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サタンの策略に対する解毒剤

NO. 2707

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1900年12月30日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1858年冬、木曜夜の説教


「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」。――創3:1


 もちろん私たちは、この節によって言及されているのが、「悪魔とか、サタンとか呼ばれる、あの古い蛇」*[黙12:9]であると理解している。サマリヤ五書には、「蛇」の代わりに、「欺く者」、あるいは「偽り者」と記されている。たといこれが純粋な読み方でないとしても、それにもかかわらず、それは確かに1つの真理を宣言している。この古い欺く者、すなわち、私たちの主イエス・キリストがユダヤ人に向かって、「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」[ヨハ8:44]、と仰せになった者は、「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで…… 一番狡猾であった」。神は、多くの獣に狡猾さをお与えになった。――あるものには、狡猾さとずる賢さに力を組み合わされた。――それは彼らが、ある特定の種別の動物たちに対して、より危害を加えやすくするためであった。そうした動物たちの数は、低く抑えておく必要があったからである。また、他の、あまり力に富んでいないものたちには、最も驚嘆に値する賢い本能を与えて、自分を守らせ、そのえじきを殺させては、その食物を獲得するようにしてくださった。だが、いかに賢い本能をも、また、いかなる野の獣の狡猾さをも、はるかに凌駕していたのはサタンのずる賢さである。事実、さらに云えば、人はただの被造物よりもはるかにずる賢かったかもしれないが――動物本能の方が、時として人間理性よりもずっとうまく事を処しているように見えることもありはしても――、サタンは、神がお造りになった他のいかなる被造物よりも、人を含めて、ずっとずる賢いのである。

 サタンには山ほど悪知恵があり、私たちを打ち負かすことができる。それにはいくつか 理由があるが、この理由をあげるだけで十分であろう。サタンが巧妙なのは、彼に悪意があるからである。というのも、悪意こそは、あらゆるものの中で最も多くずる賢さを生み出すからである。人が復讐しようと決心するとき、いかにずる賢く自分の恨みを晴らす機会を見いだすかは不思議なほどである。ある人が誰かに敵意をいだいており、その敵意が魂を徹底的に占領しており、いわば、その人の生き血に毒液を注ぎ込んでいるという場合、その人は自分の敵を悩ませ、傷つけるために用いる手段において、ことのほか悪辣になるであろう。さて、サタンほど人への悪意に満ちた者はおらず、それを彼は日々証明している。そして、その悪意が彼の本来有する知恵を研ぎすましているがために、彼はこの上もなく狡猾なものとなるのである。

 それに加えてサタンは、堕落したとはいえ、御使いのひとりである。疑いもなく、聖書中のいくつかの暗示によると、堕落する前の彼は、御使いたちの階梯において非常に高い地位を占めていた。そして、私たちも知る通り、こうした強大な存在には、広大な知力が授けられている。それは、人間という鋳型にはまった、いかなる者に与えられたものよりも、はるかにすぐれた知力である。それゆえ私たちは、人が上からの援助もなしに、御使いと互角に戦えるなどと期待してはならない。特に、その生来の知性が、私たちに対するこの上もなく執念深い悪意によって研ぎすまされている場合にはなおさらである。

 さらに、サタンが今ずる賢いのも当然である。――私は真実に云えるが、彼はアダムの時代よりもずっとずる賢くなっている。――というのも、彼は人類を長いこと相手にしてきたからである。エバを誘惑したこのときは、彼が人間を最初に相手にしたときであった。だが、彼はそのときでさえ、「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」。そのとき以来の彼は、その魔性の思念と強大な諸力のすべてを用いて人々を悩ませ、滅ぼそうとしてきた。聖徒という聖徒につきまとい、罪人という罪人を誤り導いてきた。その悪霊の一軍とともに、彼は絶えず人々の子らをすさまじく支配してきた。それゆえ彼は、誘惑のあらゆる手練手管に習熟しているのである。いかなる解剖学者といえども、サタンが人間の魂について理解しているほど人体をよく理解してはいない。彼は「すべての点で試みに会ってきた」*[ヘブ4:15]わけではないが、自分以外の人々をすべての点で試みに会わせてきた。彼は私たちの人間性を頭の天辺から足の裏に至るまで襲撃しようとしてきた。彼は、私たちの性質のあらゆる外堡を探査してきたし、私たちの魂の最も奥深い洞穴でさえ例外ではなかった。彼は、私たちの心の要塞に上ったことも、そこで暮らしたこともある。その内奥の片隅を探り、その底なしの深みに潜ってきたことがある。人間性の中で、サタンに解明できないものは何1つないと思う。疑いもなく彼は、いまだかつて存在したものの中で最大の愚か者であるに違いなく、それは時間が絶えず証明しているが、それでも、全く疑念の余地なく、彼は愚か者どもの中で最もずる賢い者なのである。そして、私はこう付け加えるが、それは決して大きな逆説ではない。というのも、ずる賢さとは常に愚考であり、知恵からの逸脱の1つの形でしかないからである。

