HOME | TOP | 目次

十字架につけられたキリスト

NO. 2673

----

----

1900年5月6日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1858年前半、主日夜の説教


「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」。――Iコリ2:2


 コリントは、雄弁と知恵を賞賛する人々の真っ只中にあった。この書簡が書かれたのは、雄弁家や哲学者たちのいた時代である。使徒パウロは深遠な学識の持ち主であった。彼はガマリエルの膝下で東方のあらゆる知恵について教育されていた。確かに彼は非常に広大な精神の人であったに違いない。というのも、確かに彼の書き記したものは聖霊の霊感を受けてはいたが、聖霊は、明白に強力無比な思索能力と強健きわまりない論理能力を有する者をご自分の器としてお選びになったからである。また、彼の雄弁力について云えば、もし彼がそれを涵養しようとしていたとしたら、私の信ずるところ、それは第一級のものとなっていたであろう。というのも、彼の書簡のいくつかには、キケロやデモステネスの唇からこぼれたものにまさる崇高な雄弁が記されているからである。

 並の人物がコリントのような町に入った場合、その心中にはこう囁きかける誘惑が存在したであろう。「さあ、これからは努めて雄弁術の粋を尽くすことにしよう。私の宣べ伝えようとしているほむべき福音は、最高の才質をささげられるに値するものなのだから」、と。「私は」、とパウロは自分に向かって云えたかもしれない。「雄弁という点にかけては非常な天分を有している。では私の美辞麗句に丹念に磨きをかけることに努めよう。そして、私の演説が、いまコリントの人々をその話で魅了しているあらゆる雄弁家たちをしのぐようなものになるようにしよう。それも、至極あっぱれなしかたでそうできるだろう。というのも私は、それでもなお、イエス・キリストを宣べ伝えるという私の意図からそれないようにするだからだ。そして私は、高雅にして懸河の弁でイエス・キリストを宣べ伝え、聴衆を獲得し、この主題を考えさせることにしよう」。

 しかし、使徒はそのようなことをするまいと決心した。「否」、と彼は云った。「コリントの市門をくぐる前に、堅く決意しておこう。もしここで何らかの善が施されることがあるとしたら、また、もし誰かがメシヤであるキリストを信じるように導かれることがあるとしたら、彼らの信仰は私の雄弁の結果ではなく福音を聞いた結果となるようにしよう。決してこうは云われないようにしよう。『おゝ! キリスト教が広まるのも無理はない。見るがいい。それが何と有能な代言者を有していることか』、と。むしろ、こう云われるようにしよう。『神の恵みは何と強力なものに違いないことか。この人たちに、あれほど素朴な説教で罪を確信させ、使徒パウロのようにお粗末な手段によって主イエス・キリストを知る知識へと彼らを導くとは!』、と」。彼は自分の烈火のごとき弁舌を抑えようと決意した。人々の間では喋るのを遅くしようと決心した。また、自分を偉大なものとする代わりに、自分の職務を偉大なものとし、神の恵みを偉大なものとするために、そうした数々の能力を用い切ることは自分に許さないようにしようとした。もしそれらが神にささげられていたとしたら、――むろん、それらは神にささげられたものではあった。――だが、もしそれらが、一部の人々であれば用いていたであろうように徹底的に行使されていたとしたら、それは彼に、地上を歩んだことのある人々の中で最も雄弁な説教者であるとの評判をかちえていたはずだったが関係なかった

