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恵みによる救い

NO. 2741

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1901年8月25日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1859年夏、木曜夜の説教


「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」。――エペ2:5


 キリストの福音が戦わなくてはならない基本的な誤りは、行ないによる救いに頼ろうとしがちな人間の心によってもたらされた影響にほかならない。イエスにある真理[エペ4:21]に立ちはだかる大きな敵対者は、自分も――少なくとも部分的には――自分の救い主になれるはずだと信じ込ませたがる、人間の高慢なのである。この誤りは子沢山な母親で、実に多くの異端を産み出してきた。この偽りによって、これまで何度となく真理の清浄な流れは汚染させられ、一本の澄明な川として流れる代わりに、悲しいほどに汚濁されてきた。いのちの水がわき流れるのを妨げよう、あるいは、脇へそらそうとしてきた者は多い。幾多の者たちが人々の空想や謬見を、イエスにある真理と混ぜ合わせようと試み、それによって真理を、あわれな堕落した人間性にとってずっと心地よいものにしようとしてきた。

 私の信ずるところ、キリストの《教会》を大きく改革するものは何であれ、本日の聖句で啓示された教理の宣言をその基盤としていなくてはならない。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」。《教会》は、この世と同じように、福音の要諦たるこの真理から飛び去りがちである。私に云わせれば、この教理に離反することこそ、折に触れ飛び出してきては《教会》を悩まし、分裂させ、キリストの花嫁の美しさを損なってきた数多くの過誤の本質である。

 いついかなる時であれ、この教理が曖昧にされるや否や、常に《教会》は異端的になるか、ラオデキヤ的に生温くなってきた。何らかの危険で憎むべき異端を信奉するか、真理の一部分しか信奉せず、それも、その手から古の力が失われるほど弱々しいとらえ方でしか信奉することがなかった。それで、教会の敵どもは教会をしのぐようになったのである。《教会》の歴史のあらゆる時代における最も強大な人々、また、教会のただ中に最大の善をもたらす手段となってきた人々、また、この広大な世界に最も有用な働きを持ち込んできた人々は、イスラエルのために勇壮な行為をするべく召されたサムソンのように立ち上がり、このことを彼らの伝道牧会職の際立った特徴としてきた。すなわち、行ないによる救いとは際立って異なるものとしての、恵みによる救いの教理である。

 アウグスティヌスの時代、そこには福音の単純素朴さから嘆かわしいほどに逸脱する人々がいた。そして、彼が立ち上がり、世に対してこの栄光に富む真理を宣べ伝えたとき、そこには善へと向かう影響力があったし、私の信ずるところ、それは、少なくとも一時的には、かの大いなるローマカトリックの異端をかろうじて食い止めるものであった。もしも《教会》とこの世が彼の声に耳を傾け、彼の教えを受け入れていたとしたら、《教皇制》の成立など不可能であったろう。

 後代になり、ローマカトリック教がこのほか強大なものとなったとき、主はマルチン・ルターを起こされ、彼はこのことをキリスト教の偉大な中心的真理として教えた。すなわち、罪人は行ないによってではなく、信仰によって義と認められる、という真理である。ルターの後に、もうひとり、恵みの教理の卓越した教師がやって来た。――ジャン・カルヴァンである。彼は、マルチン・ルターをさえ越えて、はるかに福音の真理においてよく教えられていた人物であった。――そして彼は、この雄大な教理をその論理的な帰結へと押し進めた。すでにルターは、いわば真理の流れを遮断していた堰を切り払い、巨大な貯水池となっていた生ける水を抑えていた障壁を破壊していた。だが、その流れは濁っており、後に残してこなくてはならないものを大量に流れ落としていた。そこへカルヴァンがやって来ては、その水に塩を投じ、それをきよめた。そして、それが澄明な甘い流れとなって流れるようにし、神の《教会》を楽しませ、清新にし、あわれな、からからにひからびた罪人たちが生き返れるようにしたのである。

