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「みいつくしみぞ 決して尽きざる」

NO. 2919

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1905年1月19日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年10月1日、主日夜


「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。――ヨハ10:11


 このことばが語られたのは、私たちの主がご自分の民の間におられた時のことである。ことによると、それを聞いているうちに、あなたの心にはこう囁くものがあるかもしれない。「果たしてそれは今でも本当だろうか! もし肉体をとって主イエスが、今のこの時、ここに――私たちの真中に――おられたとしたら、また、今、『わたしは、良い牧者です』、と仰せになるとしたら、そう信ずることはたやすく思えるだろう。だが、主は去ってしまった。それが今も同じだという何の確証があるだろうか。主がもはや私たちの間にはおられないというのに」。答えよう。「愛する兄弟たち。それが真実であると分かるのは、イエス・キリストが、『きのうもきょうも、いつまでも、同じ』[ヘブ13:8]だからである。このこと自体で十分のはずである。だが、それとは別の確証もある。この箇所で主は、本当にそれを真実に意味されたのである。というのも、注意すれば分かるように、主は、『わたしは……である』、と云われたとき、明らかに未来に目を向けておられたからである。その証拠に、主はこう云い足された。『良い牧者は羊のためにいのちを捨てます』。これは、まだ主がそうする前のことであった。また、主がこのことばを仰せになった時から、十字架上でそのいのちをお捨てになるまでには間隔があった。また主は、この講話をさらに進める中で、こう云われた。『わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです』[16節]。主が未来に目を向けておられたことは明らかである。私はほとんどこう云うところであった。主は一瞬、ご自分の神性を意識することなしに、ご自分について語られたのだ、神として語る意図はなしに、『わたしは……ある』、とエホバの御名そのものを用い、未来のことを、あたかも現在であるかのようにお語りになったのだ、と。それは、あたかも主がこう仰せになったかのようであった。『わたしは、良い牧者である。そして、わたしは、さまよっている民を集めるつもりである。まだ、わたしの群れとなっていない民を』。こういうわけで、明らかに、この『わたしは……ある』ということばの意味と力は、主がそのことばをお語りになったときには、まだ主の囲いに含まれていなかった他の羊をすべて集め入れる時まで何の切れ目もなく続くのである。しかり。主はあなたにこう理解させようとしておられる。主は、これと同じことばを、あなたに対しても、兄弟姉妹たち。ペテロやヤコブやヨハネに対するのと同じくらい仰せになっているのだ、と。あなたに向かって主は云っておられるのである。『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます』、と」。

 第一に、私たちの偉大な《主人》の主張を眺めよう。「わたしは、良い牧者です」。それから、その証拠に着目したいと思う。すなわち、確かに主が最初にこのことばを発されたとき、それは完了していなかったが、それは今や完了している。――「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。この2つの点について手早く語った後で、努めてそれを反芻し、ここに私たちにとって非常に実際的な適用となるものが見当たらないかどうか調べてみよう。この聖餐式の晩、時間は非常に縮まっている。それゆえ私は、どの1つの点にも多弁を傾けないよう努めなくてはならない。

 I. それでは、まず第一に、《キリストの主張》を眺めてみよう。「わたしは、良い牧者です」。主は私たちに3つのことを理解させようとしておられる。それは、あなたかもこう仰せになったかのようである。「わたしは、牧者です」。それから、「私は、良い牧者です」。そして、最後に、「私は、あの良い牧者です」。――旧約聖書の中で語られている、あの良い牧者です、と。

