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尊ぶ者は尊ばれる

NO. 2906

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1904年10月20日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年7月7日、木曜日夜


「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」。――Iサム2:30


 遅かれ早かれ、神は確実に、誤ることなき正義の支配によって、人々に報いられる。そして、もし聖徒たちの間でそうだとしたら、罪人たちの間でも等しくそうであろう。もし私たちが本当にある人の人生の秘められた歴史を知ることができるとしたら、その人が辿ってきた道筋を今よりずっと良く理解できるであろう。多くの人生について、私たちは主に向かってこう云わざるをえない。「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません」[詩77:19]。それでも、もし私たちがその人についてもっと良く知っていたとしたら、そのすべては十分に明らかであったことであろう。私たちは、人目に隠されていた罪を見てとっていたとしたら、万人の目に明らかとなった悲しみを理解していたはずである。

 本日の聖句で明確に述べられている一般原則に関しては、それで十分であろう。もし私たちが神を尊ぶならば、神は私たちを尊んでくださる。また、もし私たちが神を蔑むなら、私たち自身が軽んじられることになる。さて私は、この聖句の前半の句だけを取り上げて、2つのことについて、ごく真剣に語りたいと思う。第一のこととして、ここには1つの明白な義務がある。すなわち、神を尊ぶことである。第二に、ここには非常に気前の良い報酬がある。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」。

 I. まず第一に、《ここには1つの明白な義務がある》。神を尊ぶことである。

 自らの《創造主》を尊ぶことは、あらゆる被造物の当然の義務である。エホバのように栄光に富む、ほむべき神がおられるとき、確かに、自らの存在を少しでも理解しているあらゆる者は、このお方に誉れと尊敬をささげる義務があるに違いない。このお方おひとりの途方もない壮大さ、そのご人格の無比の完璧さ、その絶対的な全能の御力、そして、私たちが自らの《創造主》としてのこのお方に負っているもろもろの責務からして、霊的な事がらを全く抜きにしても、疑いもなくあらゆる被造物の義務は神を尊ぶことにある。

 しかし、愛する方々。私たちの中でも、主の選びの民である者たちについては何と云えば良いだろうか? 私たちが自分の神を尊ぶべきであることを証明する必要があるだろうか? このお方は私たちの御父なのである。そして、遠い昔にこう仰せになったのである。「もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか?」[マラ1:6] 普通の子どもたちは、自分の父母を敬うよう命じられる。では、いかにいやまして神の子どもたちは、天におられる御父を尊ぶべきであろう! 神は、私たちを創造することを越えて、はるかに大きなことを私たちのために行なってくださった。――私たちの選びにおいて、私たちの有効召命において、私たちの新生において、あの血の洗いにおいて、私たちの種々の必要が日々満たされることにおいて、私たちの魂が底知れぬ所へ沈み込まないよう絶えず保たれていることにおいて、――私たちはこの方にこうむっている恩恵の大きさに圧倒される。そして、私たちがこの方にお返しできる最小限の報いは、自分の有する一切の敬意をこの方におささげすることである。この方がご自分を私たちに知らせてくださったしかたは、私たち以外のご自分の被造物に対してご自分を啓示してこられたしかたとは異なる。その御手のわざは、目に見える被造世界の全体に見てとれる。あらゆる星々に、この方の栄光は輝いている。しかし、そこでこの方が示しておられるご自分の姿は、キリスト・イエスにおいて私たちに啓示されている姿とは違う。そして、悲しいかな! 新生していない人々は、イエス・キリストの御顔にある神の光輝く栄光を見てとることのできる目がない。だが神は、私たちにこの霊的な視力を与えており、その御霊によって、ご自分に関する多くのことを私たちに教えておられる。そして、御霊は私たちに神の深み[Iコリ2:10]を教えておられる。もし私たちが、神についてこうした一切のことを知った後でも、神を尊ばずにいることが可能だったとしたら、いかに極悪な犯罪を犯すことになったことか! しかし、神から与えてられた知識と恵みによって、私たちは神を尊ばざるをえない。そして、神が何をなさるお方であるか、私たちのために何を行なってくださったかを知れば知るほど、神を尊ばなくてはならないと感じ、神を尊ぶことになる。おゝ、恵み深い御父よ。私たちの霊の内奥において、私たちがこの瞬間にあなたをあがめ、尊び、礼拝しますように。そして、あなたの恵みによって、私たちが、時のなくなるそのときまで、そうし続けますように!

