HOME | TOP | 目次

「キリストは支配しなくてはならない」

NO. 2940

----

----

1906年9月13日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年


「キリストは、すべての敵をその足の下に置くまで、支配しなくてはならないからです」。――Iコリ15:25 <英欽定訳>


 「キリストは支配しなくてはならない」。これとは別に、やはり主の弟子たちが非常に学ぶのに時間のかかった、「しなくてはならない」があった。私たちの主が弟子たちに対して行なった教えの非常に多くは、ご自分が苦しまなくてはならない必然に関するものであった。この教理は、彼らには奇妙にすぎて、最初はほとんど意味をとらえることができなかった。キリストが本気でそう仰せになっていると悟ったとき、彼らはその考えに耐えられなかった。そのひとりなど、自分の主をいさめはじめた[マタ16:22]が、主から厳しく制止された。キリストが苦しまなくてはならないという考えを使徒ちに叩き込むことはできなかった。彼らの霊そのものが、そうした考えに反抗するかに思われた。そして、何を驚くことがあろうか? もしあなたが、この愛しいほむべき主とともに暮らしていたとしたら、また、そのご人格の完璧さ、その賜物の惜しみなさ、その御心の優しさを見てきたとしたら、また、もしあなたが彼らのように、ある程度まで、そのご性質の栄光と、そのご人格の驚異とを知っていたとしたら、このお方が意地悪な扱いを受け、つばきをかけられ、悪党のように絞首台に釘づけられるなどという考えに我慢できただろうか? それは、それほど冷酷な「しなくてはならない」であった。――主が死なくてはならないというのである。何と、主が死なれ、その死に関する一切の預言が成就した後になってからでさえ、それは、なおも弟子たちにとって当惑の種であった。キリストとともにエマオまで歩いていった二人は、このことについて途方に暮れていた。それで主は彼らにこう云わなくてはならなかった。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか」[ルカ24:25-26]。

 この最初の「しなくてはならない」は、神の民が大きな代償を払って初めて学んだものだった。だが、私たちがよく承知しているように、私たちが赦されるための代価はキリストの苦しみと死であった。私たちも理解している通り、贖罪による以外、私たちが近づける道は1つもなかった。――失われた相続財産を取り戻せる唯一の方法は、キリストの刺し貫かれた心臓のうちに見いだされた贖い代しかなかった。そして、今ここには別の「しなくてはならない」がある。私たちにとって、それを学ぶのは、同じくらい困難なことだと思う。十字架の陰が私たちの上には落ちかかっており、私たちはそのような者として生きている。その翳りにほぼすっぽり入ってしまっている私たちには、主の御座からやって来る、そうした必然の微光をとらえることは容易ではない。「キリストは支配しなくてはならない」。十字架は、私たちの肩の上にものしかかっている。それは単に、私たちが十字架の陰の中で生きているというだけでなく、日々朗らかに十字架の重みに耐えなくてはならないということである。それを耐え忍んでいる間、「キリストが支配しなくてはならない」と感じることは容易ではない。おゝ、兄弟たち。あなたが説教しても、誰ひとりあなたの使信に注意を払おうとしないとき、――また、あなたが教えても、子どもたちがその心をあなたの主にささげないようとしないとき、――また、あなたがメシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らし[詩120:5]、至る所でかたくなな、冷たい心に出会い、それがイエスの愛の陽光の下でも解けないとき、――あなたは非常にしばしば、「キリストが支配しなくてはならない」ようには見受けられない、と云いがちである。エホバに対する長い反逆はなおも続いている。天の威光に対するこの恐ろしい反乱は、決して終わらないかのように思われる。それで私たちは時として、この謀反は永遠に続くのではないかと恐れることがある。《十字架につけられたキリスト》が、これから宇宙の征服者になること、かのナザレの人が、これからご自分の白い馬にまたがり、ご自分の征服軍を率いて最後の突撃を行ない、最終的な《勝利》に至ることなど不可能と思われる。だがしかし主は、かつて苦しまなくてはならなかったのと同じくらい真実、確実に、「支配しなくてはならない」。そして、私たちは、この、《いと高き方》によって定められた、予定の必然に心を開くべきである。イエスは支配しなくてはならない。その敗北など一瞬も考えるべきではない。それは遅くなるかもしれない。だが、勝利は来ざるをえない。「キリストは支配しなくてはならない」。それを予期して天を鳴り響かせよう。「キリストは支配しなくてはならない」。地には、その預言をこだまさせよう。「キリストは支配しなくてはならない」。地獄の最も暗い洞窟に、この絶対の必然の便りを聞かせよう。「キリストは支配しなくてはならない」。そして、あらゆるキリスト者に、この喜ばしい響きによって元気と生気を回復させよう。この第二の必然は、第一の必然と同じくらい確実に成就される。「キリストは支配しなくてはならない」。私にその鐘を鳴り響かさせてほしい。あるいは、その喇叭を吹き鳴らさせてほしい。

