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ベツレヘムへの訪問

NO. 2915

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ここに添付する説教は、私がキリスト降誕日の前日にあたる日曜の晩に説教したものと実質的には同じである。私の会員の何人かは、速記係がいなかったことを残念に思う旨を表明した。私としては、この説教に、その取り合わせ以外に何か目新しいものがあるとは思わない。真理そのものについて云えば、これは単純な、昔ながらの事実であり、あらゆる世代の聖徒たちが喜びとしてきたことである。もちろん、私がそのとき用いた正確な言葉を再現することは私の手に余ることであるが、その差異は、単に筆による流露か、舌先による発露であるかの違いでしかない。私は今これを出版することとし、神に祈るものである。願わくは神がその恵み深い祝福によって、この説教をご自分のものと認めてくださるように、と。――C・H・S

(この説教原稿に付された上記のようなスポルジョン氏の肉筆による注記にもかかわらず、出版者たちは、これが印刷されたといういかなる痕跡も見いだすことができない。彼らは、これが説教されてからちょうど五十年後に、これを発行できることを非常に喜ぶものである)。

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1904年12月22日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1854年12月24日、主日夜の説教


「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」。――ルカ2:15


 私は今晩、いま現在のベツレヘムへではなく、かつてあったようなベツレヘムへと、あなたの黙想を導きたいと思う。

 このユダヤの古い町のいま現在の跡地を訪れたとしたら、あなたは心の徳を建て上げるに足るものを、ほとんど見いだせないであろう。エルサレムの南に六哩ほど行った、とある丘の下り傾斜の上に、小さな不揃いの村がある。いついかなる時代であれ、その大きさにおいても、その住人たちの富からしても、一度も大規模なものとなったことのない村である。注目に値する唯一の建物は、1つの修道院である。それに近づく間に、もしあなたが中庭や、馬小屋や、飼い葉桶を思い描いているとしたら、到着したときにはいたく失望するであろう。そこで目に入るのは、種々のけばけばしい飾り付けでしかない。――キリスト者がその場所に対していだいている神聖な関心を保たせるよりも、かき消すのに適していると云って良いような飾り付けである。あなたは、礼拝堂の大理石の床を歩き、あれこれの絵画できらびやかに飾られ、風変わりな人形や、他の小間物が散りばめられた壁を凝視するであろう。カトリックの礼拝所に通常見いだされるような装飾物である。小さな岩屋の中には、迷信によって、これぞ私たちの主の生誕の地とされた空間があるであろう。そこには、銀と宝石を組み合わせて、黄金のともしびで囲まれた一個の星が、へたな模倣としてのみ、福音書記者たちの簡素さを思い起こさせるであろう。まことに、ベツレヘムはユダヤの氏族の中で、最小ではないにせよ、常に小さなものであったし[ミカ5:2]、その歴史的な関わりにおいてのみ有名であった。

 それで、愛する方々。「さあ」、かつてあったような「ベツレヘムに行こう」ではないか。――できるものなら、「キリストがお生まれ」になり、「ひとりの男の子が与えられ」た、この驚嘆すべき物語を、私たち自身の時代へと引き下ろそう。その出来事が、まさに今起こっているものと想像してみよう。私はその光景をあなたのために生き生きした彩りで描き出し、あなたがこの偉大な真理を鮮やかに理解し、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの誕生に関わる事実によって、しかるべきしかたで感銘を受けるようにしたいと思う。

 私は今《ベツレヘムへの訪問》を行なおうと目論んでおり、五人の同伴者を得ることによって、その訪問を教えに富むものとしたいと思う。そこで私は、最初に、ひとりの老いたユダヤ人を伴い、次に、ひとりの古代の異邦人を、次に、罪を確信させられた罪人を、次に、ひとりの若き信仰者を、そして最後の最後にひとりの年期を積んだキリスト者を伴うことにしよう。彼らの言葉は、必ずや私たちを喜ばせる、有益なものとなるであろう。その後で私は、1つの家族全員をその飼い葉桶のもとに連れて行き、彼らにこの《天来の》幼子を眺めさせ、各人がこのお方について何と云うか聞いてみることにする。

