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その愛に安んずる救い主

NO. 2720

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1901年3月31日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1859年前半、木曜夜の説教


「主はその愛に安んずる」。――ゼパ3:17 <英欽定訳>


 私たちの賛美歌の中でも最も甘やかなものの1つは、次のような詩句から始まっている。――

   「堅き土台(もとい)は 主の聖徒らの
    信仰のために 聖言(みことば)にあり!
    いかな恵みを 云い足しえん、
    イェスを避け場と 逃げ来し者に」。

この詩人がこうした問いを発したのは、このゼパニヤ書3章を読んで立ち上がった後だったことも十分ありえる。おゝ、神の民よ。あなたの耳とあなたの心を開き、エホバがその古の預言者の口によってあなたに語りかけていることばを聞くがいい。「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛に安んずる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」[ゼパ3:14-17 <英欽定訳>]。この言葉は非常に単純であるが、それが伝える約束は非常に力強く、これらの節は、さながら歓喜の詩の凱歌の韻律のようにうねり轟いている。神の真理は、いかに単純な言葉で語られるときでさえ、崇高さのきわみである詩歌と非常に似通っている。そして私は、全くいささかのためらいもなく、こう宣言できる。人間の知性によって作られたいかなる詩文といえども、その調子の甘やかさという点で、神がここでご自分の選ばれた者たちの耳に宣告しておられる尊い約束の連なりに、一瞬たりとも比肩しうるものはなかった、と。

 今回、私たちは、ここに啓示された種々の約束の素晴らしい深みに入っていくことはできない。実際、それなりに長い期間をかけなくては、それらを説明することはできないであろう。もしかすると、一生かかっても、こうした偉大な真理を私たちの経験の中で完全に悟るには十分でないかもしれない。それゆえ私たちは、本日の聖句として選んだほんの一言に、ただちに目を向けることにしよう。「主はその愛に安んずる」。そして、私たちはこうした言葉を主イエス・キリストに言及しているもの、また、主の天来の、比類なき愛に関するものとして考察したいと思う。その愛を主は、数々の素晴らしい恵みのみわざによってご自分の民に現わされ、そのみわざは彼らのために、彼らにおいて主が成し遂げられたものなのである。

 「主はその愛に安んずる」。この短い文章には、いくつもの解釈を施すことができるし、ここで妥当と思われる見解の1つ1つには、きわめて喜ばしいものが含まれている。

 I. ここには、まず第一に、《キリストが、その心の愛情を寄せた者たちに対して常に忠実であり続けるという教理》がある。

 人間の愛は、気まぐれで、ちらちらと明滅する炎である。それは、しばらくの間、一貫してある対象に好意を寄せているように見受けられる。だが、それがどれだけ長く堅固なものであり続けるかどうかは誰にも分からない。いかに揺るぎなく、いかに真実で、いかに熱烈なものと見えようとも、また、本当にそうであったとしてさえ、それでも、それを盲目的に信頼して、次のような古の宣告を下されることになってはならない。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」[エレ17:5]。あなたにどんな友人があろうと、信頼しすぎてはならない。誰をも全く頼り切ってはならない。というのも、最上の人々でさえ、所詮は人でしかなく、最も志操堅固な人といえども、人間固有の弱さやもろさにさらされているからである。しかし、神の愛は決してちらちらと明滅する炎ではない。それは決して、なべの下のいばらがはじける音[伝7:6]のように、しばし燃え上がったかと思うと、消え失せて暗闇に沈むようなものとは違う。ほんの僅かな間しか続かない、愚か者の歓楽のようなたとえで述べられてはいない。それは、ひとたび始まると、次第に熱烈の度を増し、減退することなく、力から力へと進み、ついに最初はほんの火花のようでしかなかったものが、燃えさかる炎となり、炎であったものが、戦いの狼煙のようになり、狼煙でしかなかったものは、その熱の強さ、その行き巡る威光において、太陽そのもののようになる。