 「わたしは、牧者です」、と最初に主は仰せになる。すなわち、主はご自分の民に対して、牧者が自分の群れに対して立つのと同じ関係に立っておられる。主は、ご自分の民を所有しておられる。そのひとりひとりが、みな主に属している。主は彼らがご自分のものであるからこそ彼らを大切にされるのである。――そのひとりひとりを重視されるのである。主は彼らを保護される。昼夜を問わず彼らを覚えておられる。主の御心は決して彼らから離れることがない。また、その内なる愛ゆえに、主は常に彼らに対するいつくしみを外に表わして差し伸ばされる。彼らを狼から守られる。一千もの危険から防護される。彼らのあらゆる必要が満たされるよう面倒を見てくださる。彼らを正しい道に導かれる。迷子になれば連れ戻される。弱いときには強められる。虚弱すぎて進めないときには、抱きかかえてくださる。彼らが弱い群れであること、愚かな群れ、さまよう群れであることをご覧になり、それゆえ、彼らの力、彼らの知恵、彼らの義、彼らのすべてとなられる。ことによると、いかなる生き物にもまして多くの病にかかりやすいのは、人間を除くと、羊かもしれない。いかなる生き物にもまして他者に、また、より高等な生物に依存しているのは、羊である。というのも、それは人間の庇護の下にない限り、半分もまともな状態に見えないからである。そして、兄弟たち。私たちの中の誰ひとりについても、羊より依存の度が足りないとは云えない。私たちはキリストに近づくまで真の人間ではないからである。私たちは、キリストにあるいのちと力を見いだすまで、いのちと力に欠けている。さながら羊が決まって道に迷い、さまようことになり、まず間違いなく砂漠に踏み入り、――以前よりも良くなることは決してなく、――最後には確実に無に帰してしまうのと同じく、私たちもそうなる。私たちの《羊飼い》であるお方がおられなければ、私たちは悲惨と罪の中にさらにさらに迷い込んで行き、確実に破滅するであろう。私たちがキリストに依存する度合は、羊がその牧者に依存するよりも大きい。ならば、キリストが、「わたしは、牧者です」、と仰せになる理由は明らかである。ご自分がその尊い血で贖った御民に対して、主がお取りになる立場は所有者、指導者、道案内、父親、《王》としてのそれであり、そのすべてはこの一言に濃縮できるであろう。――《牧者》、と。

 しかし、主は単に《牧者》であるばかりでなく、良い牧者であられる。というのも、主は、その働きを良く行なわれるからである。決して主はご自分の群れをないがしろにされない。主に忘れられたために滅びた者はひとりもいた試しがない。主は良い牧者であられる。なぜなら、なされるべき一切のこと――なされうる一切のこと――ご自分の羊のためになされることが望まれる一切のこと――それを行なわれるからである。これまで自分の職業にひたすら打ち込んできたいかなる羊飼いにもまして、キリストはご自分の全心全霊をイスラエルの牧者としての神聖な職業に集中させておられる。主はご自分の民のために持てるすべてを与え、しかり、ご自分をも与えてくださる。主の御力は彼らの防備である。主はその御手を上げてこう云われる。「わたしは、わたしの羊に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」*[ヨハ10:28]。主の知恵は、彼らの導きである。主の愛は、彼らを永久に覆う盾である。主の無限性は、彼らの宝物庫である。主の全能性は、彼らの守りである。おゝ、キリストよ。あなたは、そのご人格において、人間であり、神であられます。ですが、あなたの民に対しても同じように人間であり神であられます。あなたには一千もの職務がありますが、そのすべてをご自分の群れのために行使されます。おゝ、キリストは実に良い牧者であられる。主は牧羊業に熱心であるだけでなく熟達しておられるからである。主は、群れのあらゆる病気を知っておられる。というのも、主ご自身、彼らのあらゆる悲嘆と災厄を感じてこられたからである。主は人間の性質を学んでこられた。おゝ、いかに長きにわたってか! 主はそれを個人的経験によって知っておられ、それゆえ、ご自身だけが分かるしかたでそれを知っておられる。主は、良い牧者であられる。主に少しでも似ている者すら、想像された試しがあっただろうか?

 しかし、そこで主はこう仰せになっている。「わたしは、その良い牧者です」。強調されるべき事実は、主は、ご自分の民のあらゆる必要にとって最高にして十分なお方であられる、ということである。他の牧者たちも主によって任命されてきたし、それなりに良い者たちではあった。だが、主こそその牧者であられる。――羊の大牧者であられる。主こそ、こう書かれているお方である。すなわち、この大牧者が現われるときに、私たちは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのだ[Iペテ5:4]、と。私たちは誰ひとりその牧者ではない。私たちは、主の御目の下で自分の小さな働きを受け持ち、それを主のために行なわなくてはならない。決して自分で満足が行くようにできなくともである。実際、もしも主が私たちに満足し、「よくやった」[マタ25:21]、と仰せになるとしたら、それは私たちにとって喜びであろう。しかし、世界中の下牧者たちを一緒にしても、かの羊の上牧者と比べれば貧相なしろものである。この方こそ、羊の良い牧者であられる。――卓越して良い牧者――善なるすべてのものを越えて良い牧者であられる。羊の牧者であるのと同じく、牧者たちの牧者であられる。良い、というのは、信ずる者たちの全体が、何か自らのうちに良いものを有しているとしたら、それをこの方から受けたからである。「わたしは、その良い牧者です」。

