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古風な治療薬

NO. 2921

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1905年2月2日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年10月29日、主日夜


「主はみことばを送って彼らをいやし」。――詩107:20


 自然界の病が癒されるには、神の御力がなくてはならない。いかに博学な医者の技量も、自然界で働かれる神が医薬とともにお働きにならない限り何にもならない。もしあなたがたの中の誰かが病から快復したばかりだとしたら、私はあなたに命じる。神の恵みと人の子らへの奇しいわざを神に感謝するがいい[詩107:8、15、21、31]。あの倦み疲れる幾多の夜を思い出すがいい。あの苦痛に満ちた幾多の昼を思い出すがいい。苦悶の中で立てたあなたの魂の誓いを思い起こすがいい。そして、神を相手にごまかしをしないよう気をつけるがいい。健康になった今、病床の上での約束を守るがいい。あなたの心からも、あなたの唇からも、感謝の歌を立ち上らせ、神があれほど恵み深く保ってくださったいのちを神への奉仕に捧げるがいい。そうするのが当然である。願わくは神が、あなたを助けてそうさせてくださるように。しかしながら、この詩篇は霊的な事がらを語るためのものである。それで今晩は、この聖句を精神の疾患――心の疾病――に当てはめることにしたい。この場にいるある人々は、この最悪の病――病んだ心――を感じとっているであろう。また、私たちの中の多くの者らは、神わほむべきことに、かの最良の癒し――精神の癒し――を受けとっている。その人々は今晩、私たちがこの尊い事実について語っている間、神を賛美できるであろう。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。

 ほんの二筆、三筆で、この瀕死の状態にある患者を素描させてほしい。それから、この単純きわまりない治療薬について詳細に述べさせてほしい。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。

 I. 第一に、《この瀕死の状態にある患者》の素描を示させてほしい。望むらくは、そうした人が、鏡を見るように自分を見てとり、「それは私だ」、と云ってほしいと思う。

 最初に云えるのは、その人が愚か者であるということである。17節に目を向けてほしい。「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ」。人を愚か者呼ばわりするのは侮辱的なことである。だが、私は問いたい。救われている人のうち、自分を愚か者と呼ばなかった者などいるだろうか? 「愚か者!」、と罪の確信の下にいる人は云う。「私のことは、そう特筆大書してかまいません。それが私の状態を表わしているのですから」。

 私たちは時々、生まれつきの馬鹿ということを云う。よろしい。それこそまさに、罪を確信させられている人が自分について思うことである。その人は愚か者に生まれつき、その人の性質そのものが愚かである。というのも、苦みを甘み、甘みを苦みとし、闇を光、光を闇としているからである[イザ5:20]。また、単に時折ではなく、自分の本性そのものに押し迫られて、絶えず愚かな選択を下しているように思われるからである。これまでのその人は、心の中で、「神はいない」[詩14:1]、と云っている者らのひとりであった。実質的に、自分の神のことなど考えずに生きてきたからである。つまり、あの、束の間の人生を選び取り、永遠の未来を忘れ果ててしまう人々のひとりだったということである。人の愚かさを癒すのは難しい。「愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない」[箴27:22]、とソロモンは云う。これは随分と手荒な処置ではないだろうか。しかし、それも役に立たないというのである。愚かさは、いくら臼でつこうと残り続ける。人が真に自分の病を見てとるとき、その人は自分がまことにそうした愚か者であること――愚劣さが根深く染みついた愚か者であると感じる。「愚かさは子どもの心に堅くつながれている」*[箴22:15]。罪人の生き方も、またしかりである。

