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私たちの婚約時代の愛

NO. 2926

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1905年3月9日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年11月30日、木曜日夜


「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている」。――エレ2:2


 兄弟たち。私たちは過去を忘れるかもしれないが、神はお忘れにならない。神は云われる。「わたしは、あなたの若かったころの誠実……を覚えている」。神の数々のあわれみは、尽きることのない流れのように私たちのもとにやって来る。――それらはあまりにも数多く、あまりにも多種多様であるため、私たちはそれらを微かにしか記憶にとどめなくなりがちである。しかし、主は、ご自分が私たちのために何をなさったか覚えており、その見返りを期待される。主は、私たちが若かった頃、私たちに対して示した誠実を覚えておられる。――というのも、そのように、一部の解釈者たちはこの箇所を読むからである。また、主は、婚約時代にご自分が私たちに対して明らかに示された愛を覚えておられる。農夫がいかに土地を耕したか覚えているように、――いかにその木の回りを掘って、こやしをやったか覚えているように、――そして、それゆえに、より豊かな収穫、あるいは、より大きな果実の収穫を期待して待つように、神は、若い頃の私たちに対して行なったことを覚えており、――いかに私たちの中のある者らが敬虔な家庭でしつけられ、――神への恐れを大きな部分として教育するような学校へと送られ、――誘惑の道から優しく遠ざけられ、――あらゆる良い言葉とわざにあって養われ、育てられてきたか。神はそうしたことを覚えておられる。もしも誰か今この場にいる人が価値ある報いを返しておらず、逆に、主が果実を求めてやって来ても、酸い葡萄を実らせているのをご覧になるとしたら、確かに彼らは自分たちの受けた恩義も自分たちの責任も忘れているかもしれない。だが、神がそのすべてを覚えておられること、自分たちから何らかの応答を期待しておられることを考えるがいい。また、やはり考えるがいい。やがて来たるべき日には、その天来の記憶に触れることによって、私たちの眠りこけている記憶が働き出すということを。神は、アブラハムがあの金持ちに云ったように、私たちに仰せになるであろう。「子よ。思い出してみなさい」[ルカ16:25]、と。そして、その記憶は、良心の中で消して尽きることのないうじとなり、決して消えることのない火の燃料となるかもしれない。もし人間たちが今、過ぎ去った歳月の間に自分たちのために何を神がしてくださったか思い出しさえするなら、また、自分たちが惜しみなく与えられたあわれみの結果いかなる種類の者たちになっているべきかを覚えさえするなら、人々は多くの後悔を免れることであろう。実際、そのことによって永遠の呵責から救われるかもしれない。

 しかしながら、私はそれがこの箇所のヘブル語の正確な意味だとは思わない。欽定訳聖書の翻訳者たちは、その真の意味に思い及んでいたのだと私は信じる。すなわち、神は、かつて私たちがご自分に対して行なったことを覚えておられるのである。神は、婚約時代に私たちが神に対して示した誠実と愛とを覚えておられる。神がここでほのめかしておられるのは、イスラエル民族の初期の歴史である。モーセとアロンに率いられた彼らが、エジプトを脱出し、葦の海を横断し、獣のほえる広漠たる荒地を旅した頃のことである。そこには、至る所に穴と、ありとあらゆる種類の危険があった。燃える雲の柱に導かれた彼らは、神が彼らのために定められた路を忠実に旅し、ついには神が塩の契約[II歴13:5]をもって彼らに与えられた土地に定住するに至った。

 そうしたイスラエル民族の最初の時代は、英雄時代であった。ほとんどの民族は、その初期の歴史に雄大さが伴っている。実際、それはしばしば、この現代の疑り深い者らが、一切を神話の領域に帰したり、大袈裟な誇張の塊であると想像するほど壮大なものである。例えば、瑞西の初期の歴史や、そのウィリアム・テルは議論の的となっている。もっとも私は、自分の存在を疑わないのと同じくらい、ウィリアム・テルの実在を疑いはしないが。英国の初期の歴史すら、多くの陰影や疑念の下にある。それは何もかも、そこに英雄的なものが伴っているからにほかならない。