 私はあなたに、神を尊ぶことがあなたの義務であることを明確に見てとってほしいと思う。それで、いかなるしかたで、その義務が私たちひとりひとりの心に突き入れられるかを探ってみよう。最初に考えたいのは、私たちが神を尊ぶのは、あらゆる祈りと賛美において、また、実際、あらゆる場合に、その《神性》を告白することによってである、ということである。願わくは、私たちの中の誰も、一部の人々がいだいているような、かのほむべき《一致せる三位一体》の各位格に関する種々の異端に、決して陥らないように! ありとあらゆる過誤の中でも、そうした方面ほど、真のキリスト教信仰の核心そのものに間近に触れるものはないと思う。思うに、ある人が《三位一体》の教理を長く眺めていると、その人は、太陽を凝視する者のようになる。まず目が眩み、続いて、過度の光によって盲目となりがちである。もしもある人が自分にこの偉大な神秘が理解できるかどうかを尋ねて、それを把握しない限り信じないと云い張るとしたら、確実きわまりなく盲目になるであろう。おゝ、人よ。いかにしてあなたは、自分の手のひらに海を載せられるだろうか? また、いかにして神の御顔を見て、生きていられようか? あなたは、自分の精神に載せようとしている重荷によって、自分の精神がぐらつくこと、理性がよろめき出すことに驚愕するだろうか? 私たちは神を把握できない。だが、御父を礼拝することによって尊ぶことはできる。御子をあがめることによって尊ぶことはできる。御霊に尊敬と畏敬と栄光をささげることによって尊ぶことはできる。また、自分の霊の中で、父、御子、聖霊のご栄光を減じさせるような過誤を黙認しないことによってそうできる。というのも、もしそうしたものを認めるとしたら、本日の聖句で約束された祝福を獲得しないからである。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」。願わくは神が私たちを、私たちの主イエス・キリストや、《聖なる御霊》を非難するようないかなる教理を信ずることからも救い出してくださるように! 残念ながら、キリストの《教会》はこれまで一度も十分に神の御霊を尊んだことがないのではないかと思う。そして、今日の牧会伝道において、概して聖霊とそのみわざは、はなはだしく無視されており、話を聞いている多くの人々は、あのエペソの弟子たちのように、こう云いかねないのではないだろうか。「聖霊のおられることは、聞きもしませんでした」[使19:2 <英欽定訳>]。もしそうだとしたら、そのことは、悔い改めるべきであり、今後は避けるべきである。というのも、嘘ではなく、《三一の神》を尊ぶことは、本日の聖句で約束された祝福を獲得するため絶対に欠かせないからである。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」。

 二番目に、このことを行なうには、神の支配を告白すること、また、自分の告白が真実であることを証明するため神に従順をささげることである。「私は神を尊んでいます」、と云っても、神の律法に逆らう生き方を続けているとしたら何の役にも立たない。もし私たちが神を尊ぶとしたら、神の戒めに従おうとするはずである。そして、弱さゆえに、完璧な従順に欠けているとしても、私たちは自分の不完全さについて嘆くことによって主を尊ぶであろう。私たちは神の命令が要求するところに文句をつけず、それに従えるよう助けてくださいと聖霊に願うであろう。神を尊ばない人とは、天来の戒めの選り好みをして、ある戒めには従うが、別の戒めには従わない者である。神を尊ばない人は、あらゆることにおいて神のみこころに従順をささげようとはしない。――家庭に当然属する種々の社会的な義務、神の《教会》に関わるもろもろの義務、そして、自分と他者との共同生活に関係するもろもろの義務においてそうしようとしない。1つの義務の血で染まったいけにえを神にささげることは、決して正しいことではない。そして、あらゆる点で主に従おうと努力することによってこそ、神を尊ぼうとする私たちの願いは証明されるのである。主のみこころに何かあなたの好まないものがあるとしたら、愛する兄弟。それは、あなたが誤っている点である。あなたの魂の真の状態が表示されるのは、何らかの天来の戒めにあなたが抵抗するときであり、あなたはその罪を克服できるように、また、あらゆる事がらにおいて主のみこころに従うことができるように、非常に熱心に祈るべきである。というのも、むらのない従順をささげることによって神を尊ばない限り、――また、神の恵みによって救われたあなたがあらゆる罪を忌み嫌い、聖霊の助けによって主のあらゆる戒めを落度なく踏み行なうのでない限り、――あなたは神が正当に請求しておられる誉れを神にささげておらず、神から尊ばれることが期待できないからである。