 しかし、この人物は愚かなことをずっとしてきた。愚か者であるばかりか、その人は愚か者のように行なってきた。「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ」からである。そむきの道とは、境界の外に出て、侵害することを意味する。そして、これほど正しくあられ、力強く打たれる神の畑の上でそむく者は、愚か者である。咎とは、公正さに欠け、真実さに欠け、正しさに欠け、正直さに欠けることを意味する。そして、確かに神を相手にだまそうとする者は愚か者である。いかにして全知の《お方》を欺けるなどと希望できるだろうか? あるいは、いかにしてあの燃える炎のよう目[黙1:14]が、その人の数々の行ないの不正さ、不正直さをつきとめずにいられるだろうか? そうできると一瞬でも思ったということからして、その人が愚か者であり、愚か者のような真似をしてきたことは明らかである。さて、私はこの場にいるいかなる人についても、これがその人の姿だと云うつもりはない。だが、もしこの場にいる誰かが、それは自分について云えることだと感じているとしたら、その人こそ、神が祝福しようとしておられる人である。というのも、主があなたにあなた自身を見させてくださるとき、後にはご自身をあなたに示してくださるからである。また、主があなたに、あなたが生まれつきの愚か者であること、また、行ないからしても愚か者であることを見させてくださるとき、それは、いずれあなたを知恵の学校に入れてくださり、やがては正しい道を教えてくださるということなのである。この患者の疾病は、後で見るように、非常に重いものであり、治癒が非常に困難である。

 見ての通り、詩篇によると、この人は、一切の食欲を失った状態になり果てていた。こう書かれている。「彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい」[詩107:18]。ある種の疾病にかかった病人は、いかなるものへの食欲も失ってしまう。その美味なごちそうがいかに風味良く料理されていようと、その人は顔を背ける。あゝ、私も自分自身が苦しんで、こうした経験をした時期のことはよく覚えている。私は自らくぐり抜けてきたことを述べているにすぎない。それゆえ、これがあなたがたの中のある人々に起こっていることを知っているのである。私たちの経験は、細かい部分で異なっていようと、大筋においては驚くほど似ているからである。いかに私たちはその病にあって、あらゆるものに飽き飽きしたことか。マナ――みじめな食物[民21:5]だ。パン――胃にもたれる。葡萄酒――熱すぎる。水――冷たすぎる。霊的にそうした状態にあるときには、何を持ち出されても無意味であった。まるで受けつけなかった。疑いもなく、あなたもそうであろう。福音の招きについて、魂は云う。「あゝ、イエス・キリストが私のことを招こうなどとされたはずなどない」、と。みことばの約束について、心は云う。「あゝ、それは他のあらゆる人には云えても、私については云えるはずがない。私について云えば、私は自分の不義の中で滅びるのだ。私ははなはだしく愚か者かなふるまいをしてきた。そして神は私を、私の心の情欲に引き渡された。そして私は、神が人類をお審きになる日に滅びるのだ」、と。

 詩篇作者は、この病人についてさらにこう云う。その人は死の門の間際まで近づきつつある。ある魂たちは、自分がほどなくして全く失われるに違いないと感じる。あまりにも長いこと何の平安も、安らぎも、幸福も、慰めも持たずにいたため、大地が開いて自分を呑み込まないことが不思議なほどである。夜はすさまじい夢を見るため眠ることができず、昼はすさまじい耳鳴りがするため安らぐことができない。彼らは怒れる神を思い、審きの座を思い、悪人を打つために抜き放たれる《いと高き方》の恐るべき剣を思う。私は、あなたがたの中の多くの人々がそうした状態にあると云っているのではない。だが、もしあなたがたの中の誰かがそうだとしたら、あなたのもとにこそ今晩の私はあわれみの言葉を携えて遣わされているのである。この聖句はこう云うからである。「主はみことばを送って彼らをいやす」*、と。この愚か者たち、このように愚かな真似をしてきた者たち、こうした、魂があらゆる食物を忌み嫌っている者たち、この、死の門に着いてしまっている者たち、――まさにこうした人々のもとにこそ、主はみことばを送り、彼らを癒されたのである。おゝ、その無限のあわれみが、この集まりの中の、そうしたあらゆる者に同じことを行なうならどんなに良いことか!

 この病人には、1つ有望なしるしがある。祈り始めていたということである。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと」[詩107:19]。それが紙に印刷されたとしたら、大した祈りではなかったであろう。読みとることもできないであろう。実際、印刷することなどできないであろう。叫び声を印刷することは不可能だからである。速記者が自分の速記法のどこを探しても、叫び声を記録できるような記号はないと思う。叫び声は心そのものの言語であり、それに舌が介入することはできない。この場に誰か、祈っても祈れない人がいるだろうか?――神の前で、「おゝ、私も救われることができたなら」、と呻いている人、――その唯一の言葉があふれる涙でしかない人たち、――その唯一の言語が沈黙する霊の苦悶でしかない人たちがいるだろうか? あゝ、あなたこそこの人である。――叫ぶことのできる人である。ならば、主に向かって力の限り叫ぶがいい。そうした人についてこそ、こう云われているのである。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。

