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キリストの無上の栄光

NO. 2876

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1904年3月24日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年3月5日、主日夜


「御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます」。――詩21:5


 思うにここでダビデは、まず間違いなく、最初に自分自身について歌っており、その上で、はるかに偉大な《王》、「すぐれしダビデの よりすぐれし《子》」、主イエス・キリストについて歌っている。だが、私はこの聖句を全く私たちのほむべき《贖い主》に当てはめたいと思う。また、確かに、詩篇作者の言葉遣いは、この上もなく主にふさわしいものである。

 あなたがたの中のある人々は、しばらくすれば私たちの主の食卓の回りに集まり、私たちのための主の死を記念しようとしている。そして、もちろん、その儀式は幾分痛ましいしかたでなされなくてはならない。いかにして私たちは、主の死を覚えながら、その死を必要とした罪について悲しまずにいられようか? いかにして私たちは、「主イエスが、渡される夜、パンを取り、それを裂かれた」*[Iコリ11:23-24]ことを覚えながら、こう感じずにいられるだろうか? 主の食卓を囲む際の霊には、謹厳なものがあってしかるべきだ、と。それでも、そうした哀調を帯びた気分にふけりすぎてはならない。というのも、私たちの主が招いてくださっているのが、葬式の飲食ではなく、喜ばしい宴席であることは決して忘れてならないからである。これは、主の争闘と苦悶だけでなく、主の勝利をも思い出させる宴席である。これが定められた際の記事にはこう書かれている。「食事の後、みなは賛美の歌を歌った」*[マタ26:30; マコ14:26参照]。そして、私たちの主イエス・キリストが私たちに望んでおられるのは、私たちが賛美の歌を歌う気持ちでご自分の食卓にやって来ること、主に向かって心から賛美する[エペ5:19]ことであろう。ここには、いかなる葬式の悲歌も、音をくぐもらせた太鼓も、嘆きの笛もふさわしくない。むしろ、ミリヤムとイスラエルの女たちが葦の海のほとりでしたように、歌という娘たちが手に持つ小太鼓を大きく鳴らそうではないか。

 やはり忘れるべきでないことは、この晩餐が、地上で祝われる最後のときに呻きと悲嘆の中で立ち消えはしないということである。その先これが守られなくなるのは、主が来ておられるからである。その来臨は、すべての聖徒たちの歓呼によって迎えられるであろう。生きて地上にとどまっている聖徒たち、また、《王》とそのすべての聖なる御使いたちとともにやって来る聖徒たちとの双方によって迎えられるであろう。この儀式は喜びで満ちている。というのも、それがしかるべく祝われるときには、毎回、賛美の歌によって閉じられるからである。そして、最終的にそれは、あらゆる外的な象徴と同じく、永遠のハレルヤの真中で過ぎ去るはずである。ならば、さあ、愛する方々。私たちの主の食卓のもとにやって来るときには、陰気な気分にならないようにしよう。むしろ、私たちのあらゆる立琴を《柳の木々》[詩137:2]から取り下ろし、その喜ばしい和弦を呼び覚まして歓喜の音楽を奏でさせよう。この儀式で記念するお方は、ここにはおられない。よみがえられたからである[ルカ24:6]。主はそこには――向こう側の十字架像の上には――おられない。主の御傷はもはや血を流していない。いかなる茨もその御額に巻きついていない。いかなる釘もその御足と御手を刺し貫いてはおらず、いかなる槍もその御脇を裂き破ってはいない。主は、世界が造られる前にご自分のものであった栄光の中に帰っておられるからである。そして、今や主についてはこのように考えるべきである。「御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます」。

 この聖句について瞑想するに当たって注意したいと思うのは、第一に、それが私たちに、天来の救いのことを思い起こさせるということである。第二に、それが、その救いによってイエスの栄光を公に示しているということである。第三に、それが、その救いによってイエスが獲得された報いを明らかに示しているということである。「あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます」。