 一部の人々の教えによると、キリストの愛は、ある人に寄せられても、後にその人の上から取り除かれることがあるという。では、彼らの教えが正しいとしたら、神の民の慰めはどこに残っているだろうか? しかし、神に感謝すべきことに、それは正しくない。この聖句は、イエスが「その愛に安んずる」と約束しているからである。もし彼らの教理が聖書にかなったものだとしたら、キリストの愛情の価値など結局どこにあるだろうか? いかなる点で主を兄弟よりも親密[箴18:24]であると云えようか? いかにして大水も主の愛を消すことができず、洪水も押し流すことができない[雅8:7]などということがありえようか? もしこうした人々が正しいとしたら、使徒パウロのこの宣言は間違っていたことにならざるをえないではないだろうか? 彼はこう確信していた。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、被造世界にある他のいかなる物も、聖徒たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、彼らを引き離すことはできない、と[ロマ8:38-39]。私たちは使徒が間違っていたと想像すべきだろうか? そして、この誤った教えを神の真理であると思うべきだろうか? 私たちは聖書の明確な証しから離れて、その代わりに人間たちの偽りを信じるべきだろうか? 特に、その聖書箇所そのものが、神の民への大きな慰藉に満ちており、それが不真実であると証明されでもしたら、彼らが悲痛な苦悶のうちに腰に手を当て[エレ30:6]、悲惨と絶望に満ちたまま墓に下っていくようになるほどであるとき、そうすべきだろうか?

 しかし、愛する方々。あなたがたが重々承知しているように、イエス・キリストの愛は、ひとたびあなたの名前がその御手と御心に刻み込まれているとしたら、決してその名が消し去られることを許さない。あなたがたが信ずるところ、そして、正しく信ずるところ、神の心に少しでもあずかることを得た者は、永遠にあずかっているのである。御父の愛、御子の贖い、御霊のご配慮の分け前を少しでも要求できる者は、決して自分の天来の相続財産が地獄のいかなる盗賊軍によっても盗まれることを恐れる必要はない。というのも、兄弟たち。ここを眺めてみるがいい。あなたや私をイエス・キリストの愛から引き離そうとするもののうち、まだ試されていないものが何かあるだろうか?

 罪はイエスに私を愛するのをやめさせることができるだろうか? そうだとしたら、主はとうの昔に私を愛するのをやめておられたであろう。もし私が犯すことのできる何らかの不義が私をキリストの愛から引き離せるとしたら、私は今よりもはるか以前に主から引き離されていたと思う。というのも、私自身の人生を振り返るとき、私は恥と不面目をもって膝まずき、こう告白させられるからである。主には、そうするつもりがあれば私を戸の外に追い出すべき一千もの理由があったし、私の名をいのちの書から拭い去ることに決めたとしても、百万もの口実を設けることがおできになったであろう、と。主はこう仰せになれたはずである。「お前は私にふさわしくないので、わたしはお前のことなどかまわないことにしよう」。

 さらに、もしキリストが私たちのもろもろの罪ゆえに私たちを捨てるつもりがあったとしたら、そもそもなぜ主は私たちをお取り上げになったのだろうか? 主は前もって、私たちが反抗的になることをご存知なかったのだろうか? その全知の目で私たちのあらゆる罪をご覧になり、私たちのあらゆる愚かさを探知されなかったのだろうか? 私たちは感謝のない者だろうか? 主は私たちがそうなることを知っておられた。私たちのもろもろの罪は極度に憎むべきものだろうか? 主はそれがいかに憎むべきものとなるか知っておられた。主はすべてを予知することがおできになった。私たちに生ずることになるしみはみな、主の全知の目の前には、主が私たちをお選びになったときから私たちの上についていた。私たちが犯すことになるあらゆる過ちは、主からすれば、すでに犯されたものと見込まれていた。主はすべてを予知し、予見しておられた。だが主は私たちをありのままでお選びになった。もし主が後々私たちを捨てて放逐するつもりがあったとしたら、そもそも私たちを受け入れようなどとされただろうか? もしイエスがご自分の花嫁を離縁しようと思っていたとしたら、彼女のあらゆる過ちを予知しておられたのに、彼女をめとったりされただろうか? もし主がご自分の子とされた者たちを追い出そうと決意していたなら、その者の不忠実さを知った上で、ご自分の子としようなどとされただろうか? おゝ、愛する方々。キリストがその一切の行ないを、ただ意味もなくなさったと考えてはならない。キリストが天から地上に来て、十字架から墓にさえ赴き、ご自分の霊がよみの影にまで下ることを許されたのが、無駄な用向きだったなどと考えてはならない! 主は後ずさりして、こう云われたはずではなかっただろうか? 「わたしは、わたしの花嫁がふさわしくない者になることが分かっている。だから彼女のことはめとるまい」。しかし、主が彼女をめとり、ご自分の贖罪という真紅の指輪を彼女の指にはめ、これまで彼女に忠実を尽くしてこられた以上、一体何が主に彼女を離縁させることなどあるだろうか? 一体何が主に、死をも忍んで救った彼女をご自分の御胸から追い出させることができるだろうか? 確かに「主はその愛に安んずる」に違いない。というのも、主はこれまでその愛に安んじてこられたからである。主がご自分の選ばれた者らに、多くの嘆くべきものを有しておられるとしても関係ない。