 よろしい。こうした二筆、三筆で十分であろう。画家は時々、一片の木炭で肖像を素描する。そのように、私も自分の患者を、ほんの二言三言の単純な言葉で素描してきた。今からは、もっと長い時間をとって、この素晴らしく単純な癒しについて述べたいと思う。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。

 II. 《この単純な治療薬》

 医者が、非常に重篤な症状――極度に危険な症状――の人に出会った場合には、しばらく考えなくてはならないことがあるであろう。ことによると、自分の医学書か、過去の症例を記録した自分の日誌の助けを求めるか、別の医者と協議した上で、思い切って処方することになるかもしれない。このように異常な疾病には、普通でないことが求められるからである。しかし、注目してほしいのは、この詩篇で描かれている症状が非常に重いものであったにもかかわらず、それに応ずるために必要とされたのは全然新奇なものではなかったということである。無限の主が行なわなくてはならなかったのは、ただみことばを送って、彼らをお癒しになることだけであった。昔ながらの癒しのことばこそ、それまでも多くの愚か者を癒してきたものであり、なおも愚か者たちを癒せるものであった。この昔ながらの癒しのことばは、それまでも死の門そのものから多くの者たちを引き戻してきた。そして、今このように恐ろしい状態にあった者たちを引き戻すためにも、それ以上に何も必要ではなかった。罪に病んだ魂、また、罪に我慢できなくなった魂を癒すものとして、私は何の新しい福音も宣べ伝えはしない。何の新しいことも云いはしない。神に感謝すべきことに、この古い古い福音は、いかなる症状にも応じる。新しい形の罪は起こり、奇妙で風変わりな不義の病は突発し続けているが、昔ながらの治療薬はそのすべてに応じる。神には、協議する必要も、新しい化合物を作り出す必要もない。何世紀も前の人々を癒した単純なものが、今なお人々を癒す。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。

 この聖句は、3つのことを意味すると理解できよう。最初に、神は受肉した《ことば》なるキリストを送ってくださった。それが、この治療薬の精髄である。それから神は、啓示されたみことば、聖書を送ってくださった。それは、この治療薬が盛られた器である。三番目に神は、聖霊による力のみことばを送ってくださった。それは、この治療薬を塗ることである。この3つのことについて語ることにしたい。それらはみな必要である。ひとりの神に三位があるように、人々が救われる1つのみことばにも三位がなくてはならないのである。

 最初に、この治療薬の精髄を眺めてみよう。愛する方々。神が罪人を癒すとき、神はそれをキリストによって行なわれる。キリストは、人となって、私たちの間に住まわれた《ことば》である[ヨハ1:14]。万能の癒しは、神の《ことば》と呼ばれるお方のご人格と、みわざと、功績とに存している。このお方について、ヨハネの福音書第1章にはこう書かれている。「ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」[ヨハ1:1-3]。

 さて、あなたの疾病が何であれ、神の《ことば》なるイエス・キリストは、それに対処することがおできになる。罪の咎を癒すことがおできになる。いかに咎ある魂であっても、キリストはその罪人に成り代わり、その罪を負い、神に対してそれを贖われる。それで、いかなる罪も取り除けるのである。あなたの罪がいかに多く、いかにどす黒く、極悪のものであっても、イエス・キリストがあなたのもとに来られ、あなたが主を受け入れた瞬間に、

   「汝が罪またく 消え去らん、
    地獄(よみ)のごとくに 黒くとも、
    海の深淵(まそこ)に 溶け去りて、
    つゆも再び 見つからじ」。

そこには、罪の咎のための癒しがある。

 しかしながら、おそらくあなたの良心は、あなたの人生に及ぼされている罪の影響について悩んでいるであろう。キリストはその必要にも答えることがおできになる。あなたが罪を犯すことを治すことがおできになる。たといあなたの過去が赦されえたとしても、これまでしてきた通りのあり方を続けるという思いにあなたは耐えられないであろう。愛する病んだ方々。あなたの愚かさのためにも、あなたの罪のためと同じように癒しがあり、あなたの心の不義のためにも、あなたの生き方の不義と同じように癒しがあるのである。イエス・キリストはあなたを全く正しくすることがおできになる。もしも時計の歯車が狂っているとしたら、主は大いなる職人であり、それを再び正常にし、歯車のすべての歯を調整し、ついにはあなたを完全に――霊も、魂も、からだも――聖めることがおできになる。神によってイエス・キリストは、私たちにとって、単に義となられたばかりでなく、聖めにもなられた[Iコリ1:30]。キリストは人生の陰惨な病と、罪の咎および力との双方に対処することがおできになる。