 I. まず第一に、《この聖句は私たちに、天来の救いのことを思い起こさせている》。それは、「あなたの救い」<英欽定訳> について語っている。すなわち、神の救いである。それによって意図されているのは、ヘブル語の慣用語法によると、単に、あらゆる救いの中でも最も壮大な救い、あらゆる解放の中でも主たる解放というだけでなく、現実に、ここで語られている救いが神のものであるということである。おゝ、兄弟たち。この真理は非常に単純であり、私がそれについて述べる所見は非常に云い古されたものであるかもしれない。だが、それでも、これは決して陰を薄くされるべきではない真理である。「救いは主のものです」![ヨナ2:9]

 思い起こすがいい。人の救いは、その構想において神のものである。神が最初に、反逆したアダムの子らを贖うという構想を思いつかれた。そうでなくてはならなかった。というのも、アダムの子らが生まれもしないうちから、まず主は、彼らの救いのご計画をお立てになったからである。永遠の昔から、また、いまだ太陽がその火の目を開く前に、神は遠大な先見によってアダムの子らが堕落によって滅びることを見てとられた。そして神は、彼らの中から1つの民を選び出そうと決意された。贖われるべき、また、永遠にわたってご自分をほめたたえるべき民である。この無限の神の荘厳な精神から、救いの最初の思想が湧き出たのであり、このお方こそその草案を書き、精密に計画を練り上げたお方、ご自分のみこころのままに一定の者らを永遠のいのちへと選ばれたお方、彼らが贖われるべき道、彼らが召されるべき方法を定め、彼らが回心すべき場所と時と手段とを手配したお方、そして、すべてをご自分の永遠の目的に従い、無限の知恵と思慮とによって決定したお方であった。それは、あらゆる部分において、この救いがこの方から発し、この方によって成り、この方に至る[ロマ11:36]ためである。荒野にあった古の幕屋の中のあらゆる板、幕、鉤、銀の台座、獣皮、また、聖所のあらゆる什器は、神によって定められ、人はただ神のご計画を実行するだけでしかなかった。神の救いも、それと全く同じである。永遠の愛による種々の備えは、その最小の詳細においても、その壮大な輪郭と同じように主のものであるが、主の救いもそれと同じである。

 しかし、愛する方々。あなたも知っての通り、救いは、単に神によって手配されたばかりでなく、それを実行したのも神であられる。私たちを自らの血によって贖ったのは、万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:6]でなくて誰であろう。誰がこのお方と肩を並べて酒ぶねを踏んだだろうか?[イザ63:3] このお方がそこにひとり立ち、人手を借りずに勝利をかちとられたのではないだろうか? また、救いのあらゆる祝福はどこからやって来るだろうか? 誰がそれを供するのだろうか? 罪人たちが罪の中から義へと至らされ、堕落の破滅から天のあらゆる栄光へと引き上げられるという、数々のあわれみを供することに、人が何かあずかっているだろうか? 否。最初から最後まで、永遠の愛が供するすべてのは主のものであり、主の救いもそれと同じである。

 否、それだけではない。神は単に救いに関係する一切のことを計画し、供されただけでなく、神こそ、このようにご自分が供した救いを適用してくださるお方である。聖霊に教えられない限り、いかなる者もイエスをキリストと信じることはできない。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」[ヨハ14:6]、とキリストは云われる。一部の人々は自由意志について語ってやまないが、自由意志がこの世でこれまで成し遂げたことと云えば、――無代価の恵みによって動かされない限り、――ただ1つ、人類を破滅させたことでしかない。人々を好き勝手にさせておけば、確実に邪悪なことを選ぶ。川が下降して海に至るのと同じくらい自然に、人の心は汚れたものに向かう。もし心が聖さと、キリストと、神とに上るようなことがあるとしたら、それは恵みによって引っ張り上げられているからにほかならない。主が、みこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせておられる[ピリ2:13]からでしかない。最初の悔い改めの吐息から、最後の感謝の賛歌まで、私たちのうちにある一切の良いものは、主が細工された作品である。そのように、こうした点で私たちの救いは主のものである。そして、愛する方々。そのすべてが完成したとき、――召されるべき者たちがみな召されたとき、また、主の選民がひとり残らず新生させられ、義と認められ、聖化され、栄化されたとき、――血で洗われた神の家族全員が上にあるその御座を取り囲んだとき、すべての栄光は主にのみささげられるであろう。天国にはいかなる不協和音も、いかなる人間の功績が囁かれることも、いかなる良い意図への報いが請求されることもないであろう。むしろ、あらゆる冠がイエスの足元に投げ出され、あらゆる声が唱和して、このように栄光が帰されるであろう。「私たちにではなく、私たちにではなく、救いのすべての栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。その救いは、最初から最後まで、私たちのためにあなたが成し遂げられたものなのです」。