 ならば、私たちの罪はこれまで――また、私たちの信ずるところ、これからも決して――《救い主》の愛から私たちを分離することはないのである。何が残っているだろうか? 悲しみは私たちを私たちの《救い主》から引き離すようなことがあるだろうか? 患難や、苦しみや、迫害や、飢えや、裸や、危険や、剣が私たちをキリストの愛から引き離すだろうか? 否。こうしたすべての事がらは、単に私たちに対する《救い主》の愛をいやまして現わさせることにしかならない[ロマ8:35-37]。もしキリストが富み栄えている御民を愛するとしたら、決して逆境にある御民への愛がそれに劣ることはないであろう。あなたはキリストが、ご自分の子どもたちが紫布を着ているときは愛しても、羊や山羊の皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ[ヘブ11:37]ているときには愛さなくなるなどと信じているのだろうか? そうだとしたら、あなたがたはイエスの心を分かっていないのである。主は御民を日々十二分に愛しておられるが、彼らがご自分のゆえに拷問台の上で引き延ばされ、死のうとしているのをご覧になるとしたら、また、そのようなことが可能だとしたら、主の無限の愛はその限度を越えて膨れ上がるに違いない。いみじくも使徒は、こうしたすべての苦しみや苦痛について言及した後で、こう云う。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」[ロマ8:37]。

 それゆえ、罪と悲しみは絶対に私たちをキリストの心から引き裂くことができない。というのも、主は「その愛に安んずる」し、そうしないではいられないからである。そして、この真理をひときわはっきりさせ、明確に示すと思われるのは、私たちがしばし立ち止まり、父なる神と、子なる神とに対する私たちの関係について考えるときである。あらゆるキリスト者は神の子どもではないだろうか? そして、あなたは実の父親がわが子を憎んだなどということを一度でも知ったことがあるだろうか? あなたはそうした父親を知っているかもしれない。だが、わが子を憎むというのは父親らしくないことである。あなたはわが子を呪い、自分の家から追い出し、お前など自分の子ではないと云い放つような父親を知っているだろうか? あなたはそうした類の人々を知っているかもしれない。あるいは、そうした人非人たちについて聞いたことがあるかもしれない。だが、よく聞くがいい。その父親がいくら呪おうと、わが子がわが子でなくなるわけではない。――その子は、やはりその父親の子なのである。いくら父親に呪われようと関係ない。いかに激した心から発された、いかに口汚い言葉であろうと、その子から、その男を自分の父親と呼ぶ権利を取り上げることはできないであろう。ある子どもは、いったん子どもとなれば永遠に子どもであって、ある父親はいった父親になれば永久に父親なのである。

 さて、愛する方々。自然な成り行きに従えば、人々は自分に可能な限りの手を尽くして、わが子のためになることを行なおうとするものである。ここにひとりのあわれな子がいる。ほとんど痴愚のようにこの世に生まれ出た者である。――正常な感覚を有しておらず、ほとんど目が見えず、耳も聞こえない。そしてその両親は、たといその子が育ったとしても、いつまでも自分たちの厄介になるだろうことが分かっている。だが、あなたは見るのである。何と懇切丁寧な配慮をもって、その父母はその子のいのちを救おうと努めることか。他の人々は、「あの子が死んじまえば、いい厄介払いだろうに」、と云うが、その父も母も、その死によって自分が大切なものを失うだろうと感じている。「あゝ!」、とひとりの善良な老神学者は云った。「たといある父親に目も耳もない子どもが生まれ、それに手も足もなく、自然なしかたでは呼吸もできず、よほど手間暇のかかる手段によらなければ消化を助けるような食べ物を取らせることもできないとしても、それでも、その子の父親は全力をあげてその子を生かしておこうとするであろう。そして確かに、それはかの偉大な御父についても同じであろう。御父は、ご自分について、また、私たちについてお語りになるとき、常にご自分の《父性》を私たちのそれより高いものとして云い表わされる。例えばキリストはこう云われた。『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう』[マタ7:11]。そして、まことは私はこう云って良いであろう。もし地上の父親がわが子を失いたくないと願うとしたら、また、もし彼が一千もの病を負ったわが子のいのちを救おうと努力しようとするとしたら、いかにいやまして私たちの天におられる御父は、ご自分の小さい者たちが滅びないように注意し、むしろ、そのひとりひとりが保たれるようにしてくださることか!」 あなたは見てとらないだろうか? 私たちは、神の子らである以上、イエス・キリストの弟たちであり、「主はその愛に安んずる」はずだということが。

