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敬神の楽しみ

NO. 2759

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1901年12月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1858年夏、木曜夜の説教


「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。――詩104:34 <英欽定訳>


 これまでしばしば、それとなくほのめかされてきたところ、――表立って確言されることはなかったにせよ、――天来の事がらを思い巡らすことには、精神を抑鬱する傾向があるという。キリスト教信仰は、思慮を欠く多くの人々によると、若者にはふさわしくないものだと思われている。それは、彼らの血気盛んな若々しさにたがをはめてしまうものだ。白髪頭をした人々にとっては、結構しごくなものかもしれない。そうした人々には、人生の坂を墓まで下っていく間に慰めてくれるもの、慰撫してくれるものが必要なのだ。貧困や深刻な試練の中にある人々には似つかわしいかもしれない。だが! 健康で、五体満足で、何不自由なく、幸福にしている若者とキリスト教信仰が釣り合ったものだなどということは、普通は論外だというのである。

 さて、これほど途方もない偽りはどこにもない。この世のいかなる人にもまして幸福になれるのは、真のキリスト教信仰を有する人である。人は、たとい地上的な快楽や富が山ほどあり、その倉が豊かに満ちあふれ、その酒ぶねが新しい葡萄酒であふれていたとしても、神の恵みをその心に有することによって、いささかもその幸福を減ずることはないであろう。むしろ、その喜びは、その人の繁栄すべてに甘やかさを加えるであろう。その人の杯から多くの苦い澱を漉し取るであろう。その人の心をきよめ、種々の喜びの味わいを清新にし、その蜂の巣からより多くの蜜を抽出するしかたを示すであろう。キリスト教信仰は、いかに陰気な者をも喜ばせることができると同時に、いかに喜んでいる者をもいやまして喜ばせることができる。それは、ふさぎこんだ者を明るくし、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせることができる[イザ61:3]。そればかりでなく、喜んでいる者の顔を、天的な嬉しさで輝かせ、その目を十倍もの輝きできらめかせることができる。そして、今いかに幸せな人であっても、そこには自分が飲んだことのあるいかなる美酒にもまして甘やかなものがあることに気づくであろう。贖罪のあわれみという泉にやって来るとしたら、また、自分の名前が永遠のいのちの書に登記されていることを知るとしたら、そうである。ということは、現世における種々のあわれみは、贖いの魅力によって、一段と高められるのである。それは、もはやその人にとって影のような幽霊ではなくなる。日光の中で束の間に踊る幻影ではなくなる。その人は、それらをずっと尊く思いみなすであろう。なぜなら、それらは、いわば、天来の遺言状の補足書の中でその人に与えられているからである。この遺言状では、来たるべきいのちだけでなく、今あるいのちが約束されているのである。その人のいのちの日の限り、いつくしみと恵みはその人を追って来る。それと同時にその人は、自分の感謝に満ちた期待を未来に伸ばすであろう。やがてその人は、いつまでも主の家に住まうようになるのである[詩23:6]。その人は、詩篇作者がこの詩篇で云っているように、こう云えるであろう。「私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。この方を思い巡らすことは私に快いものです。私自身は、主を喜びましょう」[詩104:33-34 <英欽定訳>]。

 I. 第一に考察したいと思うのは、本日の聖句が、《いかに尊い対象を思い巡らすべきであるとしているか》ということである。「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。

 キリスト者よ。あなたの心をかき立て、思い巡らさせるものが他に何もなくとも、ここで提示されている対象があれば十分である。「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。ここで、「この方」という言葉は何を指しているだろうか? 思うにそれは、栄光に富む《三位一体》の三《位格》すべてを指しているであろう。エホバを思い巡らすことは私に快い。そしてまことに、もしあなたがじっくり腰を据えて、父なる神について思い巡らし、ご自分の選ばれた民に対するその主権的で、不変の、変わることのない愛について熟考するとしたら、――もしあなたが父なる神を、救いの計画の大いなる《創始者》また《発起者》とみなすならば、――もしあなたが御父を、変えることのできない2つの事がらによって(神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができない)、前に置かれている望みを捕えるために逃れてきた私たちに力強い励ましを与えたとお語りになった力ある《お方》とみなすとしたら[ヘブ6:18]、――もしあなたがこの方を、そのひとり子である御子の《与え主》と仰ぎ見、また、ご自分の最上の賜物であるその御子のゆえに、その御子と合わせて、あらゆるものをふんだんに私たちに与えてくださるであろうお方と仰ぎ見るとしたら、もしあなたがこのお方を、その契約を批准なさった方、また、選ばれ、買い戻された、あらゆる魂を集め入れることによって、その条項のすべてを究極的に完成すると誓約なさった方であられると考えるとしたら、あなたは悟るであろう。たといあなたが御父の愛の働き方と、その働きの内容だけに注意を限定したとしてさえ、そこには永遠にあなたを思い巡らせ夢中にするに足るものがあることを。

