捜査令状
NO. 2898
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---- 1904年8月25日、木曜日発行の説教 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1861-1862年冬、主日夜
「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます」。――ヨハ6:64
まことに、そうである! しかり。心を探るお方がそう仰せになる。ならば、いいかげんに私たちもこう尋ねるべきである。「キリストを信じるとはどういうことだろうか? 魂が救われるように信じるとはどういうことだろうか?」、と。それは、単に福音が真理であると思うことではない。単にキリストは神であるとの教理を承認することではない。健全な信条を奉じている人々が、尊い信仰に欠けていることもありえる。また、キリストの《神性》を見事な学識をもって弁護できる人々が、それにもかかわらず、この世にあって神もない[エペ2:12]人であることもありえる。キリストを信ずることには、キリスト教信仰の告白よりも、はるかに大きなものが含まれる。それは、福音のほむべき望みを自分のものとするために、福音を信ずるとともに他の一切の信条や信念を捨て去るということである。みことばの純粋な教えの文字まで受け入れることである。あるいは、言葉を換えると、イエスのもとに行き、あなた自身の魂によって、主の救い給う力を証明することである。
さながら、アブラハムがその信仰によって、自分の父の家を離れ[創12:1]、エホバの守り給う配慮の下に身をゆだねたように、人は救いに至る信仰によって自分の自己充足を離れ、自分の生来の原始的な住まいを農場のように取り囲んでいる肉的な追求や野心の一切を捨て去り、イエス・キリストによって導かれ、どこに行くのかを知らないで[ヘブ11:8]出発するのである。さながら信仰によって遊女ラハブがエリコの破滅を見越して、自分の窓から赤い紐[ヨシ2:21]を垂らし、その後、自分の家の中で安心してじっとしていた――その家が建て込まれていた城壁が揺らぎつつあるときもそうしていた――ように、信仰によって罪人は、かの注ぎかけの血[ヘブ12:24]に近づき、自分の魂という窓に贖いの約束を垂らしておく。そして、自分自身は生まれながら他の人々にまさる所が何もないと感じはしても、安心してじっとしている。その赤い紐がそこにあり、それで安全だからである。あるいは、別の比喩を用いれば、それは、さながら、あのヘブル人の家長たちが子羊をほふり、その血にヒソプの束を浸し、それを自分の家のかもいと二本の門柱につけては[出12:22]、静かに《過越》の夕食を食べたのと同じである。確かに彼は、滅びの御使いがエジプトの国中を飛び回っていることは分かっていても、また、もしかすると、死に行く者たちの悲鳴や、遺された者たちの呻きさえ聞こえたかもしれなくとも、それでも自分の家の中に穏やかにとどまっていた。たとい自分があらゆる人々の中で最も咎深い者であるとしても、神の約束に従い、かの血が自分の安全を確保することを知っていたからである。
ということは、イエスを信じるとは、私たちのためにイエスが行なわれたことに自分の魂の救いをかけて信頼し、イエスが私たちの中で行なっておられることをわきまえ知り、私たちを完全に救うというその約束に全くより頼むことである。それは、目まいがするような高みで私たちの足場となっている、自分を義とする腐りきった材木の上から飛び降りること、――そして、私たちを喜んで迎え入れようと立っておられるお方の全能の御腕の中に飛び込むことである。自分自身の紡いできた襤褸服を破り捨て、天からの義にまとわれようとすることである。信仰は、見るところの逆である。それは、罪が私たちに、お前は失われているぞと告げるときも、自分は救われるのだと信じることである。今なお自分の内側に汚れを感じるときも、キリストは自分をきよめてくださったのだと信じることである。密雲や黒雲が行く手を包み込み、疑いや恐れが心を乱すときも、やがて自分は栄光の中で主の御顔を見ることになるのだと信じることである。これこそ、魂を救う信仰である。