 キリスト教のあらゆる教派の初期の歴史もまた、この上もなく輝かしいものである。例えば、近代のものを1つ取り上げるなら、メソジスト派である。メソジスト派の歴史の頁の中でも、その最初のものと比べものになるものは全くない。その頃の彼らは苦しんでいたが、それと同じくらい大いに福音を至る所で宣言していた。その自己犠牲的な熱心は、使徒時代に匹敵していた。それは、一般に、ほとんどあらゆる教会について云えるだろうと思う。「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げ……たのですか」[ガラ5:7]。あの、イスラエルの歴史に、ひとり、またひとりと現われた士師たちのように、主によって力をまとわされた、ひとりの人の指導の下では、大いなる事がらが行なわれ、驚異的なことが成し遂げられる。しかし、ほどなくして、なまぬるさが生じ、次第に当たり前の平凡さへと再び滑り落ちて行く。――悲しいかな、それはほとんど衰微と後退と云ってかまわないほどである。

 さて、種々の民族が、最初は偉大で英雄的な歴史を有しているのと同じように、また、諸処の教会が、やはり一般には原初期の栄光が最も輝かしいのと同じように、往々にして個々のキリスト者についてもこのことは云える。信仰生活を始めた頃の彼らには、――おゝ、いかなる熱心!――いかなる精力!――いかなる祈り深さ!――いかなる献身の念があったことか! もしそのように始まらなかったとしたら、情けなさはいや増すことになる。最初の頃以上に進歩する場合はめったにないからである。しかし、多くの人々はそのように始める。そして、しばらくすると、走っていた者は自然と歩き始め、歩いていた者はとうとう《安逸のあずまや》に座り込み、もはや自分の前に置かれている競走[ヘブ12:1]を勤勉に走り続けることをやめてしまう。

 私があなたの注意を引きたい点は、このことである。主は、そうした良い状態にある際のご自分の民を見ており、それを書きとめ、記憶し、記録し、こう仰せになるのである。「わたしは、何年も前のあなたのことを覚えている。若者よ。わたしは少年だった頃のあなたを覚えている。婦人よ、あなたが若い娘だった頃を覚えている。わたしはあなたを覚えている。あなたの若かった頃の誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている」。神は、こうした熱心な時代、こうした幸いな時期、こうした熱情的な時のことを思い起こされる。そして、たとい今の私たちが低調になっているとしても、たとい私たちがいま冷たく、死んだようになっているとしても、また、より良い日々のことを忘れてしまっているとしても、神はそれを忘れてはおられない。神は種々の目的のためにそれらの記録を控えておられる。そのいくつかを、神の御助けによって、いま考えてみよう。

 I. まず、私たちの第一の項目は、《ご自分の民の若い時代に対する主の褒めことば》である。主は、イスラエルのかつてのあり方を褒めておられる。そして主は、個々の信仰者がかつては古のイスラエルのようであったとしたら、そのかつてのあり方ゆえに彼らを褒めてくださる。

 神は、ご自分の子どもたちを褒めることができるときには、決して褒めことばを与えるのを先延ばしになさらない。時として、主がご自分の子どもたちを賞賛したいと思われるときに、いかに彼らの数々の欠点に対して御目を閉ざされるかには驚異的なものがある。あなたは、サラが笑ってこう云ったときのことを覚えているであろう。「この私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで」[創18:12]。それは不信仰でよこしまな笑いであった。だがしかし、聖霊はサラを褒め、彼女について、彼女は自分の夫を「主」と呼んだと云われる[Iペテ3:6]。御霊は、その言葉の中で唯一の良い点を書きとめ、それ以外の彼女の嘲りに満ちた笑いについては、彼女が夫を「主人」と呼んだからといって、目をつぶっておられるように思われる。時として、主はご自分の子どもたちの良いところに目をとめ、それだけしかお語りにならない。彼らの中にある悪い部分について云えば、他のときにそうした悪い点を思い起こして、彼らを懲らしめては、その罪を取り除こうとされる。しかし、褒めるときの主は、その目を真珠に据えて、牡蛎の貝にはお触れにならない。星は見ても、その輝きの背景となる暗黒の空については何も仰せにならない。

