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天来の懲らしめの性質と意図

NO. 2746

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1901年9月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1859年秋、木曜夜の説教


「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」。――Iコリ11:32


 コリント教会は、主の晩餐に関して、非常にだらしない状況にあった。彼らは、この厳粛な祝いを暴飲暴食の場としていた。各人が自分の食糧を持ち寄っては、富者がご馳走に舌鼓を打っている一方で、貧者はしばしばほとんど何も食べるものがないという有様であった。使徒パウロは彼らに告げている。そうした折に彼らは物質的なものを楽しむために一緒に集まっているのではないのだ、と。「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません」[Iコリ11:21-22]。

 さて、こうしただらしなさのために、神はコリント教会に多くの手痛い患難をもたらされた。非常に多くの教会員が病に打たれ、何人かは死によって取り去られさえした。コリント教会は、こうした災い――自分たちの教会員に対するこの神の訪れ――の理由をほとんど理解していなかった。だが使徒は、それを彼らに説明している。彼は云う。「そのために」――30節に注目されたい。――「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」。神の《教会》の中では、常に審きが行なわれている。もし私たちが自分をさばき、神の前で正しく、ふさわしく歩むなら、審かれることはない。――災いが私たちに臨むことはない。しかし、私たちが審かれるときには、それについて何と云うべきだろうか? それは神がご自分の《教会》を憎んでおり、ご自分の民を投げ捨ててしまわれた証拠だろうか? また特に、もし誰かが自分の不義の結果死んだとしたら、それは彼らが永遠に滅びてしまった証拠だろうか? 「おゝ、否」、とパウロは云う。「彼らは今この世で審かれている。――いま主から懲らしめを受けている。それは、彼らがこの世とともに罪に定められることのないためなのである」。

 《摂理》は何と偉大な神秘であろう。未来の状態を信ずる私たちにとってさえ、それは神秘にほかならない! 私たちは、不信心者に公然と挑戦するものである。こう宣言するものである。――そして、どう考えても理は私たちの側にあるが、――たとい人がこの世における神の経綸に何らかの正義があると、あるいは、そもそも神に何らかの正義があると理解したくとも、来たるべき時に、この人生の数々の神秘が正されることにならない限り、それは完全に不可能である、と。私たちは、魂の不滅を信じないというあらゆる人に挑戦する。最も敬虔な人々が最も苦しみを受け、この世で最も大きな楽しみを得ている人々が、しばしば、最もそれに値しない者たち、また、この上もなくよこしまな者たちであるという事実を、できるものなら説明してみよ、と。もし報いと罰という未来の状態がないとしたら、また、もし義人がそのすべての苦しみと嘆きの完全な報いを刈り取ることにならないとしたら、また、もし悪人が自分のあらゆる罪の罰を受けることにならないとしたら、いかにして神は正しくありえようか? また、いかにして全世界をさばくお方が公義を行なっている[創18:25]ことがありえようか?

 また、もう1つの間違いにも私たちは非常にたやすく陥ってしまう。私たちは、人々の性格をこの世におけるその立場によって安易に判断することが非常に多く、事実とは全くかけ離れたしかたで判断してしまう。一部の人々は、もしある人がこの上もなく富み栄えていると、当然その人は良い人であるに違いない、と考えたがる。「確かに神があれほど報いを与えておられるからには」、と彼らは云う。「何か彼にはそれに値するものがあったのであろう」。これこそ、私たちの子どもたちに繰り返し教え込まれていることである。いかにしばしば、つましい父親がわが子の頭を軽く叩いては、巨富を博しつつある参事会員を指さして、お前も良い子にならなくてはいかんぞ、そうすれば、あのくらい立派な人になれるからな、と云うことであろう。あるいは、非常に金持ちの人の家にわが子を連れて行ったとき、いかにしばしば、父親は子どもにこう告げることであろう。もしお前が良い子になるなら――これは、もしその子が従順になり、神の律法を守るなら、ということを短く簡潔に表現したものだと思うが――、お前もお金持ちになれるからな、と。そしてそのように、事実、子どもに次のことを理解させるのは不可能であると思われているのである。すなわち、人は金持ちであっても、悪人でありえること、――また、人はこの世で幸福にしており、多くの目に見える祝福を有していても、それにもかかわらず、結局は神と無縁の人、まさに善人の裏返しであることがありえる、と。私たちは、もっと成熟した年齢になれば、そうした間違いから脱するものと思いたい。

