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歌う軍隊

NO. 2923

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1905年2月16日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年11月23日、木曜日夜


「ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた」。――II歴20:4


 エルサレムは突然の知らせに驚愕した。ここしばらく鳴りを潜めていた、ヨルダンを越えた遠国では、内密に軍備がなされていたのである。エドムは、その山々の上で自らの態勢を整えていた。ペトラの作業場には金槌の音が鳴り響いていた。イスラエルの敵たちは、その刈り込み鎌を槍へと打ち直していた。そして今や彼らは大群をなして襲来しつつあった。そこには3つの大国があり、その手下然とした、有象無象の周辺諸国があった。このようにして略奪の意気に燃える大群が編成された。彼らは、エルサレムの宮にある財宝について聞きつけた。ユダの民が何年も繁栄していることを知っていた。それで彼らは、殺したり、滅ぼしたり、分捕ったり、略奪したりするためにやって来た。さながら、群れをなすばったや、いなごのようであった。神の民は何をすべきだったろうか? このあわれなユダヤ人たちに、いかなる身を守るすべがあったろうか? 彼らが即座に頼ったのは彼らの神であった。彼らは、闇雲な不安にかられて鎧や剣を探し回ったようには見受けられない。実を云うと、この事態は、彼らに関する限り、あまりも絶望的であったため、天下のいかなるものを探しても役に立たなかった。あからさまに地上的な一切の頼りから追い払われた彼らは、いやでも神に目を向けざるをえなかった。そして、彼らの敬虔な王ヨシャパテは、彼らがそうするのを助けた。全国に断食が布告された。モアブ人、アモン人、エドム人の軍勢に対抗する備えは祈りであった。疑いもなく、それをアモン人が聞きつけたとしたら、一笑に付したであろう。エドムはあざけったであろうし、モアブはそうした嘆願をする者らに悪態をついたであろう。「何だと! 奴らは、手前らの祈りでわれわれを負かせると思っているのか?」 そのように、彼らの敵たちは軽蔑したであろう。だが、これこそイスラエルの火砲であった。彼らの八十一噸砲であった。その準備が整い次第、それは一発を打ち出し、その一発だけで三国をたちまち粉砕するであろう。神の民は目に見えない腕にだけより頼んだ。――全能の腕に。――そして彼らがそうするのは当然であり、賢明であった。

 さて、もし彼らを見習うよう主が私たちを教えてくださるとしたら、また、その恵みによって私たちをそうさせてくださるとしたら、私たちは大きな教訓を学ぶことであろう。この説教者は、他の誰にも劣らずそれを学ぶ必要があり、彼は祈るものである。あなたがたひとりひとりも、この信仰の学び舎の学生となり、祈りと賛美という天来の技芸に熟達するように、と。

 I. まず第一に、《いかなるしかたで彼らは助けを求めたか?》 知っての通り、彼らは全国的な断食と祈りとによって、その助けを求めた。だが、私が云いたいのは、彼らがいかなる祈り方によって主に近づいたかということである。

 そして、その最初の答えは、こうである。彼らは助けを求めた際に、自分たちの信頼を表明していた。「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません」[II歴20:6]。もしも疑うことで始めるなら、私たちの祈りは片ちんばとなるであろう。信仰はアキレスの腱であり、それが断ち切られれば、私たちは神と格闘できない。だが、その腱が強健である限り、――その強靭な腱が傷ついていない限り、――私たちは祈りにおいて神を説き伏せることができる。それが御国の1つの規則である。確かに神はしばしば、それを越えたことをなさるが、「あなたの信じたとおりになるように」[マタ8:13]。私は神が、私たちの信仰の百倍のものを与えてくださることを体験してきた。だが、兄弟たち。私たちの信仰より少ないものをお与えになったという覚えは全くない。そのようなことは、到底ありえないであろう。これが、主の最低限の規則であると云えよう。「あなたの信じたとおりになるように」。それゆえ、何らかの悩みの中から主に助けを求めるときには、主がそれを与えることがおできになると信じて求めるがいい。主がそれをお授けになると期待しつつ求めるがいい。ふさわしくない疑いや不信によって神の御霊を悲しませてはならない。それらは、あなたの自身の魂の中でも火矢のようになり、あなたの力のいのちそのものを吸い上げてしまう。その葛藤がいかに激しくとも、また、その試練がいかに困難でも、主を求めるのなら、主にふさわしい信頼をもって求めるがいい。