 さらに、彼は次のように云ったかもしれない。「この哲学者たちは才知に富んだ人々だ。もし彼らに匹敵する者になりたければ、私も才知に富む者にならなくてはならない。このコリント人たちは非常な人品のある人々だ。彼らは長い間、こうした才能ある人々の指導の下にあったのだから。私は彼らが語るように語らなくてはならない。謎や詭弁術を繰り出して語らなくてはならない。常に何らかの謎めいた問題を提起していなくてはならない。ディオゲネス*1の大樽の中に住む必要はあるまい。だが、彼のように角灯を手にかざすとしたら、それで何とかなるかもしれない。私は彼の知恵のいくつかを試したり、借りなくてはなるまい。私には、この才気ある人々に向かって宣べ伝えるべき深遠な哲学がある。そして、その哲学を宣べ伝えたければ、精神および道徳に関する彼らの諸学をことごとく理論的に粉砕する必要がある。私は驚くべき秘密を見い出している。ならば私は、市場の真中に立って、『エウレカ、エウレカ』*2、と叫んでも良いだろう。『われ見出せり』、と。だが、私は人間的な知恵という土台の上に私の福音を築きたいとは思わない。しかり。もし誰かが導かれてキリストを信ずるようになるとしたら、それは素朴な、飾り気のない、まるで洗練されていない言葉遣いで平易に語られた福音からそうさせよう。私の話を聞く者たちが神に立ち返るとしたら、その信仰は、人間の知恵ではなく、神の力に基づくものにさせよう」。

 あなたはこのことが見てとれないだろうか? 愛する方々。使徒がこうした決心に達したかげには、非常にもっともな理由がいくつもあったのである。人が、自分はあることをしようと決心した、と云うときには、それを行なう際には困難があると自覚しているようかのように思える。ならば、この1つの主題、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」だけにとどまろうと決心することは、思うに使徒にとってつらいことであったに違いない。確かに、今の時代の教役者であれば、十人のうち九人までは、間違いなくそうできなかったであろう。かりに、パウロがコリントの町通りを通り過ぎつつあったとき、ひとりの哲学者が当時流行の創造説を説明しているのを小耳に挟んだと思い描いてみるがいい。その男は、世界がそれ以前に存在していた何かから生じたと人々に向かって告げている。そこで使徒パウロはこう思う。「私はあの男の間違いを簡単にただしてやれるだろう。私は彼に、主がすべてのものを六日間で造り、七日目にお休みになったことを告げてやれるだろう。創世記の中には霊感された創造の記述があることを教えてやれるだろう」。「しかし、否」、と彼は自分に向かって云う。「私には、それよりも大切な使信があり、それを伝えなくてはならない」。それでも彼は、彼を訂正してやりたい気分にかられたに違いない。というのも、知っての通り、人は誰かがはなはだしい誤りを口にしているときには、ずいと前に出て、その人と論戦したくなるものだからである。しかし、そうする代わりに使徒はただこう考える。「私の務めは、世界の創造理論について人々をただすことではない。私がしなくてはならないのは、ただイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方だけを知ることだ」。

 それに加えて、時折コリントには政治的抗争があったに違いない。そして疑いもなく使徒パウロは、自分と同民族のユダヤ人に同情したに違いない。また、同族のユダヤ人たち全員が市民としての特権にあずかってほしいと願ったに違いない。時としてコリント人たちは公開の会合を開いては、ユダヤ人はコリントにおいて市民権を有するべきではないという意見を支持していたであろう。使徒はそうした集会で一席ぶつこともできたではないだろうか? だが、たとい彼がそうするように請われていたとしても、彼はこう云ったであろう。「私はそうした事がらについては何も知りません。私が知っていることはただ、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のことだけです」。コリントの人々は、確かに政治的な講演を数多く聞いていたに違いない。ある人が甲を主題に講演すると、別の人が乙について講演するという次第である。実際、ありとあらゆる種類の素晴らしい主題が古代の詩人たちから取られては、異なる人々によって詳説されていた。使徒パウロも、そうした講演の1つを行なっただろうか? 彼は云っただろうか? 「ちょっぴりその中に福音を混ぜれば、多少の善を施せるだろう」、と。否。彼は云った。「私はキリストの仕え人としてここにやって来たのだ。キリストの仕え人以外の何者にもなるまい。唯一、私がこのコリント人たちに向かって語りかけるであろう立場、それはキリストの仕え人としての立場だけである。というのも私は、たった1つのことしか知るまいと決心しているからだ。それは、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方にほかならない」。願わくは神が、この時代のあらゆる教役者たちに同じ決心をさせてくださるように!

