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「今しも備えあり!」

NO. 2868

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1904年1月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1861-1862年冬、木曜日夜


「今しも滅びよう」。――イザ27:13 <英欽定訳>
「今しも赦し給う」。――詩86:5 <英欽定訳>
「私は今しも墓場に入るだろう」。――ヨブ17:1 <英欽定訳>


 この礼拝式のための準備をしようとしていたとき、私は、いずれか1つの主題に心を集中させることができないことに気づいた。本日の午後、私はいささか遠い道のりを旅して、病気のため死を迎えつつあるひとりの友人を訪問しなくてはならなかったのである。その寝床の傍らで、私はいくつか励ましの教訓を学んだと思う。また、神がその子どもたちの最期のときに授けてくださる喜びと平安を目撃することによって、心励まされたと思う。自分が、いずれか1つの主題に集中できないことに気づいて、私は、3つの主題について語ろうと考えた。おそらく、その3つの中の1つは、天来の恵みによって、話をお聞きの方々の三分の一のためのものとなり、二番目の主題は、もう三分の一のためのものとなり、もう1つの主題は、残りの方々のためのものとなるであろう。このようにして、折にかなった食物がすべての人々に与えられることであろう。あなたも知っての通り、わが国の海軍の合言葉は、「今しも備えあり!」、である。それは、これから取り上げたい主題に似ている。というのも、いま挙げた3つの聖句には、前後関係は異なるものの、いずれも、「今しも」という言葉が含まれているからである。

 I. 第一の聖句は、特に魂への懸念を覚えている者たちに対して語りかけられるであろう。《天来の御霊》の、光を給う影響力によって導かれつつあり、自分の生まれながらの状態を見てとり、当然受けるべき破滅を見越して身震いしている者たちである。こうした人々にふさわしい聖句は、イザヤ27:13である。「《今しも滅びよう》」。「今しも滅びようとしている者がやって来る」<英欽定訳>。

 生まれながらに、あらゆる人は、知ると知らざるとにかかわらず、今しも滅びようとしている。人間の性質は、盲人のように、常に危険のうちにある。否、それよりも悪い。それは途轍もない高さの崖っぷちにいる盲人のようであり、今しも最後の一歩を踏み出して、一巻の終わりになろうとしている。いかに鈍感で高慢な者も、いかに無頓着で卑俗な者も、その無関心さや大言壮語によって、この危惧の念から完全にのがれ切ることはできない。彼らは、自分たちの状態が、生まれながらに恐怖すべき、無防備なものだと不安になる。それを脳裡から笑い飛ばそうとするかもしれない。だが、この事実を笑い飛ばすことはできない。自分たちの目をつぶるかもしれない。だが、目をつぶることでそこからのがれることはできない。さながら、あの愚かなだちょうがその頭を砂の中に埋めても、狩人から逃れられないのと同様である。あなたがそう云おうと云うまいと、青春の明け初めた元気な青年よ。――あなたがそう云おうと云うまいと、働き盛りの横柄な商人よ。――あなたがそう云おうと云うまいと、道徳的な良心が石のように硬化してしまった、かたくなな老人よ。――これは事実なのである。あなたは、今しも滅びようとしている。いかにあざ笑っても、救い出されはしない。永遠の御怒りについて憎まれ口を叩いても、それを消すことはできない。そして、いかなる侮蔑と思い上がった傲慢さをたくましくしても、自分の破滅を免れることはできない。早めるだけである。しかしながら、ある人々は自分たちの危険を察している。そうした人たちに私は語るものである。そうした人々を、神の御霊が適切に描写しているのが、この預言者の次のような言葉である。「大きな角笛が鳴り渡り、今しも滅びようとしている者がやって来る」。自分自身、こうした苦悶をくぐり抜けたことのある者として、私は経験から、あなたがたの中のある人々が今いかなる苦しみを忍んででいるか描き出してみたいと思う。