 そして今、兄弟たち。私はしばしの間、第一にあなたの時間をサタンのずる賢さと狡猾さ、また、彼が私たちの魂を攻撃する種々の様式に注目することに費やしたいと思う。そして第二に、私たちが彼に対して行使しなくてはならない知恵について、いくつか勧告の言葉をあなたに示したい。そうした知恵を用いる以外に、私たちは、彼の狡猾さによって破滅させられるのを効果的に防ぐ手立てがないのである。

 I. 第一のこととして、私たちが注意したいのは、私たち自身の経験において発見してきた、《サタンの悪知恵と狡猾さ》である。

 そして私は手始めにこう述べることができよう。サタンがその悪知恵と狡猾さを明らかにするのは、自分の攻撃の種々の様式によってである、と。そこにいるひとりの人は、平穏で、静穏で、安らいでいる。サタンはその人を不信仰や猜疑心で攻撃しはしない。それよりも、ずっと脆弱な所を攻撃する。自己愛や、自己信頼、世俗性、これらがその人に対してサタンが用いる武器となるであろう。そこに別の人がいる。非常な腰の低さと、覇気のないことでよく知られた人である。十中八九サタンは、その人を高慢で高ぶらせようと努力するようなことはしないであろう。だが、その人を吟味し、その弱点を発見した上で、その人に自分の召しを疑うように誘惑し、その人を絶望へと追いやろうとするであろう。そこに別の人がいる。強壮で、たくましい肉体的力を有し、その精神的諸力のすべてを完全かつ活発に行使し、種々の約束を喜びとし、神の道を楽しんでいる。おそらくサタンは、彼を不信仰で攻撃しはしないであろう。その人が、その特定の点を固める防具を身に着けていると感じるからである。むしろ彼は、その人を高慢で、あるいは、何らかの情欲への誘惑で攻撃するであろう。そして、もしも私たちが、アキレスのように、かかと以外のいかなる点にも脆い部分がないのを見いだすとしたら、彼はその矢という矢を私たちのかかとめがけて射ることであろう。

 私の信ずるところ、サタンはめったに、ある人の強さがあると見てとる所では、その人を攻撃してこなかった。むしろ彼は、普通は弱点を、また、からみついている罪をじっくりと探す。「あそこだ」、と彼は云う。「あそこに一撃お見舞いしてやろう」。願わくは神が、戦いの時、また争闘の折に私たちを助けてくださるように! 私たちは、「神よ、私たちを助け給え!」、と云う必要がある。というのも、実際、主が私たちを助けてくださらない限り、この悪知恵に富んだ敵は、手もなく私たちの武具の継ぎ目を見つけだし、たちまち致命的な矢を私の魂めがけて送り出すであろうからである。そのようにして私たちは、彼の前に傷つき倒れることになるであろう。だがしかし、私が気づいてきたところ、実に不思議なことにサタンは時として、人々を、普通に考えれば決してやって来そうもないことで誘惑することがあるのである。臨終の床の上にあったジョン・ノックスを最後に誘惑したのは何だったとあなたは想像するだろうか? ことによると、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」[エペ2:6]、という教理をいかなる人にもまして完全に理解していたのは、ジョン・ノックスだったかもしれない。彼はそれを講壇から獅子吼した。また、もしあなたが彼にこの主題について質問したとしたら、彼はそれをあなたに向かって大胆に、また勇敢に宣言していたことであろう。人間の功績による救いというカトリックの教理を、力の限り否定していたことであろう。しかし、あなたに信じられるだろうか。かの魂の古い敵は、まさに死なんとして横たわっているジョン・ノックスを、自分を義とする思いで攻撃したのである。彼はノックスのもとにやって来ては云った。「ジョンよ、お前は何と勇敢にお前の《主人》に仕えてきたのだろう! お前は決して人の顔色を見ておじけづいたことがなかった。お前は、国王や君主たちにも立ち向かってきたが、決して震えることがなかった。お前のような者なら、自分自身の足がかりによって天国に歩き入ることができ、自分自身の衣を《いと高き方》の婚宴で着ることができるだろうよ」。そしてジョン・ノックスは、この魂の敵を相手に、この誘惑を巡って、激越で、恐ろしい葛藤を繰り広げなくてはならなかった。

