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挑戦と進軍喇叭

NO. 2929

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1905年3月30日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1862年


「『死よ。おまえのとげはどこにあるのか。墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」。――Iコリ15:55-58 <英欽定訳>


 人間が定命のものであることを、この群れの教役者が忘れる恐れはほとんどない。人々がこのような数で一団となっているとき、私は単に人が死を免れないことを信じているばかりでなく、それを目にするからである。私は葬礼の鐘の音を、時計が時を打つのを聞くかのように不断に聞いている。この牧草地では、草刈り人が常に働いている。毎週、大いなる落ち穂拾いは、この収穫の畑で何本かの麦の穂を取り上げる。そして、この建物に集まるたびに私は思い出さざるをえない。前回、私たちとともにいた何人かの人々が、かの大水を渡ってその安息に入ったことを。このことを忘れることはできない。

 しかし、私の愛する方々。あなたがそれを忘れる危険はある。これほど大人数の集団を一望の下にすることができないあなたは、自分の子どもたちの身が守られており、ここ十九年か二十年、わが家に死が訪れなかったとしたら、自分には免除が与えられているのだと考えがちになるかもしれない。自分は決して墓場に行くことはなのだ、死が他の人々を捕えることはあっても、自分は、ある種の特権的な安泰さの中でひとり座し、何の悲しみも見ることがないのだ、たとい矢が右に左に飛び交って人を打ち倒しても、自分は傷を負わずに死者の間を歩いていられるのだ、と。それゆえ、私たちの熱い青春の血を冷やすため、また、私たちの年齢による不活性な血をかき立てるために、墓地まで旅をし、死や審きや復活や永遠について思い巡らすのは良いことである。こうした忙しい時代、人々は生きるために行なうことが多すぎるので、そうした人々に自分がいかに確実な死を迎えざるをえないか考えさせることは大いに役に立つであろう。私たちの最期の時と言葉を交わすことは非常に賢明なことである。死衣や墓や根掘り鍬は、これまでむなしい哲学を沈思してきたいかなる頭よりも、あるいは、これまでこの世に生まれた科学について語ってきたいかなる唇よりも、真の知恵をずっと多く私たちに教えることができるであろう。

 さて、私が今晩意図しているのは、聖霊なる神の御力により、まず本日の聖句をキリストにある信仰者たちに語りかけ、次に、まだそうした幸いな数に含まれていない人々に手短に警告することである。あなたがどちらの種別に属しているかという判断は、あなたの良心にゆだねなくてはならない。私は喜んで望むものである。誰ひとりとして、自分のものでもない励ましを受けとるほどゆがんだ人ではないことを。むしろ、あらゆる人が十分に賢明で、十分に自分の心に対して正直で、自分自身の状態にぴったりあてはまる真理を受けとり、それを自分の良心に、また、自分の心に銘記するようになることを。

 I. まず第一に、《信仰者に対する使信》である。私たちがこの聖句を取り上げるのは、それを探りきわめるためではない。レビヤタンのように深淵に潜るのではなく、燕のようにその表面をかすめ飛ぼうと考えてのことである。

 この表面には3つのことがある。――まず、2つの恐ろしい打ち勝ちがたい敵に対する、短いが他に例を見ない挑戦である。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか」。それから、素晴らしい勝利の栄光に富む凱歌である。――「神に感謝すべきです。神は……私たちに勝利を与えてくださいました」。そして、偉大な司令官がその兵士たちに発している進軍背喇叭である。「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」。

