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聖徒の相続財産と合言葉

NO. 2908

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1904年11月3日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1854年11月5日、主日朝の説教


「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ。――」 ――イザ54:17


 きょうは11月の5日であり、英国史上記憶すべき日である。この日起こった出来事は決して忘れられるべきではない。この記念すべき日に、カトリック教徒たちは、わが国の栄光に富むプロテスタント主義を粉砕しようという目論見をことごとく挫かれた果ての窮余の一策として、ぞっとするほど恐ろしく、まさに悪魔的な陰謀をたくらんだ。そして、廉直な人々の間で自らを永遠に憎まれるべきものとした。スペインが頼りにしていた、その膨大な無敵艦隊は、先に神の息吹によって散り散りにされ、海の藻屑とされていた[1588年]。そこで今、臆病な裏切り者どもは、公然たる戦争によっては成し遂げられなかった目的を、卑劣きわまりない手段によって行なおうと試みたのである。国会議事堂の下に、破壊的な火薬が秘匿され、彼らはそれが上下両院に対する致命的打撃となり、プロテスタント主義の力を消滅させるものと期待した。だが、神は天から見下ろし、彼らの悪辣な策略の裏をかかれた。その秘密を白日のもとにさらけ出し、その裏切り行為を露見させられた[1605年のいわゆる火薬陰謀事件]。私たちを守ってくださった永遠の、不滅の、見えざる《王》にハレルヤ! この方は、今なおローマと地獄の策略から私たちを守っておられる! その御名をほめたたえよ。私たちはローマの教皇から自由であり、彼に対して――

   「英人つゆも 奴隷(ぬひ)とはならじ」。

   「われらが諸侯(との)を 焼かんと奴ばら
    深けき洞窟(あな)に 罠を仕掛くも
    天より主は射(い)ぬ 貫ける光箭(や)を、
    闇の裏切り 真昼に現(あば)きぬ」。

 またこれは、11月5日に記念すべき唯一の出来事でもない。というのも、1688年に国家としての私たちは、それと同じほど大きな解放を経験したからである。ジェームズ二世は、死にかけていた教皇制支持の体制を復興させようと試みており、サタンの希望は大きく膨らんでいた。だが、逞しいプロテスタント教徒たちは、高い犠牲を払って手に入れた自分たちの自由を易々と失おうとはしなかった。それゆえ、名誉革命を引き起こし、これによってウィリアム三世王が即位することになった。そして彼から私たちの女王に至るまでの王位継承は、幸いに続いてきたのである。この女王に私たちは熱心に祈りをささげるものである。

   「かくも栄(は)えある 解放(すくい)主は為(な)し
    われらに救いを 与え給いぬ、
    なおも守護せる 天の配慮(まもり)は
    自ら賜う 至福(めぐみ)堅持(たも)てり」。

神はほむべきかな。11月の5日に、私たちはこのような数々の解放を記録することができるのである。私たちの清教徒の先祖たちはこの日には記念礼拝を開くのが常であった。それで、この日は忘れ去られるどころか、小僧っ子たちの底抜け騒ぎによってではなく、聖徒たちの歌によって記念されるべきなのである。私は、いま、11月5日ごとに説教されたマシュー・ヘンリーの説教集を所蔵していると思う。彼の時代の多くの聖職者たちは、この日には決まって説教していたのである。わが国の真のプロテスタント感情は、最近非常な復興と、非常に明確な姿とを現わしているため、もし今朝、神に対して謙遜と心からの感謝のきわみをお返ししないとしたら、私はほとんど許されないであろう。この神こそ、私たちを呪いから解放し、プロテスタントの人間として自由に立ってキリストの福音を説教できるようにしてくださったのである。

 私は本日の聖句で2つのことに注目したい。――第一に、聖徒の相続財産であり、第二に、聖徒の合言葉である。

 I. 第一に、聖徒の《相続財産》である。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分」。それから、聖徒の合言葉がやって来る。「彼らの義は、わたしから出る。――主の御告げ。――」 <英欽定訳>