私たちは、功徳となるわざとしての信仰そのものによって救われるのではない。神を信じることには、何の功績もない。たといあったとしても、それが私たちを救うことはなかった。功績による救いは、きっぱりと厳粛に排除されているからである。また、信仰は、1つの主動因として私たちを救うのでもない。信仰は救いの経路であって、救いの源泉や出所ではない。こういうわけで、信仰は、救いはしても、決して誇らない。誇る者に信仰はないのである。また、信仰を有する者はこう云うことができる。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」[ガラ6:14]。あの燃える蛇に噛まれたあわれな人は、旗ざおの上につけた青銅の蛇を仰ぎ見たとき、その目によって救われた[民21:9]。だが、その人を癒す主たる動因となったのは、見るという功績でも、その人の目でもなかった。むしろ、そのすべての栄光は、青銅の蛇が、それを仰ぎ見るすべての者を癒す手段となるようにお定めになった神に帰されるべきであった。そのように、信仰は、私たちがキリストを仰ぎ見る目である。だが、そのこと自体には何の功績も効力もない。あらゆる功績と効力は、私たちが仰ぎ見るお方の尊い血に存している。
また、信仰は空っぽの手である。しかり。それは、らい病のごとき罪人の不潔な手であり、キリストはご自分のあわれみをその黒い手に乗せてくださる。その手に何か功徳があるだろうか? 決してそのようなことはない! その手に何か救う効力があるだろうか? おゝ、否。私の兄弟たち。与え給う御手こそ栄光を受けなくてはならない。受け取る手ではない。誉れを受けなくてはならないのは祝福を授けるお方がであって、そのお方から祝福を受け取る手段となる信仰ではない。
さて、このように、何が信仰であるかについて語ってきた上で、また、救いのみわざにおける信仰の独特の立場を示してきた上で、本日の聖句は、私に1つのことを厳粛に思い起こさせている。「あなたがたのうちには信じない者がいます」、と。文脈を見ると、このことばは、キリストがその弟子たちにお語りになったものである。彼らは主の回りに集まっていた。そして、主が彼らに語られたことは、彼らにとって、あまりにも「ひどい」[ヨハ6:60]ことばで、受け入れられなかった。そこで主イエスは、彼らの心を読んで、こう仰せになることができた。「あなたがたのうちには信じない者がいます」。そして、霊感された《福音書記者》は、こう云い足している。「イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである」[ヨハ6:64]。これから私が語ろうと思うのは、第一に、その不信仰が隠されている人々についてである。そして第二に、不信者であると私たちに知られている人々についてである。
I. 第一に、《ある人々の不信仰は隠されている》。それは、キリストにしか知られていない。
もしあなたが、キリストのこの弟子たちを眺めてきたとしたら、彼らは永遠のいのちという賜物を受けているものと判断していたことであろう。あなたはこう云っていたであろう。「私がこの人たちの誰かを罪に定めることなど決してあってはならない。彼らは、不敬虔な世代の中から出てきて、ナザレの《預言者》に従うと告白しているではないか!」 確かに私たちが自分の同胞たちをさばくことは間違いであろうが、イエスはご自分の弟子たちをさばき、それも正しくさばかれた。というのも、主は心まで見抜くことがおできになるからである。主は、あらゆる人々の隠れた思い、意図、そして動機を見分けることがおできになる。そして、来るべき日には、最終的に全人類をお審きになる。主の目は今でさえ、偽善者の偽装を刺し貫いている。だが、やがて主の御手はそれを引き裂き、主はご自分に向かって、「主よ! 主よ!」、と叫ぶ者たちにこう仰せになるであろう。――「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」[マタ7:23]。私たちには、彼らのうつろさが分からないが、キリストはその一切をご存知である。そして、もし聖霊が私たちを助けてくださるなら、私たちはそれを彼らに示すことができるかもしれない。おゝ、今しも、そうなるならばどんなに良いことか! そして、そうした人々が、その魂の秘密を暴かれて立ち、その良心に罪を確信させられ、自分に信仰がないことを見てとって、今それを求めるようになればどんなに良いことか!