 あなたは時々、ある教役者が選挙期間中に目立った役割を果たしていることに気づかないだろうか? 彼の考える自分の務めとは、国家の政治綱領において自分の立場を明快に表明することなのである。だが、あなたは、彼が場違いなところにいると思ったことはないだろうか? 彼の務めは、人々の間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知らないことのはずだ、と思ったことはないだろうか? あなたは、わが国の街角という街角で、あれやこれやの主題に関する講演が、そこここの教役者によって行なわれる予定だと広告されているのが目につかないだろうか? 彼らは、自分たちの講壇を放り出しては、ありとあらゆる種類の題目について講演を行なおうというのである。「否」、とパウロならば云ったであろう。「もし私がキリストの福音を正当なしかたで、公然と説教することによって広められないとしたら、自分の説教に馬鹿げた説教題をつけることでそうしようとは思わない。というのも、福音はその真価によって立ちも倒れもするべきだからであり、まことしやかな人間の知恵の言葉[Iコリ2:4]によって説教しようとは私は思わない」。たとい誰かが私に向かって、「さあ、あれこれの社会改革について雄弁に支援演説をしてください」、と云ったとしても、私の答えはこうであろう。「私はそうした主題については何も知りません。というのも、私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」。いみじくもアルバート・バーンズは云う。「これは、福音のあらゆる教役者の決意たるべきである。これこそ彼の務めである。――政治家にはならないこと、人々の間の抗争や論争には関わらないこと、ただの優秀な農夫や学者にはならないこと、お祭り騒ぎの場や歓楽の間にいる自分の信徒たちとは入り混じらないこと、洗練された趣味と哲学の人にはならないこと、また、優雅な物腰を主たる理由として卓越するような人だの、深遠な哲学者だの、形而上学者だのにはならないこと、むしろ、十字架につけられたキリストを自分の注意を払うべき大目的とすること、そして、いつでもどこででもキリストを知らしめようとすることである。もし彼が科学を修めるとしたら、それは彼がよりうまく福音を説き明かし、正当化できるようになるためであるべきである。もし彼が何らかのしかたで芸術や趣味の作品に親しむとしたら、それは彼が、それらを修めている人々に対してよりうまく十字架の優越した美と卓越性を示せるようになるためであるべきである。もし彼が人々の計画や目的について研究するとしたら、それは彼が、こうした計画の中にある人々とより明確に対峙し、彼らに向かって贖いの偉大な計画をよりうまく語れるようになるためであるべきである。十字架の宣教こそ、成功を伴うであろう唯一の種類の宣教である。キリストの《天来の》使命と、威光と、みわざと、教えと、ご人格と、贖罪とに関して、大いに内容豊かなものこそ、成功をもたらすであろう。それは、使徒たちの時代にそうであったし、宗教改革においてそうであったし、モラヴィア派の海外宣教においてそうであったし、あらゆる信仰復興においてそうである。そうした種類の宣教の回りには、哲学や人間理性が持ち合わせていない力がある。キリストは、この世の救いのための『神の大いなる定めである』。そして私たちが種々の犯罪に対処し、この世の災難を緩和するのは、私たちが十字架を高く掲げる度合に比例するであろう。十字架こそ、その一方を打ち負かし、もう一方に慰藉の香油を注ぐべく定められたものなのである」。

 願わくは、すべての教役者がこのことを肝に銘じ、こうした伝道牧会職を離れた何事も行なうことのないように。また、いったん教役者になったが最後いつまでも教役者であり、決して政治家にならず、決して講演家にならないように。また、いったん説教者になったが最後、キリストが彼らをみもとに引き上げて御座の前で新しい歌を歌い出させてくださるその時まで、キリストの聖なる福音の説教者であり続けるように。

 さて、兄弟姉妹。私はこうした事がらを云うことにおいて自分の義務を果たしてきた。たといそれが、あなたの敬服する教役者の誰かれにあてはまるとしても、私にはどうしようもない。ここにこの聖句があり、そこから私たちが教えられるのは、使徒パウロが万事をキリストの仕え人として行なおうと決心していたということでなくて何であろう? そして、愛する兄弟姉妹。これを聴衆として行なうのはあなたの義務である。キリスト者としてのあなたの義務、また特権は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知らないことである。

