マグダラのマリヤに対するキリストの現われ
NO. 2733
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---- 1901年2月4日の主日朗読のために 説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1859年夏、主日夜の説教「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」と告げなさい』」。――ヨハ20:17
これは、私たちの主イエス・キリストの、その復活後の最初の現われである。多くの場所で、また色々な時に主は、これに引き続く四十日の間、別々の弟子たちに姿を現わし、彼らが礼拝のため集まった時や、その他の時に、公然と彼らにご自分をお示しになった。だがこれは、主が死者の中からよみがえった後で、ご自分に従う者たちのいずれかの目に最初に触れた機会であった。この出来事全体は慰謝で満ちている。この地上の荒野を旅する私たち、あわれで倦み疲れた巡礼は、折にふれ途上で心を励ましてくれる慰めの言葉を必要としている。願わくは聖霊が甘やかに私たちを助けて、いまキリストの事がらについて瞑想させてくださるように。また、主が私たちに道々お語りになる間に、私たちの心がうちに燃やされるように![ルカ24:32]
I. 第一に、《思い起こすと、ことのほか励まされるのは、私たちの主イエス・キリストがその復活後、最初に姿を現わされた者が、マグダラのマリヤだった、ということである》。
マルコははっきりこう云っている。「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」[マコ16:9]。ローマカトリック教徒は、イエス・キリストが真っ先に姿を現わしたのは、主の母である処女マリヤであったと云いたがり、彼女にこの特別の名誉を与えるべく、あれこれ奇妙な物語をでっち上げてきた。これによって示されるように、彼らの意見によると、よみがえった《救い主》を最初に眺めた者には、特別な恩顧が授けられたのである。そして、云うまでもなく、それを処女マリヤであるとする彼らの主張は、彼らが真理をねじ曲げる毎度のやり口を再び明らかに示す一例にほかならない。疑いもなくマグダラのマリヤは、《救い主》をその復活後に見た最初の人物であった。少なくとも、たといローマ人の番兵たちが、墓から巨石を転がした御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった[マタ28:4]ときに主を見たとしても、彼らはキリストの弟子たちではなかった。それで私が云いたいのは、マグダラのマリヤこそ、主に忠実に従ってきた者たちの中でも、主が死者の中からよみがえった後で、最初に主にお目にかかる栄誉を得た者であった、ということである。
ということは、よみがえられた《救い主》を最初に見たのは、ひとりの女だったのである。女こそ、最初にそむきの罪を犯した者であった。それゆえ、イエス・キリストが墓の中からよみがえったとき最初に目をとめるのは女でなくてはならなかった。もしも女であることには、ある程度まで不名誉のもとが結びついているとしたら――そしてそれは、エバが誰よりも先に禁断の木の実に触れたからには確かにあるが――、今や女であることには、それをはるかに越えた程度の栄光がある。マグダラのマリヤは、《救い主》がその墓からよみがえった後で、誰よりも先に主を見たからである。
キリストがその復活後にご自身を現わされたのは、単にひとりの女であっただけでなく、かつて主が七つの悪霊を追い出された女であった。私は、マグダラのマリヤのうちには、彼女を悪霊つきにしていたものの他にも、種々の悪霊が巣くっていたと考えたい気がする。ルターは彼女についてしばしば、「かくも多くの悪霊に、かくも多くの罪」、と云っていた。彼女はまず罪人であった。それから悪霊つきになり、その後でキリストが彼女を聖徒に変えられた。イエスが最初に彼女に姿を現わされたとは、何と奇妙なことであろう! 何と! 主が最高の栄誉をお与えになった者が、かつては最も多くの罪を有していた者であったとは! そのように考えることは何と甘やかであろう! ならば、もしも――
「われ罪人の かしらなるとも」――