 あるいは、もしあなたが、聖霊なる神について考えることにしたとしても、あなたは自分自身の心に及ぼされる御霊の素晴らしい種々の働きを考えることであろう。――あなたが罪過と罪の中で死んでいたとき、いかに御霊があなたの心を生かしてくださったことか[エペ2:1-5]、――あなたが迷い出した羊となり、囲いからはるか遠くをほっつき歩いていたとき、いかに御霊があなたをイエスに近づけ、いかにあなたを召し、その御声にあなたが抵抗できないほどの強大な効力をもってそうしてくださったか、――いかに御霊がその全能の愛という驚くべき絆であなたを引いてくださったことか[ホセ11:4]。もしあなたが、いかにしばしば御霊が危難のときにあなたを助けてくださったことか、――いかに何度となく、悩みと苦難のうちにあったあなたを約束によって慰めてくださったことかを考えるとしたら、また、もしあなたが、いかに御霊が聖なる油のように常にあなたのともしびの必要に応じ、生の最期の時に至るまで常にあなたをその種々の影響力で満たしてくださるか、また、あなたが彼方に至り、御父と御子と聖霊とのほむべき臨在の中で、自分の《救い主》と顔と顔とを合わせて見えるときまで、いかに御霊が常にあなたの《教師》となり《導き手》となってくださるかを思うとしたら、――そのような黙想の中であなたは、自分が思い巡らすべき広大にして無限の主題を見いだすことができよう。

 しかし、いま私は、「この方」というこの言葉を、私たちの崇敬に値する《救い主》のご人格にだけ当てはめたいと思う。「《この方を》思い巡らすことは私に快いものです」。あゝ! もしも、《三位一体》の一《位格》を思い巡らすことが、他の位格について思い巡らすことをしのぎうるとしたら、それはイエス・キリストについて思い巡らすことである。

   「神を人体(にく)にて 見ゆまでは
    われに慰め つゆもなし。
    聖く義しき 三つなる主
    恐怖(おそれ)満たさん わが想念(たま)を。

    されどインマヌエルの 御顔(かお)現(い)ずば
    希望(のぞみ)と喜悦(えみ)は 始まらん。
    御名は禁ぜり 奴隷(ぬ)の恐れ、
    恵み 赦せり わが罪を」。

おゝ、尊きイエスよ! 私が思い巡らすべき的として、何にもまして甘やかなのは、あなたといういと高いご存在にほかなりません。――あなたを神の御子として思い描くことにほかなりません。あなたは、黄金の二脚製図器で宇宙に1つの円を描き、この丸い世界を形作ったお方です。この巨大な天体を双肩に乗せ、それと同時に栄光の《王》であられ、御使いたちが身をきわみまで低めて臣従しているお方であられるあなたを思い、それでいながら、同じようにあなたを、「私の骨の骨、私の肉の肉」として考え――

   「血の絆にて 罪人と合わされ」

たお方として考え――、また、マリヤの《子》として、処女から生まれ、人々のように肉を身に帯び、私たちのようにか弱い定命の種族に似た人間性の衣をまとわれたあなたを想起し、あなたのあらゆる苦しみの生涯の姿を思い描き、あの受難のすべてにおけるあなたを辿り、ゲツセマネの苦悶のうちにあるあなたを眺め、血の汗に耐えておられるあなたにはなはだしく驚愕し、それからあなたの後に従ってガバタ(すなわち、敷石)[ヨハ19:13]に赴き、そこから険しいカルバリの丘腹を上って行き、「はずかしめをものともせずに十字架を忍び」[ヘブ12:2]つつあるあなたの魂が私のもろもろの罪のための1つのいけにえとなるとき、また、あなたが神以外のいかなる者にも知られない恐怖のただ中で和解を立てる死を味われるのを見るとき、――まことに、ここには私の魂が思い巡らすべきことがあります。それは、永遠に「快い」ことに違いありません。私は、詩篇45篇を書いた詩篇作者と同じように、こう云って始めなくてはなりません。「私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。私の舌は巧みな書記の筆」[詩45:1]。