 ここでしばし立ち止まり、この場にいるあらゆる人に向かって、こう問わせてほしい。――愛する方々。あなたはこの、すべてが神のものである救いについて何か知っているだろうか? 残念ながら、多くの人々は、自分で作り出す宗教を越えた何も知らないのではないかと思う。そうした人々の宗教は、自分を改善しようとする自らの努力の成果である。あゝ、方々! 私たちの《救い主》のことばは今なお真実である。「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]。そして、私たちの最初の誕生と同じことが、私たちの二番目の誕生についても云える。――それは私たち自身の行為ではない。嘘ではない。もしもあなたの有する一切の良いものが、蜘蛛がその巣を自らの腹中から引き出すように取り出されたものであったとしたら、それはことごとく拭い去られなくてはならないであろう。天性が紡ぎ出すすべてのものは解きほぐされなくてはならないし、天性が建てるすべてのものは引き倒されなくてはならないであろう。神があなたをお救いになるのでなければ、あなたは永遠に失われるであろう。ほむべき《一致せる三位一体》の第三《位格》であられる聖霊があなたに臨み、いのちにある新しい歩み[ロマ6:4]へと生かし、あなたを心の霊において新しくし[エペ4:23]てくださらない限り、あなたは神の国へ認め入れられるために必要なものに欠けたままであろう。「肉によって生まれた者は肉です」。最上の肉も肉でしかない。唯一、「御霊によって生まれた者は霊です」[ヨハ3:6]。それゆえ、神の御霊が私たちに働きを及ぼしてくださらない限り、私たちは霊的ならざる者としてとどまり、霊的なことを理解するとも、霊的ないのちを所有することもできない。そして、その霊的ないのちがなければ、神の御座の右に永遠にある、あの霊的な喜びを楽しむことができない。1つのことだけは、何の疑いもなく云える。私が個人的に知るところ、神の救いによってこそ私は救われたのであり、私は、次のように云うとき、この場にいる多くの人々の心が感じているところを代弁していると思う。すなわち、もし聖霊が自分の内側で最初から最後まで働いてくださらないとしたら、自分の救いは決して成し遂げられないだろう、と。私の知るいかなる教理にもまして、私の経験によって完全に確証されているのは、ヨナがあの鯨の腹中にいたとき言葉にしたこの教理、「救いは主のものです」[ヨナ2:9]である。それは、本日の聖句が私たちに思い起こさせている通り、天来の救いなのである。

 II. さて、第二に取り上げたい主題は、私があなたの記憶に最も深く感銘づけたいと願うもの、すなわち、《神の救いにおけるキリストの栄光》である。「御救いによって彼の栄光は、大きい」。

 あゝ、兄弟たち! 人や御使いの舌をもってしては、決して救いにおけるキリストの栄光を完全に告げることができない。それは、最も崇高な知性によって考えられるべき主題である。夜中に、床の上で目を覚ましたままの人々によって瞑想されるべき題目である。今しも天国に入る寸前の者たちが考えるに値する話題である。ジョン・オーウェン博士の筆致は、その様式においてはいささか重苦しいが、それが最も明々と輝き、燃え盛ったのは、彼がキリストの栄光について書き記したときであった。これこそ、御座の前にいる栄化された霊たちが不断に熟考する題目である。そして、私たちが彼らの間にいるのにふさわしくなればなるほど、この主題は私たちにとって喜ばしいものとなっていくであろう。その栄光について云えば、おゝ、私は、もしもその割り当てと量りとを有していたとしたら、いかなる栄光を私の愛する主また《主人》におささげすることであろう! 私は先日、このようなサミュエル・ラザフォードの文章を読んだ。――正確に引用することはできないが、大意はこうである。――すなわち、彼は、パウロが引き上げられたという第三の天[IIコリ12:2]の上に一万もの天を積み上げて、その高みにキリストをお乗せしたいというのである。それでもキリストは、しかるべく高く上げられたことにはなるまい。まことに、ご自分のものである一切のものを脱ぎ捨ててまでも罪人たちの《救い主》になろうとされたこのお方には、いかなる栄誉も十分ではないと思われる、と。