 さて、今朝の私が、聖徒の相続財産のすべてを調べ上げるだけの時間や、機会や、才質や、力を有していると思ってはならない。特に、このことを思い起こすときにそうである。

   「よろずは我等(わ)がもの。主の賜物にして、
    買われたるなり、救主(きみ)の血により」。

もし私が神の子どもの所有するすべてについて語るなら時間がなくなるであろう。この世は彼のものである。地は彼の宿であり、天は彼の家である。このいのちは、そのあらゆる悲しみ、そのあらゆる喜びとともに彼のものである。死は、そのあらゆる恐怖、そのあらゆる厳粛な現実とともに彼のものである。そして永遠は、その不滅と壮麗さとともに彼のものである。神は、そのあらゆる御属性とともに彼のものである。聖徒には、すべてに対する将来的な権利がある。神は彼を万物の相続人とされた。というのも、私たちは、キリストとの共同相続人であり、神の御子との共同相続人だからである[ロマ8:17]。おゝ、七十年という人生の中では、聖徒が所有する相当な在庫の目録をざっと読み上げるだけの時間すらない。その中には、底も知りえないほどの深さと、到底測りえないほどの高さと、非常に深甚な値打ちと、莫大な富があるため、それを無限回も読み上げるのでない限り、神の愛の総量を把握することはできない。それで、見ての通り私は、神の民の相続財産の全体を述べようとしているのではなく、その輝かしい相続財産の中でも、本日の聖句で言及されている、1つの独特の項目について語りたいと思う。そして、その項目とは堅忍である。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」。私はこのことを、単に《教会》全体の相続財産としてのみならず、あらゆる真の信仰者、神の選ばれた子どもたちひとりひとりの個人的、かつ具体的な所有物として語りたいと思う。

 まず最初に、ここで約束されているのは、私たちが、人々の手から保護されている、ということである。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」。サタンは常に人間の手を用いて、キリストの《教会》を攻撃してきた。物理的な力を有する武器は、これまで常に、神の《教会》に対して向けられてきた。カインがその棍棒で弟アベルを殴り倒し、地に伸ばしたときから、バラキヤの子ザカリヤ[マタ23:35]の時代に下り、その時代から今に至るまで、この武器は絶えず神の《教会》に対して用いられてきた。キリストの《教会》を攻めるために武器が鍛造されなかった時代は一度たりともない。しかり、今の瞬間においてすら、私がここに立って、空想の目で世界を見渡すとき、燃え上がる火焔が見える。その炎はすさまじく、その燃料はおびただしく積み上げられている。ひとりの君主が、ある武器を鍛えているのが見える。王冠を戴いたひとりの暴君が、鉄の鎖を欧州の自由にもたらそうと切望している。また、それより小粒の専制君主たちが、あらゆる真の自由の萌芽、「祝福に満ちた神の、栄光の福音」[Iテモ1:11]を滅ぼそうと切望している。私には、軍隊が万軍の主に今にも逆らい立とうとしている姿、神のしもべたちに戦闘をしかけようとしている姿が見える*1。それでも、ここには甘やかな慰めがある。彼らは武器を鍛造するかもしれない。剣を鍛えるかもしれない。牢獄の扉を閉ざすかもしれない。囚人を閉じ込めるかもしれない。その拷問用具を造るかもしれない。だが、それらが役に立つことはない。というのも、神はこう云われたからである。「主は……弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」[詩46:9]。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」。神がそうされる。

 歴史を通じて振り返り、いかに神がこの恵み深い約束を過去の時代時代の《教会》に対して成就してこられたか見るがいい。それを神は時としてこのようにしてこられた。神は、その剣がご自分の《教会》に触れることすらお許しにならなかった。別の時期には、その剣がその働きをなすにまかされたが、それにもかかわらず、悪の中から善をもたらされた。時として、《教会》を攻めるために造られた武器が役に立たなかったのは、それが神の《教会》に触れることを許されなかったからであった。パロの転覆について考えてみるがいい。彼方を眺めてみよ。そこに彼はいる。エジプトの全騎士団の先頭切って、選ばれた民族を追跡している。海が2つに分かれて主の選民を通らせている。見よ。水が純白の水晶のように、右と左で壁となって佇立している間に、彼らは葦の海の石ころだらけの海底を踏みしめて行く。しかし、この神を敬わない君主は、この途方もない驚異に全く恐れることなく、こう叫ぶ。「進め、進め。モフの兵士たち! 奴隷どもが大胆に行くところを踏むのを恐れるのか?」 見よ。彼らは大胆にも、この水の高台の間に突進する。戦車と騎馬たちが、狂気のようにイスラエルを追跡して、海の中に入る。見よ、イスラエルよ! 掲げられた槍を恐れてはならない。猛然と疾駆する戦車に恐怖してはならない。彼らは自らの墓場に向かって進軍しているのだ。彼らの武器は役に立たないものとされる。モーセが神の杖を差し上げる。分かれていた大水が嬉々として1つに合わさり、無力な敵をその腕で抱きしめる。

   「馬と戦車の 上を越え
    その兵士等(ますらお)を 乗り越えて
    パロの黄金(こがね)の 冠(かむり)こえ
    轟く波浪(なみ)は 打ち寄せぬ。
    昏(くら)く凄(すさ)まじ 水底(みなそこ)へ
    彼らは沈みぬ 鉛のごとく!」