 私は、自分自身の経験からも似たような例を示すことができる。私は自分の内側でこう思っていた。この世のありとあらゆるものの中で、思い煩いほど私に無縁なものはない、と。私は、一瞬たりとも決して現世的な物事を心配して思い悩んだことはなかった。私は常に自分が必要としていたものをすべて得てきた。それで私は、こうした問題に関する懸念からは手の届かないところに移されているかのようであった。だがしかし、語るも不思議なことながら、ほんの少し前に、この上もなく物凄い誘惑が私に襲いかかり、世俗的な思い煩いや懸念の中へと私を投げ込んだのである。そして私は、苦悶の中で横たわり、呻き、力の限りを尽くしてその誘惑と戦ったが、神の摂理について猜疑するというこの思いに打ち勝つまでには長いことかかった。それも、私は告白せざるをえないが、私に見通せる限り、そのような思いが私の胸に浮かび上がる理由などこれっぽっちもない時にそうなったのである。そうした理由から、また、さらに多くのことから、私は日ごとに悪魔をいやまさって憎むものであり、私は誓ったのである。もしそれが可能であるとしたら、神のことばを宣べ伝えることによって、彼の王国の支柱そのものを揺さぶってやることにしよう、と。そして私が思うに、神のしもべたちはみな、この魂の大敵が絶えず私たちにしかける悪意に満ちた奇妙な攻撃のゆえに、彼に対する敵意が日々つのるのを感ずるであろう。

 ということは、サタンの攻撃の種々の様式は、もしあなたがすでに学んでいなければじきに学ぶであろうように、彼の巧妙さを表わしているのである。あゝ! 人の子らよ。彼は、あなたがあなたの兜をかぶっている間には、その燃える剣をあなたの心臓に突き刺そうとしている。あるいは、あなたがあなたの胸当てによく注意している間には、その戦斧を振り上げてあなたの脳天を叩き割ろうとしている。そして、あなたが兜と胸当ての双方に注意している間には、あなたの足を掬おうとしているのである。彼は常に、あなたが見つめていない部分をうかがっている。あなたがまどろんでいるときも、彼は常に油断を怠らない。それゆえ、自分に用心するがいい。「神のすべての武具を身に着けなさい」[エペ6:11]。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」[Iペテ5:8-9]。願わくは神があなたを助け、彼を圧倒させてくださるように!

 サタンがそのずる賢さを表わす第二のことは、彼がしばしば私たちに対して用いる種々の武器である。時として彼は、神の子どもがまだ肉的な状態にあった頃に耳にしていたかもしれない下劣な歌、あるいは、みだらな話を思い出させることによって攻撃することがあるであろう。だが、それよりはるかに頻繁に彼は、神の子らを聖書の聖句で攻撃するであろう。これは不思議なことだが、しばしばあることである。彼がその矢をキリスト者に射かけるとき、彼はそれに、神ご自身のみことばという矢羽根をつけるのである。かの詩人によると、それこそ、その悲嘆の痛烈きわまりない部分であったように思われる。すなわち、かの鷲は、矢が彼の心血を吸い上げていたときに見たのである。自分の胸に深々と突き刺さっている矢につけられていた羽根が、彼の胸部から抜き取られたものだったことを。そして、キリスト者もしばしばそれと似たような経験を味わうであろう。「あゝ!」、と彼は云うであろう。「ここには、私の尊ぶ《本》から取られた、私の愛する聖句がある。だが、その切っ先は私に向けられているのだ。神ご自身の武器庫から出た武器が、私の魂にとって死の手段とさせられているのだ」。あなたはそうしたことを見いだしたことはないだろうか? 愛するキリスト者の方々。あなたは実地に経験したことはないだろうか? サタンがキリストを、「と書いてあります」[マタ4:6]、で攻撃したように、あなたをも攻撃してきたではないだろうか? そしてあなたは、聖なる聖書のこじつけや、神のことばの曲解に対して警戒することを学ばされてはいないだろうか? さもないと、それらがあなたを破滅に導くからである。

