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死の陰の門

NO. 2917

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1905年1月5日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年9月24日、主日夜


「あなたは死の陰の門を見たことがあるのか」。――ヨブ38:17


 先週の安息日、私たちの霊は遠い先まで飛びかけて、最後の審判の日まで至った。私たちは驚異と畏怖に打たれたまま、かの大きな白い御座[黙20:11]と、かの、地の収穫を集めた刈り取り手が戴く金冠とを凝視した。さらに震えながら見ていると、もうひとりの御使いが鋭利な鎌を取り上げ、この世の葡萄を刈り取っては、エホバの激しい怒りの酒ぶねに投げ込んだ。それは、そこで踏まれて、人々の血が奔流となってあふれ出るまでとなった。今回の私たちは、人間の歴史のそこまで見て回ることにはならないであろう。もう少し身近な停止所で立ち止まるはずである。復活にすら旅すまい。ただ、死の陰の門にのみ行くはずである。

 ここでは、こう問われている。「あなたは死の陰の門を見たことがあるのか?」 そして、暗示された答えは、――「否」である。この章で神がヨブに問いを発しておられるのは、彼にその無能力と無知を示すためであった。神がこの族長に発されるあらゆる問いに対して予期されているのは、否定の答である。「あなたは海の源まで行ったことがあるのか」[16節]。「深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか」[16節]。「死の門があなたに現われたことがあるのか」[17節]。「あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか」[18節]。ヨブは、こうした事がらのいずれも行なったことがなかった。

 よろしい。ならば、ヨブよ。「あなたは死の陰の門を見たことがあるのか」。この族長が返せただろう――あるいは、私たちが返せる――唯一の答えは、「否」である。私たちは死の門戸までは行くことができる。だが、その内側をのぞき込むことはできない。啓示がない限り、その国を越えたところにある荒涼たる国について、私たちは何の情報も有していない。その国は、私たちに関する限り、永久の暗闇に包み隠されている。私たちは、自分がいつ、いかに死ぬかさえ分からない。この恐ろしい神秘についてほとんど知っていない。いつの日か、水がめが井戸の側で砕かれる[伝12:6]という使信が、私たちのもとにやって来るであろう。だが、それがいつ来るか私たちはほとんど夢にも知らない。それは、思っているよりもずっと間近かもしれない。それとは逆に、私たちが恐れているよりもずっと先のことかもしれない。私たちはみな、この人生においては、あのすさまじい仏蘭西革命の時期に幽閉された囚人たちのようなものである。彼らは脱出できないように閉じ込められた。そして毎朝、一枚の紙片を持った男がやって来ると、その日の犠牲者の名を読み上げ、名を呼ばれた者らは、外で待っている荷車までせき立てられた。その車が、気を滅入らせるようなその荷物を死へと運んでいくのだった。そのように、死の御使いは、毎朝この世にやって来ては、これこれの者、これこれの者と名前を読み上げる。私たちは、呼ばれた仲間たちがいなくなるのを寂しく思うが、この単調な繰り返しに慣れきってしまうと、悲しいかな! その人がいなくなった寂しさもあまりに苦にならなくなってしまう。しかし、私たちは――私たちひとりひとりは――その公文書が自分のもとにやって来るのを待っているのである。だのに、牧場の牛か、檻の中の羊と同じ程度にしか、自分がいつ死ぬか分かっていない。

 また、私たちは、死ぬとはいかなることかも知らない。ある意味で、死という行為がいかなるものかは知っている。だが、ある魂が宿をなくし、ぼろぼろの住居のようになった肉体が周囲で崩れ落ち、自分がそこから放り出されるとき、いかに異様な気分になるものか、――定命のものを不滅のものに縛りつけていた絆が断ち切られるとはいかなるものか、――物質という監獄に入っていた霊的なものがどうなるか、――それを私たちは知らない。また、そのことについて私たちに告げた者もいない。私たちは、他の人々が亡くなるのを見たことはある。死に行く人の枕頭に立ったことはある。息を引き取るのを目の当たりにしたことはある。それでも死ぬとはどういうことかは謎のままである。私たちに分かっているのはただ、こうした死の陰の門が私たちの前で固く閉ざされており、その向こうにある世界とは、いかなる交渉も持つことができないということだけである。唯一の例外は、キリストにあるすべての者たちが、キリストというお方において有する永遠の交わりだけである。

