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欺かれた心

NO. 2686

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1900年8月5日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1858年夏、木曜夜の説教


「灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない」。――イザ44:20


 疑いもなく、この預言者がここで主として言及しているのは、異教徒のことである。木や石の塊を拝むという、彼らのはなはだしく愚劣な事実を説明するため彼は、彼らの欺かれた心が彼らを欺いているのだと主張している。だからこそ彼らは、決して真理を知ろうとすることも、自分たちの偶像が迷妄や罠ではないのかと問うこともないのである。現実に、ほとんどの偶像礼拝者は決して、「私の右の手には偽りがないのだろうか」、と云ったことがない。しかしながら、私は今回、本日の聖句の直接的な文脈とはほとんど関係していないことをしようと思う。私は単に、ここからいくつかの教訓を引き出すにとどめたい。一部の人々にとっては、神が――ほむべき御霊が――その真理を心に適用してくださるとしたら、有益なものとなるであろう教訓である。

 この世に真実の宗教はたった1つしかなく、その宗教を受け入れる方法もただ1つしかない。世には数多くの偽りの宗教があり、真実の宗教と公言する数多くの誤った道がある。一千もの通り道が地獄に通じているが、天国に通じている道はたった1つしかない。滅びに至る多くの広い道には、無数の曲がりくねった横町の余地があるが、天国に至る道は狭く、細く、そこにはいかなる分かれ道の余地もない。私たちは同じ宗教を、同じしかたで持たなくてはならない。さもなければ、期待された目的地に達することはないのである。口先では、いくらそこを目指して進んでいると告白していようと関係ない。

 さて、多くの人々は、自分の宗教において欺かれている。間違った宗教を告白しているか、正しい宗教を間違ったしかたで信奉しているのである。これが私たちの第一の点となる。すなわち、多くの人々はその宗教において完全に欺かれている。第二に注意したいのは、彼らの宗教は、彼にとって満足の行かないものである、ということである。これは全く確実なことと思ってかまわないが、不健全で不真実な宗教は、いかなるものであれ、良心にとって満足の行くものではない。その人は「灰にあこがれる」のである。しかし、それから次のこととして注意しなくてはならないのは、たといそうではあっても、それでも、多くの人々は、自分の偽りの宗教に完璧に満ち足りているように見える、ということである。私たちからすると、明らかに彼らは満足しておらず、灰にあこがれているにもかかわらず、彼らは自分の状態に満足していると云う。その理由は、本日の聖句に云うように、その「心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない」からである。こうした個々の点を大まかに眺めてから、私は、それとは別の種別の欺かれた人々を代表する人々に対して話しかけようと思う。そして、聖霊なる神が私に与えてくださるあらゆる御力をもって、そうした人々を目覚めさせ、覚醒させたいと思う。彼らがその惑わす力の中で滅びることになるといけないからである。

 I. それでは第一のこととして、《多くの人々はその宗教において完全に欺かれている》

 私は、おのれの手で造った像を拝んでいる偶像礼拝者については、ほとんど言及する必要がないであろう。その人がいかに真摯であれ、その礼拝においていかに敬虔であれ、その種々の儀式の遵守においていかに几帳面であれ、彼が欺かれた人であることは完璧に確かである。そして私たちは、そうした礼拝がいかに愚劣な形式をしているかを実地に見いだすとき、いやしくも、そうした宗教もどきに欺かれ続けるほど分別や知恵に欠けている人がいるということに驚かされるのである。

 ちなみに、ここでほんの一言、ローマカトリック教徒に言及しておかなくてはならない。カトリック教徒もまた、にせの宗教をいだいている。私たちには完全に明白なことだが、カトリック教徒は欺かれており、いくらその善行や秘跡によって天国に達そうとしても、それを律法の行ないによって追い求め、信仰の義によって追い求めることをしないとしたら、決してそこに達することができない。知っての通り、天から分け与えられた信仰によって、私たちの主イエス・キリストの血と功績により頼むのでない限り、誰も天国に入ることは許されない。ローマカトリック教徒がいかに熱心で敬神の念に富んでいようと、いかに一心不乱に努力しようと、また、自らの確信することを余す所なく成し遂げようと、私たちは疑念の余地なくこう確信するものである。その人は欺かれた人であり、その人の宗教は完全に無価値である、と。