 I. まず第一のこととして、ここには、《この必然がより大きな成就を迎える際の、一種の序曲、あるいは、伴奏となるような1つの事実》がある。

 その事実とは、主が今も現実に支配しておられるということである。それは本日の聖句に記されている。「キリストは、すべての敵をその足の下に置くまで、支配しなくてはならない」。イエスは、今でさえ天で支配しておられる。そこでは、いかなる恥辱も主に近づくことはなく、いかなる嘲りも主の足元に囁かれることさえない。主はそこで明白な支配を振るっておられる。天上でインマヌエルが即位しておられる王的な状態について完全に描き出すことは不可能だが、あなたの信仰にはそれを悟る努力をしてほしいと思う。あなたは、あなたの聖められた想像力をあえて呼び入れ、主が栄光の中で支配しておられる光景を、大づかみに描き出す助けとして良い。天の領土には、主の意見に異を唱えるような属州は1つもない。栄光の中に住むほむべき部族には、ただのひとりたりとも、主を《王》と喜んで呼ばないような者はない。主が炎とされる[ヘブ1:7]聖なる御使いたちは、主の命令を行なうことを喜びとし、そのみことばの声に聞き従う。智天使や熾天使のあらゆる異なる位階は、忠実な臣下の誓いを立て、天の所におけるすべての御使い、主権、力は、キリストを永遠に自分たちの主と認める。主に贖われた者たちは、天で最も栄誉ある地位を占めている。御座の最も近くには、二十四人の長老たちがいる。これは《教会》の象徴である。それから、外側の円には、御使いたちが立って礼拝し、崇敬している。そして、贖われた者たち全員もまた、自分たちの栄光が主の血によるものだと歌うであろう。――イエスを自分たちの主また《王》と呼ぶであろう。主は、そこでは決してしもべではない。そこでは、いかなる弟子の足を洗うこともしない。ピラトの官邸で裁判を受けるように、そこに行かれはしない。絶対にして至高なるお方として主はおられる。――《王の王》であられる。というのも、主に贖われた者たちはみな王となっているからである。――そして《主の主》であられる。というのも、主が支配している者たちはみな君主と見えるからである。そして、主は、その天の領土の光輝の中で最も高貴な座を占めておられる。

 しかし、キリストの支配が、こうした真珠の門と輝く黄金の街路に限定されていると想像してはならない。それどころではない。というのも、イエスは今日、地上を支配しておられるからである。私の耳も心も、たった今あなたがたが、「御座にむかえよ、万物(すべて)の主(あるじ)と」、と歌うのを聞いて非常な幸いを覚えた。私は、この場にいるあらゆる心が、本当に主を御座に迎えているとあえて希望はしなかった。だが、何千人もの人々が、その魂の奥底で、主にあらゆる誉れと栄光をささげたいと願っており、主に対する自分の忠誠を喜んで告白していることは信じた。おゝ、イエスよ。あなたは今なお地上に、あなたの御名に自分の最高の喜びを見いだす無数の者たちを有しておられます。彼らは、あなたについて考えるとき、地上に自らの天国を見いだすのです。あなたの《教会》の中で、あなたは今なお主また《主人》であられます。そして、たといあなたに反抗し、姦淫の女のようになるような教会があるとしても、あなたはあなたの貞節な花嫁を今なお有しておられます。そして、あなたは彼女に対して明確な主権を振るっておられるのです。