ここには、驚き恐れ、心を探るべき、いかなる理由があることか。というのも、残念ながら、教役者職についている人々の中にさえ、信仰を有していない者らがいるのではないかと思われるからである。左様。兄弟たち。いかなる時代にも、神の使節の衣をまとっていながら、自らは神との平和を得ていないと云う人々がいたのである。これは厳粛で、ぞっとさせられる事実だが、ある人々は聖餐卓のパンを裂く者であり、神のイスラエルの指導者でありながら、それにもかかわらず、このことについて何の関係もなく、それにあずかることも[使8:21]できなかった。教役者職にある兄弟たち。また、時に応じてみことばを宣べ伝えに出て行く青年たち。また、やがて牧師として赴任しようと希望している人たち。自らにこう問いかけようではないか。――私たちは、自らがみことばを宣べ伝えていながら、信仰を持っていないということがありえないだろうか? 私たちは、他の人々を教えようとしていながら、自らは学んでいないのではないだろうか? 私たちは、キリストの《教会》を建設するために用いられる足場でしかなく、私たち自身は、その霊的な建物の一部でないということがないだろうか? あるいは、ノアの労務者たちのように、箱舟を建造する助けは行ないながら、自分自身はあの大洪水によって溺れてしまうということはないだろうか? エリヤの烏のように、アハブの食卓からパンと肉をもたらしていながら、自らは凶兆を示す、汚れた鳥のままでいることはないだろうか? このように真剣に自問しようではないか。というのも、神は時として悪人たちによって良いわざを行なわれるからである。だが、だからといって、そうした者ら自身が救われることはないのである。まさにユダはそうであった。彼は、他の使徒たちと同じく数々の奇蹟を行ない、彼らと同じく説教をしていたが、それにもかかわらず、「滅びの子」[ヨハ17:12]であり、失われた者たちの間にある「自分のところ」[使1:25]へ行ってしまったからである。
さらに、ある人々は、教会の他の役職にありながら、信仰を有していないということがありえるではないだろうか? 兄弟たち。あなたがた、イスラエルの父である人たちに向かって語らせてほしい。私自身は若輩者だが、それでも、神の使信を語る神のしもべとして、権威をもってあなたがたに語る。あなたは、教会の執事として食卓のことに仕えていながら、自分自身は、キリストの食卓に闖入しているということはありえないだろうか? あなたは、長老であり、他の人々の監督者でありながら、こう云わなくてはならないかもしれない。「彼らは私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」*[雅1:6]。人々の魂の見張り人とされるのは厳粛なことである。だが、他人を見張ってきた後で、私たち自身の魂がまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる[使8:23]としたら、私たちの立場はいかなるものとなるだろうか? 「私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください」[Iコリ10:15]。役職についていようが、教会から選ばれていようが、あなたの救いが保証されるわけでは決してない。
そして、このことは、一部の教役者たち、また、一部の教会役員たちについて云えるのと同じように、敬神の念からなされる様々な働きに携わっている他の人々についても云える。神に感謝すべきことに、この場には多くの《日曜学校》教師たち、小冊子配布者たち、路傍伝道者たちがいる。――事実、私の希望するところ、この教会には、何がしかのしかたで、定期的に善を施すことに携わっていない人は、ごく僅かしかいないはずである。たとい、そうした人々の間に、信じていない人が誰かいるとしても、幸いなことに、私はそうした人を知らないと云える。それでも、愛する方々。あなは《日曜学校》の担任でありながら、あなた自身が、小さな子どものようになって、天国に入ることを必要としていることもありえる。あなたは街路で、あるいは、家から家へと、あわれみの使信を他の人々に伝えていながら、あなた自身があわれみを必要としていることはありえないだろうか? もし悲しくもあなたがそうだとしたら、あなたは、らい病にかかった手で、薬を病人に渡している人に似ている。用心するがいい。キリスト教の働き人たち。この、幾多のことを行なわなくてはならない活動の日に、あなたが信仰の個人的な行ないをないがしろにし、あなたの魂をキリストに結び合わせていないということがないように。この死活に関わる、重要きわまりない問題に注意するがいい。あなたにできる限り、杯や皿の外側[マタ23:25]をきよめるがいい。だが、その内側が偽善で一杯ということがないようにするがいい。あなたがいかに活発に主のための奉仕をしていようと、私は願う。あなたの全面的な自己吟味が、あなたの外側に向かう熱心さと同じくらい真剣なものであるようにと。願わくはあなたが、他の人々に救いを宣べ伝えるのと同じくらい、自分自身が救われることにも関心を持つように!