 また、私の兄弟たち。この約束のもう1つの栄光に富む証拠を見るがいい。ハマンはモルデカイに対する憎悪をいだき、彼のためにユダヤ民族を全滅させようとせずにはいられなかった。いかに狡猾に彼は計画を練り、いかに易々と王の同意を獲得し、いかに自分の復讐について確信していたことか! 今しも彼は、想像の中で、モルデカイが高々と絞首台に吊されている姿を目にし、彼の血族がみな虐殺されている姿を目にしている。あゝ、敵よ。お前の想像の中で楽しんでいるがいい。というのも、それは当てが外れるからである! お前の目論見の中で喜ぶがいい。だが、それは完全に挫折するのだ! 天の宮廷にはひとりの神がおられ、シュシャンの宮殿にはひとりのエステルがいる。お前自身が、自分の絞首台に吊されることになり、ダビデの民族は、このアガグ人[エス3:1]の行為について、その子らに復讐することになる。おゝ、イスラエルよ。お前はプリムの祭において喜んで当然である。というのも、勇者の武器が砕かれたからである! また、この約束の成就が見られるのは、ここだけでしかないわけではない。というのも、征服されたアマレク人や、潰走させられたミデヤン人について告げるならば時間がなくなってしまうからである。私は、ペリシテ人とその巨人たちが肉食獣のえじきにされたことも、エドムが剣で虐殺されたこともほとんど語る暇がない。空想上の戦車隊の猛進に逃げ出した軍隊に、あるいは、一夜のうちに死の領土の住人となった軍勢に証言させるがいい。その土臭い枕の下に赤錆びた剣を置いて眠る戦士たちを、その長い眠りから立ち上がらせ、自らの努力の無益さを告白させるがいい。しかり。今や地獄の鎖につながれている君主たちに、主がその選民たちのための戦いに姿を現わされたとき感じた完全な狼狽について証言させるがいい。行進するがいい、専制君主よ。お前の奴隷たちに命じて自由人を攻めさせ、無力な者を粉砕させ、お前の隣人の領地を簒奪させるがいい。だが、主がお前よりも強いことを知るがいい。お前の北方の略奪団は無敵ではない。そして、英国人は、神の助けを得て、お前が強奪の手を上げても無駄であることをお前に教えるであろう。お前が争っている国の真中では、神の選民がお前に対抗して祈っているのだ。そして、お前は、神がその国の聖なるすえに対して仰せになっていることを知るであろう。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」。

 しかし、今、この主題の別の観点が現われてくる。時として神は、敵に私たちを負かさせるのをお許しになってきた。そして、その剣は、用いられては、きわめて恐ろしい効果をあげてきた。キリストの選びの《教会》にも、暗く陰惨な日々があった。そのとき迫害はこう叫んだ。「荒し回れ。そして、戦禍を引き起こせ」。血が国中で水のように流され、私たちの敵たちは勝ち誇った。殉教者は火刑柱につながれるか、木の十字架につけられた。牧師は断ち切られ、群れは散り散りにされた。残虐な苦悶、すさまじい苦痛を神の聖徒たちは耐え忍んだ。選民は叫んで云った。「主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください」[詩90:13]。敵は笑って云った。「あはは! あはは! われわれの望みどおりだ」*[詩35:25]。シオンは暗雲に閉ざされた。純金にもたとえられる、その尊い聖徒たちは、陶器師の手のわざである土の器とみなされ、その君主たちは町通りの土くれのように踏みつけられた。おゝ、わが魂よ。そうした悲しい日に、敵が大水のようにやって来て、神の町が彼に対して主の旗をほとんど掲げることもできないとき、いかに感じられるだろうか? おゝ、神よ。あなたには、あなたの選民の叫びを聞こうとされなかったときが一時はあったのです! まるであなたの耳は耳しいていたかのようでした。やもめの訴えには注意が払われず、殉教者たちの呻きと、苦悶と、叫びには気がとめられませんでした。そして、あなたはなおも敵があなたの子どもたちを悩ますのを許されました。迫害は国を揺さぶり、その燃える残虐さの溶岩をどろどろと流し出し、神の《教会》という沃野を荒廃させた。しかし、それが敵の役に立っただろうか? 成功しただろうか? 迫害は神の《教会》を破壊しただろうか? 私たちを攻めるために作られた武器は役に立っただろうか? 否! 《教会》は、迫害の波に没するたびに、その中から立ち上がり、その麗しい顔を掲げてきた。「月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」[雅6:10]として。そして、かえってますます栄光に富む者となった。《教会》の血が流されるたびに、その一滴一滴は人となり、そのように回心させられた人はひとりひとり立って、自分の血管からの生きた血流を注ぎ出し、神の御国と真理の進展を守ろうとした。あゝ! そうした際の《教会》は、減少し、沈滞するどころか、神は実に《教会》を増し加えられた。そして、迫害は教会に悪をもたらす代わりに善を施してきた。迫害者は教会を滅ぼさなかった。キリストの教会という船が、迫害の風によって右へ左へ揺さぶられ、横へ傾き、ほとんど転覆しそうになるときほど順調に航海することは決してない。神の《教会》を何にもまして助けるのは迫害である。教会はそれによって増加され、強められてきた。