 まず一番目のこととして、キリストの栄光となるのは、キリストが途方もない悪からご自分の民を贖われたということである。ある政治家、または戦士が、一国を冷酷な専制政治から救出し、自由に属する数々の祝福へと至らせたとき、その人は大いなる賞賛に値する。しかし、私の兄弟たち。キリストはご自分の民を罪から解放してくださったのである。罪は、人間による最悪の専制君主の支配よりも一千倍も悪い暴政であった。しばしの間、主の民が神の御前でいかなる立場にあったか考察してみるがいい。彼らは罪を犯してしまっていた。それゆえ、神の御怒りにさらされていた。何らかの力が――彼ら自身の力を越えた力が――介入しない限り、永遠に地獄に投げ込まれなくてはならなかった。神でさえご自分の正義をご破算にすることはできなかった。というのも、神が正しくなくなるとしたら神は存在しなくなり、不正な神など用語の矛盾だからである。それは不可能な組み合わせである。ならば、いかにして、神に対して罪を犯したこの者たちが、自分にのしかかっている危難から救い出されることがありえるだろうか? さらに、彼らは罪によって奴隷とされており、たとい彼らの過去の罪に対する罰が取り除かれることがありえたとしても、なおも奴隷民に属していた。サタンはその鉄鎖を彼らに巻きつけており、彼らは彼の意のままにとりことして引かれていた。

 あゝ、方々! この奴隷状態から、キリストは私たちを自由にしてくださったのである。というのも、主は私たちの咎を取り除き、それをご自分の身に負って、かの木に赴かれたからである。そして、その咎をその木の上からご自分の墓へと叩き込み、永遠に私たちを責めるものとしては思い出されないようにしてくださったからである。私たちの受けるべき罰を負うことによって、キリストは私たちをサタンと罪とのくびきから解放してくださった。そして、ご自分が作り出し、また、もたらした驚異的な贖いによって、ご自分の民を「ほんとうに自由」[ヨハ8:36]にしてくださった。今や、いかなる罪も彼らを支配することはない。なぜなら、彼らは律法の下にはなく、恵みの下にあるからである[ロマ6:14]。それゆえ、あなたの《解放者》を高らかにほめたたえるがいい。あなたがた、そのようにして解放されたすべての人たち! いかに途方もない悪から、キリストが私たちを自由にしてくださったかを思うがいい。圧政的な一帝国を転覆するのは大いなる功業である。強大な暴君たちによって戦場に送り込まれた膨大な略奪軍を潰走させるのは、決して微々たる勝利ではない。その征服者の彫像は高所に据えられ、その名前は地上的な名声という巻物に目もあやに描かれる。では、いかなる誉れをキリストにささげるべきだろうか? このお方は、一国の自由を蹂躙したことのあるいかなる敵よりも強大な敵どもから私たちを自由にしてくださったのである。

 さらに思い起こしたいのは、キリストが単に私たちを途方もない悪から解放しただけでなく、その過程で、最強の力を粉砕されたということである。一時は、悪が神の宇宙の中で、勝利を得ようとするかに思われた。神は奇妙な実験が行なわれることをお許しになったかのようであった。自由な意志作用を授けられた被造物たちを造り、その自由な意志作用を邪魔しようとはされなかったのである。この被造物たちは、神の律法を破った。いかにしてその悪が蔓延するのを妨げられただろうか? それには増え広がって、増加する性質があり、実際に、そうなった。そして、増え広がり、増加することによって、それだけ多くの何百万もの霊が宇宙に存在するようになり、そのすべてが神に反逆しているため、結果的にすべてが苦しむことになるはずであった。数えきれないほど、おびただしい数の者たちが神の世界に生まれ、すべてがその胸の内側に罪の心をかかえ、それゆえ、すべてが神の怒りを受けるはずであった。いかにサタンは、この悪の増殖を見越して欣喜雀躍したことであろう! しかし、イエスは、この世に来たとき、かの古い竜の首を御足で押さえつけ、完膚無きまで彼を粉砕したため、彼は二度と決して立ち上がれなくなった。サタンはキリストが十字架にかかっている姿を見て、これは決定的な勝利を獲得する機会だわいと考えた。だが、それは彼が最大の敗北を喫するときとなった。死はそのとげをキリストの心臓に深々と打ち込んだが、あまりにも堅く主の十字架にめり込ませたために、二度と引き抜けなくなった。そして今や、その死のとげ、すなわち罪は、キリストを信ずるすべての信仰者たちに関する限り、消え失せてしまった。キリストは悪のあらゆる力を――罪も、死も、地獄も――克服し、それらの軍勢を永遠に粉微塵にされた。この偉大な勝利の叫びを聞くがいい。おゝ、地球全体にそれを響きわたらせるほど大きな声が私にあればどんなに良いことか。「あなたは、いと高き所に上り、捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために」[詩68:18]。