 I. ではまず最初に、《私はひとりの老いたユダヤ人とともにベツレヘムへ行くことにしよう》

 さあ、長い髭を生やしたご老人。あなたはまことのイスラエル人であろう。というのも、あなたは名前をシメオンというからである。あなたは、「布にくるまって」[ルカ2:12]いる《みどりご》が飼い葉桶に寝ておられるのが見えるだろうか? しかり。彼には見える。そして、その光景に圧倒されて彼は、その《子》を腕で抱きかかえ、こう叫ぶ。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」[ルカ2:29-30]。「ここにこそ」、とこのアブラハムの忠実な子は云う。「一千もの預言と約束の成就があり、私の立派な先祖たちの希望と、期待と、喜びがあります。ここにこそ、あのモーセの律法で命じられた神秘的な象徴と予型的犠牲とのすべての《対型》があります。おゝ、《いと高き方》の御子よ。あなたこそアブラハムに約束された《子孫》、ヤコブが予告した来たるべきシロ、偉大なダビデにまさって偉大な《子》、イスラエルの正当な《王》です。私たちの預言者たちは、その預言書のあらゆる頁であなたの到来を告げ知らせていました。私たちの詩人たちは、甘美きわまりない詩歌で競い合い、あなたへの賛美を歌いました。そして今、おゝ、幸いな時よ。このあわれななかすんだ目は、うつつと思われぬほど美しいあなたの姿形を目の当たりにしているのです! これで十分です。――いえ、十分以上です。――おゝ、神よ。私は、これ以上この地上で生きることを求めません!」 このように、この老いたユダヤ人は語る。そして、彼が語っている際に私は、彼の顔のあらゆる造作を歓喜に満ちた微笑みが輝かせているのを目にとめ、彼の震える声の、深く、柔らかで、美しい声音に耳を傾ける。このいたいけな《みどりご》を彼が見つめる際に、私は彼がイザヤの言葉を引用するのが聞こえる。「彼は主の前に若枝のように芽生え」。そして、それから彼は、脇へ目をやってダビデ王家の末裔たる処女母を一瞥するが、たちまち、この罪なき《みどりご》に視線を戻して、こう云う。「砂漠の地から出る根のように育った」[イザ53:2]。さらば、老ユダヤ人よ。あなたの話は、私の耳に甘やかに響く。願わくは、あなたの兄弟たち全員が彼らの父祖の地に戻り、そこで私たちのイエスを彼らのメシヤ、また、彼らの《王》として告白する日がすみやかに明け初めるように!

 II. 私の次の同伴者は、《ひとりの古代の異邦人》である。

 彼は知的な人である。彼の信条に関しては何も尋ねないでほしい。自然における神のみわざに深く通じている彼は、自分を取り巻く道徳的暗黒を看取する程度には、ちらちら明滅する光を有している。福音の真理はまだ彼の心に入っていないが関係ない。異教的な観点からすると、そうしたければ彼を懐疑主義者と呼んでも良い。だが、彼の懐疑は、わざと心を歪曲しているのではなく、むしろ、偽りの希望を排していながら、真の希望をまだ信奉していないという、過渡的な精神状態なのである。この異教徒の兄弟は、エルサレムに滞在しており、私たちはベツレヘムを目指してともに歩みながら語り合う。彼は、自分がユダヤ教の聖書を読むことにいかなる喜びを感じているか、また、いかに彼が、彼らの予見者が予告するその日のあけぼのをしばしば切望してきたかを私に告げてきた。さて、私たちはその家に入る。――1つの星が空に明るく輝き、その馬小屋の上で停止している。――私たちはその《子》を眺める。すると、私の同行者は陶酔しているかのような叫びをあげる。「異邦人を照らす啓示の光!」[ルカ2:32] 「麗しい約束の《子》よ」、と彼は云う。「あなたの誕生は万民にとって喜びとなるでしょう! 平和の君よ。あなたの統治は平和の御代となるでしょう! 王たちはあなたに贈り物を持って来て、すべての国々があなたに仕えましょう。貧しい者はあなたの来臨を喜びましょう。正義があなたによって彼らのためになされるからです。そして、しいたげる者どもはあなたの到来に震えるでしょう。彼らに対する審きがあなたの口から宣告されるからです」。それから彼は、この産室で花開いた希望について甘やかに語る。彼はあたかも、それと同時に、多くの古の約束が――その文句にはすでに彼も親しんでいた――、自分の見たこの素晴らしい《子》に適用されているのを見たかのようにみなしていた。かの福音的預言者からの、次のような言葉が、完全に引用されるのを聞くのは清新なことであった。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく」[イザ11:6]。