 それから、彼らは神に求める際に、神の過去の数々の行ないを申し立てた。これは、聖徒たちの間で非常によく見られてきた祈り方であり、非常に強力なものであることを明らかにしてきた祈り方である。「私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか」[II歴20:7]。神があなたのためにこれまで行なってくださったことを思い起こし、その甘やかな繰り返し節として、こう云うがいい。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」[ヘブ13:8]。祈っているとき、キリストが今日あなたに対して慰めとなるかどうか見てとれなければ、昨日キリストがどのようであられたか思い起こすがいい。天来のいつくしみが現在全く現わされていないとしても、以前の日々――古の日々――《いと高き方》の右の手の歳月[詩77:10 <英欽定訳>]を思い出すがいい。神はあなたに恵み深くあられた。それが、いかに恵み深かったか、あなたに云えるだろうか? 神は、あなたに対する恵みと優しさと真実に富んでおられた。あなたに対して決して荒野にも砂漠にもならなかった。よろしい。ならば、もし六つの苦しみから神があなたを救い出してこられたとしたら[ヨブ5:19]、七つ目でも神に信頼できないだろうか? もしあなたが六十個の苦難に達したとしたら、六十一個目でも神を信頼できないだろうか? 私が見るに、あなたがたの中のある人々は、すでに頭髪が白髪となっている。あなたは、これからどれだけ長く生きられると思うだろうか? もう十年の寿命があると思うだろうか? よろしい。では、七十年間あなたを祝福してこられた主が、もう十年間あなたを守られないと思うだろうか? 私たちは、ある人が私たちを欺くまでは、その人を信用すべきだとよく云う。人のことは、不正直であることが分かるまでは正直者だとみなすべきである。神に対してもぜひそうしようではないか。私たちは神がいつくしみ深く、忠実で、誠実で、親切で、優しくあられることを知ってきた以上、この苦境に陥っている今も神についてひどい考えをすることなく、むしろ、このように神に近づき、云おうではないか。「あなたは私たちの神ではないでしょうか。あなたは、私たちを滅びの穴から、泥沼[詩40:2]から、引き上げてくださったではないでしょうか? あなたは私たちを、罪というエジプトから導き出されたではないでしょうか? あなたが私たちを荒野に引き出したのは、確かに私たちを滅ぼすためではなかったではないでしょうか? あなたはいま私たちからお離れになるのですか? まことに、私たちは無価値な者です。ですが、私たちは常にそういう者だったのです。そして、もしあなたが私たちからお離れになる理由をお求めになるとしたら、とうの昔に一万もの理由があったのです。主よ。どうかしもべたちをひどく怒らないでください[イザ64:9]。私たちを投げ捨てないでください」。それが勝ちを収める嘆願のしかたである。この古の人々を見習うがいい。彼らは、過去を想起することによって助けを求めた。

 彼らの祈りのもう少し先に進むと分かるように、彼らは神の約束を申し立てた。ソロモンがその宮を奉献した際になされた約束である。「もし……わざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちは……苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます」[II歴20:9]。神の約束を得て、その約束によって神をつかんでいる人、――その人は勝ちを収めるし、収めざるをえない。時々、私は何もつかむことのできない人に出会うことがある。目当ての物はすべり去り、その手もつるつるしている。それで、見ると、その人は自分の手にいくばくかの砂を持っており、それをつかんでおくことができないのである。私は自分の手を数々の約束に突っ込むのを好む。すると、神の強大な忠実さをつかんで、確実に握りしめることができることに気づくのである。神に対する全能の訴えはこうである。「あなたは、こう仰せになっていないでしょうか」。あなたも、誰かから、あなた自身の前言を持ち出されるとき、いかに身動きが取れなくなってしまうか知っているはずである。「さあ」、とその人は云う。「これが、あなたが行なうと云ったことです。あなたは自分の自由意志によってそうすると約束したのです」。何と、そのとき、あなたはそこから逃れられなくなる。というのも、聖徒たちは、損になっても立てた誓いは変えない[詩15:4]ものだからである。彼らは、たとい自分の損害になるとしても、自分の語る言葉に真実でなくてはならない。その聖徒たちの《主人》は常に真実であられる。神は云われたことを、なさらないだろうか? 約束されたことを成し遂げられないだろうか?[民23:19] だとすると、ここには祈りの中で用いるべき強大な道具がある。「主よ。あなたはこれこれのことを仰せになりました。あなたはそう云われました。今、仰せになった通りに行なってください。あなたは云われました。『正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される』[詩34:19]、と。あなたは云われました。『神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない』[ヨブ5:19]、と。あなたは云われました。『わたしは必ずあなたを祝福する』*[ヘブ6:14]、と。あなたは云われました。『あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある』[ヨシ1:9]、と。あなたは云われました。『あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように』[申33:25]、と。主よ。そうあなたは約束しておられます」。このような申し立てによって、あなたは忠実な神を説き伏せることができるに違いない。