 その一方で、それとは別の種別の人々が、私たちのただ中で暮らしている。彼らは何の宗教も全くいだいていないようなふりをしているが、実は、彼らなりの迷信を有している。――私の意味しているのは、普通、自分を自由思想家であると分類し、聖書を信じようとしない人々である。彼らは、真理の道を歩くのは隷従するようなものだといって、自分の祖母たちが歩んだ狭い道を歩むことができない。自分のことを大胆かつ勇敢な者らと考えては、正義の枷を粉砕し、悪を行なうことに鼻高々としている。そこには自由があるからというのである。彼らの考えによると、人は、自分の同胞たちから尊ばれ真実なこととされている一切のことを軽蔑できるとき、非常に貴い、大いなる偉業を成し遂げるのである。そして事実、彼らの最大の大望の1つは、その図上せた厚かましさを極端に押し進め、古式ゆかしさと真実さの刻印を帯びたあらゆるものを笑い飛ばせるようになること、また、自分たち自身の突飛な考えを彼らにできる限り、いかなる羈絆も轡もなく、また、いかなる道しるべも手綱もなしに疾走させられるようになることなのである。さて、こうした人々は、いかに自分の種々の確信に対して忠実であろうと、私たちの知るところ、その宗教において欺かれている。――というのも、結局において、それは1つの宗教、軽々しくものを信ずる宗教だからである。――何物も信じないと告白する人々ほど、軽々しくものを信じている人はいない。迷信を忌み嫌うと公言している人々ほど、何らかの迷妄を頭から吸収しようとしている人はいない。どこを捜しても、自分が邪道に導かれることなどありえないと云う人ほど邪道に導かれがちな人はいない。私たちの主の数々の奇蹟を、また、神のことばに記されているすべてを軽蔑する人は、生ある者の中で最も騙されやすい者である。そして、私たちの知るところ、その人は、いかに得意満面にしていようと、欺かれた人であり、灰にあこがれているのである。

 しかし、悲しいかな! より身近なこととして、私たちの中には、それと同じくらい自分の宗教において欺かれている、別の種別の人々がいる。にせの信仰告白者である。彼らは、ある意味では真の宗教を有しているが、それを正しいしかたでいだいてはいない。私たちの中にいるある人々は、その教理は正統的で、その神学的見解は健全である。たといウェストミンスター神学者会議の前で試験されたとしても、立派に合格してのけるであろう。私たちの《教理問答》や《信条》で教えられているのと同じ真理をいだいており、私たちの教理の微細な専門的事項から髪の毛一筋もそれてはいない。だが、悲しいかな! 彼らはそれを間違ったしかたでいだいている。神の真理を放縦のうちにいだくか、偽善のうちにいだいている。私たちの中のある者らは、見事な信仰告白をしているが、結局、そこには全く心がこもっていない。神の事がらについては何の関係もないし、それにあずかることもできない[使8:21]。私たちの中のある者らは、バプテスマ槽でバプテスマを受けてはいても、聖霊によって一度もバプテスマを受けたことがない。ある者らは聖餐台に着き、パンを食べ葡萄酒を飲みはするが、決して主イエス・キリストとの真の交わりを有したことがない。いかに純粋な教会にも、非常に巧緻かつ精妙なしかたで、教役者や執事や兄弟たちの過ちがちな識別力を欺いてきた人々がいるものである。私たちは、それが事実であることを否定しようなどとはしない。教会を徹底的に純粋なものに保つことなど私たちには不可能である。私たちが日夜その門の前に立とうが、不寝番をしようが、敵たちは潜入してくるものである。いかに私たちが細心の注意を払っていようが、敵はもぐりこみ、麦の中に毒麦を蒔いて行くものである[マタ13:25]。疑いもなく、多くの教会の中には、私たちが考えたいと思うよりもはるかに大きな割合で、欺かれた人々がいるに違いない。残念ながら、私たちが思いやりをもって宣言したいと思う以上に多くの人々が、ユダと同じ運命にあずかることになるのではないかと思う。悲しいかな! 偽善は、ことのほか冷たい、あるいは、なまぬるい《教会》の中ではおびただしくはびこっているに違いない。もしも私たちのただ中に、神に対して真実ではない者たちが、多くいすぎるのでもなければ、この世が《教会》の会員たちを指さして、このようなことは云えないに違いない。「こんな奴らが神の子らで、こんな奴らがキリスト者だというなら、信仰告白なんか全然しない方がましだよな。あんな生き方をするくらいならさ」。ある人々は、教会の中では立派な大立者と見上げられてきたが、地獄そのものと同じくらいどす黒い者であることがあばかれてきた。それで私たちはこう考えざるをえないのである。そこここにはまだ偽善者たちがいて、かの大いなる日はそれを明らかにするが、現在のところ私たちには知られていないのだ、と。ことによると、わが国の津々浦々の諸教会の中に見いだされる何千人、あるいは何万人さえもの人々は、希望をいだくべき堅固な根拠を全く有していないのかもしれない。彼らは、自分は義人だと自負しているが、自分自身をも他の人々をも欺いているのである。そして彼らの正体は、恐ろしいしかたであばかれることになるであろう。そのとき主は、彼らからその仮面と仮装をはぎ取り、彼らを丸裸にして永遠に晒し者とするのである。