 カルヴァンは、彼の偉大な主要教理として、本日の聖句にある大真理を宣べ伝えた。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」。当今では、この教理を主として力説する教役者たちのことを「カルヴァン主義者」と呼ぶのがならいである。しかし私たちは、その呼び名を無条件で受け入れはしない。私たちはそれを恥じてはいないし、自分の実名を除けば、他のどの名にもまさって「カルヴァン主義者」と呼ばれたいと思う。私たちが口を酸っぱくして述べてきたし、主張してきたように、カルヴァンが宣べ伝えた真理、アウグスティヌスが力の限りに獅子吼した真理は、使徒パウロがはるか以前にその霊感された書簡に書き記した当の真理であり、私たちのほむべき主ご自身の講話の中で何にもまして明確に啓示されている当の真理である。私たちが願うのは真理を宣べ伝えること、真理の全体を宣べ伝えること、他の何物でもない真理だけを宣べ伝えることである。私たちは決してただの人に従う者ではない。私たちは、カルヴァンの『綱要』や注解書によってではなく、神のことばそのものによって鼓舞されているのである。それでも私たちは、俗に「カルヴァン主義」と呼ばれる諸教理こそ、私たちの聖い信仰の本質的な根幹にほかならないと考えるものである。これらは、ホイットフィールドが宣べ伝えた真理であり、その時代に偉大な信仰復興を引き起こしたものであった。また、こうした教理に神の《教会》が再び立ち返るのでなければ、ローマ教会を根こそぎに破壊し尽くすことも、魂を大挙して回心させることも、キリストの御国が到来することもありえないに違いない。

 本日の聖句は、この恵みによる救いの教理と関わっている。そして、これを仔細に吟味するに当たり、あなたに注意してほしいのは、第一に、使徒がある特定の人々に語りかけており、それは救われた人々であるということである。次に注意してほしいのは、聖書の中で用いられた「恵み」という用語の意味である。そして、しめくくりに語ろうと思うのは、慰めに満ちた、いくつかの実際的な推論である。

 I. 第一のこととして、《使徒は特定の人々に語りかけており、その人々に対して彼は、「あなたがたは救われた」と云っている》。彼は、「あなたがたは救われるはずである」とも、「あなたがたは救われると希望している」とも云っていない。彼らをすでに「救われた」人々として語りかけている。さて、地の面のあらゆる人の中で、まぎれもなく「救われた」と称されることのできる唯一の人々は、恵みによって救われたとも云える人々以外に誰ひとりいない。

 本日の聖句のこの部分では、2つのことが見てとれる。すなわち、まず、使徒は現在の救いに言及しているということである。彼が語りかけているのは、死んだときに救われることになるはずの人々でも、何らかの未来の状態に救われることを希望していた人々でもない。むしろ彼が語りかけているのは、現実に救われていた人々――救いを見込みとしてではなく現在享受しているものとして有していた人々――断罪の状態から救いの状態へと移っていた人々、また、自分たちの救いを、自分たちの家屋や、自分たちの土地や、自分たちのいのちと同じくらい確かで、確実で、現実に自分たちのものとみなしていた人々であった。

 現在の救いを首尾一貫して宣べ伝えることができるのは、救いは恵みによる、という教理をいだく人々のほかどこにもいない。この国中を探してみても、自分自身の信条と矛盾することなしに、私は救われています、と云えるローマカトリック教徒が誰かいるだろうか? 否。ひとりもいない。その信条が虚偽のものである以上、それは、いかなる人をも、「私は救われています」、と云えるような立場に置くと明言してはいないのである。しかり。ローマカトリック教会は、単に救いを死の日まで延期するだけでなく、はっきりと死すらも越えたところに置くのである。あのダニエル・オコンネル*1は、教皇が欧州における自分の最大の家来だと語った人物であった。だが、ほんの数年前に私たちは、彼が煉獄にいると知らされたのである。あのように忠実な教皇の弟子がそこに送り込まれるというのはつらいことだが、彼は別段、数多の司教たちや、大主教たちや、枢機卿たちよりも割を食ったわけではない。というのも、ローマカトリックの教えによると、彼らはそろって煉獄に行くからである。もちろん、教皇も一定期間の後では彼らを出て行かせる。だが、彼が公に差し出しているものは、せいぜいそこまで――未来の不確定な期間の後における救い――である。だが、彼は決していかなる者に対しても、「今あなたは救われています」、と云おうとはしない。それは、教皇やローマ教会の司祭たちにとってすら、あまりにも露骨な嘘っぱちとなるであろう。現在の救いなどというものは、ローマ教会のどこを探してもない。