   「地にある聖徒(たみ)も 死す聖徒(もの)みなも
    一つの交わり 作るなり」。

実際、私たちは、この別の世からあまりにも閉め出されているため、神が霊たちの住まいに投げかけておられる垂れ幕の背後をのぞき込もうとは決して思わない。ありとあらゆる時代には数多くの交霊師がおり、こうした神秘的な領域に闖入しょうと願ってきたし、それができるふりをしてきた。そうした者らの手管は地獄のように忌み嫌うべきである。彼らに近づく者に災いあれ! 彼らは、キリスト者に関する限り、完全に嫌悪されるべきである。というのも、主が垂れ幕を下ろし、戸を閉じておられるところに、あなたや私が干渉すべきではないからである。そうした死者へのいけにえ[詩106:28]を食べることによって悪霊と交わる者[Iコリ10:20]となり、あげくの果てに投げ捨てられて、彼らと同じ運命にあずかるといけない。

 「あなたは死の陰の門を見たことがあるのか?」 私たちは、ヨブが返したに違いない答えを返すことで満足する。私たちは、そうした門を見たことがないし、見たいとも願わない、と。その鉄格子の間をのぞき込みたくはない。主が啓示しておられることを私たちは主のみことばから学ぶことで満足するが、それ以上は何も知りたくない。

 さて、愛する方々。そうした事情であれば、私たちは、ただ瞑想においてのみ、正当に行ける所まで、この門戸の方角へ下って行くべきである。また、私たちに現実に知りうることのみ語るべきである。自分の知識の範囲外のことについて夢想したり、当て推量したりすべきではない。一部の詩人たちは、冥府への下降について、また地獄の各地区について歌ってきた。ダンテの壮大な構想について順々に取り上げたり、ミルトンが未知の諸世界について何と歌ったかを告げたりする必要はないであろう。私たちが行なおうとしているのは、それほど野心的な務めではない。何の詩作を行なうつもりもない。ただ、単純に事実を述べるだけである。

 I. まず第一に、あなたに願いたいのは、瞑想において許される限り、この死の門の間近まで下って行くことである。ほんのしばしの間、《死について一般的に眺めてみよう》

 幻の中で、この恐るべき正門を見上げるがいい。その前に立つと、あなたには見えないだろうか? この門戸は常に開いている! 昼であれ夜であれ、決してこの死の門戸が閉ざされることはない。いついかなる時も、そこには通行があるからである。人々は、あのパロの王宮においてと同じく[出12:29]、真夜中に死ぬ。また、「私の頭が、頭が」、といったあの子どもと同じく、日中に死ぬ。その子の父親が、「この子を母親のところに連れて行ってくれ」、と云った後で、その子は母親の膝の上で死んだ[II列4:19-20]。人々は春に死に、花々が地から甘やかに目覚めては、そうした人々の墓のしるしとなる塚を飾る。また、人々は夏に死んでは、咲き誇る花々も、大気に満ちた甘やかな香も、全く知らないままとなる。人々は秋の葉っぱのように落ちていく。冬は、鎮魂歌を歌いながら、人々の多くを運び去って行く。思うに、いかなる時であれ、死の陰の門に耳をぴったりくっつけるとしたら、足音が聞こえないときは決して一瞬もない。アベルが先導して以来、死者は常にやって来つつある。――1つのひっきりなしの流れであり、昼夜を問わず決してやむことがない。

 やはり思い出したいことがある。おびただしい数の人々が、すでにこの鉄の門戸を通過していった! そこに入った大群衆を数えることはできない。計算機は壊れ、その莫大な総計の前に理性の力はひるむであろう。私たちは、その人々を非常な大人数として語る。何十億という人口を有するこの世界も、そうした死者の集会とくらべれば、生者たちの微々たる集会にすぎない。私は云うが、あの最初の日から今に至るまで、いかなる大群衆が通り過ぎて行ったことであろう。時として、そこには人々が殺到することがあった。死のお先棒をかつぐ、世の国王や王侯たちが、血生臭い戦争という手段によって、自らの犠牲者たちを怒涛のように通り抜けさせた時である。別の折には、疫病か飢饉に追い立てられた人々が、群れをなしてこの門戸を大急ぎで通過することもあった。そして常に、老衰や疾病により、人々はこうした門戸にやって来ては、いつまでも、いつまでも、いつまでも通り去りつつある。こうした通行者たちの流れは、滔々として途切れることがない。あなたや私がここに座っている間も、人々はこの門柱の間を踏み歩きつつある。ことによると、私たちの親しい誰かがこの正門に近づいているかもしれない。私たち自身、確実にその途上にあるのであり、私たちの同胞たる人々は、ぱっくり開いて閉じることのないこの顎の中へと、常住不断に呑み込まれつつある。