 II. 私が第二に指摘したいのは、こういうことである。《確かに多くの人々はこのように宗教において欺かれているが、彼らの中のいかなる者も、心の底から本当に自分の宗教に満足していると考えるべきではない》。彼らは自分に満足しているように見受けられるが、私たちの知るところ、その霊の内奥では満足していない。

 本日の聖句は偶像礼拝者のことを、「灰にあこがれる者」と云う。あなたはある人が、自分の偶像神の前で膝まずいているのが見える。彼はすでに祭司にいけにえを渡しており、拝跪して自分の祈りの決まり文句を唱える。彼が立ち上がるとき、あなたは云うであろう。「何と澄みきった良心を彼は有していることか! あれだけ礼拝すれば十分だろう。彼は自分の寝床に赴き、今晩は平安のうちに休むことができるだろう。彼は自分の神に自分の祈りを唱えたのだし、受け入れられるべき厳粛な祝詞を繰り返し唱えたのだ。では確かに、彼の宗教のあらゆる形式と儀式によって、彼は平穏な良心を持つことだろう」。しかし、私たちは物事の表面しか見ていないことが非常に多く、事の真相は実は非常に異なっているのである。そして私の信ずるところ、天の下にいる偶像礼拝者のうちひとりとして、自分の宗教が不満足なものであることを見いだしていない者はいない。私は、人間性が堕落しているものであることは重々承知している。理性が暗くなり、盲目になっていることは分かっている。だが、偶像礼拝者の理性が、一筋の光も射し込まないほど暗黒になっているとは思わない。それゆえ、私はこう信ずるものである。時として、このあわれな男も、自分が拝んでいる木や石の塊よりも高く、すぐれた神がいるに違いないと悟ることがあるであろう。私は、私自身の心が《救い主》なしでは落ち着くことができなかった以上、他の人の心が落ち着けるとは思えない。私が思うに、異教徒の精神にもある程度までは光が残されており、それによって彼は、自分の宗教に徹底的に満足したり、満たされたりすることはできないのである。しかり。本日の聖句が云うように、確かに彼は、「灰にあこがれ」ているのである。彼は自分の宗教が、灰の山の上にあるちりあくたにすぎないと知っているに違いない。――自分の品位を落としはしても、決して自分を満足させることができないものである、と。

 これは、ローマカトリック教徒についても全く同じである。彼は、あなたと会話するときには、私は自分の宗教に全く満足していますよ、と告げるであろう。だが私にはそれが信じられない。彼も、自分の教会には無謬の救いがあるのだ、とか、偶像礼拝者たちのそれと同じくらい馬鹿げた邪悪な儀式の数々に参列することによって、自分の神なる主の恩顧を獲得できるのだ、と信じ込むほど感服させられる時期はあるであろう。だが、ローマカトリック教徒も、特にこの国においては、時として多少動揺させられる時があるに違いない。確かに、ほとんどの人々の中にある道徳的尊厳や良心からすれば、腐った襤褸布などに、救いに至る美徳が伴っていることなど全くないことは優に分かるはずである。確かに、教皇の爪先に口づけしてきた人は、自分の内側にある高貴なもののすべてがそうした行為から後ずさりするのを感じているに違いない。人のうちには、このように卑屈な信仰体系をはるかに越えるだけの人間性があるに違いない。この信仰体系は、人間性をけだもののくずにも劣る者へと引き下げようと求めてきたのである。いやしくも魂を――その気高い憧憬によって自らの不滅性を最も良く証明している魂を――有するいかなる人も、私たちが《教皇制》と呼ぶ、あわれな外側だけの見せかけの一片で満足できるなどとは私には考えられない。しかり。この場合においても、人は「灰にあこがれ」ているのである。彼は自分の宗教に満足していない。満足しているふりをしていようと関係ない。

 さて、次の場合として、私は、一層大きな確信をもって語るものである。このことは、不信心者についても全く同じなのである。彼は「灰にあこがれ」ている。彼は、自分が《自由思想家》であることにしごく満足だと云う。彼はひるむことなくあなたを直視して、あなたの種々の恐れを笑い飛ばす。死についても、その後やって来るいかなることについても、そうした何を彼が気に病むだろうか? 彼は御伽噺を恐がる子どもではない。ジャックと豆の木を信ずるのも、十字架の上のキリストを信ずるのも同じことだ。彼は司祭たちが自分に告げることを信じようとは思わない。自分の立場に、また、自分の今のあり方に全く満足している。だが、嵐に遭っている船の上で彼を見るがいい。――いかにそのときの彼が神に叫ぶことだろうか? いかにあの無神論者のヴォルニーが、自分の不信心な著書を配布しようとしこたま船上に持ち込んでおきながら、嵐が起こると、膝まずいて、イエス・キリストによってあわれみを垂れ給えと神に願ったことか。そして、岸に上がると、自分が先にあわれみを哀願した神を呪ったことだろうか? 嵐が1つ起こるや否や、人の中から不信心な思いを叩き出してしまうのである。彼のうちには人間性が残りすぎているので、不信心者というような卑しい者ではあり続けられないのである。人はその邪悪さの度を深めるあまり、ついに自分は神の存在を疑うほどはなはだしい不信仰に達したと公言するかもしれない。だが、完全に痴呆になり、あらゆる分別を失った者でもない限り、心から本気でそう考えたことのある者など誰もいないと私は思う。不信心は、あなたが熱い舞踏や、陽気な歓楽を有しているときには全く申し分がないであろう。だが、病や死という試験に、それは耐えることができない。それで多くの人々は、自分たちがあこがれていた灰が、神の永遠の御怒りの燃える炭火を食らわされる備えでしかなかったことを見いだしてきたのである。