 しかし、もう1つ考えるべきことがある。というのも、私たちはキリストとも1つの関係を有しており、それゆえ、「主はその愛に安んずる」のである。私たちは決して、自分のからだを憎んだ人のことなど聞いたことがない。奇妙なほどよこしまなことではあるが、私たちの伝え聞くある人々は、結婚の絆という神秘的な結びつきにおける自分のからだを憎み、自分の妻を、ありとあらゆる種類の残忍さ、冷酷さをもって追い出すという。自分がいつくしみ、養うと約束した婦人を、そうした夫は追い払うのである。だが、そうした者も決して自分自身のからだをそのように扱いはしない。結婚によって自分のからだとなった者に対しては冷酷で、非人情になるかもしれないが、文字通りの自分のからだに対してそうはしないであろう。さて、イエス・キリストはご自分の民を、夫に対する妻以上にご自分にとって親密な関係へと導き入れてくださった。彼らは、私たちの肉体が私たちの頭に対して近しいものであるのと同じくらい、主にとって近しい者らなのである。人は、自分の手を救うためなら、あるいは、自分のからだのごく小さな部分でも救うためなら何を惜しむだろうか? 彼は自分の肉体のいかにか弱い部分といえど面倒を見ることをやめたりするだろうか? 否。人々は、普通は自分の肉体に十分気を遣うものである。それゆえ、私たちの主イエス・キリストは、それ以上にご自分の神秘的なからだの各器官を守ってくださる。というのも、私たちは、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところ[エペ1:23]だからである。そして、キリストご自分の満ち満ちた豊かさを失おうとされるだろうか? 主のからだがもぎ取られて良いだろうか? その頭は血を流す頭となり、その胴体は死骸となって良いだろうか? 1つでも器官が取り残され、死んで、焼かれ、滅ぼされることになって良いだろうか? おゝ、否! 私たちがキリストとのこの関係に導き入れられたのと同じくらい確実に、私たちはいかなる危険をも越えて救われている。これが、この聖句の意味する1つのことであり、試練を受け、嵐に翻弄されつつある神の子どもにとって最も慰めに満ちたことである。

 II. しかしながら、私が思うに、ここには、もう1つ非常に甘やかな意味が伴っている。すなわち、《キリストは、その愛によって働いてこられ、今やそこに安んじておられる》、ということである。

 あなたのために、1つの絵を描かせてほしい。ここにひとりの人がいる。自分の家庭の団欒を愛し、自分の国と、自分の女王を愛する人である。さて、この国に戦闘の音が聞こえ、彼は自分の剣を腰に帯び、自分にとって愛しいあらゆるものを守るために進軍する。彼は戦い、戦闘を行なう。彼の着衣は血で汚れ、彼自身も傷を受ける。愛こそ――彼自身の安全に対する愛と、彼の家族と、彼の国に対する愛こそ――、彼をこれほど勇敢に戦わせているものである。そして今、事は成し終えられた。彼は自分の家に帰ってくる。敵は大英国の白き崖から一掃され、この自由の国は今なお自由である。英国人は奴隷ではない。この人物は自分の家庭に帰り、見れば、いかに安らかに眠っていることか。いかに喜ばしく自分の葡萄の木やいちじくの木の下に横たわっていることか。誰も、あえて彼を恐れさせるような者はいない。何という喜びをもって彼は今、自分が守ってきた者たちの顔を眺め、自分が戦って守った家を眺めることか! 自国の誉れがなおも汚されておらず、自分の国がなおも自由の民の家であることを知るのは、彼にとって何と満足なことであろう! さて、彼はその愛に安んじている。彼を戦いに至らせたものが、今や彼に喜びを与えている。彼をして戦いの日に大いに英雄的な行為をなさせたものは、それ自体が甘やかな報酬である。さて、彼が安んじているのは、その戦いが戦われ、勝利が得られ、それゆえ、彼がかつて自分を労苦させることになったその愛そのものを喜んでいるためである。

