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抑制の恵み

NO. 2924

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1905年2月23日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1862年


「ダビデはアビガイルに言った。『きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように』」。――Iサム25:32、33


 まずは、この物語について話さなくてはならない。状況が分からなければ、この言葉は理解できないからである。ダビデは、自分の国で無法者の立場にあった。彼は、自分がいつの日かイスラエルを治める王になると知っていたが、主に油注がれたサウルへの畏敬のあまり、簒奪のように見えかねないこと、あるいは、いかなるしかたにおいても現在統治している王君を損なうように思われることを一切行ないたくないと思っていた。約四百人の困窮した人々――サウルの暴君的な政権によって貧困に陥った者、負債のある者、また、概して不満のある者――が、アドラムの洞穴にいたダビデのもとに身を寄せ、ダビデを頭とする山賊軍を形成した。その後しばらくすると、同じような志を有する、もう二百人の者たちが参集して、この軍に加わったので、ダビデはいつしか、六百人の野武士軍の頭になっていた。彼らはみな勇士であり、いつなりとも武勇を立てる覚悟があった。見ての通り、ダビデは非常に困難な立場に置かれた。彼は、この者らのために働きを見つけなくてはならなかった。彼らは傭兵であり、雇っておく必要があった。だが、彼が叛徒のようにふるまうことは不可能であった。自分の部下を率いて自分の王に歯向かうことはできなかった。自分に従う者たちを食い詰めさせないために革命を始めることはできなかった。

 では、王に忠義を尽くし続けながらも、それと同時に部下たちを解散させずにおきたければ、何をしなくてはならないだろうか? 彼は自分の諸部隊を、平和的な警備の仕事に就かせた。カルメル山の急坂の上で羊を飼っている大手の牧羊家たちの群れを守る仕事である。こうしたことは、今日でさえ東方では珍しくない。一部のアラブの族長たちは、部下の一団をもって、時として、牧羊家たちの群れに、羊を襲う遊牧民や略奪者たちを寄せつけない仕事に就くのである。そしてもちろん、こうした苦労に対する何らかの種類の報酬は期待する。

 さて、羊が牧草地に出ていた間中、ダビデとその部下たちは、ナバルという名の、とある牧羊家の群れの見張りをした。群れの羊毛を刈り取る時期になったとき、ダビデは配下の何人かを、羊の毛を刈る祭をしているナバルのもとに遣わし、自分の要望を伝えさせた。部下たちを養うために、ある程度の贈り物を与えてほしいというのである。彼らがナバルの群れを守っていなかったとしたら、確かに隊を組んだ略奪者たちによって、羊の数は減っていたに違いなかったからである。しかしナバルは、ダビデの与えた恩恵を受け尽くしておきながら、ダビデの使者たちには、粗野で無愛想きわまりない答え方をせずにはいられなかった。「このごろは」、と彼は云った「主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」[Iサム25:10-11]。

 これほど無礼な伝言を聞いて、ダビデが怒らずにいることはできなかった。実際、彼が激怒したことは分かる。彼は自分の主人から逃げ出したのではなかった。彼の主人が彼を追い出したのであり、サウルから離れても、サウルの敵とはならなかったダビデは、平和を保つために自分にできる最善のことを行なっていたのである。彼は、手の着けようもないほど憤激した。「私は、このしみったれたど畜生の群れをずっと守ってきた。そして、奴の羊の面倒を見させるために部下を貼り付け、他の実入りの良い仕事もさせずにおいていた。だのに今、奴に使いをやると、何か施物を寄こす代わりに、無礼もきわまる返事をしたのだ」。それから、部下の方を向くと云った。「めいめい自分の剣を身につけよ。われわれをどう扱うべきか、この男に見せてやろう」。それで、洞窟を守らせるための二百人を残すと、四百人の者が行進を始めた。ダビデはその先頭に立った。頭に血が上ったままのその顔には、怒りがまざまざと表われていた。「もし私が、明日の朝までに」、と彼は云った。「あの男の家の者を犬ころ一匹でも残しておくなら、神が私を幾重にも罰せられるように」。彼が討って出たときには、疑いもなくナバルを完全に征伐し、その家を廃墟の山とし、それからこの牧羊家の地所を荒廃させるつもりであった。神の子どもにとって、何と誤ったあり方であろう! しかし、ダビデは生まれつき衝動的な気質で、少しでも気概のある人間であれば、時として癇癪を起こすことがあるものである。私たちが話に聞くある人々は、穏やかで、平和で、落ち着いていること、よどんだ水たまりも同然であるという。確かに、そうした人々の平和が川のように流れることはなく、そうした人々の正義が海の波のように[イザ48:18]打ち寄せることはないに違いない。ダビデはそうした人種のひとりではなかった。