もしも私がキリストの血の恩恵にあずかっているとしたら、私が最高の交わりの高みに登ってならない理由は何1つないのである。私は大手を振って、主がご自分を愛する者たちのために備えておられるご恩寵の中でも最高のものを享受できるのである。イエスが罪人をご自分のものとしてお取りになるとき、その赦しは完全きわまりなく――神がキリストのゆえに、以前のあらゆる罪を全く見逃してくださるために――、その人は、あの使徒たちのかしらその人ほど偉大な聖徒にはならないかもしれないが――彼ははなはだしく反逆していたが、ただ信じていないときに知らないで行なったがためだけに、あわれみを受けたのである[Iテモ1:13]。――、主のしもべたちの中で、最も際立った恩顧を受ける者となることも、非常に特別な啓示を示されることもありえる。マグダラのマリヤの経験は、長年の罪の後で、最近《救い主》を見いだしたばかりのあなたにとって、大きな慰めのもととなるべきである。あなたが愚行のうちに費やしてきた年月は、確かに常にあなたを涙させるに違いないが、主との交わりをあなたから奪う手段になると考えてはならない。おゝ、しかり! 主はあなたに、いなごが食い尽くした年々を償い[ヨエ2:25]、地上における神の至福を享受する楽しみをあなたから取り上げることをなさらない。そして、あなたが天上の御座の前に立つことになったときも、あなたの栄光に富む幸福を減じさせるようなことはなさらないに違いない。
この主題について熟考する中で私が至った結論によると、マグダラのマリヤが最初にキリストを見るべく選ばれたのは、彼女がキリストを最も愛していたからである。ヨハネはイエスを大いに愛していたが、マリヤはそれ以上に愛していた。ヨハネは空の墓をのぞき込み、それから家に帰っていった[ヨハ20:10]。だが、マリヤはそこにたたずんで泣いていた。そのとき、よみがえられた彼女の主が彼女に姿を現わされたのである。知っての通り、愛は眼力の鋭い恵みである。人は普通、愛は盲目であると云う。ある意味でこのことわざは正しい。だが、別の意味において、愛がその頭につけている目ほど良い目はこの世のどこにもあったためしがない。愛はイエスを探し、他の誰も見つけることができない所でイエスを見いだすであろう。もし私が愛に満ちていない人に聖書を読ませるとしたら、その人はそこに全く《救い主》を見いださないであろう。だが、もし私がかの恵みに満ちたロバート・ホーカーに同じ箇所を読んでもらうとしたら、彼は最初から最後に至るまで、そこにイエスの御名を見いだすのである。もし私が、ただの批判的な学者に詩篇を研究するよう頼むとしたら、その人はそこに全くメシヤを見てとらないであろう。だが、もし私が《救い主》を熱狂的に愛する人にそれを読ませるとしたら、その人は主を見てとる。たといあらゆる節の中にではなくとも、そこここにその人は主の栄光を瞥見するのである。
もしあなたが行ってイエスのお目にかかり、その栄光の甘やかな啓示を得たければ、イエスを愛さなくてはならない。それに加えて私はこうつけ加えなくてはならない。あなたは主のために大いに泣かなくてはならない。勤勉に主を探さなくてはならない。暗闇と薄暮の中で主を探さなくてはならない。明け方に主を探し、墓場であの石が転がされる前から主を探さなくてはならない。その石が無くなっているのを見るとき、主を探さなくてはならない。空っぽの墓の中で主を探さなくてはならない。園の中で主を探さなくてはならない。生の中で主を探さなくてはならない。死の中で主を探さなくてはならない。そしてそのとき、あなたが勤勉に探せば探すほど、キリストがあなたにご自身をお示しになり、あなたが主を見つけて喜ぶ見込みは大きくなる。マグダラのマリヤは、種入れをかかえて出て行った者のひとりであった。泣きながら出て行ったが、束をかかえ、喜び叫びながら弟子たちのもとに帰って来た[詩126:6]。彼女は彼らに対する喜ばしい知らせを得ていたからである。彼女は、自分の主を探しに出かけたときには、涙とともに種を蒔いたが[詩126:5]、あの園で主を見いだしたときには、嬉し涙を流した。幸いなことよ。イエスを見いだし、信じた女は。まことに彼女は主にあって喜んでしかるべきであった。女の中の恵まれた者となったからである。
ならば、見ての通り、マグダラのマリヤが選ばれて、復活後の主イエス・キリストに最初にお目にかかった者となったと考えることには、私があなたに語りうることをはるかに越えた甘やかさが大いにあるのである。
II. 第二に私たちが注意したいのは、《この聖句で与えられている禁止命令についてのいくつかの理由》である。なぜイエスはマリヤに、「わたしにすがりついていてはいけません」、と云われたのだろうか? また、なぜ主はこの非常に奇妙な理由をそのように禁じたわけとしてお与えになったのだろうか? 「わたしはまだ父のもとに上っていないからです」。