 このことを可能とする神学体系は、恵みによる救いを説く神学体系のほかに何もない。善良な非国教徒たち、また、善良な国教徒たちを繰り出してみるがいい。外的なしきたりには常にきちんと参列している善男善女たちである。彼らは、自分の教会のいかなる儀式であれ、この上もない精勤ぶりをもって遵守している。彼らは「洗礼」を受け、堅信礼を施されている。「聖餐を受けて」いる。あるいは――彼らの相異なる教会の用語法に従えば――聖餐の卓子に着いている。また、彼らは、その礼拝式を外的に遵守することに不断に精を出すことにより、自分は救われるに違いないと信じている。しかし、こうした人々の誰かひとりに話しかけ、あなたは「私は自分の罪が赦されていると知っています」、と云えますかと聞いてみるがいい。そうした人々は、あなたの問いかけに驚愕し、こう答えるであろう。「私はそんなことを云うほど大それたことはしません」。

 彼らの中の最上の人々に訴えてみるがいい。誰よりも献身的で、誰よりも熱心で、誰よりも疲れを知らず、自らの行ないによって救いを求めている人々である。彼らに、永遠の命を獲得したか聞いてみるがいい。ひとりもそうした人は見いだせない。彼らがみな希望しているのは、神のあわれみによって、彼らがどうにかして、また、いつの日か救われることである。だが、彼らのうちひとりとして、自分はいま救われているのだと宣言しようとする者はいない。私たちの教会の交わりに加わる人々から私は、しばしば次のような言葉を聞かされる。「私は自分の教会に毎日集っていました。祈りをきちんと唱えていました。ですが、完全にキリストに信頼したその時まで、一度も魂に安らぎを見いだしたことがありませんでした」。ある非国教会の礼拝所に集っていた他の人々は、私に次のように云い表わした。「私は神の家に通っていました。教役者が、病においては忍耐せよ、あなたの神とあなたの隣人を愛せよ、と勧告するのを聞いていました。それで私は、精一杯その勧告に従おうと努めました。ですが、決して自分が救われた者だと云うことも、あの花嫁のように確信に満ちた言葉遣いで、『私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの』[雅2:16]、と云うこともできませんでした。それが変わったのは、私が、救いはすべて恵みによるものだと知り、主イエス・キリストの完成されたみわざに信頼したときでした」。

 しかり。私の愛する方々。行ないによる救いという理論の下では、それがいかなる形を取っていようと――それが《教皇制》の装いで表われようと、プロテスタントの顔覆いで正体を隠していようと――、実質的には同じことである。人間自身の行ないは、現在の救いという祝福を人に差し出すことなどできない。アルミニウス主義の理論を取り上げてみるがいい。これは、行ないによる救いのあらゆる形式の中でも、最も不快さの少ないものではあるが、それを真っ二つに切り裂いてみるがいい。すると、そこにさえ強烈な《教皇制》の痕跡があることに気づくであろう。