 さらに私が云わなくてはならないのは、このことが第四の種別についても同じだということである。すなわち、キリスト教信仰を告白してはいるが、その心の中に全く信仰を有していない人々のことである。私たちは、あなたが心安らかでないことを知っている。あなたが灰にあこがれていることを知っている。あなたはバプテスマ槽や聖餐台のもとにやって来る。執事や牧師に親しげに話しかけ、彼らが語るのと全く同じような経験について語り、キリスト教信仰によって自分が幸せになったかのように見える。だが、私たちはそれほど愚かではない。この世でただ1つ、良心を本当に平静にすることができるもの、魂に堅い平安を与えることができるもの、それは真のキリスト教信仰を心で正しく受け入れることのほかにない。もし良心にキリストの血を降りかけること以外に、心の痛みを治すものがあったとしたら、確かにあれほど高価な治療法が供される必要はなかったであろう。私の知る限り、私たちの中の多くの者らは、平安を得るために、真のキリスト教信仰以外のあらゆるものを試してきたが、決してそれを見いだせなかった。私たちは律法への従順を試した。心の中に信仰を伴わない、ただの告白によってそうできないか試してみた。だが、私たちが唯一自分の足の裏に休み場を見いだすことができたのは、キリストのもとに来たとき以外になかった。そして私たちは、あなたが私たちの得た以上の安息を得ているとは信じない。私たちの信ずるところ、あなたの欺かれた心はあなたを惑わしているのである。というのも、あなたは今でさえ灰にあこがれているからである。

 III. しかし、第三のこととして、《奇妙なことに、こうしたすべての人々は、自分の偽りの宗教にことのほか満ち足りているように見える》

 偶像礼拝者も、ローマカトリック教徒も、不信心者も、えせ信仰告白者も、――こうしたすべての人々は、自分たちにも、自分たちの迷妄にも満足しきっているように見受けられる。時として私たちは、いかにしてこのようなことがありえるのかと驚嘆するものである。いかにして偶像礼拝者が、その一部は自分の薬缶を沸かし、その一部は自分の腰掛けを作る材料になった木切れを――いかにして、そんな材木の残り物が神になりえるなどと考えられることがありえるだろうか? その異教徒たち自らが、自分たちの愚劣さを互いに笑い合わないことが、私たちには奇妙に思える。また、私たちも知るように、古の詩人は、次のような皮肉な言葉を、葡萄畑に据えられた偶像の口から発させている。「以前、私は木の塊だった。無用な丸太だった。そこで大工はためらった。私を卓子にするか、椅子にするか。それで彼は私を神にした」。私たちは問いたい。いかにして、一体いかにして異教徒はこれほど愚にもつかない迷信に満足していられるのだろうか? また、いかにしてローマカトリック教徒も、彼の宗教のような、でっちあげにすぎないもので満足していられるのだろうか? いかにして不信心者は、今の彼を取り囲んでいる、あのように凍てついた、軽率に信じ込まれた不信仰という不快な雰囲気の中で生きていられるのだろうか? いかにしてえせ信仰告白者は、今の彼が得ているような精神の平安を、あるいは彼が私たちに話しかけるときに保っていられるような精神の平安さを、その見せかけでさえ得ていられるのだろうか? 答えよう。その真の理由はここにある。それは、こうした人々が徹底して自分たちの宗教に満足しているためではない。彼ら自身がそれを堅く信じているためではない。それは、この聖句が云うように、彼らの「心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない」、からである。

 もし彼らがいったん正直にこの問いを尋ねたとしたら、それは彼らのにせ宗教にとって致命的であったろう。不信心者にじっくりと腰を落ちつけて、こう自問させてみるがいい。「私の右の手には偽りがないのだろうか?」 もしそれを神の前では云えないというのであれば、自分自身の良心という裁判所においてであるかのように、厳粛に腰を下ろし、自分が信じているふりをしているものを吟味し、恐れることなくこう自問するがいい。「これは偽りではないだろうか?」 ローマカトリック教徒も同じことをしてみるがいい。偶像礼拝者も同じことをしてみるがいい。偽りの信仰告白者も同じことをしてみるがいい。すると、それがなされるや否や、良心はすぐさま光を与えられ、その答えを出すであろう。また、それぞれの人は云うであろう。「しかり。私が自分の希望を築き上げていた宗教は偽りだ。ではそれを放棄し、より良いものを探すことにしよう」。