 私たちの主イエス・キリストを、あなたの望む通りに考えるがいい。そのとき、あなたが主を思い巡らすことは快いものであろう。イエスは、あなたの見たことのある水晶体のいくつかにたとえることができる。それを手にとって、一方向にかざすと、ある種類の光が見え、別の方向にしてみると、別の種類の光が見えるのである。そして、どのように回そうと、常に何らかの貴重な光のきらめきと、何らかの新しい色彩が眼前に現出するのである。あゝ! イエスをあなたの主題として取り上げ、じっくり腰を据えてこの方について考察し、この方とあなた自身の魂との関係について考えてみるがいい。あなたがこの主題について極め尽くすことは決してないであろう。あなたと主との永遠の関係を思うがいい。聖徒たちが、《小羊》と結び合わされることによって、世が造られる前から、断罪から自由にされていたことを思い起こすがいい。この惑星が宇宙を経巡り回転させられるようになる前から、エホバなるイエスのご人格とあなたが永遠に結び合わされていたことについて考えるがいい。また、いかにあなたの咎ある魂が、あなたの堕落前からさえ、しみなく、きよいものとみなされていたかについて考えるがいい。そして、その陰鬱な過ちの後、あなたが回復される前から、イエス・キリストというお方において、義認があなたに転嫁されていたことについて考えるがいい。あなたが主の恵みによって召されて以来の、あなたも知る通りの、明確な主との関係について考えるがいい。いかにして主があなたの《兄弟》となられたか、主の心がいかにあなたの心といとも優しく調和しつつ鼓動しているか、いかに主がその愛の口づけによってあなたに口づけしてくださったか、そして、いかにその愛があなたにとって葡萄酒よりも甘いものとなっているかを考えるがいい。

 あなたの生涯における、幸福で、明るく輝いている部分、そのときの結びつきを振り返ってみるがいい。そのときイエスはあなたに向かって、「わたしはあなたのものだ」、と囁かれ、あなたは、「私の愛する方は私のもの」、と云ったはずである[雅2:16]。いくつかの、えり抜きの瞬間について考えてみるがいい。そのときには、御使いが天から降りて来て、あなたをその翼の上に乗せ、高く掲げ、イエスが着座しておられる天の所にあなたを座らせ、イエスと言葉を交わせるようにしてくれたはずである。あるいは、もし良ければ、何らかの憂いに沈んだ瞬間のことを思うがいい。そのときあなたは、パウロがあれほど重きを置いていたもの――キリストの苦しみにあずかること――を有していた。そのとき、汗があなたの額を、ほとんどイエスの額を流れ落ちたときと同じように流れ落ちたはずある。――血の汗ではなかったが。――そのときのあなたは膝まずき、自分がかつてキリストとともによみがえらされたのと同じく、キリストとともに死ねるように感じていた。それから、この主題のその部分を考え尽くしたのなら、天国で完全に発達しきることになる、キリストとあなたとの関係について考えてみるがいい。あなたが次のようにする時がやって来るのを想像してみるがいい。――

   「われは迎えん 血注がる民を
    とわ永久(とこしえ)の 岸辺にて」。

そして、目を向けてみるがいい。――

   「大水(みず)の彼方の 甘き沃野よ
    新緑(みどり)の衣 まといて立ちぬ」。

あなたの脳裡に思い描いてみるがいい。イエス・キリストが、「圧倒的な勝利者」[ロマ8:37]としてのあなたに挨拶をなさる瞬間のことを。また、星々よりも明るく輝く真珠の冠をあなたの頭に置いてくださる瞬間のことを。そして、あの忘我の時を思うがいい。そのとき、あなたは、その冠を自分の額から脱いで、イェスの御座の階段を上っては、それを主のみかしらの上にかぶらせるか、主の御足の下に置いて、今ひとたびイエスを「すべての人の主」[使10:36]のみならず、あなたの魂の主でもあるとするのである。あゝ! もしあなたが私のもとにやって来て、自分には思い巡らす主題が何もないと云うとしたら、私はこう答えるであろう。――確かにあなたは思い巡らそうと試したこともないに違いない。《この方を》思い巡らすことはあなたに快いものであるはずなのだから、と。