 もしもあなたがここにしばし止まって眺め見るとしたら、また、その影を貫いて、やって来る人々が誰かに注目するだけの眼力を有しているとしたら、あなたは見てとるであろう。そこには、自分の杖に寄りかかっている人がいることを。しかし、気づかなかっただろうか? その人の隣を、まだ言葉を喋ることもできない小さな子どもたちが歩いていることに。見ていると、突如として、強壮な男性が、人生から真っ直ぐに駆けてくる。自分のお迎えを長年待ち受けていた、寝たきりの人も見える。自分の墓へ下って来るその人は、ほとんど骨と皮ばかりになっている。向こう側の人が見えるだろうか? 何の変哲もない人で、どこにでもいるような様子をしている。その人は、かつては一国の王であった。今となっては王者らしい所はほとんどない。別の人が見えるだろうか? その人は、かつては乞食であった。今のその人は、その君主よりも乞食めいたところは全くない。両者ともに、何の蓄えも携えてくることはなかったのである。二人は、一文無しとしてここに来た。――この人々は全員そうである。そして、空し手で通り抜ける。肩書も、威厳も、身分も、地位も、名声も、すべては置き去りにされてきた。彼らは、死という自由、平等、博愛の中にいる大群衆として来た。現世では決して実現することのない、普遍の同胞関係である。彼らが行くのが見えるだろうか? このようにあまねく水平にされてしまうことに照らせば、この世でひとかどの者となることになど、ほとんど重きを置かなくて良いであろう。私はこうみなすようになっている。この世で追い求める価値があるのは、墓の向こうまで持ちこたえるものしかない、と。

 この門戸を通って、今晩、多くの人々が入って行くのをあなたは見てきた。だが、ぜひ覚えておいてもらえるだろうか。奇蹟によって引き戻されたごく少数の人々を除き、いまだかつて、いかなる者も戻って来たことはないということを。人々はそちらの方向には進んで行くが、後戻りすることは決してない。行ってしまえば、永遠に行ったきりである。いったんからだから息が去ってしまうと、魂がかつてのその住居を再び訪れることはないと思う。あるいは、日の下で行なわれるいかなることも分からなくなると思う。しかし、その真偽はいかにあれ、このことだけは確実である。魂が、かつての馴染み深い形で戻ってくることはない。魂は、去ってしまう。戻ってはこれない。もう一度、私たちの間に帰ってきてほしいと、いくら泣いても願っても無駄である。滝のような涙も魂を連れ戻すことはできない。切り倒された木について云えば、水の臭いでもすれば、それは芽吹くであろう。だが、涙する目からいかに貴重な水を流し出しても、こうした死者たちを生き返らせることはできない。

 さて、この墓場の門戸については、さらにこう云えるであろう。この人々はこれほどの大群衆ではあっても、自発的にこうした旅客となった者たちは、ごく僅かしかいない。人は死ぬのをひどく怖がる。また、それが奴隷のような恐れにならない限り、そうすることは正しい。良くわきまえておくがいい。――神は、私たちの内側に、生きようとする一切の願いを植えつけておられ、そこには正しい目当てと目的があるのである。ごく少数の人々は、性急に、あるいは、自ら同意して、その道を通る。あゝ、自分で自分のいのちを取り去る、やるせない魂たち! 自分の《造り主》に対するそのような侮辱をあえてもくろもうとするとき、人はいかなる者となり果てているのだろうか? あなたに息をお与えになったお方には、それを取り戻すことが許されるが、あなたが自分からそれを返上することは許されない。自らの手で死ぬことは、苦しみから免れることではなく、自分から永遠の苦しみに飛び込むことである。というのも、云うまでもなく、誰でも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはない[Iヨハ3:15]からである。それゆえ、自分自身を殺す者は、自分で自分が何をしているか分かっている場合、永遠のいのちが自らのうちにないという証拠を示しているのである。私たちはみな、この門戸を通らなくてはならないが、雄々しく時が来るのを待たなくてはならない。そして、武器を取っては、私たちを待ち受けているおびただしい数の苦難と戦わなくてはならない。それから、とうとう、もし私たちがキリストのものであるとしたら、――また、私たちはみなキリストのものとなることができ、キリストのものであると知ることができるが、――私たちの指揮官が自分のもとに来るようお命じになるとき、私たちは頭を垂れて、一瞬の恐れもなしに、この鉄の門戸を通り抜けることであろう。私たちの主は、私たちを出迎えにおいでになり、私たちの魂は急いでその翼を広げて、恐れなくこの影なす正門を飛び抜けるであろう。そして、そこを通るとき全く恐怖を感じないであろう。