 ここには最初に、二重の挑戦がある。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか」。《死》よ。骸骨の君主よ。お前のとげはどこにあるのか? 青白い馬にまたがった、肉のそげた乗り手よ。私たちはお前に尋ねる。お前のとげはどこにあるのか? 身の毛もよだつ物凄い微笑みとともに、彼は私たちに答える。「私のとげだと! お前が目を開けさえするなら、それは見えるとも。それに、まもなく私は、お前の肉をそのとげでぴくつかせてやろう。私がそれをお前の魂そのものに打ち込む時にな。私のとげがどこにあるかだと! お前が地上で愛しいと呼んでいる一切のものを置いて行かなくてはならないと知ること、お前の財産を後に残して行かなくてはならず、お前の広大な田畑をすべて放棄しなくてはならないと知ることは、お前にとって何のとげでもないだろうか? お前の家や土地、お前の歓楽やお前の楽しみ、お前の宴会や浮かれ騒ぎを捨てなくてはならないことは、お前にとって何でもないことだろうか? 家族の団欒のすべてである炉辺を、寛大な心の人々との友情や交わりを、そして、目を喜ばせ耳を楽しませる一切のものを後に残して行かなくてはならないことはどうだ。お前の目は、私の指によってぼやかされれば、もはや何の風景も、峨々たる山も、平原も見えなくなる。お前の耳は、私が永遠の沈黙で封印すれば、もはや何の音楽も、何の合唱聖歌も聞こえない。お前は、私から墓に入れられれば、永久につんぼとなるのだ。神の家における楽しみを残していくのは、お前にとって何のとげでもないだろうか? お前は、キリストの血と肉にあずかることがもはやできないのだ。あの喜ばしい季節に、嬉しげな歩調で部族が主の家に上り、聖なる日を守ること、彼らを愛し彼らのためにご自身をお捨てになったお方をあがめることは、もはやできないのだ。じきにお前が、今はあれほどお前の目に麗しい頬を二度と見られなくなると思い出すことは何のとげでもないだろうか? じきにお前は、お前の人生の同伴者であった者に最後の親しいまなざしを注がなくてはならず、あらゆるものを置いて行かなくてはならず、母の胎から出て来たときのように裸で土に帰らなくてはならず、何もかもはぎとられ、無一文の乞食となって、お前がもともと生じてきた卑しい塵に帰らなくてはならないのだ。――このことに何のとげもないだろうか?」

 「私のとげがどこにあるかだと! その白髪頭どもに聞いてみろ」、とこの怪物は云う。「すでにその激痛を感じていないかどうかをな。奴らの目はかすみ出し、人の家の強い柱は屈し始め、息づかいは荒くなり、髪の毛には霜が降り出す。いなごはのろのろ歩き、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめる[伝12:5、3]。私に私のとげがどこにあるか聞くだと! 若者でさえ知っているさ。少しでも考える頭があれば、分かるだろうからな。自分が息をするたびに、それが墓への一歩であることを。また、自分の脈拍がこのようなものであることを。

   『くるまれし太鼓のごとく、打ち続けん。
    野辺の送りの しらべをば』。

「私のとげがどこにあるかだと!」、と《死》は云う。「私のとげに心苦しめられている、あのやもめを眺めるがいい。その魂の愛する者を喪い、つがいを亡くした鳩のようにひとり嘆き悲しんでいるではないか。あの父なし子たちに、死のとげがどこにあるか聞くがいい。町通りに追い立てられ、かじかんだ手で世間の施しを受け取り、ほとんど家も食べ物もなくなっているではないか。私のとげがどこにあるかだと! 涙にくれているあの子どもに聞くがいい。その子が見下ろしている、棺の中の死に顔は、かつては自分のために骨を折って労してくれた母親のもの、かつては自分をいとおしみ、愛してくれた母親のものだ。だが、その母は今や、いかなる生者にも割り当てられていない場所へと行ってしまっているのだ。わはは! わはは!」、と彼は云う。「私のとげがどこにあるかだと! お前たちはみなそれを、最愛の者たちとの別離の中に感じてきたではないか。お前たちが最もいてほしいと願ったときに喪った者たちとのな。国家も、それを感じてきたぞ。私は、国王の片割れを打っては、王をも打ちのめしてきたものよ。私はもう一度打っては、遠い帝国から長年の経験という成果を負って戻ってきた政治家を取り去ったものよ。私は、私のとげで富者や有力者を取り去り、美しい者、愛らしい者、学識ある者、敬神の念に富む者、善人、事前かを取り去ってきた。奴らを世間が最も必要としているときに取り去っては、善人どもにこう云わせてきたものよ。『義人は滅び、敬虔な人は地から絶たれる』、とな。私のとげがどこにあるか聞くだと!」、と彼は叫んでは、その恐怖の白馬を突き進め、私たちを侮蔑して走り去る。

 あゝ、《死》よ! だが、それでも私たちはお前に挑もう。いかにお前がこのようにたちまち当たり散らすとしても、もう一度お前に叫ぼう。「行くぞ、《死》よ! 行くぞ! お前には何のとげもないのだ、いかに自慢しようとな。信仰者に対して、お前は今やとげのない蝗でしかない。しばらく黙っているがいい。その間に、お前の強力な同類であるもうひとりの暴君の言葉を私たちは聞くであろう」。