 次のこととして、私たちがみな罪を犯してきたことを見てとっている以上、神を尊ぶには、罪を告白し、そのようにして、神の正義の栄光を現わすようにしなくてはならない。私の信ずるところ、神の栄光を大いに現わす人とは、自分の咎の意識に圧倒されて、やって来ては、自分の胸を天来の検閲に対して開け放ち、自分のあらゆる違反を認め、それらについて嘆き悲しみ、自分の頭を断頭台の上に置いて、こう云う人である。「主よ。たといあなたが私を処刑するとしても、たといあなたがあなたの正義の斧を私の上に振り下ろし、私を全く滅ぼされるとしても、私は一切不平を申しません。私はそのすべてに値するからです」、と。それゆえ、愛する方々。自らを神の判決に服させ、もし神がその判決をあなたに執行されても、それがいかに正しいかを認めるがいい。というのも、そうすることであなたは神の御手にいつくしみを見いだすからである。私は、あわれな、罪を確信した罪人が行なえることのうち、それよりも神に受け入れられるものを、ただ1つのことを除き他に何も知らない。その唯一の例外とは、キリストのもとに来て、キリストを完全に信ずることである。ならば、咎ある者よ。神に栄光を帰し、あなたの咎を告白するがいい。あなたは神の聖なる律法を破ってきた。それを破って自分が違反したと認めるがいい。神のもろもろの命令に敬意を表し、自分がそれらを守るべきであったことを告白するがいい。あなたが神のみこころに違反してきた罪の極悪さを認めるがいい。そうすることにおいて、あなたは主を尊ぶことになるからである。

 そして、あなたがた、神の愛する子どもたち。多くの不完全さを痛感している人たちは思い起こすがいい。あなたが神を尊ぶのは、あなたが御前で全くはいつくばっているとき、――あなたが自分を厭わしく思うとき、――塵の中にうずくまって、こう叫ぶときだということを。「主よ。あなたのあわれな、役に立たない子どもを思い出し、私をあわれんでください!」 あなたはこのようにして神の聖さをあがめ、その栄光を現わす。その聖さに、あなたはまだ達していないと感じている。もしあなたが自分が神の御前では塵と灰にすぎないことを認め、神からいつくしまれる価値などないことを認めるとしたら、あなたの謙遜さは神を尊び、神の栄光を現わすことになる。

 さらに、私たちが主を尊ぶのは、その教えに従うことによってである。非常に多くの人々は聖書のもとに行っては、自分がすでにいだいている神学体系を裏書きするような聖句を探そうとする。これは神を尊ぶことではない。正しい行き方は、聖霊の過たない教えの下で、聖書の中から自分の神学体系を汲みとることである。これこそ私たちを教えるべき《書》である。私たちがそれを自分の枠組みに一致させようとすべきではない。私たちの枠組みには――私たちが何か枠組みを持っているとしたらだが――ここに啓示されていると自分に確認できる限りのことをすべていだかせるべきである。青年たち。これは私の経験から云えることだが、何にもまさる精神の平安を得るには、自分のキリスト者生活の初っ端から、神のことばを唯一の案内人とすることである。広く云われていることだが、「聖書が、そして、聖書だけがプロテスタント教徒の信仰である」という。だが、私の知っているプロテスタントのほとんどあらゆる教派については、それが真実であるとは云えない。唯一の例外を除くあらゆる教派は、聖書に見いだすことのできない何かを信じており、他の何らかの本か伝統を聖書の巻末に付け加えている。愛する方々。腰を下ろして、何の評釈も注解もなしにこの《書》を学ぶがいい。その意味するところを教えてくださるよう聖霊に願いつつ、そうするがいい。そして、それが意味するところは何であれ、必ず信ずるがいい。あなたは、その意味することすべてを発見しはしないであろう。あなたの中にはいくつも間違いがあり、その点であなたは同胞キリスト者たちと変わらないであろう。だが、あなたに見てとれる限りの真理に確実に従うがいい。それがどこに導こうと、――たといそれに従うことによって全く孤立することになろうと、――関係ない。というのも、そうすることによって、あなたはそれを尊ぶことになり、それはあなたを尊ぶだろうからである。次のように云えることは非常に甘やかなことである。「私は間違っているかもしれない。だが、私は正直に神のみこころを知ろうと求めてきたし、真剣に聖霊により頼みつつ、御霊の教えを受け入れることを願ってきた。そして、私がそれを学んできた限りにおいて、私はそれに従ってきた。そうする結果のことなど顧みなかった。御霊が道を導かれる所に従うことが常に安全に違いないと知っているからである」。そのように行なうがいい。若い男子たち、若い女子たち。他の人々が何をしていようと関係ない。彼らの中のある人々は、ただ以前の世代の間違った慣習に従うことに安住している。それが神のことばに明らかに反していようとかまいつけない。そうした人々の悪い模範にならってはならない。むしろ、蝋が柔らかいうちに、天来の真理の刻印を受けるがいい。そのようにして成長し、あなたの前に生きていたいかなる人をも越えて神を尊ぶがいい!