 ここまで考えれば、死ぬということ一般については十分だと思う。

 II. さて、第二のこととして、この死の陰の門まで下りて行き、しばしの間、《聖徒たちの死を眺めてみよう》。この件については、淡々と語るだけとしたい。

 最初に述べたいのは、聖徒たちの死は、必ずしも見ていて快くはないということである。この世に生を受けた中でも最も偉大な人物たちの何人かは、嵐の中で死んでいった。マルチン・ルターの死の床は心休まらないものであった。ある人が、サタンの領土に対してあれほど赫々たる損害を加えた場合、自分の敵ともう一勝負しないで安息に入ることを許されないとしても不思議はない。ジョン・ノックスもまた、死に臨んだ際にはすさまじい戦いがあった。彼は、最後にはルターと同じように勝利を得たものの、死が困難であることを知った。また、自分の《主人》に勇敢に仕えてきた多くの人々も、喜びの叫びを上げ、賛美を歌いながら旅立つ代わりに、自分たちの、十字架につけられた《救い主》をありったけの力でつかまなければ、希望を保っていられなかった。こうしたことにも正しいものがあり、それは私たち全員にとって1つの教訓となる。「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」[Iペテ4:18]。そして、もし真の信仰者として知られていた人、他の人々に対して自分が真に救われていることを示してきた人にとって、死ぬことが辛い働きだとしたら、そのような確信を神に対していだいていない人々は、死の折に何が期待できるだろうか?

 それでも、愛する方々。今晩、死の門のかたわらに立つ私は、こう告白しなくてはならない。私に関する限り、キリストを信じた後でそこを通り過ぎた人々を見てきたことからすると、聖徒たちのほとんどは喜んでそこを通り過ぎてきた。彼らは、朗らかな声音をもって、歌とともに、あるいは、ハレルヤとともに、この門戸に入った。私は、死の床で歌うように頼まれた何度かのことを忘れることができない。私は、周囲の人々への胸が詰まるような同情の念から、どうしても歌えなかった。しかし、その死に行く男性は歌ったのである。その死に行く女性はその賛美歌に甘やかに唱和したのである。そして、それは消え行く体力にとってあまりに負担ではないかと感じられたとき、今にも世を去ろうとしていたその聖徒から、もう一節歌うように頼まれたのである。そうした人々は、自分が――

   「エルサレムの 大門(かど)過ぐおりに」

私たちが歌って彼らを故郷に送ることを欲したのである。もしも私が地上で最も大きな喜びをどこで見たか告げなくてはならないとしたら、確かにそれは数々の婚宴においてではなかったと云える。そうした喜びには、相当に薄っぺらものがあるからである。そうした祝宴に参列する多くの人々の中にある感情は、しばしば非現実的なものである。しかし、死に行く人の喜び――息を引き取ろうとしている聖徒の喜び――には非常に深く、非常に崇高で、非常に単純なものがあるため、それと匹敵するものがどこにあるか私には分からないほどである。国王たちの王宮や、満足な家々の中を探すことが許されるとしても関係ない。地上で最高の喜びは、結局において、世を去ろうとしている聖徒たちの喜びである。それで、あなたは死の陰の門戸のそばに立ち、彼らが通り過ぎるとき歌っているのを聞くことができるのである。彼らの中のある人々は、異常なことを云うのが聞こえる。ハリバートンはこう叫んだ。「お前を攻めるぞ! 死よ。お前を攻めるぞ! 死よ」。あたかも彼がこの薄気味悪い敵と戦って、恐れなく征服したかのようである。他の人々は、その最後の瞬間にこう叫んだ。「勝利、勝利、勝利。《小羊》の血によって!」 そこに悲しみはあった。だがそれよりはるかに喜びの方が多かった。

