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安息なし! 平安なし!

NO. 2886

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1904年6月2日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年5月21日、主日夜


「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる」。――イザ57:20、21


 キリストを信ずる信仰者の最大の特権となるのが、このえり抜きの祝福、安息と平安である。キリスト・イエスを信じ、永遠のいのちに至っているその人は、自分の罪が許されていること、自分が神の子どもであること、全能者が自分を最後まで守ってくださること、そして、自分がやがてキリストのおられる所にいるようになること、単にキリストのご栄光を見るだけでなく、それに永久永遠にあずかるだろうことを知っている。その結果、その人の心は静まっている。というのも、現世のことであれ未来のことであれ、自分を心配させることはみな、自分の《天の御父》の御手にゆだねており、自分のことを心配してくださるお方に自分の思い煩いを一切ゆだねている[Iペテ5:7]からである。それゆえ、その人は魂に平安を、完璧な平安を有している。この、信仰者がいま現在享受している平安と安息は、より深まり、増し加わり、ついには永遠において、その完璧さに達することになる。そして、神の子どもは、永久かつ永遠に、天上のほむべき状態にあり、ほんの微かな心の乱れすらなく、神の御前で安らぎ、栄化されたその霊は、ありうる限りの喜びに満たされるであろう。使徒パウロは真実にこう書いている。「信じた私たちは安息にはいるのです」[ヘブ4:3]。だが彼は、それと同じくらい真実にこう云い足している。「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」[ヘブ4:9]。

 しかしながら、こうした、安息と平安というえり抜きの特権は、ただ信仰者たちにしか属していない。「悪者ども」は、それにあずかることがない。彼らは、聖書の証言によると、決して静まりかえることがなく、どれほど穏やかな際であれ、乱れ騒ぐ海のようである。それは決して安息所としては頼りにできず、むしろ、時として激しい擾乱に叩き込まれ、煮えたぎる大釜の中身のように変動絶え間なく、その奥底から、それまで見えることなくひそんでいた海草と泥を巻き上げるのである。――これが、新しくされていない人の新生されざる心の状態にほかならない。

 本日の聖句の中で、私は2つのことについて語りたいと思う。第一に、述べられた1つの事実である。「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ」。第二に、云い渡された1つの判決である。「『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる」。

 I. まず第一に、ここでは、《1つの事実が述べられている》。――すなわち、悪者どもは、荒れ狂う海のようである。この悪者である人々、この大しけとなった海洋の静まらない波浪のような人々、――この言葉は、2つの種別の罪人たちを描写しているものと受けとりたい。

 まず最初に、聖書で用いられる「悪者ども」という表現で、私たちがしばしば理解しなくてはならないのは、公然とそむく者たちである。――表立った、知られた罪にふけりながら暮らしている人々である。そして二番目に、別の種別の罪人たちがいる。――いま言及した他の人々のように、あからさまにそむく者たちではないが、それでも、この人々は、福音を聞いたことがありながら、それを拒否している。この人々の罪には、それを特にはなはだしいものとするものがある。なぜなら、この人々は光と数々の特権を受けていながら、それを蔑むか、ないがしろにするかしてきたからである。そうである以上、こうした人々もまた、「悪者ども」とともに記さなくてはならない。こうした人々もやはり、「荒れ狂う海のよう」で、「静まることができ」ないからである。まずは前者、すなわち、そのもろもろの罪が、パウロの云うように、「前から、だれの目にも明らか」[Iテモ5:24]である人々から始めよう。なぜこうした人々は、安息がなく、平安がないのだろうか?

 最初のこととして、こうした人々自身が落ち着かない種々の情動に支配されているからである。ある種の罪は、人がそれにふけっている限り、そうした人々を静かにさせておかない。例えば、情欲の罪を取り上げてみよう。だれがその渇望を満足させられるだろうか? 人が一度でもその種々の邪悪な情欲にふけったとする。そうした情欲を満足させることができるだろうか? 否、それらは、いやまして飢え渇き続ける。塩水を飲んだ人が、のどの渇きをさらに増すようにである。情欲が、自ら進んでその渇望を止めるようなことがあるだろうか? 否。それは墓穴そのもののように飽くことを知らず、ある人のいのちそのものを吸い尽くしてしまう。神の恵みが、あわれみ深くも奇蹟的に介入しない限りそうである。若者よ。もしあなたが、誤って快楽の追求と呼ばれているものにふけっているとしたら、何にもまして確実に、その方角では自分の魂のための安息を見いださないであろう! あなたは、自分の血を熱く興奮させる毒を服用してしまったのであり、それによって安息は、あなたの枕から逃げ去ってしまう。これは、このような公の集会の中で、これ以上口にできない主題である。ただし、もう一言だけ古の説教者とともに云っておく。「若者よ、知るがいい。こうしたすべてのことゆえに、神があなたを審きに至らせることを!」 善良なドッドリジ博士の厳粛な訓戒をあなたの心に銘記し、博士とともに云うがいい。――