 あなたが今しも滅びようとしているのは、まず一番目のこととして、自分の滅びは確実だと感じているからである。かつては、そう思っていなかったが、今はそう感じている。かつては、そうした考えを笑って押しのけることもできた。本当かどうか定かではないが、いずれにせよ、大した問題ではないと思っていた。しかし、今やあなたは、自分が確実に失われるだろうと感じている。これは、論理的に立証できるも同然だと感じている。事実、律法という天来の論理が、あなたの魂の中に轟きとともにそのことを突き入れ、あなたはそれを痛感している。あなたは、じきに自分が、あのすさまじい宣告とともに神の御前から追い出されるに違いないと感じている。「のろわれた者ども。離れ去れ」*[マタ25:41]。たとい不信者の誰かがあなたに、必ず来る御怒りなどないのだと告げても、あなたはこう答えるであろう。「それはあるのだ。というのも、私は自分がそれを受けて当然だと感じているのだから。私の良心は私に告げているのだ。私はすでにさばかれており、じきに確実きわまりなく、神の御怒りという苦よもぎと苦味を飲むことになる、と」。あなたは自分の死刑執行令状に署名してしまっており、黒い帽子をかぶり、自らを罪に定めてしまっている。あるいは、むしろ、自分の《審き主》の前で自らの有罪を認め、こう云ってしまっている。「私は有罪です。わが主よ」。そして、今やあなたは、自分の目の前に処刑台が見え、自分が今しも処刑されんばかりだと考えている。あまりにもそれを確実だと感じているため、審きの日を予期していさえする。先の晩、あなたはそれを夢に見て、自分は、あの御使いのかしらの喇叭が、ありとあらゆる墓穴を開き、あらゆる死人をよみがえらせるのを聞いたと思った。あなたは、すでに想像の中で、神の法廷に立っている。自分の判決を確実に感じるあまり、良心によってそれが読み上げられるのが聞こえ、その恐怖を予期しているほどである。あなたは、今しも滅びようとしている人々の中にいる。それで私にこう云わせてほしい。私はあなたがここに至っていることを嬉しく思う。というのも、これこそ、神がその赦し給う恵みを現わすのをお喜びになる、まさにその場所だからである。神は、このように今しも滅びようとしている者たちを、喜んで救おうとしておられる。自ら失われた者と名乗る者たちは、私たちの《救い主》が果たされるあわれみの使命の特別な対象である。というのも、「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」[ルカ19:10]からである。

 あなたは、別の意味でも、今しも滅びようとしている。というのも、自分の滅びがごく間近だと感じているからである。あなたは、死にかけて息づかいを荒くしている人に似て、あえぐたびに、それが最後の息ではないかと思っている。その脈は微かで、その舌は熱病による発熱のためからからに乾いており、その額にはじっとりと汗が浮かんでいる。死の陰の谷は、青ざめた頬にその陰気な影を落としており、そうした人々はすぐに自分が死ぬに違いないと感じる。今まさに、あなたがたの中のある人々はこのように感じてはいないだろうか? あなたは、自分が神の御怒りに近づきつつあると感じている。私もそうした日々のことは知っている。横になって休もうとするときも、もしかするとこの世では二度と目覚めないかもしれないと考えて恐怖し、日中、野原を歩いていると、地がぱっくり開いて自分を呑み込んでしまうのではないか考えた。恐ろしい音が耳の中で聞こえていた。私の魂は右へ左へ翻弄されていた。私は隠れ家を見つけたいと切望したが、何1つないように思われた。その間ずっと私の耳の中では、この言葉が鳴り響いていた。「必ず来る御怒り!」 「必ず来る御怒り!」 「必ず来る御怒り!」 おゝ、覚醒させられた罪人の眼前には、いかに生々しいしかたで、必ず来る御怒りが描き出されることか! その人にとって、それは十年、十二年、二十年も先にやって来るものとは思われない。もうじきやって来るもの、しかり、きょうにもやって来るものと思われる。その人は自分のことを今しも滅びようとしている者とみなす。なぜなら、自分の最終的な転覆がそれほど間近に見受けられるからである。あなたがたの中の誰かがこうした苦境の中にあるとしたら私は嬉しく思う。というのも、神がこのように人々を恐怖させる時には、そうした人々に対するあわれみのご計画を有しており、彼らの益をはかっておられるからである。神があなたを恐れさせ、今しも滅びようとしていると思わせるのは、あなたが何の滅びも恐れずにすむようにするためである。神がこの世でそれをあなたに突き入れておられるのは、来たるべき世でそれを永遠にあなたの人生から取り除くためである。神があなたをいま身震いさせておられるのは、そのときには震えないですむようにさせるためである。神があなたの前にこうしたすさまじい事がらを持ち出されたのは、それらが、燃える指によるかのように、あなたにキリストを唯一の隠れ家として指し示し、雷鳴の音によるかのように、あのロトに対して御使いたちが語ったような言葉をあなたに叫ぶためである。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう」[創19:17]。