 また、こうした人々が助けを求めた際、彼らは自分自身の不幸せな状態を告白した。そこには大きな力がある。寛大な行為に対する最も強い訴えの1つは、切迫した緊急さであり、神への祈りにおいて最も有力な議論の1つは、私たちの状態を真実に述べること――私たちの悲しい状況の告白――である。それで彼らは主に向かってこのように云った。「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」[II歴20:12]。彼らに力はなかったし、何の計画もなかった。「力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません」。時として、たとい自分では事を行なえなくとも、力さえあれば自分に何ができるか分かっているという場合、それは少々なりとも慰めとなる。だが、この困惑した民は事を行なうことができず、いかにして行なうべきかも分かっていなかった。彼らは途方に暮れていた。ユダのように、こうした強大な敵たちに囲まれた小国は、まことに何の力も持っていなかった。彼らの弱さと無知は強力な訴えであった。その論理は天来のものであった。「私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」。それは、あたかも彼らがこう云ったかのようであった。「もし私たちが自力で事を行なえたとしたら、よろしい。あなたがこう仰せになっても良かったでしょう。『行って、事を行なえ。わたしがあなたに力を与えたのは、あなたがその力を用いて事を行なうためでなくて何だろうか?』 しかし、私たちに何の力もなく、どうすれば良いかも分からないとき、私たちは来て、ただこの問題をあなたの足元に置いて、こう申し上げます。『ここにそれがあります。私たちはあなたに目を注ぐだけです』、と」。ことによると、あなたはそれを祈りではない思うかもしれない。だが、私は云う。これは最も強力な形の祈りである、と。ただ神の御前にあなたの状況を置き、ただあなたの悲しみ、あなたの必要のすべてを洗いざらい明らかにして、こう云うのである。「主よ。ここにそれがあります」、と。知っての通り、ロンドンの町通りで物乞いすることは禁じられている。警察がそれを許さないし、おそらくそれは非常に賢明な規制だろうと思う。しかし、窮乏した人は何をするだろうか? あなたはそうした人を見たことがないだろうか? その人は田舎者のような服装をし、半ば飢え死にそうな顔つきをし、屈んだ膝小僧を、そのうね織りの洋袴からのぞかせている。その人は物乞いをしない。自分ではしない。ただ道の角に座り込んでいるだけである。その人は全く良く知っているのである。自分の状態を見せるだけで十分である、と。ロンドンの町通り近辺には、自分にとって一財産となるような顔をした人がひとりか二人はいる。青白く、やせこけた、悲しみに沈んだその顔は、言葉よりも雄弁な訴えをする。私は、このタバナクルにやって来るひとりの人が、まさにそうした類の人物であると云おうと思っていた。私は、その人を指さすこともできるが、今はその姿が見えない。だが、実際その人はここにやって来ては、その身震いしている様子や、病気めいたその尋常ならざるしぐさによって、まるで病気などしていないくせに、人々をだまくらかし、絶えず自分の見かけで欺いているのである。万人の知る通り、物事の見かけこそ、――悲しみのあからさまな様子や姿そのものこそ、――そこで用いられるいかなる言葉にもまして人々の心を屈伏させるのである。さて、あなたが言葉で祈れないときには、行って、神の御前にあなたの悲しみを洗いざらい打ち明けるがいい。ただ行って、あなたの魂をお見せするがいい。神に、自分の重荷となり、自分を苦悩させていることをお告げするがいい。そうすれば、私たちの神の物惜しみない御心を説き伏せるであろう。神は、言葉の雄弁さや、弁舌の巧みさでは動かされないが、現実の苦悩という真の弁舌、まことの雄弁にはすみやかにお答えになり、まがいものの悲惨さをつきとめるのに賢明であるのと同じくらい、現実の悲しみに救助を差し伸べることに賢明であられる。