 よろしい。愛する方々。イスラエル人は、エジプトから出て来たときには、しかるべきあり方からは全くほど遠かった。彼らにモーセを信じさせることは困難であった。煉瓦の量が増やされたときは、すぐさま彼に食ってかかった。あれほど数々の奇蹟を見た後でも、エジプトから出て来るや否や、後方から音高くパロの戦車が迫ると恐れ始めた。それから、荒野に入ってさほど経たないうちに、水がないからといってはつぶやき始めた。そして、まもなくすると、神から与えられていたマナの代わりに肉が食べたいからといっては、再びつぶやいた。しかし、主は、今の彼らが全くさまよい出ているのを見ては、かつての不完全な状態をも、ある程度の満足をもって振り返り、そうした初期の時期の数々の欠点にもかかわらず、彼らが今なお当時のようなあり方をしていれば良かったのにと願われるのである。主は云われる。「わたしは、あなたの若かったころの誠実……を覚えている」。しかし、主は彼らの不誠実をお忘れになったのだろうか? しかり。それが主ご自身の約束であった。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」[ヘブ10:17]。主はそれらをお忘れになった。主は、あの荒野で彼らが、主について行く代わりにこう云ったことを覚えておられないのだろうか? 「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください」[出32:1]。否。だが、主はそれを口にされないのである。というのも、こう仰せになるからである。「わたしはあなたのすべての罪を、わたしのうしろに投げやる」*[イザ38:17]。主がいま思い出されるのは、彼らの以前の状態のすぐれた点だけである。そして、そのように、愛する方々。主は私たちが最初にキリストのもとに来た最初の状態において卓越していた点は何であれ、思い出してくださる。その失敗や不完全さがどれほどあったにせよ関係ない。

 さて、私たちの初めの生き方には、神が思い出してくださるどのようなものがありえただろうか?

 よろしい。この現在の瞬間にも思い出されるべきものとしては、婚約時代の愛があると思う。それをあなたに思い起こさせてほしい。あなたは自分の最初の愛を思い出せるだろうか? おゝ、いかにそれは明確であったことか――いかに暖かかったことか! いかに脇目もふらぬものであったことか! いかに全くキリストにささげ尽くされたものであったことか! あなたは《救い主》を愛していただろうか? あなたは多くを赦されていた。それで、おゝ、実にあなたは《救い主》を愛していた[ルカ7:47]。どれほど主とともに過ごしても十分ではなく、どれほど主を尊んでも、あるいは、いかに主について口にしても足りなかった。あなたは主を愛していただろうか? 何と、もし誰かが主のためにあなたを嘲弄するとしたら、あなたはこの上もなく喜んだ。あなたは、主のためなら喜んで牢獄にも行き、左様。主のために死ぬこともいとわなかった。あなたは、自分の初めの日々に主を愛しただろうか? 何と、あなたはいかに大きな歓喜をもって主の御国の進展のために自分の財産を費やしたかを知っている。時としてあなたは、自分がその一千倍も多く持っていれば良いのにと願った。その場合、それを主の御足元に置くことなど取るに足らないことと考えたであろう。そうした初期の時代には、大きな石膏のつぼがいくつも割られては、しばしば家中が香油の芳香で一杯になった[ヨハ12:3]。あなたは、主とその御国の進展について一言でも悪口が云われるのを聞くと怒りを発しさえした。時として、あなたは自分の知識をはるかに越えた熱心をいだき、あなたが魂の熱意ゆえに行なったいくつかのことは、必ずしも賢明ではなかった。しかし、あなたは主を愛していた。おゝ、いかにあなたが主を愛していたことか! 主の家を思う熱心は実にあなたを食い尽くした[ヨハ2:17]。あなたが有していたあらゆる情動と力は、全く主に捧げられているかに思われた。あなたは主を愛していただろうか? 何と、あなたは主の民の最も小さな者をも愛した。群れの中の子羊一匹さえ、あなたが軽く見て養おうとしないものはいなかった。あなたは主の《書》を愛していた。いかに小さな約束にもあなたは魅了された。あなたは主の家を愛していた。あなたは一週間が毎日日曜であれば良いのにと願うのが常で、あらゆる日曜が一箇月も続けば良いのにと思った。あなたがいたいと願ったのは、このような国であった。

   「会衆(みたみ)のたえて 散ることぞなく
    安息日(みやすみ)の つゆ終わらざる場」。

なぜなら、あなたは主の甘やかな愛を味わい尽くすことができなかったからである。それがあなたの婚約時代の愛であった。神はそれを覚えており、それを振り返って見ては、それを褒めてくださる。そして、私があなたに望むのは、たといそれが二十五年も前のことであろうと、ごく最近のことであろうと、やはりそれを振り返って思い出すことである。望むらくは、ある人々が今でさえ、なおもこの霊的蜜月のただ中にいてほしいと思う。願わくはあなたが決して冷たくならないように。決してあなたの主からさまよい出さないように。しかし、それが過去のものとなってしまっている場合には、それを思い出して、いま喜びとともに思い起こすがいい。ことによると、私はこう云い足せるかもしれない。あなたがたの中のある人々は、それを後悔と恥辱とともに思い出すべきである、と。