 しかし、欺かれた心は、決してその問いが浮かび上がらないようにしている。あるいは、浮かび上がったとしてもその問いは、可能な限り速やかに捨て去られる。心の中にひとりの悪魔が上ってきて、こう云う。「お前の祖母はあの偶像を拝んでいたではないか? 他にもおびただしい数の人々が同じことをしてきたではないか?」 そして、もしこの問いがもう一度問われると、別の悪魔がこう云う。「ジャガナート神の神社に詣でている何十万もの人々を見るがいい。仏陀の寺で拝礼している人々は何百万もいるではいなか。一般の慣習こそ、何が正しいかを決めるべきだ」。ローマカトリック教徒は云うであろう。「キリスト教界全体を見るがいい。ほとんどその全域は、私の宗教を信奉する人々で覆われていないだろうか?」 「そして」、と不信心者は云うであろう。「私は孤立してはいない。時代の最上級の人々が私と同じような大胆な考え方をしているのだ」。「そして見てください」、と偽りの信仰告白をしている人は云うであろう。「私は誰それ夫人と同じくらい善良で、何某氏や、誰それ氏と同じくらい敬神の念に富んではいないでしょうか? 私が保持している立場を吟味する必要など何もないに決まっています」。そして、そのように、彼ら全員の間で、あわれなな心はあまりにも欺かれ、迷わされているために、「私の右の手には偽りがないのだろうか?」、との質問は決して本当には良心の前にやって来ないのである。というのも、もう一度云うが、もしこの質問が本当に良心の前にやって来ていたとしたら、その答えには何の間違いもありえなかったであろう。あわれなな堕落した理性でさえ、こう答えたに違いない。「お前の宗教は偽りだ。それゆえ、それを放り出せ」、と。

 IV. さて、私たちの自由に残された残りの時間で、《私が語りたいと思う相手は、キリスト教信仰を告白していながら、それを有していない人々である》

 単刀直入に話をさせてほしい。あなたは長い間、自分の宗教について全く何の自問もしたことがなかった。だが、本日の聖句にある問いかけを、正直に自らに投げかけてもらえるだろうか? 「私の右の手には偽りがないのだろうか」、と。「よろしい」、とあなたは答えるであろう。「私は、バプテスマを受けましたし、もう何年も前に教会に加わりました。ですから、私は自分が回心したのだと結論しました。それに、いずれにせよ、教会は私の証しに満足したのです。私は何の疑いにも、恐れにも、不安にも悩まされていません。そして、私は完全に確信していますが、もし私に何か問題があるということになるとしたら、他のたくさんの人たちにとって非常に辛いことになることでしょう」。しかり。私は、それが他のたくさんの人々にとって非常に辛いことになることには何の疑いもいだいていない。だが、あなたの結論を聞いても、私は、あなたに個人的に関わるこの質問に立ち戻ってこないわけにはいかない。――あなたの右の手には偽りがないのだろうか? 私はあなたの額に偽りがあると云っているのではない。あなたも、それをそこにつけていたくはないであろう。だが、あなたの右の手には偽りがないのだろうか? さて、さあ、あなたの手のひらを開いて見るがいい。否。あなたの右手である。左手ではない。あなたの右手――あなたが行動する方の手である。私が意味しているのは左手ではない。それは、あなたが、自分の偽善的な心をわがものとするために、あなたが温存してきたものである。否。あなたの右手のことを私は云っているのである。あなたの種々の行為、あなたの生活、あなたの生き方についてこそ、私は知りたい。そこにある何かは、あなたの右の手に偽りがあることを証明していないだろうか? 私たちは、あなたの生き方のすべてを知っていないであろう? 神はすべてをご存知である。だが、私たちはそうではない。あなたは自分ひとりしか知らない多くの悪徳を隠している。あるいは、自分でも間違っていると分かっている多くのことを商売の上で行なっている。それで私はもう一度この問いをあなたに発するのである。――あなたの右の手には偽りがないのだろうか? あなたが真に神に回心していることは全く確かだろうか? そうだとしたら、あなたは今のあなたがしているような生き方ができると思うだろうか? あなたは想像できるだろうか? これこれの悪徳や、これこれの罪にふけることが、あなたの心の中の恵みと両立しているなどということがありえると。あなたは思うのだろうか? もしあなたが本当に神の恵みを有しているしたら、今のあなたのようなあり方をしていられると。あなた自身の良心が云わないだろうか? 「否。お前の右の手には偽りがある」、と。