 この友人に別れを告げるに際して、どうか私自身でも思いを馳せたことを1つか2つ告げさせてほしい。神は、その御怒りによってヤコブの家から御顔を隠したとき、その御顔の光を異邦人の上に照らしてくださった。肥沃な地が砂漠となったとき、それと同時に、荒野が主の園のように花開き出した。モーセはこうした出来事の双方を予期しており、霊感された預言者たちはその一方のみならずもう一方をも予言していた。天来の審きの正確な成就として、ユダヤ民族の心が鈍くされ、その目があけていられなくなり、その耳が遠くなったことにまさらずとも劣らず驚愕させられるのは、いかに異邦人がその思いにおいて私たちの主がメシヤであられることをきわめて容易に受け入れ、その福音を信奉したかということである。そのようにエホバは千五百年も前に仰せになっていた。「わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう」[申32:21]。ならば、パウロとバルナバが福音を拒否したユダヤ人たちに向かってこう告げるよう任命された歴史の重大局面においては、驚くのではなく感嘆するがいい。「見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます」[使13:46]。私は地図を調べて、パウロとバルナバが彼らの最初の伝道旅行において辿った道のりを見て、非常に強い感動を覚えた。彼らが出発した町アンテオケは、エルサレムの真北に位置しており、そこでは、さほど不均衡にならない割合でユダヤ人と異邦人を見いだすことができた。「ユダヤ人をはじめ」[ロマ2:10]こそ、天来の命令に沿ったことであった。だが、彼ら自身の国民が神の恵みを拒絶するに及んで、見よ、彼らは異邦人の方に向かい、その後即座に続いた成果は彼らの心を大きく励ますものであった。というのも、異邦人たちは喜んで耳を傾け、主のみことばを賛美したからである[使13:48]。使徒パウロのいくつもの旅を辿るにつれて、あなたは彼の道筋が常に《北へ》、あるいは、むしろ、《北西へ》向かっているのを見てとるであろう。それで、福音の知らせは旅をし続け、ついに贖われた者たちの《教会》が、私たちのいとも愛されたこの島に中心点を見いだすに至ったのである。

 私は誰かがこう云うのが聞こえるような気がする。「私たちには好古趣味がないので、あなたのふたりの老同伴者につきあっても嬉しくありません」。よろしい。ならば、愛する方々。後に続く三人は、あなたがた自身の中から引き出された人々である。そして、あなたも、これから私が云い足そうとしている素描の中に、あなた自身の思いを見いだすことになるかもしれない。

 III. 次にやって来るのは、《覚醒させられた罪人》である。

 ここに来るがいい。私の姉妹よ。私はあなたを見て嬉しく思うし、あなたと連れだってベツレヘムに行けることを大いに喜んでいる。なぜ後ずさりするのか? 恐れてはならない。ここには、あなたを怖じ気づかせるようなものは何もない。さあ、入るがいい。入るがいい。震えつつ、心配しながら、私の姉妹は、荒削りのまぐさ桶に近づく。そこには幼い《子ども》が横たわっている。彼女は、喜ぶのを恐れているように見え、自分が卒倒しないことに自分でも途方もなく驚いている。彼女は私に云う。「では、先生。これが本当に、まことに、敬虔の偉大な奥義[Iテモ3:16]なのですか? 私がこの飼い葉桶の中に見ているのが、『肉において現われた神』なのですか? 私は、ずっと違うものを見るのだと思っていました」。彼女の顔を見つめていた私は、彼女が喜びのあまり到底信じられないでいるのがはっきり分かった。私たちの主が生まれた場所を訪れた謙遜な、だが無関心ではない人、それがこの震えおののく悔悟者である。私は、今晩のこの会衆の中に、彼女のような多くの人がいてほしいと願う。あなたは、いかに奥義があわれみの中で解消しているか見てとるであろう。決して、燃える剣が飛び回り、あなたが入っていくのを妨げるようなことは全くない。無愛想な召使いが門前で入場券を要求するようなことは全くない。地位や称号でえこひいきされるようなことは全くない。あなたは自由に中に入って、女から生まれた中でも、最も高貴なこの子どもを眺めることができる。その子は、幼子という幼子が横たえられた中でも最も粗末な寝床の中にいる。目に見える光の王冠がその額を縁取っているわけでもない。請け合っても良いが、これは詩人の空想力が描き出すにしても、画家の鉛筆が素描するにしても、貧相すぎる光景である。――貧乏人の子のように、この子は布にくるまれ、飼い葉桶を揺りかごとしている。「いのちの君」[使3:15]がこのように卑しい身なりをしているのを見るとき、信仰がなくては、感覚の目で決して識別できないはずのものを信ずることはできない。