 左様。愛する方々。私たちは決して人々の内側の状態を、彼らの外的な状況によって判断してはならない。金持ちが恵み深く、貧乏人が悪人であることはありえる。また、この真理を逆にして、多くの貧乏人が恵みを内に有しており、多くの金持ちが、単に神が最後に屠殺する日のためにだけ肥え太りつつあるのだと宣言することもできる。これはよく知られた事実であり、疑いもなく、私がいま言及した2つの間違い――神を不正であると考える間違いと、人々をその外的な状態で判断する間違い――の双方に至らせてきたことに違いないが、これは疑いもなく事実であると私は云う。すなわち、真に神の子どもである多くの人たちは、この世でこの上もない悩みを受けている一方で、非常にしばしば悪人たちはそれを免れているのである。なぜこうしたことがあるのだろうか? 本日の聖句がそれを説明している。その宣言するところ、「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないため」なのである。

 I. 《神の民は主によって懲らしめられる。――彼らは他のいかなる人々よりも懲らしめられる》。彼らは毎朝懲らしめられ、一日中悩みを受けている。なぜこうしたことがあるのだろうか? 神は、そのように行動されることにおいて正しくあられるに違いない。その理由は何だろうか? 少々その理由を示してみよう。第一に、義人が他の人々よりも重く懲らしめられるのは、彼らの罪が他の人々の罪よりも悪質だからである。第二に、彼らが他の人々よりも重く懲らしめられるのは、神がいかに罪を憎まれるかを示す実例としてである。さらにまた、彼らが並外れた懲らしめを受けるのは、神が並外れて彼らを尊んでおられるからである。それで神は、彼らに、自分の罪への嫌気を差させ、彼らをそのもろもろの不義から癒そうと決意しておられるのである。

 第一のこととして私は云うが、神はご自分の民を他の人々より重く懲らしめられる。そして、その理由は、この事実に見いだすことができよう。すなわち、彼らの罪は他の人々の罪よりも悪質なのである。それは、彼らの罪が、外的により悪質だということではない。――そのような誹謗に対して私は、神の民の人格を弁護するものである。これは、律法によって裁かれたとき、また、万人を試すことになる正義のはかりにかけられたとき、神の民が他の人々にまさる罪人だということではない。それとは別の点で彼らは、より悪質なのである。――律法の光に照らしてではなく、福音の光に照らして悪質なのである。

 彼らがより悪質だというのは、部分的には、義人が他の人々よりも多くの光を有しているからである。私たちが光に背いて罪を犯す度合に従って、私たちの不義は重くなる。ホッテントット部族の人がある罪を犯しても、神は、彼の無知ゆえにそれを見過ごしにされるであろうが、神は決してそれをご自分の子どもたちが犯すことを見過ごしにされないであろう。なぜなら、神の子らは、ずっとものを知っているからである。彼らには霊的な識別力がある。彼らは、苦みを甘み、甘みを苦みとする[イザ5:20]ほど愚かではない。彼らの良心には光が与えられている。それだけでなく、彼らには神のことばがあり、御霊の内住がある。それで彼らが罪を犯すとき、彼らは他の人々よりもずっと大きな光や知識に背いて罪を犯すのである。こういうわけで彼らの罪は、咎という点ではまさに第一級なのである。ならば、神が彼らを手痛く懲らしめるとしても何の不思議があるだろうか?