 別の折にサタンは、私たち自身の経験という武器を用いるであろう。「あゝ!」、と悪魔は云うであろう。「これこれの日に、お前はこれこれのしかたで罪を犯した。どうしてお前が神の子どもでなどありえようか?」 別のときに彼は云うであろう。「お前は自分を義としている。それゆえ、天の相続人ではありえない」。それからまた彼は、私たちが長いこと忘れていた私たちの過去の不信仰や、私たちの過去のさまよいや、そういった類の昔の話をことごとくほじくり返し始めるであろう。そして、それらを面と向かって私たちに投げつけるであろう。彼は云うであろう。「何と! お前が、《お前が》、キリスト者だと? 何ともご立派なキリスト者ではないか!」 あるいは、もしかすると彼は、あなたをこのような種類のしかたで誘惑し始めるであろう。「先だってお前は仕事でこれこれのことをしようとはしなかったな。それによってどれだけ損をしたことか! 誰それはキリスト者だが、そうしていたぞ。路の向こう側にいるお前の隣人は、ある教会の執事ではないか。では、あいつはそれをしていなかっただろうか? なぜお前が同じことをしてはならないのか? もしお前がそうしようとするなら、お前はずっとうまくやって行けるだろうに。誰それはそうしているぞ。そして、うまくやっているぞ。そして、お前と同じくらい尊敬されているぞ。ならば、なぜお前が同じように行動してならないのだ?」 このようにして悪魔は、あなたをあなた自身の経験から取られた武器、あるいは、あなたの属している教会から取られた武器であなたを攻撃するであろう。あゝ! 気をつけるがいい。というのも、サタンは自分の武器の選び方を知っているからである。彼は、もしあなたが巨大な大男であるとしたら、表立って石投げ器と石とであなたに対抗しはしない。むしろ、完全武装してやって来てはあなたを切り倒そうとする。あなたが鎖かたびらで防御しており、剣を打ちつけてもあなたの防具で刃こぼれするであろうことを知っているとしたら、彼はあなたを猛毒で攻撃するであろう。また、あなたが手に解毒剤を持っているので、そうした手段ではあなたを滅ぼせないと分かっているとしたら、彼はあなたを罠にかけようとするであろう。また、あなたが用心深くて、そうした罠にひっかかることがないとしたら、彼は火のような苦難か、押しつぶすような災厄の雪崩をあなたに浴びせかけ、あなたを征服しようとするであろう。彼の戦いの種々の武器は、常に邪悪であり、しばしば霊的な、目に見えないものであって、私たちのような弱々しい生き物にとっては強大である。

 また、悪魔の悪知恵は、別のこと、すなわち、彼が用いる手下たちにおいてにおいても明かされる。悪魔は、その汚いわざのすべてを自ら行なってはいない。しばしば他の者らを使って、自分に代行させる。サムソンを打ち負かし、そのナジル人としての髪の房を剃り落とさなくてはならなかったとき、サタンはデリラによってすぐにサムソンを誘惑させ、道を踏み外させた。悪魔はサムソンの心の中に何があるか、どこに彼の弱点があるかを知っていた。それゆえ、彼の愛する女を手段として彼を誘惑したのである。ある古の神学者はこう云う。「多くの人は、自分の肋骨で頭を打ち砕かれるものだ」。そして、確かにそれは真実である。サタンは時として、ある人の妻をして、その人を滅びへと投げ落とさせてきた。あるいは、親友の誰かを媒介に用いて、破滅をもたらしてきた。あなたは、いかにダビデがこの悪について嘆き悲しんだか覚えているであろう。「まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに」[詩55:12-14]。「あゝ」、と悪魔は云う。「お前は、俺が敵を立ち上がらせてお前の悪口を云わせると思っていたのではないか? 何と、それはお前を傷つけまい。俺はそれほど馬鹿ではない。自分の手下の選び方は知っている。俺は友人か知人の誰かを選ぼう。そいつはお前に近づき、それからお前の衣のひだのかげでお前を突き刺すだろう」。ある教役者を悩ませたければ、サタンはひとりの執事を選んで彼を悩ませるであろう。サタンは、彼が他の教会員から攻撃されてもさほど気にしないであろうことを知っているからである。それで、執事の誰かを昂然とさせ、彼に向かって威張り散らさせ、彼が眠れない夜と不安に満ちた昼を過ごすようにさせる。もしサタンが悩ませたいのがひとりの執事であれば、彼は教会員の誰かを、あるいは、兄弟の執事を彼に逆らわせようとするであろう。そして、もし彼が他の誰をも気にしなければ、彼に最も近く、最も親しい友人がその卑劣な所業を行なうことになるであろう。