 このエッサイの子が、性急にカルメル山の男に向けて進撃しつつあったとき、ひとりの女に出会った。ナバルの妻である。ことによると彼には、彼女を殺そうというむごい考えが浮かんだかもしれない。だが、否。――彼女は女であった。ダビデには彼女を殺せなかった! それだけでなく、彼女は彼の足元に膝まずき、あらゆる責めを自分に帰してくれと懇願したのである。それから彼女は云い続けた。自分の主人は非常に愚かで無礼な男であり、ダビデはその言葉に腹を立てないでほしい、と。彼女は彼に贈り物を持ってきた。そして、彼が王になったときには、彼が一度も私怨で戦ったことがなく、主の戦いだけを戦ったと考えることで、精神に大きな安らぎを得るであろう、と。彼女は彼に未来を思い起こさせ、そうすることで現在を忘れさせた。ほどなくして、彼の心は穏やかな内省に屈した。彼は、兵士としてよりも、むしろ聖徒としてふるまい、自分の剣を鞘に収め、この件を神にゆだねた。

 野蛮な仕返しがとどめられたとき、すみやかに正義の復讐が明示された。というのも、十日後にナバルは死んだからである。主ご自分が敵に対する報復的な正義を加えられ、主のしもべは無差別的な虐殺から引き留められた。

 これが、この物語について云えることすべてである。それによって示唆されるのが、本日の主題、「抑制の恵み」にほかならない。すなわち、聖徒たち、また、罪人たちが、罪に陥らないように、神がお送りになる恵みのことである。私は希望している。この礼拝式が終わる前に、私たちの中の多くの者らが自分の過去の人生を振り返り、感謝とともに主をほめたたえ、その摂理をほめたたえるようになることを。また、主が私たちを教え、悪から引き留めるために送られた人々を祝福するようになることを。そして、神に感謝するようになることを。なぜなら、私たちはしばしば誤ったことを行なうことから引き返させられ、すべてを支配するご計画によって、義の道を通って神へと導かれてきたからである。

 この抑制の恵みについては、2つのしかたで語りたいと思う。まず第一に、神の民について手短に扱うであろう。とはいえ、この人々こそ、この尊い恩恵の価値を認め、感謝を感じることのできる唯一の人々ではある。それから私たちが見てとりたいのは、いかにしばしば、恵みはイエスに従っていない人々さえも抑制するか、ということである。

 I. 《抑制の恵みは、神の民全員が享受している》

 愛する方々。私たちの中のある者らは、今この時、神をほめたたえることができるであろう。というのも、抑制の恵みは、私たちのもとに敬虔な教育という形でやって来たからである。私たちは、揺りかごに寝ていたとき何の冒涜も聞くことがなかった。何の呪詛も、夢を見ている私たちを覚ましはしなかった。私たちの中の多くの者らは、父の家の屋根の下で何の酩酊も見たことがなかった。何の扇情的な本も私たちの前に置かれていなかった。あなたがたの中の多くの人々は、テモテのように、若い頃から聖書を知るようしつけられていた。また、あなたがたの中のある人々は、時として、サムエルのように、神の声によって語りかけられることさえあった。聖い母親ゆえに神はほむべきかな。愛情のこもった、祈り深い父親ゆえに神はほむべきかな。あなたがたは神から祝福されている。あなたがた、私たちを神のために育て上げてくれた人たち。また、あなたがたの助言も祝福されている。というのも、あなたがたは私たちを多くの罪から守ってくれたからである。