 あなたも思い出すように、これは単に《教会》全体の相続財産であるだけでなく、あらゆる個々の信仰者の相続財産でもある。そして、いま私は、この礼拝所にいる、一部のあわれな魂に対して語りかけることができよう。おゝ、兄弟よ。おゝ、姉妹よ。今朝は、あなたのための言葉がある! 「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」。一部の愛する姉妹たちは、粗暴な夫を恐れながら、この祈りの家にやってきた。また、残酷な父親がいる息子たち、娘たちもいる。私は知っている。この場にいるある人々は、神の家に通っているがために、途方もなく恐ろしい迫害に遭っているのである。私たちの中のある者らには、ほとんど知られていないことながら、私たちがこの場に集まるとき、同じ椅子に腰かけている私たちの隣人は、この祈りの家に来るからといって、苦しみを受けなくてはならなかったのである。私は、あなたの霊に鳥肌を立てるほどの話を物語ることもできよう。――この場にいる神の聖徒たちの中のある人々が耐え忍ばなくてはならなかった迫害の話である。愛する方々。これは、あなたのための言葉である。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」。粗暴な夫の殴打は、あなたを傷つけることはない。それは、あなたのからだを傷つけることはあるかもしれない。だが、あなたの魂を傷つけることはできない。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」[マタ10:28]。神があなたの味方であられるとき、なぜ恐れるべきだろうか? キリストがこう云われたことを思い出すがいい。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました」[マタ5:11-12]。持ちこたえるがいい。青年よ。持ちこたえるがいい。若い婦人よ。なおも神を恐れ続けるがいい。そうすれば、あなたは、迫害があなたに善を施すことに気づくであろう。しかし、よく聞くがいい。迫害者よ。――もしあなたが今朝この場にいるとしたらだが――地獄には、あなたの腰に巻き付けられるべき、熱い鉄でできた鎖がある。火の鞭を持つ悪鬼たちがいる。そして彼らは、あなたの魂を永劫に鞭打ち続けるのである。なぜなら、あなたは、こともあろうに神の子どもたちの道につまずきの石を置こうとしたからである。主イエスの云われたことを思い出すがいい。「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです」[マタ18:6]。

 聖徒の相続財産の第二の部分は、「さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」、ということである。ここには人々の舌からの保護がある。サタンは神の《教会》を攻撃するためには、あらゆる手段を尽くす。彼は単に手を用いるだけでなく、しばしばそれよりも鋭い武器である舌を用いる。時には私たちは打撃を耐え忍べることもある。だが、侮辱に耐えることはできない。舌には大きな力がある。私たちは、地べたにたたきつけるような打撃からも起き上がることはできるが、人格をおとしめるような中傷からは、それほど簡単には回復できない。だが、この聖句の約束はこうである。「さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」。

 《教会》全体を眺めてみるがいい。そして、いかにそれが自らの敵たちを罪に定めてきたか見るがいい。教会は、最初の世に現われ出たとき、ユダヤ教に対抗しなくてはならなかった。だが、教会はそれを罪に定め、その種々の教理は今や枯渇してしまっている。それから、哲学者たちが雨後の竹の子のように立ち上がっては、福音など愚にもつかないたわごとだと云った。なぜなら、その中にこの世の知恵を何1つ見いださなかったからである。しかし、その哲学者たちは今どうなっているだろうか? 己の知恵を自慢していたストア派はどこにいるだろうか? ギリシヤの国で講義していたエピクロス派はどこにいるだろうか? 彼らは今どこにいるだろうか? いなくなってしまった。彼らの名前は、今ではなくなってしまったものを描写するため用いられているにすぎない。それからサタンは神の真理に対抗するために回教を編み出した。だが、神の《教会》はとうの昔にそれを罪に定めてしまった。十字架が三日月を欠いてきた。

