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大いなる変化

NO. 2934

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1905年5月4日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1862年


「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです」。――ルカ13:30


  古い時代に出版された一部の書物には、著者が手指の形を欄外に記すのが常であった。それは、著者が格別な注意を引きたいと思っていた箇所を指摘しているかに思われる。さて、聖書の中に「見よ」という言葉があるときには常に、それと同じ目的が果たされている。それは、何か新しいこと、印象的なこと、あるいは、これからすみやかに発生するため即座に注意する必要のあることを示すためのものなのである。あるいはそこには、通常人々が期待することとは反対のことがあるため、人々の考察は、いやまして熱心にそのことへと差し向けられているのである。今晩の私たちは、欄外にこの「見よ」が、いわば道しるべのように立っているのを見てとっている。それは私たちに向かって、立ち止まり、一息ついて学ぶように指示している。そこで私たちはその通りに行なおうと思う。そして、願わくは神の御霊が私たちの《教え主》となり、私たちが聞いて益を受けられるように。

 「今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです」。マタイやマルコにも、ルカにあるのと類似した箇所がある。マタイで、その箇所の前後関係を見ると、そこではキリストが、これを現世的な種々の状況に関わらせようとしておられる。ペテロは主に向かって、自分は仲間の使徒たちとともに、自分の持っているものすべてを置きざりにしてキリストに従ってきたと語った。そして彼の《主人》は彼にこうお知らせになった。すなわち、彼はそのことによって決して損失をこうむることなく、むしろ、家や土地や子らや妻をキリストの御名と福音のために置きざりにしてきたことによって、大いに得をすることになるのだ、と。「というのも」、とキリストは云われる。「先の者があとになり、あとの者が先になる」*[マタ19:30]からである、と。兄弟たち。では、この言葉から、このことを理解しよう。種々の環境は、またたくまに変遷することになる。身分が高く、権力を有する人々は、いつまでもそのように高く上げられているわけではない。身分が低く卑しい人々はいつまでもそうした不面目な地位にいるわけではない。世界の歴史全体を通じて、罪は高位高所で鉄や青銅の靴を履いて闊歩してきたし、一方、敬虔さは裸足で谷間を歩いてきた。この上もなく不敬虔な大勢の人々が宝冠を戴いてきたし、紫衣を羽織ってきた。その間、その同数をはるかに上回る多くの高潔な人々が、櫓こぎ船の櫂をこぐか、長きにわたって投獄されるか、「羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ」[ヘブ11:37]てきた。なおも、金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らし、その間ラザロはその門前で全身にできものをこしらえ、犬たちからその舌で善を施されている[ルカ16:19-21]。なおも、ネロは王座に着いており、パウロはローマの地下牢の中でやせ衰えつつある。なおもチャールズ二世は王冠を戴き、清教徒たちは「さげすまれ、人々からのけ者にされ」[イザ53:3]つつある。歴史書のいかなる頁に目を向けようとも、そこでまず間違いなく目につくのは、悪人が大きな権力を握り、青々とした月桂樹のように羽振りをきかせている姿であり、その一方で義人が一日中悩まされ、毎朝懲罰を受けている姿である。よろしい。来たるべきその時には、こうしたすべてが変化することになる。おゝ、《死》よ! お前が手を一振りするだけで、罪の威光はどうなるだろうか? おゝ、神よ! あなたの御口の一息で、権力者たちの栄光はどうなるでしょうか! あなたの聖徒たちを悩み苦しめていた不敬虔な人間の威勢や権力はどうなるでしょうか? そこを見るがいい。金持ちは穴のどん底に下っており、ラザロは王座に引き上げられている。そこを見るがいい。ネロはやせ衰え、腐りつつあり、パウロは御使いたちの翼に乗って、すぐれて高い所の大能者の右の座に[ヘブ1:3]運び上げられている。貧困に苦しみ、ほとんど枕する所も得られなかった、この卑しい天幕作りは、最底辺の者たちと肩を並べていた。だが、しんがりの者であった彼は、今や先頭に立っており、永遠の御座に最も近い所にいる。――かつては