 もしかすると、あなたは私にこう答えるであろう。自分が苦しんでいるのは魂の奥底なのです、と。よろしい、と偉大なこの《医者》はお語りになり、罪の抑鬱を癒すことがおできになる。罪意識は、あなたの骨を砕いてきた。罪意識は、あなたから一切の勇気を取り去ってしまったように思われる。今やあなたは半分しか人心地がしていないように思える。罪があなたを弱めてしまったからである。――あなたの気力を萎えさせてしまったからである。だが、私たちの主イエス・キリストは、それを癒すことがおできになる。――その抑鬱を、その意気阻喪を、左様。その絶望を取り去ることがおできになる。あなたは自分で自分を罪に定められた者と評しているかもしれない。また、地獄と同盟を結び、「死と契約を」[イザ28:15]結んでいる。だが、それでも私たちの主イエス・キリストは、その刺し貫かれた御手で一触れするだけで、あなたの霊を喜びに踊り上がらせることがおできになる。そのようにして主は、私たちを滅びの穴から、泥沼から、引き上げ、私たちの足を巌の上に置き、私たちの歩みを確かにし、私たちの口に新しい歌を授け[詩40:2-3]、私たちの歩みを確かにされる。イエスが現われるとき、いかにすみやかに意気阻喪が歓喜に変わるか、あなたには見当もつかない。主はあなたの荒布を解き、喜びをまとわせ、あなたの耳と首回りに宝石をつけ、花婿が花嫁を宝玉で飾るようにあなたを飾ることがおできになる。キリストが、いかに意気阻喪した罪人にも、一瞬にして、いかに大きな喜びを与えることがおできになるか、あなたはほとんど分かっていない。

 もしあなたが私に、罪は自分にありとあらゆる種類の害悪を加えてきたのです、と告げるとしても、――罪が自分の全身を毒で満たしてしまったかのように感じられます、――自分の全性質が今や調子を狂わされていて、たとい癒されるとしても、決してなくなることのない傷跡があり、墓までかかえて行くだろう折れた骨があるのです、と云うとしても、――それでも私は、キリストの力についてあなたに宣べ伝える。主は傷跡さえ取り除くことがおできになる。私たちの主には、多種多様な軟膏や治療薬があり、それをもって傷跡さえ癒すことがおできになる。主は、この地上で人々のからだに対して行なわれたことを、今は人々の魂に対して喜んで行なってくださる。そこには、主のもとにやって来た盲人がいた。彼らはものが見えなかった。あなたにものが理解できないのと全く同じである。真実、罪はあなたの識別力を暗くしてしまったと云って良い。《主人》が行なわれたのは、ご自分のつばきで泥を作り、それをその盲人の目に塗って、こう仰せになることでなくて何だったろうか。「行って、洗いなさい」*[ヨハ9:7]。そこで盲人が行くと、見えるようになって帰ってきた。時として、主が人々の目に触れられると、うろこが落ちて、彼らは見えるようになった。私たちの主は、あなたに平静で正しい識別力を再び与えることがおできになる。あなたの霊を上から支配し、それがもはや苦みを甘み、闇を光とするようなことがないようにしてくださる。あなたの心の目を取り戻させてくださる。――