 I. まず第一に、《あなたが信じている諸教理》に関して、私は切に願う。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知ってはならない。

 あなたは、これこれの神学体系は、理性の最も健全な原則に基づいているのですよ、とある人から云われている。別の人はあなたに、あなたが信じてきた昔ながらの諸教理は、この進歩した時代には合いませんよ、と告げる。時折あなたは、頭脳明晰な若い紳士たちに出会うであろう。彼らがあなたに告げるところ、いわゆるカルヴァン主義者であることは、この進歩的な時代よりもはるかに遅れたことである。「というのも、ご存じの通り」、と彼らは云う。「今は知的な説教者たちがわんさと起こりつつあり、説教したり説教を聞いたりすることにかけては、あなたももう少し知的になった方がいいからですよ」、と。このような指摘が、あなたがたの中の誰かになされるときには、こう答えてやってほしいと私は切に願う。「私は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは何も知りません。もしあなたがキリストについて私が知っている以上のことを告げられるとしたら、あなたにお礼を云いましょう。もしあなたが、いかにすればもっとキリストに似た者になれるのかとか、いかにすればより近くキリストとの交わりに生きられるのかとか、いかにすればキリストを信ずる私の信仰がより強くなり、キリストの聖なる福音を信ずる私の信仰内容がより堅固なものになるのかを教えてくれるとしたら、あなたにお礼を云いましょう。ですが、もしあなたがさんざん苦労してかき集めた何か知的な体験知のほか何も私に告げられないのだとしたら、私はあなたに云います。たといあなたにとって説教することがたいへん結構なことであり、他の知的な人々にとってそれを聞くのがたいへん結構なことであるかもしれないにせよ、私はあなたの輩には属していませんし、属したいとも思いません。私が属しているのはあの、至る所で悪口を云われている宗派、人が異端と呼ぶしかたで彼らの父祖の主なる神を礼拝する人々、律法と預言者とに書かれているすべての事がらを信ずる人々なのです。私が属しているのは、壮麗な知性や華々しい知識によっては決して人に霊的な事がらを教えることはできないと信ずる類の者たちです。私が属しているのは、神が幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられた[詩8:2]と考える人々であり、神があなたの口によって力を打ち建てられたなどとは私は全く信じません。私が属しているのは、あのマリヤのように[ルカ10:39]イエスの足元に座し、キリストがお語りになったことを、キリストがお語りになった通りに、キリストがお語りになったがゆえに受け入れる人々です。私は、キリストが真理であると云われるもののほか何の真理も欲していませんし、それを信ずるにはキリストがそれを云われたということ以外に何の根拠も必要ありませんし、それが真理である証拠としては、それが真実だと心に悟らされ、それが分かるということ以外に何もいりません」。

 さて、愛する方々。もしあなたにこうすることができるとしたら、私はどこにあなたを出しても安全だと思う。――それが、この時代で最も奸智に長けた異端者たちの間であっても関係ない。あなたは、偽りの教理がはびこっている所に行くかもしれないが、あなたが異端の疫病にかかることは決してない。あなたが、黄金とも云うべきこの真理の予防薬を持っており、「私は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知りません」、と云える限りはそうである。私について云えば、私は真実こう云うことができる。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方こそは、私の知識の精髄である。キリストこそ最高の知的研究である。キリストこそ私の知性にとって到達可能な、かつ最も壮大な哲学である。キリストこそ、私の最高の憧憬よりもいや高く聳え立つ高峰である。また、この大いなる真理よりも深い所を私は決して探り極めたいとは思わない。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方こそ、私が知りたいと願うことすべて、また私が告白し、説教している教理すべての総計なのである。

 II. 次に、《あなたの経験》においても、このことは全く同じでなくてはならない。兄弟たち。私は切に願う。あなたの経験において、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方以外に何も知ってはならない。