 次から次へと立ち起こってきた種々の不信心の体系はどこにあるだろうか? それらは影も形もなくなってしまった。時として私たちは少し不安を感じることがあった。どこかの偉大な人々が、聖書が真実ではなく、私たちの信条が健全ではないことを証明しようと云うのを耳にしたからである。私はひとりの老人と話をしたときのことを思い出す。彼は私にこう云った。「あゝ、先生。この地質学は、聖書に対する人の信仰を完全におしゃかにしてしまうでしょうよ」。だが、地質学は、福音に対抗するどころか、啓示の事実を力強く確証するものを山ほど供しているのである。いかなる科学も、その不完全な状態にあっては、神の真理に対する破城槌として用いられてきた。だが、それがより良く理解されるや否や、シオンの城塞を支える支柱とされてきたのである。おゝ、神の子らよ。科学者たちの歪曲が、私たちの御国の進展を損なうことがあるかもしれないなどと恐れてはならない! 偽りを云う舌を私たちは罪に定めるであろう。おゝ、不信心よ。夜のできそこないよ。お前は一千回も罪に定められてきた! お前は変幻自在の生き物で、時代の移り変わりとともに姿形を変えてきた。かつてお前は、ヴォルテールがもてあそんでいた笑うべき、白痴的な手慰み物だった。それから、トム・ペインと並び立つ暴力的な冒涜者となった。それから、冷酷で、生き血を啜る悪鬼となり、ロベスピエールに似合いの相棒となった。そのうちに、オーウェンとともに思弁的な理論家になった。そして、今は、不敬虔な講演家や、その卑俗な崇拝者たちにまといつく世俗的で、どぎつい、俗臭紛々たるしろものになっている。私はお前を恐れない。不信心よ。お前は鉄に噛みついている毒蛇であり、己の鬱憤を晴らそうとしては、自分の牙を折っているのだ。

 愛する方々。あなたはこれまで、想像の中で代々の世紀を歩いては、幾多の不信仰の帝国の興亡に注意してみたことがあるだろうか? あるとしたら、あなたは戦場にいるかのように思われ、あなたの回り中に死骸を見てとるであろう。あなたがその死者の名前を尋ねると、誰かが、これはこれこれの体系の死骸だと答える。あるいは、これこれの理論の屍であると答える。そして、よく聞くがいい。時間が経つのと同じくらい確実に、今は盛んに流行している不信心は消滅し、五十年も経てば、論破された体系の骸骨を見ることになるであろう。その墓碑銘はこうであろう。「ここに、かつては、《世俗主義者》と呼ばれた愚か者、眠る」。西方の凶暴な迷信であるモルモン教について、私たちは何と云うことになるだろうか? あるいは、教皇制の完全な現われであるピュージー主義について何と云うことになるだろうか? あるいは、ソッツィーニ主義や、アリウス派の異端について、あるいは、アルミニウス主義の種々の歪曲について、あるいは、無律法主義者の悪弊についてはどうだろうか? こうした過誤のそれぞれについて、私たちは、こうとしか云えない。じきにこれらのための死の鐘が鳴ることになり、こうした地獄の子どもたちは、かの穴の中にあるその誕生地へと再び沈んでいくのだ、と。彼方にある、七つの丘の上に立つ、古来の狂気の教会は、主の聖徒たちに向かって、呪詛を浴びせかけるようなことをしてきた。そして、今なお自らの手に憎むべきものの入った酒杯を持ち、緋の衣をまとい、大水の上にその支配を及ぼしている[黙17:1-4]。だが、彼女は審きの中で罪に定められることになる。見よ。御使いのかしらの手にある引き臼[黙18:21]は、その落下を早め、大いなるバビロンは恐るべき覆滅とともに滅びることになる。そのとき、この叫びが神の《教会》から上がるであろう。「叫べ、諸天よ。主がこのことをなされたのだから。歌えよ。あなたがた、地に住む者たち。約束が成し遂げられ、責め立てる舌が罪に定められたのだから!」

 この約束は、神の子どもたちひとりひとりの個人的な相続財産である。「責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」。これは私にとって何と甘やかな思いであろう。というのも、多くの舌は私について、せわしくなく語っているからである。「良い人だ」と云う者もあり、「群衆を惑わしているのだ」と云う者もいる[ヨハ7:12]。よろしい。もし神がより多くの罪人たちを回心させ、より多くの人々をご自分の《教会》に導き入れてくださるとしたら、人々は自分の好きなことをいくらでも私たちについて語って良い。私たちは、この件に関して無謬であると自認するいかなる人にもいちいち反論しようとは思わない。群衆を集めるか、何らかの善を施している説教者がいる場合、決まってその人は誹謗中傷されるものである。だが、ここには彼に対する1つの約束がある。「さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」。ならば、責める者が多いほど、無罪放免されることも多くなり、中傷する者が多いほど、名誉も大きくなる。ならば、敵は好きなだけ私たちを中傷してかまわない。