 さて、主イエス・キリストがその愛において辛苦している姿を見るがいい。愛は主を、その天における御座から呼び立てた。愛は主にその数々の栄光を脱がせた。愛は主をベツレヘムの飼い葉桶に横たえた。愛は主をこのうんざりするような世界で三十三年間生き抜かせた。愛は主にのしかかり、大きな血の汗の滴を流させた。愛は主を戦いの大いなる《旗手》とした。愛は、戦のただ中で嵐が主の額の回りに集まったときも、敵兵のあらゆる矢が主の心臓を的としていたときも、主を真っ直ぐに立たせた。愛によって主は――

   「怖じ惑う 叫喚(さけび)の中で
    安らけく、勝利(かち)を信じつ」

あった。――愛は主に頭を垂れさせ、息を引き取らせた。それは、ご自分の民をそのもろもろの罪から贖い出すためであった。今や主は圧倒的な勝利者となっておられる。主は天に上り、その愛のうちに安んじておられる。おゝ、その安らぎの何と驚嘆すべきことか! もし安らぎが労苦する人にとって甘やかなものだとしたら、いかにいやまして、かの血流せる《人》、かの死に行く《人》、かの十字架につけられた《人》、かのよみがえられた《人》にとって甘やかなものだろうか? もし労苦の後の安らぎが甘やかなものであるとしたら、生と死との、また十字架と墓とのすべての辛苦の後で得たイエスの安らぎの何と甘やかなものであったに違いないことか! もし勝利がある兵士の帰還を喜ばしいものとするとしたら、勝利せるこの《英雄》が多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた[エペ4:8]際の帰還は、いかに喜ばしいものであったに違いないことか! まことに私たちの主イエスは「その愛に安んずる」のである。

 あなたには見てとれないだろうか? 主をして辛苦に駆り立てた当のものが、今や主の頭を支える柱となっていることが。主を戦いの日に強くしたものは、その勝利のときに主を喜ばせている。それは、主がご自分の民に対していだいておられる愛である。というのも、見よ! 主は、天で着座しておられるとき、その心でこう考えておられるからである。「わたしは成し遂げた。わたしの民の贖いのわざを完了した。彼らのうちひとりも滅びる者はいない。神の復讐の雹は、ひとかけらも彼らの上に降ることはありえない。それらはみなわたしの上に降り注いだのだから。わたしは打たれた。呪いを受けた。それで今や彼らが呪われることはありえず、彼らは解放されているのだ」。そして、そのとき主は、その瞑想の中で、聖なる思いを馳せる。「わたしはあの呪いを取り除いた。そして、彼らに祝福を与えた。わたしは、彼らの多くにわたしを知らせ、わたしを愛するようにさせた。そして、しかるべき折々に、残りの全員をもそうするであろう。失われていた者はやって来る。わたしは、わたしの血で買い取った羊たちのすべてを永遠に所有せずにはおかないからだ。彼らは地上で祝福されており、わたしは次第に彼らをわたしのいる所におらせよう。そして彼らは、その豊かな牧草地で養われるであろう。彼らは狼がやって来ることのできない所、荒廃が入り込めない所に伏すであろう。やがて来たるべき時に、わたしは彼らの骨々そのものを蘇生させ、ちりの中に横たわっていた彼らの肉を再び生かし、わたしとともにあるようにさせよう。そのようにして彼らはみな、からだと、魂と、霊というあらゆる部分が、自分の失っていたすべての相続財産を再び得るのである。そして、わたしが彼らのために獲得した二倍の分け前のすべてとともに、分捕り物を分け合い、棕櫚の枝を振り、わたしが彼らのために行なったことを通して、圧倒的な勝利者となるのだ」。こうしたことを思うとき、《救い主》は甘やかな安らぎを感ずるのである。かつてはこの下界で辛苦されたが、今や天国で「その愛に安んずる」のである。