 もしあなたが、あるキリスト教会の会員である誰かを知っていたとして、その人があなたのような生き方をしているとしたら、あなたは真っ先にこう云う人々のひとりにはならないだろうか? 「あんな人は教会にいるべきではありません」、と。よろしい。ならば、あなた自身の麦を量るにも、あなたが隣人の麦を量るのに用いるのと同じ枡を用いるがいい。あなたは、今でさえ、あなたが単なる形式尊重主義者で偽善者にすぎないとみなしている何人かの人々を知ってはいないだろうか? 時としてあなたは、そう云ったことがなかっただろうか? さて、あなたと彼らの違いはどこにあるのだろうか? あなたはこう考えないだろうか? もしあなたが彼らのからだの中に入り込み、彼らの目から外を眺めたとしたら、あなたはあなた自身のうちにも、あなたを断罪するに足るだけのものを見てとることができ、それは今のあなたが彼らを断罪しているのと同じくらい筋の通ったことである、と。左様。もし良心がいま語るとしたら、それはこう云わざるをえないと思う。「あゝ、その通りです。先生、その通りです!」 ならば、良心がこの質問が再び発されるのを聞くとき、――「あなたの右の手には偽りがあるように見えないだろうか?」、と云われるとき、――いかにしてあなたはこの厳粛な答えから逃れようというのか? 「残念ながら私には偽りがあるのではないかと思います。もし私の生活が私の信仰告白とちぐはぐなものだとしたら、もし私の感情や内的な経験が、私が自分の唇で語っている言葉に沿ったものでないとしたら、まぎれもなく私の右の手には偽りがあるに違いありません」。

 さて、おゝ、信仰告白者たち。あなたがた、えせ信仰告白者である人たち。私はなおもまだあなたに語りかけよう。そして、願わくは神が私の語る言葉を祝福してくださり、生きているとされているが、実は死んでいる人々[黙3:1]の何人かを暖めてくださるように! あゝ、方々! あなたは自分の状態について長年の間、何の疑いもいだいていなかった。そして、神の真の子どもからこう云われてきた。「おゝ、私もあの人の達したような所まで到達できたとしたら、どんなに良いことでしょう! 私の精神も、あの人のように安楽にしていられたなら!」 その神の子どもは、あなたがいかにみじめな詐欺師であったか、また、いかにあなたの欺かれた心があなたを騙してきたかを、ほとんど知らないのである。あゝ! もし彼がそれを知っていたとしたら、彼は何をおいてもあなたのような者にだけはなりたくないと思ったであろう。あなたの平安は、信仰の確信の結果ではなく、純然たる迷妄の結果なのである。あなたも、自分について身震いしたことがあった。あなたが最初に教会に加わったとき、あなたはしばしばこう自問した。「私はキリストのものだろうか、そうではないだろうか?」 今や、そうした一切の疑いや恐れは消え失せてしまい、あなたが《主人》について何らかの問いを発することはほとんど絶えてなくなった。あなたはそっくり返っては、自分には何の問題もないと決め込んでいる。あなたは考える。私は教会員ではないか。ならば、なぜ自分に向かって心探るような問いを発することがあろうか? 教役者が特にあなたに向かって語りかけているとき、あなたは桟敷席を見上げる。すると、ひとりの酔いどれが目に入り、あなたは、この使信があの男の心に触れればいいが、と云う。教役者が裏表のある生き方について何か厳しいことを云っているとき、あなたは会堂の向こう側を見わたす。すると、誰かがそこにいることに気づき、確かにこれはあの男の良心に達するべきだと考える。あゝ、方々。それはあなたに対する神の使信ではないだろうか? それは、あなたの良心に達するべきではないだろうか? そして、それが達さないという事実からして、私たちは恐るべき推論を引き出せるではないだろうか? あなたは、偽りを信じるように、惑わす力[IIテサ2:11]に引き渡されているのだ、という。あなたの心は欺かれ、惑わされて、それであなたは、この最も重要な質問をはぐらかすための一千もの手練手管を有しているのである。「私の右の手には偽りがないのだろうか」。

 神の使節として、私の良心をあなたの血の責任から自由にさせてほしい。私はあなたのかたくなになった良心にさえ達してみるよう試みたいと思う。信仰告白者よ。私は神の御前であるかのように切に願う。今度ばかりはこの質問を、あなたの心に深く突き入れてほしい。おゝ! あなたがた、ただ口先だけの告白しか有していない人たち。今あなたがたひとりひとりが、この質問に答えてほしい。「私の右の手には偽りがないのだろうか? 私は真のキリスト者だろうか、偽りの信仰告白者だろうか? 私は本当の自分でもないものであると告白しているのだろうか、それとも、神の御目における私は、人が目にしている私と同じ姿をしているだろうか?」 私は、私自身をもこの厳粛な自己吟味から免除しようとは思わない。そして私はあなたに願いたい。教職についている私の兄弟たち。また、あなたがた、執事である人たち。また、この教会、あるいは他のキリスト教会の会員である人たち。自分を免除しないでほしい。この質問を、あなたがたひとりひとりの心に突き入れるがいい。「私の右の手には偽りがないのだろうか?」