 ことによると、私が語りかけている人々の中には、このような人もいるかもしれない。単に自分の滅びが確実で間近であると悟っているだけでなく、それを感じ始めている人々である。「感じ始めているですと?」、とある人は云うであろう。「そんなことが可能でしょうか?」 しかり。可能である。神の御手が昼も夜も私たちの上に重くのしかかり、私たちの骨髄が、夏の日照りで乾き切るとき[詩32:4]、私たちは、正義と律法がその威力を解き放つ際に、罪人がいかに感じるかを悟り始めるのである。あなたはジョン・バニヤンの『罪人のかしらに溢るる恩寵』を読んだことがあるだろうか? まさにそこには、失われた者の悲惨さの前味を知った男がいる。また、私たちの中のある者らは、今でさえ、自分が回心した時期のことを振り返ると身震いせずにはいられない。私は、自分の受けたよりも深い罪の確信を、誰ひとり受けていないように望んでいる。私の若い心から湧き出すいのちそのものを粉砕してしまった、あの苦悶よりも耐えがたい苦悶の五年間を誰も経験しないでほしいと思う。しかし、このことは云える。あの良心の恐怖、神の御怒りについての怯え、あの過去の罪に対する憎悪、だがしかし、将来も自分にはそれを避けることができないという自覚といったものがないまぜになった思いは、ただジョージ・ハーバートの言葉でしか云い表わせない。――

   「わが思いはみな 短刀(やいば)の山なり、
    弱きわが心(むね) 切り裂けり」。

おゝ、自分の咎を感じながら、そこから救済される道を知らない者の責め苦はいかばかりか! 顔に吹き出たらい病を見ながら、それが治癒可能であると知らないのである! 癩病院を歩きながら、そこにはひとりも医者がいないと聞かされのである! 炎を見ながら、それが消されることを知らないのである! 地下牢の中にいながら、救出と解放のことを全く知らないのである! おゝ、あなたがた、今しも滅びようとしている人たち。私は現在の苦しみにあるあなたに同情する。だが、そうした苦しみを悲しく思いはしない! これは、神が祝福しようと意図している人々を最初に扱うしかたにほかならない!――誰もが同じ程度ではないが、しかし同じ種類の取り扱いを受けるのである。神は、自分自身の行ないに対する私たちの信頼を破壊し、それからキリストのみわざに対する信頼をお与えになる。あなたも、バニヤンが描写している基督者の様子を知っているであろう。彼は大いに思い乱れて、妻子が彼のもとにやって来たときも、ただ彼らの暮らしている町が滅ぼされることになるとしか云えなかった。また、気楽にしている近所の人々がそのようなことは信じるな、そんなことで大騒ぎするなと告げても、真理はすでに、押しのけるにはあまらにも大きな力で彼に突き入れられていた。無神論者は、それをみな嘘っぱちだと云うかもしれない。柔順者はそれに軽く注意を払い、しばらくの間はそれを信ずるふりをするかもしれない。だが、基督者はそれが真実だと知っていたため、あのくぐり門と、十字架へと走って行った。必ず来る御怒りを逃れるためである。無頓着な者にとって、この言葉、「今しも滅びよう」、は警報として響くべきである。願わくは聖霊なる神が、次の聖句を説教している間に、ヨベルの年の大いなる角笛[レビ25:9]を吹き鳴らす力を与えてくださるように! 願わくは、その喜ばしい響きが、今しも滅びようとしている人の心に届くように! 願わくはその人が知ることができるように。天来のあわれみが自分をここに連れてきたのは、今しも赦し給うひとりの神を見いだすためであることを!

 II. 私の第二の聖句は、詩篇86:5にある。「《今しも赦し給う》」。それは、銀の鐘のように鳴り響かないだろうか? もう片方は、憂いに沈んだ音色であった。これから処刑されようとしている犯罪人の弔鐘を鳴らす、聖セパルカーズ教会の鐘にも似ていた。「今しも滅びよう」。しかし、これは、結婚を高らかに告げる鐘の音に似ている。「今しも赦し給う。今しも赦し給う」。では、神は今しも赦し給うと云うとき、それはどういうことだろうか?

