彼らがいかにその主を愛していることか! 見るがいい。彼らがいかに勇敢に主のために死んでいくことか! 見るがいい。いかに臆病で震えつつある女たちが前に進み出て、呻き声1つあげずに拷問台の上で締め上げられ、それから火刑柱にくくりつけられ、そこで焼かれながらも、死に臨んで微笑みを浮かべ、こう云っていることか! 『イエスのみなるぞ! イエスのみなるぞ!』、と」。私は、天国の智天使や熾天使が総掛かりになっても、獄中でイエスのために死んだ者たち、あるいは、イエスを否定するくらいなら火刑柱でその血を流した者たちにまさって神をほめたたえたことは一度もないと思う。あなたが自分の愛を証明するために、キリストのために苦しめることを喜ぶがいい。今日、殉教という紅玉の王冠はあなたの手の届くところにはないが、もし苦しみによる何らかの宝石があなたのものとなるとしたら感謝するがいい。そして、この十字架をイエス・キリストの御名のために耐え忍べるとしたら、それを全き喜びとみなすがいい。

 III. さて、もうしばしの間、私は最後の問いに答えたいと思う。《私たちひとりひとりが自分の十字架を負い、キリストについて行く励ましとなるのは何だろうか?》

 最初に、このことを行なわない限り、私はキリストの弟子ではありえない。そして、おゝ、私はキリストの弟子でなくてはならない! キリストは、私がついて行かざるをえないほどの《主人》である。このような主に、私は仕えずにはいられない。そして、もし主に奉仕する際に、十字架を負うことが伴うとしたら、私は云う。「十字架よ、ようこそ! 主よ。それを私の背中に乗せ給え」、と。私は、主への奉仕に伴う重荷を喜んでになうであろう。

 次に、私たちひとりひとりは、このように考えることで自らを励まそう。「私よりもすぐれた人々が、私の背負わなくてはならない十字架よりも重い十字架を背負ってきたのである」。私は知っている。愛する姉妹よ。あなたの杯がことのほか苦いものであることを。だが、ある人々は、あなたよりもはるかに苦い杯を飲んできたのであり、その人々は、あなたよりもすぐれた人々だったのである。その人々のことを考えてみるがいい。その人々のことは先に触れた。――気高い殉教者たちの群れと、キリストゆえに苦しみを受けてきた大勢の人々とである。あなたは、結局において、こうした人々ほどの苦味で満たされてはいない杯を拒もうというのだろうか? また、考えるがいい。いかにいやまして、あなたの主なる《主人》の試練が苛烈なものであったかを。私たちの一切の悲嘆など、主の悲嘆にくらべれば何であろうか? たとい人間の災厄の全量を山と積み上げることができたとしても、それは、主の悲嘆と災厄という峨々たるアルプスの高峰にくらべれば、もぐら塚であろう。

   「主の道は わが道よりも 険しく暗し。
    わが主キリスト苦しみて などわれ不平を云うべきか」。

人は云う。ギリシヤ人によるペルシヤ侵攻の際、兵士たちが喉の渇きを訴え、長い行軍に倦み疲れたとき、アレクサンドロスは馬の背に乗らず、水を飲みもしなかった、と。この大王のためには常に水が用意されていたにもかかわらず、彼は自分の兵士たちが水を飲むまでは飲もうとしなかった。そこで彼らは、王が熱暑の中を、彼らと肩を並べて疲れながら行軍しているのを見たとき、口々に云ったという。「自分が愚痴を云ってはならない。王様が自分と同じくらい苦しみを受けているのだ。王が耐えておられる以上、自分も耐えなくてはならない」、と。そのように、苦しむ人たち。あなたの《王》を見るがいい! あなたの一切の患難において、この方は苦しまれた。主はすべての点で、あなたと同じように、試みに会われた[ヘブ4:15]。ならば、かつてあなたの《救い主》の肩がになった十字架を恥じてはならない。

 さらに、私たちがその十字架を負うべきなのは、それをになうための恵みが私たちに与えられるからである。あなたは、自分のもとに来つつある十字架をになえないと云う。だが、あなたは、それを背中に受けるときには、より多くの恵みをいただくであろう。神は決してご自分の子どもたちに何らかの恵みを無駄にお与えにはならない。彼らの日に応じて力をお与えになる。そして、もし彼らの重荷がさらに重くなるとしたら、彼らの肩はより強くなる。より多くの恵みを得るには、心から進んで、より重い十字架を背負おうとする方が良い。