 「ですが」、とある人は尋ねるであろう。「アルミニウス主義者たちは、自分がすでに救われていると云って喜んではいないでしょうか?」 しかり。だが、彼らの主張は、その後すぐに、こう請け合うことによって否認されてしまう。すなわち、彼らは最終的には滅びることがありえるというのである。彼らは今は救われている。だがその安全は、難破した水夫の安全のようなものである。嵐の海の中で右へ左へ押し流された後で、ある岩に打ち上げられた水夫である。そこから彼は、またもや荒れ狂う波濤の中にたちまち投げ込まれるかもしれない。彼らの安全は、決して灯台の中に運び込まれた人や、救命艇で陸地まで連れて行かれた人のようなものではない。彼らの信ずるところ、どれほどのことを経験したとしても、彼らが失われることはありえるからである。アルミニウス主義者が有しているのは救いではない。彼は単に、救われうる状態にあるにすぎない。彼の状態は、悔い改め続け、信じ続けるとしたら、救われるはずだ、という人のそれである。彼は今は救われていない。彼が築き上げられている土台は、決して真の信仰者が頼りにしているような確かで、確実で、堅固な土台ではない。彼はトップレディとともにこのように歌うことができない。――

   「おきてと神に 脅ゆる恐れは
    われにはつゆも 関わらじ。
    わが主が全く 従い死にしは
    わが背きをみな 隠さんがため。

    わが名は御手の 掌中にあり
    永遠すらも よく消すをえじ。
    御心(みむね)に刻印(きざ)まれ、つゆ変わるまじ
    拭えぬ恵みの しるしぞあらば。

    しかり。われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」。

このような救い――現在の救い、その満ち満ちた豊かさと、そのあらゆる富と、そのあらゆる無限の長さ、広さ、深さ、高さにおいて、いま享受されている救い――が唯一可能となる神学体系は、恵みによる、また、恵みだけによる救いという体系にほかならない。いま生きているあらゆる人々の中で、私たち、恵みによる救いの教理を宣べ伝える私たちは、そのあらゆる満ち満ちた豊かさにおける現在の救いを宣言することができるのである。

 本日の聖句からやはり見てとれるのは、使徒は完璧な救いについて語っているということである。私たちの教えるところ、人はキリストを信じた瞬間に、救われうる状態に入れられるだけでも、半ば救われたわけでも、そこにとどまっていさえすれば救われるが、そこから転落するという一抹の恐れもある立場に置かれるわけでもなく、すでに完全に救われているのである。私が真実に信ずるところ、天国にいる聖徒たちは、救いの冠を受けとってはいるものの、その本質的な現実については、決してこの地上で誘惑の大水の中をもがきながらくぐり抜けつつある、いかに卑しく弱い信仰者にもまさって真に救われているわけではない。

 というのも、救われるとはいかなることだろうか? それは罪が赦されること、また、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ることである。罪人がイエスを信じる瞬間に、彼のもろもろの罪は、これ以上決してないほどに赦される。それらは余すところなく、決定的に、神の記憶の書[マラ3:16]から拭い去られる。それは、彼が一千年の間、敬神の念に富む生活を送る場合にそうされるであろう場合とも全く変わりない。その人は、そのもろもろの罪の赦しに関する限り、最後の大いなる審判の日に、《審き主》の右に立つ時にそうなるのと同じくらい完全に潔白である。

 しかしながら、救われることには、もろもろの罪の赦し以上のことが含まれる。キリストの義の転嫁が含まれる。そして、この意味においても、キリストにあるいかに卑しい信仰者であれ、天上のパラダイスにいる神々しい霊たちと全く同じくらい救われているのである。キリストの義の衣は使徒たちを覆っているだろうか? それは、今この時も、イエスに信頼している最もあわれな者にもまとわされているのである。栄光の中にあって神の御座の前で神への賛美を歌っている者たちは、聖徒たちの正しい行ないである光り輝く麻布[黙19:8]を着ているだろうか? 地上にいるいかなる信仰者もそれと全く同じである。聖徒たちひとりひとりは、ジョン・ケントが云うように、――