 悪魔は常に、魚が最も入り込みやすい網を手に持つか、鳥を最も捕まえやすい罠を広げようと待ちかまえている。私は、もしあなたが信仰告白者として年季を積んできているとしたら、あなたが酔いどれの男によって誘惑されるだろうとは思わない。否。悪魔はあなたを、勿体ぶった偽善者によつて誘惑するであろう。私は、あなたの敵がやって来て、あなたを攻撃し、中傷するだろうとは想像しない。それは、あなたの友であろう。サタンは、そのすべての手下をいかに用い、いかに偽装すべきかをわきまえている。「あゝ!」、と彼は云う。「羊のなりをした狼の方が、いかにも狼然とした狼よりも、俺の役に立つだろう。また、教会の中にいる者の方が、教会外の者よりも、俺のたくらみをうまく実行してくれるし、手っ取り早くそうするだろう」。サタンの手下の選び方は、彼の悪知恵と賢さを明かすものである。エバを誘惑する目的に蛇を選んだのは、ずる賢いことであった。まず間違いなくエバは、この蛇の見かけに魅了されたであろう。彼女はおそらくその光沢のある体色を賞賛したであろう。そして、私たちが信ずるように導かれるところ、その頃の蛇は、今よりもはるかにずっと見場が良い生き物であったろう。ことによると、その頃の蛇はそのとぐろの上に直立できたのかもしれない。そして彼女は、それをしごく喜び、嬉しがったのかもしれない。それは、彼女が一緒に遊んでいた馴染みの生き物だったのかもしれない。――悪魔が蛇の中に入る前は、きっとそうだったに違いないと私は思う。あなたも知る通り、悪魔はしばしば私たちひとりひとりの中に入るものである。私の知るところ、彼は私の中に何度となく入ったことがある。誰かに向かって辛辣な言葉を発させたいと彼が思ったときにはそうである。「あの男を傷つけたり、悲しませたりしたければ」、と悪魔は云う。「スポルジョン氏ほどうってつけの人間はいないさ。何と、彼は自分の魂のようにスポルジョンを愛しているからな。スポルジョンならば」、と悪魔は云う。「最も不人情なしかたで切りつけることができるだろう。では、奴にそうさせてやろう」。それから、ことによると私は、神の尊い子どもの誰かに不正なことがあると信じるよう誘導され、その後そのことについて語らされたかもしれない。そして私は後々、自分の心と舌を悪魔に貸すほど愚かであったことを思って悲しむのである。それゆえ私は、あなたがたひとりひとりに、また、特に私自身に、また、御民への多くの愛を授けられているあらゆる人々に警告することができる。自分が、神の民の心を嘆かせようとするサタンの器とならないように用心するがいい。サタンは、たとい私たちから何を加えられなくとも、うちひしがれるに足るだけの苦難を持っている人々を、うちひしがれさせようとしているのである。

 さらにまた、サタンがその狡賢さを示すのは、彼が私たちを攻撃する時期によってである。私は、病床に伏していたときに、こう思った。もし私がもう一度自分の床から出て、強くされることができさえしたら、悪魔を散々にぶちのめしてやるのに、と。それは、私が病んでいたときに彼が私に襲いかかったしかたのゆえであった。臆病者めが! なぜ彼は私が良くなるまで待っていなかったのか? しかし、私が常に見いだすところ、私の霊が沈むとき、また、私が心の低調な状態になるとき、サタンは、特にそうした時を選んで、私を不信仰で攻撃してくるのである。神の約束が私たちの記憶の中で清新なとき、また、私たちが甘やかに神の御前に自分の心を注ぎ出すことを楽しんでいるときに彼が私たちのもとにやって来るとしたら、彼は、私たちがいかに彼に対して戦うか、目にものを見させられるであろう。しかし、否。彼は、そのときには、私たちが彼に抵抗する力を持ち合わせていることを知っている。また、神を説き伏せている私たちには、悪魔をも屈伏させることができると知っている。それゆえ彼は、私たち自身と私たちの神との間に雲がかかっているときに私たちのもとにやって来る。体力が衰え、霊が弱っているとき、そのときこそ彼は私たちを誘惑し、私たちを神への不信へと導こうとするであろう。別の折に彼は、私たちを高慢へと誘惑するであろう。なぜ彼は私たちが病んでいるとき、私たちが霊において抑鬱されているとき、私たちを高慢に誘惑しないのだろうか? 「否」、と彼は云う。「そのときには、それをやりおおせることができないだろう」。彼は、ある人が健康なとき、種々の約束を完全に楽しんでいるとき、また、自分の神に喜んで仕えることができているときを選んで、そのときにその人を高慢へと誘惑するであろう。彼の攻撃がなされる時機、彼の襲撃の正しい順番こそ、サタンを、そうでない場合よりも十倍も恐ろしい敵とし、彼の悪知恵の深さを証明しているのである。まことに、かの古い蛇は、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、一番狡猾である。