 「今しも」とは、あなたがたがみな知っているように、「準備ができている」という意味である。ある人が鉄道で今しも出かけようとしている場合には、その旅行用の大型鞄に持ち物が詰め込まれ、まさに出発寸前になっていなくてはならない。ある人が今しも移民しようという場合には、自分の船賃を払う資力があり、移動中に必要な、また、目的地に着いてから腰を落ち着けるのに必要なあれこれの物を有していなくてはならない。ある路が今しも通れるとしたら、あらゆる障害物が片づけられているに違いない。事実、何事であれ、それが今しも使える場合、その準備ができていなくてはならない。罪人よ。神は今しも赦し給う。すなわち、あなたが赦されるためのあらゆる準備はできている。その路は、かつては封鎖されていたが、イエス・キリストがその十字架によってあらゆる山に隧道を掘り、あらゆる谷を埋め、あらゆる深い亀裂に橋を渡してくださったため、赦罪の路はいま完全に準備ができたものとなっている。神がこう仰せになる必要はない。「わたしはこの罪人を赦したい。だが、いかにしてわたしの正義を尊べば良いだろうか?」 罪人よ。神の正義はすでに遂げられている。いま信じているすべての者、あるいは、これから信ずることになるすべての者の罪は、キリストがあの木の上で死なれたとき、その上に置かれた。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたの罪はキリストの上で罰されたのであり、キリストのささげた大いなる贖罪によって、永遠に取り除かれたのである。それは、今や義なる神がそのあわれみという象牙の王宮から出て来て、その愛の御手を差し出し、こう云うことがおできになるということである。「罪人よ。わたしはあなたと和解させられている。わたしと和解させられるがいい」。

   「御座にいま血を 注がれて
    などて重荷に うめくべき。
    御怒(いかり)はすべて 主に置かれ、
    正義(さばき)は代価(みのしろ) 認めたり」。

 古のイスラエル人の場合、いけにえがほふられ、祭壇の上で焼かれる必要があった。そのように、《天来の犠牲》は、カルバリの上でほふられた。一度限り完全に、罪のためのいけにえはイエスによってささげられ、御父によって受け入れられ、聖霊によって証しされた。神は、イエス・キリストを信じようとするすべての者たちを今しも赦し給う。――すなわち、赦す準備ができておられる。――あなたは、自分の側に多くの準備が必要だと考えているが、大間違いである。いかなる準備もできている。雄牛も太った家畜もほふられ、宴席は広げられている[マタ22:4]。しもべたちは、この晩餐会への招待状をもって遣わされている。あわれな悔悟者よ。あなたがしなくてはならないのは、来て席に着くことだけである。そして、この宴会の大いなる《与え主》に感謝しながら食べることだけである。おゝ、どす黒い罪人よ。浴槽は水で満たされている。だから来て洗うがいい! おゝ、あなたがた、裸の人たち。衣は上から全部1つに織られている[ヨハ19:23]。だから来て、それをまとうがいい! おゝ、あなたがた、身請け出された人たち。代価は払われている。だから、血で買われたあなたの自由を受けるがいい! すべてはなされている。「完了した」[ヨハ19:30]とのことばは、カルバリの頂から響いている。神は今しも赦し給う。