 IV. 私の四番目の同伴者は、《ひとりの若い信仰者》である。

 よろしい。私の兄弟。あなたと私はしばしば、御国の事がらについて甘やかな交わりをともにしてきた。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」。私は、この受肉した奥義に近づくにつれて、自分の若き友人の顔つきに神聖な朗らかさが浮かぶのを見てとる。私はしばしば彼が、難解な教理上の微妙な点について論議するのを聞いたことがあった。だが、今の彼は、霊の平静さによって、この《天来の子》の顔を眺めて、こう云う。「真理が地から湧き出しています。ひとりの女がその《息子》を産み落としたのですから。また、義は天から見下ろしています。神が実際にご自分を、この《みどりご》において現わしておられるのですから」。彼は、この幼い《子》を非常な憧れとともに眺めており、あたかも聖なる感謝の清新な泉が、彼の心の中に口を開いたかのように見える。「何の幻も、何の空想も、何の神話もここにはありません」、と彼は云う。「むしろ、現実に僕たちと同じ血肉が取られています。彼は御使いたちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けてくださるのです[ヘブ2:16]。天と地が合わさって僕たちを祝福しています。力と弱さがここでは手を結んでいます!」 彼は口をつぐんで礼拝し、それから再び語り始める。「何と小さくて、弱くて、か細い幕屋の中に、おゝ、栄光の神よ。あなたは今や、かしこくも住んでおられることでしょう! 確かに、あわれみとまことが、ここでは相会い、義と平和が口づけをかわしています。おゝ、イエスよ。《救い主》よ。あなたは、あわれみそのものです。――私たちの神の優しいあわれみが、あなたにおいて形をとっています。あなたは《真理》です。――預言者たちが見たいと切望していた、また、御使いたちもはっきり見たいと願っている《真理》――僕の魂があれほど長いこと求めていた、にもかかわらず、あなたの御顔を見るまで決して見いださなかった《真理》です。かつて僕は、《真理》はどこかの深遠な論文の中に、あるいは、どこかの学識ある書物の中に隠されていると思っていました。ですが、いま僕は、それがあなたにおいて啓示されていることが分かります。おゝ、イエスよ。僕の《親類》でありながら、あなたの御父と同等のお方よ! そして、甘やかな《みどりご》よ。あなたは、また義でもあられます。――神が受け入れることのおできになる唯一の義です。何というへりくだり、ですが、何という忍耐でしょう! あゝ、愛しい《子》よ。何と静かにあなたは横たわっておられることでしょう! ご自分の天来の御力を自覚しておられるあなたが、よくもこのように大儀で手間取る時を、かくも異様で、かくもまれなへりくだりをもって耐えることがおできになることでしょう! 思うに、もしあなたが僕のそばに立って、幼子の頃のか弱い僕を見下ろされたとしてさえ、それは僕が十分に賞賛できるありがたい恩恵だったことでしょう。ですが、あなたがこのようにか弱く、このように無力で、このように地上の母親から養われたり、世話を受けたりする必要のある者とならざるをえなかったということ、これは想像のいかなる限度をも越えています。《不思議な》、力ある神が、このように身をかがめられたのは、底知れないへりくだりだからです!」

 そのように、この若き信仰者は語った。そして私は、彼の言葉を大いに気に入った。というのも、私は彼のうちに、いかに信仰が愛によって働きうるものか、また、いかに論争と議論の果てがベツレヘムに達するものかを見てとったからである。「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『神は肉において現われた』」[Iテモ3:16 <英欽定訳>]。

 V. さて、私は、《ひとりの年期を積んだキリスト者》とともにベツレヘムに行くことにしよう。それは、年老いたパウロか、神々しいヨハネのような老人である。否、むしろ、私自身の教会員の集団の中に見いだせるような人々である。

 平静で、穏やかで、温厚な彼は、あたかもキリストの学び舎におけるその訓練によって、また、聖霊の神聖な油注ぎによって、その人格が円熟するにつれ、また、天の御国に入るふさわしさがより目立っていくにつれて、自らも子どものようになってきた。この老人が、この「永遠の時代の《幼児》」を明らかに愛しげに眺めているとき、その目には光る涙が浮かぶ。彼は、さほど多くを語らないし、彼が語ったことは、私の他の同伴者たちのいずれが語ったこととも、あまり似通ってはいない。彼の語り方は、神のことばから短い文章を非常な正確さで引用することであった。彼はそれをゆっくりと、深い思い巡らしとともに口にした。そして、彼が語る抑揚には大いに霊的な油注ぎがあった。私は、彼が口にした有益な文章のいくつかだけを言及しよう。最初に彼は云った。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち天にいる人の子です」[ヨハ3:13 <英欽定訳>]。そして、彼は実際、その一節のうちに、私が今までそこに見てとったいかなることよりも多くを見てとっているように見受けられた。イエスは、人の子は、地上におられた間でさえ、天におられたのである! それから、彼はこの《子》を眺めて、こう云った。「この方は、初めに神とともにおられた」[ヨハ1:2]。その後で彼は、次の3つの短い文章を順々に口にしていった。「初めに、ことばがあった」。――「すべてのものは、この方によって造られた」。「ことばは人となった」*[ヨハ1:1、3、14]。あたかも彼は、私たちの主イエス・キリストがまずすべてのものをお造りになり、その後でご自分が「人となった」ことがいかに大いなる奥義であるかを悟ったかのように見えた。それから彼はうやうやしく膝をかがめ、手を組むと、こう叫んだ。「御父の賜物――『どんなにすばらしい愛』!」[Iヨハ3:1]。