 主がご自分の民をお褒めになるのは、その愛に加えて、多くの歓喜と喜びがあり、その愛に対応する多くの行為があるように見受けられるからである。主は、私たちの若かった頃の誠実を思い出される。「わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛……を覚えている」。これは、単に古のこの民が主を愛したということだけでなく、彼らがその愛を示したことをも意味していると思う。彼らが葦の海を横断したばかりで、初めてその足で対岸の砂漠を踏んだときの姿を見てみるがいい。すると、ミリヤムはそのタンバリンを取り、イスラエルの娘たち全員が踊りながら出て来た[出15:20]。そして、彼女たちは歌い、かつ叫んだ。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」。「この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる」[出15:2]。そうした日々は祭日であった。いかに彼らはその愛する栄光に富む御名にあって歓喜したことか! 何と、その日、彼らの宿営全体の中には、エホバに反抗して舌を動かそうとするものなど、犬ころ一匹もいなかった。ロンパの神の星[使7:43]を拝んでいた者たちでさえ黙ったままだった。混じり込んでエジプトから出て来た、主を知らない群衆たちも、非常に神妙にしていた。全集団は主にあって歓喜しているように思われた。そこにあったのは、ただの愛ではなかった。あふれ流れる愛であった。彼らの杯はあふれていた[詩23:5]。その愛は、祝いの鐘を鳴り響かせ、タンバリンと立琴を何度も何度も何度も奏させるものであった。彼らの敵を討ち滅ぼされた主をほめたたえるためにである。

 あなたは、自分の人生の中の、これと対応するような経験を覚えているだろうか。私はよく覚えている。さかのぼってみれば、自分が羽根のように軽く感じた時を思い出す。――そのとき、私の魂そのものが、私の回りに降り積もった雪片のように踊るのを感じた。その日の朝、私は初めて《小羊》の血によって洗われたのである。おゝ、その救いに私はいかに歓喜したことか! そのとき私は、岩々や丘々がその永遠の沈黙を破って主をほめたたえてほしいと願った。そのときの私にとっては、いかなる音楽も主の麗しい御名とはくらべものにならず、半分も甘やかではなかったし、今もそうである。主の恵みはほむべきかな! 一部の人々は、悲しいかな、その点から後退してしまっている。それにもかかわらず、自分たちが最初に主を知った、あの恍惚的な時のことを思い起こさなくてはならない。主もそれを覚えておられる。「わたしは覚えている」、と主は云われる。「わたしは覚えている」。夫が自分の妻の最初の愛を覚えているように、また、ことによると、そのことを彼女に告げて、あの甘やかで、若々しく、清新な感情を再び取り戻させようとするように、主は、冷たくなってしまっているあなたがたの中の誰にでも、こうしたほむべき日々のことを思い起こさせてくださる。あなたを目覚めさせて、ご自分に対する同じような誠実さをいま持たせたいと希望しておられる。

 それから、注目するがいい。主は続けて、ご自分の民がいかに厳密に主に従ったかについて語っておられる。主は、私たちの交わりに実が伴っていたことを覚えておられる。「わたしへの従順を」。そうした時代、私たちはこう云ったし、単に云うばかりでなく、現実にそれを行動に移した。――

   「わが主の定めし あらゆる道を
    辿りてわれは 旅すなり」。

「主の行かれる所に、私も行きます」、と私たちは云った。「主のお命じになる所に、私は行きます。ただ、恵みによってイエス・キリストの模範に従わせてください。そうすれば、私は喜んで自分の足を、主がその御足を置かれた所に置き、うむことなく、切なる気遣いとともに主の足跡を踏みしめて行くことでしょう」。あなたは覚えていないだろうか? 脇道にそれはしないかと片足を下ろすことさえ恐れるのが常であった頃、何かをする段になると常に主の導きを求めていたあの頃のことを。いかにしばしばあなたは自分の口から言葉を取り上げては、主に許されないことを何も云わないように、よくよく点検してから語ったことであろう。おゝ、それはほむべき時であった! 望むらくは、あの注意深さ、あの自分の魂に対する用心、あの、いかに小さな事がらにおいてさえも主の前に正しくありたい、何事にもおいても、自分の魂を愛しまつる《お方》のねたみ深い心を損なわないようにしたいという強い願いが常に続いてほしいものである。私たちがいかなる時にもまして健全になるのは、瞳のように敏感な良心を持ち、自分の全性質が、罪の思いに対してすら鋭敏に研ぎ澄まされているときである。繊細な植物が、その葉にちょっと触れただけで縮こまり出すのと全く同じように、その頃の私たちの魂は、罪が少しでも近づいてくるだけで用心を始め、引っ込み、気遣い出すのだった。それが最初のあり方であったし、神はそのことで私たちを褒めてくださる。私たちの従順について語っておられるからである。実際、神は今も、そうした恵みがとどまっているのを見いだすときには、そのことゆえに私たちを褒めてくださる。