 しかし、「今しも」という言葉は、準備ができているという以上のことを意味している。私たちが時にこの用語を用いて表わすのは、簡単にできることである。私たちは、「これこれのことができるかい?」、と問う。するとあなたは、「できるとも!」、と答える。「今にもね」。あるいは、私たちはあなたが約束したあることをあなたに思い出させ、それを履行できるか尋ねるかもしれない。すると、あなたは云う。「できるとも! 今にでもその契約は果たせるよ」、と。罪人よ。神にとって、あなたを赦すことはたやすいことである。「そうでしょうとも」、とあなたは云う。「ですが、先生は私が昨晩どこにいたかご存知ないのです」。しかり。そして、それを知りたいとも思わない。だが、神にとっては、まだ地獄に入っていないいかなる者を赦すことも、たやすいことである。しかし、あなたは問う。「いかにして神にそれができるでしょう?」 神がお語りになれば、それはなされる。神はただあなたにこう仰せになるだけで良い。「あなたの多くの罪は赦されている」*[ルカ7:47]。それだけで、それはなされる。赦しは瞬間的なみわざである。義認は、稲妻の閃きのように迅速である。あなたは、ある瞬間にはどす黒いが、次の瞬間には雪白石膏のように白くなっている。有罪だったのが――放免される。死刑宣告を受けていたのが――無罪にされる。失われているのが――見いだされる。死んでいたのが――生きた者とされる。主がそうすることには何の手間暇もかからない。主はそれを軽々と行なわれる。おゝ、兄弟たち。もし主が一言で世界をお造りになれたとしたら、――もし主が「光よ。あれ」、と仰せになるだけで、光ができた[創1:3]としたら、――確かに、今やキリストがご自分を、罪のための血を流すいけにえとしておささげになっておられる以上、神かただお語りになるだけで、赦罪は与えられる! 神が、「わたしの心だ。きよくなれ」[マタ8:3]と仰せになるだけで、いかなるらい病人のごとき罪人も完璧にきよめられる。おゝ、罪人よ! あなたはこの祈りをささげたくないだろうか? 「主よ。助けてください。私は滅びそうです」*[マタ8:25]。あなたは主があなたを赦してくださるよう願いたくないだろうか? 主がこれほどたやすくあなたをお赦しになれる以上、あなたはこう叫びたくないだろうか? 「イェスよ、救わせ給え、さなくば、われ死す!」 あわれな震えている女よ。あなたの手を向こうに伸ばし、主の衣のすそに触れるがいい。そうすれば、健やかになるであろう。主は今しも赦し給うからである。すなわち、それを軽々と行なうことがおできになるからである。

 また、「今しも」という言葉はしばしば迅速に、あるいは、すぐさまという意味である。この意味でも、神は今しも赦し給う。私には分かっている。あなたがたの中のある人々は、何箇月もの悲しみを忍ばなくては、赦されることはできないのだと考えている。だが、この大いなる祝福を受けるには、一時間たりとも待つ必要はない。他の人々が経てきた経験について私が云ってきたことを聞いて、あなたがたの中のある人々は、四、五年は《落胆の沼》の中でのたうつ必要があるのだと思い描くかもしれない。だが、そうする必要はない。救いの計画はこうである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」*[使16:31 <英欽定訳>]。ある場面を示させてほしい。パウロとシラスは、ピリピの奥の牢に入れられ、その足には足枷がかけらていた[使16:24]。彼らは、残虐な鞭打ちを受けた後であったが、真夜中ごろ歌っていた。血によって買い取られた赦罪について歌い、死に給い、かつよみがえられた神の《小羊》について歌っていた。だが、彼らが歌っていると、突如そこに地震が起こった。獄舎の土台が揺れ動き、扉という扉がばたばたあいた。囚人たちが逃げてしまったものと恐れた看守は飛び上がっては剣を抜き、自殺しようとした。まさにそのとき、1つの声が叫んだのである。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」[使16:28]。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、自分の囚人たちの前に震えながらひれ伏して云った。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか?」 あなたがたの中のある人々であれば、この問いに何と答えただろうか? 「よろしい。まず、今のあなたがしているよりも深く自分の咎を信じなくてはなりません」。それはパウロの答えではなかった。彼は云った。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。そして、彼が救われたことを証明するために、彼とその家の者全部にすぐさまバプテスマを授け、彼らは全家族そろって信じたとはっきり記されている。これについて、あなたは何と云うだろうか? あなたがた、年老いた執事たち。多くの田舎執事たちがなおも云っているように、若い回心者たちは、バプテスマを受ける前に「一夏と一冬を越させ」なくてはならないと云う人たち。私の知っている、田舎にいる何十人もの老いた魂は、こう云っていた。「私たちは、何某夫人を教会に受け入れてはならない。まだ十分に彼女を試すだけの時間が経っていないのだから」。しかし、使徒パウロは知っていたのである。彼らが信じた以上、彼らはバプテスマを授けられるにふさわしかったことを。なぜなら、彼らは赦されたからである。