 しかし、私は、話をお聞きの方々の中のある人々が恵みの諸教理を信じ、愛していると知っているが、時としてあなたは、それらのための論議や戦いへと召されることがある。私はあなたがそうなると思う。私は、あなたが「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦う」[ユダ3]のを愛しているものと希望したい。あなたがたの中の多くの人々がいかなる状況に置かれるかは、私も承知している。あなたが、ある不信心者の所に行って話をするとき、あなたは何と云えばよいか分からなくなる。あなたは、何度となくそうなったことがないだろうか? そこであなたは、こう云ってきた。「あゝ、黙って何も云わなければ良かったと思うくらいだ。あんなに混乱させられるくらいなら」。だが、思い出すがいい。「さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」。前回、あなたがそうした議論をしたとき、あなたは自分の敵対者が勝ちをおさめたと思ったではないだろうか。だが、その考えは間違っている。彼は自分の卓越した知的能力に得々とするかもしれない。彼は、「おゝ、あんな奴、私にとって全く敵ではない」、と云うかもしれない。しかし、彼が寝床につくまで放っておくがいい。そして、暗闇が彼の回りに垂れ込めるとき、彼は真剣に考え始めるであろう。一見すると彼があなたを打ち負かしたように見えたが、今やあなたが彼を征服しているのである。彼が病気になるまで待つがいい。そうすれば、あなたの言葉が彼の耳の中で鳴り響くことになる。そうした言葉は、もし彼があなたより長生きするとしたら、墓場から再び浮かび上がり、そのとき彼を打ち負かすであろう。真理のために論ずることを恐れてはならない。不信心者たちを賢い者と考えてはならない。あるいは、アルミニウス主義者たちを非常に学識ある人々と考えてはならない。真理のために立ち上がるがいい。また、私たちが奉ずる諸教理の中には、いくらでも堅実な学識が、また、本物の真理が見いだされ、あなたがたの中の誰ひとり、それらについて恥じる必要はないのである。それらは力強く地を従えざるをえない。ヤコブの力強い神は、聖霊の明らかな現われによって、それらに対する勝利をおさめられる!

 私に対抗して、さばきの座で、何度となく立ち上がってきた者がひとりいる。たぶん彼は、この場にいる主の愛する民の多くをも悩ましてきたであろう。――それはサタンである。彼は常にさばきの座に立ち上がっては私たちを責める。私たちがちょっとした悩みに陥ると常にやって来ては、「お前は聖徒などではないのだ」、と云う。私たちが罪を犯すと、彼は云う。「お前が神の子どもだったとしたら、そんな罪を犯さないだろう。お前は契約の恩恵にあずかってはいないのだ。自分を欺いているのだ」。いかに何度となくサタンは、さばきの座で立ち上がっては私を責めてきたことか。彼があまりにも頻繁に立ち上がるために私は、愚かにも彼の云ったことに気をとめるほどであった! 時として私は彼に、「お前は偽り者で、偽りの父だ」*[ヨハ8:44]、と云ってきた。だが、別の時には、彼の悪意ある告発を信じ込んでしまった。かの悪い者のほのめかしに対抗して立つのは、決して容易なことではない。あなたがた、私の兄弟たちは、彼の策略について知らないわけではない[IIコリ2:11]。彼は良心をあなたに逆らい立たせてきた。律法的な罪の確信という地獄の犬どもはあなたに吠え立ててきた。そして、恐るべき破滅の太鼓があなたの耳の中で轟いてきた。それから、そこにかの悪鬼その人が立ち上がり、あなたがイエスと結び合わされていることを否定し、あなたを自分のえじきであり、分け前であると主張してきた。あゝ、だが、私たちの《代理者》が良心の公開討論の場に入られた瞬間の、何と凛々しい姿であられたことか! 主は、私たちに向かって、私たちの訴えが天の王座裁判所で申し立てられたと請け合ってくださった! そして、おゝ、主が敵方の訴状を十字架の釘で無効にされたと示されたとき、私たちはサタンの舌が罪に定められ、彼の罪人呼ばわりが黙らされたことを感じた。栄光に富む《助言者》よ。あなたの崇敬すべき御名にあらゆる賛美が帰されるように!

 また、やはり聖徒たちは知るがいい。あなたがたは、じきに、それよりずっと公然たる勝利を、あなたの残酷な敵に対して得ることになるのである。最後の審判の日に、神と人との敵は、その独房から引きずり出され、その雷電による向こう傷をつけた青銅の額をあげるや、彼が今まで耐えてきたすべてにまさって恐るべき地獄を味わい出すのである。おゝ、聖徒よ。あなたは、自分が彼を審くことになるのを知っているだろうか? あなたがたは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのだろうか?[Iコリ6:3] あなたがた、神の子らは、共同の裁判所補佐人として、神の長子たる御子とともに着座することになる。そして、御子がかの古き竜に対して破滅を宣告なさるとき、あなたがたは厳粛にその宣告に対して、「アーメン」、と云うことになるのである。喜ぶがいい。おゝ、あわれな、試みられている者よ。あなたは、かの獅子を、また、かの竜を踏みにじることになる。あなたの足はあなたの敵の頭上に載り、あなたはこの聖句の約束が、あなた自身の経験においても実現するのを知ることになるのである。「さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」。

 さて、愛する方々。私はとりあえず、この、神の聖徒たちの栄光に富む相続財産については十分に語ってきたと思う。私たちを攻めるために鍛造される武器は、どれも役に立たず、私たちを責めたてるどんな舌も、罪に定められる。