   「いかにわが心(たま) 耐ええんや、
    かの戦慄(おそる)べき、
    御顔を前にし 地も天も
    驚愕(おどろ)き縮む その日をば」。

それから、その熱心な勧告に耳を傾け、単に耳を傾けるだけでなく、ただちに従うがいい。――

   「罪人、求めよ、御恵みを、
    汝れは御怒(いかり)に よく耐えじ。
    飛べよ、十字架(き)の上(え)の 逃れ場へ、
    そこにて得よや、救いをば」。

 次に、怒りの罪を取り上げてみよう。ある人々は、たちまち怒りを発するが、それと同じくらいすみやかに頭を冷やすことはしない。あるいは、たといそうしたとしても、自分の憎しみを心にいだき続け、復讐という悪質貨幣の釣り銭を敵に返す機会を狙っている。そのような人に対して云わせてほしい。――真の安息と平安を楽しみたければ、あなたに悪を働いたすべての人々を心から、腹蔵なく赦さなくてはならない。あなたは、自分の良心に軟膏を塗りたくり、自分の心に平安を説き聞かせようとするであろう。だが、もし恨みがなおもあなたの胸にくすぶっているとしたら、――特に、意地悪な行ないで姿を露そうとする機会を求める恨みがくすぶっているとしたら、――あなたには安息が得られない。ある種の動物は、戦うために生まれついているように思われる。そして、もし他者をばらばらに引き裂かないと、自らを引き裂かずにはおかないように見える。あるいは、蛇のように、激怒すると自らの毒が回るかに見える。怒りとはそうしたものである。悪意とはそうしたものである。おゝ、人よ。あなたはこうした悪しきものを取り除かない限り、安息や平安の何たるかを知ることはできない!

   「罪は、毒もつ 病(まが)のごと、
    いのちの血潮 汚染(けが)すなり。
    これを香膏(いや)すは 主権(たか)き恵みと、
    医者(くすし)なる神。

   「生来(つき)し狂気(くるい)は うち治め
    多くの情動(さかり) いや燃ゆらん、
    神のひとり子 妙手(てあて)して、
    内なる火をば なだむまで」。

 そうしたものの1つとして、ねたみもある。――非常によく見受けられる罪でありながら、しかるべきほどしばしば口にされてはいない。これは、他の人が自分よりも良い暮らしをしている姿を見ていることができない、貧者の罪である。健康な人間を嫉妬する、病者の罪である。左様。だが、ねたみは、貧者の間ばかりでなく、君主たちの間にも見いだされる。病者の間ばかりでなく、強者の間にも見いだされる。そして、人は、ひとたび他人の喜びが自分の悲しみとなり、他人の得が自分の損になり、他人が自分より多くの誉れを、金銭を、友人を得ているがゆえに自分自身の巡り合わせに我慢できなくなるようになってしまうとき、一本の毒矢によって心が疼いているのであり、その毒矢から一千もの災厄が生まれ、心の残りが耐えがたいものとなってしまうのである。ねたみは、自らを餌にしてさえ育っていく。それゆえ、私はあなたに命じる。万難を排してもこれを取り除くがいい。さもなければ、真の安息を見いだすことは願えない。

 高慢も、やはり平安と安息との敵である。高慢な人を見たら、安息を欠いた人だと思って間違いない。《屈辱の谷》の中でこそ、平安という花々は発見されるものである。尊大な人々、自分で自分を高く評価するあまり他の人々を見下している人々について云えば、――そうした人々を憐れむがいい。私の兄弟たち。そうした人々に怒りを発してはならない。それは、そうした人々を苦しめている悲しい病気なのである。そうした人々の脳はひっくり返っているのである。だから、優しく扱ってやるがいい。できるだけ親切に考えてやるがいい。そして、そうした人々の癒しを神に祈るがいい。また、そうした人々の愚痴がうつらないように気をつけるがいい。というのも、それは非常に伝染性が高く、多くの人々は自分たちの謙遜さを誇り、他の人々の高慢を非難している一方で、実は自分の方がずっと高慢だからである。