   「罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    全き救い 御血(ち)によりて」。

主のおこころであれば、あなたはいまこの瞬間に赦されることができる。エホバは、あなたを赦す宣言書を書き上げ、天国の国璽をそれに押すのに、何箇月も何年も必要とはされない。神がその言葉をお語りになると、稲妻の閃きよりも迅速に、この使信があなたのもとに届くのである。「あなたの多くの罪は赦されている」。そして、あなたはこう云って良い。「私は赦されており、――

   『恵みの記念碑(かたみ)
    血にて救わる 罪人なるぞ。
    愛の流れを われは辿りて
    その源にます 神に至りぬ。
    その御胸(みむね)にぞ われは見ゆ
    我れへの愛の 永久(とわ)の思いを』」。

 「今しも」という言葉は、また、しばしば単に朗らかさを表わすためにも用いられる。ある人があなたに、「私を助けてくれませんか?」、と云うとき、あなたは云うであろう。「おゝ、もちろんですとも。今すぐに!」 それは、朗らかさを意味している。主は朗らかに与える人[IIコリ9:7 <英欽定訳>]を愛してくださる。ならば確かに、主ご自身も朗らかに与えてくださるに違いない。あわれな魂よ。あなたは、神がある魂を赦すとき、いかにお喜びになるか分かっていない。御使いたちは、神が世界を造られたとき歌声を上げた[ヨブ38:7]。だが、そのとき神が歌われたとは記されていない。だが、ゼパニヤの預言の最後の章には、こう書かれているのである。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」[ゼパ3:17]。考えてもみるがいい。――《三一の神》が歌っておられる! いかなる考えであろう。――《神格》が思いあふれて歌声を発しているのである! では、それは何についてだろうか? それは、ご自分の赦された民について、ご自分の血で買い取られた選民についてである。おゝ、魂よ。ことによると、あなたは、神に懇願するのは難しいと思っているかもしれない。神がそのあわれみをしぶしぶとしか与えないと思っているかもしれない! しかし、主のあわれみは、私たちが呼吸する空気と同じくらい無代価である。太陽が輝くとき、それは無代価で輝く。そうしないようなものは太陽ではない。そして神がお赦しになるとき、神は無代価で赦される。そうしないようなものは神ではない。水晶の泉から吹き出すいかなる水も、神の心から流れる恵みほどの清新さ、また、豊かな気前の良さで流れたことはない。神は愛、喜び、平安、赦罪を放散し、それを王から王に与えるようにお与えになる。あなたが神の宝物庫を空にすることはできない。無尽蔵だからである。神は、出し惜しみすることによって得をしないし、授けることによって乏しくなりはしない。

 魂よ。あなたは神が自分を赦すことを渋っていると考えるとき、神を誹謗しているのである。私もかつては、今のあなたのように、私の愛する主についてひどい考えをいだいていた。神が私など赦したがらないだろうと思っていた。ことによると、いつかはそうすることもあるかもしれないとは思ったが、喜んでそうしたがると信ずるほど、神をよく思うことはできなかった。私は神の御足のもとにおっかなびっくりやって来ては云った。「確かに神はここから私をはねつけてしまうだろう」、と。私は神が自分にこう仰せになるものと思っていた。「出て行け。この罪人の犬めが。お前はわたしの愛を疑っていたからだ」。しかし、そうではなかった。あゝ! あなたは見るべきである。いかなる微笑みをもって神がその放蕩息子を受け入れ、いかに情愛のこもった優しさをもって彼を胸に抱きしめ、いかに嬉しげなまなざしをもって彼を家に連れて行き、いかに晴れ晴れとした顔つきをもって、ご自分の脇に彼を座らせ、上座に着かせ、こう云われたかを。「食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」[ルカ15:23-24]。