 おゝ! 思い出すがいい。キリスト教信仰の告白を行なっていながら、欺かれているということは、想像しうる限り最も恐ろしいことの1つであることを。また、これは、はなはだ恐ろしいことでありながら、痛ましいほどありふれたことでもある。――自分の顔は信仰告白によってシオンに向けていながら、自分の行動によっては地獄へ向かいつつあること。大胆な鉄面皮の図々しさをもって天国の門そのものまで向かい、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」[マタ25:11]、と云うが、その門は堅く自分の前で閉ざされており、主からこう云われるのを聞くこと。「わたしから離れて行け。わたしはあなたがたを全然知らない。のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ7:23; 25:41]。こうしたことは、もう一度云うが、想像を絶するほど恐ろしいことだが、その恐ろしさと同じくらい大きな度合でよく目につくことではないだろうか? 私の兄弟たち。あなたはそのような運命に陥りたいのだろうか? おゝ、私の神よ。私がそのような羽目にならないようにしてください! もし私が断罪されるとしたら、この世の子らと同じようにしてください。私を自分の罪の中で公然と生きて死んでいく罪人のようにしてください。ですが、決して私があの二重の地獄を苦しむことがないようにしてください。最初に自分の罪ゆえの正当な罰という苦悶において、次に、自分の失望した希望という苦悶のつけ足しにおいて苦しまないようにしてください。おゝ、私の神よ。あなたが私をいかなる者にするとしても、私が天国に行く希望を有してから、最後にはその希望が迷妄であったことが分かるような者にはしないでください! 愛する方々。あなたはこの聖句の質問を振り払い、自分には何も問題がないと分かっている、と云うだろうか? あなたこそ、この問いを自分の心に突き入れなくてはならない当の本人である。あなたは、自分に何の問題もないことを確信しているだろうか? ならば、あなたには確信すべき何の権利もないかもしれない。あなたには何の疑いもないだろうか? 未来について何の恐れをいだいたこともないだろうか? ならば、思い出すがいい。詩人クーパーがいみじくも何と語ったかを。――

   「望みのなきは、恐れざる者
    おのれの状態(さま) つゆ疑わざる者
    かくなる者は もしや――よもや――手遅れならん」。

あなたの確信は、何物によっても揺り動かされないほど堅く立っているだろうか? ならば、ことによると、それは岩の上には立っていないのかもしれない。ある物事はしばらくの間は非常に堅く立っているが、結局のところ永遠にはもちこたえられないのである。あの山々は堅く立っているが、それは移されて、海の真中に投げ込まれるのである[詩46:2]。そして、あなたの希望は堅い基盤を有しているように見えるかもしれないが、それでもあなたは自分が、ぞっとするような破滅という恐ろしい渦巻きに呑み込まれることに気づくかもしれない。私はある人々に訴えたい。私の真剣な言葉に気をとめる必要など自分にはないと考えている人たち。キリスト教会の会員ではないが、キリスト者であると評されている人たち。私たちの中にいるある人々は、一般には神の子らであると評されている。彼らの生活は、キリスト教信仰に深く関わる事がらで満ちており、これほど真理について良く理解している人々はいない。だが、彼らには1つの圧倒的な声がある。彼らを日々わき道へとそらす1つの悪しき傾向がある。神の御名によって私は彼らに、罪の中に生き続ける種々の結果について警告してきた。彼らがエホバの法廷に立たなくてはならないのと同じく、彼らに警告してきた私も彼らとともにそこに立たなくてはならない。だからこそ私は彼らに切に訴えて、この警告の声を彼らに届かせたいと思う。

 おゝ、人よ。もしあなたが敬神の念に富む母親を有していても、それはほとんど何にもならない。御国の事がらに関して光を受けていても、ほとんど何にもならない。真理を知り、甘やかで滋味に富む教理を愛していても、ほとんど何にもならない。善人という善人の友となっても、また、彼らから愛されても、ほとんど何にもならない。こうしたすべてのことを有していても、もしあなたが、あなたの心に恵みを有していなければ、ほとんど何にもならない。ほとんど! そう私は云っただろうか? それは、あなたのためには全く何にもならない。だが、実はそれは、ほとんど何にもならないどころか、大いに恐ろしいこととなる。こうしたすべての利点を有し、こうしたすべての知識を有していながら、なおも何らかの卑しいことを許しているとしたら、それがあなたの人間性の下にあって、あなたをひっくり返し、あなたが天国に対していだいているあらゆる希望をだいなしにするのである!