 この死の陰の門に関しては、こう云わせてほしい。この墓場の門戸の間近には、聖徒たちがそこに来たときのための恵みが蓄積されている。愛する方々。あなたは生きているうちには、死に行く恵みを持てると期待してはならない。今のこの時に、死ぬための恵みを持とうと期待してはならない。ことによると、神はあなたがもう五十年生きることを意図しておられるかもしれないのである。そのような恵みであなたは何をしようというのだろうか? それをどこに置こうというのだろうか? あなたは、死に臨むときにはそれを得るであろう。ただ今日はキリストに信頼し、その命令を行なうがいい。死の時が来たときは、死のための恵みが授けられるであろう。

 これに加えて、私の信ずるところ、神は単にご自分の民に死ぬための恵みをお与えになるだけではない。今際の時に、聖徒たちの中のある人々は、死の門戸に入る前から、来世の幻を得る。私の確信するところ、一部の人々が死につつあるとき私がその顔に見てきた輝きと栄光は、地上のものではなかった。その人々の顔立ちを照らした異様な光、また、その人々が眠りにつく際に浮かべた、言葉にできないほどの喜びを示す驚くべき微笑みは、時の間のものではなかった。それは、その人たちの現世における状況によって作り出されたものではなかった。というのも、その人々を取り巻いていた環境は全くその反対だったからである。彼方の世界からの光輝がその人々の上にあった。また、何と不思議なことをその人々は語ったことであろう! そうした言葉の中には理解しがたいものがあった。息を引き取ろうとしている聖徒たちは地上の言葉よりは天国の言葉を語ってきたからである。あたかも、語ることを許されていない[IIコリ12:4]事がらを知ったため、理解できるようには語れなかったかのようにである。熾天使の立琴からはぐれ出た音色を彼らはとらえ、この下界でそれを歌おうとしたが、そうできなかった。だが、私たちはこう悟るだけのことは聞いた。神は部分的に窓の簾を引き上げてくださり、彼らが格子越しに麗しい《王》を見る[イザ33:17]ことをお許しになったのだ、と。また、疑いもなく御使いたちも、こうした死の門戸へと来ているに違いない。なぜ来ないことがあろうか? 彼らはゲツセマネにおられたイエスのもとにやって来た。主の民を守り、彼らの足が石に打ち当たることがないように[詩91:11-12]命じられている。私は御使いたちが救いの相続人たちに仕えていることを疑っていない。というのも、ラザロが死んだとき、御使いたちが彼をアブラハムのふところに連れて行ったと書かれているからである[ルカ16:22]。私の信ずるところ、御使いたちの一団はこの死の門戸のところで、義人がその最後の窮地を通り抜けるのを助けようと待ち受けているはずである。

 とりわけ、あなたが私とともにこの死の陰の門のもとに行くときに注意してほしいのは、その入口の真正面には血のしるしがあるということである。そこで見下ろせば、他のいかなる者のものとも違う足跡がある。それは、かつて刺し貫かれたことのある御足の足跡だからである。あゝ! 私にはそのしるしが何か分かる。私の主が、かつてこの道を行かれたのである。私自身は、まだ死の陰の門へと下って行ったことはない。だが、この方は、私の《救い主》はここに来たことがあり、実際、この門を通り抜けたことがあるが、それでも今、生きておられる。こういうわけで、信仰者の喜びは、自分が通り抜けるときも、キリストが生きておられるので、自分も生きる[ヨハ14:19]ということ、また、キリストがよみがえられたので、自分もよみがえるということである。私は、キリストがよみがえられたことを確信していないとしたら、復活を信じられないであろう。しかし、歴史の中で、考えうる限りの一切の疑いを越えて立証された事実が何か1つあるとしたら、それは、ユダヤ人たちによって墓に収められ、その墓に封印をされたお方が、三日目によみがえったという事実である。この方の民もみなよみがえることであろう。この方がすでに道を先導されたからである。おゝ、死の陰の門戸よ。私たちはもはやお前に怯えはしない。キリストがお前の正門を通り抜けられたのだから。