   「厚き夜闇(やみ)より、主は来たり、
    心の視力(め)をば 澄ませ給う。
    盲(めしい)し者の 両の目に、
    天(あま)つ光を 注がれぬ」。

 あゝ、だが、あなたは答えるであろう。「私は十分よく見えています。ですが行動ができないのです。なすべきことは知っています。ですが、それを行なうことがないのです。何が良いことかは分かるのに、悪いことをしてしまいます。したいと思うのに、できないのです」。それでも、私はあなたをイエスのもとに招く。主は、あなたが失った力をあなたに与えることがおできになる。私の愛する主がこの地上におられたとき、そこには手のなえた人々がいた。そして、主が手を伸ばすようお命じになると、彼らは回復された。ある人々は中風を病んで床に横たわり、身動きもできなかった。だが、主は彼らに歩くようにお命じになった。また、ある人はベテスダの池のそばに何年も横たわっていて、その池に入ることができずにいた。その人が横になっていたように、あなたも洗礼槽の傍らに横たわっている。だが、キリストは彼に云われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」[ヨハ5:8]。すると、彼はそうしたのである。私たちの主はあなたにも、あなたが失った一切の力を再び与えることがおできになる。悔い改める力、信じる力、罪を振り捨てる力、聖さのうちを歩む力を。そうしたすべてを再びあなたに与えることがおできになる。それも今、あなたがこの祈りの家に座っている間にである。キリストのもとにやって来て、キリストを戸惑わせたような疾病が1つでもあっただろうか? 主が門前払いをくらわせたような者をひとりでも思い起こせるだろうか? 人間の疾病のうち、不治の病とみなされている長大な一覧表の中で、すべてと云わぬまでも、そのほとんどはキリストの眼前にやって来た。だが、キリストを挫折させたようなものがあっただろうか? 主が、「わたしの力では太刀打ちできない」、と云われたようなものがあっただろうか? 否。あなたがたも知る通り、主は死人さえよみがえらされた。ラザロが臭くなり始めていたときでさえ、彼をよみがえらされた。――ラザロは、すでに死んでから三日になっていたのに、表に出て来た。死布をほどくと、生きた人が出て来た。私の《主人》に行なえないことなどあるだろうか?

 もし私が話しかけている人々の中に、自分は悪に満ちており、ほとんど悪魔をうちに宿しているほどだと感じている人がいるだろうか? 私はその人にキリストを指し示す。主はその悪魔を追い払うことがおできになる。私が語りかけている人々の中に、その激怒する情動か、その情欲か、酩酊に対する満たされない渇望か、積年にわたる冒涜の習慣によって、悪霊つきのようになっている人がいるだろうか? おゝ、ここに来るがいい。かの力強い御声がこう云っているのが聞こえる所まで来るがいい。「汚れた霊よ。この人から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない」[マコ5:8; 9:25]。キリストはあなたをもきよくすることがおできになる。

 イエス・キリストは、いずこにやって来ようと、人々を健やかにする神の《ことば》であられる。だから私はあなたに云う。もしあなたがたの中の誰かが他の人々を救いたければ、イエス・キリストを宣べ伝えるがいい。主は彼らを癒す《ことば》であられるからである。また、もしあなたがたの中の誰かが救われたければ、イエス・キリストを重んじるがいい。他の誰でもなく、イエス・キリストを仰ぎ見るがいい。あなたの心の目を主に据え、主に信頼するがいい。そうすれば、主に信頼するのと同じくらい確かに、健やかにされるであろう。あなたの症状についても、こう書かれるであろう。「主はみことばを送って彼をいやした」、と。あなたの症状には、キリストが匙を投げるようなものは何1つない。イエス・キリストのうちには、あなたの状況に特有の絶望的な性質にぴったり当てはまるものがある。主はあなたをも救うことができるし、救おうとしておられる。あなたが今、主に信頼しさえするならそうである。

 時間が矢のように飛び去るため、手短に切り上げなくてはならない。さて今、二番目のこことして、この治療薬の器に注意するがいい。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。それは主が、神のことばであるこの書、この啓示を送られたということである。人々を癒すのはキリストであって、聖書ではないが、聖書は医薬の入った瓶の包装紙のようなものであり、その包装紙を開くことによって私たちは治療薬を見いだすのである。覚えておくがいい。愛する魂たち。もしあなたが病んでいるなら、あなたの症状に影響を及ぼすべき医薬は、この表紙と表紙の間のどこかにあるのである。罪に病み、それを求めるあらゆる魂にとって、それはこの中にあるのである。

 ことによると、それは、あなたがないがしろにしてきた戒めかもしれない。あなたが行なうことを主が望んでおられる何かかもしれない。私の知っている多くの魂は、何らかの戒めによって主のもとに導かれた。律法はしばしば人々をキリストのもとに導く養育係[ガラ3:24]となってきたし、そのようにして彼らはキリストのうちに平安を見いだしてきた。