 さて、それがこのことばの意味である以上、ここでこの章におけるキリストの主張を見てとろうではないか。主がそれをいかに詳しく述べているか注目するがいい。この聖句の直前にある節に目をとめると、主は云っておられる。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」。ということは、主が私たちの良い牧者であられるのは、主がその羊にいのちを与えてくださるからである。いかなる牧者も自分の群れについて云えないことを、キリストはご自分の群れについて仰せになっている。「わたしは、この、わたしの羊たちすべてが有しているいのちを、彼らに与えたのである」。主は何と良い牧者に違いないことか! 「彼らは死んでいた。エゼキエルの幻の中の干からびた骨のように死んでいた」、と主は云われる。「だが、わたしは彼らにいのちを与えた」。これに耳を傾けるがいい。あなたがた、主の牧場の羊である人たち。あなたには霊的ないのちがある。だが、主がそれをあなたに与えてくださったのである。あなたの目を上げて、主をほめたたえるがいい。あなたの心が、悔い改めとは何か、信仰とは何か、祈りとは何か、賛美とは何かを知るようになったことでほめたたえるがいい。というのも、今やあなたは神に対して生きているからである。あなたも知る通り、主こそあなたを生かしてくださったお方にほかならない。あなたの牧者に、あなたはすべてを負っている。私たちは、この方の民であり、その牧場の羊である[詩100:3]。この方が、私たちを造られた。この方が、私たちを新しく造られたのであって、私たち自身がそうしたのではない。主が何と云い足しておられるかにあなたは注意しただろうか? 「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」。それで、愛する方々。もしあなたが今、冷たく死んだように感じているとしたら、私はあなたに願いたい。あなた自身を見つめるのではなく、あなたが現在いる牧場を見つめるのでもなく、あなたの面倒を見ようとしている下牧者を見つめるのでもなく、このお方、この主たるえり抜きの《牧者》を見つめてほしい。この方は最初にあなたにいのちを与え、それをさらに多く与えてくださる。あなたがそれを豊かに持つためである。もしあなたがたの中の誰かの心が、聖霊によって、神の愛を心に注がれている[ロマ5:4]ために、喜び踊っているとしたら、あなたはそのすべてをこの方から得ているのである。それゆえにこの方をほめたたえるがいい。それとは逆に、もしも別の人が自らのうちにあるいのちが虚弱すぎるため嘆き悲しんでいるとしたら、――愛する方よ。あなたは、それを最初に与えてくださったお方によって、それを強めていただくことができるであろう。一切の賛美と栄光は、あなたの良い牧者に帰されなくてはならない。この方が実際に良いお方であられるのは、その群れのいのちそのものがこの方の賜物であり、そのいのちが、この方の主権の御力によって増し加えられるからである。おゝ、あなたはいかに良いお方でしょう、愛する主よ。私たちの存在そのものの《創始者》であり《源泉》であるお方よ!

 私たちの主は、ご自分の良い牧羊業をさらに示して、こう仰せになる。「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」[12-13節]。それで、二番目のこととして見てとるがいい。この良い牧者が良いお方であるのは、ご自分が授けたいのちの面倒を見てくださるからである。まず、この方はそれを与えてくださる。それから、それを保護してくださる。狼は常に囲いの回りを徘徊している。彼の遠吠えが聞こえないときも、彼がどこかから入り込もうと狙っていることは分かる。彼が入り込むとき、彼が来るのは殺したり、滅ぼしたりするためであると云われている。では、あわれな羊は、牧者がよそに出かけているとしたら、狼に対して何ができるだろうか? また、あなたや私は、この世にあって、また、誘惑される中で、キリストがよそに行っているとしたら、サタンに対して何をしようというのだろうか? 私たちはたちまち、この邪悪な敵の餌食となるはずである。しかし、私たちの良い《主人》は私たちの面倒を見てくださる。