私には、この使信の中には大きな慰めがあると思われる。私はそれが私を慰めてくれたのが分かる。それで、それを正しく理解しているものと思う。マグダラのマリヤが彼女のよみがえられた《贖い主》を認め、「ラボニ(すなわち、先生)」、と呼んだとき、彼女の次の衝動は主にすがりつき、抱きつくことであった。しかしイエスは彼女に云われた。「否。わたしに抱きついてはならない」。――それがこの言葉の本当の意味だからである。――「わたしは、あなたにしてもらいたいことがある。だから、あなたがここに止まって、あなたの愛情を現わすままにさせておくわけにはいかないのだ。そのようにするための時間は別の日にいくらでも取ることができるであろう。わたしは、今すぐ1つの使信をもってあなたをわたしの弟子たちのもとに遣わしたいのだ。だから、わたしにすがりついてはならない。あなたがわたしの弟子たちを力づけることの方が、あなたの《主人》に抱きついていることよりも、わたしにとっては好ましいのだ。わたしにすがりついてはならない。わたしはまだ天に上っていないのだから」。マリヤは、彼女の先生がすぐにでも去ってしまうのではないかと、なかば恐れていたのではないかという気がする。「これは、私の先生だわ。私は御声を知っているもの。でも私は、先生がすぐに消えてしまうことが恐ろしい。神の御霊が先生を連れ去ってしまうでしょうから」。彼女はキリストについて、オバデヤがエリヤについて考えたようなことを考えていた。オバデヤがこの預言者を見いだしたとき、エリヤは彼に云った。「『行って、あなたの主人に「エリヤがここにいます。」と言いなさい。』 すると、オバデヤが言った。『私がどんな罪を犯したというので、あなたはこのしもべをアハブの手に渡し、私を殺そうとされるのですか。あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために、人をやらなかった民や王国は一つもありません。彼らがあなたはいないと言うと、主人はその王国や民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。今、あなたは「行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言え。」と言われます。私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らない所に連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、彼があなたを見つけることができないなら、彼は私を殺すでしょう』」[I列18:8-12]。オバデヤはエリヤが神隠しに遭うと予想した。そしてマリヤもキリストについて同じことを考えたのである。それで彼女は内心こう云った。「先生をしっかりつかまっていよう。これが私の唯一の機会かもしれない。だから先生を絶対行かせないようにしよう」。しかし、イエスは云われた。「わたしは去って行きはしない。わたしは、もう少し長く地上にとどまっているであろう。まだ抱擁するには十分な時間があるのだ。わたしが真っ先にあなたにしてほしいのは、わたしの弟子たちのところに行き、わたしが墓からよみがえったこと、わたしが天に上ろうとしていることを告げることなのだ」。
もしあなたが、「なぜイエスはマグダラのマリヤにこのように語ったのですか?」、と尋ねるとしたら、その理由を説明するのは困難ではないと思う。かりに、あなたがたの中のひとりがこう云ったとしよう。「これから私は一時間、静かな黙想のときを持つことができる。私は膝まずき、神のことばを開くことにしよう。御霊が私の上にとどまってくださるよう求めることにしよう。そうすれば、私はイエスを見ることができ、主を両腕で抱きしめることができるだろう」。あなたがこのような決心をしたところへ、ひとりの友人が尋ねてきて、あなたに果たしてほしい大切な約束があるのだが、と云ったとする。ことによると、彼はあなたに祈祷会に出席してほしいのかもしれない。病人を訪ねるか、どこかの求道者に会うか、主の御国の進展のために何かをしてほしいのかもしれない。そこであなたは云う。「さてさて、今晩は瞑想のために使えると予期していたのだが。おゝ、教会のことでこんなにすることがなければ良いのに。そのせいで、私の静思の時が奪われてしまうのだから! 私は、ひとりひきこもって《救い主》にしがみつき、この胸に抱きしめる甘やかな時を愛している。なぜ私が行って群れを養うべきなのか。また、なぜ私が願うほど長く、また頻繁に、交わりと交流の時を見いだすことができないのか?」 あなたがこのように語りたい気分がするときにはいつでも、あなたの《主人》があなたにこう云っておられる声が聞こえると思うがいい。「わたしに抱きついていてはならない。そうするための時間は天国にある。わたしの兄弟たちのもとに行き、彼らに慰めの言葉を携えていくがいい。というのも、わたしを抱きしめることは、あなたにとっては甘やかなことだが、わたしにとってさらに甘やかなことは、あなたが行ってわたしのあわれな兄弟を抱きしめ、彼にわたしの国へ至る道を示すことだからである」。