 「墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか」。その空虚な深みから《墓》は答える。「私の勝利がどこにあるか聞くだと! なにゆえに、おゝ、愚かなアダムの子よ。お前は私の勝利がどこにないか尋ねないのだ? マクペラ[創23:19]からゲツセマネに至るまで、私は赫々たる勝利を収めてきたのだぞ。私の勝利がどこにあるかだと! お前の美しい世界が安置された土壌を開いて、あらゆる地下納骨所が、腐った人類の悪臭を放つ塊で満ちていないか見るがいい。お前たちが自分の同胞を墓から引き出して、芝土の上に積み上げることができたとしたら、死者の数のあまりの多さのため、生者のための余地がなくなるであろう。しかり、それを積み上げて、積み上げて、ついには、エジプトのパロがこれまでに建てたいかなる金字塔よりも高くするがいい。彼らを積み上げれば、アルプスをも超え、そのすさまじく腐敗した高みが暁の星と挨拶するであろう!

 「私の勝利がどこにあるかだと! 吠えたけっては、船を小軽舟のように追い立てる暴風雨の1つ1つに聞くがいい。水底の岩や、暗礁や、氷に閉ざされた岸辺に聞くがいい。私の勝利がどこにあるかだと! 昨日の戦場に聞くがいい。兄弟の手によって流された血で一面に染まった戦場、アングロサクソン族の母親の息子たちが自らの国の平原に倒れた場所、自らの兄弟たちの手で殺された場所に! 私の勝利がどこにあるかだと! ワーテルローからトラファルガーへと立ち戻り、お前の翼を広げて古代へと飛んで行っては、サラミスやマラトンへ、あるいは、さらに太古へと向かうがいい。セナケリブが行なった一切の所行、また、彼に先行して進んだ強大な軍勢が何をしたかを語るがいい。彼は王たちの腰を打ち、彼らの臣下たちを一時間のうちに大虐殺したのだ。

 「私の勝利がどこにあるかだと! それを感じていない土地などまずないのだ。それを証言しないですむような時代などないのだ。そのしるしは至る所にある。向こうの麗しい僻地を眺めるがいい。鳥たちが歌い、甘やかな花々が常緑の芝土から生えているあの土地を。お前たちは云うであろう。『ここになら死は一度も来たことがあるまい』、と。しかし、あの茶色い茨のからまった小塚は何を意味しているのか? 私はかつてここに来たことがあるのだ。そして、ここに私の場所を保っているのだ。向こうの、白い石が死の歯のように点々と立っている所を眺めるがいい。そして、私がいかに何千人をむさぼり食らってきたか見るがいい。向こうの忙しい町から、人々は毎日何十人も運んできては、墓の中に横たえているのだ。だのに、お前たちは私に、どこに私の勝利があるのかと聞くのか! 何と、お前たちはひとり残らず、私の永久の勝利の捕虜なのだ。お前たちは、ひとり残らず行進しながら、私の顎の中へと下りつつあるのだ。どこへ行こうと、常に私の門前へと下って来るのだ。じきに私はお前たちを私の門前に閉じ込めてやろう。ひとり残らずな。強壮で健康な者らをも、筋肉隆々たる腕をした者らをも、巨大な知性の持ち主たちをも、いかに重い荷物をかかえても小揺るぎもしない体格の持ち主たちをも、私はそのうちに、幼子のように無力にして受け取り、お前たちは自分の白い経帷子をまとうのだ。そして私はお前に対しても、世界に対しても、私の勝利がどこにあるかを証明してやろう」。

 私たちが震えながら耳を傾けている間さえ、《墓》はその大きく開いた口を閉ざし、すべてはしんと静まり返る。だが、そうならない場所が1つある。干からびた骨を見下ろし、それが再び生きると信じながら、信仰の声がこう叫ぶ場所である。「法螺吹きめが。お前の地下納骨所にもかかわらず、お前の自慢は、お前自身と同じくらい、うつろなものだ。お前の勝利はどこにあるのか? 私たちはいずれお前の無力さを証明するであろう。おゝ、苦し紛れの《墓》よ! お前には何の勝利もない。私たちの主、エホバのキリスト、《復活》なる方――このお方は、お前の表玄関を破り開き、お前の領土をぶち抜く街道を作っては、それをあらゆる信仰者のために、《約束の国》へと開かれたのだ。たとい、――