 あなたは、この尊い言葉を知っているであろう。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。比喩は変わっても意味は同じである。私たちの《救い主》は、――私たちのほむべき牧者は、――寒気に包まれる夜もご自分の群れを見守ってくださる。また、太陽がぎらぎらと照りつける昼も、やはり見守ってくださる。主のいのちそのものさえ、御民を保護することにくらべれば、主にとって何ほどのものでもないように思われた。おゝ、兄弟たち。いかなる数々の戦闘を私たちの牧者は、私たちのために、この狼と繰り広げなくてはならなかったことか! 栄光に富む私たちのダビデが、その群れのほんの子羊のためにさえ、いかなる武勇を振るわれたかという物語に詳しく立ち入る必要はないであろう。しかし、この方はまことにご自分の御父に対してこう云うことがおできになった。「このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました」。それは、彼らがやって来て、「群れの子羊を取って行く」からであった[Iサム17:34-36 <英欽定訳>]。イエスは、その最も虚弱な者さえも、敵の歯の間から取り返し、ひとりたりとも滅びることをお許しにならない。それは、主が私たちのために来られたからである。あなたは、私たちの面倒を見るということが何を意味するか知っているではないだろうか。よろしい。それを説明するには、あなたに向かって、自分の子どもたちの面倒を見るとはどういうことか考えてみるよう求めるに越したことはないと思う。それこそ、主イエスがあなたの面倒を見てくださるしかたである。子どもたちについて云えば、あのあわれな小さな愛する者たち。彼らは自分で自分の面倒を見ることができない。あなたも同じである。いかに懸命にそうしようと努めても関係ない。だが、あなたの小さな子どもたちがその心配をあなたにゆだね、あなたが彼らの面倒を見てやるのと同じように、あなたはあなたの種々の心配をあなたの《牧者》にゆだねて良い。これは非常に広大な思想である。あなたが見る面倒は、あなたの愛から発しており、その愛によってあなたは家族の幸福について考えさせられる。しかし、面倒を見るとは考えるだけではない。あなたは彼らのため大いに活動もする。そして、彼らが自分の必要について知る前からさえ、それを満たしてやる。事実、彼らは自分に何か必要があるとはほとんど悟らない。なぜなら、あなたは決して彼らを満たされないまま長いこと放っておかないため、彼らは自分が何も持っていないことを気づかないのである。あなたは彼らのために稼ぐことによって、彼らの一切の必要を満たしている。それと全く同じように、良い牧者なるイエスは、ご自分の民の面倒を見てくださる。主は彼らにいのちを与え、そのいのちを増し加え、そのいのちの面倒を見て、あらゆる害悪から守ってくださる。

 しかし、もう少し読み進めれば、主がいかに良い牧者であるかは、さらにはっきり分かる。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」[14-15節]。つまり、こう云っておられるのである。「わたしとわたしの父が互いに知り合っているのと全く同じように、わたしとわたしの民は互いに知り合っているのである」。主が良い牧者であるのは、ご自分の羊の間に住み、彼らをご自分の子どもたちとして扱い、きめ細かく彼らの面倒を見るために、現実に彼らと交わりを有されるからである。羊は、牧者が語るあらかたのことを理解する。牧者の言葉遣いの中には、あなたや私には理解できなくとも、羊には理解できるものがある。彼らは、牧者の口笛を知っている。そのしかめ面を知っている。その手の動きを知っている。牧者には、彼らに語りかけるための言葉遣いがある。イエス・キリストが、「わたしはわたしのものを知っています」、と仰せになるとき、それは単に、誰がご自分のもので誰がそうでないかを知っているというだけでなく、個々の羊についてすべてを知っておられるという意味である。主は、今の瞬間のあなたの苦難をご存知である。愛する方よ。――あなたの弱さ、あなたの罪、あなたの悲しみをご存知である。主は、あなたが自分自身を知っているよりも、はるかに多くのことをあなたについてご存知である。また、あなたが有する他のいかなる親友よりも上手に、あなたのことを一言で云い表わし、理解することがおできになる。――あなたの裏も表もご存知である。おゝ、それは素晴らしい言葉である。――私が自分の測鉛線を落としても底に着かない大いなる深淵の1つである。――「わたしはわたしのものを知っています」。それは、主が彼らをご自分のものと認めてくださるという意味である。主は、彼らのことをよくご存知であるあまり、神と聖なる御使いたちの前でこう仰せになる。「しかり。それはわたしの羊である」、と。何と! あの引きちぎれた羊毛のものが? あのびっこの足をしたものが? あの耳の裂けたものが? 彼らのいずれも、大して器量が良くはない。だが、この牧者は、その最も小さなものさえ恥じることをなさらない。「それは、わたしのものである」、と主は仰せになる。「そして、それが他の何者にとって美しくないとしても、わたしにとっては美しいのである。というのも、わたしはそれをわたしの血で買ったからである。わたしは、そのために獅子と戦った。それゆえ、それはわたしの魂にとって非常に愛しいものなのである」。主はご自分の羊を知っておられる。人は、ほとんど羊の感情など理解できないではないだろうか。だがしかし、イエス・キリストは、神であるのに、へりくだって身を屈め、最もあわれな、最も無知な者――左様。ご自分の子らの中でも最も罪深い者――の感情をも理解してくださる。主は彼らの骨肉となり、彼らと主との結びつきは非常に親密である。