 私たちがその飼い葉桶と馬小屋から退出するとき、この老いたキリスト者は、私の肩に手を置いて云う。「お若い人。私はしばしばベツレヘムに云ったことがあるのですよ。それは、あなたが生まれる前から、私が足繁く通っていた場所であり、私がそこで学んだ1つの甘やかな教訓をあなたに授けたいと思います。《無限者》が有限になり、《全能者》が弱くなられました。ご自分の力あるみことばで万物を支えておられたお方が、自分から無力な者となられました。ことばによって、すべての世を存在させたお方が、一時の間、語る力すら明け渡されました。こうしたすべての事がらにおいて、この方はその御父のみこころを果たしておられたのです。だから、あなたが同じようなしかたで扱われることがあっても、恐れたり、驚いたり、唖然としたりしてはなりません。このお方の御父は、あなたの御父でもあられるのですから。あなたは――永遠の契約の古の取り決めにおいて反逆してしまったあなたは――、時々の種々のあわれみに、力弱くしがみついていなくてはならないかもしれません。あなたは、自分の《救い主》の食卓で、その御胸に頭をもたせていたかもしれませんが、たちまちきわめて弱くなり、婦人の看病により頼まなくてはならなくなるかもしれません。あなたの舌は、天の祭壇から取られた燃え盛る炭で触れられたようなものだったかもしれませんが、その唇が、これから幼子の唇のように封印されるかもしれません。もしあなたが、それよりさらに深いへりくだりへと至らされるとしても、あなたは決してイエスがこの1つのへりくだりによって下られた深みにまで達することはないでしょう」。「本当に、本当に」、と私は答えた。「私の若い兄弟は、神の御子の驚くべきへりくだりについて、多少ほのめかしてくれましたが、あなたはそれをずっと完全に解き明かしてくださいました」。

 それでは、愛する方々。このようにして私は努めて、五人の同伴者たちと別々にベツレヘムに赴くという私の目的を果たそうとしてきた。――彼らはみな、代表的な人々である。悲しいかな! あなたがたの中のある人々は、こうした人々のいずれによっても代表されていない! あなたがた、通り過ぎていくすべての人たち。これはあなたにとって全くどうでもよいことだろうか? 「あなたがたは、昔、『時至るに及んで』と表わされた、このほむべき誕生に全く何の注意も払わないのだろうか?」 もしあなたがたが、この奥義の知識を持たずに死ぬとしたら、あなたの人生はまことに恐るべき空白となり、あなたの永遠の分け前は真にすさまじいものとなるであろう。

 VI. あなたの熱心な注意をもう少し払ってほしい。私は、この黙想の流れを変えてみようと思う。神のみこころにかなうとしたら、私が《ある家族全員をベツレヘムに連れて行く》ことをしてみる間に、これまでは私のいかなる訴えにも抵抗してきた何人かの人々の心が、主イエス・キリストに服するものとなるかもしれない。

 1つのなじみ深い光景が役に立つであろう。きょうがキリスト降誕日の夜だと想像するがいい。キリスト者である父親が家族全員を暖炉のそばにいる自分のもとに集めている。楽しみと訓育を混ぜ合わせたいと思って彼は、「キリストの誕生」を彼らの会話の主題にしようと提案する。子どもたちひとりひとりがそれについて何か一言云うことにし、彼は、ひとりひとりの言葉の後で、短く説教することにするのである。彼は召使いのメアリーをその部屋に呼び入れ、全員が居心地良く腰を下ろしたところで、会話を始める。

 1. 単純にいくつかの事実を手短に説明した後で、父親は自分の末息子に目を向けて、こう尋ねる。「お前は何と云うかね、ウィリー?」 《日曜学校》に行き始めたばかりの、幼いこの子は、そこで歌うの覚えてきた2つの節を繰り返す。――疑いもなく、あなたがたの中の多くの人々も知っているはずの節である。――

   「イェス・キリスト、わが主、わが救世主(きみ)、
    わらべとなりぬ、われのごと」。

「よろしい。坊や」、と父親が云う。――「『わらべとなりぬ、われのごと』。しかり。主イエスは、他のどの小さな赤子が生まれるのとも同じように、この世に生まれてくださった。主は他の幼子と同じように小さく、きゃしゃで、弱く、他の子たちと同じように養われる必要があった。

   「『全能の神は人となり、常と変わらぬ赤子(あこ)なりき。
    丈(たけ)は小さく、身は弱く、並の赤子と変わりなし。

   「やがて育ちぬ、幼子(おさなご)に。しかるべき程度(ほど)守りつつ。
    後に幼子、幼児(こわらべ)となり、御母の膝にて食し給う。

   「『最初(さき)に抱かるも、やがては駆けぬ。
    さらに童子(わらべ)に、少年(おのこ)、若人、ついには成人(ひと)となり給わん。』

「小さな主イエスの絵を描き、それが主に似ていると云うのは間違いである。よこしまな偶像礼拝者たちはそうする。しかし、私たちはイエス・キリストのことを、あらゆる点でその兄弟たちと似ていたと考えるべきである。キリストが私たちと似ていなかった点は、罪を持っておられなかったことを除き、1つもない。主は他の子どもたちがするのと全く同じように食べて、飲んで、寝て、目覚めて、笑って、泣いて、御母をなでられた。だから、ウィリー。お前が、『わらべとなりぬ、われのごと』、と云うのは全く正しいことだ」。