   「輝(はゆ)る者らの 二倍も輝(は)えて」、

誇り高ぶり、全地を自分の意のままにし、ローマの全軍団を自由に動かすことのできたネロは、世界を統治し、自分を神と考えたが、今や最低の奴隷でさえ彼より偉大であり、彼らは彼を嘲り、野次っている。また、彼によって王座を失った君主たちさえ、また、彼がちりに踏みにじった人間たちさえ、ハデスにおいては、こう叫んで彼を出迎える。「あなたもまた、私たちに似た者になってしまったのか?」[イザ14:10参照] そして、権力者が失墜し、高ぶった者が泥の中で汚れ果てることに非常に驚く。ならば、忍耐するがいい。忍耐である。あなたがた、貧困の子らでありながらも、神の子らである人たち。あなたがたの自慢を鎮めるがいい。あなたがた、御怒りを受け継ぐべき子らでありながら、富裕を受け継いでいる人たち。その形勢は逆転することになり、永遠が人生の不調和を取り消すことになる。時よ! お前の不平等はみな忘れ去られ、正義があらゆる不正を正すことになる。「今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです」。

 それで、兄弟たち。話を進めることにすると、疑いもなく、このことは、世の評価に関しても同じように当てはまる。純金で値踏みされる高価な神の子らは、長年月の間、陶器師の手で作られた土のつぼ[哀4:2]のようにみなされてきた。最初の三世紀の間、キリスト者たちには、ありとあらゆる悪逆な行為がなすりつけられてきた。キリスト者は、いかに下劣な悪漢よりも悪辣な者となった。この世は彼らを野次っては町通りから追い立てた。彼らは考えられる限り最悪の呼び名で呼ばれた。「こんな奴らは、生かしておくべきではない」*[使22:22]。これが、《十字架につけられたお方》に従う者たちに対するこの世の判決であった。そして今日でさえ、敬虔な人の世評は決して良くない。確かに今は拷問台も、牢獄も、罰金もない。だが、あざけりや、冷やかしや、肩をすくめられることや、悪口雑言や、恥辱や、つばを吐きかけられることは、今でさえやんではいない。天才や、知性や、科学や、趣味や、詩歌や、文学には黄金の神殿が建てられている。だが敬虔さは、単に便宜上、存在を許されているにすぎない。

 私がいま語りかけているキリスト者の人々、特に初信の回心者たちの中には、社会で冷遇されること、友人たちから無視されること、両親から脅されること、かつてはいい人だと云ってくれたあらゆる人から捨てられることを痛切につらく感じている人々がいるかもしれない。左様、忍耐するがいい。忍耐である! あなたがた、キリストのためにしんがりになっている人たちは、やがてキリストとともに先頭に立つことになる。栄誉において、きょう先頭に立っており、自分たちは決して狂信に屈さず、自分たちは決して熱狂的にキリストに従ったりしないからといって、偉大で名のある者なのだと考えている人々――彼らはしんがりの者らのひとりとなる。来たるべきその日、彼らは、「そしりと永遠の忌みに目を覚ます」*[ダニ12:2]。世論を示す種々の機関はその基調を変えるであろう。不敬虔な人々を崇拝したこの世は、彼らの恥辱を見るようになる。かつて聖徒たちを見下していた目は、彼らを貴族中の貴族として崇拝するように仕向けられ、キリストを憎んだ者たちは軽視されるようになる。この2つの思想をあなたの記憶に釘付けにするがいい。だが、私はむしろ、もう2つの別の思想について詳しく語ることにしよう。本日の聖句の最初の部分は、私には恵みの驚異を教えていると思われ、次の部分は罪の驚異を教えていると思われる。