 この考えについてはそれほど強調せずに、私は次の点に目を向けたいと思う。すなわち、義人の罪が他の人々の罪より悪質なのは、彼らがずっと大きなあわれみを受けているという事実のためである。いかなる人であれ、神の愛顧を受けている人ほど、はなはだしい罪を神に対して犯すことはできない。私たちの胸中にいる最も親密な人こそ、最も私たちを嘆き悲しませることができる。なぜあのユダの罪はあれほど大きかったのだろうか? それは、ユダが使徒であり、キリストの友だったからである。イエスは彼に向かってこう仰せになることができたであろう。「まことに、わたしをそしる者が敵ではない。それならわたしは忍べたであろう。わたしに向かって高ぶる者がわたしを憎む者ではない。それならわたしは、彼から身を隠したであろう。そうではなくて、お前が。わたしの同輩、わたしの友、わたしの親友のお前が。わたしたちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに」*[詩55:12-14]。キリストは敵からの打撃も感じるが、その友からの一刺しは、「他のどれよりも無慈悲の一撃」*1であった。何と! キリストが私たちをこの世から選び出し、その尊い血潮で贖ってくださったというのに、また、神が私たちをご自分の家族に入れて、キリストの義を衣のようにして私たちをくるみ、ご自分の右にある永遠の住まいを約束してくださったというのに、私たちが罪を犯して良いとあなたは思うだろうか? ならば私たちの罪は、まことに厭わしい違反とみなされるべきではないだろうか? それほどの愛を私たちは蹴り飛ばし、それほど大きなあわれみに私たちはつまずいたのである。夫は妻からの無情な一言を、他の誰の言葉よりも痛烈に感じる。彼女を他の誰よりも愛しているからである。それゆえ、彼女は、それだけ深く彼を嘆き悲しませることができるのである。そしてキリストは、よこしまな世のいかなる罵詈譫謗をもほぼ全く意に介さないが、もしもご自分の《教会》が主のことを蔑んで語るとしたら、――もし《教会》が主に背くとしたら、――そのときには、心底から傷つかれる。私たちは、誰かと友情を結ぶと、たちまち彼へのねたみをいだくようになる。彼が私たちの陰口を云えば、私たちは云う。「もし君が敵だったとしたら、私も決して注意を払ったりしなかっただろう。君は好きなことを何でも語って良かっただろう。私は君を決して叱ったりしなかっただろう。だが、君は私の友であると公言したのだ。では、もし君が何か私をけなすようなことを云うとしたら、私はそれに耐えられない。これには私は手痛く傷つけられる。だから私は、そのことゆえに君を叱責しなくてはならないのだ」。

 ある善良な古の著述家がこう云っている。「主は、ある人をご自分の私室に連れ込み、ご自分の秘密を彼に打ち明けると、たちまち彼へのねたみをいだくようになられる。主は彼が他の人々のように重い罪を犯すことをお許しにならない。『おゝ!』、と主は云われる。『わたしはあなたをわたしの友としたではないか。あなたとともに歩んだではないか。あなたの頭をわたしの胸にもたせかけるのを許したではないか。だのに、あなたは出て行って、わたしの律法を破るというのか? あなたへの愛に満ちていたあまり、自らの幕屋の秘密の場所まであなたが入ることを許すほどであった者に反逆しようというのか? ならば確かに、あなたの罪ははなはだしく大きく、わたしはそのことのゆえにあなたを懲らしめよう』」。愛する方々。もしあなたが自分のもろもろの罪をこのような光に照らして見るとしたら、あなたはたちまち感得するであろう。神があなたを懲らしめても何の不思議もない、と。あゝ、兄弟たち! 私たちに対する神の大いなるあわれみについて考えるとき、――摂理と恵みの双方における、神のあふれるほどのいつくしみ深さについて考えるとき、――幼少の頃から私たちを育てはぐくんできた優しい愛情や、私たちをあらゆる害悪から保護してきた力強い守りについて思い巡らすとき、確かに私たちはこう思わざるをえない。私たちが神に対して犯した数々の違反は、他の人々のもろもろの罪よりも悪質である、と。他の人々は、私たちが日々受けているようなあわれみを一度も味わったことがないのである。これもまた、他の人々の罪とくらべた場合における、神の民の罪の大きさを示す別の証拠であり、神が彼らを懲らしめられる1つの理由である。

 それだけでなく、愛する方々。神の民のもろもろの罪が他の人々のそれより悪質なのは、彼らの模範が破滅的な影響を及ぼすことにも負っている。世俗的な人が酔っ払った姿を見せるとき、もちろん、そこには罪がある。だが、教会員が町通りを千鳥足で歩く姿を見せるとき、それはいかにいやまして悪質なことか! この世はそれを、自らのための大きな云い訳とする。《教会》の不完全さというかげに、悪人たちは、自分の良心を照らす焼きつくような熱さからの隠れ家を見いだすのである。もし彼らが自分たちの教役者が罪を犯しているのを見つけることができたとしたら、また、もし彼らが執事あるいは長老が不義にふけっているのを見いだせたとしたら、また、もし彼らが教会員の口から出た何らかのお墨付きを引用できたとしたら、いかに悪人は得々と満足することであろう! いわば彼らは、以前には、そのそむきの罪を歩んでいたにすぎないが、ある教会員が同じ通り道にいるのを見いだすと、不義の道をしゃにむに突っ走るのである。私は云うが、兄弟たち。私たちが背いて罪を犯すとしたら、そうした罪は、他の人々の罪が受ける患難の二倍にも値する。なぜなら、私たちの罪はより大きな害悪を引き起こすからである。そして、あなたも知っての通り、裁判官たちが違犯行為を評価する際にはしばしば、その咎だけでなく、その犯罪者の模範による影響をも考慮しなくてはならない。そのように、神がご自分の民をひときわ重く懲らしめられるのは、彼らが罪を犯せば、人類の道徳に大きな損害を加え、彼らの神である主の御名に大きな不名誉をもたらすからである。こうしたすべての理由のために、私はこう述べても正しいだろうと確信している。すなわち、神の民のもろもろの罪は、神のみなすところ、他の人々の罪よりも悪質である、と。そして、ことによると、それこそ、神が、悪人は罰を受けないまましばし放っておいても、彼らのことは常に懲らしめられる1つの理由かもしれない。しかしながら、このことは、大きな理由ではない。別の理由に目を向けよう。