 2. 「さて、ジョン」、と父親は、もう少し年長の男子に話しかける。「お前は何と云うね?」 「ええとね、父さん」、とジョンはは云う。「もしイエス・キリストが色んなことで僕たちに似てたとしても、今の僕たちみたいに楽々としてることはできなかったと思うよ。――こんなに素敵な子ども部屋とか、こんなに寝心地のいい寝床とかはなかったでしょ。イエス様は馬とか、牛とか、らくだの声がうるさかったんじゃないかしら。馬小屋で暮らさなきゃいけなかったなんて、随分ひどいことだったと思うよ」。

 「それは、実にもっともな言葉だね、ジョン」、と父親は云った。「私たちはみな、いかに私たちのほむべき主が、貧者と運命をともにされたか考えるべきだ。あの東方の賢者たちがやって来たとき、たぶん彼らは最初は驚いただろうね。主イエスが貧乏な人の子どもだったなんて。だが、彼らはひれ伏して主を礼拝し、自分たちの宝箱を開けて、とても高価な贈り物をささげた。――黄金、乳香、没薬をね。あゝ! 神の御子が天から地上へ、このように大きく身をかがめられたとき、御子は王たちが住んでいるきらびやかな王宮を見過ごしにし、金持ちや貴族が住んでいる大理石作りの広間を通り越しては、貧者が間借りしている所を住まいとされたのだ。それでも、御子は、『ユダヤ人の王としてお生まれになった方』[マタ2:2]だったのだ。さて、ジョン。お前は、王様として生まれた子どものことを一度でも読んだことがあるかね? もちろん、一度もないだろう。子どもたちは王子とか、王座の世継ぎとして生まれはするが、ほかならぬ主イエスだけが王として生まれたのだ。私たちの《救い主》の環境の貧しさは、その栄光に富むご人格の威光を引き立たせる銀箔のようなものだ。お前は、ダビデや、ヒゼキヤや、ヨシアといった良い王様について読んだことがあるだろう。だが、もし彼らが王でなかったとしたら、私たちは彼らについて全く何も聞くことがなかっただろう。だが、イエス・キリストについては全く違う。主は、他の王が宮殿の中で持っていたことのあるいかなる偉大さにもまさる偉大さを馬小屋の中において有していたのだ。だが、主イエスが子どもの頃だけしか、貧しい者の《親類》ではなかったと想像してはならない。主は、成長して大人になったとき、こう云われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません』[マタ8:20]。知っているかい? 子どもたち。私たちの慰めはみな、主のお苦しみという代価によって買い取られたのだ。『主は貧しくなられました。それは、私たちが、キリストの貧しさによって富む者となるためです』*[IIコリ8:9]。だから私たちは、ほむべき主イエスにいつでも感謝し、賛美するべきなのだ。主がいかにこの世で私たちよりも貧乏な暮らしをしてくださったかを思い出すときにはいつもね」。

 3. 「さあ、今度はお前の番だ」、と父親は、その小さな娘の方を向いて云う。――頭の良い子で、最近、母親の家事の手伝いを少しずつ始めたばかりの少女である。可哀想なこの少女は、慎ましげにうつむいていた。というのも、彼女はまさにそのとき、いかにしばしば自分の行なった小さな不注意によって、両親からの優しい、だが真面目な叱責を受けることになったかを思い出したからである。とうとう彼女は云った。「おゝ、父さん。イエス・キリストは何て素晴らしいんでしょう! だって、一度も間違ったことをしなかったのですもの」。「本当にその通りだね」、と父親は答えた。「お前があげたことは、素晴らしい黙想の主題だ。主の性質には罪がなく、主のみ思いはきよく、主のみ心にはかげりがなく、主の行ないすべては公明で正大だった。お前もモーセが律法の中で神へのいけにえとしてささげるようユダヤ人たちに命じた子羊について読んだことはあるだろう。それはみな、しみも傷もない子羊でなくてはならなかった。そして、もしマリヤから生まれた《子》に1つでも不潔な汚れがあったとしたら、その子は決して私たちの《救い主》になることはできなかっただろう。時として私たちは良くない思いをいだくが、神のほか誰もそれを知らない。また、時として私たちは悪いことをするが、誰にも見つからないことがある。この柔和でへりくだった《救い主》についてはそうではない。キリストには全く何の過ちもなかった。キリストは主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさんでいた。私たちは、たとい積極的に罪を犯していないときでも、しばしば自分の義務を忘れてしまう。だが、主イエスは決してそうはしなかった。水路のそばに植わった木のように、時が来ると実を生らせた。ご自分にかけられた期待を一度も裏切らなかった」。