ここで、一般の教会員に向かって話をしよう。私は、神がこの教会に毎日人を加えておられることに感謝している。時として私は、こういう囁きを小耳に挟むことがある。すなわち、私たちの中の、教会の交わりに加わろうとする候補者たちを吟味する者たちが、そうした人々について下す判断は厳しすぎるというのである。それとは逆に、ある人々は、私たちが十分に心を探っていないという。兄弟たち。私にとっても、キリストにある私の同労者たちにとっても、こう云えるとしたら十分である。すなわち、この件において私たちは、真心から、人のご機嫌とりのような、うわべだけの仕え方でなく[エペ6:5-6]、神に仕えることを求めてきた、と。私がまことに信ずるところ、ほとんどの場合、私たちが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、私たちが地上で解くなら、それは天においても解かれている[マタ18:18]、と。いずれにせよ、このことだけは云える。もし私たちが、いずれかの場合に間違ったことがあるとしたら、それは、情実や偏見によるものではない、と。むしろ、私たちは、自分の心を天にささげた後で、あらゆる場合において、正しいさばき[ヨハ7:24]をしようと努めてきた。それでも、いかに注意を払ったとしても、天の帷の下では、いかなる単一の教会も完璧ではない。今この場にいる、あなたがたの中のある人々は、この教会の会員であり、別の人々は他の教会の会員であるが、ほぼ確実に、「あなたがたのうちには信じない者がいます」。私は、麦からどす黒い麦を分離できるふりはしない。だが、イエスにはそれがおできになる。主は、あなたがたの中の信仰を持っていない者らをご存知である。あなたは信仰について話をするかもしれないが、実は自分ではそれを有していないことがありえる。大いなる祈りの賜物を有しているかもしれないが、信仰を有していないことがありえる。そこそこの説教者であるかもしれないが、それでも信仰を有していないことがありえる。同胞たちの前では廉直に歩んでいるかもしれないが、信仰を有していないことがありえる。あらゆる聖なるわざに気前よく寄付しているかもしれないが、それでも信仰を有していないことがありえる。人はキリスト者になりかかっていながらも、それでも結局は、いかに失われてしまうことがありえることか! あるまがい物は、本物そっくりにできていて、人々が何度も何度も目を凝らそうと、本物をまがい物と、また、まがい物を本物と宣言することがあるかもしれない。願わくは、もしこの会衆の中に、生きているとされているが、実は死んでいる[黙3:1]者が誰かいるとしたら、そうした人々が手遅れになる前に目覚めさせられ、神の前における自分の真の状態を感じとることになり、キリストからいのちをいただけるように! 兄弟たち。今の瞬間においては、私は、キリストにある恩恵に自分があずかっていることに何の疑いをいだいているとも思わない。それでも、私に確実に分かっているのは、これほどの確信を有しているということは非常に厳粛であり、こうした件に関して増上慢であるとしたら地獄に落ちるべきだということである。時として、私たちはみな、居住まいを正して、真剣にこう問うのが有益であろう。「こうした事がらは本当だろうか、正しいだろうか?」 自分の信仰の土台そのものまで掘り返し、私たちが永遠のために建てているものが何に根拠を置いているか見てみよう。時として、私たちの過去の経験はみな、大風の中にある水夫の帆のように、びりびりに吹き飛ばされてしまうであろう。時として、私たちの最も強固な証拠が、嵐の猛威によって砕かれる帆柱のように、へし折られるであろう。時として、私たちの一切の慰めや喜びが、難航している船上から洗い流される鶏かごのように、なくなってしまうであろう。おゝ、そのような時には、何とほむべきことであろう。私たちの大船首錨を海に下ろし、穏やかにこう歌うことができるとは。――
「大風(かぜ)の嵐(あら)ぶり 高くとも
我れが錨(いかり)は 幕内(まく)にあり」。ある人がこう云えるとしよう。――
「御誓言(みこと)と契約(ちかい)、その血潮、
大洪水(みず)の中でも われ支(ささ)えん」。――その人は、自分が永遠に安泰であること、イエスが実際に自分の《救い主》であられることを感じて良い。願わくは聖霊があなたに判断を下させてくださるように。――というのも、私たちには、あなたがこの救いに至る信仰を有しているかいないか判断できないからである!