 私は、あなたがたの中のある人々に、何らかの特定の試練の時を思い起こさせるべきかどうか迷っている。私自身に対しては、そうしている。だが、たといあなたにはそうしないとしても、いずれにせよ、私たち全員を圧倒してきた1つの共通の患難がある。それは、罪という大きな患難である。罪が、その数々の違反という大軍とともに、罪の確信の下にある私たちに明らかに示されるとき、また、私たちが、たった1つの罪にさえいかに当たるべきか、あるいは、自分に対して投げかけられるだろう一千もの非難のうち1つにさえどう答えるべきか分からないとき、――また、自分にいかなる力も全くないのを感じ、ことによると、自分は罪ゆえに自分で自分をこのような状況に陥れたのだと悟って、何とかそこから脱出すべきだとは分かっていながら、いかに脱出すべきかが分からないとき、――また、右に行けば道がふさがれていると思われ、左に行けば同じように目の前の道が閉ざされていると思われ、後戻りなどとてもできないと思われ、前進は不可能であるとき、――そのようなとき、いかに素晴らしいことであろう。神が道をすっきり空けてくださるとは! 何と驚嘆すべきしかたで私たちは、自分を殺そうとしてやって来ると思っていた敵たちが、全員死んでいるのを見いだすことであろう! また、私たちから物を盗もうとしていた者たちについて云えば、私たちは彼らによって富まされるのである。私たちを分捕り物とする代わりに、そこに彼らは倒れ伏し、彼らの分捕り物が私たちの権利となり、私たちはそれを喜びながら持ち帰るのである。おゝ、いかなる驚異を神はなしうることか! 神は、私たちが自分の陥っている困難を述べることを愛される。そこから私たちを救出なさるとき、私たちがそのような状況にあったことを思い出せるようにするためである。それは現実の大惨事や、現実の試練の時であった。だがしかし、主はそこから私たちを贖い出されたのである。

 彼らは助けを求めた後、また、約束を申し立て、自分たちの状況を告白した後で、何をしただろうか? 何と、神に対する自分たちの信頼を表明した。彼らは云った。「あなたに私たちの目を注ぐのみです」。それは何を意味していただろうか? こういう意味である。「主よ。もし助けが本当に来るとしたら、それはあなたからであるに違いありません。私たちはそれを求めてあなたを見つめます。それは、他のどこからもやって来るはずがありません。それで私たちはあなたに目を注ぎます。しかし、私たちはそれがやって来ると信じます。人は、やって来ないと分かっているものを求めて目を注いだりしません。私たちは、それが確実にやって来ると感じていますが、いかにして来るかは分かりません。それで私たちは見つめているのです。それがいつかは分かりませんが、私たちは見つめています。あなたが私たちに何を行なわせようとしておられるのかは分かりませんが、奴隷がその女主人に目を向けるように、あなたに目を注いでいます。主よ。主よ。私たちは目を注いでいます」。これは堂々たる姿勢である。あなたは、それこそあなたが救われるしかたであると知っているだろうか?――イエスを仰ぎ見ることである。そして、それこそ、あなたが、ここから天国に至るまでの間ずっと、救われなくてはならないしかたである。いかなる苦難が来ようと、目を注ぐことであなたは救われる。目を注ぎ、しばしば待つことを続け、物見の塔に立つ倦み疲れた見張りが、来たるべき朝の灰色の色合いを求めて目を注ぎ、夜がだらだらと続くときも、なおも目を注ぐようにすることである。「あなたに私たちの目を注ぐのみです」。この目は涙で一杯ですが、それでもあなたに注がれています。眠気のため霞んできていますが、それでもあなたに注がれています。――私たちはそのような目をしています。私たちは本当にあなたに目を注いでいます。私は時として、主がこう仰せにならなかったことで、主をほめたたえてきた。「イエスを見よ。――わたしを見よ。そして救われよ」。否。主が仰せになったのはこうである。「仰ぎ見よ」*[イザ45:22]。時として、たとい物が見えなくとも、仰ぎ見さえすれば、――暗闇を仰ぎ見さえすれば、――あなたは自分の分を果たしたことになる。主よ。あなたのその十字架は、私にとって素晴らしい喜びです。たといそれを見ることができなくとも、あまりよく見えなくとも、いくら見つめてもぼんやりとした影のようでしかなくとも、それでも私は仰ぎ見ます。仰ぎ見てこそ、知っての通り、救われるのである。というのも、仰ぎ見るにつれて目は次第に強くなり、光を与えられていくからである。そして、そのように、この場合も彼らは仰ぎ見て、救出を見いだした。兄弟姉妹。願わくは神が私たちを助けて、同じことをさせてくださるように。