 主がこの民を褒めてくださるのは、事実、主に従おうとして出て来たからである。主は、私たちの決意の堅固さを覚えておられる。「荒野の……地でのわたしへの従順」、と主は云われる。これは、あの古の民が主に従うためにエジプトから出て来たことを意味している。あらゆるイスラエル人が――というのも、後に残った者はひとりもいなかったからである。――主のために自分の家と家庭を捨てたというのは、壮挙ではなかっただろうか? それは大して快適な家ではなかったかもしれない。彼らは鍋の回りや、煉瓦窯の間に住んでいたからである。だが、ひとり残らず自分の家を捨てた。誰かがこう云ったとしても当然だったと思えるであろう。「たしかにあばら屋であるとはいえ、これは私の子どもたちが生まれた所だ。私はここを離れたくない」、と。しかし、彼らはみな出て来た。彼らの中のある者たちは、そのなけなしの財産すべてを宝石類に変え、持ち運べるようにした。また、あらかじめ作っていた少量のパン生地を、欽定訳では「こね鉢」[出12:34]と呼ばれるものにかかえて出て来た。「ひづめ一つも残すことはしなかった」*[出10:26]、という。つまり、誰もが子羊一匹、羊一匹、牛一頭も残すことなく、全員が自分の持ち物すべてをかかえて出て来たということである。驚くべきことに、彼らは。自分たちの上に臨んだ神の御力によって、このように名高く完璧な脱出を成し遂げたのである。

 しかし、最初の日々には私たちもそうであった。私たちはこの世から真っ直ぐに出て来た。ことによると、私たちは世俗の集団の中では目立った存在だったかもしれない。私たちは世の楽しみに首までつかっていた。おびただしい数の人々が私たちのことを陽気で愉快な奴だと考え、決してメソジストになどなるまいとみなしていた。――決して。しかし、私たちはあらゆる紐帯を断ち切り、あらゆる関係を切り離し、あらゆる絆を切断して出て来た。その当時、あなたがたの中のある人々にとって、それがいかなる犠牲を払うことであったか、あなたは覚えているであろう。ことによると、あなたは作業場にいて、職工たち全員の嘲りの的となったかもしれない。誰もがこの件については知っていた。だが、あなたは、地獄にいるあらゆる悪鬼がそれを知ろうと、蚊に刺されたほどにも思わなかった。あなたは、あらゆる者を平然と無視した。あなたはその変化を誇りとした。ことによると、あなたは別の社会階級にあったかもしれない。あなたはそれを初めはやや辛いと思ったかもしれないが、次第に、こう云うようになった。「もしこれが卑しくなることだとしたら、私はもっと卑しくなろう」。そして、あなたは真っ直ぐに出て来た。ことによると、あなたは自分の回心によって友人を失うか、名声を失ったかもしれない。――いわゆる社会の裏通りを行くことになり、社会的には死んだも同然となり、――もはやその一員ではなくなったかもしれない。しかし、それは、全くあなたを悩ませなかった。あなたは、この世界のようなあわれで惨めな世界をごまんと持つよりも、キリストを自分のものとしていたかった。あなたは、自分が殉教者たちが牢獄や死に赴いたときほど多くのものを捨てられないことを残念に感じた。そうすることができたら良いのにと願わんばかりだった。キリストのために大胆に出て行くことは、それほどほむべきことと思われたからである。その時のあなたは、韮や、大蒜や、玉葱[民11:5]のことを考えなかった。あなたがたの兄たちのある者は、そそうした匂いに多少鼻をぴくつかせ、エジプトのごちそうについて考え始めている。しかし、あなたの初期の時代、あなたの婚約時代の愛の頃は、韮だの大蒜だの玉葱だのをいかにして欲しただろうか? あなたは天的なマナを求めていた。永遠の泉から水を引き出していた。あなたのために神から打たれた岩から流れていた水である。あなたはその頃、信仰がつかんだ、目に見えない事がらに満足していたし、自分の顔を堅く向けていた美しき国の見通しを嬉しく思っていた。悲しいかな、もしそれが今のこととして云えないとしたら!