   『天使(あま)つ手われを 墓より奪(だ)せずも
    天使軍(つかいら)われを 閉ざすあたわじ』」。

今こちらを向くがいい。おゝ、信仰者よ。そして、勝利の凱歌を歌うがいい。「死のとげは罪であり」。イエス・キリストによって、それは赦されている。「罪の力は律法です」。キリスト・イエスにより、それは雷を轟かすことをやめている。というのも、それは成就されており、私たちの友となっているからである。それゆえ、「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。ならば、喜ばしい感謝の声の用意をするがいい。あなたの勝利の賛歌の準備をするがいい。死よ。私たちは今やお前に勝利している。今までは、お前が語っていた。だが、今から私たちが語るであろう。お前に面と向かって答えるであろう。死は、信仰者に対しては何のとげも有していない。かつて死は罪の罰であった。罪が赦されている以上、罰はやんでおり、キリスト者たちは今や自分の罪に対する刑罰として死ぬことはない。むしろ、彼らが死ぬのは、生きる備えをするためである。彼らが脱がされるのは、天からの住まいを着るためである[IIコリ5:4]。彼らが土くれの借家を去るのは、永遠の邸宅を受け継ぐためなのである。

 おゝ、《死》よ。お前自身の中には何のとげも残されていない。お前が私たちに告げることのできる一切の痛みや苦痛や呻きについて云えば、私たちはこうしたすべてのことがともに働いて[ロマ8:23]私たちの益となることを知っている。お前の暗黒や恐ろしさについて云えば、私たちはお前の云うことを何1つ信じない。というのも、もしもキリストが私たちとともにおられるとしたら、私たちは死の陰の谷を歩いても、わざわいを恐れないからだ[詩23:4]。

 お前が自分自身のうちにあるお前のとげを失ったのと同じように、おゝ、《死》よ。お前は、私たちがお前によって失う一切のものについても、お前のとげを失ってしまっている。お前は、私たちが地上の景色を失うと告げる。だが、骸骨の王よ。私たちは天国の景色を得るのだ。この埃だらけの世界の風景など、あの光と栄光の国にある碧空と、水晶の湖と、永遠の緑なす平原に比べれば何だろうか? この世の町々など――西方の巨大な都市の数々も、東方の美しい都の数々も――、そのすべては、かの黄金の都エルサレムに比べれば何だろうか? その門は真珠であり、その城壁は碧玉[黙21:18]であり、その敷石すらアンチモニーで覆われているのである。地上を失うことによる損失だと! 確かに天国を得るなら、その損失はみな忘れ去られよう! お前は、私たちの耳がふさがると云う。そうではない。その耳は開かれて、熾天使の賛歌を聞き、智天使の畏怖すべき、崇高で美しい音楽に耳を傾けるようになるのだ。お前は、私たちが富と機知と友人を後に残して行くと云う。馬鹿者めが。富をこそ私たちは得るのであり、私たちが後に残していくものなど金滓ばかりなのだ。そして、友人たちについて云えば、私たちはそれと同じくらいの――しかり。それよりも多くの――友人を持っており、彼らは私たちが地上に残して行く者たちよりすぐれてもいるのだ。私たちには、かの大水をすでに渡った愛する人々があり、その頭には、私たちにとっては、百万人の友人にもまさる《お方》がおられる。万人よりすぐれ、すべてがいとしい《お方》がである[雅5:10、16]。お前が取り去ることのできるすべてについて云えば、遠慮なく取り去るがいい。私たちのうちに現われる喜びは、この上もないものであり、重い永遠の栄光[IIコリ4:17]だからである。これは、地上が与えることのできるすべてを失うという軽い患難より、はるかにまさっている。

 《死》よ。やはり私たちはお前に云うが、お前のとげは私たちが喪ってしまった友人たちについても取り去られている。涙を流しているそのやもめは、お前に向かって、自分はお前のとげを感じていないと告げるであろう。というのも、彼女の夫は天国におり、彼女は時が彼女を運べる限りすみやかに夫の後について行きつつあるからである。《死》よ。その母親はお前に告げる。自分の幼児たちについての自分の思いの中には、恵みによって、お前は何のとげも有していない、と。彼女は、自分の乳房にかつてすがりついていた不滅の霊たちが、今や《救い主》の御顔を眺めていることを知っている。そして、《死》よ。いなくなった愛する者たち全員について、私たちはお前に云う。私たちは彼らのことで悲しまず、その

   「安き眠りを さまたげず、
    上つ家より 誘い出さじ」。

私たちは敬虔な念をもって、霊たちの御父に感謝する。このお方は、彼らにいかなる害を受ける恐れもない所で無事に家を与え、彼らを願っていた天国へと導いてくださったのである。そこでは強風や荒波が彼らの竜骨を揺らすことは二度とない。「幸いである」、と私たちは云う。それは、あの天からの声の繰り返しである。「主にあって死ぬ死者は幸いである」。そして、その天からの声は、明晰な口調でもう一度応答される。「御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである』」[黙14:13]。