   「わが主のしみなき 衣まといて
    聖なる方に ひとしく聖し」。

キリストの義に覆われるとき、神の民に神は何のしみもご覧にならない。

 「しかし」、とある人は尋ねるであろう。「天国にいる聖徒たちは、地上の信仰者たちよりも安泰ではないでしょうか?」 だが、地上の聖徒たちは誘惑から安泰ではないが、破滅からは安泰である。患難から安泰ではないが、断罪からは安泰である。思い煩いや、災難や、苦しみを免れてはいないが、神の御怒りと、地獄に落とされることからは永遠に解放されている。天国にいる御使いでさえ、神の永遠の愛の確かさということでは、地上のいかに虚弱な信仰者にもまさってはいない。もしあなたの魂がキリストの御手にゆだねられているとしたら、あなたが滅びることは決してありえない。私は、主ご自身が口にされた保証以上に極端なことを語ってはいない。主はこう云われたからである。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることが……ありません」[ヨハ10:27-28]。スカルの井戸の所にいた女に向かって、私たちの《救い主》は云われた。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」[ヨハ4:14]。私たちは主にあって完全である。――救いの本質的要素においてはことごとく完成されている。

 さて、よく聞くがいい。いかなる教理体系をもってこようと、この世における完璧な救いが予期されるのは、人が恵みによって救われると教えるご計画の下においてでしかない。行ない好きな者たちによって提案される救いの計画の下にあっては、そのいかなる側面にも完全さはない。古のモーセ経綸の下にあって、神は全くご自分を御民の《審き主》として啓示しておられたが、その時代には、「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえ」はいずれも、「神に近づいて来る人々を、完全にすることができ」なかった[ヘブ10:1]。「これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです」[ヘブ10:3]。儀式律法を完全に遵守しようとして彼らがいかに身を入れようとも、彼らの救いは完璧ではなかった。しかしキリストは、「聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」[ヘブ10:14]。それゆえ、「神の右の座に着」かれたのである[ヘブ10:12]。

 さて、もしわざの契約のこの最も高貴な形式の下にあっても、完全な救いが安泰にされなかったとしたら、いかにして、その腐敗した体系のいずれかにあって、完全な救いが到達される見込みなどあるだろうか? 今時の人々は、古いわざの契約は破棄したと公言していながら、それでも、そうした腐敗した体系の下で救いを見いだそうとしているのである。恵みの諸教理を信じている人以外のいかなる者も、完全に救われていることについて語ることはない。あそこにいるアルミニウス主義者に尋ねてみるがいい。――その鑑ともいうべき最もすぐれた最上の人、信仰内容においてははなはだしく間違っているとしても、最高の人とも云える人である。――彼は何と云うだろうか? 彼はあなたに云うであろう。もし自分が善行と、信仰と、悔い改めとに間断なく励み続けるとしたら、自分は救われるでしょう、と。彼に尋ねてみるがいい。果たして彼が完全に救われているか、それとも何かこれからなすべきことがあるかどうかを。すると彼はあなたに云うであろう。自分が完全な救いに達するまでには、まだまだ多くの歩を踏まなくてはなりません、と。彼は完成された義について語るかもしれないが、自分がいかにしてそこに達するかを知らない。

 私たちの信奉するところ、信仰者たちは今でさえキリストにあって完全であり、いつ死ぬことになろうと、彼らはすでに主にあって完璧にさせられた者として御前に出ることになるであろう。おゝ、現在の救いを享受しているとは、いかに甘やかなことであろう。それは、それと同時に完璧な救いなのである! いかに私たちは感謝すべきであろう。救いが恵みの契約において私たちに提示されており、それを私たちに啓示しているほむべき聖書箇所が、神が御民に現わされた素晴らしい恵みについて私たちに告げているとは! 「あなたがたは救われた」。おゝ、この言葉のいかに甘やかなことか! 愛する方々。しばし静かに立ち止まり、この言葉を喜ぶがいい。「あなたがたは救われた」。――今、この現在の瞬間に救われている。――もしあなたが主イエス・キリストを信じているとしたら、そうである。