 なぜ神は、これほど多くの他の者たちが罰も受けずに暮らすことを許しておきながら、ご自分の民を懲らしめられるのだろうか? 私がもう1つの理由だと思うのは、神が、罪に対するその憎しみをあからさまに、また驚くようなしかたで実際に示すためである。神が、ただの人を不義のゆえに懲らしめられるときにも、神の正義は見てとれる。だが、神がその鞭をご自分の子どもに加えられるとき、たちまちあなたは、いかに激しく神が不義を憎んでおられるかを悟るのである。ブルータスが反逆者たちを断罪したとき、ローマは彼の正義を見てとることができた。だが、彼のふたりの息子が引き出され、その犯罪を告発され、彼が、「縛吏たち。お前たちの義務を果たせ。そいつらの服を剥いで、打ち据えよ」、と云うとき、また、ふたりが鞭打たれた後でブルータスが、そいつらを連れて行き、普通の悪人ども同然の扱いをせよ、と命ずるとき、全ローマは、ブルータスの毅然たる正義に感嘆させられるのである。そのように、神がご自分の子どもたちを打つとき、また、ご自分にとって非常に愛しい者たちに鞭を加えるとき、そのときには、この世でさえも、神の正義に対する賛嘆の念を抑えることができなくなる。ダビデが――神ご自身の心にかなう人が――1つの罪のためにあれほど手痛く打たれたとき、神の正義は、凡百の人々が罰された場合にはるかにまさって大きく現わされた。エルサレム中には、ダビデより十倍もひどい悪人たちが数多くいたが、彼らは何の害も受けずにすんでいた。ダビデはそうではない。ダビデは神から大いに愛されていた。それゆえ、彼は懲らしめられなくてはならない。それは全世界に対してあからさまに示すのである。神が罪を憎んでいること、――たといそれがご自分の愛する子どもたちの胸に巣くっていようと憎まれることを。この世の何にもまして不義に対する神の憎しみを証明したのは、神がご自分の御子を死に至らせた時であった。そして、それに次いで、ご自分の愛する子どもたちを懲らしめられることこそ、不義に対する神の憎しみの、最も強力な証拠である。私は、これこそ、なぜ義人がこれほど重く懲らしめられるかという第二の理由であると思う。

 しかし、ここで最上の理由となるのは、神がその御民に対していだいておられる高い価値のためである。本日の聖句には、こう書かれている。「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」。神はご自分の民を大いに重んじており、彼らが滅びるままになさろうとはしない。むしろ神は重々承知しておられる。彼らを懲らしめないまま放っておけば、彼らは自滅してしまい、神の愛における自分たちの分け前を失ってしまうであろうことを。このことを神は決してお許しにならない。それは、神の誓いに反し、神の《契約》に反することとなるからである。それゆえ、神は彼らを懲らしめられる。それで、あなたが神によって懲らしめられた子どもであるときには常に、そこから慰めを引き出して良い。サミュエル・ラザフォードは、重い患難の中にあったケンミュア卿夫人に宛ててこう書いている。夫人は最初にふたりの子どもを喪い、それから夫君と母堂を相次いで亡くしていたが、「奥様は確かに、天から特別のご愛顧を受けているに違いありません。そうでもなければ、主がこのようにわざわざ奥様を天国のためにふさわしくしようとされたはずがないからです。主は、奥様をよほど愛しているのでない限り、あなたの愛をこれほど執拗に求めようとはなさらなかったでしょう。というのも、私はこう思うからです」、と彼は云う。「主があなたの愛しい方々を取り去る理由は、主があなたの愛の微塵までも所有しようと欲しており、それゆえ、あなたが心をかける何物も残さないようにしようとしておられるからなのだ、と」。