 さらに貪欲さがある。そして、ひとたび人が利得を貯め込もうという願いにとりつかれると、そうした人々には何の平安も安息もなくなってしまう。かりに、そうした人々が富とみなすものを獲得するとしよう。それは、自分の手に入るなり、富ではなくなってしまう。その人は、ある特定の、心に決めた額を確保することがあれば、仕事を引退しようと考えていた。だが、それだけの貯蓄をしてしまうと、今やそれも全く不十分であるとみなし、その十倍のものが、今のその人の目標となる。たといその金額を貯め込むことができても、願う目標からは、始めた時よりもずっと遠ざかっていることに気づく。私がまことに信じるところ、ある人々は、全世界をわがものとして主張できたとしても、太陽や月や星々をも欲しがるであろう。というのも、何をもってしても、そうした人々を満足させることはできないだろうからである。ひとたび貪欲につかまれると、安息は不可能である。

 そして、これとほとんど同じことが云えるのが、野心である。――決して、自分のあらゆる能力を最大限に用いたい、特に神の栄光のため、また、私たちの同胞たちの利益のためにそうしたいという願望ではなく、いわゆる「栄光」を渇仰することである。これによって人は、自分の同胞たちからの敬意を欲する。また、馬鹿者どもから賛嘆の目で眺められる高い台座の上に据えられるまで満足させられることがない。あゝ、方々。もしあなたがそうした意味の野心をいだいているとしたら、あなたと平安は訣別しており、再会する見込みは低い。しかし、もしあなたが正しいことを行ない、自分の評判を神の御手にゆだねるなら、また、特にあの、結局は墓に至るしかない高所の通り道を捨てるなら、平安を見いだすことができるよう。だが、私が言及してきたような悪のいずれかがあなたの心の内側で支配している限り、平安を見いだすことはありえない。

 ということは、悪人の心が荒れ狂う海のようである一番目の理由は、その中に、落ち着こうとしない悪しき情動があるからである。

 次の理由は、悪人が、自分の古い罪の記憶によって動揺させられるからである。かりにその人が何年もの間、悪しき道に携わっていたとする。――不正直な不貞を行なっていたとする。その人は自分の罪を、忘れようとしても忘れられない。それらは、その人の魂そのものに焼きついてしまっている。また、罪の記憶すら越えて悪いことがある。あなたにも分かっていると思うが、あらゆる罪は別の種々の罪を生み出すため、一度罪を犯すと、あなたはもっと多くの罪をずっと犯しがちになるのである。これは、からだについても、魂についても奇妙に当てはまる事実である。私たちは、それまで誰も通ったことのない所に、自分で道を踏み固めて行く。たとい私たちが最初、良心の下生えを無理矢理に通らなくてはならず、いわば、私たちの幼少期の教えや、子どもの頃に示された恵みに満ちた数々の模範という、古い材木をいわば燃やさなくてはならないとしても、やがて私たちは自分のために一本の小道を作り、踏みならした道とし、罪を犯すのがますますさらに容易になって行く。否。それ以上に、習慣によって悪人は1つの圧力を受け、かつては選んで行なったことを、ついにはそうせざるをえないから行なうようになってしまうかに思われる。魂の中の罪は、パン生地の塊の中のパン種に似ている。それは、膨れ上がらせ、発酵させる。そして、それがあなたの中に混入されたのは、ことによると、二十年前のことかもしれないが、それは発酵させ続け、作用し続け、ついにはあなたの人間性のすべてがそれで酸っぱくされてしまうことになる。