   「かくて明るき 夢ならぬ望み、
    魂(たま)の回りに 光そそぎぬ。
    天はきらめき 打ち開かれて、
    栄光(さかえ)は包まん、死出の床をば」。

《死》よ。お前には何のとげもない。――お前の苦痛はゆるめられている。お前の顔が青白く、部屋を飛び回る際のお前の影が暗黒であるからといって何なのか! もろい天性が、お前の矢におののき震えるとしても何なのか。いつくしみ深きイエスよ。私たちを助け給え。――私たちはあなたにすがりつきます。そして、私たちの霊の全体は勇敢に叫ぶ。平静な挑戦と、生き生きした信仰と、聖なる歓喜とをもって叫ぶ。――「死よ。おまえのとげはどこにあるのか? 神に感謝すべきかな。神は、私たちに勝利を与えてくださいました!」

 墓について云えば、愛する兄弟姉妹。その口汚い自慢の数々にこう答えよう。私たちは墓に向かって、それ自体の中に何の勝利もないと告げる。確かに私たちは墓の中で眠ることになるが、それは勝利者としての眠りである。私たちは勝利の叫びを聞き、征服された戦士のようにではなく、休息をとる戦士のように横たわる。キリストは、かつては牢獄であった墓を、ご自分の聖徒たちのからだのための休息所とされた。ご自分の王家の衣類部屋とされた。そこで主は、ご自分の愛する者たちに、彼らの埃っぽい作業着を脱ぎ捨てるようお命じになる。そのようにして彼らは、きよめられ、天における主の永遠の聖なる日々の衣にふさわしい者とされるのである。おゝ、《墓》よ。お前が私たちのからだを取り巻くとき、お前自身は打ち負かされているのだ。――お前は私たちのしもべなのだ。私たちをお前の奴隷と呼んではならない。私たちは勝利しているのだ。あるいは、お前の胸に気持ちよく横たわっているのだ。おゝ、《墓》よ。私たちは何も失っていない。むしろ、そうしたものをお前に保管させているのだ。眠っているかたちの、私たちのいたく愛する友人たちを、お前の腕の中に預けているのだ。彼らの遺骸はそこにあるが、彼らは天国にいる。彼らの腐敗はそこにあるが、彼らの復活の証拠は高き所にあり、死のない不滅性の中で生きているものは上にあるのだ。そこに彼らは横たわっている。血肉には罪があるからだ。それらはそこに横たえておこう。血肉はきよめられなくてはならないからだ。だが、それらは生きることになる。そして、私たちはお前に告げる。《墓》よ。かの喇叭が鳴るとき、お前は私たちの友人たちを私たちに返さなくてはならない。あの「ちりはちりへと、灰は灰へと還る」のうつろな響きとともに私たちが彼らをお前の冷たい抱擁のもとに置いた時より、十倍も愛しいものとなった彼らを。お前は何の戦勝も得ていない。それは、一時的な勝利にすぎない。お前はお前の獲物を返さなくてはならない。お前は腐敗について語る。それは、布さらし屋の桶でなくて何だろうか? その中にからだが横たわっているのは、それが純白にされるまでのことだ。お前は冷たい地下納骨所や、暗黒や、湿気について口にする。これらはみな、朽ちるものが朽ちないものとなり、死ぬものが不死となる過程に当然伴うものにすぎない。私たちは、お前の恐怖という恐怖に微笑む。私たちはお前を、自分の魂が閉じ込められる地下牢としてよりは、むしろ、自分たちがしばらく休息すべき場所として挨拶する。《死》よ。おまえのとげはどこにあるのか? 《墓》よ。おまえの勝利はどこにあるのか?