 また、キリストの御国は、天国の《教会》と地上の《教会》とに限定されてもいない。というのも、主は今日、万物を支配しておられるからである。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」[マタ28:18]。摂理は、このナザレ人の意のままである。それを疑いたい者は疑うがいい。私たちは、起こり来るあらゆる出来事が――政治においても、国家においても、社会においても、家庭内においても――主によって、かの壮大なご計画を成し遂げるよう転じられているものと信ずる。それは、主がご自分の選民のために有しておられる、あわれみのご計画である。ヨセフがエジプトで支配し、飢饉のときには万民が食物を求めて彼のもとにやって来たのと全く同じように、イエスは地上の数々の王宮において、ご自分の民の益のために支配しておられる。主の御国は進展せざるをえない。主が常にその舵を取っておられるからである。しかり。混乱が治めているように思われる所においてさえである。主はあらゆる所で《王》であり、嵐にくつわをかけ、雲の翼に乗っておられる。海は、主が地上に受肉しておられたとき、その臨在を認めたのと全く同じように、今も主の臨在を認めている。また、地は主に踏まれるのを感じたのと全く同じように、今もそれを感じている。だが、それはもはや倦み疲れた《人の子》の歩みではなく、神の御子の威厳ある足どりである。主は至る所で支配しておられる。「海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである」[詩95:5、4]。

 主は、また、地獄そのものの中でも支配しておられる。悪霊どもは、その鉄の枷を陰鬱な絶望の中で噛んでいる。主が支配しておられるからである。彼らは、この地上を自分たちのものにしようとしたが、今や《いと高き方》の御子イエス・キリストの武勇と、力強い腕と、雄々しい心とを思い知っている。そして、彼らは主の命令を行なうしかない。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」[ヨブ38:11]。これが、陰鬱で猛々しい諸霊に対する主の命令であり、彼らはいやでも主に服従せざるをえない。人の子らに、もっと大きな害悪をもたらそうといかに躍起になろうとそうである。しかり。イエスは、かの底知れぬ淵から天の高みに至るまで支配しておられる。はるか彼方の、太陽がいま西方の丘々を黄金に輝かせている所から、向こうの東方で、明日の朝、彼が戻って来るのを見張ることになる所まで、こうした一切の領域の上でイエスは支配しておられる。――

   「鷲の羽交(はが)いも はるか越え
    鳩の羽翼(つばさ)も 翔べぬ高みを」。

主は今日支配しておられる。では、主の民は恐れなくこう宣言しようではないか。「主は王である」*[詩10:16]、と。主がいま支配しておられるという事実に、私たちの心は元気づけられる。

   「喜べよ、主は《王》なり。
    汝が主なる《王》 勝ちませり。
    人よ、感謝し 歌うべし、
    永久にぞ続く 勝ちうたを。
    心かかげて 声音(こえ)張りて、
    喜べ、聖徒ら、高らかに」。

 II. しかし、本日の聖句の中心にさらなる目を向けるとき、もう一度この鐘を鳴らして、あなたの注意を引きたいと思うのは、《キリストの支配の必然性》ということである。「キリストは支配しなくてはならない」。これは単に、キリストが支配するようになるとか、支配できるとか、支配するかもしれないということではなく、支配しなくてはならない、ということである。――「キリストは支配しなくてはならない」。なぜキリストが支配しなくてはならないか、考えてみよう。