 かりにあなたが、自分の魂との関わりにおける主について考え尽くしたとしたら、次に、広大な世界との関連における主について考察するがいい。イエス・キリストが云われたことを思い起こすがいい。主がこの世にやって来られたのは、世が主によって救われるためである。そして、疑いもなく主は、いつの日か世をお救いになるであろう。というのも、代価と力によってそれを贖われた主は、それを回復し、《堕落》の種々の影響からそれを更新なさるからである。この関連において、イエスのことを「破れを《繕う者》、市街を住めるように《回復する者》」*[イザ58:12]として考えるがいい。主はいつの日か私たちの地球に戻って来られる。そして主は、やって来られるとき、この世界がなおもその上にへばりついた古の呪い――エデンにおける太古の呪い――によって醜くされているのを見いだされるであろう。主は悪疫を、疫病を、戦争をなおも地上に見いだすであろう。だが主は、やって来られるとき、人々に向かって命ずるであろう。「その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直せ」*[イザ2:4]、と。戦争は諸学の中から抹消される。主がみことばを発されると、それを大会社が公布するであろう。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」であろう[イザ11:9]。しかり。私たちの主イエス・キリストは確かに再び来られる! キリスト者たち。あなたがたは、あなたの主の再臨を待つがいい。そして、待っている間は、その来臨について思い巡らすがいい。おゝ、わが魂よ。かの荘厳な日に思いを馳せるがいい。そのとき、お前は、主がその華麗な供回りをことごとく引き連れて来ては、この世を審きへと召し出し、ご自分の敵に復讐なさるのを見るのである! 主の勝利という勝利を思うがいい。そのときサタンは縛られ、死は打ち砕かれ、地獄は征服され、主は全宇宙の《君主》として敬礼されるのである。主は「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」、と[ロマ9:5]。「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。

 あゝ、キリスト者よ! あなたは今や、しばらくの間ひとりきりにされても、思い巡らす主題がないといって不安になることはないであろう。ある人々は、ほんの一時間でも孤独にされることには我慢できないという。彼らには何もすることがなく、何も考えることがないのである。だが、いかなるキリスト者もそうは語らないに違いない。というのも、一言――キリスト、と――彼に告げさえすれば、彼はそれについて永遠に考慮を払い続けるからである。イエスという一言を告げさえすれば、また、それについて熟考してみるよう云いさえすれば、彼は、一時間など何ほどのこともなく、永遠すらも私たちの栄光に富む《救い主》を賛美するには半分も長くないことを見いだすであろう。しかり。愛する方々。私の信ずるところ、私たちは、たとい天国に行き着いたときでさえも、イエス・キリスト以外に思い巡らす主題を何1つ欠くことはないであろう。私は、何人かの大神学者や、学識ある哲学者たちが、こう私たちに告げていることは承知している。すなわち、私たちが天国に行ったときには、星から星へ、ある惑星から別の惑星へと飛び回ることで時間を費やすことになるのだ。また、木星や、水星や、金星や、あらゆる天体の大群に赴いては、それを見物することになるのだ。私たちは、被造世界のあらゆる驚異を眺めるのだ。科学の深淵という深淵を踏査するのだ、と彼らは私たちに告げるのである。彼らによると、私たちが理解することになる神秘には限りがないという。天国について、こうしたすべてを想像している人々に向かって、私はこう答えたい。私も、もしそれが彼らに何らかの楽しみを供するのだとしたら、何の反対もしない。私はあなたがた、キリスト者たちが全員、自分を幸福にしてくれるものをことごとく持つようになるのを希望するし、私の天の御父はあなたにそれを持たせてくださると知っている。だが、あなたが《星々》を眺めている間に、私はじっくり腰を据えてイエスを眺めるであろう。そして、もしあなたが私に、自分は土星や金星の住民、それに月面の人を見てきたよと告げるとしても、私はこう云うであろう。――あゝ! しかり。――