 また、やはり思い出すべきは、その十字架があなたにとって祝福となるということである。一千もの良い事がらが、苦しみと非難とによって私たちにもたらされる。神がその子どもたちに宛てて送られる手紙の中でも最も甘やかなものは、黒い縁取りの封筒に入っていると思う。あなたは、神の輝かしい封筒の多くの中に、えり抜きの銀のあわれみをいくつも見いだすであろう。だが、もしあなたが高額な恵みの銀行手形を欲しているとしたら、それは喪章のついた封筒に入って届くに違いない。主は、天を雲で包まれるときこそ、祝福の雨を地に注がれる。雨ゆえに雲を喜ぶがいい。

 次のように考えることも、やはりあなたが自分の十字架を背負う助けとなるべきである。――それによって、イエスには誉れが帰されるであろう。しかり。あわれな婦人よ。私は、今あなたに語りかけていることを知っている。あなたが明るい時を過ごすことはめったにない。あなたの定めは非常に辛いものである。だが、もしあなたがキリスト者にふさわしいしかたでそれを忍ぶならば、あなたによってキリストに誉れが帰されるのである。主は天から見下ろして、こう仰せになる。「見るがいい。いかに彼女がわたしを愛しているかを。わたしのために、彼女は喜んでこのすべてを忍ぼうとしているのだ」。しかり。青年よ。私は知っている。あなたが困苦きわまりない状態にあることを。だが、あなたはよく踏みとどまってきた。そして、あなたの《主人》はあなたの勇敢な行為に注目してこられた。主はあなたが試みに遭うままにしておられる。それは、かつてわが英国の王が、仏蘭西軍と戦っていた自分の息子に対して行なったことと同じである。この王が援軍を送らなかったのは、息子の勝利の栄光を減じさせないためであった。そのように、キリストはしばしばご自分の民が、主の恵みだけによって支えられるままにしておかれる。それは、一個のキリスト者に本当に何ができるかをこの世に見せるためである。それこそ、ヨブとサタンとの瞠目すべき決闘であった。サタンは云った。「ただ私に、彼の富を奪い去り、彼の子どもたちを殺す機会だけ与えてほしい。そうすれば、彼は神を呪うであろう」。しかし、サタンがそのすべてを行なった後も、ヨブはなおもこう云った。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。それから悪魔は、あわれなヨブを頭の天辺から足の踵まで、悪性の腫物で打つことを神によって許された。そうした種類の腫物を1つでも患ったことのある人なら、それがいかに苦痛に満ちたものかを知っている。だが、頭から足までそうした腫物で覆われること、土器のかけらで自分の身を掻かなくてはならないこと、そして、愚かな妻から「神を呪って死になさい」と云われること、また、「友」と称する者たちに取り囲まれて、自分の災厄を悪化させられることは、非常に恐るべき試練である。だが、ヨブはそれらを切り抜けた。そして、悪魔は、それ以上二度と彼に余計な手出しをしなかったと思う。彼は、自分がヨブに手も足も出せないことを悟り、とうとう去っていったのである。おそらく悪魔が誰かからこれほど徹底して打ち負かされたことは、彼がヨブの主なる《主人》に荒野で出会って、いやまして効果的に打ちのめされるときまでなかったであろう。私の信ずるところ、主は、ご自分の苦しんでいる聖徒たちの武勇を喜ばれる。「そら」、と主はかの暗闇の支配者に仰せになると思われる。「わたしは、お前がヨブを思い通りにすることを許した。だが、お前が彼をどうできたのか? 彼はなおも非の打ち所ない、廉直な人間であり、お前は全く太刀打ちできないではないか」。よろしい。もし神がそのように私たちによって栄光を帰されるとしたら、あなたや私は喜んでヨブのような試みを受けようとするであろう。愛する方々。来たるべき時には、あなたも十字架を喜びとするであろう。もし神があなたに十分な恵みをお与えになるとしたら、あなたはキリストゆえに苦しむことに満足し、喜びさえするであろう。ラザフォードは、よくこう云っていた。キリストゆえに自分が背負っている十字架は、自分にとって甘やかなものとなりすぎたため、時として自分は、キリストご自身よりも十字架を愛しているのではないかと心配になるほどである、と。これは、恵みに満ちた一個の魂がどれほどの高みまで達しうるかを示すものである。

 最後に、もうほんの少しすれば、その十字架は栄冠と取り替えられるであろう。伝えられるところ、エリザベス王女は自分の姉の治世の間、とある行列の中で、王家の冠をかかえていたという。それが非常に重いと彼女が不平をこぼしたとき、ある者がこう云った。王女様も、それをご自身の頭に戴かれるときには、それがずっと軽いことがお分かりになりますよ、と。そのように、私たちの中のある者らは、地上では非常に大きな十字架を背負っており、その途方もない重さを感じている。だが、自分の王冠を受けるときには、十分な報いを受けることであろう。

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十字架を負う者たちの行列[了]

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