 これが、彼らが助けを求めたしかたである。

 II. さて第二に、《いかにして彼らは助けを受けたか》

 彼らの助けが彼らのもとにやって来たのは、最初に、神からの1つの使信によってであった。彼らは神のいつくしみ深さについて清新な確証を受けた。ひとりの新しい預言者が起こされ、彼が新しい言葉を語った。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない」、と彼は云った。「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」[II歴20:15]。さて、私たちの場合、私たちが新しい約束を得ることはないであろう。それはありえないであろう。

   「いかな恵みを 云い足しえん、
    イェスを避け場と 逃げ来し者に」。

しかし、あなたはその約束があなたの魂に対して甘やかに置かれるのを感じるであろう。神の御霊がその約束とともに証しをし、あなたを強め、慰めてくださるであろう。そして、救出が来る前からさえ救出を得るであろう。なぜなら、しばしば起こるように、苦難の恐れから救われることこそ肝心だからである。心安んじられ、穏やかにされ、確かにされるのは、実は試練の激痛から救われることなのである。その試練そのものは、あなたの魂に痛みをもたらさない限り何ほどのものでもない。世界中のありとあらゆる貧困と苦痛をもってしても、そうした悪が魂に入り込んでそれを悩まさない限り何にもならない。そのように、この緊急の折に、神はご自分の民を安んじさせることによって答え始められた。「恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。……主はあなたがたとともにいる」。

 その恵み深い約束が彼らの恐れをなだめ、彼らを、この差し迫った攻撃に恐れなく直面できるようにしたとき、彼らは、翌日何をすべきか明確な指示を受けた。それは、襲撃の日となるべきであった。その指示はこうである。「出て行って、敵に当たれ」。いかにしばしば神はご自分の民の取るべき行動の道筋について、彼らを安んじることによって救出を与えてこられたことであろう。すでに取った一歩によって、彼らはそれと知る前から救出されていた。イスラエル人は、敵に当たるため行進することによって、また、やがて見るように、歌とホサナとともに行進することによって、考えうる限り、彼らの敵たちを敗走させるために最上のことを行なうことになった。先に述べたように、彼らの敵たちはこのような防備を理解できなかったはずである。彼らは、何か企みがあるか、待ち伏せがなされているのだと考えたに違いない。それで同士打ちを始め、イスラエルは何もすることなく、ただ歌い続けるだけで良かったのである。

 それからやって来たのは、真の摂理であった。彼らは現実の救出を受けた。ユダの人々がその敵たちのもとに着いたとき、彼らはそこに全く敵がいないことを見いだした。そこに敵どもは硬くなって横たわっていた。その勇者たちのうち誰ひとり、神がお助けになる人々に向かって手を振り上げることはできなかった。このようなしかたで、神はあなたを救い出されるであろう。兄弟よ。祈りに答えて、神はあなたの守りとなられる。それゆえ、その御名に向かって歌うがいい。神は、あなたが自らのもろもろの罪という大軍に当たるために出て行ったとき、このようにあなたを救い出されなかっただろうか? あなたは、キリストがそれらを片づけてしまわれるのを見た。そして、あなたの心はあなたの内側で踊り、あなたはこう云った。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのだ[ロマ8:1]。キリストは私たちのもろもろの罪を切り殺し、それらが私たちの呪いとなることはもはやありえないのだから」。それと同じことは、これまでも、あなたには圧倒的なものと見えた、おびただしい数の苦難について起こった。あなたがそれらに向かって行くと、それらは消失していた。それらはあなたが進んで行くと、あなたの前から一掃されていた。それで、あなたは何もすることがなく、ただ歌って、主の御名を賛美するだけであった。