   「主の面差(おもて)にぞ 栄光(さかえ)は宿り、
    気高き御手の 労作(たくみ)あり。
    神、その御子の 人格(ひととなり)にて
    凌駕(まさ)れり、最大(いか)なるみわざをも」。

しかし、あなたは云うであろう。「あなたは、主を眺めていることに飽き飽きしてしまうに違いありませんよ」。否。私は答える。私は、主の御手の片方しか見ていない。そして、私はまだ、あの釘の一本が突き刺された穴を吟味し終わっていないのだ。そして、私が次にもう何千年か生きた時には、私は主のもう片方の手を取り上げ、じっくり腰を据えては、口を開いたそれぞれの傷跡を眺め、それから主の脇腹に下り、主の御足に下るであろうが、それでも主に向かってこう申し上げることができるであろう。――

   「百万歳(とせ)もて この眸は見張らん、
    救いの主の 麗しきをば。
    無窮の代々に われはあがめん、
    わが主の愛の 妙なる不思議を」。

あなたは好きなだけ遠くを飛び回って来てかまわない。私はそこに座って、人の肉に包まれた神を眺めているであろう。というのも、私の信ずるところ、あなたが光の翼に乗って旅行するという一切の利点によって学ぶことをはるかに越えて、私は神について、そのみわざについて、イエスのご人格について多くを学ぶのである。たといあなたが最も高遠な想像力と、最も巨大な知性の助けを借りて探そうとしたとしても関係ない。兄弟たち。キリストを思い巡らすことは私たちに快いものであろう。私たちが天国で欲するのは、イエス・キリストのほかにほとんどないであろう。主は、私たちのパンとなり、私の糧となり、私たちの美となり、私たちの晴れ着となるからである。天国の雰囲気は、キリストとなるであろう。天国のあるゆるものはキリストに似たものとなるであろう。しかり。キリストはその民の天国である。キリストのうちにあること、キリストとともにあることこそ、天国の本質である。

   「上なる立琴 すべてをしても
    天(あま)つ御国を よくつくりえじ、
    もしもキリスト 住まいを移し、
    その御顔をば 隠したまわば」。

それで、あなたはキリストが、私たちの思い巡らすべき非常に尊い主題であることを見てとったであろう。この方を思い巡らすことは私たちに快いものである。

 II. さて、第二のこととして、次に指摘したいと思う点は、《このように思い巡らすことにいかなるほむべき結果が伴うか》ということである。「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。

 この結果は、思い巡らす側の人格に非常に大きく左右される。私の知っている一部の人々は、会堂にやっては来るが、教役者が祝祷を唱えるのを非常に喜び、さっさと集会から立ち去る。彼らは、すべてが終わるとき非常に喜ぶ。そして、聖句よりは最後の頌栄を聞きたいと思う。キリストを思い巡らすことについては、快いと云うどころか、こう云うであろう。「それは全く無味乾燥なものです」、と。彼らも、たまたま何らかの逸話や小話を聞くとしたら、それを聞くことに異存はない。だが、キリストについてしか思い巡らさないなどということは、彼らにとって全く砂を噛むようなことであり、彼らはそれがしめくくりになるのを聞いて喜ぶであろう。あゝ、愛する方! それは、あなたの口の中にある味覚のためである。あなたの嗜好には、何か間違ったものがあるのである。あなたも知っての通り、ある種の薬を服用すると、また、口に何らかの強烈な香味料をたっぷり含むと、その後で何を食べようとその味しかしないものである。あなたもそれと同じである。あなたの口は、この世のあわれな珍味のいくつかによって味が分からなくなっているのである。あなたの唇には、ソドムの林檎の灰がなすりつけられており、それがイエスを思い巡らすという栄光に富む香気をだいなしにしているのである。事実、それはあなたが少しでもキリストを思い巡らすことを妨げている。あなたは単に思い巡らされたことを耳で聞くだけで、心に入れはしない。しかし、詩篇作者は云う。「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。