 神を尊ぶ別の道があり、それは、いついかなる時にも単純に神を信頼することによってである。このことを常に覚えているがいい。私たちの種々の苦難が大きければ大きいほど、私たちの弱さが大きければ大きいほど、私たちの虚弱さが大きければ大きいほど、神の聖霊の助けによって私たちが神の栄光を現わす機会は大きいのである。「船に乗って海に出る者、大海であきないする者、彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た」[詩107:23-24]。彼らは、陸で暮らす人々が決して見ないようなものを多々目にする。そして、試練と苦難の深い経験を有する者たちは、霊的な領域における主の奇しいみわざを最も目にする人々である。愛する兄弟。あなたが主に信頼するようになるまで、すべてはあなたにとって順調と思われていた。だが、主に信頼したとき以来、何もかもうまく行かなくなったように思われる。あなたは今、神に信頼できるだろうか? 信仰は、私たちが凪の海にいるときにも神を尊ぶ。だが、時化の海にいるときには、はるかにいやまして神の栄光を現わすものである。納屋が満杯で、食卓にご馳走が山盛りのときに神の御名をほめたたえるのはたやすい。だが、家屋敷が焼け落ち、食料棚が空っぽになった今、神の栄光を現わせるだろうか? あゝ、善良な婦人よ。あなたは、夫君が壮健で、子どもたちがあなたの回りにいたときには神の栄光を現わすことができた。だが、夫君があなたから取り去られ、あなたの子どもたちがその後を追い、ひとりまたひとりと肺病にかかっていった今、主に信頼できるだろうか? また、そこの兄弟。あなたの足が折れた今、あるいは、あなたの肺が患い始めた今、あるいは、喘息にかかった今、あるいは、寄る年波によって力が衰えつつある今、――あなたの種々の環境が変わりつつあり、あなたの友人たちが秋の燕のようにあなたを見捨て始めている今、あなたは主にあって喜び、今、あなたの救いの神にあって喜ぶ[ハバ3:18]ことができるだろうか? そうできるとしたら、今こそあなたは非常に素晴らしいしかたで神を尊ぶことができる。ヨブとともに、このように云えることは栄光に富むことである。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望む」*[ヨブ13:15]。あなたに何が起ころうと、決して神の働きのうちにある知恵を、あるいは、神の御心の中にある愛を疑ってはならない。むしろ、なおも、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」[詩37:7]。そうするならば、あなたは主を尊び、主はしかるべき時にあなたを尊んでくださるであろう。