 これらすべてに加えて、不敬虔な人が静まることのない海のようであるのは、その人が海のように、自分よりも大きな力に支配されているからである。海は月の力を感じ、風による神秘的な作用によってかき回され、かき混ぜられる。そして、悪人は空中の権威を持つ支配者[エペ2:2]の支配を受けている。たとい、しばらくの間、その人が安らぎたいと思っても、サタンはその人が平安を得ることを許そうとしない。彼は罪を犯す幾多の機会をその人の前に置き、それから悪しき事がらにふける願望をかき立てる。サタンは決して神話ではない。そう思う者たちは、確かに自分の目を開くことができないに違いない。さもなければ、いかにサタンの存在への不信仰をいだいていようと、その不信仰がサタンによって与えられたものであることを発見していたであろう。アポルオンと一騎打ちして戦ってきた者たち、また、誘惑の時に彼に打ち勝ってきた者たちは、決して、1つの大いなる堕落した霊がいて、人々を罪に至らせようと躍起になっていることを疑いはしないであろう。サタンとその無数の鬼畜どもは、不敬虔な者らを待ち伏せするか、公然と彼らを追い立てて、数々の熾烈な情欲と、悪の情動へと至らせ、何度も何度も罪を犯させようとする。

 これですべてではない。というのも、悪者どもは、――公然たる罪に陥る者たちは、――他の者たちの行動によって、落ち着くことができないでいるからである。もしも社会の種々の抑制がなかったとしたら、全く自堕落で、恥知らずな者たちの集まる場所は、いかにぞっとするほどの所となるであろう! 今でさえ、時として、新聞記事には、いわゆる「紳士たち」の所業が記されている。それは、酒神が支配するか、放蕩するときに、何が起こるかをそれなりに示している。また、それとは正反対の社会階層では、残忍な人でなしども、「悪鬼ども」がいて、自分たちの深靴で細君を激しく蹴りつけている。その十二、三人を寄せ集めて、その甘やかな思い通りにさせてみるがいい。そうした者どもに、何の歯止めもかけず、何をするか見てみるがいい。そうした者どもが寄り集まり、互いに煽動し合って罪を犯しているときに、そうした者らに対して神がいかに驚異的な忍耐を持っておられるかは、神だけがご存知である。私は、そうした者どもの冒涜や破廉恥さや残虐さを、神がすみやかに終わらせようとされないことにしばしば驚嘆してきた。それでも、毒麦は、その罪にもかかわらず、容赦されてきた。だが、こうした人々は安らぐことができない。人が他の者らを静かにさせておかないからである。また、たとい何らかの時点で、その仲間たちのひとりが善良な決心をしたとしても、もうひとりがその決心を笑って黙らせ、集団全体を、「静まることができず、水が海草と泥を吐き出す」「荒れ狂う海のよう」にしてしまうからである。

 悪者が静まることができなくとも不思議ではない。なぜなら、そうした人は、神の宇宙全体と調子を狂わせているからである。目を上げて、彼方にある星々を散りばめた天体を眺め、その1つたりとも、その《造り主》の方に背いていないことを思い出すがいい。常軌を逸していると考えられている彗星も、あらゆる点で、この偉大な《創造主》のみこころに従っている。あなたの目にすることのできるあらゆるものは、風に吹き飛ばされる塵の中の微小な原子から、レビヤタンが悠々と泳ぎ回る大西洋の巨大な波浪に至るまで、天来の法の力の下にある。上は神の御座の前にいる御使いのかしらから、下は夏の陽光の中で踊っている蚊に至るまで、一切のものは万物の主に対して従順である。例外は、悪者であり、悪者だけが、「俺は従うものか」、と云っている。よろしい。悪者は、宇宙の残り全体と調子を狂わせている以上、荒れ狂う海のように静まることができなくとも、また、そのうちに何の平安がなくとも、何か不思議があるだろうか? もしあなたが宇宙の物理法則に背こうとするなら、――例えば、万有引力の法則に何の顧慮もせず、教会の尖塔から飛び降りたり、断崖から転げ落ちたりするなら、――そのような気違い沙汰がどうなるかは自明であろう。もしもあえて法に逆らおうとするなら、間違いなく、その法によって打ち負かされるであろう。そして、神の道徳律法に不従順な生き方をする者は、それと同じことが起こることに気づくであろう。そして、永久永遠に何の安息も得ないであろう。神のしもべとして、私はあなたに云わなくてはならない。非常に平明に、また、非常に真剣に、――あなたは、いま辿っているような道行きの中では、到底何の安息や平安も見いだせない、と。願わくは神があなたを、あなたのもろもろの罪から逃れさせ、その御子イエス・キリストに信頼させてくださるように! そのとき、あなたは、信じることの中に、喜びと平安の双方を見いだすであろう。