 よろしい。まず最初の、すべての中で最も薄弱な議論、だが、それでも大きな力がこもっている議論はこうである。主のしもべたちはみな、主が支配すべきであると語っている。十二使徒たちは、また、キリストに直接従っていた者たちは、いかに弱くはあっても、「キリストは支配しなくてはならない」、と語り、本気でそう云った。そして、それを真実とするために生きた。このようにして、地上のほとんどすべての国民は、イエスが天に引き上げられてから一世紀足らずのうちにイエスについて聞くこととなったのである。そこへ地上の王たちがやって来て、主と対立した。そして、主が支配すべきではないと云った。だが、殉教者たちがやって来て、喜んで自分たちのいのちを投げ出しては、ひとり残らず、「キリストが支配しなくてはならない」、と歌った。円形演技場に血があふれ流れる間にも、他の勇者たちが闘技場にやって来ては、おのおのがこの合言葉、「キリストが支配しなくてはならない」、を口にした。地上の王たちは、神の聖徒たちをあざ笑った。「このか弱いユダヤ人どもに何ができるのか?」、と。パロならば、まさに、「いなごなどに何ができようか?」、と云ったであろうようにである。しかし、そのいなごたちはこう答えることができたであろう。「私たちひとりひとりは弱い者です。ですが、私たちは無数です。そして、私たちはやって来て、あなたの国を覆い尽くしましょう。そして、その土地に残されているあらゆる青物を食べ尽くしましょう」。そして、彼らはそのようにした。神の迫害された聖徒たちも、ほとんどそれと同じである。個々の信仰者は弱かったが、彼らは何十人も、何百人も、何千人もやって来た。数え切れないほどの大群でやって来て、ついには王たちがその剣を取り落とし、自分たちの火を全くの絶望とともに消した。そして、彼らは、少なくとも名目上は、キリストが支配するのでなくてはならないことを認めた。その弟子たちがそうさせずにはおかなかったからである。

 さて、今日の私たちが誇らしげに語ることはふさわしくないが、もし迫害の時代が再びやって来るとしたら、このことについて最も語ること少ない者たちの多くは、最初に火刑柱で焼かれるために、あるいは、そのからだを拷問台の上で苛まれるために、大胆に出て行く者たちであろう。それは主イエス・キリストへの愛ゆえである。ムキウス・スカエウォラ*1は、自らその右手を火に突っ込んで燃やしてみせたとき、敵王にこう告げた。ローマには、祖国がお前の手に落ちるくらいなら、お前を殺すと誓った一千人もの若者がいるのだ、と。それを聞いて暴君は身震いした。そして、今も何千人ものキリスト者たちは、そうした陰惨な必要が再び生じさえするなら、朗らかに前に進み出て、自分たちの主のためにいのちを投げ出しては、わが身に何が起ころうとも、「キリストが支配しなくてはならない」、と宣言するであろう。私たちは決して主の軍旗を倒してはならない。あるいは、戦いの日に震えることさえあってはならない。前進するがいい。あなたがた、勇者たちの子どもたち。あなたのために血を流して死んだ主の御名によって! 「キリストが支配しなくてはならない」かどうかについて、あなたの精神には何の疑念もあってはならない。太陽は輝くことをやめ、月はその夜の行進を忘れるかもしれない。だが、イエスは支配しなくてはならない。そうでなくてはならない。というのも、主の民がそう宣言しているからである。

 しかしながら、先に述べたように、これは数ある理由の中でも、最も弱いものであり、それよりはるかに強力な理由はいくらでもある。「キリストは支配しなくてはならない」。というのも、キリストは、エホバの相続人――「万物の相続者」[ヘブ1:2]――だからである。王たちは、必ずしも常に、自分の王冠をわが子の頭上に確保してやれるとは限らない。彼らが死んだときには、ことによると反乱が勃発し、その王朝を転覆するかもしれない。だが、いかなる勢力が《天来の》王朝を引っくり返し、《神の相続者》からその領土を奪い取れるだろうか?