 しかし、あなたがたの中のさらに多くの人々にとって、ここにはこのような招きがある。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い」[イザ55:1]。これはあなたのことを指しているではないだろうか。あなたは渇いているだろうか? では、そこに先週の日曜の夜の甘やかな招きがある。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。これは、数えきれないほどの人々にとって、癒しの手段となってきた。

 時として、それは招きではなく、約束か、次のような大きな励ましとなる言明である。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。あるいは、このような甘やかな言葉である。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」[ルカ19:10]。これは、かの《偉大な医者》によって、傷ついた魂への香膏として用いられたものである。

 数々の戒め、約束、招き、福音の言明。それが、ここにある。この医薬は多くの形にされている。この疾病も多くの性状を取るからである。だが、この聖なる書物の中には、かの神の生けることばがあるのである。それが御霊によって祝福されるなら、あなたの魂に平安をもたらすであろう。それゆえ、この本のことはいかなる値もつけられないほど尊んでほしいと思う。大いにこれを読み、読むときには、こう祈りながら読んでほしいと思う。「主よ。これを私の魂にとって祝福してください」。それが刀のようにあなたを切り裂くときも、あなたの心をこれに対して開いてほしいと思う。あなたを癒すものとして、こうした親切な傷口を受け入れてほしいと思う。それから、あなたの心を開いて、その光を受け入れるがいい。それによって見えるようになるためである。その数々の慰めを受け入れ、それによって喜ぶがいい。あなたの魂の大扉を開け放ち、このことばのあらゆる部分を入って来させるがいい。

 あなたがた、他の人々に説教する人たち。神のことばを大いに宣べ伝えるがいい。おゝ、愛する方々。善良なマクチェーンの経験を思い出すがいい。彼の云うところ、回心が起こったときには、ほとんど決まってその聴衆は、それを説教の中で引用された聖句のおかげだと云ったという。概して云えば、それは常にそうであろうと思う。また、やはりマクチェーンはこう云っている。「私たちの言葉ではなく、神のことばである。神のことばこそ、普通は祝福されるのである」、と。確かにその通りだと思う。

 もし話を聞いているあなたにこの件で選択の余地があるとするなら、聖書に満ち満ちた伝道牧会がなされている場所をしばしば訪れるがいい。他のいかなる場所よりも、そこでは祝福を得られる見込みがずっと大きい。神のことばそのものに満ちている書物を読むがいい。それから、みことばそのものを読むがいい。しかし、単にそれを読むだけで救われると思ってはならない。それはありえない。あなたはキリストによってのみ救われるのであり、キリストは当時の人々に対してこう云われたからである。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。……それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:39-40]。しかし、読むことによっては救われないとはいえ、読むことを通して、また、聖書を読むことを通して、救われることはありえる。あなたが読んでいる間、また、神の尊いことばを聞いている間、神が、この聖なる頁の内側に隠されている光と真理といのちの一部を心に突き入れてくださることがありえる。「主はみことばを送って彼らをいやす」*。博学な博士殿。私たちはあなたの新しい福音など必要ない。私たちに必要なのは神の古いみことばである。洗練された詩的な弁舌家殿。壮麗な修辞の使い手殿。黄金の口の持ち主殿。私たちは、神のことばが与えられない限り、あなたをも、あなたの口をも必要としない。――ただ聖書の中に啓示されているものだけを必要としている。ルターやカルヴァン以前にも、ウィクリフやフスやヒエローニュムス以前にも、大説教家たちはいた。彼らも行き巡っては説教し、しかも大群衆を相手に説教していた。だが、魂を救うことはなかった。語り口がなっておらず、魅力的でなかったからではない。むしろ、告げるべきこの物語を有していなかったからである。――この本の中にある物語、十字架の上にかけられたお方の物語を。私たちはみことばを宣べ伝えなくてはならない。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」[IIテモ4:2]。というのも、なおもこの言葉は真実だからである。主はみことばを送って彼らをいやす」*。