 また、兄弟たち。見るがいい。信仰者のためには、この死の陰の門戸の回り中で、輝かしいあかりが燃えていることを。それが見えないだろうか? それは、約束というあかりである。「あなたが川の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない」*[イザ43:2]。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか」[ホセ13:14]。知っての通り、巡礼たちの主は、何度も何度も、ありとあらゆる形と方法によって、こう確証しておられる。主はご自分の民を離れず、また、捨てない[ヘブ13:5]、と。むしろ、彼らを最後まで助け、彼らが死の陰の谷を歩くときも、主がともにおられるため、災いを恐れないようにされる、と[詩23:4]。

 ならば、こうした墓場の門戸は、信仰者たちに関する限り、陰鬱な場所では決してない。私たちはしばしばそこに行くべきである。自分の最期の時と親密になり、それを見越して日々死ぬこと、それは大いに賢いことである。死と友人になるがいい。おゝ、墓場に行くがいい。そこで泣くためではなく、自分がそこに行くとき泣かなくともすむためにである。しばしば裸になって自分の死の予行演習をするがいい。そして、いざ時が来たときには、死ぬことが自分にとって決して見知らぬ務めではないようにしておくがいい。そうできるように、五十年であれ、休みなく日ごとに死ぬようにするがいい。

 III. さて最後に、また、非常な悲しみとともに、二言三言、《罪人たちの死を眺めてみよう》。この気味の悪い門戸は、神の民だけでなく、不敬虔な者も下って行かなくてはならない。そうしたあらゆる者に、この運命は定められている。厳粛に、優しく、心で涙を流しながら、そうした人々についての真実を語りたいと思う。悲しい言葉を口にすることになるがそうしよう。

 不敬虔な人々の死は、必ずしも恐ろしいものではない。死んで失われることになる多くの者について、ダビデは詩篇でこう語っている。「彼らは羊のようによみに定められ……る」[詩49:14]。彼らは決して神の家をかえりみることも、安息日を重んじることもしない。祈りについても、信仰についても全く知らない。その良心は麻痺している[Iテモ4:2]。神に向かって虚勢を張り、神は彼らを見放される。それで、彼らは、死ぬときも、ごく冷静にそれを受けとめる。彼らは、ほとんど全く恐れなしに「浮世の煩わしさを払い落とす」*1。それで、回りに立っている人々は云う。「おゝ、何という大往生だろう。――何と幸いな死に方だろう」。何たることか! 何たることか! 何たることか! 聖徒たちはしばしば苦しみながら死ぬのに、罪人たちはしばしば恐ろしいほど安らかに死ぬ。私は「恐ろしいほど」と云う。というのも、あなたは一度も気づいたことがないだろうか? 嵐の前の自然界が静まりかえり、すさまじいばかりに沈黙することに。風はひとそよぎもせず、木の葉一枚も震えない。雲そのものさえ中天で静止し、地も天空もいやまして静穏になり、いやまして静謐になり、私たちの呼吸そのものすら、この恐ろしいほどよどんだ大気の中で息苦しくなる。そしてついに、轟きに次ぐ轟きとともに、天の物凄い砲兵隊が天と地を揺るがし始める。それに似ているのが、多くの不敬虔な人々の死である。――その安らかさは当てにならない。おゝ、その人が地獄で目を上げるとき、それはいかなる目覚めとなることであろう。あらゆるあわれみの希望からはるか遠くにあるのである! そのような死に方をしないよう神に祈るがいい。私は麻痺したまま死にたくはない。正気を保っている方を好む。増上慢は魂を麻痺させる薬物であり、それによって人々はしばしば平安のうちに死んで行く。幾多の人々がそうである。しかし、それよりはるかにまさっているのは、決してそのような悲惨な薬物を服用せず、真の未来をのぞき込むことである。たとい最後の瞬間、自分の足が滑り落ちつつある間でさえ、引き返して永遠のいのちをつかみとるだけの恵みを見いだし、下に広がる深淵に落ち込まないことである。その目が盲目となっているため、多くの人々は全く安らかに死んで、失われてしまう。