 地獄の諸勢力については、もう1つ、私を驚かせてやまないことがある。キリストの《教会》は、常に内部が抗争している。だが、あなたは悪魔とその同類たちが相争っているなどと聞いたことがあるだろうか? かの堕落した霊たちは大群をなしているが、いかに彼ら全員が、驚嘆するほど一致していることか! 彼らは一致しているあまり、もし何か特別の瞬間に、この地獄の暗黒の大君主が、自分の軍隊の全集団を、ある特定の点に集合させたいと願うなら、それは、まさに時刻ぴったりになされ、彼が優勢になる見込みが最も高いと見てとるまさにその時に、その最大限の力を傾けて誘惑がやって来るほどなのである。あゝ、もし私たちが神の《教会》の中でそれほどの一致を有していたとしたら、もし私たちがみなキリストの指先1つに導かれて動いていたとしたら、もし全《教会》がこの時、例えば1つの大集団として行動し、何らかの悪を攻撃すべき時が来次第、攻撃することができたとしたら、いかにたやすく私たちは打ち勝つことであろう! しかし、悲しいかな! サタンは狡猾さで私たちをしのいでおり、地獄の諸勢力はその一致ぶりでは、はるかに私たちにまさっている。しかしながら、サタンの狡猾さの偉大な点、それは彼が常にその攻撃の時をこれほど賢く選ぶということである。

 だがしかし、もう1つだけ語って、この点をしめくくることにしよう。別の点におけるサタンの狡猾さは非常に大きい。それは、彼の引き際にある。私は、最初にキリスト教会に加わったとき、ひとりの老人から聞いたことが、全く理解できなかった。すなわち、誘惑されないでいることほど悪い誘惑はない、というのである。また、そのときの私は、ラザフォードがこう云ったとき意味していたことも理解していなかった。すなわち、吠え猛っている悪魔の方が、眠っている悪魔よりも自分はずっと好ましく思う、というのである。私も今はそれを理解している。そして、あなたがた、神の子どもである人たち、また、神の道を何年かは歩んできた人たちも、やはりこう理解しているであろう。

   「謀(あ)しき凪(なぎ)をぞ われ恐る
    頭上(うえ)を嵐の 猛(たけ)るより」。

このような心の状態があるのである。あなたは感じたいのに、感じることがない。疑うことでもできるとしたら、非常に大きなことをやり遂げたかのように思われる。しかり。そしてあなたは、たとい絶望の暗黒を知りえたとしても、今のままよりは、むしろそう感じたいと思うであろう。「さあ!」、とあなたは云うであろう。「私は自分の永遠の状態については何の疑いもいだいていない。なぜかしら私は、自分が天国の相続人であると云えるような気がするのだ。むろん、増上慢になるといけないので、はっきり確信をもって云うことはできない。だが私は、自分が天国の相続人であると云えると信頼している。だが、それは私に何の喜びももたらさない。私は神のわざに精を出すことができる。それを愛していると本当に感じる。だが私は、それが神のわざであると感じられない。私は一連の義務の中に入り込んでしまったように思える。そして、製粉所のめくら馬が、歩かななくてはならないからというだけの理由で歩き続けるように、私もずっとやり続け、やり続け、やり続けるだけなのだ。私は約束を読んでも、そこに特に何の甘やかさも見てとらない。事実、自分に何か約束が必要だとも思われない。そして、脅かしさえ私を恐れさせない。その中には、私にとって何の恐怖もない。私は神のことばを聞く。ことによると、教役者が云うことによって心をかき立てられるかもしれない。だが、私は彼の熱心さによってしかるべきほど感銘を受けたようには感じない。私は、自分が祈りなしでは生きられないだろうと感じる。だがしかし、私の魂には何の油注ぎもない。私は罪など犯すことはできない。私の人生は、よそ目には非の打ち所がないものだと思う。それでも、私は嘆き悲しまなくてはならない。無気力な心を、霊的な楽しみや、霊的な歌に対する感受性の欠けを、魂における死んだような凪を。あのコールリッジの『老水夫行』の中で云われていた、あのすさまじい大凪のようなものを。――