 私は、こうした問題をクリスマス・エヴァンズが、その赤々と燃える折々に用いたであろうような言葉遣いで述べることができたら良いのにと思う。これは、赤々と燃えてしかるべき主題である。おしの男をも語り出させ、つんぼの耳にも聞くよう命じて良い主題である。キリストは、死ぬことによって死を征服しておられる。墓の経帷子を自らお召しになることによって、墓にその勝利の衣を脱がせておられる。主は、墓所の暗い奥底で眠ることによって、そこを聖別しておられる。死はもはや破滅の天使ではない。墓はもはや納骨堂ではない。見よ。サムソンがガザの門を、扉も門柱も閂ももろともにヘブロンの頂に運んで行ったように[士16:3]、キリストは死の門を、扉も門柱も閂ももろともに天国の丘へと運んで行かれた。そして、地獄の全軍団は、私たちのサムソンが強奪した戦利品を取り戻すことができない。ご自分の兄弟たちによって、一度綱で縛られた主は、それを青草の鞭のように断ち切り、ご自分の足元に敵の死体を次から次へと積み上げられた。罪も、死も、地獄も、すべてが、この、一度縛られたが今はとりこを縛って引き連れておられる《人》によって征服されている。この方にほめ歌を歌うがいい。あなたがた、御座の前で贖われている霊たち。あなたのハレルヤの声を上げ、翼を打ち鳴らし、立琴をかき鳴らして云うがいい。「万歳、死の征服者よ。墓の破壊者よ!」 そのこだまを、地獄のどん底まで響きわたらせ、悪鬼どもに、自らの火で苦しめられている舌を噛ませ、むなしく歯ぎしりさせよ。その歌をこのような調子でこだまさせよ。「《死》よ。おまえのとげはどこにあるのか? 《墓》よ。おまえの勝利はどこにあるのか?」

 いま聞けよ! おゝ、聞けよ! 私たちの《大将軍》の進軍喇叭に留意するがいい。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」。陣容を整えた神の選民の軍勢にとっては、悲しいかな。おゝ、《死》よ。お前のために、血みどろの戦場からのこの急送公文書が封印されてしまうとしたら。また、おゝ、《墓》よ。お前のために、聖なる旗につく戦士が、その栄えある報いを受け取るべき壁龕がうつろにされてしまうとしたら! 「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」[Iコリ15:19]。

 実際、何の報償もないとしたら、堅く立っていることは苦悩に満ちた、苦しいことである。キリスト者である人たち。あなたには、この訓戒の言葉が与えられている。あなたが死んでも生きることになる以上、また、あなたが不滅といのちの相続人である以上、キリストはこの日、あなたに堅く立つよう命じておられる。あなたの教理において堅く立っているがいい。真理を保つがいい。特に、復活という厳粛な真理を、鉄のような把握で堅く保つがいい。聖さにおいて堅く立っているがいい。何物によっても動かされてはならない。正しい側に立つがいい。覚えておくがいい。たとい地が揺れ動こうとも、あなたの手は星々にかかっているのであり、それゆえ、あなたが手を放す必要はない。自分の信仰告白において堅く立っているがいい。赤面してはならない。あなたのあかりを枡の下に置いてはならない[マタ5:15]。やがて現われる栄光は、キリストのゆえに受けるそしり[ヘブ11:26]があなたにもたらす恥辱と侮辱のすべてを全く償うであろう。あなたにとって信仰の問題であるあらゆることにおいて堅く立っているがいい。――あなたの魂をキリストが贖ってくださると強く信じることにおいて堅く立つがいい。――あなたがたが自分の天の御父の子とされていると完全に確信することにおいて堅く立つがいい。――聖化において絶えず堅忍することにおいて堅く立つがいい。それは、あなたがあなたの主から抱擁されるにふさわしい者となるためである。決して動くことのない山々のように、また、いかなる目も見たことがないが、この巨大な地球を安置している隠れた花崗岩の柱のように堅く立っているがいい。深い土壌の一切を支えている、地中の岩塊のように、永遠に堅く立っているがいい。

 誘惑はやって来るであろう。「動かされることなく」あるがいい。嵐に揺さぶられても決して根こぎにされることのない杉の木のように、また、激しい波浪が打ちつけ、山なす泡が飛び越える灯台のように、信仰告白に輝きながら、堅固さにおいては決して動揺しないでいるがいい。太陽にきらめいたかと思うと、稲妻に震え、それでも次の嵐に面と向かって立ち、次の打撃をものともしない山頂のように、「動かされることなく」あるがいい。鉄床が金槌の打撃に耐えるように、迫害や、患難や、誘惑に耐え、こうした何事によっても動かされたり、自分のいのちを惜しんだりしないようにするがいい。不滅! それをあなたの合言葉とするがいい。矢弾が飛び交い、敵が前進してくる間、自分の陣営に立ちながらそうするがいい。あなたがたが、前進するのではなくじっと立っていることを――「いっさいを成し遂げて、堅く立つこと」[エペ6:13]を――命じられているときには、これを思い巡らすがいい。「あなたがたのいのちは、キリストとともに……隠されてある」[コロ3:3]。不滅が、地上におけるあなたの一切の苦痛と苦しみとの償いとなるはずである。復活が、争いの中であなたが失ったかに思われる一切のものを回復させるはずである。