 あなたは明日出かけて行くかもしれない。単に外の世界へというだけでなく、教会の中、名ばかりの教会の中へと出かけて行くかもしれない。するとあなたは、ある種別の人々に出会うであろう。その人たちはあなたの耳を引き、自分たちの家へとあなたを招き、そこにあなたが入るや否や、福音の諸教理について語り出し始める。彼らはキリスト・イエスについては何も云わない。むしろ、ただちに、神の永遠の聖定について、選びについて、恵みの契約の高踏的な奥義について話し出す。だが彼らが語っている間、あなたは内心こう云うであろう。「この人たちが話していることは真実だが、そのすべてに嘆かわしい欠点が1つある。この人たちの教えは、キリストを抜きにした真理だということだ」、と。良心がこう囁くであろう。「私の信じている選びは、キリストにある選びなのだ。この人たちはそれについては何1つ語らず、ただ選びのことだけだ。私の信じている贖いは、いつだってキリストの十字架と非常に特別な関連がある。この人たちはキリストについて一言も語らない。贖いを交易上の取引のように語って、イエスについては何も云わない。最終的堅忍については、私はこの人たちが云っていることすべてを信じているが、私が教えられてきたところ、聖徒たちが堅忍するのは、ただ彼らとキリストとの関係の結果においてのみなのだ。だがこの人たちは、それについては何も云わない」。彼らによると、こちらの教役者も健全ではなく、あちらの教役者も健全ではない。だが、私に云わせてほしい。もしあなたがこうした種別の人々の間に立ち至ってしまったとしたら、あなたは、彼らと正面から顔を見合わせた日のことを残念に思うようになるだろう、と。もしあなたがこうした人々と接触を持たざるをえないとしたら、私はあなたが彼らにこう云うよう切に願う。「私は、あなたが奉じているすべての真理を愛していますが、それらに対する私の愛は、決してイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方に対する私の愛をしのいだり、取って代わったりすることはできません。そして、はっきりあなたに云いますが、私は偽りの教理をただおとなしく聞いていることはできないのと同じくらい、真実の教理が主イエス・キリストを抜きにして語られるのをおとなしく聞いていることもできません。私は、ある人が華美な衣裳を身につけて、キリストのようなふりをしていながら、実はキリストでも何ではないというような場所に行くことはできないでしょうが、それとは逆に、キリストの真実な衣裳がありながら、《主人》ご自身はそこにいないというような場所に行くのもご免です。というのも、私が欲しているのは主の衣裳でも服でもなく、私は《主人》ご自身を欲しているからです。そして、もしあなたが私にイエス・キリストを抜きにした無味乾燥な教理を説教するとしたら、私はあなたに云いますが、それは私の経験に合っていません。というのも、私の経験はまさにこうだからです。すなわち私は、自分が選ばれたと分かってはいても、自分が《小羊》と結び合わされていることが分からない限り、決してそれを知ることができないのです。はっきり云いましょう。私は、自分が贖われていることを知ってはいますが、私を贖ってくださった《救い主》について考えることなしに贖いについて考えることなど決してできません。私は、自分が最後まで耐え抜くことになると大口を叩いていますが、こう知っています。――刻一刻とそう知らされています。――私が耐え抜くことは、私がキリストのうちにあるかどうか次第であり、私が聞きたいのは、その真理がキリストの十字架とのつながりにおいてのみ語られることなのです」。おゝ! こうした人々とは、彼らを正道に戻らせるため以外には何の関係も持ってはならない。というのも、やがてあなたにも分かるように、彼らは苦い胆汁に満ちており、彼らの舌には蛇の毒があるからである。あなたの魂の養いになるものを与える代わりに、彼らはあなたをありとあらゆる苦味と、悪意とで満たそうとし、また、主イエスを真に愛していながら些細な点で自分たちとは意見を異にする人々への悪口であなたを満たそうとするからである。