 私は、この甘やかな言葉を、この場のあらゆる心に書き記し、あらゆる記憶に彫りつけることができればと思う。「今しも赦し給う」。あなたがたの中に誰か、赦されたくないという人がいるだろうか? 来たるべき日には、あなたはこの祝福を欲するであろう。水夫よ。あなたはこの建物の中にいるだろうか? もうしばらくすれば、あなたは孤独な海に出て行くであろう。波浪があなたの船を呑み込み、あなたは一本の櫂にしがみついていることになるかもしれない。海水があなたの回りで波打っているとき、いかにあなたはこのことを思い出して喜ぶことであろう。神は今しも赦し給うのである。だが、それよりはるかにまさっているのは、あなたの魂をいま神にゆだねることであろう! 私がいま語りかけている中のある人々は、おそらく今週中に死ぬであろう。これは闇雲な主張ではない。この言明は、統計的な死亡率に基づいている。おゝ、魂よ。あなたは、そんなことは自分には何ほどのことでもないと云うだろうか? だが、あなたが新聞の死亡欄に載るときには、――そして、それは次の安息日の太陽が上る前にそうなるかもしれない。――いかにこの一言が、音楽のようにあなたの死に行く耳に鳴り響くかもしれないことであろう。「今しも赦し給う」、と! 私が話をしている人々の中には、これから自殺しようと考えている、見捨てられた女がいるだろうか? そうしないようにするがいい。神は今しも赦し給うからである。私が語りかけている人々の中には、誰からも鼻も引っかけてもらえない落ちこぼれとして、社会から放逐されている男がいるだろうか? 魂よ。希望を捨ててはならない。神は今しも赦し給うからである。たといあなたの父親があなたの面前で戸をぴしゃりと閉め、あなたの母親と姉妹があなたの悪徳と罪ゆえにあなたを避けても、それでも神は、あなたが悔い改めて、自分の不義から立ち返りさえするなら、今しも赦そうとしておられる。悔い改めよ。立ち返れ[エゼ33:11]。これは、ひとりの兄弟の声が、あなたに立ち返るよう懇願しているのである。神が私を赦された愛にかけて、神が私の無数のそむきの罪を見過ごされたあわれみにかけて、私はあなたに立ち返るよう乞い願う。否、それ以上に、私の腕をあなたの腕にからめ、あなたに云う。「さあ、主に立ち返ろう[ホセ6:1]。そして、こう申し上げよう。『恵み深く、無代価で私たちを受け入れてください。そうすれば、私たちはあなたにくちびるの果実をささげます』[ホセ14:2参照]」。あなたは今しも滅びようとしているが、神は今しも赦し給う。その聖なる御名はほむべきかな!

 III. 私の第三の聖句は、最後の釘を深々と突き入れる鎚とするつもりである。ヨブ17:1にあるこの文章は、私たちひとりひとりにとって、厳粛きわまりない真実である。「《私は今しも墓場に入るだろう》」。

 三年ほど前、私は永遠の世界をのぞき込んだ。そのとき、神は、極度にはなはだしい苦痛の寝床の上に私を横たえ、私はいのちが危険な状態に陥った。単に一時間ごとにではなく、一瞬ごとにそうであった。永遠の現実が、私の眼前に生々しく広がった。だが神は、私には知られていない何らかの目的のために、私のいのちをお取りにはならなかった。それで、私は、しばらくしてから完全に快復することになった。そのとき付き添ってくれた、ひとりの愛する友人は、私よりもずっと生きる見込みがあるように思われた。だが、きょう、今度は彼が墓の瀬戸際に横たわり、私が彼の枕頭に立つ番となった。かつては、私が今しも墓場に入るように思われたが、今は彼がそこに入るように思われる。きょうの午後、私が立って彼と話をしていると、彼はアディソンにもまる力をこめてこう云った。「見るがいい。キリスト者がいかに死ねるかを」。私が彼に、その現世的な持ち物や財産について尋ねると、彼は、そうしたものをみな残して行くことに、少し前から満足していると云った。「では、奥さんや小さな子どもたちのことは?」、と尋ねると、彼は答えた。「あれたちのことは、みな神におゆだねしています」。「では、永遠に関わることについては?」、と問うと、「おゝ! 先生も知っての通り、神の愛は永遠ですし、御恵みは変わることがありません。では、なぜ恐れることがありましょう?」 彼は自分が《愛する方》において受け入れられていることについても、自分が死ぬときキリストが彼をかかえて行く力をお持ちであることについても、全く疑っていなかった。私が、「戦い終わり 永久に勝ちたり」、と云うと、彼の目が輝くのが見えた。それは、私たちの救いの偉大な《指揮官》の妙なる声が彼にこう云うのを聞いたかのようであった。「良くなせり。汝が安きに入れ」。私は、結婚式の日の花嫁といえども、死を直前にしたこの人物ほど幸せそうにしているのを見たことがない。夜、床に就く聖徒といえども、着物を脱いで自分の神の前に立とうとしている彼ほど安らいでいるのを見たことがない。「あゝ!」、と彼は叫んだ。「私に仰ったことを忘れないでください。『突然の死は、突然の栄光である!』、と」 そして、彼の目はじきに自分の主を見ることを予期して再びきらめいた。