 愛する方々。私たちにとって快いものがこの世にあるとは何たるあわれみであろう! 私たちにはそれが必要である。というのも、確かに、それ以外の《この世》の事がらはほとんどみな非常に、非常に苦々しいものだからである。ここに、最初は甘そうに思えるちょっとしたものがある。だが、後になるとそれは苦い味となる。そして、あまりにも多くのものは、のっけから苦々しく、風味など全くない。この世という大実験室を行き巡るとき、いかに多くの容器や瓶に、「苦味」というしるしがつけられていることか! ことによると私たちの杯には、他のいかなる成分よりも多くの蘆薈が入れられているかもしれない。私たちは自分の人生行路の中で大量の苦味を摂取しなくてはならない。ならば、1つでも甘いものがあるということは、何というあわれみであろう! 「《この方を》思い巡らすことは私に快いものです」。それは非常に快いので、愛する方々。他のあらゆる苦味がその甘やかさに呑み込まれ尽くすほどである。私は、夫に先立たれた、あるやもめを見たことはないだろうか? 彼は彼女の力であり、彼女のいのちと生活の杖とも柱ともいうべき存在であったが、それが墓に横たえられてしまったのである。――だが私は、彼女が両手をあげてこう云うのを見たことはないだろうか? 「あゝ! あの人は行ってしまいましたが、まだ私の《造り主》が私の夫です。主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」。何が彼女に忍耐強く服従させていたのだろうか? それは彼女が、自分の考えの苦々しさを中和するだけの、甘やかなことを思い巡らしていたことにあった。また私は、今でもある人のことを覚えているではないだろうか? 彼は、鉄砲水によって地所を洗い流され、土地が呑み込まれ、それはもはや利益を生むどころか流砂となってしまった。赤裸の破産者となった彼は、涙をぽたぽたと落としながらも両手を上げると、ハバククの言葉を繰り返した。「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」[ハバ3:17-18]。それは、彼がキリストを思い巡らすとき、そのあまりの甘やかさのために、自分の苦難の苦味が吸収されてしまったからではないだろうか? そして、おゝ! いかに多くの人々が、死の暗い流れのもとに来たときでさえ、確かに自分の苦味は過ぎ去っているのを見いだしたことであろう。というのも、彼らは、イエス・キリストについて思い巡らすことを通して、死が勝利のうちに呑み込まれているのを見いだしたからである!

 さて、もしあなたがたの中の誰かが、患難や苦難により、何の味も分からなくなってこの場にやって来ているとしたら、また、もしあなたが主について、エレミヤとともに、「主は私を苦味で飽き足らせ、苦よもぎで私を酔わせ、私の歯を小石で砕き、灰の中に私をすくませた」[哀3:15-16]、と云っていたとしたら、このえり抜きの強壮剤を一口含むがいい。それが甘やかであることは請け合っても良い。それはラクリマ・クリスティ*1と呼ばれている。もしあなたが、イエスのこの涙を手に取って、口に入れるなら、それらは今そこにある一切の不快な風味をことごとく取り去ってしまうであろう。あるいはまた私は、このようにキリストについて思い巡らすことを、天国でくゆらされた乳香の一片として受けとるように命ずる。あなたの家に何があるかなど問題ではない。これがあなたの家にパラダイスの香りをさせ、それを、かつてエデンの園を吹き抜けていたそよ風にも似た、完璧な花々のかぐわしい香気のただようものとするであろう。あゝ! あなたの霊を何にもまして慰め、あなたの苦悩と苦難のすべてを何にもまして和らげるのは、今のあなたが、イエス・キリストのご人格について思い巡らすことができると感じることである。「この方を思い巡らすことは私に快いものです」。

 しかし、私の愛する方々。私はこう尋ねることもしないで、あなたを送り返して良いだろうか? すなわち、あなたがたはみな、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストについて、このように思い巡らしたことがあるだろうか? 私は一度でも説教をしたなら、それを自分の聴衆全員の良心の奥深くまで突き入れることをせずにおきたくはない。私はあなたに御霊の剣を突きつけ、それをあなたに示して、「これは剣であり、その斬れ味は鋭い」、と云うことを全く何も気にしない。私は、その斬れ味の鋭さをあなたに感じさせ続けるために、それであなたを切り裂きたいと思う! 願わくは、御霊の剣があなたがたの中の多くの人々の心をいま貫き通すように! 私は、これほど多数の人々が平日でさえも集っているのを見るとき、驚嘆させられる。私が初めてロンドンにやって来たときには、平日はおろか安息日にさえ、この半分も会衆が集まるとは思ってもいなかった。しかし、あなたはどこからやって来たのか? 私の兄弟たち。あなたがたは何を見に出て来たのだろうか?[マタ11:7] 風に揺れる葦だろうか? あなたは何を見に来たのだろうか? 預言者だろうか? 否。だが私は云おう。預言者よりもすぐれた者をである。あなたは、私たちの《救い主》にして私たちの主なるイエス・キリストを見聞きするためにやって来たのである。では、あなたがたの中に、本当にキリストについて思い巡らしている人々はどのくらいいるだろうか?