 他にも、私たちが神を尊び、その栄光を現わす多くのしかたを思い起こさせることはできるだろうが、もう1つ言及するだけにしよう。そして、それはこのことである。特に何の苦難も受けていない場合も、私たちは大きな喜びによって神を尊ぶべきである。それは、この世の子らが自分の麦や葡萄酒にいだくような喜びによってではなく、聖なる喜びによってということである。いかに僅かなキリスト者しか、神を自分の最も喜びとする神[詩43:4]として語らないことか! 近頃は、朗らかなキリスト者たちに出会うことが以前より多くなったと思う。以前の時代には、陰気な顔をしていればいるほど恵みが大きいと教えられていたからである。私たちはそのような考えを信じてはいない。だが、私が思うに、私たちは――皆無とは云えなくとも――めったに神の子どもの永続的な割り当てであるべき喜びの基準に達することがない。選民は天下で最も幸福な者たちであるべきである。ごうごうと炎が吹き起こされている大きな炉を見るがいい。そこには何と激しい熱があることか! キリスト者はその炉のように、激しい喜び、熱烈な愛、あふれる喜びによって赤々と輝いているべきである。愛する方々。なぜあなたが喜ぶべきでないだろうか? あなたのもろもろの罪は赦されている。あなたは天の相続人である。あなたは、もう一、二箇月、あるいは、一、二年もすれば、神の右の座にいて、もはや永遠に出て行くことがなくなるかもしれない。なぜあなたが喜ぶべきでないだろうか? 今でさえ、神の御霊はあなたのうちに住んでおられ、その御心はあなたに対する愛で燃えており、あなたのことを喜んでおられる。なぜあなたが喜ぶべきでないのか! もしあなたがもっと喜んでいたとしたら、あなたはもっと主を尊び、主は約束してくださった通りにあなたを尊んでくださるであろう。地上で最も貧しい聖徒も、単純に神を尊ぶことによってこの大いなる祝福にあずかることができる。最も小さなタラントしか持っていない人も神を尊ぶことができる。最も無知なキリスト者、世俗的な学識においては最も教えられていない者も、神を尊ぶことができる。肉体的な健康の面で最も弱い者も、病者も、死にかけている者も、神の民だとしたら、みな神を尊ぶことができる。この平明な義務は、聖霊の恵み深いあらゆる助けによって、あらゆる聖徒に可能なことである。願わくは御霊が私たちひとりひとりを助けて、このことを行なわせ、真に神を尊ばせてくださるように!

 II. さて第二の点に目を向けたい。――《ここには非常に恵み深い報酬がある》。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」。

 最初のこととして、このことは、神の《教会》において真実である。エリの息子、ホフニとピネハスは祭司であった。だが、彼らは神を尊んでおらず、それゆえ、神は彼らを尊ばれなかった。民は彼らを蔑み、彼らの罪のため聖所での奉仕そのものを忌み嫌った。そこで神は彼らを祭司の職から追い出された。私の信ずるところ、私の兄弟たち。――そして、私たちの中の多くの者らは、すでに福音の教役者であるか、この高貴な職務に就くための訓練を受けつつあるが、――私の信ずるところ、私たちが、自分の奉仕において、心を尽くして神を尊ばない限り、神は決して私たちを尊ばれないであろう。私の愛する兄弟たち。もしあなたが神の栄光を現わす以外のことを求めているとしたら、あなたはそのことにしくじるであろう。もしあなたがあか抜けた説教者になること、さわやかで、華麗な文章をちりばめた雄弁家になろうと考えて始めるとしたら、あるいは、あなたの大望が体裁の良い人々の間で良い地位を占めることだとしたら、確実にあなたは墜落し、その転落ははなはだしいものとなるであろう。しかし、もし誰か若い人が、真に神から召されており、自分に向かってこう云うとしたらどうであろう。「私は神の栄光を現わそう。生きるにしても死ぬにしても、――貧しくなろうと富み栄えようと、――多くの魂をキリストに導く器となろうと、一見したところ自分の牧会伝道において失敗者となろうと、――少なくとも、真理を宣べ伝えよう。そして、私は真理のために祈るであろう。また、人々の魂のための祈りに苦闘するであろう。私の教えは、哲学的な諸見解を賛美するものとはすまい。私自身の教養や、私自身の思考力を誇示するものとはすまい。むしろ、何にもまして、私は神を尊ぶであろう。父、子、聖霊を尊ぶであろう。口をきわめてキリストをほめそやし、口をきわめて罪をこきおろそう。自分の属している教派を尊ぶことを求めたりせず、単に神を尊ぶために生き、労することにしよう」。――よろしい。私の兄弟。もしそれがあなたの決意だとしたら、主はあなたを尊ばれるであろう。