 それ以後、抑制の恵みは、敬虔な交友という形でやって来ている。私たちはみな、大して自分のことを誇ることはできない。もしも自分が、今と違った立場に置かれていたとしたら、どうなっていたかと考えればそうである。もしもあなたが、善良な親方のもとに徒弟に出て、その後で、《日曜学校》や、聖書学級や、教会内で敬虔な人々と交わりを持った代わりに、路上で教育を受け、地下の石炭置き場か劇場で学位を取るというような運命にあったとしたら、誰に云えるだろうか? 今のあなたが、町通りで行き交い、なぜこれほど悪い生き方をしているのかと思うような、どす黒い罪人になっていなかったと。人の人格の多くは、他の人々によってもたらされる。私たちは他の人々に大きな恩義を負っている。実際、いかなる人であれ、百本もの指によって形作られ、一千もの影響によって、柔軟だったその人格が今ある姿に変えられてきたではないだろうか? 私も、神の御霊こそ人を神の前に正しくするものであることは知っている。だが、やはり私の知るところ、聖なる交友が、(あるいは、私たちの心の中に入って、私たちを更新する恵みが)私たちをもろもろの罪に陥ることから抑制しているのである。そうでない状況下にあったとしたら、私たちは確かにそうした罪に陥っていたに違いない。

 抑制の恵みをたたえる際に、愛する方々。このことを云わずに何を云えば良いだろうか? すなわち、私たちを罪から守ってきた、数々の摂理的な状況である。私たちの中のある者らの場合、キリストを知る前の若い時期には、非常に強い誘惑を受けることがあったが、実行する機会が手近になかった。あるいは、機会は私たちの眼前にあったが、そのときには何の誘惑もなかった。願わくは神が、誘惑と機会を同時に得ている人を助け給わんことを。多くの、多くの人々が、抑制し、抑止する神の恵みを受けてきたのは、悪魔が2つの賽子を同時に振ろうとするのを妨げられるときである。恵みによってこそ、ある時には心に火があっても何の燃料もなく、別の時には燃料はあっても火が燃えつかず、人が罪を犯すことが都合良くも、願わしいものにもならなかったのである。おゝ、愛する方々。私たちの人生という川は、その行路が曲がりくねり、大きく蛇行したものである。もしも、ある所で別の方向に曲がっていたとしたら、それは今あるものとは大きく異なっていたであろう。そして、ことによると、ある一言が――人のよく云う偶然が、まぐれ当たりのことが――すべてをがらりと変えていたかもしれない。さて、私たちは自分の道徳的な評判に非の打ち所はないと云えるが、この神の抑制の恵みが、数々の摂理的な状況を通して働いていなかったとしたら、自分が不道徳で、放埒で、堕落していると嘆かざるをえなかったかもしれない。

 1つの水源から二本の川が発している。この二本の川はどちらとも、ある丘の頂上にある小湖が源となっている。どちらとも同じ場所から始まっている。だが、その行路の最後に至るとき、それらは五百哩も隔たっているのである。この一滴の水を見るがいい。ここに、それはある。それはどちらに向かうだろうか? あの流れを下って、向こう側の海に至るだろうか? それとも、こちらの流れを下って別の運命に至るだろうか? 一羽の小鳥のはばたき1つで、その水滴がどちらに行くかは決まり、それは向こう側の海へと押されて行くか、別の水路を見いだし、はるかに離れた行路を辿っていくことであろう。私たちもそれと同じである。神の恵みは――抑制の恵みは――私たちをこれこれの水路に置き、別の水路に投じなかった摂理に大きな関わりを有している。それによって私たちは、聖い人々と接触を持つことを許され、邪悪きわまりない人々によってやつれ果てずに済んだのである。これは、私たちの自分を義とする思いにとって大打撃である。もし私たちが自分の心を変えられなかったとしたら、また、もし数々の摂理的な状況が少しでも異なっていたとしたら、私たちはとうの昔に失われていたかもしれない。

 しかし、人生を変える回心の力に加えて、数多くの信仰者たちに恩恵を施してきた、神の恵みが働く経路は、試練と苦しみである! 人々は道をそれたいと思っていたが、患難によって行く手を阻まれた。神の律法という垣根を飛び越えたかったが、何らかの逆境によって妨げられた。ある人々にとって大きな恩恵となるのは、一度たりとも良い健康にならないという事実である。盲目の片目、不自由な片足、不具の片腕は、神の御手の中で、あなたがたの中のある人々を不義から守るための大きな祝福となってきたかもしれない。それがなければ、そうした不義に陥っていたかもしれないのである。私たちは、いかに無数の良い細流がこの泉から流れ出しているか決して分からない。私たちはそれをマラ[出15:23]と呼ぶが、神はそれをしばしば私たちの魂にとって1つのエリム[出15:27]とされるのである。