私たちは、黙想に伴う気高い喜びに反対の言葉を述べようなどとは毛頭思っていない! それはほむべき務めである。だが、時として、行ないは礼拝にまさる。あるいはむしろ、行ないが礼拝の最上の形となることがある。時として、行って病人を訪問することの方が、家にいて膝まずいているよりも格段に高い奉仕となることがある。時として、教会のために忙しくしていることの方が、たとい、物質的な事がらと思われることにおいてさえも、古のマリヤのように家にいて《救い主》の足元に座り、そのみことばに耳を傾けながら、主の御国の進展のためには何1つしないでいることよりも、ずっと敬虔に神に奉仕する道であることがある。私の信ずるところ、マルタは時としてマリヤよりも格段にまさっている。もしマリヤが常に《救い主》の足元に座っていたとしたら、彼女は何の褒め言葉にも値しなかったであろう。そのとき彼女がそこに座っていたのは良いことであった。というのも、それは適切な折だったからである。だが、もし彼女がそこに年がら年中座っていて、マルタだけを奉仕に携わらせていたとしたら、それは彼女の特権を濫用することになっていたであろう。時として《主人》はこう云わなくてはならない時期があるのである。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」。
III. さて、私は本日の聖句のこの2つの部分に注意を向けてきた。これは慰めに満ちたものであると私は思う。――たといあなたにとってそうでなくとも、確かに私にとっては慰めに満ちていた。――今から私が努めて敷衍したいと思うのは、《私たちの主がマグダラのマリヤにお与えになった使信》についてである。
イエスは彼女に、「わたしの兄弟たちのところに行きなさい」、と云われた。注目すべき事実は、イエス・キリストが栄光において高みに達すれば達するほど、その愛の表現は甘やかなものとなる、ということである。知っての通り、その死の前に主は弟子たちにこう云われた。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」[ヨハ15:15]。だが、主が死者の中からよみがえった今、主は彼らを一層高貴な名前で呼ばれた。もしかすると、彼らの中のある者らはこう考えたであろう。「もし主が死者の中からよみがえるようなことがあったとしたら、主は私たち、貧しい漁師のことを恥ずかしく思われるであろう。主が私たちを『友』と呼ばれたのは、主がその貧しさの中におられたときのことだ。墓から威光を伴ってよみがえるときには、主はあの『しもべ』という言葉に逆戻りなさるのではないだろうか?」 否。主が威光を伴ってよみがえられたとき、それは全く逆であった。主の威厳が高くなればなるほど、主のへりくだりは低くなる。「わたしの兄弟たちのところに行きなさい」。
そのときキリストが用いられた、この「兄弟たち」という甘やかな言葉については、他にも注意すべき点がある。というのも、主の弟子たちは、その時ほど罪深い状態にあったことは一度もなかったからである。あるいは、むしろ彼らは、《救い主》が復活なさるほんの少し前に行なったことほど、はなはだしい罪を犯したことは一度もなかった。彼らは毎日主ともにいた。彼らは全員が、ある程度までは忠実であり、決して自分の《主人》を捨てず、いざ主が死ぬ段になるまで決して主を否定しなかった。それでも、彼らが真実で忠実であり続けた間中ずっと、主は彼らを友と呼んでおられた。ではあなたは、こう考えたであろう。彼らの中の三人が、主のすさまじい苦悶の間、園で眠りこけていたとき、また、全員が主を見捨てて逃げ出してしまったとき、また、ペテロが特に主を否んだとき、《救い主》はこう云われたであろう、と。「わたしは、あなたが忠実であったときは、あなたを友と呼んだ。今わたしは、果たしてあなたをしもべと呼ぶ例外が認められないかどうか考えてみたい」、と。しかし、私たちが見るように、彼らの罪がどす黒くなればなるほど、主の愛は強まっていった。彼らが汚れた者となればなるほど、主はさらに甘やかに彼らにお語りになった。主は彼らに向かって云われた。言葉においてではなくとも、行ないによってこう云われた。「わたしはもはや、あなたがたを友とは呼ばない。友には何の血縁関係もないからである。わたしはあなたがたを兄弟と呼ぼう。なぜなら、わたしの父はあなたがたの父であり、わたしの神はあなたがたの神だからである」。
この2つの甘やかな思いを携えて帰るがいい。というのも、聖霊がこれらの完全な意味をあなたに教えてくださるとしたら、それはあなたにとって本当に甘やかなものだからである。――《救い主》は、高くなればなるほど、その愛の表現においていやまして惜しみなくなられるのである。また、もう1つ考えたいのは、弟子たちがその《主人》から遠く逃げて行けば行くほど、主が愛に満ちて彼らを呼び戻しなさったということである。これは信じられないほど奇妙なことである。だが、それにもかかわらず、真実である。このように思わさせられるとき、誰が慰めを引き出せないことがあるだろうか? 私には分かっている。あなたがた、イエスに従う弱々しい人たち。あなたは時として、主は地上におられた時にはご自分の民を愛されたが、今や主は天に高く上げられて統治しているので、自分のような者らのことは忘れ去ってしまったのだと考えたことがある。だが、このことを確信するがいい。主は、その栄光のきわみに到達されたからには、今その愛のきわみをも現わしておられるのである。主は、高く上げられれば上げられるほど、ご自分をより現わしてくださるのである。