II. さて、第二のこととして語りたいのは、《私たちに不信者であると知られている人々》についてである。
最初に、この場には非常に喜ばしい種別の人々がいる。そうした人々はこう云う。「私たちは信仰を有していませんが、ぜひともそれを有したいと思っています」。愛する方々。私はあなたがたのゆえに、神をほめたたえる。また、あなたのような人たちが何千人もいれば良いのにと思う。あなたは、自分がキリストを必要としていると感じており、救われたいと切望している。罪を憎み、自分を義とする思いを憎んでいる。それでも、あなたは信仰を有していない。いくつかの特定の質問を、あなたがたひとりひとりはしばしば私たちに発する。「私はキリストを信じても良いでしょうか?」 答えよう。――もちろん、信じて良い。キリストはあなたがそうするよう命じておられ、主があなたに行なうよう命じていることを、あなたは行なって良いからである。「しかし、私は主を信ずるのにふさわしい者でしょうか?」 いかなるふさわしさも要求されてはいない。「しかし、私はイエスを信じて良いような人間でしょうか?」 いかなる特別な人間も示唆されてはいない。福音はそのように進むものであり、すべての造られた者に[マコ16:15]宣べ伝えられるべきだからである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。果たしてあなたがイエスを信じて良いかどうかという問いについて云えば、あなたが誰であれ、私は云う。しかり、確かに。来て、迎(い)れられよ、と。キリストはこう云っておられるからである。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」[黙22:17]。おそらく次のあなたの問いはこうであろう。「私は信じることができるでしょうか?」 私には分からない。だが、あなたにはできると私は思うべきである。あなたに、いくつかの問いを発してみたい。――あなたは、キリストが神であると信じられるだろうか? 「はい」。神が仰せになることは何でも信じられるだろうか? 「はい」。ならば、あなたは信じることができる。というのも、キリストがこう云っておられ、キリストは神だからである。――すなわち、キリストは、失われた人を捜して救うために来たのである[ルカ19:10]。そして、あなたは失われた人である。神は、そのしもべ、使徒パウロを通してこう云っておられる。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]。そして、あなたは自分が罪人であると知っている。それゆえ、主はあなたを救うためにこの世に来られたのである。確かにあなたはそれを信じることができよう。私の知っている多くの人々は、自分には信じることができないと云っているが、実は信じることができるのに、それを知らないのである。ならば、いかにして、これほど多くの人々が信じないのだろうか?