 悔悟しない人々については、こう云えよう。そうした人々が死に臨むとき、その多くは安らかな気持ちになれない。非常におびただしい数のそうした人々は、死の戸口を前に尻込みする。なぜなら、その静かな一室では、記憶が働き始めるからである。そのときあのよこしまな行為が、そのときあの真夜中の情景が、そのときあのないがしろにされた安息日が、そのときあの読まなかった聖書が、そのときあの打ち捨てられた恵みの御座が、一斉に喋り立て始める。そして、壁にかかった時計がチクタク云うにつれて、精神は、子ども時代、青年時代、成人時代、結婚生活を思い返して辿り始め、罪を思い起こしては眼前に持ち出す。あらゆる罪人が、無駄に費やされた人生を思い返しても、全く恐怖や紅海を感じないでいられるほどの愚者というわけではない。普通は、恐れも騒ぎ立てる。精神がこう尋ね始めるからである。そうした考えが、死に行く人にとって快いか否かなど関係ない。「私はどこに行くのだろうか?」 そして、人の内側には、自分が単なる動物であると信じさせようとしないものがある。人よ。あなたの妻を眺めるがいい。――生きている人間はみな、ただの獣でしかないと信じている人たち。あなたがこの長年のあいだ愛してきた、あなたの妻の愛しい肉体は何だろうか? よろしい。主として、これこれの水分と、これこれの気体であり、それが取り去られると、少々の土の灰が残り滓となる。――それがすべてである。そして、それがあなたの愛してきたものなのである。――何ポンドかの水と、気体と、土! 否。方々。そうではない。あなたは、ひとりの女性を愛してきた。死んだ土だの水だの気体だのよりも無限にすぐれたものを愛してきた。あなたはそれを知っている。あなたは、あなたの母上が、ただの土や水や気体にすぎないとは信じていない。また、あなたの子どもや、あなた自身がそうだとも信じていない。あなたは、そのような物質主義を受け入れて、納得することができない。このからだの中には、この水や、気体や、土よりもすぐれたものがある。こうしたものが分解してしまった後も、意識をもって存在するものがある。そして、私たち全員の内側には、望むと望まざるとに関わらず、そう信じさせるものがある。こういうわけで、死の正門のかたわらで、精神の中にはこういう問いがやって来るのである。「私はどこに行くことになるのだろうか?」 そして、もし心がその問いにこう答えられないとしたらどうであろう? 「私は、イエスがおられる所に行くのだ。私の《救い主》のもとに行くのだ。これまで私が信頼してきた、私の罪から私を洗ってくださったお方のもとへ」。――その場合、恐れがぬっとたち上り、そうした人々はこう云い始める。「おゝ、どうして前になど進めようか? 聖書によれば、私は審きに向かいつつあり、私は審きにはふさわしくないのだ。――私は復活に向かいつつあり、私のからだのような罪深いものが死人の中から復活したどうなるだろうか? 私は断罪に向かいつつあり、すでにこの良心の中では、すでにさばかれているのだ。いかにして行けようか? いかにして止まれようか? あゝ、地上よ。私はお前を離れなくてはならない。おゝ、天よ。私はお前に入ることができないのか? ならば、私はどこへ飛んで行くのだろうか?」 ごく僅かな不敬虔な者たちしか、世を去るという恐ろしい見込みを前にしたとき、こうした考えを振り払うことはできない。

 さらに云わせてほしい。その死の陰の門戸の近くは、主を求めることが非常に困難な場所である。人が記憶や恐れに悩まされ、そのからだが苦痛で苛まれているとき、その人はイエスの御声に耳を傾けるには非常に適さない状態にある。私は、一瞬たりとも、死に行く人がイエスを仰ぎ見るのを思いとどまらせたいとは思わない。その人が救いを願い求める場合、神のキリストを信じさえしたら、最後の最後でさえ永遠のいのちを得るであろう。しかし、これまで私が見てきたことからすると、死の瞬間には、ほとんどの人は、全く考えるのに適していない。刺すような肉体的苦悶のほか何も感じることができない。そして、信仰など全く持つことができない。いかなる人も、神のあわれみがどれほど先まで達するか知ってはいない。だが、たといそのあわれみが信仰に与えられるとしても、それがいかにして一部の死に行く人々にまで差し伸ばされうるか私には分からない。錯乱状態、取り乱した精神、痛む頭、――おゝ、こうしたものによって、死ぬ間際の人は手一杯となり、そのときには神との平和を求めることなどできなくなる。死んで行くこと、自分の赤ん坊たちや、人生の伴侶と涙に暮れた別れをすることだけで大仕事である。死に際の片手間に、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と叫ぶことはできない。あなたは死の陰の門を見たことがあるだろうか? あるとしたら、そこで悔い改めることを選ぼうとは思わないであろう。むしろ、現在のときに主を求めることを選ぶであろう。――まだあなたの精神が澄んでいて、力強くあるうちに、また、主が恵み深くあろうと待っている今このときに。