 「いつも主のわざに励みなさい」。ここでも、あそこでも、家の中でも、外でも働いているがいい。若い暁の額を最初の赤い筋が染める朝にも、熱い太陽がその光の洪水をふんだんに注ぐ昼にも、鳥たちがその休み場に向かいつつある夕暮れにも、そして、それ以外の時間には手を差し伸ばすことができない堕落した姉妹がいるとしたら真夜中にも、そうするがいい。「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない」[伝11:6]。いかなる闘争にも向かう心をもって、あらゆる争闘で先陣を切り、正面に立つがいい。あらゆる小競り合いに突進し、あらゆる決戦において陣営にいるがいい。恥辱からも、つばきからも、あなたの顔を隠してはならない。労苦にも軽蔑にも背を向けてはならない。地上では、「あなたは、顔に汗を流して糧を得る」*[創3:19]。だが、あなたが天で食べる糧は、神の恵みによって非常に栄光に富むしかたでかちとられたものであって、その上に注がれる汗によって、いやがうえにも甘やかになる。「いつも主のわざに励みなさい」。

 しかし、あなたがたの中のある人々がこう云っているのが聞こえる。「何のために、これほど懸命な努力をするのです?」 「あゝ!」、とある青年は云うであろう。「ぼくはこれまで堅く立って、動かされることがなかったために、職を失ってしまいました。それによって、良い目を見る代わりに、損失をこうむってきました」。よろしい。もう1つの、より良い国があるのである。あなたが受けた不正は、そこで正されるはずである。神の民のために残っている安息[ヘブ4:9]のことを考えてみるがいい。「あゝ!」、とある母親は云うであろう。「ですが、私は小さなわが子をしつけてきました。そして、その小さな祈りで私の心を喜ばせるようになった矢先に、あの子は死んでしまったのです」。目に涙するのをやめるがいい。あなたの働きは報われると主が仰せになっているからである。その子は、あなたとともに暮らして得られたよりも、ずっと良い生活をしているのである。私もこう尋ねて良いであろう。「何のために?」 私は、多くの人々がキリストに導かれるのを見てきたと云って良いが、そうした人々はどうなるのだろうか? 死ぬのである。私たちが牧師学校で教役者職に就かせるために訓練してきた少人数の者らのうち、二人はキリストにあって眠ってしまった。――ひとりは、まだ学生のうちに、もうひとりは私たちのもとを巣立ってほんの数箇月のうちにである。よろしい。だが、こうしたすべてが何だろうか? 彼らはいま生きている。私たちは、天空のために彼らを訓練したし、彼らを永遠に聖歌隊員としたのである。

 私たちの働きは失われない。私たちは堅く立って、地上にいる間はいつも主のわざに励まなくてはならない。それこそ《日曜学校》教師が、母親が、父親が、教役者が、常に働いている目的であると思われる。あの農夫は何を求めているだろうか? 彼は、麦が色づき始めるのを見ると満足してこう云うだろうか? 「何と真っ直ぐに立っていることか! 何と良い収穫があることか!」 否、否。彼は、人々が「収穫祭の歌」を叫ぶまで、自分に収穫があるとみなすことは決してない。そのように私たちは、魂が私たちの手段を通して救われ、天国に達するまで、また、私たちがそこに達してその人々と出会うときまで、自分の働きが完全に報われたと思うべきではない。この場で私が目にしている何人かの愛する兄弟たちには、疑いもなく、パラダイスの門で彼らを出迎える多くの魂がいるに違いない。また、私が目を上げれば、そこここに見える、この《教会》の姉妹たちは、神によって高く誉れを与えられており、天の門で彼女たちを出迎えて、イスラエルの母として喜ばしく挨拶してくれる若い霊たちがいる。幸いなるかな、幸いなるかな。私たち、天国に向かって羽ばたいていくときに、自分の背後に一団の者の気配を感じ、誰だろうかと振り向くと、それぞれの者がこう云うのを聞くことができる者たちは。「あなたは私をキリストに導いてくれました。あなたは私に主のほむべき御名を教えてくれました。あなたは私を罪と悪徳から救い出してくれました。あなたは私を天国への、黄金色に輝く通り道に沿って導いてくれました。それで、ここに私はいるのです。永遠にあなたの至福にあずかるために」、と。兄弟たち。別の、より良い国があるのである。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」。