もしかすると、あなたがたの中のある人々は、こう考えているであろう。自分はきわめて大きな罪を犯してしまったので、主が自分を愛するなどということは期待できない、と。だとしたら、あなたは、自分のこととして、このように考えることができよう。聖書にある最も甘やかな約束の数々は、それに最も値しない当の人々のためのものなのである。いくつかの約束は、自分の《救い主》か決して離れずに従っている人々のためのものであり、それは非常に甘やかな約束でもある。だが、神のことばの中でも最も愛情のこもった約束のいくつかは、主から最も遠くさまよい出て行った者たちのためのものなのである。例えば、この恵み深い使信を取り上げてみるがいい。「背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ。――わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ。――わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。――主の御告げ。――背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう」[エレ3:12-14]。ほむべきイエスよ。私たちが、自分のもろもろの罪によって、あなたからより厳しい言葉を受けて当然だと考えるとき、あなたは、最も大きな過ちを犯した者らに対して、最も優しいことばをかけてくださいます。私たちのもろもろの罪は、あなたを怒らせるに違いないというのに、あなたは甘やかなことばをもって私たちを呼び返そうとするかのように思われます。それは、私たちほどはあなたを悲しませなかった者たちに対してあなたがお用いになることばにまさって甘やかなのです。
さらに注意するがいい。私たちの主イエス・キリストがその兄弟たちに何か仰せになるたびに、彼らの側には信仰が要求される。なぜ主はこう仰せにならなかったのだろうか? 「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに告げなさい。『わたしは、墓からよみがえったのだ!』、と」。それは、その場合、彼らには何の信仰も必要なくなってしまうからである。主はよみがえられた。それは、彼らがその視力によって、また、彼らの中のある者が手で触れることによって発見できた事実であった。「否」、と主は云われる。「わたしは、わたしの民に、しいて大きな信仰を要求しよう。行って彼らに告げるがいい。わたしは、わたしの父のもとに上る、と。それは彼らにとって信じるには大きなことである」。キリスト者である方々。あなたは知っているだろうか? キリストの明白な臨在をあなたが有すれば有するほど、あなたには信仰が求められるのである! あなたはしばしば願ったことがないだろうか? 御霊の特別な影響力によって、ある約束があなたの心に突き入れられることを。さて、思い起こすがいい。あなたは、より多くの約束を受ければ受けるほど、信仰が必要になる。キリストのことばは、私たちの側に信仰を要求する。キリストの現われは、キリストがその御顔を私たちから隠される時と同じくらい真実に私たちの信仰を要求する。主が御顔を隠すとき、主は私たちに、おことばが全然なくとも、なおもご自分を信ずるように要求なさる。だが主がお語りになるとき、主はご自分が云われることを信ずるよう私たちに要求なさる。キリストがより多くの現われをあなたにお授けになればなるほど、あなたの信仰の必要は大きくなるのである。
「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」。いみじくもルターは、神学のあらゆる要諦は代名詞にあると云った。「わたしの父またあなたがたの父」。「神は、永遠の出生によって『わたしの父』である。わたしは、いかなる世が造られるよりも先に、わたしの父から生まれていた。神は新生によって『あなたがたの父』である。神は、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってあなたを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださった[Iペテ1:3]。神は、わたしが《教会のかしら》であるように、『わたしの父』である。――わたしは、《少年時代》には、神また人として、神を父と呼んだ。また、わたしはあなたの《代表者》であり、あなたはみなわたしのもとに集められているがゆえに、神はあなたがたの父でもある。わたしの父、そして、あなたがたの父である」。そのような関わりにおける「父」という言葉は、何と甘やかであろう! 神が私たちの父であられるのは、神が私たちをお守りになる、この上もなく深い愛を有しておられるからである。