   「わが救い、決意せる主は わが行路(みち)守りぬ。
    よしわれサタンの盲目(めしい)し奴隷(ぬひ)とて、死をもてあそべるも」。

思うに、キリストにある愛する兄弟姉妹。振り返ってみると、あなたはこう云えるであろう。「私には、多くの場所に神の指が見えます。それがなければ私は自滅していたことでしょう。――あそこでも、あそこでも、また、あそこでも。――主がおられるとは知りませんでしたが、主の御腕は私の下にありました。主が御目で私を導き、私が完全に滅びないように伴われたのです」。

 さて、キリスト者である人たち。もしあなたがこのことを少しでも考えられるとしたら、あなたは実際このことについて神に非常に感謝すべきである。たといあなたがそれより多くの罪を犯してきたとしても、キリストの血はあなたの咎を洗い流すことができたであろう。それは私も承知している。もしあなたのもろもろの不義が、さらに大きなものだったとしても、あなたは天来の愛が有する力を越えたことにはならないであろう。しかし、いま考えてみるがいい。あなたがそこまで行くことを許されなかったことが――もちろん、私は今、あなたがたの中の一部の人に対してのみ語っているが――いかにあなたにとってありがたいことであったかを。いかに大きな悲しみから、あなたは免れてきたことか! いかなる悪習慣から救われてきたことか! いかなる誘惑が今のあなたから遠ざけられていることか。以前の時期に、神があなたを罪から遠ざけてくださらなかったとしたら、そうした誘惑にあなたは圧倒されていたであろう。

 ことによると、この場にいるある人は、キリスト者であり、かつ、自分が贖われていることを知ってはいても、自分が新生する前の日々を忘れることができさえしたら、右腕を失っても惜しくないと思っているかもしれない。ある人々はこう云うかもしれない。「私は、今まで見てきたものを忘れることができさえするなら、この目を失ってもかまいません。今まで聞いてきたものを思い出さずにいられさえするなら、この耳を失ってもかまいません」、と。何と、あなたが祈っているときに、古い歌の一節が思い浮かぶのである。まさに天国に上ろうとしているときに、以前の時代に行なった古い歓楽か浪費のどす黒い記憶が何かしらあなたの飛翔をはばみ、鷲に縛りつけられた重りのように、舞い上がることを妨げるのである。多くの人々は、神の陣営の旗頭になれたかもしれないのに、名乗りを上げることを恐れている。また、たとい名乗りを上げていたとしても、何らかの古い習慣によってもたらされる弱さのゆえに、ほとんど力を持てないであろう。その人は、キリストのために行ないたいと思うことも、過去ゆえに行なうことができないと感じる。もしこれがあなたの経験でないとしたら、抑制の恵みのために神に感謝するがいい。

 私は今朝、罪人のかしらに対して説教した。私はそうすることを喜んだ。だが、そうするときには常に、自分たちが、ずっと大罪人であれば良かったのにと思う人々がいることに気づく。それは、罪を愛しているためではなく、神の恵みが自分をつかむときに、より大きな変化を内側に見てとるはずだと考えるためである。だが、そう考える代わりに、この上もなく敬虔な感謝を神にささげるがいい。あなたは今のままでも十分に大罪人である。今のあなたの邪悪さと腐敗は十分であり、卑しい堕落性は十分であり、忌み嫌うべき罪は十分である。あなたの内側にある悪が、はけ口を見いだし、噴出することを許されなかったとしたら、神に感謝するがいい。私は毎日、自分の受けたあわれみの1つとして、知恵の道を走ることを教えられたことを肝に銘じている。