 「さてそれでは」、とこの父親は云った。「私たちはすでに3つの美しい考えをあげてきたね。イエス・キリストは私たちの性質を取られた。非常な貧しさへとへりくだられた。そして、罪をお持ちではなかった」。

 4. その部屋の中には、ひとりの年長の少年がいた。降誕祭休暇のため寄宿学校から帰省したばかりの子である。そこで父親は息子の方を向いて、云った。「フレッド。次にお前の言葉を聞かせてもらおうか」。非常に簡潔で、非常に意義深い答えをフレッド少年は返した。「その子には、素晴らしい精神があった」。

 「確かにそうだ」、と父親は云った。「そして、私たち全員にとって、キリスト・イエスのうちにあったような精神が私たちの内側にもあったとしたら、とても良いことだろう。その精神は無限だった。というのも主は、神の永遠の会議にあずかっておられたからだ。だが、私は別の線に沿った考えを示唆したいと思う。『この方に光があった』。主イエスの精神は、その明確なきよさのゆえに、光のようであった。私たちはしばしば、誤り導きがちな媒体を通して物事を見る。間違った印象をいだく。そして、後になってから、それを矯正するのに散々苦労することになる。だが、主イエスは善悪をたちどころに識別する知性を持っておられた。その精神は、決して偏見によってねじ曲げられていなかった。主は物事をあるがままに見てとられた。決して他の人々の目を借りることなく、他の人々の頭の中で生まれた考えが主の判断を導いたことは一度もなかった。主はご自分のうちに光を持っておられ、その光は人のいのちであった。それで主は、常に無知な人々を教え、彼らの足を平和の通り道に導くことがおできになった。主の心も同じようにきよく、それは精神の発達や知性の向上と、私たちが思いみなしがちである以上に大きく関わっている。いかなる腐敗した想像も、主の見通しの輝きを曇らせたことはなかった。主は常に神と調和しておられ、常に人に対する善意を感じておられた。フレッド。主には素晴らしい精神があったとお前が云うのはもっともなことだ」。

 5. 子どもたちがそれぞれの意見を云い終えたので、父親は次に召使いのメアリーに話しかけた。「気後れすることはない」、と彼は云った。「話してみなさい。そして、私たちにお前の考えを聞かせておくれ」。「いま考えてたとこです、旦那様」、とメアリーが云った。「イエス様がご自分の上にしもべの形を取られたのは、何て謙遜なことだったかと」。「その通りだ、メアリー。まさにその通り。そして、主イエスがいかに私たちの低い状態まで降りて来られたかを考えることは、いつだって有益なことだ。私たちは、主イエスが自発的にご自分のためにお選びになった、どの『境遇』にも甘んじることができる。しかし、お前が述べたことは、ベツレヘムとご降誕に当てはまるものとしては、お前が想像していたかもしれないこと以上のものがあるのだ。というのも、キットー博士がその宿屋について、あるいは、その隊商宿について行なった説明によると、この聖家族が間借りしたのは、しもべの場所だったからなのだ。さて、頑丈な、高い壁に囲まれた、四角い建物を想像するがいい。壁は煉瓦作りで、その土台は岩であり、大きな拱道になった入口が1つある。その壁に囲まれて、広々とした区画があり、その真中には1つ井戸がある。中央部には、内陣の四角い建物がある。その四辺のすべてには、一種の回廊に覆われた歩道がある。それから、その壁の内側には、いくつかの小さな扉が、それぞれの小部屋に続いており、それが貸間になっている。こうしたものが、マリヤとヨセフの『いる場所がなかった』という『宿屋』であったと考えて良い。さて、馬小屋について説明しよう。それは貸間のある建物の裏側の壁と、建物全体の壁との間にある屋根付きの通路からなっていた。このようにして、それは中庭と同じ高さにあり、高くなった歩道からは三呎乃至四呎、低くなっていた。内側の建物にある各小部屋の横壁は、裏側でこの中庭に突き出しており、くぼみ、あるいは、仕切りのついた区画をなしていて、それをしもべや、騾馬追いたちは、悪天候の際の宿り場としていたのだ。ヨセフとマリヤは、そうした雨宿り場のいずれかを自分たちの避難所として見いだしたようなのだ。そこで、幼子イエスは生まれたものと思われる。もしそうだとしたら、主が文字通りしもべの形を取って、しもべの部屋を占められたというのは、いかに真実であったことだろう!」