 ことによると、ご自分の民の救いにおけるキリストの栄光の最大の眼目は、ここにあるかもしれない。すなわち、主がこれを成し遂げた手段は、その聖なる御名に無限の誉れを照り返すものであった。私はしばしばクロムウェルの鉄騎兵たちの物語を読んできた。そして、彼らの戦いの目的について深く共感しつつ、彼らの断固たる勇気と聖なる情熱を大いに認めてきた。だが、それでも私は、いかにすぐれた目的のための戦闘や戦いであれ、何がしかの身震いを覚えずに考えることはできない。それで私は、彼らの用いた手段には賛成できない。疑いもなく、わが国が現在数々の自由を享受しているのは、この勇敢な人々のおかげである。にもかかわらず私は、そうした自由を買い取るために流された、すさまじい血の代価について嘆くものである。私たちのほむべき主また《主人》は、私たちのあらゆる敵を征服されたが、これほど赫々たる勝利を確保するためにいかなる武器を用いられただろうか? あなたは主を仰ぎ見て、こう尋ねるだろうか? 「おゝ、主イエスよ。どこにあなたの戦斧があるのですか? どこにあなたの槍が、あなたの剣が、あなたの矢筒が、あなたの矢があるのですか?」 主は、その御手と、御足と、御脇と、心臓を見るようお命じになる。これらこそ、主が暗闇の力すべてに打ち勝たれた武器である。かのすさまじい争闘には多大な苦しみが伴ったが、その苦しみはみな主ご自身のものであった。そこには恐ろしい血糊の汗があったが、それは主ご自身のからだから出たものであった。数々の傷があり、死があったが、その傷は主のみからだの上のもの、その死はみな主ご自身のものであった。これこそ、邪悪を打ち負かした手段である。――自らを否定し、他の者たちのため死にまで至る愛である。これこそ、人間のかたくなさを征服された手段である。――反逆した罪人たちの手によって苦しめられ、死ぬまで血を流すという全能の忍耐である。おゝ、死よ。ここにお前の死がある。――おゝ、地獄よ。ここにお前の地獄がある。――おゝ、滅びよ。ここにお前の滅びがある。――神ご自身が、その被造物たちの罪の結果を身に負われた! しかり。この表現にぎょっとして後ずさりしないでほしい。キリストを神から切り離されたものと考えてはならない。神が罪人たちの《身代わり》として見いだしたのは、このお方の他にいなかった。それで、その愛するひとり子であるイエス・キリストをお与えになったのである。御子は御父と等しく、あらゆる点で御父と1つであられた。人間キリスト・イエスというお方において、神ご自身が、人間の罪ゆえに下されるべき罰を忍ばれたのである。神こそ、その御子というお方において、苦しみ、苦悶し、呻き、死に、私たちの罪を永遠に取り去られたのである。智天使や熾天使に思い描くことのできる、いかなるものをも越えて気高く、栄光に富むこと、それは神の御子の自己犠牲だと思う。神は、他者を苦しませることによってではなく、ご自分だけが苦しむことによって勝利される。