 それから次に、この約束は、私たち自身の家庭に関して真実である。あわれなエリは、疑いもなく自分の家で尊ばれたいと願っていた。それで、自分のよこしまな息子たちを非常に尊重したのである。エリは、息子たちが非常に非常に悪者であると知っていた。だが、彼らには非常に手柔らかに語った。私の知っている一部のキリスト者たちも、自分の家庭の中で同じことをしている。彼らの息子たちは、悪辣きわまりない生き方をしているが、彼らはただこう云うだけなのである。「私たちの息子たちは、あまりにも癇が強く、すぐに腹を立てるので、私たちは彼らが間違ったことをしているとそれとなくほのめかすだけでなくてはならないのです。彼らを厳しく叱責しても何にもなりません。率直にこう云っても役に立ちません。『お前たちは、まっさかさまに地獄に落ちつつあるのだ。後生だから、止まるがいい。もし今のような行ないを続けていれば、お前たちは永遠に滅びてしまうのだから』」。――あゝ、そして、多くの家で神は、家庭礼拝によって尊ばれておらず、男の子や女の子たちは金銭を求めるよう教えられている。それが人生のおもな目的ででもあるかのようにである。「ジョンや。商売に身を入れて、何が何でも金儲けをするのだ。ただし、その手段について、あまり細かいことを云ってはならないよ。それからメアリー。お前に会いに来ている青年は、非常に立派な若者で、一際すぐれたキリスト者でもある。だが、夫にするには向いていない。あまり金持ちではないからな。きょうびは、そうしたことを第一に考えるのだ」。《富》を礼拝し、金の子牛を礼拝することが、ほぼ至る所で蔓延している。神はご自分の古の民に、自分の子どもたちをモレクにささげてはならないと命じられた[レビ18:21]。だが、今ではそれが非常に頻繁に行なわれている。多くの親たちは自分の息子や娘たちをモレクにささげている。――流行というモレク、富というモレクである。娘たちが嫁がされるのは、それなりの量の黄金を持っていれば、まるで人格の伴わない男たちである。

 よろしい。さて、もし母親か父親が、そうした罪に陥る代わりに、こう云うとしたらどうだろうか。「私の愛する息子と娘について、私が最も気遣っているのは、彼らが主を知ることです。彼らが商売で繁盛したり、良い地位にある人と幸せな結婚をしたりするのを見れば私は喜ぶでしょう。ですが、私が切に願ってやまないのは、彼らがキリストを知り、キリストの中にある者と認められることです。というのも、それこそ結局は最も大切なことだからです。そして、私は自分の家の中で、キリストが眺めても賛成されないような何事も大目に見ようとは思いません。また、私の力の及ぶ限り、神の御霊を悲しませるようなことは何も許すつもりはありません」。私の信ずるところ、両親がこのように神を尊ぼうとしている所ではどこででも、神は彼らの家族を非常に素晴らしいしかたで尊んでくださるであろう。あなたは、ほとんど至る所で見いだすであろう。人が神のためにすべてをささげ、自分の家族が成り上がることよりも、神の家族全体の益のことを求めているとき、主がその人に対してお語りになることは、エリザベス女王が当時のロンドンの商人たちのひとりに対して云った言葉と非常によく似たものとなることを。女王は彼にこう云った。「そなたには、わらわの用事を果たすためハンブルグに行ってほしいのです」。そこで商人は云った。「ですが陛下。手前が不在にすれば、手前の商いが損してしまいますが」。「いいえ」、と女王は云った。「そうはなりません。そなたがわらわの用事を果たしてくれるなら、わらわがそなたの務めを果たしてあげましょう」。主は私たちが主を尊ぶなら、私たちを尊ぶと仰せになっている。そして、今の時代においてさえ、私たちが主のためにささげた百倍のものを私たちに与え、後の世では永遠のいのち[マコ10:30]を与えてくださるであろう。