 II. さて、私たちが注意したいと思うのは、《聖書で用いられている「恵み」という用語のいくつかの意味》である。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」。

 最初にそれが意味しているのは、もし私たちが救われるとしたら、それは無代価の恩恵の結果でなくてはならない、ということである。私たちのうちにあるいかなるものも、決して神からの尊重に値しうるものなど全くなく、永遠の救いの諸祝福を私たちに授けるに至らせるほど神に喜びを与えることはない。もし私たちが、なぜある個人が《堕落》の荒廃から救済され、イエスを信じることができるようにされるのかと問うならば、唯一の答えはこうである。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]。確かに私たちは、自分の種々の才質のために救われたのではない。いかに才質のある人々も、しばしば未回心のままとどまっているからである。私たちは、自分の富のために救われたのではない。私たちの中のほとんどの者らには何の富もないからである。私たちが救われたのは、自分のすぐれた性向のためでも、人格の聖さのためでもない。というのも私たちは、回心後でさえ、自分の最上の奉仕をも恥辱と狼狽の顔つきをもってしか思い起こすことができないからである。私は、神の民を全体として、あるいは個々人として眺めた場合、彼らのうちに神をして彼らを愛さしめるものがあると想像するどころか、こう云わざるをえない。そこには、神を動かして彼らを愛させるものよりは、彼らを滅ぼさせるものの方がはるかに多い、と。この場にいるあらゆる信仰者は、こう告白するではないだろうか? 自分が救われたのは、自分の内側にある何らかの美点のためではなく、この上もなく満ち満ちた、無代価の、何の強制にもよらない恵みのためである、と。

 さらに、私たちが恵みによって救われるのは、種々の天来の働きに基づくものとしてである。魂が最初にいだく聖なる願いから、最後に臨終の時に叫ぶ勝利の叫びに至るまで、救いは《全能者》の働きによるものである。あなたの内側にある、神の恵みによらないものは何であれ、あなたにとって損害となるものであり、祝福にはならないであろう。もしあなたがたの中の誰かに、あなた自身の作り出したものである信仰か、悔い改めか、心の、または生き方の状態があるとしたら、それを取り除くがいい。そこには何の良いものもないからである。その信仰なるもの――だが神の賜物ではないもの――は、実は増上慢である。その悔い改めなるもの――神によって魂に作り出された、みこころに添った悲しみ[IIコリ7:10]ではないもの――は、悔い改めるべき必要がある。確かに私が確信するところ、いかなる聖徒のうちにあるいかなる美質も、聖霊によってそこに入れられたもの以外にありえない。というのも、それがひとりでに生ずることはないからである。人間の心は自然と雑草を生えさせるものだが、キリスト者の種々の美徳のような、類まれな外来植物、天国の花々をひとりでに生えさせはしない。これらは天来の力によって植えつけられ、栄養を与えられ、キリストを死者からよみがえらせたのと同じ大能の力の行使によって完全に育てられなくてはならない。

 私はさらに進んで、こう云おう。たとい天来の恵みが天国への道において、最後の一吋の直前まで私たちを運んでくれたとしても、その最後の一吋のゆえに私たちは失われざるをえない。たとい、私たちの魂の救いという大殿堂における、たった一個の石でさえ、神の恵みによる助けを全く受けずに、私たちが嵌め込むべきものとして残されているとしたら、この建物は決して完成しないであろう。最初から最後まで、すべては恵みによらなくてはならない。私はこの点にかけては、最も高踏的な教義主義者とも合意する。すなわち、いかなる人の心の中にも、もし神の主権的な恵みによって作り出されなかったとしたら、いかなる良いものもないし、ありえないのである。