 しかし、なおも主は、私たちの初期の信仰が実を伴うものであったことを覚えておられる。イスラエル人は、非常な真実さと自己否定とともに出て来た。何を有していようと、その多寡に関わらず、彼らはすべてを置いて行かなくてはならなかった。――何のためにか? よろしい。1つの相続地のためである。だが、その時、その相続地には全く現実味がなかった。彼らは何を得たか! 彼らに見える限り、ただ、種も蒔かれていない荒野に出て行くのでしかなかった。肉的な理性は彼らに対決し、云ったはずであろう。「さて、お前は決して成功しないさ。何と、ツィンの荒野に出て行くだと? そこは燃える蛇で一杯なのだぞ! それは砂漠と穴の国、日照りと死の陰の国と呼ばれているぞ。いかなる者も横断したことなく、いかなる者も住んでいない土地なのだぞ。お前は、神に従ってそこに行こうというのか? 何と、神の民の経験は苦難と試練と争闘で一杯なのだぞ。まさか神に従ってそこに行こうなどと云うのではないだろう?」 古の《無神論者》もそこに出て来て、出発する際のあなたと対決して、こう云ったかもしれない。天国などないさ、お前が読んだことのある素晴らしい世界などないさ、と。そして、あの双子の兄弟、臆病者と不信者は云った。行く手には獅子と巨人がいますぞ、引き返した方がよろしい、と。それから別の者がやって来て云った。これは険しい路で、龍たちや、大敵アポルオンと対決して戦わなくてはなりませんぞ、と。ありとあらゆる恐ろしい悪がそこにないとは誰にも分からなかった。「危害を免れたければ、引き返した方が良いぞ。前進してはいかん」、と彼らは云った。「何と、お前は、巡礼になったことのある者のうちの何人かが語るのを聞くべきだぞ。彼らは、すさまじい災いを告げておる。彼らのある者たちは非常に浮かない顔をしているぞ。そして、知っての通り、彼らは分かっているのだ。そして、もし彼らがそうした事がらを告白しなくてはならないとしたら、よろしい。お前は自分が何をしようとしているのか考えた方が良いぞ」。しかし、イスラエル人たちは、ひとり残らず主に従って水もない荒野の地に出て行き、完全に未知の国へと向かった。彼らは、先立つエホバへの信仰ゆえに、大胆に出て行った。

 それは、私たちが自分の婚約時代に行なったことではなかっただろうか? しかり。神はほむべきかな。私たちは費用を計算し[ルカ14:28]、それから、どんなことになろうと私たちの主に従って行こうと云った。私たちは主とともに一時間でも[マタ26:40]、あるいは、何時間でも目を覚ましていようと思ったし、主の杯を飲み、主のバプテスマを受けよう[マコ10:28]と思い、もし主の弟子として数えられ、最後には主の栄光にあずかることを許されるとしたら、いかなることをも行なうと思った。しかり。私たちは――私たちの中のある者らは――意識してそう云った。自分の見込みのすべてを見越したが、主に従うのであれば、それは破滅のようには思われなかった。自分の慰めとしてきた多くのものがなくならざるをえないと見てとったし、実際、それらはなくなった。やがて幾多の争闘があるだろうと分かったし、実際、そうした争闘を見いだしてきた。私たちにはそうしたすべてが分かっていた。だが、キリストを愛していたため、あの聖人ラザフォード氏と同じような心になっていた。彼は、自分の主に対する愛にあふれた書簡の1つでこう云っている。「たといあなたのみもとに行くまで7つの地獄を越えなくてはならないとしても、わが主よ。おことばをいただければ、私はそれを踏み渡ります」。それこそ、まさにあなたがあの頃に感じたことではなかっただろうか。それは、私たちの中のある者らが今も感じていることである。ある人々は、以前ほど完全にはそう感じていない。だが、主は彼らの婚約時代の愛を覚えておられる。荒野の地での彼らの愛を。