 悪人について云えば、彼らには好きなものを持たせておくがいい。――その心を自分たちの富にかけさせるがいい。それが彼らの唯一の宝なのである。――その愛を自分たちの情欲や肉的な楽しみに注がせるがいい。神は彼らの愛など欲していない。――悪人の愛など神を喜ばせない。――神は彼らの賛美を欲していない。その不義によって反逆しつつある者どもなど、神を愛したり賛美したりすることと、何の関係があるだろうか? しかし、義人について云えば、神は彼らを愛しておられる。――彼らの愛を欲し、それを有したいと願われる。それで神は、それを手に入れるまで彼らを懲らしめられるのである。神は彼らを乳離れした子どものようになさる。この世という乳房を彼らの唇から引き離し、彼らの口に苦味を注ぎ込み、ついには彼らにこの世を厭わしく思わせ、より良いものを切望させようとされる。――現在の自分たちの状態を離れて、自分の《すべてのすべて》なるお方とともにいたいと思わせようとされる。それだけでなく、悪人に関して、神は彼らにこう云っておられる。「罪を犯し続けるがいい。自分たちの不義の枡目を満たすがいい」。神に捨てられた者は、多年にわたって罪を犯した後でなければ、発見されることも、罰されることもないかもしれない。あなたも最近の証券横領事件で分かったように、いかに長い間、悪人や不敬虔な者は罪を犯し続けられることか。年々歳々、彼は金を着服しつつあり、それが発覚しないのである。発見される機会は一千もあるが、なぜか彼のよこしまさは掩蔽され、まるで《摂理》そのものが彼の不義を包み隠す手助けをしたかのように見受けられる。だが、もしあなたが神の子どもだとしたら、そうしたことを試してはならない。というのも、あなたは一発で発見されるだろうからである。よく聞くがいい。天の相続人は決して長いこと悪事を続けることができない。神はただちに彼を人々の蔑みの的とされる。――では、なぜか? それは主が私たちを愛しておられ、私たちが自分の不義の升目を満たすことを欲されないからである。神は私たちが罪を犯すとき即座にそれをやめさせたいと望んでおり、それゆえ、あなたは、自分の見聞きする中でも、この事実が立証されることに気づくであろう。すなわち、もしある神の子どもがほんの小さな不正行為をも犯すとしたら、それは確実に発覚するが、不敬虔な人は自分の不義をいくら積み上げても、長年の間、何の罰も受けずにすますことがありえる。

 否。私はそれよりさらに進んでこう云おう。多くの人は、不品行と汚れの生活を追い求めているが、決して――少なくとも私たちの目につく限りは――罰されることも、懲らしめられることもない。彼の人生は、浮かれ騒ぎの連続のように見える。彼は歓楽から歓楽へと進み、乱痴気騒ぎから放蕩へと進む。彼は、その体力旺盛さについても、その健康の強壮さについても、仲間たちの羨望の的である。彼は死ぬときになってさえ、何の苦痛も苦悶もなしに大往生を遂げる。――では、なぜこうしたことになるのだろうか? 単に、主はこう云われたからである。「なすにまかせよ。彼は偶像にくみしているのだ」*[ホセ4:17]。神は、わざわざ彼の通り道につまずきの石を投げ入れはしなかった。彼は、下り坂をひた走っていたし、神は彼のなすにまかせた。「そら」、と神は云われた。「自分の滅びを達成するがいい。下り坂を駆け降りるがいい。わたしはそれを止めはすまい」。そして、あの悪霊にとりつかれた豚たちのように、その人は断罪という湖に続く急坂を死に物狂いで駆け降り、地獄の燃える火の池で滅びるまで、決して自分の喪われた状態を悟らないのである。

 しかし、あなたは、神の子どもがそのようにし続けることを見いださないであろう。ダビデは一度、はなはだしい罪を犯したが、じきに、それゆえの懲らしめを受けた。別の人なら何年もの間姦淫の中で生きていながら、罰を受けずにすんだかもしれない。信仰者の場合は違う。彼はただちに懲らしめられるに違いない。神はご自分の民に不義が生い茂らないようにされる。最初の雑草が生え出るや否や、神は鍬をその根に打ち込まれる。だが悪人については、彼らのもろもろの罪は大きくなるまで育たされることがある。「放っておけ」、と神は云われる。「刈り入れの日に、わたしはわたしの刈る者らに云うであろう。『それらを集めて束にし、焼いてしまえ』、と」。それで、見ての通り、神がご自分の子らに対して有しておられる愛ゆえにこそ、また、彼らが滅びてほしくないという熱心な願いゆえにこそ、しばしば彼らは罪ゆえの懲らしめへと至らされるのである。さもないと、彼らは逃れられないからである。ならば、もし私たちがしばしば懲らしめを受け、手痛く悩まされているとしても、私たちが神の子どもたちである限りは、そこに愛に満ちた理由を見てとり、こう結論しようではないか。「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」、と。