 I. ここには確かに《恵みの驚異》がある。「今しんがりの者があとで先頭になり」。

 ここには神の主権がある。――しんがりの者を選んで先頭の者にする主権である。ここには主権の恵みがある。――最大の罪を赦して最も光輝く聖徒とする恵みである。ここには全能の力がある。最も堕落した者をも変え、最も強情な罪人の向きをも転じて、その魂を「御力の日に喜んで仕える者とされる」[詩110:3 <英欽定訳>]のである。

 この、今しんがりの者とは何を意味しているのだろうか? 私の受け取るところ――もし私がその意味を正しく理解しているとすればだが――、それはこういう意味である。世の中にいる一部の人々は、血統においてしんがりである。彼らは、どこかのあばら屋の薄汚い部屋か、屋根裏か、地下室か、路地裏で、不信心な両親から生まれた。そこで彼らの耳に最初に届いた音は冒涜であり、彼らの目に最初に入った眺めは酩酊であった。そうした人々がロンドンにはどのくらいいるだろうか? 実際、その生まれを考えれば、彼らこそしんがりである! あわれな者たち。彼らは、単に貧困に生まれついたばかりでなく、悪徳の愛し子であるように思われる。ある子どもたちが社会に到来した、まさに最初の瞬間から、いかなる不幸の下に置かれるかを思うとき、私たちの目は血涙を流して良いであろう。しかしながら、神に栄光あれ。こうした者らの中には先頭になる者たちがいるのである。神はご自分の宝石をロンドンのむさくるしい住まいや、裏路地や、貧民窟の中で見いだし、遊女の子らや盗人の子らをご自分の永遠の御座へと引き上げてくださるであろう。そして彼らは、神の驚くばかりの恵みを永遠に歌うようになるのである。

 また、教育においても彼らはしんがりの者である。彼らは町通りに放り出されては、あらゆる少年から移される悪徳を身につけ、幼心には夢にも思わなかったような悪行を悪い男たちから学びとる。もしあなたがわが国の《貧民学校》、それも特に最も低劣な地区のそれに足を踏み入れるなら、あるいは、もし聖ジャイルズ街の宣教師グレゴリー氏が、自分の見ている罪のすべてについて、また聖ジャイルズ街の青少年たちが受ける教育について話をするのを聞くとしたら、おゝ、聖ジェームズ街の紳士たち! それはあなたを赤面させてしかるべきである。――あなたが彼らに対して何もしていないことを恥じて赤面すべきである。――あなたの隣人をこのように生きるままにしていることについて自分を恥じるべきである。これでも彼らはあなたの隣人なのである。たとい彼らがあなたがたの豪華な通りや街路や広場や高台に立ち並ぶ広壮な邸宅の背後に隠されているとしても関係ない。よろしい。こうした者らは教育においてしんがりの者である。だが、神に栄光あれ。絞首台行きの教育を受け、流刑囚居住地に向かうよう仕込まれたある者らは、それにもかかわらず、主の教えを受け、聖徒たちの交わりへと導き入れられることになるのである。不可抗の恵みがやって来て、彼らを炉の中から引き抜き、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらい[ユダ23]つつも、彼らもまた《贖い主》の冠で輝く宝石となるものとみなすのである。

 それからまた、彼らは品行においてしんがりの者である。夕まぐれに、彼女が魂をあさるため外へ出て来るのを見るがいい。また、彼が、夕まぐれででもあるかのように安酒場から安酒場へとよろめき歩き、飲んだくれて、悪態をつき、呪いを口走るのを見るがいい。あゝ! この巨大な悪徳の巣窟、この不義の町には、こうした、品行においてしんがりの者たちが欠けてはいない。ソドムは、ロンドンの罪人たちに伍するような罪人たちを見いだせただろうか? あなたがたはどう考えるだろうか? ツロやシドンは、私たちの玄関近くにある、また私たち自身の町通りで見られるだろうもろもろの不義にまさることができただろうか? 私はそうは思わない。今晩、ひとたび日が沈んだ時には、さほど遠くまで行かないうちに、瓦斯灯という瓦斯灯の下にしんがりの者たちが見えるであろう。神はほむべきかな! 彼らの中の何人かは先頭となる。主をほめたたえよ。あなたがた、御使いたち。この場には彼らの中の何人かがおり、彼らの中の何人かが救われており、彼らの中の何人かが火からつかみ取られており、彼らは天で歌うことになるのである。また、実際に地上で正しくも甘やかに歌っているのである。しんがりの者を先頭にした愛をたたえているのである。