 さて、ここで、ごく手短に語らなくてはならないのは、あからさまな、名うての悪人とは一緒にできないような人々に対する言葉である。神に感謝すべきことに、あなたは、そうした悪人とは一線を画している。だが、それでも、あなたは福音を、ことによると長年にわたって聞いてきており、理解していながら、決してそれを受け入れることをしないでいる。なさなくてはならない神との和解があるのに、あなたは神の敵のままでいる。さて、とりあえず私は、キリスト者でない道徳的な人を、不道徳な人と同じ範疇に入れるべきだとは云わないでおこう。多くの点で、その人は、他の人ほど多くの害悪を世の中で行ないはしない。だが、愛する方よ。このことは云わせてほしい。もしあなたが光と知識に反して罪を犯すとしたら、あなたの罪には強烈な咎がありえる。それは、外見的にはあなたよりも悪い人のうちにも、見いだされないような咎でありえる。その人は、あなたが受けてきたような教えや、種々の利点を、また、あなたが有しているような鋭敏な良心を受けたことがなかった。それで、その人の罪は、ソドムとゴモラの罪のように悪いものではあるが、審きの日には、その人の方が、まだあなたよりも罰が軽いことがありえる。あなたは、他の人々の判断によれば、その十分の一も罪を犯していないが、福音に逆らう罪を犯した――死に給う《救い主》の血に逆らう罪を犯した――聖霊に逆らう罪を犯したのである。願わくは、あなたが決してこのようにすさまじい危険を冒すことがないように!

 あなたに云わせてほしい。あなたはキリストから離れて生きている。そして、いかに衆にすぐれた、愛すべき人であっても、私はあなたが、静まることができない荒れ狂う海のようであることを知っている。私は、あなたが静まれない特別な時期のいくつかを知っている。――他の人々が回心したと聞いたときである。――あなたの兄弟か姉妹が、前に進み出てキリストを告白するときである。――あなたの友人や親族が、その《救い主》としてのイエスにあって喜んでいるときである。「あゝ」、とあなたは自分に向かって云う。「彼らは安らぎと平安を得ている。だが、私はそうではないのだ」。私は、聖餐式の晩に、時折あなたがどう感じるか分かっている。あなたは家へ帰るか、他の人々が聖餐卓の回りに集まるのを見ているかするしかない。そのとき、あなたは落ち着かないものを感じるではないだろうか。そして、あなたが非常に不安なものを感じるのは、あなたの仲間たちの誰かが死ぬときである。――あなた自身の魂と非常にに似ている誰かが死ぬときである。あなたは、彼らの葬儀に出席し、こういう考えが思い浮かぶ。「私は、彼らのようにキリストから離れ、望みもないまま死んで良いだろうか? 福音の聞こえる所から、何の回心の証拠も示さないまま他界して良いだろうか?」 そのとき、あなたは心安らがないものを感じる。私はそれを知っている。そして、時としてあなたは、良心が責任を問われるとき、非常に荒れ狂う海に似たものを感じる。ジョン・バニヤンは、その『聖戦』で、《人霊》がインマヌエルに包囲されたとき、良心氏に何が起こったかをまざまざと描き出している。そして、それは、あなたがたの中のある人々に起こってきたことに酷似している。人々は、彼が正気を失ったと云ったが、いついかなるときにもまして彼が真に正気を保っていたのは、《人霊》に向かって、大王シャダイに降伏するよう叫び立てたときであった。そして、あなたがたの中のある人々は、あなたの良心の扉に、バニヤンが描写している大槌の打撃を確かに感じてきたし、今にもそれを開けそうになっていると思う。だが、なおも、あなたは安らいでいない。というのも、あなたはまだキリストのもとにやって来ておらず、キリストだけがあなたを休ませることがおできになるからである。ウォッツ博士が遠い昔に書いたことは、今なお真実である。――

   「徒(あだ)に、震える 良心(こころ)求めり、
    安きをうべき 堅き土台(もとい)を。
    長く絶望(なげ)きて 霊(たま)は裂かれぬ、
    キリストのみに 訴うるまで」。