 願わくは、愛する方々。あなたがたの中の誰も決してエリのようにならないように。彼は、自分の罪深い息子たちの破滅を嘆かざるをえなくなった。むしろ、あなたが自分の家庭において神を尊ぶように。そのとき、神もあなたを家庭で尊ばれるからである。誰にもまして尊ばれている人とは、自分の息子たち、孫たちに囲まれている年老いたキリスト者でなくて誰だろうか? その人は、どこから見ても一個の王である。たとい日雇い人夫の日銭以上のものを稼いだことが一度もなくとも関係ない。その人が自分の手をわが子の子どもたちの上に置くとき、また、自分の神が彼らの神にもなるよう祈願するとき、私はひとりの族長が、皇帝もうらやむほど壮大な姿で立っているような気がする。神は、あなたが家庭で神を尊ぶなら、そこであなたを尊ばれるであろう。

 さらにまた、神がご自分の民を尊ばれるのは、彼らの周囲の社会においてである。あなたがた、商店に入って、他の多くの者らとともに事務仕事をしている若い人たち。もしあなたが裏表なく、自分の旗幟を鮮明にして、忠実に神に仕えるとしたら、まず間違いなく、彼らはしばらくの間あなたをあざけるであろう。だが、もしあなたが裏表ない生き方を続けるなら、じきにあなたを尊敬するようになる。もしあなたが神を尊ぶなら、神はあなたを尊ばれるであろう。そして、あなたは社会の中で見いだすであろう。常に主をあなたの前に置いておくことは賢く、安全だということを。若い人たち。あなたがたの中の、田舎からロンドンに上京してきた人々は、こう考えがちになる。他の人々が安息日には礼拝所に行かないのだから、自分も実家でしていたように礼拝所に行くことはすまい、と。だが、私は切に願う。田舎での良い習慣を保つがいい。というのも、そうするとき、あなたの雇い主や、あなたの回りにいる人々は、はるかにあなたのことを高く評価するからである。そして、これはそれ自体では低俗で浅ましい動機だが、それでも、恵みの手段に携わる、より高貴な数々の理由の間にそれなりの位置を占めている。あなたは、重んずべき意見を有する人々の目において、誉れを得るであろう。

 また、もし私たちが神を尊ぶなら、神は私たちをいや広い広大な世界において尊ばれるであろう。私たちの影響力が届く限りはそうである。スミスフィールドに集まった、あの大群衆を眺めるがいい。その真中に立っている、あのみじめであわれな男は何者だろうか? 彼の回りにいる多くの者らは、極度の軽侮と嘲りをもって彼を眺めている。人々は彼を火刑柱に鎖で縛りつけ、乾いたそだ束を持ってくる。これから彼を焼き殺すためである。この男は何者だろうか? 群衆の中にいる人々は、彼が恐ろしい異端者だ、死んで当然だと叫ぶ。だが、フォックスの『殉教者伝』を開く人は見いだすであろう。そこで彼の名前が、十字架の英雄として死んだ気高い大勢の人々の間に記されているのを。彼がキリストのために苦しみを受けたがゆえに、神は彼を尊ばれた。そして、今日において、私たちの中の誰が、このように焼かれた殉教者となるよりも、彼を焼く手段となった枢機卿になりたいと思うだろうか? 誰があの、ピエモンテの峡谷の露と消えた、すべての無名の忠実な人々となるよりも、彼らを殺そうと共謀したサヴォイ公爵や、仏蘭西国王や、ローマ教皇になりたいと思うだろうか?

 そして、愛する方々。たとい神が私たちを人々の前では全く尊ばれないとしても、大したことではない。というのも、神を尊ぶ者たちを、神は彼ら自身の良心の中で尊ばれるからである。神はあなたを尊ぶことがおできになる。たとい他の誰も神がそうしておられることを見てとらないとしても関係ない。あなたが、その誉れに覚える満足は、あなたの名前と名声が全世界の前で公表された場合よりも大きなものであろう。かの雄弁家は、一団の聴衆に向かって演説していたとき、自分の聴衆がひとりを除いて全員出て行くことに気づいたが、そのたったひとりの聞き手に全く満足していた。というのも、そのひとりとはプラトンだったからである。そして、もしもこの世において、あなたの行動のために誰からの是認も得られないとしても、ただひとり神からの承認があなた自身の良心の中に明らかに示されるとしたら、あなたは満足して良いであろう。「われアタナシオスは、世界に抗する」は、かの忠実な信仰の英雄が口にできた気宇壮大な言葉であった。だが、もし神がアタナシオスとともにおられたとしたら、彼はそれと同じくらいこう云って良かったであろう。「われアタナシオスは、五十万もの世界に抗する」、と。というのも、全宇宙も神とくらべれば何だろうか? 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」[ロマ8:31]。神を尊ぶがいい。親元を離れてロンドンにやって来た、私の愛する若い方々。私はあなたが神を尊ぶことを切に願う。そして、たといあなたが身の回りの人々から、立派な人格ゆえに当然受けて良い評価を受けられないとしても、――たといあなたが暗雲の下に至っても、――たといあなたが結局において貧困と無名の人生を送らざるをえなくなっても、――それでも、あなたが正しいことを行なったという事実、また、神があなたを是認して微笑みかけ、良心の平安と、魂における静かな確信を与えておられるという事実は、あなたにとって十分な報いとなるであろう。