 しかし、もう一度云うが、愛する方々。たといあなたがはなはだしい愚行に突き進むことを許されなかったとしても、だからといって、自分が少しでもキリストに近づいていると考えてはならない。自分が救われる方法は、言語同断な酔いどれや、はなはだ堕落した遊女たちのそれとは違うのだと想像してはならない。天国への道は、人々の間では高い評価を得ているあなたにとっても、自らの犯罪のために監獄で朽ち果てつつある者にとっても、同じ道である。私はあなたに云う。方々。自分は何も悪いことをしてこなかったと考えている人たち。あなたは、牢獄船の中にいる徒刑囚と同じくらい、キリストの血と義によって天国へ行かなくてはならない。また、あなたが栄光に達したとき、あなたには、自分自身の功績や、自分自身の善良さを誇る権利は、あの十字架から栄光へ行った盗人や、あの、多くを赦されたがゆえに多く愛した罪深い女と同じくらいしかない。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない」[Iコリ3:11]。そして、あなたが他の人々ほど深くは罪にさまよい出さなかったことを喜ぶ理由はあるものの、そこには身震いすべき理由もあるのである。というのも、まことに私はあなたに云うが、多くの場合、取税人や遊女たちが天国に入る方が、パリサイ人たちよりも先になるからである。極悪人中の極悪人であった者たちがキリストのもとに来て、悔悟とともにキリストの義を受け入れている一方で、自分自身の義をまとっている他の人々は地獄に下り、自分の義という襤褸切れをまとわりつかせたまま、二重の破滅によって滅びているのである。

 私は、ここまで語ってきたことが、幼少期からの宗教教育や抑制の恵みの価値をいささかも決して減じさせないことを望むが、それと同時に、極悪人中の極悪人さえも救う恵みの価値をも減じさせないことを望む。私はこう感じる。時として、私たちが説教しつつあるとき、私たちはこの世のかすや屑を探し求めて、他の多くの人々を忘れているようだ、と。私は、あなたがた、話をお聞きの愛する方々の中のひとり、安息日ごとに話を聞いている人を忘れたいとは思わない。神が私の証人である。私は、もしあなたがたの中のひとりでも取り落としたと思ったなら、そのひとりの人だけのために喜んで1つの説教をするであろう。その人の魂をかちとれさえするならそうである。私は何と云っただろうか? 1つの説教をする! 私は五十も説教するであろう。一生説教し続けるであろう。あなたがたの中のひとりをかちとるためならそうするであろう。そして、それほど容易な労苦によって、それほどほむべき報いが得られるとしたら、自分は非常に厚遇されたと考えるであろう。しかし、あなたが外的に大罪人であろうと小罪人であろうと、覚えておくがいい。あなたはみな内なる性質においては極悪であり、同じ恵みがあなたがた全員に提示されているということを。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」[黙22:17]。

 II. 本日の講話の第二の部分を語りかけられるべき人々は、神の恵みを、まだ、こうした抑止的な、また、生かす力において経験していない人々である。そうした人々もまた、非常に現実の意味において、神の抑制の恵みを受けてきている。というのも、《神の抑制の恵みは普遍的なもの》だからである。

 人を抑える神の抑制の恵みがなければ、人は耐えがたいものとなるであろう。そして、もし社会の中に神の抑制の恵みがなかったとしたら、一国は成り立っていられないであろう。また、よく秩序だった共和国をいかに私たちが切望しても、決して実現できないであろう。私たちの信ずるところ、人々は、森林の獣とほとんど変わらないものとなり、互いに引き裂き合い、むさぼり食らい合うものとなる。神の恵みが彼らを抑えておかないとしたら、そうである。そして、このことを証明するのは、この事実であると思う。すなわち、人は《福音》の光から遠ざかれば遠ざかるほど、――抑制の恵みが用いる見込みの最も高い種々の媒介から離れれば離れるほど、――互いにずっと残酷になり、野蛮になっていくのである。神に感謝すべきことに、この国ではいかに最悪な状況にあっても抑制の恵みが感じとれる。押し入り強盗や人殺しでさえ、その影響を受けていないことはないと思う。彼らは、それに逆らい、自分自身の良心に逆らって初めてその犯罪を完遂し、自分を罪に引き渡すことができるのである。あなたは、あなたを罪から引き留めておく抑制の恵みを有している。罪人よ。たといあなたがこのことゆえに神に感謝できないとしても、私たちは感謝できる。主をほめたたえる。神はあなたを抑制し、あなたが今のあなた以上に悪い者となることを許しておられないのである。私たちは祈るものである。この抑制の恵みが決してあなたから取り去られないように、と。さもないと、あなたは、断崖絶壁を飛び越えようとするどこかの野生馬のようになるであろう。その手綱が手放されると、自らの破滅へと飛び込み、自分自身と、自分に連なる者全員を滅ぼしてしまうのである。