 6. もう一度この父親は新しい題目を求めて、自分の妻を眺めて云う。「さあ、お前。今晩はじっと黙って私たちの話に耳をすませていたね。では、お前の感想を聞かせておくれ。お前はきっと何か良いことを云えるに違いない。それを、私たちはみな喜んで聞きたいのだ」。母親は考えに沈んでいるように見えた。彼女は、自分の眼前にその光景をみな、まざまざと映じているように見受けられ、彼女の目は、まるで実際に飼い葉桶の中に横たわっている、いたいけな子どもが見えたかのように輝いていた。彼女はこの上もなく自然なしかたで、また、ごく母親らしくこう云った。「何て可愛らしい《子ども》なんでしょう! でも」、と彼女は深いため息とともに云った。「人々の子どもたちより、これほどずっと美しいというのに、この子は、もう何年もしないうちに、悩みと、苦しみと、痛みに打ちひしがれて、その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違う[イザ52:14]ようになってしまうのね」。

 哀愁に満ちた悲しみが、この敬虔な母親がその考えを述べるにつれて、全員の顔に次第に貼り付いた。女性らしい優しさが、その心にある天来の恵みによって聖別され、その最も豊かな香りを放っているかのように思われた。やがて父親がその静けさを破ってこう云った。「あゝ、お前は、一番良いことを云ったね! 主の心は非難で張り裂かれた。この卑しい誕生は、いやまさって卑しい生涯、はるかにいやまさって不名誉な死への前触れにすぎなかったのだ。お前の感じたことは、お前が主とどれほど親密な関係を有しているかを示す、何にもまして尊い証拠だね。

   「『信実(まこと)の友は 嘆きに与(くみ)さん。
    されどありえじ いかな結合(きずな)も、
    蝋のごと溶く 心根と
    石似て硬き 心には。

    血をふりまきし 御かしらと
    傷なく健全(また)き からだには。
    苦しみもがく 神の子と
    つゆも感じぬ 魂には』」。

 7. 「しめくくりとして」、とこの父親は、生き生きとした表情で自分の家族の者たちを見回して云う。「お前たちは、私からも一言聞けるものと期待しているだろうと思う。お前たちの母さんの意見を私は非常に気に入りはしたが、きょうのようにめでたい日を、憂鬱な悲しいことで閉じるのは、到底正しいものとは思わない。知っての通り、父親というものは普通、自分の子どもたちの将来について誰よりも深く考えているものだ。私は、お前たち男の子を見ていると、こう考えることができる。『多少は辛いことがあっても、首尾良くそれらと戦い抜けるとしたら気に病むな』、と。さて今、私はこの飼い葉桶と、その中に横たわっている赤ん坊と、それを愛しげに見守っている母マリヤを心に描いていた。そして、私が何と思ったかをお前たちに告げることにしよう。この小さな手は、いつの日か宇宙という帝国の王笏を握ることになるのだ。この小さな腕は、いつの日か『死』という怪物と格闘し、それを滅ぼすことになるのだ。この小さな足は、あの蛇の首を踏みしめ、かの古き偽り者の頭を踏み砕くことになるのだ。しかり。そして、この小さな舌は、まだ一言もはっきりものを云えないが、じきにその甘やかな唇から雄弁の流れを注ぎ出しては、全人類の精神を豊かに肥やし、世界の文学に自らの教えを吹き込むことになるのだ。さらにまた、もう少しすれば、その舌は、全人類の運命に関する天の審きを宣告することになるのだ。私たちはみな、栄光の神がこれほど低く身をかがめられたことを感嘆すべきことと考えてきた。だが、私たちがいつの日かもっと感嘆すべきことと思うようになるのは、この悲しみの《人》がこれほど高く上げられるということだろう。地はこのお方にとって卑しすぎる場所を見つけられなかった。天はこのお方にとって気高すぎる場所を到底見つけることができないだろう。もしイエス・キリストについて云うべきことが1つあるとしたら、それは、この方が『きのうもきょうも、いつまでも、同じ』だということだ[ヘブ13:8]。私たちは環境によって変わることがありえるが、主イエスは決して変わることがなかったし、決してこれからも変わらない。飼い葉桶の中に主を眺めるとき、私たちはこう云える。『このお方は、不思議な助言者、力ある神なのだ』、と。そして私たちは、この方が高く上げられて御父の右の座にお着きになるとき、こう叫んで良い。『この人を見よ!』

   「『人の心を 主はなお保てり、
    天(あま)つ至福(たかみ)の 御座に着けども。
    試みらるる 痛み感(さと)れり、
    われらが患難(なげき) 主のものなれば』。」

 このようにして、降誕祭の炉端を囲んだ、とあるキリスト者家庭の家族全員が語った意見はしめくくられた。父親は、みなが休むべき時間だと云い、全員に「おやすみ」と云った。そして、この父親が云ったように、私も云うものである。「おやすみ。そして、神の祝福がみなにあるように!」 アーメン。

 

ベツレヘムへの訪問[了]

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