 さて、やはり時が私を押し止めるので、私はこのことに注意しなくてはならない。すなわち、三番目の意味においても、この聖句を眺めなくてはならない。それで、この治療薬の適用について語ることにしよう。十字架上のイエス・キリストは、人々がご自分を退け、拒絶しているうちは、彼らを救うことがない。また、この本が誰かを救うのは、聖霊が力をもって魂に語りかける時でしかない。それが起こるとき、そのときこそ、それは別の意味で神のことばとなる。古に神がお語りになると、それはなった。「光よ。あれ」、と仰せになると、光があった。そのように、人々に対して神からの明確な召命がない限り、彼らは神に向かわないと思われる。生きたことばが生ける神の御口から飛び出してこない限り、聖書は死んだ文字にすぎないであろう。御霊が力をもって真理を啓示しない限り、キリストにさえ、人々は背を向けるであろう。イエスが死んだことなど自分にとって何ほどのことでもないかのようにそうするであろう。愛する方々。あなたがた、すでに癒された人たち。あなたは、云うではないだろうか? 自分が癒されたのは、聖霊の隠れた神秘的な御力のおかげである、と! あなたは自分が御霊にご栄光を与えていると知っている。ならば、人々をキリストに導きたいと願うときには、常に聖霊を尊ぶがいい。御霊をあがめ、魂の癒しが成し遂げられるための一切の力のために、全く御霊により頼むがいい。世界中のいかなる信仰も、神の御霊の働きから出た信仰でない限り人を救いはしないであろう。十字架上のキリストに対するいかなる真実の一瞥であれ、神の御霊が与えなかったものはない。

 さて、私はこのことについて、ほんの二言三言しか語りたいとは思わない。あなたがたの中のある人々は云うであろう。「あゝ! 神の御霊が私に語りかけてくださるとしたらどんなに良いだろう!」 だが、思い違いをしてはならない。御霊は今はあなたに語りかけはしない。みことばが、忠実に、また祈りの霊とともに宣べ伝えられるとき、神の御霊はそれとともに出て行かれるのである。人々はそれに抵抗するかもしれない。だが、そうすることでその人々は自分の罪を増し加えているのである。古に神の人が云ったように、「あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです」[使7:51]。

 神の御霊が何を行なわないかを説明させてほしい。あなたは、キリストについて聞くことによってのみ救われることができる以上、御霊があなたのもとに新しい救いの道をもたらしたり、別の《救い主》を啓示したりすることはないであろう。そして、あなたが神の言葉を読んだり、それを聞いたりすることによっては救われないとしたら、御霊が何か別の手段をお用いになる見込みはないであろう。御霊は、父アブラハムと同じ思いをしておられる。アブラハムは、ラザロが乞食をしていた門前の家の男の五人の兄弟について、こう云った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」[ルカ16:31]。あなたは、ただじっと座って、こう云っていてはならない。「私はしるしと不思議を見ることを期待します。さもなければ、信じません」。あなたに与えられるしるしや不思議は、死に給う《救い主》というしるし、また、死者の中からよみがえった《救い主》というしるしだけであろう。さらなるしるしは、あなたがこのお方を信じることを拒み、このお方に自分の信頼を置くことを拒むという大いなる不思議だけであろう。

 さて、このことを知るがいい。人々が神の御霊によってキリストに導かれるとき、自分たちを導いておられるのが神の御霊であるとは、その時点では分からない。それは彼らには思いもよらないことである。彼らは考え、瞑想し、判断し、決断し、信じる。彼らは自由な行為者であり、そのような者として行動する。後になってこそ彼らは、神の御霊が自分たちをそうした一切を通じて導いておられたことを発見するのである。さて、もしあなたが神の御霊を感じるまで、また、それが神の御霊であると分かるまで、不信仰のまま待っているとしたら、永遠に待つことになる。そのような経験は決してあなたに授けられないからである。いかなる人であれ、御霊を知り、御霊が自分とともに働いておられると自覚的に意識する前には、まずイエス・キリストを知らなくてはならない。御子を通してでなければ、誰も御父のもとに行くことがないのと同じように、イエス・キリストを知らない限り、誰もその魂における御霊のみわざを悟ったり、意識したりするようになることはない。

 ならば、神の御霊はあなたに何を行なわれるのだろうか? 多くの場合は、いま御霊がそのように働いていてほしいと私が望んでいることである。すなわち、あなたが今そうなっていると私が思っているように、あなたにその気を起こさせることである。あなたが今そうなっていると私が思っているように、あなたに自分の危険を自覚させることである。あなたがそうしていると私が思っているように、この治療薬を理解させることである。あなたがそうすると私が希望しているように、神が供してくださるものを受け入れるよう、あなたを甘やかに、また、優しく導くことである。