 これとよく似た思想はこうである。キリストの栄光が、この天来の救いによって偉大にされるのは、それが最も素晴らしい属性の数々を繰り広げ、明らかに示しているからである。かりに英国が海上で1つの大勝利を収めたとしよう。おそらく私たちはそれを、わが国の優越する軍艦群のおかげだとするであろう。一般に戦闘は、ナポレオンが云ったように、大部隊によってか、兵士たちの用いる武器の卓越性によって決せられるものである。もしある者が古い滑腔式小銃を持ち、別の者が現代の施条銃を持っているとしたら、勝利がどちらの手に帰すか予想することはたやすい。私たちは、からだが相手の二倍ほどもある男が、小さな相手をなぐり倒すとき、それを「栄光」と呼ぶ。少なくとも、より優秀な艦船と、より大規模な軍隊を有する国が勝利を得るとき、それを「栄光」と呼ぶのである。私は、巨大なニューファウンドランド犬がプードルにかみつき、振り回しているのを見たことがあるが、そこには大国が小国と戦い、相手を圧倒するのと同じ程度の「栄光」があった。それは、からだの大きないじめっ子が、他の誰よりも硬い骨と強い筋肉を有しているのと同じ種類の「栄光」である。それは、雄牛や、獅子や、驢馬のための種類の栄光かもしれない。だが、人間にふさわしい栄光ではない。いわんやキリスト者である人々にふさわしいものではない。しかし、キリストが来て、私たちを贖われたとき、主の側には、いかなる肉体的な力、いかなる野蛮な力の誇示もなかった。そこには1つの力が明らかに示されていたが、それは善の力、苦しむ力、忍耐する力、愛する力であった。あたかも神が人々にこう云われたようである。「罪人たち、また、反逆者たち。お前たちはそのような者らではあるが、わたしは、お前たちがわたしを憎む以上にお前たちを愛そう。また、お前たちの悪がいかに大きなものであれ、わたしの善はお前たちの悪さを圧倒するであろう。また、わたしの赦すあわれみは、お前たちのそむく力に立ちまさるであろう」。

 十字架上におけるその死の結果として、私たちの主イエスは、誰も数えきれぬほどの大勢の群衆[黙7:9]をお救いになった。そして、主のご栄光の一部は、主が、それほど多くの者らをお救いになったという事実に存している。神の救いは、ごく少数の特権集団のためのものではない。私の知っている、特定の「健全な」兄弟たちの想像によると、救いのもろもろの祝福は、《小さなツォアル》[創19:20]かレホボテ[創26:22]にいる少数の恵まれた者たちだけに限定されているという。彼らは、救われる者が少ないだろうと考えて嬉々としている。私たちは、このようにせせこましい考え方に全く共感しないものと思う。というのも、私自身について云えば、天には、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」[黙7:9]がいて、「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」[黙7:10]、と叫ぶことになるのを知って喜んでいるからである。それで私たちの主イエス・キリストは、これほど多くの罪人たちをお救いになるという事実から、大きな栄光をお受けになるのである。

 主がお救いになるすべての者たちには、1つの特性がある。すなわち、彼らは主に永遠に結びついている。主の栄光が彼らの救いによって大きいのは、彼らの中のあらゆる者が、その日から未来永劫にわたってキリストの男、キリストの女となるからである。最近、仏蘭西や伊太利を旅行した際に、眺めて非常に面白かったのは、様々な公共の広場に台座が立っており、それが明らかに乗馬姿の彫像のためのものであったにもかかわらず、その上に何の彫像も載っていないことであった。また、多くの町政庁舎には、円形浮彫りの取り付け用と思われる盾形の縁飾り板がかかっていたが、そうした浮彫りのあるべき場所に何の像もついていないのである。調べてみると、かつてそうした台座の上にはナポレオン三世の彫像が載っており、そうした町政庁舎には、彼の円形浮彫りが取り付けられていたのだという。それは石工にとっては良い国に違いない。なぜなら、そこでは頻繁に政府が新しくなり、新しい彫像もまた必要になるからである。私は巴里に住んでいる、ある人について聞いたことがある。その人は、毎朝、今の政府は共和制か、王政か、帝政かと尋ねるのを常としていた。そして、その答えを聞くと、それが夕方まで保つかどうかまるで確信を持てなかったという。いかに善良な支配者といえども、また、何度その肖像画が描かれ、銅像が立てられようとも、運が尽きるや否や、その一切の像は消え失せてしまうのである。