 III. 私の気づいたところ、ギル博士は、次のようなことをこの聖句の意味として示している。博士は常に1つの聖句の多種多様な意味を示すことで名が通っている。時として、そのうちのどれが正しい意味か誰にも分からないこともある。博士がある聖書箇所を解説しようとするときには、こう云う。「これは、これこれという意味ではない。これこれという意味でもないし、他のこの意味でもない」。おそらく誰ひとり、そうした種類のことを意味した者はいなかったであろう。博士は、それが意味していないいくつかのことに言及した後で、それが意味しているかもしれないいくつかのことに言及し、それから、最後の最後に、それが本当に意味していることを告げるのである。博士は本日の聖句がこう意味していると云う。「《主はその愛においてご自分を慰める》」。

 愛には非常に甘やかなものがある。愛されることと愛することどちらがより甘やかであるか、私には分からない。だが確かに、その2つの経験が相伴うとき、それは、よく肥えた豊穣な土地を流れる二本の大河が結び合い、大きな湖あるいは内海をなすようなものであろう。そのとき、それは本当に雄大な水の流れとなる。さて、キリストは私たちの愛をご覧になる。主が私たちの中に入れてくださった愛は、主が私たちに対して注ぎ出された愛と相会う。そして、その双方において、主は甘やかな慰安を見いだすのである。主は愛においてご自分を慰められる。これこそ、主を元気づけ、心慰めるものである。ある人々は、地上で元気づかされたいときには自分の血を沸き立たせる葡萄酒を飲む。ある人々は、仲間づきあいの中に慰めを見いだす。騒々しく、考えなしに喋りまくる人間が彼らを喜ばせるのである。他の人々は、慰められたいときには書物に向かう。書物こそ彼らの喜びである。他の人々は、満ち足りたいときには自分の黄金をチリンと鳴らし、自分の抵当権証書や、自分の地所や、自分の公債証書や、そういった類のものを眺める。だが、ある人々がこの世で何にもまして甘やかな慰安と思うのは、自分たちに近しく、愛しい者たちの愛である。自分の家庭と家族を愛する人、また、わが家の炉辺に地上の小天国を見いだしている人は、私の知る限り最も幸福な人々のひとりである。その考えをしばし心に留めておき、ご自分の家族に喜びを覚えられるキリストのことを考えてみるがいい。

 私は一度もキリストがご自分の権力に安んじられたと聞いたことはない。主には大きな権威がある。主が何をなさっているか見るがいい。主は諸天を築き上げられた。地を敷きつめ、雲をその大能によって支えておられる。だが、主は決してそうしたことに安んじてはおられない。また、やはり私の知るところ、主には大きな知恵がある。主は過ぎ去った代々と、現在の時と、来たるべき諸世紀のあらゆる事がらをご存知である。数々の神秘を解きほぐし、一切のことを予見することがおできになる。だが、私は一度として主がご自分の知恵に安んじられたと聞いたことはない。御使いである霊たちの大群が、天界の主の宮廷には常に伺候していて、主は《王》として彼らの中心そのものに座しており、主の御前には主権や力たちがその冠を投げ出している。だが、私は一度として主が彼らの臣従の礼に安んじられたと聞いたことはない。しかり。私たちの主イエス・キリストは、ご自分の家族を愛する人に似て、ご自分の愛する者たちの真中で安んじられるのである。――ご自分の花嫁の胸のうちに、また、ご自分がその子どもたちの泣き声を耳にできる場所に、また、彼らの祈りを聞ける場所に、また、彼らの感謝を受け取り、ご自分の主権をお授けになる扉に、また、彼らが主に仕え、主が彼らの世話をし、彼らが主と交わりを持ち、主が彼らと交わりを有する家庭、――それこそ、主が安んじられる場所である。主はその愛において、その愛の対象である者たちのただ中において安んじられる。そここそ、主がご自分の永遠の満足と、ご自分の心の慰安を見いだされるところである。