そして、もし私たちが、果たして神の力がその愛に等しいかどうか疑っているとしたら、イエスが次に何と云っておられるか注意してみるがいい。「わたしは、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」*。そして、神が全能であり、御父が愛である限りにおいて、あなたは、あなたが必要とするすべての愛を有しており、その愛に匹敵する力をすべて有しているのである。キリストがその御父をわたしの神と呼んでおられるのを聞くのは甘やかなことと思われる。主はキリスト、神-人であられるので、御父は主の上にある神であり、人として語る際に、主はこう云うことがおできになった。「父はわたしよりも偉大な方です」*[ヨハ14:28]。父なる神は、仲保者よりも偉大である。主は、実質的にこう云っておられるのである。「人としてのわたしは、あなたが神を礼拝するのと同じように神を礼拝する。人としてのわたしは、あなたがするのと同じようにわたしの父を仰ぎ見る。神は、あなたがたちの父であるのと同じように、わたしの父なのである」。
私にはもう1つだけ指摘することが残っている。《救い主》はいかに美しいしかたで、信仰者とご自分との結び合いに言及しておられることか! 全聖書は、正しく理解されるとき、信仰者とキリストが結び合わされていると指摘しており、この甘やかな節は、そのほむべき真理で満ちている。キリストとその民には共通の利害がある。キリストが神をその父とお呼びになるとき、私たちも神を「私たちの父」と喜ぶことができる。キリストの相続財産において、私たちは共同の恩恵にあずかっている。キリストは万物の《相続者》[ヘブ1:2]であり、私たちはキリストとの共同相続人である[ロマ8:17]。他の人格との関係において、キリストとその民は緊密に結ばれている。キリストの兄弟たちは、私たちの兄弟たちである。キリストの父は、私たちの父である。その奉仕においてすら、キリストは人であったし、私たちのためゆえに《神のしもべ》であられたので、キリストがお仕えになった《主人》は、私たちが仕えている《主人》であり、私たちはともに同じ奉仕を身に負っており、私たちがともに同じ御国が授けられていること、キリストとともに永遠に統治することを信じている。
ある老神学者はマグダラのマリヤをapostola apostolorumと呼んでいる。すなわち、使徒たちへの使徒である。使徒とは、遣われた者のことであり、マグダラのマリヤは、後にキリストが地の果てまでお遣わしになった者たちへと遣わされた。同じようなしかたで、ある貧しく卑しい女が、後日、偉大な神学者となる人にとっての使徒となることもありえる。ならば、この偉大な、使徒たちへの使徒が私たちに告げていることを聞こうではないか。彼女がいま私たちに告げているのは、キリストがこれから上るということではない。彼女はキリストがすでに上られたことを私たちに告げている。そして、私たちが主の聖餐卓の回りに集まるときには常に、イエス・キリストがすでに上られたという事実から、甘やかな影響を引き出そうではないか。主は《征服者》として上り、多くの捕虜を引き連れて行かれた[エペ4:8]。主は私たちの先駆けとして上り、幕の内側に入られた[ヘブ6:19-20]。主は、その約束に従って、ご自分の民のための備えをするために上られた。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」[ヨハ14:2-3]。主は私たちの《とりなし手》として上られた。そこに主は永遠に立ち、神の御座の前で私たちのためにとりなしておられるのである。主の子どもたち、主の友たち、主の兄弟たちのために。おゝ、私たちが今、私たちの真心からの絶えざる信頼を、死んでくださったお方に置き、それと等しい信頼をよみがえられたお方に置き、このことを私たちの栄光とすることができるとしたら、どんなに良いことか。すなわち、その死においてもよみがえりにおいても、主は私たちのために高い所に上り、ご自分の正当な場所を神の右の座に取られ、そこで私たちのためにとりなしをもしておられるのである!
おゝ、罪に死んでいる者たちが神の御霊によって生かされ、天にひとりの父を有していることの尊さを少しでも知ることができればどんなに良いことか。それはイエス・キリストが有しておられたのと同じ御父なのである!
罪人よ。私は願う。主があなたを教えて、イエス・キリストを信じさせてくださるように。また、もしあなたがマグダラのマリヤとともに罪を犯してきたとしたら、彼女とともに信じることができるよう主があなたを助けてくださるように。それは、あなたが彼女の甘やかな現われにあずかり、彼女のそれのように恵みに満ちた使信を受けて、いつの日か、あなたの残りの兄弟たちに告げられるようになるためである!
マグダラのマリヤに対するキリストの現われ[了]
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