 しかし、それから主はこう云われる。「わたしのものは、わたしを知っています」。さて、私たちは、羊が牧者について大して知ってはいないと考えるかもしれない。だが、そうではない。彼らは牧者を愛するようになる。東方の群れの中には、往々にして、ことのほか牧者に愛着を持つ羊がいる。彼らは常に牧者の後にくっついて歩き、牧草よりも牧者の方にずっと気を遣うように見える。彼らは常に先頭に立つ。また、こう云っても良いと思うが、一般には最も肥えている。というのも、牧者の最もそば近くにい続ける羊は、最上の草を得るに決まっているからである。そして、そのように神の教会の中には、牧者のそば近くにい続ける者たちがいる。そして、彼らはこの牧者をよく知っている。そして、主の民はみな、主についてある程度までは知っている。これは、何というへりくだりであろう。――この良い牧者は、ご自分の民のもとに来て、その間にお住みになるため、単に彼らをご存知であるばかりか、彼らにご自分を知るよう教えてくださるのである。このことゆえに、主の御名はほむべきかな! あなたが、この深遠な奥義の栄光に富む意味を飲み干せるかどうか試してみるがいい。

 しかし、まださらに、――そして、この点のしめくくりとして、――私たちの主が良い牧者であるのは、主がそのすべての羊を集めてくださるからである。16節を読むがいい。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」。主の目がユダヤ人の上に注がれている間、主の心は異邦人の上にも据えられていた。主という牧者は、九十九匹で満足するのではなく、群れを数え直して百匹いないことが分かると、その御心が失われた一匹を気遣い始める。そして、九十九匹の方は囲いに入れて休ませるが、ご自分は荒涼とした山腹に向かって出発し、失われた一匹を捜そうとされる。あゝ、私の主よ。あなたは、まことに良い牧者であられます。――あなたの教会内のいかなる者にも――あなたのどの働き人にも――はるかにまさる牧者であられます。私たちは、しばしばさまよっている者のことを忘れてしまう。私たちは、ともに1つの教会に集う。建物は満員かもしれない。そのため、無知の中にある大衆の面倒を見る宣教事業をあまりにも少数しか有していない。私たちは、英国が福音の光に浴しているのを見ている。それで、遠方にある数々の異教国にみことばを遣わすことには、ごく僅かな熱心しか感じない。だが、そうあるべきではない。キリストの場合そうではない。というのも、もし主がひとり選ばれた者を有しているとすると、その人がどこにいようと、主はその人を知っており、主の目はその人に据えられ、主はその人を導き入れてくださるに違いないからである。果たして、今晩ここには主が導き入れるに違いない人が誰かいないだろうか。あなたは、このタバナクルにやって来たときには、キリストがあなたを求めておられるとは思っていなかった。だが、ことによると、私たちの主イエスはあなたをご自分の尊い血によってすでに買い取っておられ、その御父があなたを、世の基の置かれる前から主に与えておられたのかもしれない。そして、主があなたをここに導き、あなたにこのことを知らせて、今晩ご自分のもとに来させようとしておられるのかもしれない。主はこのように仰せになる。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたを、誠実をもって引き寄せた」[エレ31:3 <英欽定訳>]。さあ、あわれな、さまよう者よ。神である《牧者》の足元に来て、全く無力でよるべない者として身を投げ出すがいい。主はあなたを肩にかつぎ、大喜びであなたを連れ戻られるであろう[ルカ15:5-6]。主は良い牧者ではないだろうか? いのちを与え、いのちを支え、いのちを守り、いのちを知り、ご自分を知るいのちを教え、あわれなさまよう者たちを捜しに行き、彼らをご自分のもとに導いてくださるのである。それがキリストの主張である。

 II. さて、第二のこと、すなわち、《ご自分の主張に対してキリストが示された証拠》については、ごく僅かしか語ることができない。すでにそれを証明してしまったからである。「わたしは、良い牧者です」、と主は云われる。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。キリストは私たちのために何度となくご自分のいのちを与えてくださった。たといこの聖句を読み、それを主の死という1つの行為に帰させないとしても、それは非常に豊かな意味に満ちていると思われる。天で主は、ご自分のいのちを彼らのために与えてくださった。主は、天国で1つのいのちを有しておられた。私たちが遠くから推測できても、決して完全には理解できないようないのちである。主は神として、永遠の賛美の中に住んでおられた。だが、知っての通り、そのいのちを私たちのために捨ててくださった。主はわきに置かれたのである。