 「キリストは支配しなくてはならない」。というのも、生まれながらに、主は《王》であるからである。主は生まれつき《王》であられた。主が、その目を初めて地上の光に向けて開かれたとき、そこには何がしかの主権が見えたであろう。東方から賢者たちが贈り物を携えてきたのは、このベツレヘムの新生児の王性を認めていると示すためであった。キリストの生涯のあらゆる特徴は王的なものであった。主は決して暴王ではなかった。民衆の《王》であった。だが、その存在のあらゆる面において真の《王》であった。主には全く卑俗なもの、下劣なもの、利己的なものはなかった。主の御手のあらゆる動きは王侯のそれである。群衆に食物を与える際にも、彼らの病を癒す際にもそうである。また、主の御目のあらゆるまなざしは、王たるものである。主が人の罪と堕落について涙するときも、人のそむきの罪を叱責する際にもそうである。

 「キリストは支配しなくてはならない」。主はその誉れに値するからである。主が自発的にご自分の魂を死に引き渡しても、御民をご自分の血によって贖おうとしておられるのを見るとき、――また、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、と叫んでおられるのを聞くとき、――あなたはこう感じずにはいられないであろう。もし天の法廷に正義があるとしたら、十字架上のキリストの死は、キリストの最後ではありえない、と。このすさまじい恥辱には報いがなくてはならない。また、それに対する報いとして、最も輝かしい王冠以外の何が思い描けるだろうか? あるいは、それよりも輝かしいものが何かあるだろうか? キリストは支配しなくてはならない。というのも、キリストはあれほど善良で、あれほど優渥で、あれほど自己犠牲に富み、死においてあれほど自分を忘れておられたからである。私たちは、《神格》に対する信仰を失うのでない限り、キリストの十字架上のあらゆる苦しみに対する報いとしてのキリストの支配を信じずにはいられない。

 さらに、「キリストは支配しなくてはならない」。というのも、誰がキリストを止められるだろうか? 古の時代には、多くの者らがそうしようとしたが、主はそのすべてを打ち負かされた。暗闇の支配者は、荒野で主のもとにやって来て、主の真の王冠に代えて、けちな安物を差し出したが、この誘惑者は、「と書いてある」とのことばで撃退された。暗闇の支配者は、何度も何度もやって来たが、キリストのうちに自分が手をかけられるものを何1つ発見しなかった。そして、じきにキリストはこの大敵をご自分の足の下に押さえつけ、最終的に彼の頭を粉砕するであろう。地の表にいるいかなる悪の軍勢も、キリストに立ち向かうことはできない。というのも、もしもあの呪われた木の上で、その弱さのうちにあって主が彼らを敗北させたとしたら、確実に、その強さを振るうときには彼らを征服なさるだろうからである。主は、死なれたとき、その御足で彼らを踏みつけられた。よみがえられた今、いかにいやまして彼らを完膚無きまでに撃破されることであろう! 主は、その今際の息によって、彼らを風の前のもみがらのように追い散らされた。その復活のいのちに満ち満ちている今、いかにいやまして主は、そうされることであろう? 喜ぶがいい。おゝ、キリスト者よ。イエスに立ち向かえるものが何1つないという事実を!

 「キリストは支配しなくてはならない」。その最良の理由は、こうである。――御父がそう宣言しておられる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」[詩2:6]。神がそれを望んでおられる。それは、私たちにとって十分な理由である。また、神がそれをもたらしておられる。全能がキリストの側にある。私たちはまだ主がその天的な軍善を率いておられる姿を見ていないが、主はそこにおられ、今でさえ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして[黙6:2]出て来ておられる。そして、起こり来る一切のことは、キリストが《王の王》、《主の主》とならなくてはならないという聖定のために働きつつあるのである。