 これは甘やかな思想ではないだろうか? それを、ためつすがめつ考え巡らしていた間、それは私の魂を陶然とさせた。そもそもイエス・キリストが、このあわれな人の子らの間に、その安らぎを見いだされるというのである。遠い昔、主は「人の子らを喜んだ」、と云われている[箴8:31]。そして今も、それは主の安らぎである。おゝ、私たちにとってこう知ることは、何と快いことであろう。私たちの主は、その愛する者の家でしか眠ることがなく、ご自分の右の御手で植えた木々の下でしか横になることはないのである! 私にとって、キリストについて、「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです」[雅2:3]、と云うのは非常にたやすいことである。だが、驚くべきなのは、主が同じことを私について仰せになるということである。私は主についてこう云うことができる。「私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです」[雅2:3]。だが、素晴らしいのは、主が同じことを私について仰せになるか、どこかのあわれな聖徒に向かって、こう云われることである。「おゝ、魂よ! あなたは疲れ切っているが、あなたはわたしの安らぎであり、わたしはあなたの安らぎである。あなたは病んでいるが、あなたはわたしの健康であり、わたしはあなたの健康である。あなたは悲しんでいるが、あなたはわたしの喜びであり、わたしはあなたの喜びである。あなたは貧しいが、あなたはわたしの富であり、わたしはあなたの富である。あなたは無であるが、それでもあなたはわたしの豊かさであり、わたしはあなたの豊かさなのである!」 おゝ、何とおびただしい数の尊い思想をここで私たちは黙想できるであろう! 私たちは、一団の甘やかな思想の端緒を眺めてきた。立ち止まってそれらを称賛するだけでも益を受けることができよう。それは単に1つの甘やかな思想というだけでなく、むしろ、この1つの尊い真理、「主はその愛に安んずる」、に含まれた幾多の思想にほかならない。主は、ご自分の愛がことごとく私たちに与えられるのを見いだすまでは決して安んずることはなかったし、私たちの愛がすべて主にささげられるようになるまでは、決して完全に安んずることがないであろう。

 IV. このヘブル語は、もう1つ別の考えを私たちに伝えている。欄外に記されている通り、「《主はその愛において沈黙するであろう》」。

 これはなぜだろうか? 沈黙に、愛と何の関係がありえようか? ひとりの老神学者の考えるところ、キリストは、この表現によって、こう云おうとしておられるのである。すなわち、主の愛はあまりにも広大であるため、主の無言に耳をすませる方が、主が云い表わそうとなさったことに聞くよりもまさっているのだ、と。キリストは、聖書の中でご自分の愛について何と多くのことを語られたことか。だがしかし、聞くがいい。おゝ、キリストの花嫁よ。主が語られなかった愛は、主が今まで仰せになったいかなることよりも十倍も大きいのである! おゝ、しかり。主があの宝物庫から引き出して、あなたにお与えになったのは大きな愛である。だが、主は、その神聖な御心のうちに、それと似たようなものをより大きく有しておられる。主の愛の何滴かをあなたはすでに受けている。だが、あの高みの輝かしい雲、主の恵みの数々の蔵の中には、あなたがまだ決して夢にも思ったことがないほどの宝が所蔵されているのである。あなたは、約束の1つを読むと、「あゝ、これは実に尊い!」、と云う。だが、思い起こすがいい。私たちの主がそのみことばにおいて啓示されたものは、主がお語りになっていないものの十分の一にもならないのである。主は多くの滋味豊かな事がらを語られたが、それよりもなお豊かな事がらがあるのである。主はそれらを語ったことがなく、語ることもおできにならない。なぜなら、それらは口にすることができず、言葉に尽くすことができず、宣言できないものだからである。少なくとも現在はそうである。あなたが天国に着くとき、あなたはそれを耳にするであろう。だが下界でそれを聞くことはできない。

 あなたも知る通り、使徒パウロは第三の天まで引き上げられたとき、人間には語ることを許されていない言葉を聞いたという[IIコリ12:4]。ことによると、彼はそのとき、《救い主》の愛についてより多くを聞いたのかもしれない。あたかもキリストが彼にこう云われたかのように。「わたしはこのことをあなたに告げるが、あなたはそれを他の誰にも告げてはならない。それは下界で語ることが許されていないのだ。わたしはあなたを大いなる器としたし、あなたはこの啓示を容れることができる。だが、他の者たちについては、彼らは小さな器でしかない。彼らにはこれ以上何も告げてはならない。それは彼らを破裂させてしまうであろう。彼らをあまりにも大きな愛の熱にさらしてはならない。それは彼らを焼き尽くすであろう。――彼らはもしこれ以上を知ったなら死んでしまうであろう。――彼らはこれ以上理解できない。わたしは彼らに、わたしの愛の大きな部分を告げたし、もし彼らがわたしの告げたすべてを理解しさえするなら、彼らは地上で生きていることができなくなり、喜びのあまり彼らの心は張り裂けてしまうであろう。そして、天上にいる私のもとに逃れて来ざるをえなくなるであろう。それゆえ、わたしは彼らにこれ以上何も告げないのだ。彼らがそれに耐えられないからだ」。それで、見ての通り、この、「主はその愛において沈黙するであろう」、という訳には、非常に尊いものがあるのである。あたかも、主にそれを云うことはできず、それゆえ、それを云おうともなさらず、ただそれをそのままにしておきたいと思っておられるかのように。ひとりの詩人は、その力を尽くして神をほめたたえた後で、自分がそれ以上先へ行けないことに気づき、このようにしめくくっている。――「さあ、来よ。表現豊かな沈黙よ、主の賛美を告げよ」。それこそまさに、この聖句の意味である。あたかもキリストがこう云われたかのようである。「わたしは多くを語ってきたが、わたしの民は理解できない。わたしはもう何も云うまい。わたしは今、ただこう云おう。『さあ、来よ。表現豊かな沈黙よ、わが愛を告げよ』、と」。