 こうした者らの何人かは、いかなる見かけをしていようと、その道徳的堕落に加えて、恵みの影響の受けやすさという点でしんがりの者であったとしたらどうだろうか? あなたは私がいかなる人々を意味しているか分かるであろう。その顔をのぞき込むとき、暗い夜には会いたくないと感じさせるような人々である。世の中には、その顔つきに、通常の人々には全く見ることまれな鈍感さと無慈悲さをたたえた人々がいる。あのスコットランド人がロウランド・ヒルに云った言葉を覚えているだろうか? この男がロウランド・ヒルの顔を長いこと見つめていたため、ロウランドは彼に、「何を見ているのですか?」、と尋ねた。「あなたの人相を見ていたのです」、と彼は云った。「それでは、私についてどう思われましたかな?」 「何と」、とこの男は云った。「こう思っていましたよ。もし神の恵みがなかったとしたら、あなたはこの世に生きている中で最も途方もない悪党のひとりだっただろう、とね」。そこでロウランドは、「まさにその通りです」、と云った。彼は自分でもそう感じていたのである。そして、私たちはみなそう感じてきたと思う。私たちはみな、ある立派な人が云ったように感じてきたと思う。「神の恵みがなかりせば、あそこに行くのはジョン・ブラッドフォードなのだ」。私たちはみな、主権の恵みが妨げなかったとしたら、居酒屋や、監獄や、絞首台にまで行っていたかもしれない。一部の人々は生まれつき他の人々よりもがさつで、粗暴で、荒っぽく、乱暴であるように思われる。彼らには激烈な情動があり、悪鬼のような癇癪を起こす。他にいかなる言葉を用いることができよう? 彼らの癇癪は、ちょっと不愉快なことがあっただけで、彼らをまさに狂人めいた状態にしてしまう。彼らは足を踏みならすほかなく、言葉を喚き散らすが自分でも何を云っているか分からない。こうした人々が救われることがあるとしたら、しんがりの者だとあなたは考えるであろう。左様。だが、こうした者らの中の多くの人々が先頭にされてきたのである。不思議にも神は、私たちが投げ捨てるだろうような当の人々をお選びになる。最も無価値で、最も絶望的で、不運で、無力な者たちを。主権の恵みはその目を彼らに据えて、彼らのひとりひとりについて、「私はあの男を私のものとしよう」、と云う。その人の意志は強情を張り、救いを訴えかける声に最後まで抵抗する。だが恵みはその人をわがものにしようとする。おゝ、その人の頑強な意志よ、それが今やキリストの御国を進展させるため、いかに用いられていることか! その人のそのかたくなな心は、今や柔らかくされて、聖なる勇気を示し、また、作りの違う人々にはまるで知られないような豪胆で、恐れを知らぬ物腰を示しているように思われる。「今しんがりの者があとで先頭になり」。

 これらすべてから、私たちはいかなる推論を引き出すだろうか? いくつかの教訓が引き出せる。まず、あなたがたの中のある人々、自分はしんがりの者だと考えている人々に対する励ましがある。神をほむべきことに、このタバナクルには常にこうした、しんがりの人々が何人かいる。神が私たちを、体裁の良い人々しか受け入れない排他的な会衆から救い出してくださるように! 私はあらゆる種別の人々を見ることを嬉しく思う。貧者がやって来るの見ると実に嬉しく思う。また、卑しく、よこしまな者がやって来るのを見ると嬉しく思うし、実際にそうした者がやって来ているのを知っている。私は、こう云われたときのロウランド・ヒルのように感じている。「サリー会堂に通っているのは、下層の有象無象の烏合の衆だけですな」。「あゝ、ならば!」、と彼は云った。「ようこそ下層の人たち。また、ようこそ有象無象の人たち。また、ようこそ烏合の衆の人たち。――こうした人たちこそ、会堂にやって来るのを見たいと私たちが願っている種類の人たちですぞ」。ならば、ここにはあなたに対する励ましがある。あわれみの門は大きく開かれており、キリストはあなたを招いておられる。今のこの時、キリストに信頼するがいい。というのも、「今しんがりの者があとで先頭に」なるからである。