   「かの 美々しきころもを、
    かつ、その神性(かみのみ)を 包みたまえり、
    われらが卑しき 土塊(つち)の覆いで」。

地上の悲しみと罪とのために、天上の立琴と賛美を離れることは、主がその羊のためにいのちをお捨てになることであった。

 主がこの地上におられたときには、知っての通り、主は、地上で生きている間、羊のためにご自分のいのちを与えてくださった。というのも、あらゆる瞬間に、そのいのちは彼らのために費やされていたからである。大工の作業場で過ごした主の人目につかない生活と、彼らの救いとの間には関係がある。――密接な関係がある。だが、その公生涯において、主がご自分の御力のすべてをふりしぼられたのは、このこと――失われた者を捜して救うこと――のためでなくて何だっただろうか? ご自分の民のためにこそ、あの、冷たい夜の山腹における数々の祈りはささげられたのである! ご自分の民のためこそ、あの、日中の群衆のただ中における熱心な嘆願は発されたのである! 彼らのために、あの大儀な旅はなされたのである! 彼らのために、あの飢えと渇きは忍ばれたのである! 彼らのために、頭に枕する所もない家なし状態に主はあったのである! 主は、この地上におられる間中、彼らのためにご自分のいのちを与えておられた。

 それから、ある暗い夜に、主はご自分の羊のために、ご自分のいのちを捨てられた。その意味こそ、疑いもなく、この箇所で意図されていることだと思う。その恐ろしい夜、――あなたも知っているその夜、――その記念されるべき夜、というのも、それは神の過越の夜であったからだが、――この牧者はご自分の群れの回りを歩き、羊たちは眠っていた。だが、そこに狼がやって来た。牧者は彼の咆哮に気づいた。羊はみなその遠吠えに驚愕し、散り散りになった。牧者を捨てて逃げ出した。その夜、彼はからだを張ってこの狼に立ち向かわれた。囲いの前で踏ん張って羊を見守り、彼らをみな無事に出て行かせた。それから、この残忍な怪物に立ち向かわれた。それは羊の血に飢えて囲いの中に飛び込んできたが、この牧者が彼をその胸板で受けとめられた。それから両者の間で死に物狂いの闘争が始まった。この牧者は現実に血と汗を流し、血と汗を流し、それから、もう一度血を流された。大きな血の粒がぽたぽたと地に落ちたが、彼はこの怪物をがっちりつかんで離さなかった。私たちの偉大な牧者は、その頭と、両肩と、御手と、御足に傷を負い、恐ろしい牙の一噛みがその御脇を食い破った。だが、彼はこの狼を押さえておられた。――押さえに押さえ、ついにそれを打ち殺された。それから、その死骸を地に投げ捨てると、その上に足を乗せて叫ばれた。「完了した」[ヨハ19:30]、と。だが、それと同時に、この大牧者も倒れた。私たちの敵を殺す際に、主ご自身も殺されたのである。だが、この牧者は、地面に触れるや否や、蘇生したかのように再び跳ね起きると、こう云われた。「わたしが自分のいのちを捨てるのは、自分のいのちを再び得るためです。わたしが羊のためにわたしのいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださるのです」[ヨハ10:15、17参照]。あなたはその物語を知っており、私が長々と告げる必要は全くないであろう。しかし、おゝ、主を愛せよ! 主を愛せよ! その御傷に口づけせよ。このほむべき牧者を礼拝せよ。この方があなたの敵を征服し、この獅子の顎から、この熊の前足からあなたを救出し、あなたを永遠に安全にご自分の囲いの中に置いてくださったのである。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。

 主は、今なおそのいのちを与えておられる。人なるキリスト・イエスのうちにあるいのちを、主は常に私たちのために与えておられる。私たちのためにこそ主は生きておられ、主が生きておられるので、私たちも生きるのである[ヨハ14:19]。主は生きて、私たちのためにとりなしておられる。主は生きて、天で私たちを代表しておられる。主は生きて、私たちのために摂理を支配しておられる。主は生きて、私たちのための家を備えておられる。そこに私たちは向かいつつあるのである。主が生きているのは、再びやって来て、ご自分のもとに私たちを受け入れてくださるためである。そのようにして、主のおられる所に、私たちもいるようになるのである。まことに、良い牧者はご自分のこの主張を証明しておられる。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。

 III. さて、しめくくりに、《こうした事がらから幾ばくかの甘美な活力を得る》ように努めよう。すでに、ここに至るまでの間に、そうしてきたとは思うが。

 最初のこととして、愛する方々。もしこの良い牧者がいのちを捨てておられるとしたら、いのちを豊かに持つように努めよう。時々私は説教を行なうことは全くやめることができれば良いのにと思うことがある。そして、以前に見たことのある、大勢の男たちを教練しつつある軍曹が行なっているように行なえれば良いのにと思う。彼がただ一言、「第一の位置」、と云うだけで、彼らはその位置に着く。「第二の位置」、と云うと、彼らはその位置に着く。彼はほとんど雄弁な話などせず、彼らに向かって何をなすべきか告げるだけである。さて、あなたもできるものなら、自分の位置に着くがいい。より多くのいのちを持つべきである。この祈りをそっとささげるがいい。「神である牧者よ。あなたはわたしにいのちを与えておられます。それをもっと豊かにお与えください。私がもっとあなたを知り、もっとあなたを愛し、もっとあなたに信頼し、もっとあなたに仕え、もっとあなたに似た者となれるようにしてください。おゝ、主よ。あなたのみことばに従って、私を生かしてください」。