   「『深淵(ふかみ)も腐りぬ、
    あゝ、かくなりたるは!
    しかり、ぬめれる 物等は足掻(あが)けり、
    ぬめりたる海の上をば』」。

さて、愛する方々。あなたはあなた自身の心の状態について、今このとき、何か分かっているだろうか? 分かっているとしたら、それこそ、この、誘惑されていないのは誘惑されているよりも悪い、という謎に対する答えである。まことに、私自身の魂の過去の経験においても何度かあったことだが、そのとき私は、もし悪魔がやって来て、私をかき立ててくれたとしたら、悪魔に感謝せざるをえなかったであろう。私は神が彼を、その願いに反して用い、私に永続的な善を施し、私を争闘へと目覚めさせてくださったのだと感じていたことであろう。もし悪魔がかの《魅惑境》の中に入り込み、そこにいたあの巡礼たちを攻撃していたとしたら、彼らにとってそれは何と良いことであったろう! しかし、あなたも気づくように、ジョン・バニヤンは彼をそこに登場させなかった。というのも、そこで彼がなすべき務めはなかったからである。《屈辱の谷》には、サタンにうってつけの仕事が山ほどあった。だが、《魅惑境》において巡礼たちは、帆柱のてっぺんで寝ている人のように[箴23:34]全く眠り込んでいた。彼らは葡萄酒に酔っていたので、彼らに対しては何も行なうことができなかった。それゆえ悪魔は、自分がそこではお呼びでないことが分かったのである。彼はただ彼らを眠るにまかせておいた。泡ぶく夫人と眠気が彼の仕事をみな行なうであろう。しかし、《屈辱の谷》にこそ彼は行った。そして、そこで彼はあのあわれな基督者と仮借なき戦いを繰り広げた。兄弟たち。もしあなたがそこを眠気と、無関心と、まどろみをもって通り過ぎつつあるとしたら、あなたは時として道をあけておくことにおける悪魔の悪知恵を理解するであろう。

 II. さて今、第二のこととして、私たちはごく手短に、《この敵に対して何をすれば良いか》を問うてみよう。あなたや私は、自分が天の国に入らなくてはならず、立ち尽くしている限り、そこには入れないと感じている。滅亡の都は私たちの背後にある。そして《死》が私たちを追いかけて来ている。私たちは天国向けて前進しなくてはならない。だが、その途中に、この「食い尽くすべきものを捜し求めて、ほえたけるしし」*[Iペテ5:8]がいる。どうすれば良いだろうか? 彼には途方もない狡猾さがある。どうすれば私たちが彼に打ち勝てるだろうか? 私たちは彼のように狡猾になろうとするのが良いだろうか? あゝ! それは無駄な務めである。実際、それは罪深い務めとなるであろう。悪魔のように悪知恵のある者となろうとすることは、無駄骨折りであるばかりか、邪悪なことである。ならば、何をすれば良いだろうか? 知恵をもって彼を攻撃するのが良いだろうか? 悲しいかな! 私たちの知恵は愚かさでしかない。「無知な人間も賢くなり」[ヨブ11:12]はするが、その最上の状態にあってすら、彼は「野ろばの子」のようなものである。ならば、私たちは何をするのが良いだろうか?

 サタンの狡猾さを抑えることのできる唯一の道は、真の知恵を得ることによってである。もう一度繰り返すが、人は自分の内側にそのようなものを全く有していない。ならば、どうすべきか? ここに真の知恵がある。もしあなたがサタンと首尾良く格闘したければ、聖書をあなたの日ごとの頼りとするがいい。この聖なる弾薬庫の中から、絶えずあなたの武具とあなたの弾薬を引き出すがいい。神のことばの栄光に富む諸教理をつかむがいい。それをあなたの日々の食べ物飲み物とするがいい。そのようにしてあなたは悪魔に抵抗するだけ強くなり、彼があなたから逃げ去るほど喜ばしい者となるであろう。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか」。また、いかにすればキリスト者はこの敵に対して身を守ることができるだろうか? 「あなたのことばに従ってそれを守ることです」[詩119:9]。サタンとは常に、「と書いてある」[マタ4:4、7、10]、によって戦おうではないか。というのも、他のいかなる武器にもまして、この大敵に対して効き目があるのは聖書だからである。理性などという竹刀でサタンと戦おうとしてみるがいい。彼はたやすくあなたを打ち負かすであろう。だが、神のことばというこのエルサレム刀を用いるがいい。それによって彼は何度となく手傷を負ってきたし、あなたはたちまち彼に打ち勝つであろう。