 III. 単にキリストは支配し、支配しなくてはならないだけでなく、《主の御国には1つの進展がある》。それは成長しつつある。人々の子らの間で、いよいよ明確に見えるものとなりつつある。私は種々の預言に立ち入るつもりはない。そうしたことは、私よりも賢い人々にまかせておきたい。私は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの中にいる方が、黙示録の深みの中にいるときよりもくつろいでいられる。だが、主のみことばによって、このことだけは知っている。まず最初に、「キリストは」その選民全員を愛に満ちて「支配しなくてはならない」。彼らの中のある者らは、連れて来るのが難しいが、遅かれ早かれ、やって来ざるをえない。キリストご自身、こう云われた。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません」[ヨハ10:16]。彼らの中のある者らは、いま私たちとともにいる。彼らは長い間あわれみの招きを拒絶してきたが、やがて屈さざるをえなくなる。主権的な恵みがそう定めており、それで彼らは屈さざるをえない。主は云われる。「無理にでも人々を連れて来なさい」[ルカ14:23]、と。そして彼らは無理にでも連れて来られるしかない。というのも、「キリストは支配しなくてはならない」からである。主は、ご自分の血で買い取られた羊の一頭たりとも山地で失われるのをお許しにならない。あるいは、敵から請け戻した魂が1つでも永遠にとりこになったままであることをお許しにならない。彼らを「キリストは支配しなくてはならない」し、支配なさるであろう。そして、来たるべき日に、主はご自分の羊が、一頭一頭、数を数える者の手を通り過ぎる[エレ33:13]ようにし、彼らは全部がそこにいるであろう。その門を通ってくる時には、全部が血の刻印を帯びており、その群れの頭数は完全であろう。その一頭たりとも狼にむさぼり食われてはいないであろう。この《羊飼い》は、その日、ご自分の御父に仰せになるであろう。「わたしは、あなたがわたしに下さっている者らを守りました。彼らのうちだれも滅びた者はありません」*[ヨハ17:12参照]、と。

 また、やはり聖書から明白と思われるのは、未来の時代において、イエス・キリストはあらゆる国々を支配するということである。私は、世界の歴史という一大劇が終わる前に、真理が勝利を収めるはずだと信じている。メシヤに関して、こう書かれている。「彼は海から海に至るまで、また、川から地の果て果てに至るまで統べ治める。荒野の民は彼の前にひざをつき、彼の敵はちりをなめる」[詩72:8-9 <英欽定訳>]。《北方》は手放し、《南方》はもはや手元にとどめることをせず、彼らは主の息子たちを彼方から、主の娘たちを地の果てから連れてくる。私は、その時代を待ち望まずにはいられない。そのとき、「主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ」[イザ40:5]。幸いな日よ! おゝ、それがすぐに来るならどんなに良いことか! あわれみの働きに邁進するがいい。おゝ、宣教師たち、伝道者たち! 労苦し続けるがいい。説教者たち、教師たち。というのも、「キリストは支配しなくてはならない」からである。私たちの大目的はいつまでも未完ではない。イエスはこれから国々を屈服させ、彼によって主と、また、神と認められるに違いない。

 やはり私に分かっているのは、キリストが、いつの日か全人類を支配されるということである。彼らがそれに喜んで同意しようと、反抗しようと関係ない。主に向かって、すべてが膝を屈め、すべての口が、「イエス・キリストは主である」、と告白して、父なる神がほめたたえられる[ピリ2:10-11]からである。

   「世界中 主は統べ治め
    そのご支配に 果てしなし」。

 そして、それをも越えて、私が待ち望んでいるそのとき、イエス・キリストは、この地上であらゆる自然界を支配されるであろう。そのとき、主の敵どもはことごとく屈服させられ、新しいエルサレムは、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、天から地上に下って来る[黙21:2]。黙示録を読むがいい。すると、私たちが普通天国に当てはめている多くの事がらが、実は、この地上で起こることの描写であることに気づくであろう。これは、単なる詩的空想ではないと思うが、私の信ずるところ、この惑星をいま包み込んでいて、それをその姉妹の星々よりもぼんやり霞ませている霧は、いつの日か吹き払われるであろう。そして、地球は、あの原始の朝にそうであったように輝き出すことであろう。神の子らが、新しい創造を見て喜び叫んだ[ヨブ38:7]古の日と同じようにである。こう信ずることは決して虚構ではないと思う。来たるべきその日、回復された人類は、キリストの現身をもっての支配と結びついて、あらゆる空の鳥、あらゆる海の魚、また、海路を通うものを統治するはずである。そして、このことは比喩ではなく、実現した事実となる。「ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく」[イザ11:6]。――そのとき、冒涜の囁きは、単に崇敬の轟きの中にかき消されるばかりでなく、知られることもなくなる。――そのとき、罪の最後の汚点や痕跡が消失し、地球は、あたかも一度も汚されたことがなかったかのように、また、その哀悼の日々が永遠に幕を閉じたかのように、あなたのものとなる。そして、「栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ」、が日の出から日の入りに至るまで歌われ、夜回りは賛美の歌とともに行なわれ、御使いたちは、天上の御座と地上の御座の間を行き来して、正義の住む新しい天と新しい地[IIペテ3:13]が見られる。――