 しかしながら、ことによると、さらにずっと正確な1つの意味がある。「主はその愛において沈黙するであろう」は、主がご自分の民の過ちについて沈黙なさることを意味しているであろう。この聖句の前後関係からすると、それはこういう意味に思われる。「主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない」[ゼパ3:15]。これはあたかも、主が彼らのもろもろの罪について沈黙すると云おうとされたかのように思われる。天にはきょうキリストが立っておられ、ご自分の民のために嘆願しておられる。聞くがいい! 主は彼らを責めることは何も仰せになっていない。サタンは責めるであろうが、キリストは決してそうされない。主の民が行なう善は拡大され、増幅され、完璧にされ、御座の前に提示されるが、御民のもろもろの罪については、主はそれらをご自分の背後に投げやり、主がこうした罪についてお語りになることは、次のようなことにとどまるであろう。「わたしはヤコブの中に罪を見いださず、イスラエルの中に不義を見ない。わたしの怒りは彼らを離れ去った。わたしは、彼らの不義をかすみのように、彼らの罪を雲のようにぬぐい去った」*[民23:21; ホセ14:4; イザ44:22]。時として、愛は人を沈黙させる。もしあなたがあなたの愛する人に不利なことを何か耳にしたとして、「それは本当ですか?」、と尋ねられたとしたら、あなたは云うであろう。「よろしい。私は自分の愛する者に反する証言をするようしいられてはいないでしょうし、しいられるつもりもありませんよ」。知っての通り、わが国の法は、夫に不利な証拠を示すよう妻に要求してはいないし、確かに主イエス・キリストは決してご自分の花嫁に不利な証拠を全く示すことがないであろう。「主はその愛において沈黙するであろう」。もし主が、「あなたの花嫁は罪を犯しましたか?」、に対して何か云うよう求められたとしたら、こう宣言されるであろう。「わたしは、彼女のための《罪過のいけにえ》である。わたしは彼女の《身代わり》である。わたしは彼女に代わって罰を受けた。わたしはこう云うことができる。『わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない』[雅4:7]」。主からは、いかなる告発のことばも発されないであろう。彼女は自分について、「私はことごとく黒い」、と云う。主はそれを否定されないが、それを確言もなさらない。主は、「あなたには何の汚れもない」、と云われる。そして、ご自分の目には彼女のすべてが美しいと仰せになる。おゝ、栄光に富む沈黙よ! 「主はその愛において沈黙するであろう」。そう私は信じたい気がする。最後の大いなる日に、数々の書物が開かれるときも、そうなるであろう。キリストは、そこに記録された、悪人たちのもろもろの罪を彼らに向かって読み上げられるであろう。だが、ご自分の民の罪については、「主はその愛において沈黙するであろう」。私は時として、そうなるだろうと考える。権威をもってそう語ることはできないが。「否」、と主は仰せになるであろう。「お前の上には呪いがかかっている。――お前たち、罪と汚れをきよめるために開かれた泉[ゼカ13:1]の中で、私の血によって洗うことなく生き、そして死んでいった者たち。だが、これらのわたしの民については、彼らはその罪を拭い去られているのだ、そして、わたしは抹消された事がらを読むことはすまい。わたしは、わたしの愛において沈黙するであろう」、と。

 

その愛に安んずる救い主[了]

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