 III. さて第三に注意したいのは、――そして、これは大切な点だが、――《彼らが祈って神の御声を聞いた後で、いかに行動したか》である。彼らは助けを求め、それを得た。では、いかにふるまっただろうか?

 よろしい。最初に、神が自分たちを救出してくださるとの確証を得るや否や、彼らは礼拝した。これが、試練の狙いの1つである。――私たちの中に、献身の霊と、神との交わりを生き返らせることである。そして、あわれみは、それが非常な苦難の背中に乗ってやって来るとき、私たちを甘やかに祈りへと至らせる。請け合っても良いが、全エルサレムにおいて、その日なされたような礼拝は一度もあった試しがなかったであろう。レビ族の、ひとりの若い息子が立ち上がり、主のことばを伝えたとき、王はひれ伏し、民全体がひれ伏して、イスラエルの神に誉れをささげた。きっと、その時には木々の間をそよぐ風の音すら聞こえたに違いない。というのも、彼らは今のあなたがたのように、しんと静まり返っていたからである。おゝ、主があなたを救い出すおつもりであると分かったときには、ひれ伏して、ただ霊の内側で、主に静かな、深く、厳粛な礼拝をささげるがいい。私は、私たちの公の集会において、クエーカー教徒のような礼拝に陥るのが良いとは思わない。そうした経験を時折することは、あなたにとって非常に益になるだろうが関係ない。主の前に静まって座り、あがめて、あがめて、何度も何度もあがめて、それでもやはり、霊を励まし、魂をきよめては、永遠の現実を理解するようにするがいい。彼らは礼拝したが、なぜそうしたのだろうか? 彼らは救出されてはいなかった。しかり。だが、彼らは自分たちが救出されることになると確信した。彼らの敵どもは死んではいなかった。しかり。ぴんぴんしていた。だが、彼らは、敵たちが死ぬことになると確信した。それで礼拝したのである。そして、彼らの献身の念は信頼と感謝に満ちた心から立ち上った。願わくは私たちが礼拝の心持ちに至らされ、その中にとどまることができるように。そのとき神は私たちを助けに現われてくださるであろう。

 その礼拝が閉じられるや否や、あるいは、むしろ、それが完全に閉じられる前から、彼らは賛美し始めた。先ほど読んだように、訓練された歌い手たちの大きな声が、指揮者の指導の下に立ち上り、彼らは主の御名を賛美した。彼らは、私たちと同じようにこう歌った。――

   「そは主のあわれみ 絶えることなく、
    常に信実(まこと)で つゆ揺るがずば」。

それこそ、あなたが神を相手にすべきしかたである。救出がやって来る前から神を賛美するがいい。やって来つつあるもののために賛美するがいい。これから神が行なおうとしておられることゆえに神をあがめるがいい。思うに、いかなる歌にもまして神の耳に甘やかな歌は、人が「いまだ味わい知らぬ恵み」ゆえに神をほめたたえる歌である。――まだ得ていないが、必ず来ると確信しているものゆえのほめ歌である。過去への感謝の賛美は甘やかだが、未来が良いものとなると完全に確信して神をあがめる賛美はさらに甘やかである。それゆえ、おゝ、あなたがた、神の民たち。柳の木々からあなたの立琴[詩137:2]を取り上げ、主の御名を賛美するがいい。なおもいちじくの木は花を咲かせず、なおも牛は牛舎で死んで行き、なおも羊は囲いから絶える[ハバ3:17]としても関係ない。たといあなたの必要を満たすほどの収入がなく、貧困の瀬戸際まで至らされているとしても、なおも主をほめたたえるがいい。その強大な摂理は尽きることがありえず、養われるべきご自分の子どもたちがひとりでもいる限り尽きることはない。今なお苦悩のうちにあるあなたがささげる歌は、神の耳にとって甘やかな音楽となるであろう。