 それでも、普遍的ではありながらも、神のこの抑制の恵みは、一部の人々から激しく忌み嫌われ、拒否されている。ある人々は、キリスト教がこの国に課している数々の制約をほとんど我慢できない! 自分たちが日曜には店を閉じなくてはならないことに腹を立て、一種の慣習によって神のことばを聞きに行かざるをえないことに苛立つ。こうした人々は、どこか自分が全く好き勝手なことを行なえるような所で暮らしたいと願う。自分の夫と家族が《福音》を聞きに行くように願う妻は、そのために悪く思われる。ある人々などは、できるものなら、全員が悪魔のものである家族が欲しいとさえ思うであろう。だが、あれこれの手立てにより、神はこうした人々の思い通りにはさせないでおられる。不敬虔な男は敬虔な妻をもらい、怒りを発する。じきに子どもたちのひとりが救いに至る神の恵みを受けとると、男はその考えに耐えられない。私の見たことのある一部の人々は、霊的な事がらについては、まさにベドラムの精神病患者のようになる。神はご存知だったのである。こうした者たちをひとりきりにしておけば、自らを滅ぼしてしまうだろうことを。それで、まず最初に、貧困という拘束衣を着せ、自分のしたいことができないようにされた。その後で、こうした人々が荒れ狂って口から泡を吹き始めると、敬虔な家庭の中に連れ込まれる。あたかも狂人が詰め物をした部屋に入れられ、どれほど激しく体当たりしても体を傷つけなくされるようにである。こうした人々は逃げ出すことはできないが、自分の拘束帯を引っ張り、口から泡を吹いて歯ぎしりする。それは神が自分たちをつかんでおり、自分たちの望むように悪魔の完全な支配を受けられないようにされるからである。おゝ、罪人よ! もしかすると、来たるべき日には、神があなたについて、「この者の思い通りにさせよ」、と仰せになるかもしれない。もし神があなたを手放すとしたら、あなたの破滅は永遠に封印され、あなたの運命は云い知れようもないほど絶望的なものとなるであろう。人よ。願わくは神があなたを助けて、あなた自身から守ってくださるように。さもないと、あなたはすぐに自らを滅ぼし、破滅へと突進して行くことであろう。

 しかし、もっと朗らかな見方をすれば、多くの人々において、この抑制の恵みは、より高いものへと至らせる。抑制の恵みがあなたを罪から引き留めてきた後で、生かす恵みがやって来ては、あなたに罪の厭わしさを示し、その後で、赦しを給う恵みがやって来て、あなたにイエスを信じる力を与えるであろう。すると、見よ! あなたのもろもろの罪は取り除かれる。願わくは、いまだ抑制の恵み以上に全く進んでいない、あなたがたの中のある人々が、そのようにされるように。この抑制の恵みゆえに感謝するがいい。あなたの心を尽くして神に感謝するがいい。願わくは、それがあなたを悔い改めに導くように。それがあなたをイエスに信頼させ、イエスだけに信頼させるように! そのときあなたは、単なる抑制から自由へと移りゆくことであろう。恵みは、抑制においては手枷足枷だが、その自由においては、盾とも剣ともなり、あなたの人生における喜びにして太陽となるのである。願わくは神の寛容によって、あなたが悔い改めへと至らされるように!