 あなたは、多くの支配者たちが、その臣下の心の中に恒久的な立場を獲得していると思うであろう。だが、様々な国の歴史から分かるように、そのような支配者はごく僅かしかいない。今日、偶像視されている者たちも、明日になれば蔑まれる。しかし、私たちの主イエスの有する栄光が、私たちの救いによって大きいのは、その像が永遠に私たちの心の中に安置されているからである。かの大ナポレオンは、聖ヘレナ島で自分の立場についてつくづく考え、傍らを歩んていた者に向かってこう云ったとき、正鵠を射ていた。「イエス・キリストとは、あらゆる人の中で最も驚くべき人物だな。余は一帝国を築いたが、それはなくなってしまった。だが、彼の帝国は決してなくなるまい。そして、余にはその理由が分かる。余の帝国は武力に基づいていたが、キリストの帝国は愛に基づいているからだ」。あゝ、それこそ私たちがキリストを敬慕する理由である! 主は、私たちをあまりにも深く愛してくださったために、私たちを永遠にご自分のものとされた。私のこの両手には、ほむべき、目に見えない、だが、断ち切れない愛の綱という手錠がかけられている。私が真に自由になったのは、私たちの主へのこの手枷によって縛られたときであった。私のこの心は、キリストに堅く鋲締めされている。それが真に私のものとなったのは、それがキリストのものとなったときをおいて他になかった。だが、今それは永久永遠に主のものである。パウロは云った。「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです」[ガラ6:17]。彼は、イエス・キリストの焼き印を押された奴隷であることを、言葉に尽くせない栄誉と感じていた。その愛する主また《主人》のために忍んできた苦しみのゆえに、彼の肉体そのものに十字架が焼きつけられていた。まことに、兄弟たち。他の人々を支配するのは大いなることである。だが、あなたのために喜んで死のうとするほど人々にあなたを愛させること、――あなたを愛するのをやめるくらいなら生きるのをやめた方がましだというほど彼らにあなたを愛させること、――これは、栄光に富む、1つの高い玉座に着くことであり、キリストはそのすべての民の心の中で、そのような玉座に着いておられる。それほどの支配を主は、ご自分の尊い血で買い取られた、大群衆の上に振るっておられるのである。本日の聖句で、いみじくもこの預言者は云う。――というのも、この詩篇作者は、真実に預言者だったからである。――「御救いによって彼の栄光は、大きい」。

 III. さて、第三に、本日の聖句は、《この偉大な救いゆえにイエスが獲得された報いを明らかに示している》。「あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます」。私は、この最後の点について説教するつもりはない。ただ、父なる神がキリストの上に置かれた尊厳と威光について、大まかなところを二三示すだけとしたい。

 最初に、私たちの主イエス・キリストは、人として高く上げられ、御使いたちを統治することとなった。神として、主は常に《支配者》、《統治者》、万物の主であられた。だが、人間キリスト・イエスは死んで、葬られ、よみがえり、それから昇天して栄光に入られた。そして今、主はあらゆる主権と力の上に立つ《かしら》であられ、これまで堕落したことのない聖なる御使いたちはみな、主の命令に従うことを喜びとしている。私の兄弟たち。この説教の前にささげられた非常に甘やかな祈りに、私は心の底から同意するものだが、それは、幕の内側におられ、その栄光を帯びておられるイエス・キリストを私たちが瞥見できるように嘆願していた。それこそ、私があなたがたに考えてほしいと思う主のお姿である。――あの、木にかけられていた当の人、あの、ご自分の敵どものあらゆる非難と蔑みの的となっていた当の人が、今や神の御座に着いておられ、その回りをすべての智天使と熾天使が取り巻き、すべてがこの方を礼拝し、崇敬し、その聖なる御名を賛美し、ほめたたえているのである。