 II. さて私がこれから語りたいのは、《聖徒の合言葉》である。それは何だろうか? 「これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、彼らの義は、わたしから出る。――主の御告げ。――」 <英欽定訳>。

 古代では、現代と同じように、軍隊はその合言葉を用いていた。それによって暗闇の中でも互いに認め合うことができた。私たちにもいま合言葉が必要である。何かしるしがない限り、神の子どもたちを見分けるのは非常に困難である。神ご自身が私たちにその合言葉を与えておられる。「彼らの義は、わたしから出る」。あなたは常に、この合言葉によって神の聖徒を見分けることができる。もしその人が、「私の義は、神から出る」、と云うとしたら、あなたは彼がイエス・キリストの弟子であると安心して信じることができる。もしその人が私たちのシボレテ[士12:6]を理解できないとしたら、彼はカナンの純粋な言葉が話されている国で暮らしたことがないのであろうし、それが彼の話し言葉の数々の不備を説明するであろう。彼はいくつかの点で私たちと異なっているかもしれない。だが、もし彼が真摯に、「私の義は、神から出る」、と云うとしたら、あなたは彼が真理の敵ではないと安心して結論して良い。すなわち、「イエスのうちにある通りの《真理》」*[エペ4:21]の敵ではない、と。

 私たちはこの合言葉を2つの意味に理解できる。それは、この世の目においてキリスト者を義とすることは、神から出ている、という意味になりえるし、彼らの義、彼らの救いは、神から出ている、という意味にもなりえる。いずれ来たるべき時には、神の子どもたちは一切の中傷について潔白であると認められ、虚偽が払拭され、その敵たちによってさえ義と認められて立つことになるであろう。彼らの中傷者たちは、そのときには彼らに対して何も云えなくなる。彼らは、すべてをよしとし給うお方に対して、そこに集められた宇宙がささげざるをえない賞賛にあずかることとなる。しかし、このように汚名が雪がれることは、彼ら自身の努力によってもたらされはしないであろう。彼らはキリストのゆえの非難を避けようと汲々としてはこなかった。彼らは、自分たちがあらゆるもののかす[Iコリ4:13]であるとみなされるからといって、泣いたり嘆いたりしてこなかった。しかり。彼らの義は、また、悪意から出た悪口や、ねたみから出た罪人呼ばわりに対して彼らが完全に潔白であると証明されることとは、エホバから出るであろう。《教会》の栄誉のしるしたる紋章入りの盾は、主の御手の中にあり、主がそこからあらゆる汚点を拭い去られるであろう。聖徒たちの人格は、神ご自身がその嫌疑を晴らしてくださる。そして、すべての偽り者どもは、火と硫黄の池の中で、その分け前を受けることになる。このことを、私たちの槍につける旗の銘としよう。このことを、私たちの心を励ます合言葉としよう。「私たちの義は、主から出る」。

 さて、第二の意味である。「彼らの義は、わたしから出る」、と主は仰せになる。もし私があなたがた全員を試したいと願い、あなたに1つだけ質問することが許されるとしたら、私はこう尋ねるであろう。何があなたの義だろうか? さあ、一列縦隊になってやって来るがいい。何があなたの義だろうか? 「おゝ、私は私の隣人たちと同じくらい善良です!」 あっちへ行くがいい。あなたは私の同志ではない。何があなたの義だろうか? 「ええと、私は私の隣人たちより、まあ善良な方です。定期的に会堂に通ってますから」。あちらへ行きなさい。あなたは合言葉が分かっていない。では次の人。何があなたの義だろうか? 「私は洗礼を受けていますし、教会の会員です」。しかり。あなたは、そうした人であるかもしれない。だが、もしそれがあなたの唯一の希望だとしたら、あなたはまだ苦い胆汁の中にいる[使8:23]のである。さて、次のあなた。何があなたの希望だろうか? 「おゝ、私は自分にできる限りのことを行ないます。そして、キリストがその残りを埋めてくださるのです」。下らん! あなたはバビロン人であって、全然イスラエル人ではない。キリストは決して目方の足しなどではない。――さっさと失せるがいい。さあ、最後の人がやって来た。何があなたの義だろうか? 「私の義は不潔な着物です。ここに持っている、この義以外には。これはキリストがカルバリの上で私に代わって作り出された義で、神ご自身によって私に転嫁されたもの、また、私を御使いのようにきよく、しみない者としてくれるものです」。あゝ、兄弟よ。あなたと私は戦友である。私はあなたを見つけ出した。それが合言葉なのだ。「彼らの義は、わたしから出る。――主の御告げ。――」 私はあなたが国教徒であるか、メソジスト派であるか、独立派であるか、バプテスト派であるかなどとは問わない。この合言葉を知っていさえすれば。「あなたの義は、わたしから出る。――主の御告げ。――」 私はこうした二義的な事がらをみな放っておける。あなたがこう歌うことができるとしたら――。