 それは役に立つ。そうし続けることである。別の位置につくがいい。もし主が良い牧者だとしたら、良い牧者を有している羊のように感じようではないか。彼らはどのように感じるだろうか? 私の知る限り何にもまして平穏で幸いな光景は、昼日中に良い牧草地に集められた後の羊たちの群れだと思う。あるいは、何か、ふんだんに生い茂った根菜類が色褪せてきた中にいる羊たちの群れだと思う。彼らは、自分たちに食べられるだけのものを食べてしまっており、草の上に横たわって休んでいる。彼らの羊毛で覆われた頭には、何の心配事も入って来ない。彼らには、心を悩ますものが何もない。彼らも、私たちの中のある者らがそうするように、未来について気に病むとしたら、心を悩ましたかもしれない。明日には十分な蕪があるだろうか? 日照りになったら、十分な草があるだろうか? あそこに屠殺人がいる。いつ彼はやって来るだろうか? もし彼らに私の言葉が分かるとしたら、私は羊に数限りない思い煩いと疑いと恐れを示唆できたであろう。だが、それは彼らの気質の中に入ってこない。それがあなたや私の中にも入ってこないことを願う。牧者が羊の面倒を見るのである。愛する兄弟よ。愛する姉妹よ。イエス・キリストはあなたの面倒を見てくださるだろうか? 私が聞いたことのある一部の人々は、羊や牛を飼っていながら、それらを飢えさせているという。こうしたことはめったに聞くものではない。自己利益によって人は自分の羊を大事にするからである。だが、キリストがご自分の群れのいかなる部分をもないがしろにされるなどということは一度も聞いたことがない。さあ、ならば、主か面倒を見てくださる中で全く心安らかに感じていようではないか。主が私たちを助けてそうさせてくださるように! あなたの疑いや恐れや思い煩いは失せ去るがいい。さあ、なくなれ。一切がなくなれ。そうしたものが何の役に立つのか? そうしたもので私は一度も牧場に至らされたことがない。おゝ、心労や懸念や苛立ちよ。お前は一度も私を養ったこと、強めてくれたこと、助けとなったことがない。お前は私を悩ませ、私を弱めた。だが、それ以外に何もしたことがない。なくなれ! 私たちについて云えば、兄弟たち。もしキリストが私たちの牧者だとしたら、こう云い始めようではないか。「私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」[詩23:1-4]、と。これは、幸せな宗教ではないだろうか。しかし、あらゆるキリスト者が幸せであることは非常に重要である。信仰者たちの楽しみは、彼らの聖さの間近にある。主を喜ぶことは、あなたの力である[ネヘ8:10 <新改訳聖書欄外訳>]。さあ、羊よ。犬たちのようにふるまい始めるのではなく、努めてこのような牧者とともにある羊にふさわしいあり方をするがいい。

 次に、私たちは主に所有されよう。「羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして」行くとイエス・キリストは云われる。裏を返せば、主が羊の世話をするのは、主が彼らの所有者だからである。ならば、さあ、私たちは主に所有されようではないか。兄弟姉妹。あなたは今まで、自分を全くキリストにささげたことがあるだろうか?――完全にキリストのものとしたことが。残念ながら、私たちが何度となく歌ってきたことは真実ではないのではないかと思う。私は、あなたがこう云うのを聞いてきた。

   「わがすべてをば 主にささげずば
    こはわが義務(つとめ) ならざるや、
    われの、わが神 熱心(あつ)く愛して
    残りなくみな 神に献(ささ)ぐは」。

このことは、あなたの良心に問うだけとしよう。果たしてあなたは、その近くに達しているのか。――少しでもそこに近づいているのか、と。私たちは、自分がキリストに属しているのだ、自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたのだ[Iコリ6:19-20]、と云う。それが真実であるかのような生き方をしているだろうか! 羊に口がきけたなら、こう云うであろう。「私の背中の羊毛の一片たりとも、私に属しているものはありません。私の中のいかなる部分も、私自身のものではありません。私は、私の牧者に属しており、私はそれを喜んでいます」。あなたは、それと完璧に同じしかたでキリストに属しているのである。