 礼拝し、歌を歌った後で、次にこの民が行なったのは行動することであった。彼らは行進して行った。もしエルサレムに不信者たちがいたとしたら、彼らが何と云ったかは想像がつく。彼らは門に立ってこう云っていたろう。「オヤオヤ。これは馬鹿げたことだ。あのモアブ人やアモン人はあなたがたを殺しにやって来るのだ。そして彼らはそうするだろう。だが、彼らがやって来るまで待っていた方がましなはずだ。あなたがたは、単に自分を彼らに引き渡しに行くにすぎない」。それが不信仰の考えであろうし、私たちが行って自分を神にゆだねようとするとき、私たちの小さな信仰にもそう思われるであろう。「何と! あなたは膝まずいて、神の御前で自分の咎を告白し、自分が失われて当然だと認めようというのか? 一切の弁解や云い訳を取り下げて、自分を頼む思いを一切捨てて、自分を、いわば破滅に引き渡そうというのか?」 しかり。それこそまさになすべきことであり、そうすることこそ最高の知恵である。私たちは命令に従って、行進しながら町を出て行こうとしている。そして、もしあなたが云うように私たちが自分を引き渡すことになるとしたら、なるようになるがいい。ことによると、あなたの場合、あなたが取ろうとしている行動については、他の誰もがこう云うかもしれない。「オヤオヤ。それは愚の骨頂だよ。あなたは、もっと賢く立ち回るべきだ。もう少し抜け目なくしなくてはね」。「いいや」、とあなたは云うであろう。「私は命じられたことしか行なうことができない。正しいことを行なわないわけにはいかない」。おそらく、そう行なうことはこの世で最高のことであると分かるであろう。2つの点を結ぶ最短の道は直線である。真っ直ぐな道こそ常に、ねじくれた道よりもすぐれている。長い目で見たとき、それは常にそうである。ならば、神の御名によって、直ちに出てくるがいい。あなたの種々の困難には穏やかに、また、正々堂々と立ち向かうがいい。計略や策略など弄さず、ただ自分を神にゆだねるがいい。それこそ、あなたが救出を見いだすものと信頼して期待できる道である。こうした古の民は町から出て行った。

 しかし、今、やはり注目すべきことに、彼らは出て行く際に、歌いながら出て行った。彼らは、町を出る前に歌い、町を出て行きながら歌い、敵が視界に入ったときも再び歌い始めた。喇叭が鳴り響き、立琴はその調べを奏で、歌手たちは再び喜びの叫びをあげた。そして、これがその歌であった。――

   「そは主のあわれみ 絶えることなく、
    常に信実(まこと)で つゆ揺るがずば」。

彼らが次の箇所を歌ったとき、それは壮大な意味を持っていたに違いない。「大いなる王たちを打たれた方に。その恵みはとこしえまで。主は力ある王たちを、殺された。その恵みはとこしえまで。エモリ人の王シホンを殺された。その恵みはとこしえまで。バシャンの王オグを殺された。その恵みはとこしえまで」[詩136:17-20]。何と、あらゆる歌い手は、こうした、私たちにはただの繰り返しにしか見えない一行一行を歌うにつれて、これらが自分たちの現在の状況にとっていかに当てはまるかを感じたに違いない。そこには、モアブ人、エドム人、アモン人がおり、恵みをとこしえに有される強大な神の御名によって、打ち負かされそうとしていたのである。それで彼らは歌い続けた。