 II. さて今、主がご自分の民を懲らしめることについて説明したので、僅かな時間を用いて、私はこのことを示したいと思う。すなわち、《神は、このように私たちを懲らしめることによって、私たちが、この世とともに罪に定められないようにしてくださる》。私が語りたいのは、ただこの事実についてだけである。すなわち、義人は現世で懲らしめられはしても、決して来世で罪に定められることはありえない。

 私たちはしばしば不道徳な教理を説教するとして非難されている。義人は決して罪に定められることがありえない、と云うからである。――キリストを信ずる者は、決して自分のもろもろの罪ゆえに罰を受けることがありえない、と云うからである。だが、いかなる非難を受けようとも、私たちは自分たちの言明を繰り返すのを恥じはしない。というのも、こう書かれているからである。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。神の民が現世で感じている数々の苦しみは罰ではなく、懲らしめである。もし私が信仰者たちに関して一度でも「」という言葉を用いたことがあるとしたら、それは、こうした限定的な意味において理解されなくてはならない。

 神は、選民が犯した、あるいは、犯すことのありえる一切の罪のために、ただ一度限りキリストを罰された。そして、同一の違犯について、ふたりの別々の者を二度罰するのは、神の正義にそぐわないことである。現世における義人の苦しみは、刑罰のためではなく、矯正のためのものである。その意図は、懲らしめとすることにある。信者の上に打ち下ろされるのは、裁判官の剣ではなく、父親の鞭である。父親は、時として何らかの違犯のために、裁判官が与えるよりも厳格で、峻烈な罰をわが子に課すかもしれない。裁判官は、ある過失については、譴責するだけで子どもを放免するかもしれない。だが父親は、その子が家に帰ってきたとき、その咎のために、激しく鞭打たれるようにするであろう。それと同じく、現世における神の懲らしめは、実にしばしば、刑罰であった場合よりも、ずっと厳しく思われるかもしれない。それでも、私たちは自分の慰めのため、常にこのことを覚えておいて良い。――神は私たちをこの世とともに罪に定めようとしてはおられないのである。神が私たちを鞭打っておられるとき、神は、悪人を粉々に打ち砕くための鞭を用いているのではない。いつの日か、地獄全体を震え上がらせることになる、あのすさまじい雷鳴で私たちを恐れさせているのではない。神が怒りの表情を浮かべておられるのは、ただ単に、私たちの心をきよめようとしておられるからである。また、愛の御手をもってその鞭を用いているのは、ご自分の民の心につながれている愚かさを除き去るためである。

 私は、来たるべき世では、キリスト者である人が決して自分の罪ゆえに、罪に定められることはないと云ったし、それは確実に真実である。というのも、第一の理由として、神は1つの違犯について二度罰することがありえないからである。また、やはり、第二のこととして真実なのは、神はご自分が義と認めた者たちを罪に定めることがおできにならない、ということである。そのようなことをするとしたら、かつて神が行なわれたことを逆転させ、神が変わりうる存在であると証明することになろう。神は決して、まず私たちに赦しの証しを与えておいて、後になってから、咎ゆえの断罪の証しを与えることはおできにならない。その愛の口づけによって私たちに口づけしておきながら、後になって私たちを地獄に投げ込むことはありえない。神はご自分の子どもたちをもてあそぶことはなさらない。まずその恵みによって彼らを義と認めておきながら、後になって彼らの罪ゆえに彼らを罪に定めることはない。私は云うが、それは矛盾である。

 第三のこととして、神がご自分の子どもたちを罪に定めることがありえないのは、彼らがご自分の子どもたちであり、神が彼らの御父だからである。神は人々を、ご自分が彼らの《父親》となるような関係に連れ込まれた以上、その行為そのものによって、ご自分の力によっても、彼らを完全に罪に定めて追い払うことが、決してできないようにされたのである。神は全能であられ、ご自分の力に関する限り何でも行なうことがおできになる。だが神は、ご自分の心の本性を裏切ることはおできにならない。さて、いかなる父親もわが子を忘れることはできない。それは不可能である。そして、神にとっても、いったんお赦しになり、子とするという、栄光に富む特権によってその赦しに証印が押された後では、「アバ。父よ」、との叫びに対して神が、「のろわれた者よ。離れて行け!」、という宣告で答えることは不可能なのである。