 そして主は、私たちの初期の頃の聖さの盛りを覚えておられる。「イスラエルは主の聖なるもの」[エレ2:3]であったし、私たちは主に対して、あまりにも早く自分たちの収穫の実をささげようとした。私たちは神の近くで生きよう、あらゆる偽りの道を捨てようと励んだ。一部の信仰告白者たちさえ、私たちが几帳面にすぎ、四角四面すぎると考えたほどであった。だが、私たちがそれ以来学んできたところ、私たちの中の誰であれ、そうした方向で過ちを犯すことはごくごくまれにしかない。私たちは自分の思念を良心的に点検した。自分の言葉を良心的に点検した。そして、間違いを犯してはいけないからと、自分よりも分別があると思えるあの人この人に、常にこれこれのことが正しいかどうか尋ねていた。私たちは、あらゆることにおいてキリストのかたちを映し出し、主のみこころに従いたいと願った。よろしい。さて、それがかつてのあり方であった。そして、それこそ神が喜びとともに覚えており、私たちにも思い出させたいと望んでおられることである。

 神は、私たちが最初に主を知ったとき主に捧げた熱烈な愛を思って大きな喜びを感じられる。御名に対する私たちの思慮深く、また実践的な誠実、どこまでも主に従おうという私たちの堅い決意、主のいかに小さなみとばをも、行動の裏づけとして受けとろうとする私たちの信仰、罪が近づいてさえ震えた私たちの聖さを大きく喜ばれる。もしこうした事がらがなおも私たちとともにとどまっているとしたら幸いである。しかし、たといそれを失っているとしても、主は、愛情深い母親が子どもたちの幼児期を回想するように、それらを思い出し、私たちを、私たちの初めの愛と私たちの初めの行ない[黙2:5]に立ち返るよう招いておられる。

 II. さて、《なぜ私たちも、自分の初期の日々を思い出すべきなのだろうか?》 それを私たちの第二の点としよう。しかしながら、その点については長々と語らないことにしたい。

 望むらくは、私たちの中のある者らにとって、この聖句が叱責の言葉となってほしいと思う。主は、以前のあなたのあり方を覚えており、今のあり方と対比させ、このように転落してしまった理由をあなたに尋ねておられる。先にこの章全体を読んでいたとき、あなたはこの言葉に注目したと思う。主は云われる。「あなたがたは、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか」*[5節]。思い出すがいい。いかに主があなたを叱責して、こう云っておられるかを。「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」[13節]。さて、もしあなたが、このように下落しているとしたら、兄弟たち。たとい、神をほむべきことに、キリスト教信仰を投げ捨ててはいないとしても、――たとい、まだあえて信仰を告白しており、正直に告白することができるとしても、――それでも、以前ほど熱心でも、聖くも、愛に満ちても、祈り深くもないとしたら、神はあなたをたしなめるであろう。あなたに、そのようなあり方をすべき十分な理由があるだろうか? ないに違いない。そして、それは非常に見苦しいことである。事情を知らない他の人々はこう云うだろうからである。「あゝ、見ての通り、物事は目新しいうちはしごく結構だし、あまり詳しく知らないうちは申し分ないものだ。しかし、この年季の入ったキリスト者たちはその段階を過ぎて、頓挫してしまったのだ。いやになるほどのめりこみ、それが、前に考えていたようなものではないことに気づいたのだ」、と。おお、あなたはあのよこしまな斥候たちのようである。あなたは、かの地のことを悪く云いふらしているのである。あなたが次第に冷ややかになることによって、外の世界にこう伝えているのである。主は、私たちが口で云っているようなお方ではない、と。そして、そのようにして私たち、あわれな教役者たちは、あなたによって手ひどく苦しむことになる。というのも、私たちがいくら懸命に説教しても、人々は私たちの勧告を信じるよりは、あなたの嘘を信じるからである。私はあなたに云うが、信仰後退したひとりのキリスト者は、ひとりの教役者では取り消せないほどの害を神の《教会》に及ぼす。そして、神の近くで生きている、愛する子どもたちは、あなたがたの中でも低調になりきった者たちのために、しばしば軽蔑を浴びせかけられることになる。あなたは今では決して祈祷会に姿を見せない。平日の別礼拝にはほとんど頓着しない。そうするには今や忙しすぎる。以前よりもあなたが忙しくないとしても関係ない。今のあなたは、以前そうしていたほどには他の人々にイエス・キリストのことを決して語らない。キリストは以前よりも悪くなっているのだろうか? あなたから軽んじられて当然になっているのだろうか? あなたに与える恩義が少なくなっているだろうか? 実のところ、あなたは以前にまして大きくキリストの豊かなあわれみと無代価の恵みに負債があるではないだろうか? 主があなたのために多くを行なえば行なうほど、あなたが主のために行なうことは少なくなるのだろうか? あなたが年老いつつあるからといって、あるいは、より多くのあわれみを受けているからといって、あなたは感謝を減らしつつあるのだろうか? おゝ、私は切に願う。イエス・キリストの愛にかけて、また、その深い同情心にかけて、そのようなことを許してはならない。私の愛する方々。むしろ、祈るがいい。聖霊によって、かつてあなたがいた所に引き戻されるように。――否、あなたが、最初に主を知った頃にそうであったあり方をはるかに越えた所に前進させられるように、と。それで本日の聖句は、叱責の言葉として心に突き入れられるべきなのである。