 また、兄弟たち。救われている私たちにとって、何とへりくだらされる原因があることか! 私たちは、しんがりの者ではなかっただろうか? 私は確かにそうである。あの頑固な小僧を見るとき、あのかたくなで強情っ張りの小僧、あの、人の云うことに決して屈さず、屈そうともしなかったあの小僧について考えるとき、また、どれほど厳しく折檻されても、いかなることについても詫びを入れようとしなかったあの子どもについて考えるとき、そして、それから恵みによって救われた私自身について考えるとき、私は驚嘆する。いかにして神は私のような者をお選びになるのだろうか? また私はあなたがたが全員、「なぜ私なのですか? 主よ。なぜ私を?」、と云えると思う。そしてそれは、このことに帰することができよう。「今しんがりの者があとで先頭になり」。

 そしてまた、これは、あなたや私がキリストに仕えるべき何という理由でもあることか! 何と、主は私がしんがりの者であったときに私をご覧になったというのに、私は主のために働きたがらないのだろうか? そこをどくがいい、あなたがた、一団の冷たい心をした人たち。そこをどくがいい、あなたがた、無頓着な、自分の《主人》に仕えることのできない信仰告白者たち。私は神に仕えなくてはならないし、ぜがひでもお仕えしよう。というのも、私は神に、あなたがたよりも多くの負い目があるからである。マリヤよ。私はお願いする。あなたの優しい心根によって、そこをどいてほしい。どいてほしい。私は、かのほむべきみ頭の上で、私の石膏のつぼを割らなくてはならない。というのも、私は多くを赦されているので、よけいに愛しているからである[ルカ7:47]。私は主のため多くのことを行なわなくてはならない。大罪人たちは、大聖徒となるであろう。彼らは恵みが働きを及ぼすべき栄光に富む原材料である。そして、彼らが救われたときには、彼らはハデスの門さえも揺るがすであろう。サタンの陣営の頭目たちは、キリストの陣営では高貴な下士官となる。この勇者中の勇者たちこそ彼らである。神よ、私たちにそうした者を数多く送らせ給え。そうすれば、私たちはこれから悪の軍勢を私たちの前で一層し、不義を海の深みに叩き込むであろう。「今しんがりの者があとで先頭になり」。おゝ、愛する方々。私は今この網が、しんがりの者たちを何人か捕えることを願っている。私は知っている。向こうにいる青年が、キリストは自分のことなど決して救ってくださらないだろうと考えていることを。「今しんがりの者があとで先頭になり」。私は知っている。あそこにいる若い婦人が自分の良心に、私などはぐれ者なのだ、私のことは絶対に見過ごされるのだ、と書き記していることを。――あなたが今しんがりの者のひとりであると私には分かる。あゝ、だがあなたは先頭の人々のひとりとなるであろう。ただキリストを信ずるがいい。ただ主を信頼するがいい。主は神であられる。あなたを救うことがおできになる。主は人であられる。あなたを救うことを欲しておられる。主に信頼するがいい。主の約束は与えられている。主はあなたをお救いになるであろう。あなたをあらゆる罪から洗ってくださるであろう。そして、喜びをもってあなたを最後にはご自分の前に連れて来てくださるであろう。

 II. しかし今、私はこの聖句の第二の部分をできるだけ手短に取り上げ、《罪の驚異》について語らなくてはならない。「いま先頭の者がしんがりになる」。

 家系において先頭の者たち、聖なる子守歌ですやすやと眠らされ、敬神の念に富む膝の上であやされ、優しさと愛の胸にいだかれてきたあなたは、母上の腕から、かの滅ぼす者のすさまじい把握へと至り、父上の拒絶された助言から罪人の悲惨きわまりない運命へと至ることになる!