 私は、もうほんの数分しかあなたがたを引き留めてはおけないが、こう云わせてほしい。死の陰の門は、人が吟味され、裸にされる場所である。そこにやって来たその人は、キリスト者であると告白していた。だが、もしキリスト者でないとしたら、いかにその、自分を義とするための襤褸切れがはぎ取られることか! あるいは、その人は云うであろう。「私はキリスト教信仰など告白したことがありません。そこまで落ちてはいません。私は正直な人間だったのです」。だが最後には、その人が自分の神にさえ真実でなかったことが明らかになり、その人が思い描いていた正直さは、衣のようにその人からするりと落ちるのである。そうしたければ、空中に楼閣を建てるがいい。だが、死は素晴らしいしかたで、あなたの魔法をことごとく蹴散らしてしまう。かの影なす門においては、現実のほか何もあなたの、あるいは、神の役には立たない。もしあなたが有している宗教が、また、あなたの有している希望が、自己吟味や、心探られる説教という試金石にも耐えないものだとしたら、確かにそれは死の時という吟味にも耐えないであろう。それは、何というはぎ取りの時となることであろう! さあ、王侯閣下。あなたは自分の宝冠に最後の一瞥をくれなくてはならない。それは二度とあなたの頭に載ることはないであろう。さあ、その窓を通して、あなたの広大な領地を眺めるがいい。あなたは、その一尺も自分のものとは呼べなくなるであろう。あなたが横たわる六尺の土地さえ、あなたの後継者たちのお情けが、あなたを安らかにまどろませておくのを許す限りにおいてのみ、あなたのものとなるであろう。あなたの財布に別れを告げるがいい。市場や取引所に暇を乞うがいい! あなたは大いに働いて自分の富を得てきたが、今や一銭残らずそれを置いて行かざるをえない。それを少しも携えて行くことはできない。

 それよりさらに悪いことに、死の陰の門戸は別れの場所である。不敬虔な人は、時としてキリスト者の妻に暇を乞わなくてはならない。彼女の頬に口づけするがいい。人よ。あなたは二度と彼女に会うことがないであろう。あなたには、キリスト者である子どもがある。最近教会に加わったばかりの愛しい子である。だが、あなたは全くキリストに従ってはいない。あなたが死に望むとき、人々はその子をあなたの枕元に連れて来るであろう。そしてあなたはこう云わなくてはならないであろう。「さようなら、メアリー。私は二度とお前に会えないのだ。さもなければ、単に、あの金持ちが、遠く離れたアブラハムのふところにいるラザロを見上げたようにしか会えず、その間には恐ろしい深淵があるのだ」、と。あなたがたの中のある人々は、回心していない兄であり弟である。自分のキリスト者である姉妹たちから引き離されたらどう思うだろうか? あなたがたの中のある人々は娘たちである。――天国にいることになる父母から切り離されたらどう思うだろうか? おゝ、あなたがた全員は云うであろう。「私たちは天国で、決して切り離されることのない家族でありたいと思います」。若い娘たち。若い男たち。キリストがご自分の民を故郷へ召されるとき、あなたの名前が省かれるとしたらどうなるだろうか? 確かに、死の陰の門戸は永遠の別れの場となるに違いない。願わくはあなたが、決してキリストにある親族の誰ともそのように別れることがないように。むしろ御使いのかしらの喇叭が鳴り響くときには、あなたがたが天に舞い上がり、彼らとともによみがえるように。

 このように私は、自分にできる限り、この地上の人生の最後について語ってきた。おゝ、魂たち。あなたの神に会う備えをするがいい[アモ4:12]。というのも、もう一度太陽が上る前に、あなたは神に出会わなくてはならないかもしれないからである。私は、私の仕える生ける神にかけてあなたに願う。悔い改めと信仰を延期してはならない。むしろ、今、――あわれみの白旗が前面にあり、神があなたに恵み深くあろうとしている今、――キリストの十字架の前に額ずき、イエスを信頼して救われるがいい。主があなたを祝福し給わんことを。キリストのゆえに。アーメン。

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(訳注)

*1 シェイクスピア、『ハムレット』、第三幕第一場。[本文に戻る]

死の陰の門[了]

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