   「ハレルヤ! ――聞けよ、響きの
    中心(なか)より 天空(そら)へ
    上空(うえ)、地下(した)、周囲(まわり)を 呼び覚まし、
    被造世界(ちのもの)すべて 唱和(こえをあわ)すを。
    エホバの旗は 巻きとられ、
    御刀(かたな)仕舞われ、のたもう、完了(おわり)を!
    かくて、この世の 国はみな
    御子の国とぞ なりぬべし」。

そのとき、壮大な絶頂がやって来る。主は、「すべての敵をその足の下に置く」。――彼らを消滅させるのでも、絶滅するのでも、回心させるのでもない。御足の下に置かれるのである。そこにはなおも一個の悪魔がいるが、それはキリストの御足の下にいる悪魔となる。失われた霊たちはなおも存在しているが、偉大な《征服者》が彼らをその全能の踵の下に押さえつけている。死は滅ぼされる。「最後の敵である死も滅ぼされます」[Iコリ15:26]。私たちは、人々が死んだことを覚えているであろう。私たち自身、死の力の下をくぐり抜けたことを覚えているであろう。だが、死のあらゆる苦々しさは、私たちに関する限り、はるか遠くに過ぎ去っている。キリストの死によって、永遠のいのちは私たちのものとなっている。おゝ、私の前にはいかなる展望が開けていることか! 私の時間は、あまりにもすみやかに過ぎ去りつつある。この手の主題について語るときは常にそうである。それで、語りたいと思うことも語らずにすまさなくてはならない。だが、あなたの信仰によって、私があなたに思い起こさせてきた栄光に富む未来に身を置いてみるがいい。それは、あなたが想像してきたよりも、ずっと間近かもしれない。もしあなたが一心に耳を傾けるとしたら、来たりつつある《王》の戦車の車輪の音が聞こえるかもしれない。この方がいつおいでになろうと、お迎えする準備をしているがいい。それは今晩かもしれない。時計が真夜中の時を打つ前に、天と地でこう叫ぶのが聞こえるかもしれない。「そら、花婿だ」[マタ25:6]。そして、あなたは、自分の寝床から飛び起きて、主をお迎えしなくてはならないであろう。あなたは、喜ばしく、待ちに待った《王》として、歓呼して主をお迎えする準備ができているだろうか? それとも、憂いに沈みながら主を迎えて、御足の下に踏みつけられることになるだろうか? 「キリストは、すべての敵をその足の下に置くまで、支配しなくてはならないからです」。

 それで、しめくくりに私はこの質問を発したい。――各人は、自分にできる限りそれを肝に銘じるがいい。願わくは神の御霊がそれを突き入れてくださるように!――このように予定された大いなる出来事と、私はいかなる関係にあるだろうか? キリストの勝利は私といかなる関わりがあるだろうか? 私は、主の敵たちのひとりだろうか? かりに一匹のぶよが、太陽から燃え上がる、想像も及ばないほど熾烈な熱の中に飛び込めるとしたら、それは瞬時に滅ぼしつくされるに違いない。そして、もしあなたがキリストに対抗しているとしたら、あなたもそれと同じに違いない。あなたがた、土でできた陶器たち。あなたと似た他の陶器たちと争うがいい。あなたがイエスと争うのは、陶器が鉄の杖と争って、どちからが粉々に砕けるか競うようなものである。あなたに勝ち目は全くない。だがら、望みのない企てはあきらめるがいい。あなたが全く取るに足らないものであるため、あなたの反抗は、宇宙の知的存在たちが物事を正しく判断するその日、蔑まれるべきものとなるであろう。