その大きな理由は、そうした人々が信じようとしないからである。そうした人々はあまりにも高慢であり、自分自身の義をあまりにも愛しており、自分のことをキリストの義に服するにはあまりにも賢すぎると考えているのである。しかし、あなたは云う。「私はイエスを信じることができるでしょうか?」 むしろ私は云いたい。――できるでしょうか? 私はあなたにこう問おう。あなたがた、地獄のどす黒い人たち。あなたは、キリストにあなたを救う力があると信じられるだろうか? 「はい、先生」、とあなたは云う。「それは信じられます」。あなたは、キリストが喜んであなたを救おうとしていると信じられるだろうか?――そうあられる通りに善にして恵み深いキリストは、――十字架にかかりながら、ご自分に信頼するようあなたに命じているのである。「おゝ、先生!」、とあなたは云う。「私は、信じずにはいられません」。よろしい。ならば、あなたは、自分が信じられることを証明したのである。というのも、あなたは、すでにそうしているからである。私はかつて、キリストを信じるとは何か神秘的なものであり、それがいかなるものか理解することはできないと思っていた。だが、それが、ただ、「わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]、というだけのことであると聞いたとき、私は発見したのである。それがこれほど難しい唯一の理由は、あまりにも簡単すぎることにあるのだ、と。もしそれがもっと難しい問題だったとしたら、私の高慢な霊はそれを成し遂げようと試みたことであろう。だが、それがそれほど簡単であるため、私の高慢な霊はそれをしようとしなかったのである。あなたも、なぜナアマンがあの預言者の命じた通りにヨルダン川で身を洗うことができなかったか覚えているであろう。それは、彼がそうしようとしなかったからである。彼の高慢な霊がそうさせなかったのである。「私はこう考えていたのに」、と彼は云った。――それこそ元凶であった。彼に、何の考える権利があっただろうか? 「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」[II列5:11-12]。だからこそ彼はヨルダン川で洗うことができなかったのである。そうしようとせず、いくつもの質問を発することにこだわり、神よりも賢い者であろうとしたがったからである。
おゝ、試みられた心よ。あなたは信じて良い。そして、私はあなたが信じられると云って良いと思う! 神は真実であられ、あなたはそのことを知っている。また、あなたがそれを知っているとき、信じることは難しくない。キリストは救うことがおできになる。あなたはそう知っている。ならば、キリストを信じることは困難であるはずがない。キリストは喜んであなたを救おうとしておられる。あなたはそう知っている。ならば、あなたがキリストを信じるのは難しいだろうか。
それで私は、あなたが信じられると云うものである。願わくは神があなたを祝福し、喜んで信じる者としてくださるように。というのも、もし神があなたを喜んでそうする者としてくださるなら、神は確かにあなたに、あなたが信じることができると示してくださるに違いないからである。
信仰を有さない次の種別の人々は、このように、ぜひとも信仰を有したいという人々ほどは私たちが喜べない人々、つまり、絶望している人々である。ある魂たちは、自分の罪が非常に重いと感じている。この人たちは、福音を忠実に宣べ伝えられてはいるが、あまりに高慢すぎるため、キリストが自分たちを喜んで救おうとしていることを認めようとしない。それで、キリストのもとに行こうとしないのである。世には、高慢な謙遜というものがある。ある人が、一種の卑しい自己像を感じる場合である。「いいえ」、とその人は云う。「私はその薬を飲みません。私の病気は重すぎます」。さて、その人は、霊的には、自殺者も同然である。毒を飲むか、自刃したのと同じである。神はあなたを救うことができると仰せになっているのに、あなたは、神にはそんなことはできないと云う。神の約束に面と向かって嘘だと云い、神が偽りを云ったと非難するのである。使徒パウロは、霊感の下で書きながら、キリストがご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになると云う[ヘブ7:25]。だが、あなたは実質的にこう云っている。「否、キリストにそんなことはできない」。何と、あなたはサタンの真似をして、自分の知恵を神の知恵の代わりに打ち立て、神のことばを真実なものとして受け入れようとしないのである。