 キリスト者である人たち。あなたがたの中の多くの人々は、自分の種々の特権以下の生き方をしてはいないだろうか? あなたは、イエスにあずかるというえり抜きの瞬間を持つことなく生きてはいないだろうか? 思うに、もしあなたが天国の王宮への無料入場券を持っているとしたら、あなたはそれを非常にしばしば用いるであろう。もしあなたがそこに行けるとしたら、また、あなたが心から愛していた何人かの人々と交わりを有することができるとしたら、あなたの姿はしばしばそこで見受けられるであろう。しかし、ここにはあなたの主イエス、天国の《王》がおられ、主はあなたに、天国の諸門を開くことのできるものを与え、あなたをご自分との甘やかな交わりを持たせてくださるのである。だがしかし、あなたは、主のみわざについて思い巡らすことも、主のご人格について思い巡らすことも、主の数々の職務について思い巡らすことも、主の栄光について思い巡らすこともせずに生きている。キリスト者である人たち。私はあなたに云う。――いいかげんに神に近く生き始めるべきではないだろうか? わが国の諸教会はどうなることだろうか? 私はキリスト教界全体をどう考えるべきか見当もつかない。私は国中を旅行して歩き、そこここに赴くにつれ、諸教会が途轍もないほどやせ衰えた状態にあるのを見いだしている。確かに、福音はほとんどの場所で説教されている。だが、それが説教されている様子は、水差しの中で小さな蜂がぶんぶん云うようなものである。――常に同じ単調な音で、ほとんど、あるいは全く何の善もなされない。私は、その責任は講壇のみならず会衆席にもあるように感じる。もし聴衆が深く思いを巡らす人々だとしたら、説教者も深く思いを巡らす者とならざるをえないであろう。いみじくも、水は上へは流れないという。だが、あなたが深く思いを潜め、みことばについて祈りをささげるとき、あなたの教役者たちはあなたが自分の上を行っていることを見てとって、本気になり始め、自分でも思いを潜め、それからあなたに福音を与えるようになるであろう。それは、彼らの心から清新に出て来たままの福音であり、それがあなたがたの魂にとって尊い食物となるであろう。

 あなたがた、イエス・キリストについて一度も思い巡らしたことのない人たちについては、あなたの最大の苦々しさが口の中にあるとき、自分がどうなると思っているだろうか? あなたが死を味わうとき、いかにしてあなたはその不味さをなくそうと希望しているのだろうか? だが、「定命の者が味わいうる、かの最後の、かの苦き杯」は、陰鬱な予兆でしかない。あなたが地獄の胆汁を永遠に飲まなくてはならないとき、――また、イエスがあなたのためには飲み干さなかった苦悶の杯が、あなたによって飲み干されなくてはならないとき、――そのときあなたはどうするだろうか? キリスト者は、自分のためにキリストが断罪をきれいに飲んでくださったがために、天国に行くことができる。だが、不敬虔で未回心の者は、ゴモラの葡萄酒の澱を飲まなくてはならない。そのとき、どうしようというのか? 下界であなたが罪ゆえの呵責という滴をすするとき、その最初の味わいは十分に不味い。だが、地獄におけるその未来の杯、――かの穴の中に失われた者に向かって神が分配する恐ろしい混合物、――それを飲まなくてはならないとき、――あなたの思い巡らすことが、自分はイエスを拒否したのだ、その福音を蔑んだのだ、そのみことばを嘲ったのだ、というものとなるとき、あなたはその恐るべき窮境にあってどうしようというのか? あなたがた、実業家たち。あなたの台帳は地獄であなたが快く思い巡らせるものとなるだろうか? 法律家たち。地獄に行くとき、自分の行ないを思い巡らすことが甘やかなこととなるだろうか? 労働者よ。あなたの賃金が酩酊に費やされたことや、あなたの安息日が聖なるものとされずに汚され、あなたの義務がないがしろにされたことを思い巡らすことが甘やかなこととなるだろうか? そして、あなたがた、信仰告白者たち。じっくり腰を据えて、自分の偽善について思い巡らすことが甘やかなこととなるだろうか? そして、あゝ! あなたがた、肉的な思いをした人たち。肉にふけり、欲望をほしいままにし、主に仕えることをせず、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」[ピリ3:19]、と云われている人たち。あなたの経歴は、最後にあなたが快く思い巡らせるものを供するだろうか? このことを確信しておくがいい。もし今あなたがキリストを思い巡らさないとしたら、あなたのもろもろの罪こそ、やがてあなたが思い巡らさなくてはならないこととなるであろう。願わくは、あなたがたの間で心が大いに探られるように! いかにしばしばあなたの罪の確信は、煙突から出た煙のように、あるいは、あおぎ分ける者から出たもみがらのように、たちまち消え去ってしまうことか。今のような――説教を聞いて忘れ、聞いては忘れする――生き方をしていても、あなたの利益にはならない。警告の声に注意を払うがいい。神がこう仰せになることになってはいけない。「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない」[箴29:1]。