 あなたは別の種別の人々と出会うかもしれない。彼らは、あなたの別の方の耳を引いて、こう云うであろう。「私たちもキリストの諸教理を愛しています。ただ、道の反対側にいる愛する方々は間違っていると信じます。彼らは十分に経験を説教していません」。それであなたは云うであろう。「よろしい。私は今度こそ私向きの人たちの間にいるようだぞ」。そして、あなたはその教役者がこう主張するのを聞く。すなわち、この世で最も尊い経験とは、自分自身の腐敗を知ること、人間の心の悪を感じること、その不潔な地下牢を何度も何度もひっくり返しては、その悪臭を放つ忌まわしいものをぶちまけ、白日の下にさらけ出すことなのです、と。そして、見かけだけはへりくだった調子に満ち満ちたその説教を聞いた後のあなたは、座席から立ち上がるときには、これまで生きてきた中でも最も高慢な人になっているであろう。今や自分は、かつては金滓とみなしていたまさにそのことを誇りとし始めようと決意しているであろう。かつては語るのを恥じていた当の事がらを、今やあなたは自分の自慢の種と考えている。あなたの恥辱であったあの深い経験が、今やあなたの喜びの冠となってしまっている。あなたがこの見解を吸収した愛する兄弟姉妹に向かって語りかけると、彼らはあなたにこう告げる。神の国とその義とをまず第一とするのではなく、牢獄の隠された事がらと、魂の不義や汚れを暴き出すことを第一にすることです、と。おゝ、愛する方々。もしあなたが自分の生活を悲惨なものにしたければ、また、もしあなたがエジプトの奴隷状態に引き戻されたければ、また、もしあなたがパロの縄目をもう一度自分の首に巻き付けられたければ、彼らの金言をあなたの金言とするがいい。だが、もしあなたが、キリストがあなたに願っておられると私が信ずる通りの生き方をしたければ、私は切に願う。どうかこう云ってほしい。「いいえ。邪悪な心について話を聞くことは、たまには私に善を施しますが、私は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知るまいと決心しています。そして、あなたはキリストについては私に何も告げていません」。こうした人々はある日曜日には、らい病人について説教する。だが、彼らは次の日曜日、癒されたらい病人について説教するだろうか? こうした人々は、人間の心の不潔な心についてはあらいざらい告げる。だが、それをきよめ、清浄なものとするあの川についてはほとんど、あるいは全く語らない。病気については大いに語るが、《医者》についてはそれほど語らない。そしてあなたは、もしこうした人々の牧会する教会に長く集い続けていると、こう云わざるをえなくなるであろう。「私は非常に陰鬱な状態になってしまった。ユダにならって、出て行っては首を吊りたい気分がするほどだ。だから、あなたには暇を乞おう。私は、自分の経験において、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知らないことに決心したのだから」。

 私はこの件に関しては非常に真剣にあなたに警告しておきたい。というのも、信仰を告白するキリスト者たちの中の、ある特定の集会の間では、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方以外の何かを経験の中で際立たせようとする傾向が強まっているからである。もしあなたが、自分の経験はみな主イエス・キリストに関わっていますと告げてくれるとしたら、私はそれを喜ぶであろう。そこにキリストがおられればおられるほど、それは尊いものである。だが、もしあなたが、自分の経験は自らがいかに腐敗しているかという知識で満ちていますと告げてくれるとしたら、私はこう答えるであろう。「もしそこに、キリストの知識が混ぜ合わされておらず、キリストの知識があらかたの優位を占めていないとしたら、あなたの経験は木、草、わら[Iコリ3:12-15]であって、やがて焼き尽くされざるをえず、あなたも損害を受けずにはすまないでしょう」、と。