 しかし、もし首尾良くサタンに抵抗したければ、何にもまして私たちは、単に啓示された知恵だけでなく、受肉した《知恵》に目を向けなくてはならない。おゝ、愛する方々。ここには、誘惑されたあらゆる魂が向かうべき主たる場所があるに違いない! 私たちは、主のもとに逃れ行かなくてはならない。この方こそ、「私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられ」たお方である[Iコリ1:30]。主が私たちを教えなくてはならない。私たちを導かなくてはならない。私たちの《すべてのすべて》とならなくてはならない。私たちは、主と親密な交わりを保たなくてはならない。羊がいかなるときにもまして狼から安全なのは羊飼いのそば近くにいる時である。私たちが、いかなる場合にもましてサタンの矢から安泰なのは、自分の頭を《救い主》の胸にもたせているときにほかならない。信仰者よ。主の模範に従って歩むがいい。日々、主との交わりのうちを歩むがいい。主の血に常に信頼するがいい。そして、このようなしかたであなたは、サタンそのひとの狡猾さや悪知恵に対しても、圧倒的な勝利者[ロマ8:37]となるであろう。このように知ることはキリスト者にとって喜びであるに違いない。すなわち、長い目で見たとき、サタンの悪知恵はことごとく失望させられることとなり、聖徒たちに対する彼の邪悪なたくらみは、みな何の甲斐もなかったこととなるのである。心から愛する方々。あなたがたは、あなたのあらゆる誘惑が終わり、あなたが天国に上陸する日を待ち望んでいるではないだろうか? そして、そのときあなたは、この悪鬼のかしらを聖なる笑いと嘲りをもって見下ろさないだろうか? 私が心から信ずるところ、聖徒たちは、サタンの攻撃について考えるとき、「ことばに尽くすことのできない喜びにおどる」*[Iペテ1:8]であろう。それに加えて、自分の魂の中で、地獄のあらゆる悪知恵に対して、それがいかにくじかれたかを見るとき、軽蔑を感じるであろう。悪魔はこの何千年もの間、何をしてきたのだろうか? 彼は、神とその《教会》との、意図せざるしもべではなかっただろうか? 彼は常に生きた木を滅ぼそうとしてきた。だが、彼がそれを根こそぎにしようとしていたとき、それは単に園丁が踏み鍬で土を掘り、地面を柔らかくしては、より根が張り巡らされるのを助けていたにすぎない。また、彼がその斧で主の木々の枝を切り落とし、その美しさを損なおうとしていたとき、彼は結局、神の御手の中にある剪定刀にすぎなかったではないだろうか? それによって、実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶものはもっと多く実を結ぶように刈り込まれるのである。あなたも知っての通り、昔々、キリストの《教会》は小さな小川のようであった。――ほんの小さな細流であった。――そして、それは小さな狭い谷間に沿って流れていた。ごく少数の聖徒たちがエルサレムに集まっているだけであった。そこで悪魔は自分に向かって云った。「さあ、1つ大きな石をつかんでこの小川が流れないようにしてやろう」。それで彼は、行ってこの巨石をつかむと、それをその小川の真中に叩きつけた。もちろん、それをもはや流れないようにしようと考えてのことである。あなたはその石が何であったか知っているであろう。迫害である。そして、聖徒たちはそれによって散らされた。だが、そのとき、「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」[使8:4]。そして、《教会》は増え広がり、悪魔は敗北させられた。サタンよ。私はお前に面と向かって云おう。お前は、この世で息をしたことのある中でも最大の愚か者である。そして私は、それをお前に向かって証明するであろう。お前と私が敵同士として対峙するときに。――この日に私たちがそうであるように、不倶戴天の敵として――神の大法廷で対峙するときに、そうするであろう。そして、キリスト者よ。あなたは、彼があなたを攻撃するときには常にそれと同じことを彼に向かって云えるであろう。彼に耳を傾けてはならない。むしろ、堅く信仰に立って、彼に立ち向かうがいい[Iペテ5:9]。そうすれば、あなたは打ち勝つであろう。

 

サタンの策略に対する解毒剤[了]

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