 しかし、もう一度、再び厳粛な和弦に戻ることにしよう。それがより高い事がらに至らせない場合、抑制の恵みは、それを受けている人の責任を増し加える。もしもある人が垣根も溝も乗り越えて地獄に落ちるとしたら、その遠端に至ったとき、それが凄まじく落下であることに気づくであろう。私たちがある人の回りから毒薬を取り除き、身体に害を与えるような一切のものを遠ざけたとき、それでもその人が自分の血管を食い破るとしたら正真正銘の自殺者である。誰がその人を憐れむだろうか? 同じように、神があなたに垣根を巡らしておられるとき、もしあなたがその垣根を破るとしたら、――また、神があなたの口にくつわをはませておられるとき、あなたが苛立ってそれをバリバリ噛み続けたあげく、とうとうあなたの顎から外してしまい、好き勝手な方向に行くとしたら、――最後にはあなたの頭上に、宇宙からの呪いという落雷という落雷がもたらされ、あなたを審かずにはおかないであろう。また、神の御手から出た容赦ない怒りの雷鳴があなたを罪に定めずにはおかないであろう。残念ながら、この場にいるある人々は光に逆らって罪を犯しているのではないかと思う。あなたは、この国の中で警告を受けていないわけではない。召しや、懇願する招きを受けていないわけではない。以前には、あなたはロンドン中の多くの教会に出かけては、《福音》を聞き、それを理解することができたかもしれない。だが今は、町の辻々でも、あるいは、数々の劇場でも、その気になれば《福音》を聞くことができる。そして、私がこう云うとき、その真実さは神が証人である。すなわち、1つの場所に行けば、あなたは、それが熱心さをこめて宣べ伝えられるのを聞くことができる。そして、嬉しいことに、そうした場所が他に何千もあるのである。魂たち。もしあなたが滅びるとしたら、それはキリストへの招きが欠けていたためではない。もしあなたがキリストを自分のものにしないとしたら、それは故意による拒絶である。もしあなたが失われることになるとしたら、教役者を非難してはならない。私たちの責任にしてはならない。私たちはあなたの血に責任はない。私たちは自分の衣のすそをあなたの魂の上で払う。あなたについて責を負うべき点はない。私たちはあなたに警告している。あなたに大きく叫んでいる。それでもあなたが聞こうとせず、下降する路に向かおうとするとしたら、あなたの破滅の責任は、あなた自身の頭上に永久永遠にとどまるがいい。

 しかし、こうした、また、他の点について詳しく語る代わりに、私は、神の御助けを得て、あなたに少々の助言を与えるよう努めたい。そうすることで、ことによると、畜牛品評会のためか、ヘンデル祭か、大博覧会のために上京してきた誰かが、そうした目当て以上のものを受けとるかもしれない。誰に分かるであろう? あなたがたの中のある人々が、この世と永遠においてやがてこう云うこともありえるのである。「イスラエルの主なる神の、何とありがたいお恵みでしょう。神は、この日あなたを送って私と会わせてくださったのですから。また、あなたの助言が何とありがたかったことでしょう」、と。

 さて、田舎から出てきたばかりの若者よ。あなたは頭の中に1つの計画をいだいている。そして、明日それを実行しようとしている。もし、あなたのための私の祈りがかなえられるとしたら、あなたはをそれを行なわないであろう。あなたがロンドンに上京したのは、ここで楽しい時を過ごすためであった。だが、あなたは別の種類の楽しい時を過ごしてほしいと思う。あなたの現状をよく考えるがいい[ハガ1:5]。みずから反省してみるがいい[I列8:47]。なぜことさらに、目を見開いたまま、その罪に向かっていきたがるのか? それは、あなたが犯すことになる最後の罪かもしれない。その行為の最中にあなたは死ぬかもしれない。大いなる神よ! この言葉がいかに預言的なものとなりかねないことか! 私は、この場にいる何人かの魂の破滅を宣告しているのだろうか? そうした事がらはこれまで起こったことがあったし、再び起こることもありえよう。おゝ、愛する方よ。ぜひともお願いしたい。あなたの手を差し押さえてほしい。私は膝まずいて、あなたに止めるよう懇願する方が良いだろうか? というのも、そのように語るようにという衝動を覚えるからである。――止すがいい。止すがいい。あなたのいのちがかかっているのである。毒蛇の牙を恐れて、手を引き戻すがいい。あなたは眼鏡蛇の穴の上でたわむれている。だが、その歯の備えはできており、その牙はあなたの血管に毒を注入するであろう。神にかけて、キリストにかけて、天国にかけて、地獄にかけて、私はあなたに厳命する。あなたがた、何らかの罪を意図している人たち。それを止めよ! 何と、人よ! あなたは自分自身を殺してしまっているではないだろうか、それで十分ではないだろうか? あなたは今晩、失われた人である。それで十分ではないだろうか? あなたは、あなたの最後の希望すら罪の中に深々と埋めようというのだろうか? らい病は今あなたの内側にある。あなたは、それを自分の額に吹き出させ、人々を睨みつけさせようというのだろうか? おゝ、止まれ! 止まれ! あなたはすでに十分遠くまで来ている。驚きなのは、これほど遠くまで来ているあなたが、まだ生かされていることである。これまでの、あなたの一切の放縦によって、あなたは何に至っているだろうか? 罪に真の楽しみがあるだろうか? 今に至るまでのあなたの経験はいかなるものだっただろうか? それは険しい道ではなかっただろうか? それが自らを喜ばしい道だと約束したが関係ない。あなたは、自分のよこしまな行為の結果、すでに十分耐えなくてはならなかったではないだろうか? ならば、なぜ、あなたは、食糧にもならない物のために金を払い続け、腹を満たさない物のために労し続けるのか?[イザ55:2] 荒野で叫ぶ者の声として、私は今求めたい。あなたの心の中に主の道を整えよ、と。悪を止めよ。人よ。これをあなたの罪と考え、それを悔い改めよ。というのも、あなたにとって天国が手近にあることを私は望んでいるからである。