 それから、神のこのことばは、警告の言葉として用いられるべきである。愛する若いキリスト者の方々。あなたがた、教会に加わったばかりの人たち。あなたがこう云っているのが聞こえるような気がする。「おゝ、何て恐ろしいことだろう、先にキリストに対していだいていたよりも、愛が少なくなるなんて」。それは確かに恐ろしいことであり、私はそのことを嘆き悲しむものである。しかし、私はあなたが、自分なら決してそうはならない、と云うのを聞いても、それを鵜呑みにはしない。「もしも私が私の主を忘れ、今の私より少ない愛しかささげなくなるとしたら、私の右手がその巧みさを忘れるように[詩137:5]。そのようなことはありえない。何と、私は力から力へと進み[詩84:7]、主をいやまして愛するであろう。私は自分がそうすることを知っており、私の環境が改善されれば、また、私の機会が増えるならば、また、私の賜物が増加するなら、より多くそうするであろう」。これが、あなたの云っていることであり、また、云わなくてはならないことである。だが、あなたが非常に用心深くしていない限り、それを、あなたがすることにはならないであろう。おゝ、私はこの教会の一部の教会員たちによって、何と欺かれてきたことであろう。そうした人々が罪に陥ったというのでも、外的な行為に関する限り、キリスト者の名にもとるようなことをしたというのでもない。だが、そこには、私がその人々のうちに見ていると本当に考えていた、深い霊的いのちの底がなく、実り豊かさがなく、神への熱心がない。特に、かつては大罪人であった人々、また、驚嘆すべき喜びと深い経験を有していた人々の場合がそうである。その人々は、本来、――あゝ、「その人々」とは云うまい。――私たちはみな、本来、今のあり方とは非常に異なっていなくてはならない。だから、今の決意の固さや、私たちの現在の情緒を頼りにするのではなく、自分を主にゆだねようではないか。このお方だけが私たちをつまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることがおできになるのである[ユダ24]。おゝ、若い人よ。あなたの霊的な若さを喜んではならない。おゝ、若き回心者よ。あなたの愛の強さを得意がってはならない。主に願って、それらを今と同じくらい強いままにしていただくがいい。また、それよりも無限に強くしていただくがいい。――それは、あなたが本当に力から力へと進むためである。だが、もしあなたが、いつ何時であれ自分自身の心に頼るとしたら、あなたは愚か者となるであろう。願わくは私たちが、キリスト者経験の常にしかるべきあり方を悟ることができるように。すなわち、上ってはいても上ることなく、それでもなお上って行くあり方――愛してはいても、その後で、そうした初めの愛が覆い隠されたかと思われるのと同じくらい愛し、その上でさらに愛して、さらには、そうしたいやまさる愛が二流の愛に思われるほど愛するようになり、それからさらになおも愛して、それまでの愛をいかに積み上げても、いま達した愛に比べれば無に思われるほどとなるあり方である。事は大胆に行ない、――神がお召しになるがままに全く明け渡し、従うことである。それも、そうするたびに、いやまさる喜びと、さらなる歓喜をもってそうすることである。いのちを得た上で、それをさらに豊かに持つ[ヨハ10:10]ことである。私は、あのダーウィンの理論がキリスト者としての私たちの内側で現実になってほしいと思う。そして、牡蛎がカンタベリー大主教に進化したという彼の話のように、私たち、回心の時にはほとんど牡蛎も同然であった者たちが、霊的な事がらにおいて進化して、進化して、進化することを続けて、ついにはヨハネがこう云ったときに意味していたことを知るまでとなれば良いと思う。「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」[Iヨハ3:2]。願わくは、あなたがそのように進化し、信仰後退から守られ、神の御名に賛美が帰されるように。

 私はただ望む。ここまで私が語ってきた言葉のいくつかが、たとい直接に未回心の人々相手に発されたものでなかったとしても、そうした人々の心の中できらりと閃き、そうした人々を導いて、私たちの主イエス・キリストを通して《救い主》を求めさせるように。アーメン。

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私たちの婚約時代の愛[了]

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