 「よろしい。ですが」、とある人は云うであろう。「悔い改めて信ずることは人々の義務ではないでしょうか?」 確かにそうである。だが、私は人々の義務について語っているのではない。彼らの力の欠けは、彼らが神の命令に従順であることから免除しはしない。もしある人が誰かに一千ポンドの負債があるとしたら、自分の借金を返すことはその人の義務である。その人に返済能力があるかどうかは関係ない。そして、悔い改めて信ずることが人の義務である限り、神の恵みの威光を現わしているのは、神がその恵みによって人には決してなしえたはずのないことを成し遂げてくださったことにある。私は真実にこう云うことができる。私が天来のいのちにおいてどこまで達していようと、神から来ていない良きものは私のうちには何もなかった、と。他の人々は、自分自身の証しをするがいい。もし彼らが、自分自身が生み出した良いものを有しているというのであれば、それを誇りとするがいい。だが私には誇りとすべきものは何もなく、主に向かってこう云うしかない。「私のうちにあるわざのうち、良いものという良いものは、すべてあなたが作られたのです。ですが、私については、自分の顔を覆い、こう叫びたい思いです。『汚れている。汚れている。汚れている』、と。主よ。あなたのしもべをあわれんでください!」

 III. さて、しめくくりに私は、いくつかの《慰めに満ちた、また、実際的な推論》を引き出したいと思う。

 最初に、恵みによって救われた人は、いかにへりくだっているべきであろう! アルミニウス主義者は、自分は自分の意志に従って立ちも倒れもすることができる、と云う。彼は高ぶってしかるべきではないだろうか? 何と彼は立派な者であろう! あなた自身の誉れのために詩篇を歌うがいい、方々。そして、あなたが天国に行き着くときには、すべての栄光をあなた自身のものとするがいい。あなたは、ある部分を自力で成し遂げたのだと云うのである。あなたは、主が自分のために大きな部分を成し遂げられたと認めはするが、あなた自身の自由意志が事の決着をつけるのだと云う。よろしい。ならば、その誉れはあなた自身に帰し、あなた自身の賛美を代々とこしえに歌うがいい。しかし、真の信仰者は云うであろう。「私は、主が私を取り扱い始められたとき、陶器師の手の中にある粘土のようなものでした。私は無感覚で、死んで、腐敗したものでした。そのとき、主が私を御手に取って、私を生かし、変えて、今の私にしてくださったのです。そして私は、もし主が私をその恵みによって保ってくださらなかったとしたら、私が以前いたことろに戻ることでしょう。しかし、私は知っています。主の恵みが始めたものを、主は確実に完成してくださるということを。そして、主にこそすべての栄光があらんことを!」

 次に、もし私たちが恵みによって救われているとしたら、私たちは、ありとあらゆる人々の中でも、道を外れている人々にとりわけ同情を寄せるべきである。もし私たちが天国への路の上にいるとしたら、私たちはそこに恵みによって至らされたのであり、それゆえ、そこにいない人々のことを非常に思いやるべきである。かの善良な人ジョン・ニュートンはよくこう云っていた。「不敬虔な人々に対して怒っているカルヴァン主義者」は、自分の信仰告白とちぐはぐなことをしている。彼は、いかなる人も、神の恵みによらなければこの教理を受け入れられないと知っている。それで、もし神がこうした人々に、この教理を受け入れる恵みを与えておられないとしたら、彼らに怒りを発するよりは、むしろ彼らのために祈るがいい。また、彼らが、あなたの魂の喜びとなっている真理を受け入れることができるように願うがいい。