 次に取り上げるべき考えとして、私たちは、努めてもっと主のことを知るように努めよう。主は云われる。「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」[14節]。ならば、私たちはより良く主を知ろうではないか。あなたは、ある人を知るようになることがどういうことか分かっている。その人とともに過ごすことや、その人の言葉を耳にすることや、その人の行動を目にとめることや、その人にあなたの秘密を打ち明けることや、その人からその秘密を打ち明けてもらうことによってである。さて、そのようなしかたでキリストを知るようにするがいい。あなたの頭を主の胸にもたせかけ、あなたの自我すべてをキリストのほむべき自我との交わりに至らせるがいい。今晩、この聖餐卓の回りにいる間に、その恵みを願い求めるがいい。云うがいい。「神である《主人》よ。あなたは私を知っておられます。私があなたを知るようにさせてください。おゝ、私とあなたとの交流が、あなたがあなたの御父と、また、あなたの御父があなたと有しておられるのと、ほとんど等しいものとしてください。そのようにして、私たちを1つとしてください」。

 次の、そして最後のこととして、私たちは、もっと主を愛するようにしよう。あなたは、主が17節でどのように云っておられるかに注意しただろうか? 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」。新たにもう1つ節を作って、こう云おう。「わたしが自分のいのちを捨てるからこそ、わたしの民はわたしを愛します」、と。イエスはそうは仰せにならなかったが、私たちはそれを真実なものとしよう。おゝ、いかに私たちは私たちの愛する、ほむべき主を愛すべきであろう! あなたは自分の胸に愛がかき立てられるのを感じないだろうか? ことによると、あなたは云うかもしれない。「それをもっと感じられたらと思うのですが」。私は、あなたがそう云うことを嬉しく思う。それが、しばしば私たちの達しうる最大限の所だと思う。おゝ、主よ。私は、しかるべきほどにはあなたを愛していませんし、愛することができません。――

   「されど我れ主を 愛しあがめん――
    恵ませ給え、さらなる愛を!」

私が確信するところ、キリストが最も愛される人とは、自分自身の愛に最も不満をいだいている人にほかならない。ある人が全くキリストのために生きているとき、その人こそは、なおも先にあるものを求め続け、さらにより良くキリストに仕えたいと願う人である。さあ、今晩あなたの愛を思いのままにふるまわせるがいい。じっと座って、主の愛に思いをひそめ、――主の愛を楽しむがいい。自分に向かってこう云うがいい。――

   「嬉しきかな、主は われを愛せり!
       このわれをさえ!」

それから、こう云い足すがいい。「嬉しいことに、私は主を愛していると云うことができます。主は一切のことをご存知であり、私が主を愛していることをご存知です」。この2つの海をただ満たすがいい。「海?」 私はそう云っただろうか。そう云うことはできない。主に対するあなたの愛という、小さな小川を、あなたに対する主の愛という大海洋へと流れ込ませるがいい。そのようにして、両者を混ぜ合わせ、結ぶがいい。私は、テムズ河がその堂々たる方路を海へ向かって流れているのを見たことがある。そして、しばらくの間、そこここに小さな谷川が垣間見えているが、牧草地がその間に広がっている。この大河と何本もの小川は平行して流れる。だが、とうとうそれらは1つに溶け合う。そのように、私のあわれな魂の愛を今晩、イエスの大いなる愛と同じ方向に流れさせ、ついにそれが主の愛に溶け合い、生きているのが、「私ではなく」、むしろ、「私のうちにおられるキリスト」[ガラ2:20参照]となるまでとしよう。そして、私の魂を永遠に満足させよう。

 さて、これで話は終わったが、主イエスは事を終えていないと思う。私たちは今から聖餐式を持とうとしており、あなたがたの中の多くの人々は家路に着くはずである。そして、それは正しいことでもある。なぜなら、あなたが主の食卓にやって来るとしたら、偽善者とならざるをえないからである。あなたは、自分がイエスを愛しておらず、イエスを信頼していないことを知っている。だが、あなたが家路に着くとき、私はこの良い牧者があなたの後を追ってくださるようにと祈るものである。私は祈る。今晩あなたが自宅に着く前に、主があなたをその強く、だが優しい御手でしっかりつかみ、あなたをもご自分の囲いの中に導き入れるまで、決してあなたを手放さずにいてくださることを。たといこの場所でなくとも、他のどこかにおいて。というのも、私の確信するところ、この建物の中に主は、まだご自分の囲いに入っていない他の羊たちをお持ちであり、その羊たちをも主は導き入れて、1つの囲い、ひとりの牧者としなくてはならないからである。願わくは主が、あなたを今晩導き入れ給わんことを。そのあわれみのゆえに。アーメン。

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「みいつくしみぞ 決して尽きざる」[了]

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