もしも忠実に宣べ伝えられた福音を聞いているとしたら、安らぐことはできない。あなたがたの中のある人々は、偽りの平安で満足しようとしているが、神の恵みによって、私たちはこれからあなたを悩ませて、キリストのもとに来させよう。あなたを愛してキリストに来させよう。あなたを絶え間なく心配させて、とうとうあなたがイエスに屈するようにさせよう。あなたがたの中のある人々は、商売が繁盛している。神は、非常に恵み深くも、これまでの人生であなたを保ち、あなたを病から回復させるか、健康を守ってくださった。今のあなたは、かつてのあなたよりも良い状況にある。それでも、あなたは安らいでいない。あなたは、あなたに対する神のいつくしみ深さゆえに神に感謝している。だが、あなたは云う。「何かまだ必要なものがある」、と。しかり。そして、その何かこそ真に必要なことである。私は、神があなたを繁栄させておられることを感謝しているが、私が望むのは、あなたがその真に必要なことを――神の恵みを――得るまで決して安らげないことである。あなたがたの中のある人々は、非常に考え深く、半時間もひとりきりでいるのは、あなたにとって非常に厄介なことになる。というのも、あなたに解決できないいくつかの問題があって、それらがいたくあなたを悩ませるからである。最悪なのは、自分の将来を予測することである。時として、あなたは先を見越して、病床に就いている自分を思い描いては云う。「私は、今のままで勝利に満ちて死ねるだろうか?」 あなたは、自分がそうできないことを知っている。そして、それから、時としてあなたは、自分が死人の中からよみがえる姿を思い描く。御使いのかしらの喇叭が吹き鳴らされ、生者も死者もキリストの審きの座の前に立っているときのことである。あなたは、あの大きな白い御座[黙20:11]について、また義人と悪人の分について考えることに耐えられない。というのも、あなたは自分がどこに行かなくてはならないか知っているからである。1つの大きな変化があなたの内側に作り出されない限りそうである。あからさまには悪人でなくとも、あなたは羊には属していない。ならば、山羊とともに行かなくてはならない。そして、このことをあなたが考えるとき、また、しばらくの間、あなたの脳裡の目の前で未来が立ち上がるとき、あなたの霊は、「静まることができず、水が海草と泥を吐き出す」「荒れ狂う海のよう」になる。願わくは、あなたが安息を得られるように。神が、まさに今このとき、それをあなたに与えてくださるように!

 トップレディの祈りが、あなたの祈りでもあるように。――

   「おゝ、われ決して 安らがまじな、
    汝れのうちにぞ 安き知るまで、
    ここにいだける 赦しのうちに
    我れへの汝が愛 感ずるまでは!

   「われより御顔 そむけ給わじな、
    汝が目の我れを きよめうべくば。
    結婚(いわい)の衣装(ころも) 着せよや、我れに、
    わが罪すべてに。

   「神よ、告げませ、誰(た)がために
    汝が尊き血の 流されしかを。
    罪人のためなら 罪ある我れ来ぬ、
    救世主(きみ)はそのため 血を流さるれば」。

II. さて、第二に、そして、ごく短く云うが、本日の聖句では、《1つの判決が云い渡されている》。「平安がない」。――英欽定訳聖書を見ると分かるように、「」という言葉が斜体字になっている。なぜなら、これは原典にはないからである。それで、この聖句はこう云うのである。「『悪者どもに和平なし。』と私の神は仰せられる」。

 これを仰せになっているのが、神ご自身なのである! そこに休戦はあるかもしれない。神は怒るに遅いお方だからである。だが、「和平はない」。神は、あなたと戦争中なのである。もしあなたが「悪者ども」の間にいるとしたらそうである。あなたは、和平はあるという迷妄の下にあるかもしれないが、神の真理の御声はその迷妄を粉々に打ち砕いてしまう。赦されていない罪のあるところには、いかなる和平もありえない。神の前で自らをへりくだらせない限り、また、あわれみを求め、見いださない限り、神はあなたと戦争中なのであり、あなたは神と戦争中なのである。きよさのない所には、何の和平もありえない。神は罪と和平を持たず、決してお持ちになることができない。焼き尽くす火のように、主の聖さは罪に反して燃え上がる。それで、あなたはきよくされなくてはならない。あなたの性質は変えられなくてはならない。罪への愛は、あなたの中で殺されなくてはならない。そして、あなたは善かつ正なるものを熱烈に愛さなくてはならない。さもないと、なおも神の御声は天の燃える御座から鳴り轟くのである。「和平なし! 和平なし! 和平なし!」、と。