 それから、さらにまた、ここには、慰めの言葉がある。もし私たちが救われているとしたら――本当に救われているとしたら、よく聞くがいい。――何が私たちを心において悲しませ、不幸せにするだろうか? 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「はとても貧乏なんですよ」。しかり。だが、あなたは救われている。あなたはキリストを信ずる信仰者であって、救われているのである。「ですが」、と別の人は云うであろう。「は苦しい目に遭っているんですよ」。しかり。だが、あなたは救われている。「しかし」、とまた別の人は云うであろう。「私は散々に無視されたり、馬鹿にされたりしてるんですよ」。しかり。だが、あなたは救われている。おゝ、少し前に、そう考えることができたとしたら、いかなる喜びとなっていたことであろう。そのときは、あなたの一切の罪の重荷があなたにのしかかっていたではないか! あなたはこう云うのが常であった。「おゝ、もし私が救われていると確信できたとしたら、パン屑と水一杯しかなくとも何とも思うまい! もし私の罪が赦されていると分かりさえしたら、私はこの世のどこに閉じこめられても気にしないだろう。もし私がキリストのものであると分かることができさえしたら、この世から好き勝手なことを云われてもかまいはしない」。今のあなたにはそれが分かっている。というのも、あなたはこの《岩》の上に立っており、あなたは救われているからである。では、なぜあなたは悲しんでいるのか? あなたは今は蔑まれているかもしれない。だが、思い出すがいい。来たるべき時には、あなたはキリストとともに栄化されるのである。あなたは今はあなたの友人たちから忘れられているかもしれない。しかし、あなたの《救い主》の目はあなたに注がれており、あなたの名前は主の御心に置かれているのである。あなたは悲しんでいる。しかり。だが、安泰である。もしあなたがイエスを信じているとしたら、あなたは打ちひしがれることはあっても滅ぼされることはありえない。しばらく放っておかれることはあるかもしれないが、投げ捨てられることはありえない。ならば、来るがいい。――

   「天(あま)つ国王(みちち)の 子どもらよ、
    汝が旅路にて 歌うべし。
    救いのきみの ほめうたを
    栄光(はえ)あるみわざと みちびきに」。

 最後に、自分が救われているとは云えない人々対して一言云いたい。私の愛する方々。この聖句の中には、あなたを励まし、慰めるべき大きなものがある。救われた人々は、恵みによって救われているのである。神の無代価の恩寵によって救われているのである。彼らのうちには、神に向かって自分を推薦するものが何もなかった。あなたはこう告白してきたであろう。「おゝ、主よ。私は感じてしかるべきほどには感じていません」。だが主は、あなたの感情を推薦状として欲してはいない。もし救われるとしたら、あなたは無代価の恩寵によって救われるべきである。それは、いかなる意味においても、功績の結果ではない。「ですが」、とある人は云うであろう。「私には悔い改めることができません。信じることができません」。私の愛する方々。あなたは、自力でできる何事かによって救われることにはならない。あなたには悔い改めが必要である。それを自分で作り出そうとしてはならない。主はあなたのうちに悔い改めを作り出してくださる。あなたには信仰が必要である。自分自身の内側で信仰を探し回ってはならない。あなたは決してそれをそこには見いださないであろう。それをキリストから求めるがいい。キリストは信仰の《完成者》であるばかりでなく《創始者》でもあられる。

 「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」。行って、この聖句をロンドンのあらゆる不潔な巣窟や不徳の巣に持ち込むがいい。それを殺人者に、盗人に、冒涜者に、遊女に告げるがいい。それを、悔い改めることのできない者に、祈ることのできない者に、信じることのできない者に告げるがいい。その人にこう告げるがいい。救いは恵みによるのであって、聖霊なる神によって私たちの内側に作り出されるのだ、と。そのとき、この賛美歌の通りになるであろう。――

   「天はこだまを 鳴り響かせて、
    地(つち)のすべては そを聞かん」。

ならば、行くがいい。私の兄弟たち。そして恵みによる救いの教理を告げ広めるがいい。というのも、《教会》に対するこの古の合言葉こそは、《教会》の勝利の源泉であるからである。そして、いったんこのことが教会の鬨の声となるや否や、教会の勝利は確実となる。神の霊的な神殿のかしら石は、こう叫びながら運び出されるのである。「恵みあれ。これに恵みあれ」、と[ゼカ4:7]。

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(訳注)

*1 ダニエル・オコンネル (1775-1847)。アイルランド独立運動の指導者で、カトリック教徒の解放に寄与した。[本文に戻る]

 

恵みによる救い[了]

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