私は、キリストが自分のような罪人を救うことができると最初に聞いたとき、そんなうまい話があるはずないと思ったことを覚えている。だが聖霊が私を導いて主を信頼させてくださり、そのとき、私がそれが真実であると分かった。かりにあなたが、あわれでみじめな乞食だったとして、ここにいる誰か善良な人があなたにこう云ったとしよう。「私の家に来てください。良い地位につけてあげましょう。否、それ以上です。私は、あなたを私の家族にします。そして、私の息子、また相続人にしてあげます」。あなたは云うであろう。「よろしい。そんなことはほとんど信じられない。だが、行って、それが本当かどうか見てみよう」。私は、それよりもはるかに大きなことをあなたに約束された神に向かってあなたがこう云ってほしいと思う。「主よ。私は地獄の外側にいる者たちの中でも最もどす黒い罪人です。ですが、あなたは、お心一つで、私をきよめることがおできになります[マタ8:2]。主よ。そうしてください。私はあなたに身をゆだねます」。そして、あわれな絶望する魂よ。かりにあなたがこう云ったとしよう。「私が相手にしなくてはならないのは神なのだ。そして、神には何でもおできになるのだ。私が相手にしなくてはならないのは、死に給う《救い主》なのだ。そして、この方は喜んで救おうとしておられるに違いない。私が考えなくてはならないのは、よみがえられた《贖い主》なのだ。この方は私の魂に平和を告げることがおできになるし、そうしようとしてくださるのだ」。――もしあなたがこのように自分を主にまかせることができるとしたら、あなたは神に誉れを帰すことになり、あなたも救われるであろう。
しかし、それよりも大きな種別の人々がおり、ことによると、ずっと大きな危険に陥っているかもしれない。つまり、無頓着で、考えなしの人々である。あなたがたの中のいかに多くの人々が、好奇心からこの場所にやって来ては、二度とここにやって来ることがないことであろう? あなたにとって、死は1つの夢であり、天国は1つの虚構であり、地獄は根も鼻もない化け物である。あなたは、神のことばが真実であると知っているが、その種々の警告や脅かしについてわざわざ考えようとは決してしない。あなたは云う。「さあ、飲み食いして楽しもうではないか」。だが..あなたの不滅の魂について云えば、自分の卵を荒野に置き去りにするだちょうも同然に、あなたはそれを放りっぱなしにしている。二、三分かけて、あなたにこう示させてほしい。たといあなたが自分の魂について気遣っていないとしても、私はあなたの魂を気遣っている、と。あなたがた、自分の霊的幸福に無関心な人たち。あなたが、天下の最も望みない種別に属していることを覚えておくがいい。私が注意してきたところ、自分の通う礼拝所を次々に変える癖のついた人々は、ごくまれにしか救われない。だが、それはその人々が真理に反対しているからではない。しかり。もしそうだとしたら、まだそうした人々にも多少は望みがある。家に帰ってから、一個の火打石と、それと同じ大きさの消し護謨の玉を取り上げて見るがいい。そして、金槌を取って、その双方に叩きつけるがいい。護謨玉を叩くたびに、それはぐにゃりと曲がるが、たちまち元の形に戻ってしまう。火打石を金槌で叩けば、しばらくの間は全く何の影響も及ぼされないが、まもなくすると、一撃した後で、みしみしと粉砕されてしまう。あなたがたの中の多くの人々は、消し護謨の玉のようである。福音の説教の下で、あなたは関心をいだき、感動し、感化されるが、その印象は決してさほど深くなく、あなたはすぐに元の形に戻ってしまう。あなたは、天的な事がらについて底が浅く、私たちはあなたの良心に触れることも、あなたの心に達することもできない。――そうできたなら、どんなに良いことか!