 あなたも注目するであろうように、彼らが歌っている間に、神は彼らのために偉大な救出をもたらしておられた。その歌がやんだとき、彼らが分捕りをする用意はできていた。彼らが予期していた務めとは、何と大違いであったことか! あなたの目にも浮かぶであろう。彼らが死体からはぎ取り、黄金の兜や、青銅の臑当てを取り上げている姿を。彼らは王侯たちの首回りや耳についていた宝石類を取り上げた。死人から、そのシヌアルの美しい外套や金の延べ棒を分捕り、天幕を――東方諸国の豪奢な天幕を――山と積み上げ、ついにはこう云い交わすまでとなった。「私たちは、どうすればよいか分からない」。しかし、その困難は、当初彼らに降りかかりかねなかったものとは異なっていた。最初に彼らがどうすれば良いか分からなかったのは、自分たちの敵の眼前における自らの弱さゆえであった。だが、今や困難なのは分捕り物の大きさゆえであった。「私たちは、これを国まで運んで行けない」、と彼らは云い交わした。「あまりにも多すぎる。この素晴らしい戦利品を国に持って行って、しまい込むには何日も何日もかかるだろう」。さて、神の子どもたち。あなたもそれと同じになるであろう。いかにしてかは分からないが、神を信頼し、賛美し、真っ直ぐに前進しさえすれば、全く驚愕させられるような驚異を目にすることであろう。

 そのとき、あなたは何をするだろうか? 何と、あなたはただちに再び主を賛美し始めるであろう。というのも、彼らはそのようにしたからである。彼らは歌いながら帰って行った。「彼らは、十弦の琴、立琴、ラッパを携えてエルサレムに戻り、主の宮に行った」*[II歴20:28]。神があなたのために大いなることを行ない、現在の困難をくぐり抜けさせてくださったとき、あなたは確かに、主の宮の庭で、あなたのこの上もなく大きな音楽と、あなたの最も喜ばしい歌声によって、神にお返しをしなくてはならない。主の御名を何度も何度もほめたたえなくてはならない。

 その後で、彼らは安息を得た。この物語には、こうつけ足されている。「このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。彼の神は、周囲の者から守って、彼に安息を与えられた」[II歴20:30]。彼の敵たちは、二度とやって来て彼に触れようとはしなかった。激しい嵐が吹いた後では、普通、平穏な日々が長く続くものである。主のすべての民もそれと同じであろう。兄弟よ。あなたはこの苦難を乗り切るであろう。そして、その後には長い間、穏やかな航海が続くであろう。私の知っている、神の子どものひとりは、まさに大竜巻そのものを経験した。あたかも完全に破滅するに違いないと思われたが、それが過ぎ去った後の人生は、さざ波1つ立たない平穏なものとなった。人々はその人を羨み、その静穏さに驚いた。その人は、自分の受ける嵐を一度に受けとってしまったのである。それで、それらが過ぎ去ったときには、波立ったことなど一度もないかのように見える凪いだ海に達していたのである。ことによると、あなたも同じ経験をするであろう。ただ、あなたのガリラヤ湖の大いなる《水先案内人》に願うがいい。この暴風雨を無事にくぐり抜けてください、と。そして、それから、その嵐がそのお方の命によってやんだとき、自分が平穏であることに喜ぶであろう。そのように、主はあなたを、あなたの望む港に至らせてくださるであろう。

 私は、この慰めに満ちた言葉を神の子どもたちに語ることを望んでいた。彼らがいかに試練を受けるものかよく承知しているからである。そして私は、主なる《慰め主》に祈るものである。この言葉を彼らの悩める心に適用してくださるように、と。しかし、1つの非常に悲しいことを考えずに、私の講話を終わらせることは決してできない。すなわち、私の会衆の中には常に、こうした慰めに満ちた事がらを自分のものとしていない人々がいるということである。そうした人々は信仰者ではない。キリストを一度も信頼したことがない。もしあなたがそうであるとしたら――もしそうだとしたら――あゝ、愛する方よ。あなたは、自分で自分の戦いを戦わなくてはならない。自分で自分の茨に耐え、自分で自分の重荷を運ばなくてはならない。そして、かの、審きの座の前に出る大いなる日に至ったときには、自分で自分のもろもろの罪について責任を負い、自分で自分の罰を受けなくてはならない。願わくは神があなたをあわれみ、このような状態から救い出してくださるように。それは、生きていく状態としても悪いものである。死んでいく状態としてはすさまじいものである。願わくはあなたが、あなたの身代わり、また、保証人としてキリストを受け入れるよう導かれ、その御名を永久永遠にたたえるようになるように。アーメン。

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歌う軍隊[了]

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