 「いま先頭の者がしんがりになる」。しつけにおいて先頭の者たち、《日曜学校》で教えられ、多くの祈りを受けてきていながら、多くの嘆きをもたらすことになる者たち。

 「いま先頭の者がしんがりになる」。種々の特権において先頭の者たち、忠実な牧会伝道者の教えを受け、警告され、勧告され、懇願され、訴えを聞いてきた者たち。「いま先頭の者がしんがりになる」。多くの光と知識を受け、良心を目覚めさせられながら、それを消し、御霊の警告を受けながら、それを押し殺してきた者たち。「いま先頭の者がしんがりになる」。きちんと神の家に通い、聖書をよく読み、教理において良い訓練を受け、神の道を理解していながら、その道を走っておらず、自分の義務を知りながらそれを行なっていない者たち。「いま先頭の者がしんがりになる」。おゝ、話をお聞きの方々。私は今晩、先頭の者であるあなたがた、何千人もの人々に向かって語っている! 私がこの場にはしんがりの者たちがいると云ったとき、私はごく数人を眺めていた。だが、おゝ、あなたがたの中のいかに多くの人々が先頭の者たる部族や家族に属していることか! あなたは安息日を破る人々ではない。あなたがたの中のほとんどの人はそうではない。――あなたは礼拝の場所にやって来る。あなたは異教徒ではない。――あなたは聖書を持っている。時にはそれを読むこともある。また、キリストを信じる信仰がいかなるものかを、心の中にそれを有していなくとも、頭では知っている。おゝ、ロンドンよ! ロンドンよ! ロンドンよ! 商品と富との麗しい首都よ! いかにお前は、お前の数々の特権によって天に上げられて[ルカ10:15]いることか! キリストは、今やあらゆる町通りの片隅で、お前の数ある公園で、お前の数ある広場で宣べ伝えられている。キリストは、お前の数ある劇場で宣べ伝えられており、望みさえすれば誰でも話を聞ける場所で宣べ伝えられている。あなたがたは先頭にして最前面に立っている。おゝ、ロンドンに住んでいる人たち。多くの国々の羨望の的であり、あらゆる国々で抑圧された者らの逃れ場の町。あなたがたの中のいかに多くの人々が、アフリカの野蛮人や、ニュージーランドの食人族よりも悲惨な目に遭うことか! 「いま先頭の者がしんがりになる」。

 私はこの聖句について説教できない。その力がない。この厳粛な真理を、私が望んでいるようなしかたで指摘し、あなたの良心に突きつける力がない。私はただ、もう一度こう云うことによって、それをこのようにあなたの耳の中で打ち鳴らし、響かせることしかできない。「いま先頭の者がしんがりになる」。