 「しかし、私は教会に通い、聖餐も受けることにします」、とある人は云うであろう。そうしたしかたでは何の和平も得られない。せいぜいが、ないより悪い偽りの平安を得る程度である。「しかし、私は非国教徒たちとともに恵みの手段に携わります」、と別の人は云うであろう。あなたは、そのようにしては和平を得られない。あなたの行なうことが、それだけでしかなければそうである。もしあなたの罪が神から赦されないままだとしたら、また、もしあなたの性質が聖霊によって変えられていないとしたら、ありとあらゆる信心深さを寄せ集めても、あなたに和平がもたらされることはないであろう。「しかし、私は海のように涙を流します。絶えず祈りをささげることにします」。いかなる和平も、そのようにしてあなたのもとにやって来ないであろう。あなたが悪者である限りはそうである。この方は、「和平なし! 和平なし!」、と仰せになるからである。そして、あなたが「悪者」でなくなるのは、ただ、イエスがあなたを、ご自身の尊い血で満たされた泉で洗って白くし、神の御霊があなたの性質を更新するとき以外ないに違いない。

   「うわべの形式(かたち) すべてをもても
    神の給いし 儀式(さだめ)をもても
    人の意欲(おもい)や、血や、家柄(うじ)もても
    引き上げられじ、魂(たま)は天国(みくに)へ。

   「ただ神の 主権(たか)き御意志(こころ)ぞ
    われらを恵みの 世継ぎに再創造(つくり)て、
    御子のかたちに 生まれさせ
    新たに神の 種族(たみ)となさん。

   「御霊は、天(あま)つ 風に似て
    人の子らへと 吹き来たり
    新たな――天つ思いを造り
    ひとを新たに 形成(かたど)らん」。

「おゝ!」、と別の人は云うであろう。「ですが、私は約束します。もっと善人になり、もっと善行を施すことを。私は生き方を改めます」。あなたは、そうするかもしれない。また、そうすべきである。だが、それでも私の神は悪者に仰せになる。「和平なし!」、と。あなたは、これらすべてに何と云うだろうか? あなたの神が、あなたに対して武装しているのを見るがいい! 全能者が、あなたと――ひと時で消え失せる被造物と――戦争するために乗り出して来られる! あなたは降参するだろうか? 賢くなるがいい。私は切に願う。あなたの武器を投げ捨てて、あわれみを求めて叫ぶがいい。キリストが作り上げた和解を受け入れるがいい。神の御子イエス・キリストは苦しまれた。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、……私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:]。もしあなたが主に信頼しさえするなら、主がなさったことは、あなたのものとみなされる。すなわち、主がお受けになった罰は、あたかもあなたがそれを受けたかのようにみなされるのである。また、主が行なわれた義は、あたかもあなたがそれを行なったかのようにみなされ、神はあなたをご自分の御子の立場で、ご自分の御子のゆえに受け入れてくださるのである。それをも越えて、神の御霊があなたを覆い、あなたに新しい心とゆるがない霊を与え、あなたの肉から石の心を取り除き、肉の心をあなたに与えてくださる。あなたは、いま喜んで屈伏し、この不均衡な戦争を終わらせ、神と和平を結びたいだろうか? ならば、ご自分の御子をひとたびお与えになった主は、その御子をもう一度あなたに与え、あなたの心に入れ、こう云われるであろう。「平安あれ! 平安あれ! 安心して行くがいい。あなたの多くの罪は赦されている」、と。心で自分のもろもろの罪を捨て、偽らず真実にイエスを信じる者は、人のすべての考えにまさる神の平安[ピリ4:7]を得るであろう。だが、自分の罪を保ち続け、悪者どもの間にとどまり続ける者、あるいは、自分を義とする思いを保ち、キリストの救いを拒否する者は、このこと以外に何も家へ持って帰れない。「和平なし! 和平なし!」 そして、おゝ、このすさまじい鐘の音を耳の中で鳴り響かせながら死んで行くとは! 神を見上げれば、神がこう仰せになるのを聞く! 「和平なし!」 友人たちが自分のために祈るのを聞きながら、何の平安も感じない! 自分の目を天に上げても、《審き主》なる神からのこの判決を聞いて、祈りが魂の上で凍りつく! 「和平なし!」 そして、それから永遠が続く。その中には何の和平もない! 願わくは、私たちの中の誰もそのような定めに遭うことがないように。むしろ、主が私たちひとりひとりに平安を、完璧な平安を与えてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

安息なし! 平安なし![了]

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