 今晩、罪に手を染める代わりに、私の助言を受けて、《救い主》を求め、見いだすとしたらどうなるだろうか? もし神があなたを祝福してくださるとしたら、あなたは救われる。だが、もしあなたが自分の神の懇願に対して耳を閉ざすとしたら、それは私のせいではない。人よ! 人よ! あなたは堕落によって失われ、滅びている。だが、ご自分のもとに来る人々を完全に[ヘブ7:25]救うことができる《お方》がおられる。キリストのもとに行くとは、キリストを信頼することである。私はこの《福音》を長年宣べ伝えてきた。そして、一度として、このしかた以外のしかたで説教を閉じたことはないと思う。――主イエス・キリストに対するこの単純な信頼の意味を説明しようと努めることである。若者よ。あなたは、自分が二十ものことをすべきだという考えをいだいている。あなたは、自分をキリストのために備えができた者にしようとしてきた。それは《福音》ではない。律法である。《福音》とはこうである。イエス・キリストを信頼せよ。イエス・キリストを信頼せよ。キリストがあの木の上で死なれたのは、ご自分を信ずるあらゆる者のもろもろの罪の罰を背負うためであった。それで、キリストを信じるとはキリストを信頼することなのである。キリストを信頼するがいい。そうすれば、あなたのもろもろの罪がキリストに負わされたこと、キリストがあなたの代理として、あなたに成り代わって苦しまれたことは確実である。イエスに来るがいい。イエスに来るがいい。罪人よ。まさに今、来るがいい。もしこれが、主があなたとお会いになる時であったら、どうであろう。あなたがた、御使いたち。あなたの黄金の書き板に記入するがいい。1つの魂の誕生日を記録するがいい。あなたがた、輝かしい者たち。あなたの立琴を取り下ろし、新しい、天国で生まれた熱情をもって和弦を奏でるがいい。智天使と熾天使よ。あなたがたの声をまだ発されたことのない高みまで張り上げるがいい。神ご自身が思わず歌い出し、御子イエス・キリストを通ってご自分のもとに来た者たちについて喜んで歌われるのである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。いま信じるがいい。あなたがた、こちらの方にいる人たち。また、あなたがた、そちらの桟敷席にいる人たち。おゝ! あなたがいまイエスを信じるとしたらどんなに良いことか! もしあなたが一部の人々ほどはるか遠くまで行っていないとしたら、神に感謝するがいい。だが、覚えておくがいい。あなたは、イエスを信じる信仰によらない限り救われることはできない。もしあなたが、いかにはるか遠くまで行っているとしても、神に感謝するがいい。あなたは、まだ遠くに行き過ぎてはいない。というのも、神はまだあなたに達することがおできになるからである。神には長い御腕があり、あなたの不義のどん底でさえ、あなたを見いだすことができる。神を信頼するがいい。罪人よ。いま神を信頼するがいい。そうすれば、何の悔い改めも必要としない九十九人の義人にまさって、悔い改める罪人たちについて、天国には喜びがあるであろう。願わくは神が、ご自分の祝福を加えてくださらんことを。イエスのゆえに。アーメン。

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抑制の恵み[了]

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