 II. 私たちは、しばし立ち止まり、本日の聖句を、ごく短い間、この会衆のもう一半の人々に適用することにし、《不信者たちへの警告》を発したいと思う。

 そうした人々はどこにいるだろうか? 私はどこを指させば良いだろうか? どこを見つめれば良いだろうか? そうした人々は、至る所に混じり合っている。ほとんどあらゆる会衆席にいる。こうした通路にも、会衆席にも、キリストを愛していない男女がいる。まだ死からいのちへと移っていない人々がいる。私たちの苦痛にも嘆きにもまるで無縁な人たち、左様。それでいながら、安息日ごとに私たちの話を聞いてもいる人たち。――いまだ神の敵であり、苦い胆汁[使8:23]の中にいる何百人もの、何百人もの、何百人もの人たち。

 では、私の話を聞くがいい。聞くがいい! あなたに対して、死はとげを有している。それは、死の際にあなたを刺すであろう。枕の上であなたを悩ませるであろう。ずきずき痛むあなたの頭を輾転反側させるであろう。あなたの心を言葉に尽くせない恐怖で震えさせるであろう。あなたは、そのとげを感じるだろうし、あなたの友人たちは、あなたがそれを感じるのを目にするであろう。臨終の床の上のあなたに臨む、すさまじい陰鬱の恐ろしい形相の中に目にするであろう。そして、死の後にもとげがあるであろう。あなたが死んだ瞬間に刺されるとげである。あなたは、あなたの神の前に召還され、自分の宣告を聞くことになり、その審きにはとげがあるであろう。からだが墓からよみがえるとき、第二の死には永久永遠にとげがあるであろう。――永久永遠に。この場にいる誰かに永遠が測れるだろうか? 誰がその永久に続く歳月を告げられるだろうか? だが、その間ずっと、死にはとげがあり、そのとげ、その恐怖、その悲惨さ、その苦悶は、それを感じ始めた者にしか分からず、そうした者たちでさえそれが分からない。というのも、それはなおも永久永遠に続くのであり一千万年の倍が過ぎ去ったときも、――なおも永久永遠に続くからである!

 あなたにとっては、《死》の中に実際とげがあり、あなたに対して《墓》は勝利を収めるであろう。というのも《墓》はあなたをむさぼり食らうことになるからである。あなたがそこから再び起き上がるとき、それは、いのちにある新しい歩みではない。第二のアダムのかたちに目覚めるのではない。第一のアダムのかたち、それも、ことによると、死によってありとあらゆる腐敗と厭わしさに陥らされた最初のアダムのかたちで目覚めるのかもしれない。私は、死んだ悪人がいかなるかたちでよみがえることになるのか知らない。もしかすると彼らは、そのからだによってさえ、永遠の蔑みの的となり、尽きることのないうじに食らわれることによって、彼らの肉そのものでその証拠を示すことになるのかもしれない。おゝ、話をお聞きの方々。もしこうしたことが真実であるとしたら、いいかげんに私たちは目を覚ますべきである。いいかげんに聖徒たちは目を覚まして、あなたをキリストに導くべきである。今こそいいかげんにあなたも眠りの中から目覚めるべきである。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」[ヘブ10:31]。「私たちの神は焼き尽くす火です」[ヘブ12:29]。あなたは神に会う備えがあるだろうか? 審きに遭う備えがあるだろうか? 《審き主》に対面できるだろうか? あなたがたの中の誰が永遠に燃える火とともに宿るか、むさぼり食らう火焔とともにとどまることができるだろうか? あなたは震えおののくだろうか? 「大いなる神よ。われらをわれらの罪より救い給え」、と云うだろうか? その通り道は辿りやすく、開かれている。神は罪人の死を望まれない。かえって、彼がご自分に立ち返って生きることを望まれる[エゼ33:11]。主イエス・キリストを信じるがいい。そうすれば、あなたも救われる[使16:31 <英欽定訳>]。いまイエスを信頼するがいい。そうすれば、あなたはただちに救われる。《死》は、その瞬間にそのとげを失っており、《墓》はその勝利を失っている。私たちは今朝、私たちの単純な講話の中でこう云った。「悔い改めて福音を信じなさい」[マコ1:15]。これが福音の要約である。悔い改めて、キリストを知ることである。おゝ、神の御霊がこの集会の中にいるあらゆる人を導き、今のこの時、そうさせてくださるとしたらどんなに良いことか。そのとき、あなたがたは、恐れなく自分の墓の上を歩くことができ、怯えることなくその中に下って行くことができる。勝利とともにそこから再び出て来ることになるからである。あなたがたは栄光とともに天に上り、そのようにして永遠に主とともにいることになるであろう。主がご自分の祝福を加え給わんことを。イエス・キリストのゆえに。アーメン。

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挑戦と進軍喇叭[了]

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