 それから、私の兄弟たち。神は主イエスをご自分の《教会》のかしらとしてくださった。地上と天上との一切の贖われた者たちの上にあって、キリストは統括し、支配しておられる。御使いたちの主である一方、主はあらゆる選ばれた人間たちの主でもあられる。その御父は、永遠から彼らを主に与え、主を《かしら》とし、彼らを主の神秘的からだの肢体とされた。キリストはその《教会》の唯一の《かしら》にして、至高の《支配者》であられる。確かにキリストの《教会》の統治者としてあぐらをかいている者らはいるし、ローマには反キリストがいて、自らを教会のかしらと自称している。だが、それは一個の邪悪な虚構、真っ赤な嘘にすぎない。《教会》にはただひとりの《かしら》しかなく、それは主イエス・キリストである。主こそ唯一の至高の《支配者》であり、主の前にその忠実な臣下たちはみな額づく。「あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます」。

 《教会》の《かしら》であるとともに、主は、《教会》の外にあって、《教会》に関わる一切の物の《かしら》であられる。ヨセフはイスラエルの益のためにエジプトを支配した。そして、同じようなしかたで、キリストは全世界をご自分の民の益のために支配しておられる。摂理のあらゆるはからいは、主の管理下にある。全宇宙において、主の命令か、主の許しなしに行なわれていることは1つもない。この言明にあなたは驚愕するだろうか? それにもかかわらず、それは真実である。御使いたちの主とされたお方は、万物をご自分の足の下に置いておられ、この瞬間も万物の主なのである。そして、兄弟たち。私たちはこのことがじきに明らかに示されるのを見るであろう。主は来られるからである。主は文字通りに、また、肉体を伴って天に上られたが、それと同じくらい確実に、文字通りに、また、肉体を伴って再びやって来られるであろう。そして、真に主が来られるとき、それは万物の上に立つ《支配者》また主としてであろう。というのも、主は、その福音によって、生きている人と死んだ人とを審くためにおいでになるからである。そのとき、知性を有するすべての被造物は、神が主の上に置かれた尊厳と威光を目にするであろう。このナザレ人の審きの座の前に、幾多の時代の前に堕落した霊たちが現われなくてはならないであろう。サタンがやって来ては、その最終的判決を受け、永遠に地獄へ放逐されるであろう。それから、信仰を持たない全世界がやって来ては、キリストの御口からあの恐ろしい使信を聞くであろう。「のろわれた者ども。離れ去れ!」*[マタ25:41] 地は、――主に一個の墓所もほとんど貸すことができなかった地は、――主の臨在の下でよろめくであろう。また、天と地は、かつて地が蔑んだように思われ、天が忘れ果てたかのように思われた御顔の前から逃げ去るであろう。あゝ、その日には、キリストがいかなるお方であるかが見てとられるであろう! かつてシナイを驚かせてこだまさせた喇叭よりも恐ろしい、一本の喇叭が吹き鳴らされ、陸地と海との上に鳴り響くであろう。一個の雲がやって来て、その上には大きな白い御座[黙20:11]が立っており、そこにかの「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]お方が着座なさるであろう。しかし、おゝ、その御姿は何と変わっていることか!

   「虹の花輪と 嵐のころも」――

をまとって主は来られる。――その御顔は、太陽の光輝を越えて強く輝き、そのまなざしは炎と燃え、主は御父のすべての栄光を帯び、その聖なる御使いたちすべてを従者として伴って来られ、ご自分の現われの勝利を膨れ上がらされる。おゝ、兄弟姉妹。その栄光に富む現われを期待して待とうではないか。また、私たちの主の勝利ある来臨に歓喜して手を打ち鳴らそうではないか!

 しかし、私たちはみなが主の民だろうか? もしあなたが主の民でないとしたら、その日を待ち望んではならない。というのも、主の日は、主の敵であるすべての者にとって、闇であって光ではない[アモ5:18]からである。ご自分の民にとってキリストが栄光に富むお方であればあるほど、主の現われは、不信者として生きるあなたにとって、また、主を信頼せずに死ぬあなたにとって、恐ろしいものとなるであろう。おゝ、キリスト者たち。私は命じる。あなたの主にあって喜ぶがいい、と。また、やはりあなたに命じる。救われていない者のために祈るがいい、と。彼らもイエスを信頼し、イエスを愛し、イエスに仕えるようになるように。そして、あなたとともに、主が再び来られることを思い起こして喜ぶようになるように。再臨の主は、ご自分を主とし、かつ、《救い主》としているあらゆる者をご自分のもとに受け入れてくださるのである! アーメン。

キリストの無上の栄光[了]

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