 そしてまた、神が義と認めた者たちを罪に定めることが不可能な理由は、もし神がそうなさるとしたら、神のあらゆる約束が、また、契約の基調全体が、踏みにじられてしまうからである。ご自分を信ずるすべての者らを、彼らのもろもろの罪から救うためにこそ、イエスは死なれた。ならば、もしこうした人々のうち、ひとりでも救われないことがあるとしたら、主の死は無駄死にになるしかない。もし主によって罪を負われた者たちが最後には地獄に投げ込まれるとしたら、贖いというキリストの企図は決して完全には成し遂げられなかったのである。普遍的贖罪を想定すると云うことは、神の意図が部分的には挫折したと想定することである。――キリストが行なおうとしたことの一部は、現実には果たされなくなるということである。しかし、私たちの堅固な休み場はここにある。――すなわち、この契約は堅く立ち、キリストにおいて、そのあらゆる約定はぐらつかず、キリストを通してそのあらゆる条項は達成される、ということである。さて、選民がみな完全に救われることは、その一部である。それゆえ、彼らは、現世では懲らしめられても、それは彼らが死後、「この世とともに罪に定められることのない」という事実と何の矛盾でもない。

 私は本日の講話を1つのたとえでしめくくろうと思う。最後の大いなる日がやって来つつある。あなたは、彼方につのりつつある嵐が見えないだろうか? あの黒雲が、1つまた1つと寄り集まりつつあるのが見てとれるだろうか? 誰のために、あの暴風雨はやって来るのだろうか? あなたは神の宝物庫の中を一瞥し、神の雹、そして火の炭[詩18:13]を見てとることができるだろうか? 御怒りの日のために貯蔵されている、神の稲妻を発見できるだろうか? それらは誰のために保存されているのだろうか? あなたは、すぐに耳にするであろう。

 別の方角――これとは正反対の方を眺めるがいい。あの降りしきる雨の氾濫は何を意味しているだろうか? あのすさまじい雷鳴の轟きは何を意味しているだろうか? 私は、その嵐の中心に、一本の十字架が見える。その恐ろしい嵐と暴風の表われの一切は、何を意味しているだろうか? 何と、あちら側では、まだ何の嵐の音もしていない。それは集まりつつあるが、炸裂してはいない。それはなおも集まっている。だがしかし、一滴たりとも雨粒は落ちていない。稲妻は束にしてくくられている。だが、まだ解き放たれてはいない。これはなぜだろうか? すべてが、蔵の中のような静寂さであり、強大な軍備である一方で、その彼方では、その戦が繰り広げられており、神のあらゆる電光が発射されているのはなぜだろうか? それは、こういう意味である。神はご自分の民をこの世から隔離された。あの向こう側では、神の御怒りは全開し、その黒雲はその大水を放出し、雷鳴は繰り出され、稲妻は閃きつつある。――どこでだろうか? かの力強い《救い主》、死に給うイエスの頭上においてである。

 御怒りはどこかに注ぎ出されなくてはならない。それで、その一切の憤りを込めて、キリストの周囲に表われているのである。そして、向こうに見える巡礼たち、あの恐ろしい嵐をとりまく数滴の水しぶきにつかまったばかりの者たちは、その嵐を、彼らの栄光に富む《代理者》によって耐え忍んでいただいた者たちなのである。向こうにいる、試練を受け、苦しめられつつある者たち、稲妻に怯え、嵐の波乱に恐怖している者たちは、キリストの代償にあずかっている人々なのである。私は云うが、神の民の種々の苦しみは、その大嵐の周辺に散らされた雨粒のようなものである。――それはキリストの上に叩きつけられた嵐のへりにある、ほんの数滴の雫である。こうした、この世にあって種々の患難を苦しんでいる人々――それを義人として耐え忍び、キリストのゆえに忍耐をもって苦しんでいる人々――は、死後いかなる嵐にも遭うことのない人々である。――というのも、見るがいい。今やその嵐は去ってしまっている。すべては晴れ上がっている。そして、その代わりに、太陽が彼らの頭上でその栄光をもって輝き出している。御使いたちが降って来つつあり、御使いたちの翼に乗って、彼らは1つの宮へと、また、彼らのために、彼らの御父の御前に備えられた家へと運び上げられて行く。