 ならば、どうか? 私たちは屈服した方が良いではないだろうか?――私がそう云うのは、そうせざるをえないからではない。そうすべきだからである。というのも、この場合、キリストの力は正義の側にあり、力が正義の味方を得ているとき、力に屈するのは人として決して不名誉ではないからである。「私はキリストに屈服します」、とある人は云うであろう。あなたはどこまで屈服するだろうか? キリストによって救われるほどに屈服するだろうか? 「はい」、とあなたは云うであろう。キリストによって赦されるほど屈服するだろうか! 「はい」、とあなたは云うであろう。あなたは、主の弟子となるほど屈服するだろうか? 「はい」、とあなたは云うであろう。しかし、主があなたを支配するほど屈服するだろうか?――主が命じられることを行ない、主が禁じられることは行なわないのである。主はあなたの上に立つ《王》となって良いだろうか? もしあなたが、この条件以外のしかたで主を有したがっているとしたら、あなたは全く主のものになることはできない。というのも、「キリストは支配しなくてはならない」からである。

   「されど知れ、(言葉(こと)に かこつな)
    イェス来なば 支配(おさ)め給えり。
    その支配(のり)は 部分的(かたごと)ならで、
    不従順(さからえ)る 思いは絶えぬ」。

あなたは、このように主から支配されても良いだろうか? これは、きわめて重要な点である。悲しいかな! 多くの人は云うであろう。「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません」[ルカ19:14]、と。だが、このように無分別になってはならない。むしろ、イエス・キリストに屈服し、この方をあなたの主、また、《王》とするがいい。もしそうしようとしなければ、もう一度あなたに、すさまじい選択肢を思い起こさせなくてはならい。あなたは、主にあなたを支配していただくか、主の足の下に置かれるしかない。あなたは今まで、受肉した神の拒絶された愛の重みがいかなるものとなるか、総計したことがあるだろうか? このお方は、罪人たちのために死なれたのに、その言葉に尽くせぬ愛にもかかわらず、無数の者たちから拒絶されていておられる。あなたの洋筆を取り上げて、できるものならその重みを計算してみるがいい。――永遠の愛が侮辱されたがゆえの全能の瞋恚、――これまで決して夢にも見られたことがないほどの天来の同情が、厚かましい人々の子らの足で蹂躙されたという事実によって、怒りをかき立てられた全能。天と地とを造られた、また、あなたがたひとりひとりを造られた神にかけて、私はあなたに懇願する。あなたの正当な《王》たるキリストに屈服するがいい。罪人として自らを屈服させ、主に信頼するがいい。人として自らを屈服させ、主の命令に従うがいい。喇叭の響きと、お付きの御使いらを近衛兵としてやって来る、審くに迅く、罰するに峻厳なお方にかけて、私はあなたに切願する。どうか今、主の前に平伏してほしい。私は死の冷たい手につかまれ、1つの声が自分にこう語りかけるのを感じたかのようである。「人よ。いま、これを限りに思い切って云うがいい。そして、あなたの《王》の命令に従うがいい」。そのように私も、このお方の御名によって語る。生きている人と死んだ人とを審くために来られるとき、その畏怖すべき臨在の前で天地をよろめかせるお方の御名によって語る。ご自分の福音を拒否する一切の者に対して、あわれみの門を閉ざすことになるお方の御名によって、単にあなたに願い、あなたに懇願するだけでなく、その御名によってあなたに命じる。悔い改めて、回心させられるがいい。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。おゝ、神よ。この使信をご自分のものと認めてください。これは、あなたご自身の真理なのですから! そう証明してください。イエスのゆえに! アーメン。

----
-- 


(訳注)

*1 ムキウス・スカエウォラ。古代ローマの歴史伝説中の人物。自らの右手を犠牲にしてローマを救ったという。[本文に戻る]

「キリストは支配しなくてはならない」[了]

----

HOME | TOP | 目次