 ちなみに、バニヤンの『天路歴程』にまつわる小話を告げさせてほしい。私はジョン・バニヤンを大いに愛するものではあるが、彼が無謬だとは信じていない。そして、先日私は、ふとしたことで彼に関する1つの話を知ったが、それは非常に良いものだと思う。エジンバラにいるひとりの若者が、宣教師になりたいと願っていた。彼は賢い若者で、こう思った。「もし私が宣教師になるとしたら、自分の故郷から遠い彼方まで移動しなくてはならないだろう。ならばエジンバラで宣教師になる方がましだ」。ここには、この場の一部の淑女の方々への良い助言がある。あなたは近隣には小冊子を配布していながら、女中のメアリーには一部も渡してやらないからである。よろしい。この若者は始めた。そして、自分の出会う最初の人に話しかけようと決心した。彼は、あの老いた魚売り女のひとりに出会った。私たちのように彼女たちを見たことのある者は決して彼女たちを忘れることができない。それほどに、実に異様な風体の婦人たちである。それで彼はその女の方に足を踏み出して云った。「そこの荷物を背負ったおばあさん。おばあさんは、別の荷物を背負っていませんか? 魂の重荷を負ってはいませんか?」。「何だって?」、と彼女は聞き返した。「お前さんの云っているのは、ジョン・バニヤンの『天路歴程』ん中にある重荷のことかえ? だとしたら、若旦那、あたしはもう何年もまえにお払い箱にしちまったよ。たぶん、お前さんが生まれるより前にね。でも、あたしは、あの巡礼よりもずっとましな道を通ってきたよ。ジョン・バニヤンの書いた伝道者は、今のご時世の福音を説かない牧師たちと一緒さね。だって、『あの光から目を離さないで、くぐり門のとこまで走っていきなさい』、なんてさ。冗談じゃないわさ。そんなとこ、走ってくとこじゃないじゃないよ。こう云わなくちゃさ。『あの十字架が見えるかな? 今すぐあそこへ走っていきなさい!』ってね。だのに、あいつはそうする代わりに、この可哀想な巡礼を、まずくぐり門へと行かせたんだよ。それで、この人がどんなにえらい目に遭ったことか! あの沼の中を転げ回って、あやうく死ぬとこだったじゃないかえ」。「でも、おばあさんは」、とこの若者は訊いた。「あの《落胆の沼》をくぐったことはなかったの?」 「そりゃあ、あったよ。でもね、自分の重荷が背中にあるよりは、ずっと楽に通り抜けられるって分かったものさ」。この老女は完全に正しかった。ジョン・バニヤンは、この重荷が取り去られることを、この巡礼路のあまりにも先に置いてしまった。もし彼が、普通に起こることを示そうとしていたのだとしたら、それは正しかった。だが、もし彼が、そう起こってしかるべきことを示そうとしていたのだとしたら、間違っていた。私たちは罪人に向かってこう云ってはならない。「さあ、罪人よ。もし救われたければ、あのバプテスマ槽に行くがいい。あのくぐり門に行くがいい。あの教会に行くがいい」。否、むしろ罪人にはこう云うべきである。「ここに身を投げ出すがいい。そうすれば、あなたは安全である。だが、安全になりたければ、絶対に自分の重荷を投げ捨てて、十字架の根元に横たわり、イエスにあって平安を見いださなくてはならない」。