しかしながら、私は切に願う。覚えておいてほしいが、来たるべき時には、死が私よりもはるかに効果的にあなたに説教するであろう。思い出されるのは、ひとりの若い婦人の物語である。彼女は美しく、麗しい令嬢であり、その母親の自慢の種であった。母によって彼女は、すでにその町のあらゆる上流社会の集まりに紹介されていた。彼女の衣装は常に似合いの、だが高価なもので、華美ですらあった。彼女の生活はただ、社交会を次々に飛び回り、様々な娯楽を次々に満喫するためにだけ送られていた。彼女の母親が気づかなかったのは、――えてして母親というものは、そうしたことに注目しないものだが、――娘の顔色がおそろしく蒼白になりつつあることであった。その健康は急激に衰え、ついにこの母親を恐怖させ、娘をうろたえさせたことに、医師がこう告げないわけにはいかなくなった。ご令嬢の余命は、長くてもう数週間でしょう、と。母も娘も、それまで教役者たちのことなど一度も気にかけていなかった。キリスト教信仰は、彼女たちの選んだ数々の目当ての前に立ちはだかることとなっていたであろう。それで、それを避けていたのである。だが、今や教役者が呼びにやられた。彼は、熱心で忠実な、キリストに仕えるしもべであった。それで、気休めを云って安心させる代わりに、死と、審きと、永遠と、神の怒りについて語り始めた。この若い婦人は、彼の言葉の力と真実さとに深く感じ入り、母親に向かってこう云った。「お母様は、いったい今まで私に何をなさってきたの。お母様のおかげで、私は、綺麗なお洋服や、社交会や、お楽しみのためにだけ生きればいいと信じてきたわ。なぜ私が必ず死ぬことを教えてくださらなかったの? なぜ永遠のため備えるよう仰らなかったの? おゝ、お母様。私がじきにこの世を離れて行かなくてはならないこと、永遠の状態に入らなくてはならないことを、教えてくださっていたなら!」 彼女は人々に、自分の最後の装飾品を持ち出すように頼んでから、こう云った。「お母様。今ではもう手遅れよ。私は死にます。でも、これを持ち上げて、眺めてみて頂戴。そして、もう二度と、私を育てたようには子どもを育てないでね。そして、お母様のことについて云えば、後生だから考えて。お母様も、やはり、じきに死ななくてはならないのよ」。
それで私は、この場にいる無頓着な人たち全員に云う。――あなたが遅かれ早かれ入らざるをえない墓穴のことを考えるがいい。自分の臨終の時のことを、また、そのための唯一の備えのことを考えるがいい。確かに今のあなたは全く信仰を有していないが、願わくは、そのまま長くとどまりはしないように。むしろ、まさに今から主イエス・キリストを信じる信仰を求め始め、見いだすように! というのも、覚えておくがいい。キリストを信じないということは、すでに神の怒りにさらされているということなのである。キリストを信じないということは、救いがなく、すでに審かれているということなのである。多くの人々は、いま現在の救いを有するとはいかなることか分かっていない。だが神をほむべきことに、やはり多くの人々は、いま現在の救いがいかなるものかを知っている。あなたは、それがいかなるものか知っているだろうか? つい先頃、私はこう質問された。「人がいま救われることは可能でしょうか?」 可能かと? 可能かと? もし人がいま救われることが可能でないとしたら、人が救われることなど全く不可能である。だが、使徒パウロは私たちにこう請け合っている。「今は恵みの時、今は救いの日です」[IIコリ6:2]。そして、いかなる人も、この現在の救いが真に自分のものであると感じ、知るまでは、目を眠らせたり、まぶたにまどろませたりすべきではない。おゝ、自分がいま赦され、いま祝福され、いま救われていると知ることによって、いかなる平安が得られることか! おゝ、こう云えることはいかに甘やかなことであろう! 神は自分の御父であり、自分は神の子どもである、と。また、神は自分を完璧かつ完全に守り、ご自分のおられる所に私が永遠にいられるようにしてくださる、と。おゝ、この現在の救いの数ある喜びはいかばかりであろう! それは王の玉座にもまさっている。君主の財宝にもまさっている。現在の救い、――それは地上の天国である。不滅の平安の控室である。地上の天国を知ることができるのは、ただ救われている人々、自分が救われていると知っている人々だけである。願わくは、愛する方々。それがあなたと私について云えることであるように! キリストご自身のことばはこうである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。願わくは神が私たち全員を祝福し、真の信仰を与えてくださるように。それを有するすべての者にとって永遠のいのちである信仰を。イエスのゆえに! アーメン。
捜査令状[了]
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