 「それですべてですか?」、とある人は云うであろう。あゝ、愛する方々! だが、これは非常に大きな「すべて」である。私は知っている。自分にはその働きができないことを。また、世界中の教役者を寄せ集めても、あなたがちっぽけなことと考えているそのことを行なえないだろうことを。確かに、もし私が遣わされたのが、ここからジョンオグローツまで裸足で歩くならば、また、今晩出発するならば、あなたがたは全員救われます、と宣告するためであったとしたら、かの北辺の大道はそこへ向かう人々でごった返すであろう。人々は、救われるためなら、そうした類のことを何でもしようとするものである。彼らを説得する必要はないであろう。しかし、私たちが彼らに、主イエス・キリストを信じるべきだと告げると、それは単純すぎて、簡単すぎるため、神が奇跡を働かせない限り、彼らの高慢な心をそのようなしかたで救われることに満足させることはできないのである。神が人々に新しいいのちと新しい光をお与えにならない限り、彼らはそこへ来ようとはしない。おゝ! あなたはそこへ来ただろうか? 今そこへ来ているだろうか! 今この瞬間に、あなたはこう云えると感じているだろうか? 「私はイエスを信頼しています」、と。よろしい。愛する兄弟よ。あなたを導いてそうさせたのは神の御霊である。御霊はあなたの内側におられる。そのことについて、疑問を呈する必要は全くない。御霊がみことばを送って、あなたを癒されたのである。もし御霊があなたをそこへ至らせておられるとしたら、こう云い続けるがいい。――

   「呪いの木の上(え)に 汝れ傷つきて、
    悲嘆(いた)み、喘ぐを 見るとき、我れは
    わが心(たま)信ずを 感じましかば、
    汝れの我がため 苦しめらるを」。

あなたは今、乗るにせよ反るにせよ、自分をゆだねているだろうか? 十字架上で血を流されたお方に自分をまかせているだろうか? それは神の御霊のみわざである。この方以外にそれを行なえただろう者はいない。

 「それは、あまりに小さなことに思えます」、とある人は云うであろう。「それなら、まるで自分でもできそうに見えます」。あゝ、だが、その小さなことは、地上では大きなことなのである。エリシャが、「ヨルダン川で身を洗って、きよくなりなさい」、と云ったとき、それは難しいことであった。「あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」[II列5:13]、と彼のしもべたちは云った。しかし、預言者が命じたことは実は至難のことであった。もし私たちの福音が難しいことだったとしたら、それはたやすかったであろう。だが、それがたやすいからこそ難しいのである。1つの力強い御手によって、私たちはそこまで引き下ろされなくてはならない。そして私は、あなたに対して説教している間、こう祈るものである。主イエス・キリストが今、永遠にほむべき御霊をご自分の力のことばに送ってくださり、――あなたをみもとに引き寄せてくださるように、と。仰ぎ見て、生きるがいい。

 おゝ、あなたはいたく病んではいないだろうか? キリストは、病人のための医者であられる。あなたは叫んでいるだろうか? キリストは、病んだ魂の叫ぶところ常にやって来るお方であられる。あなたは神の方法で喜んで救われたいと思うだろうか? あなたは、神がその思い通りのことをあなたに対して行なうのを許すだろうか? あなたは、神のまにまに身をゆだねるだろうか? あなたはこう云うだろうか? 「いかにせよ、私が必ず来る御怒りから救われさえするなら、いかようにもなさってください」、と。あなたは、いま自分の心を大きく開いて、イエス・キリストをあなたの主として受け入れようとするだろうか? ならば、神の御霊は今まさにあなたを癒しつつあるのである。御霊はあなたに働きかけておられる。御霊はすでにあなたを癒されたと私は思う。ただ血を流せる神の《小羊》に信頼するがいい。ただこの方に信頼するがいい。それは成し遂げられている。成し遂げられている。神の《小羊》にすべての栄光あれ。それは成し遂げられている。天来の御霊にすべての栄光あれ。私たちをこの救いの状態へと導き入れてくださったお方に。アーメン、アーメン。

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古風な治療薬[了]

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