 III. しめくくりに、こう云わせてほしい。兄弟姉妹。この時を境に、こう決心するがいい。《自分の信仰においては》、イエス、すなわち十字架につけられた方以外の何も知らないことにしよう、と。

 私が完璧に確信するところ、私には頼りとすべき自分の功績など微塵もなく、よりかかることのできる被造物の力など一原子すらない。だが私の気づくところ、私はしばしば、一週間の丸七日の間、ありもしない自分自身の功績を頼りとしており、それと同時に全く存在してもいないと告白しているはずの自分の力によりかかっているのである。あなたや私は教皇を反キリストと呼ぶことがよくある。だが、私たち自身も、しばしば反キリストを演じてはいないだろうか? 教皇は自分を《教会》のかしらとしている。だが私たちは、それよりさらに進んで自分を自分の救い主としてはいないだろうか? 私たちは、そう云いはしない。少なくとも老いた魔術師の呟きのような、かすかな細い声でしか云わない。それは大音声の、遠慮会釈のない虚言ではない。その場合、それに何と答えるべきか私たちも知っているからである。「だが今」、と悪魔は囁く。「お前さんは何て立派に行なっていることだろう!」 すると、それから私たちは自分の行ないに頼り始める。そしてサタンは云う。「お前は昨日あんなに見事な祈りをしたではないか。もうお前は、祈りにおいて冷たくなることなんか決してないだろうよ。そしてお前は自分の信仰においてこれほど強くなったのだから、二度と再びお前の神を疑ったりはしないだろうよ」。それは、かの古き黄金の子牛が再び立てられたということである。というのも、それは粉々に砕かれはしたものの、再び寄り集まるすべを身につけているように思われるからである。私たちは、十回以上も、私たち自身の功績など持ちえないと告げられた後でさえ、それを持っているかにようなしかたで行動し始める。そして、その教理においては、私のあらゆる清新な泉はキリストのうちにあります、と云う人であっても、まだ、まるで自分で自分の清新な泉を有しているかのように考えたり行動したりするのである。その人は、まるで自分の支えが自分自身であるかのように嘆いたり、自分の救いが自分自身の功績にかかっているかのように呻く。私たちがしばしば自分の魂の中で行なう話し方は、まるで福音を全く信じていないかのような、むしろ、自分の行ないによって、また、自分の被造物としての善行によって救われることを希望しているかのようなものである。おゝ、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知らないことにするという、より強い決心ができればどんなに良いことか! 願わくは神が私に、自分自身その決意をさせてくださるように。また、あなたがた全員に、私とともにそう決意させてくださるように。私はある日、ある田舎の人が説教しているのを聞いていたが、その人はその説教の前半は非常に立派に語っていた。だが、終わりにさしかかったとき、その人はまるで支離滅裂になってしまった。そこで彼の兄弟は彼に云った。「トム。おめえの説教の終わりの方で、おめえがうまく説教できなかったわけを教えてやらあ。おめえは前の方でうまく話しすぎたんで、悪魔がこっそりこう云ったのよ。『うめえぞ、トム。えらく上手にやってるじゃねえか』。そして、悪魔がそう云ったとたんに、おめえは思ったのよ。『トムってやつあ、立派だなあ』ってな。それで、そんとき主はおめえを捨ててかれたのよ」。トムにとって、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほか何も知るまい、また、トムなどまるで知らないことにしよう、と決心できていたとしたら、どんなに良かったことであろう。それこそ、私が自分でも知りたいと願っていることである。というのも、もし私が高みから来る力のほか何も知らないとしたら、私は決してある時の方が別の時より力弱く感じるようなことはありえず、自分が弱いときの方が、キリストの力が私にとどまる余地があるがために、その弱さを誇りにできるからである。

   「われは誇らん わが弱さ
    主の御力の とどまらんため。
    われ弱きとき われ強し、
    恵みぞわが盾、主こそわが歌」。

兄弟たち。あなたにとって、また私にとって、自分についても、自分の行ないについても何も知るまいと決意するのは良いことである。ならば、愛するジョン君。これからは、君自身のことは何も考えることをせず、ただイエス・キリストだけを知るようにするがいい。ジョンは好きなところへ行かせて、あなたはジョンの力にではなく、キリストの力を頼りにするがいい。それから、そこのピーター君。ピーターについては何も知ることはない。「たとい全部の者があなたを否んでも、私は決して否みません」*[マタ26:33]などと誇ってはならない。むしろ、ピーターの主イエス・キリストがピーターの中で生きておられることを知るがいい。そうすれば、君は十分慰めに満ちて進むことができよう。

 決心するがいい。キリスト者よ。神の恵みによって、あなたの目を健全なものとし[マタ6:22]、あなたの信仰をただ主イエスの上にのみ据え続け、自分の行ないや、自分の力を決してつけ足したりしないようにしよう、と。また、決心するがいい。自分の道を喜んで進み続け、キリストの十字架をあなたの誇り、あなたの栄光、あなたのすべてとして歌い続けよう、と。私たちはみな、これから私たちの《主人》の晩餐の席に集おうとしている。そして私が望むのは、そこにおいて私たちがイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方を知ろうと決心するようになることである。願わくは主が、私たちにその祝福を与えてくださるように! アーメン。

----


(訳注)

*1 ディオゲネス (412?-?323BC) 。シノペ生まれで、アテネで生活した古代ギリシアの犬儒派の代表的哲学者。樽の中に住むなどの奇行で有名。航海の途中海賊に囚われて奴隷に売られ、コリントに連れて行かれて、同地で没した。日中に角灯を灯してアテネの雑踏の中を歩き回り、「[本当に人間の名に値する有徳な]人間を探しているのだ」、と皮肉ったという。[本文に戻る]

*2 「エウレカ、エウレカ」。アルキメデスが王冠の金の純度を測る方法を発見したときの叫び。[本文に戻る]

 

十字架につけられたキリスト[了]

HOME | TOP | 目次