 私たちの知っているある人々は、私たちのこの美しい世界の中で暮らしており、私たちにとって親愛な人々でもある。天国に行くことができるだろう人々、と私たちは時々考えている。天国に至る事がらは、さほど真剣に求めている様子ではないが、ある人々に私たちは何の過失も見いだせなかった。ただ1つ、彼らが深酒に溺れるということを除いては。そして、その罪が彼らの呪いとなり破滅となり、永遠に彼らをパラダイスの門から閉め出してしまうのである。また、私たちの知っているある人々、その愛を私たちが尊び、そのそばにいたいと私たちが欲するある人々には、何か隠れた欠点があり、それが時たま、彼らを油断なく見張っている人々によって気づかれるのである。そしてその欠点は、進行しきった癌のように、その人の五臓六腑をむしばんでしまう。その洋服はりゅうとしていて、その人の友人たちは彼のことを「完璧な紳士」と呼ぶ。だが彼は、その隠れた情欲と、最愛の悪徳とによって、その内臓に断罪をかかえている。おゝ、あなたがた、自分のキリスト教信仰を自慢たらたらにしている人たち。あるいは、それを隠しておいて、何らかの種類の希望をいだいている人たち。私は切に願う。この警告を受け取るがいい! 私はあなたに、好きでこのようなしかたで語りかけているのではない。だが、もし私がこのように語らなかったとしたら、いかにして私はかの最後の大いなる日に私の決算書を提出できるだろうか? もし私があなたが座っているその会衆席に座っていたとしたら、私は私に向かって忠実に語らなかった教役者を蔑むであろうし、そんな男の話を聞くことはすぐにやめてしまうであろう。私は、講壇に立って、飾らない言葉で真実を語らないような男がいる会堂に通いたいとは思わない。そして、私があなたを判断するに、あなたも真理を率直に聞きたいと願っているはずである。私は、自分には真実を語ってもらいたいと願っているため、あなたにも真実を語ってきたのである。そして、もしここにいる誰かが、その欺かれた心によって惑わされ、「この教役者は、ひどいあてこすりをした。明らかに彼はのことを指していた。彼の言葉は剣のようで、それは私を心の奥底まで切り裂いた」、と云うとしたら、もし、それがあなたがたの中の誰かに当てはまるとしたら、この説教者にただちに認めさせてほしい。彼はあなたのことを意味していたのだ、と。彼はあてこすりをしたことを否定しない。彼はあなたのことを指していたし、あなたが彼の使信を心に銘記してほしいと懇願している。もしあなたがこの説教者に対して怒りを発するとしたら、彼はそれを忍ぶことになっても全く痛痒を感じない。それを受けたいと願ってはいないとしても、もしあなたの魂がそのようにして救われることができるとしたら、彼はそれを喜ぶであろう。もし、ある人を怒らせることによって、彼がその良心によって刺される可能性が少しでもあるとしたら、私は膝まづいて、こう云うであろう。「私の神よ。たとい彼が私を殺すとしても、もしそれが彼自身の魂を救う手段になるとしたら、彼にそうさせてください。たとい正直な警告が彼の憤りをかき立てるとしても、それでもそうならせてください。ただ、父よ。このことだけをお許しください。その目的が果たされるようにしてください。彼をわき道にそらしていた愚劣さと悪を彼に知らせてください」。

 兄弟姉妹。あなたがたはひとりひとり、自分の私室にこもって、自分自身を吟味するがいい。あなたのもろもろの希望をるつぼに入れて、果たしてそれらが、火のような主のことばの試練に耐えるかどうか見てみるがいい。他人をさばくのと同じようなしかたであなた自身をさばくがいい。もしあなたの知っているある人が、その信仰告白を偽りとするような罪を犯しながら生きているとしたら、そして、あなたもまたその罪の中に生きているとしたら、あなたは、自分が彼について評価する以上に自分のことを高く評価してはならない。もしあなたの知っているある人の手足が、壊疽によって腐りかかっていたとしたら、あなたは彼にそれを切り落とすよう勧めないだろうか? よろしい。ならば、あなた自身の手足を切り落とすがいい。もしあなたの見ていたある人が破滅めがけて突進していたとしたら、あなたは大胆に飛び出して行き、彼に警告しようとしたではないだろうか? ならば、他人に対して大胆になるのと同じくらい、あなた自身に対して大胆になるがいい。他の人々に対して語るであろうのと同じようなしかたで、あなた自身の自我に向かって語るがいい。もしあなたがこの規則に従おうとするなら、私はあなたに何が起こることになるかについて恐れはしない。そして、あなたがたの中のある人々は、自分で自分を吟味するように導かれたことについて、神に感謝するであろう。というのも、今や、咎ある罪人として、あなたはキリストの十字架のもとに逃れ行き、信仰によってこのお方をつかむことができるからである。このお方は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになるのである[ヘブ7:25]。

 

欺かれた心[了]

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