   「ただ一息で 足枷(かせ)は砕けぬ」――

そしてあなたは去(い)っている。おゝ、地よ。そして私の魂は天にあるのである! 一息あえげば、あなたはいなくなっている。おゝ、おぼろな《時》よ。そして私はあなたのもとに来ている。嬉しき《永遠》の実体よ! 神はほむべきかな。私たちは今しも墓場に入るであろう。キリスト者である人たち。長生きするという考えは、あなたにとって魅力的だろうか? この牢獄の中にあなたはとどまっていたいだろうか? こうした定命のあり方という襤褸きれに、この卑しいからだに、しがみついていたいだろうか? その息は腐敗しており、その顔はしばしば嗚咽にゆがみ、そのまぶたの上には死の陰が垂れ込めているというのに? あなたは、このごみための世をずっと這い上ったり下ったりしていたいだろうか? どこかの、あわれな虫けらのように、ぬめぬめとした痕跡を残しながらそうしていたいだろうか? それとも、あなたはむしろ、こう望むだろうか?――

   「魂(たま)よ、翼を 伸張(は)りて翔(と)べ、
    ますぐに彼方の 喜(よ)き世へと」。

私たちが賢明であれば、こうすべきである。――

   「脱衣(ふくす)つ宵待て、
    主との安息(やすき)の」。

 「私は今しも墓場に入るだろう」。うら若い青年男女たち、また、この場にいるあなたがた、すべての人たち。あなたは、自分が今しも入ろうとしている墓場を眺めて、きょうの午後に私の友人が有していたような安心を有していられるだろうか? おゝ、《死》よ。お前は、お前の投げ矢を磨き、お前の大鎌を研ぐ必要はない! お前は常に、今しも人々の子らを屠殺しようとしている。おゝ、《永遠》よ。お前は、お前の門の錠を外し、錆びついた蝶番に苦労しながら、長々と時間をかけて戸を開く必要はない。というのも、それは常に多少とも開いているからである! おゝ、来たるべき世よ。お前は、自分の旅を終えた巡礼たちを迎え入れる準備をするために、長い合間を設ける必要はない! お前は、その扉を常に開いている宿屋である。お前の門は決して閉じることがない。私たちは今しも墓場に入るであろう。私たちの棺となる木は育っている。ことによると、私たちの屍衣となる布はすでに織られているかもしれない。そして、私たちの終の棲家へ私たちを連れて行くそれらは、今しも私たちを待ち受けているのである。

 「私たちは今しも墓場に入るであろう」。私たちは墓場に入る準備ができているだろうか? 死ぬ用意があるだろうか?――よみがえる用意が、――審かれる用意が、――永遠の御座の前で受け入れられる根拠として、キリストの血と義とを申し立てる用意があるだろうか? あなたは何と答えるだろうか? 話をお聞きの方々。あなたの答えは、この講話の最初に私が引用した言葉だろうか? 「今しも備えあり」。《死》よ、お前は、私に用があると云っただろうか? 私はここにいるぞ、お前が私を呼んだのだから。《天国》よ、お前は云っただろうか? もうひとり血で買われた者を受け入れる必要がある、と。「今しも備えあり!」 おゝ、キリスト者よ。常にあなたの家をきちんと整えておき、あなたが常に「今しも備えあり!」であるようにしておくがいい。あなたの心を常にそのような状態にしておくがいい。あなたの魂がキリストの間近にあり、あなたの信仰が完全にキリストに据えられているため、たとい町通りでばったり倒れて死んでも、あるいは、何らかの事故でいのちが奪われても、朗らかにこう云えるようにしておくことである。「今しも備えあり! おゝ、《死》よ。私には、今しもお前のための備えがある。お前に勝利し、お前のとげを引き抜く備えがある! おゝ、《墓場》よ。私には、今しもお前のための備えがある。というのも、今やお前の勝利はどこにあるだろうか? おゝ、《天国》よ。私には、今しもお前のための備えがある。というのも、お前の婚礼の衣装をまとっている私たちは今しも備えがあるからだ。今しも!」 主が私たちを備えさせ給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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「今しも備えあり!」[了]

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