 おゝ、よこしまな者たち! よこしまな者たち! 私は、この最後の言葉を、あなたがたの中の、神を知らないすべての人々に云いたい。その後でなら、帰ってもよろしい。私は、あなたが思い巡らすべき主題を1つ与えよう。それは1つの例え話となろう。とある暴君が自分の臣下のひとりを呼び寄せて、彼に云った。「お前の職業は何だ?」 彼は答えた。「手前は鍛冶屋でごぜえます」。「なら家へ帰れ」、と彼は云った。「そしてわしのために、これこれの長さの鎖を作ってこい」。彼は家に帰った。その務めには何箇月もかかった。そして彼は、その鎖を作っている間、何の報酬も受けとることなく、ただそれを作る手間と労苦だけしかなかった。それから彼がそれを君主のところに持って行くと、彼はこう云った。「家へ帰って、これを二倍の長さにしてこい」。彼は鍛冶屋にそれに関して何も与えず、ただ彼を帰しただけだった。もう一度、彼は働きに携わり、それを倍の長さにした。彼が再びそれを持って行くと、君主は云った。「行って、これをもっと長くしてこい」。彼がそれを持っていくたびに、もっと長目にしろという命令が下されるばかりであった。そして、彼がそれを最後に持っていったとき、その君主は云った。「それを取り上げよ。それから、それでこやつの手足を縛って、火の炉に投げ込め」。それが、その鎖を作ったことに対する彼の報酬であった。ここには、今晩あなたが思い巡らすべきことがある。あなたがた、悪魔のしもべたち! あなたの主人サタンは、あなたに一本の鎖を作るように命じている。あなたがたの中のある人々は五十年間も、その環を溶接しては溶接し続けている。そしてサタンは云う。「行って、それをもっと長くしてこい」。来週の日曜の朝、あなたは自分の店を開いてはもう1つの環をつなげるであろう。来週の土曜の夜、あなたは酔っ払っては別の環をつなげるであろう。次の月曜、あなたは不正直な行為を行なうであろう。そして、このようにしてあなたは、この鎖に新しい環を作り続けるであろう。そして、あなたがもう二十年も長生きした後でも、悪魔は云うであろう。「もっとたくさんの環をつなげ!」 そして、とうとう、こう命令されるであろう。「こいつをつかまえて、手足を縛り上げろ。それから火の炉の中に投げ込め」。「罪から来る報酬は死だからです」[ロマ6:23 <英欽定訳>]。ここに、あなたが思い巡らすべき主題がある。私はそれが快いものになるとは思わない。だが、もし神がそれを有益なものとしてくださるとしたら、あなたに善を施すであろう。あなたは時には強烈な薬を服用しなくてはならない。病が重いときにはそうである。神がご自分のみことばをあなたの魂に適用してくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

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(訳注)

*1 Lacrymae Christi。ラテン語で、キリストの涙の意。ラクリマ・クリスティ・デル・ヴェズーヴィオ・ビアンコ(Lacryma Christi del Vesuvio Bianco)は、白葡萄酒の銘柄。[本文に戻る]

 

敬神の楽しみ[了]

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