 しかし、その彼方にいる人々を見るがいい。彼らは陽気に踊っている。その頭上はことごとく真っ黒だというのに、雨粒は一滴もまだ降っていない。注目するがいい。いかに彼らがめとったり、とついだりしていることか。というのも、一筋も電光は発されていないからである。こうした人々は誰だろうか? 悲しいかな! あわれな、みじめな人たち。これは、《審き主》が御怒りの日のために、憤りを蓄えつつある人々である。彼らのために、主は火と硫黄、えにしだの燃える炭火と、すさまじい破滅を取っておかれる。彼らは、向こうの巡礼たちが嵐によって少々濡れているのを胡散くさげに眺める。彼らは、向こうのあわれな回心した者たちが雷鳴の轟きを聞いて震えているのをあざ笑う。彼らは云う。「われわれには何の嵐も聞こえないぞ。それはみな迷妄なのだ。嵐などないのだ」。左様。罪人たち。だが、来たるべき日には、あなたも自分の間違いを悟るであろう。あなたは、現世にあなたの分け前を有している。だが、信仰者たちの方が幸せである。彼らは死後、大いなるものを受け継ぐために救われているからである。あなたの死には、苦痛がない。――それは、あなたがさらに厳しい苦痛を地獄で受けることになるためであろう。あなたは現世ではほとんど何の患難も有していない。――それは、それらが死後、倍増しであなたに加えられるためであろう。あなたはこの世を陽気に過ごしている。喜びのともしびをかかえている。――それは、あなたが地上の喜びを取り上げられ、永遠に外の闇の中に閉め出されるとき、あなたの暗黒がより恐ろしいものとなり、あなたの暗闇がよりすさまじいものとなるためであろう。そこであなたは、泣いて、呻いて、歯がみをするのである。

 嵐がやんだ後の田舎を通り抜けて行くのは心地よいことである。――雨が通り過ぎた後で草木の清新な香りを嗅ぎ、雨の雫が陽光の中で金剛石に変わっていることに気づくこと、それがキリスト者の立場である。彼は嵐が吹きすぎた後の土地を通り過ぎつつある。あるいは、たとい何滴か雨粒が降りかかることがあっても、あの契約の記された頁は彼を元気づかせ、それが彼の破滅ではないことを彼に告げる。しかし、嵐の接近を目撃することは、いかに恐ろしいことであろう。――暴風雨が迫る様子を見てとり、天の鳥たちがその翼をばたつかせるのに気づき、野の家畜たちが恐れおののいて頭を垂れるのを目にし、黒ずんだ空の面と、輝くのをやめた太陽と、何の光も放たない天を認めること! ぞっとするほど恐ろしい――熱帯地方で時折起こるような――暴風が激発する寸前に立つことは何とすさまじいことであろう。そのとき私たちは、その風がいつ吹き荒れ始め、いつ木々を根こそぎに引き抜き、いつ岩々をその台座からもぎ取り、いつ人々の住まいのすべてを轟々と吹き殴ることになるか分からないのである! だがしかし、罪人よ。それこそまさに、あなたの立場である。まだ一滴も熱い雫は降っていない。だが、火の土砂降りがやって来ようとしている。恐ろしい風があなたに吹きつけてはいないが、神の嵐は確かにやって来る。今のところ、その大水はあわれみによって堰き止められている。だが、その水門はじきに開かれる。神の電光はまだその倉庫にある。だが、見よ! 審きがやって来る。そして、復讐の衣をまとった神が憤りをもってやって来られるその瞬間の、いかに恐るべきものとなるであろう! どこに、どこに、どこに、おゝ、罪人よ。あなたはあなたの頭を隠そというのか、あるいは、どこに逃れて行こうというのか? おゝ、《あわれみ》の御手が今あなたをキリストへと導くならば、どんなに良いことか! 主はふんだんにあなたに宣べ伝えられており、あなたは、自分に主が必要であると分かっている。主を信じるがいい。主に身をゆだねるがいい。そうすれば、この憤りは過ぎ去り、あなたは永遠に入ねことに怯える必要がなくなるであろう。というのも、いかなる嵐もそこであなたを待ち構えていることはなく、むしろ、静謐さと、平穏さと、安らぎと、平安が永遠に待っているからである。

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(訳注)

*1 シェイクスピア、『ジュリアス・シーザー』(福田恆存訳)、第三幕第二場[本文に戻る]

 

天来の懲らしめの性質と意図[了]

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