   「イェスよ。汝が血と 汝が義とは
    わが麗しき 栄えのころも」。

それ以外の何かを信頼しているというのなら、私はあなたとは何の関わりも持つまい。あなたが、神の助けなしに自分自身の救いを作り出せると云うとしたら、私はあなたを私の兄弟とは認めまい。しかし、もしあなたが、徹頭徹尾イエスにより頼んでいると云うとしたら、私はあなたを自分の戦友と認め、あなたとどこで出会おうとも、あなたに会うのを嬉しく思う。

 しかし、これまで私たちは聖徒たちの相続財産について示し、聖徒たちの合言葉について示してきたが、しめくくりに当たり、それ以上に何を語れば良いだろうか? 私はこう云うであろう。――神は何と良くその約束を守ってこられたことか! そうではないだろうか? あなたも知っているに違いない。今から数えてちょうど二百四十九年前に――来年は二百五十年目を――五回目の五十周年を――迎えることになるが――、国会議事堂の地下に一本の導火線が敷かれ、火薬が用意され、上下両院を吹き飛ばすことによって、国家が完全に転覆されようとしていたのである。あゝ、いかにサタンは神の教会を破壊し、主を愛する者たちに代えて、自分のお気に入りの者らを栄誉の座に上げることを考えてはほくそ笑んだことか! 陰謀者たちは云った。「拠り所はこわされるであろう。そうしたら正しい者が何をするというのか」*[詩11:3]。彼らは確かに自分たちの目当ては成し遂げられるだろうと考えた。だが、いかに痛ましい失望を味わったことか! 彼らは発見された。兵士たちが地下に潜り、この陰謀を見つけ出した。そして教皇制は、大英国全域に伝播することを妨げられた。主の御名はほめたたえられよ。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」。私たちは得意に思う。歴史の一頁を指さして、こう叫ぶことができるからである。「神は真実であり、過去の出来事は神の信実さの証人である」、と。

 おゝ、愛する方々。聖霊はあなたに、神のこの約束の真実さが織り込まれた知識を与えておられるだろうか? あなたは、《いと高き方》の右の御手によるほむべき解放を経験したことがあるだろうか? あなたがたの中の多くの人々は、残念ながら、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできず[使8:21]、こうした契約の祝福を把握できないがために、自分の恐ろしい損失を嘆き悲しむべき真の理由を有しているのではないかと思う。しかし、私たちの中のある者らがいま待ち望んでいて良いその時には、私たちは血で買い取られたあらゆる家族とともに、完全な贖いを獲得するであろう。そして、そのときには、あゝ、そのときには、いかに私たちは歓喜と共に、一千もの場合に受けた、あらゆる解放の恵みについて顧みることであろう! 聞けよ! 聞けよ! 私には、甘やかな音楽が聞こえる気がする。上つ方の領域から降りてきた歌が聞こえたような気がする。亜刺比亜の香料の木立ちのもとからやって来るような、甘美にそよぐ微風によって吹き降ろされた歌である。私には1つの音が聞こえる。地上的な音ではない。――天界の音である。そうでなくてはならない。というのも、いかなる定命の者による十四行詩も、それとはくらべものにならないからである。おゝ、和声の川よ。お前を流れ出させている唇はどこにあるのか? 諸天は開かれている。私には白い衣を着た大勢の者たちが見える。彼らの頭上には冠があり、彼らの手には棕櫚の枝がある。この人たちは、いったい誰か? どこから来たのか? 彼らは大きな患難から抜け出てきた者たちで、私たちにこう告げる人々である。「私たちは、自分の衣を《小羊》の血で洗って、白くしたのです。だから私たちは神の御座の前に傷のない者としていて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです」*[黙7:13-15]。聖なる者たちよ。あなたがたの歌ほど大いなるものはない。神の聖徒たち。その合唱を響き渡らせるがいい。それをもう一度繰り返すがいい。この耳がそれを聞けるようになるまで。あなたは何と歌うだろうか? 「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ。――」 さあ、地上の聖徒たち。この旋律を取り上げて、聖なる、喜ばしい、確信に満ちた期待を込めて歌うがいい。――

   「いかな武器(つるぎ)も役には立たず、敵は負けたり。
    いかな舌も功(あだ)をば奏(な)さず、賢者も黙せり。
    主ぞ我等(わ)が栄え、万軍(みたみ)の諸人(もろびと)
    叫ばん、『ホサナ!』と。カナンの美岸(きし)にて」。

御父と、御子と、聖霊とに栄光がとこしえまでもあらんことを。アーメン。

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*1 実に奇しくも、この1854年11月5日のこの瞬間には、インケルマンの戦い[クリミア戦争で英仏軍がロシア軍を破った戦闘]がまさに熾烈をきわめていた。[本文に戻る]

 

聖徒の相続財産と合言葉[了]

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