 覚えておくがいい。もしあなたがそうした者であるとしたら、――そして、これがこの件全体の結論となるが、――あなたがしんがりになるということには、途方もない責任が伴うであろう。なぜなら、あなたは先頭の者であったからである。あなたが他の人々と同じように滅びることはありえない。もしあなたがキリストを拒絶するとしたら、これほど素晴らしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができるだろうか?[ヘブ2:4] 方々。私はあなたに告げる。審きの日には、ソドムとゴモラでも、あなたよりはまだ罰が軽いであろう[マタ10:15]。それに加えて、いかにしてあなたは自分の良心の呵責から逃れることができようか? 完全に覚醒した良心は、そのときこう叫ぶのである。「お前は自分の義務を知っていた。だが、それを行なわなかったのだ」。ハデスの洞窟は、鈍重で陰鬱なこだまとともに云うであろう。「お前たちは自分の義務を知っていた。だが、それを行なわなかったのだ」。永遠は、一巡りするたびに、あなたの痛みを一段と痛烈なものとしながら、あなたに向かってこう云うであろう。「お前たちは自分の義務を知っていた。だが、それを行なわなかったのだ」。《天国》からトフェテ[イザ30:33]へ、主の宮からゲヘナへ、教役者の声から歔欷と呻きと歯ぎしりへ、聖所の歌から穴の咆哮へと追放されること、これは、これこそがその剣の刃先である。これが、むさぼり食らううじの歯である。「お前たちは自分の義務を知っていた。だが、それを行なわなかったのだ」。おゝ、あなたがた、先頭の者たち。神の助けがあらんことを! もしあなたがしんがりになるようなことがあるとしたら、あなたの運命はいかに恐ろしいものとなるであろう! ならば今晩、真剣に心を探りきわめようではないか。私は、自分自身の魂をいま探っている。――もし私が、福音の種々の特権において先頭に立ち、この人々の教師でありながら、しんがりの者のひとりとなるとしたら? 私の兄弟たち。あなたがた、この教会の長老であり、執事であり、私たちのイスラエルの先達である人たち。――もしあなたがしんがりの者のひとりとなるとしたらどうなるであろう? あなたがた、私たちの《入門者学級》や、私たちの《聖書学級》の青年男女たち。私たちの《学校》の青年たち。あらゆる人々の中でも先頭の、最も希望ある人たち。――もしあなたがしんがりの者のひとりとなるとしたらどうなるであろう? あなたがた、《日曜学校》の教師たち、校長たち。あなたがた、幼い子どもたちに天国への道を教えている人たち。――もしあなたが自分自身、天国への道を学ばないとしたらどうなるであろう? もしもあなたが、先頭の者が、しんがりになるとしたらどうなるであろう? あなたがた、私の魂の愛する人たち。この両手で主イエス・キリストにつくバプテスマを授けた人たち。あなたがた、聖餐卓でほむべき祝宴の甘やかな交わりにともにあずかってきた人たち。――もしもあなたが、先頭の者が、しんがりになるとしたらどうなるであろう? 私はただ、この叫びを繰り返すことしかできない。私はヨナのようにここに立って、叫び声を上げることしかできない。変わることない1つの警告の調子をもって叫ぶしかない。「用心するがいい。あなたがた、先頭の者たち。あなたがたがしんがりになってはならない!」 そして、私たちはみな、この2つの文章を1つにまとめるとき何と云えば良いだろうか? おゝ、恵みよ。私を先頭の者としてください。私が結局はしんがりの者とならないようにしてください! おゝ、神よ。私をいま助けて、地獄から逃げ出させ、天国へと飛んで来させてください! 私はキリストを私の《救い主》として受け入れます。

   「わが手にもてる もの何もなし、
    ただ十字架に われはすがらん」。

あなたの魂の中で、私の後についてこう云うがいい。本当にそう感じている者は云うがいい。――

   「ありのままの我にて 魂の染み濁(くろ)くあるまま
    いかな汚れも わが手で除かんとはせず
    ただ汝が血 汚れをばみな よくきよめんがゆえ
    おゝ、神の子羊よ われは行かん」。

いま《主人》を信頼するがいい。話をお聞きの方々。あなたの霊において云うがいい。「しかり。私たちは咎あり、卑しい者です。主よ。お救いください。滅んでしまいます」。あなたの悔い改めの叫びと、あなたの信仰の言葉を一言で天国に立ち上らせるがいい。そうするならば、神は、そのみことばからこう云う権限を私たちに与えておられる。すなわち、あなたが神の御子イエス・キリストを信ずるとき、神はあなたをあなたの一切の罪の咎から放免してくださる、と。御子を信じる者は永遠のいのちを持ち[ヨハ3:36]、決して滅びることがない[ヨハ10:28]。その人は、審きに会うことがなく[ヨハ5:24]、神の愛が、現在においても、永遠においても、その人の上にとどまる。神がそのことを私たち全員に与えてくださるように。主の御名のゆえに!

 

大いなる変化[了]

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