 しめくくりに思い起こさせたいこととして、私たちの中のいかなる者も、どれほど神が私たちを尊んでおられるかは決して分かっていない。私の兄弟よ。あなたは先日、高貴なことを行なったが、誰もそのためにあなたに、「感謝します」、とは云わなかった。あわれなやもめよ。あなたは、自分にあるだけを全部ささげた。――あなたの生活費の全部[マコ12:44]である二レプタをささげたが、そのことについては誰も知らなかった。だが、あなたは、人の息によって語られた名声でなければ、名声など全くないと思っているだろうか? 私たちの回りには、ほむべき霊が空中を舞っている。聖なる御使いたちの大群が聖徒たちを見つめており、彼らはあらゆる正しいことを見ており、是認している。そして、疑いもなく、しばしば、御使いたちの唇によって、立派な賞賛の言葉が発せられるであろう。そして、御使いたちが、神に対する聖徒たちの献身を見るときには、――定命の者らの目には見えない献身が見てとれるときには、――疑いもなくそうであろう。

 最後の最後に、やがて来たるべき日には、この地上がすべて燃え上がり、その大いなる、時代の完結という恐怖の中で、死者がよみがえることになるであろう。そして、兄弟よ。あなたも、そのひとりであろう。それから、喇叭が非常に高く長く鳴り響き、全人類が、また、堕落した霊たちが、審きのもとにやって来る。そして、そこで、これまで一度も目にされたことがないような群衆の中で、かつて蔑まれ、誤り伝えられ、迫害されてきた、正義に従い、いかなる犠牲を払っても神を尊んできた者たちは、集められた宇宙の前で万物の主からの誉れを受け取るのである。あなたの頭を上に上げるがいい。おゝ、あなたがた、神の子どもたち。というのも、あなたの贖いが近づいたからである![ルカ21:28] ある人々にとって、自分の主君の手からヴィクトリア十字勲章を受ける日、あるいは、上院議員に列せられる日は、大いなる日である。だが、それより、はるかにまさって高貴な栄誉となるのは、キリストが義人たちにこう仰せになるときである。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」[マタ25:34]。そして、主が忠実にご自分に仕えてきたひとりひとりにこう云われるときである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」[マタ25:21]。兄弟姉妹。もし神によって救われているなら、来たるべき審きの日の光に照らされている者として生きようではないか。そして、願わくは主がその日に私たちをあわれみ、私たちを尊んでくださるように。なぜなら、まずその恵みによって、主は私たちがご自分を尊ぶようにしてくださったからである!

 あなたがた、神を尊ぶことなど決して考えず、決して神に頓着しない人々について云えば、あなたの滅びは定まっている。今、あなたが歩んでいる道を歩み続けるならそうである。もしあなたが、いかにすれば地獄に堕ちることができるか知りたければ、ほんの少しないがしろにするだけでそれは確実になるであろう。「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」[ヘブ2:3]。残念ながら、あなたがたの中の多くの人々は、そうしたないがしろにする生き方をしているのではないかと思う。願わくは聖霊が、まさに今このとき、恵み深くもあなたをそこから立ち返らせ、主を求めさせ、イエスを信じさせてくださるように。それはあなたも、罪を告白し、御子イエス・キリストを信じることによって、神を尊ぶようになるためである。そのキリストを神は罪のためのなだめの供え物として示しておられる。そのとき、本日の聖句の約束は、あなたにとっても真実であることが分かるであろう。神は、あなたが神を尊んできたのと同じように、あなたを尊んでくださるからである。

尊ぶ者は尊ばれる[了]

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