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キリストとの交わり――バプテスマ式における説教

NO. 2668

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1900年4月1日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1858年前半、木曜日夜の説教


「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」。――アモ3:3


 「ともに歩む」という表現は、聖書の中でしばしば交わりの象徴として用いられている。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」[創5:24]。交わりは、それが徹底的で全きものである場合、活動をも含んでいる。それは単なる黙想ではない。行動である。こういうわけで、歩くことが活発な運動であるからには、また、ある人とともに歩むことがその人と交わること、活発に交わることであるからには、歩むことがキリストとの真の交わりを象徴するようになるのも納得できる。ある老清教徒はこう云った。「エノクは、神のもとに行ったり来たりしていたとは云われていない。『神とともに歩んだ』のである」。その旅の間中、彼は神を自分の道連れにしており、自分の《造り主》との絶えざる交わりのうちに生きていた。

 「ともに歩む」という言葉には、別の意味合いも含まれている。それは活動するだけでなく、継続することでもある。それで、キリストとの真の交わりは、ただの気まぐれの衝動でも、無我夢中の興奮でもない。むしろ、もしそれが聖霊のみわざだとしたら、また、もしそれが健全な魂の有するものだとしたら、継続的なものとなるであろう。

 それはまた、進歩をも暗示する。というのも、ともに歩む際に私たちは、同じ場所で足踏みするのではなく、自分の旅路の果てにより近づいて行くからである。そして、キリストとの真の交わりを有している人は進歩しているのである。むろんキリストが、より卓越するお方となることはできない。すでに完璧に達しておられるからである。だが私たちは、その完璧さに近づけば近づくほど、イエスとのいやまさる交わりを有することになる。そして、私たちが進歩しない限り、また、信仰においてより幼子のようになり、より知識において教えられ、より奉仕において勤勉にならない限り、また、私たちがより熱心で熱烈な者になることを求めない限り、私たちは、そのように立ち止まっていることによって、《主人》の臨在を失っていることに気づくであろう。というのも私たちは、主とともに追い続けることによってのみ、主とともに歩み続けることができるからである。それゆえ、あなたは素直にうなずけるであろう。ある人と歩むということは、主との交わりを示すうってつけの比喩であり、「神とともに歩む」という言葉は、神との交わりを示す抜群の表現である、と。こういうわけで、本日の聖句は、その書き方そのものによってこう暗示しているのである。ふたりの者は、一致していない限り、ともに歩むことはできない、と。そして、そこから私たちが教えられるのは、キリストと一致していない限り、キリストとの交わりという甘やかな状態に達することはできない、ということである。

 私たちが第一に注意したいのは、ここで言及されている一致である。第二に努めて注意したいのは、この一致の必要性である。それから第三に、私たちがすべてのキリスト者に願いたいのは、キリストとのこの一致を求めること、そのようにしてキリストとの完全な交わりを持てるようになることである。

 私は、外の世界に対してというよりは、内側の教会に対して語りかけるであろう。救いの福音を宣べ伝えるとき、私たちは世に対して説教する。だが、交わりは至聖所に似ている。救いそのものは、祭司たちの庭にすぎないと思われる。だが交わりは最も内奥の場所であり、幕の内側にあり、そこにはキリスト者のほか誰も入ることを許されない。

 I. まず第一に、キリスト者よ。私たちが努めてあなたに示したいのは、あなたの主とあなた自身の間に存在していなくてはならない《この一致とは何か》ということである。それがなければ、あなたは主とともに歩むことができない。それを私たちはごく単純なしかたで行なうことにしよう。この比喩に即して考えると、ある人が別の人とともに歩くためにはいくつかの事がらが必要であることが分かる。

 では最初に、確実きわまりないこととして、キリストとともに歩みたければ、私たちは同じ通り道を歩かなくてはならない。ふたりの者は、ひとりが頭をある方向に向け、もうひとりが頭を正反対の方向に向けているとしたら、一緒に歩くことはできない。ひとりが右に向かい、もうひとりが左に向かうとしたら、ともに歩くことができない。遠回りして同じ行き先に辿りつくこともあるかもしれないが関係ない。同じ路に沿って歩かない限り、彼らは一緒に歩けない。確かに彼らは、何米か離れていても、多少の会話を交わすことはできる。だが、もしひとりが路の片側を歩き、もうひとりが反対側を歩くとしたら、彼らの交わりはかなり疎遠なもの、彼らの愛はかなり冷え冷えとしたものと考えられよう。しかし彼らは、同一の路を寄り添って歩けば歩くほど、互いに交わりを保つことができるのである。

 さて、神の子どもたち。あなたは、あなたの良いわざによって救われることはできないし、あなたの救いは、あなたの行ないにかかってはいない。にもかかわらず、覚えておくがいい。あなたの交わりは、わざと行ないにかかっているのである。あなたがキリストと交わりを有していながら、そのご命令に不従順であるということはありえない。キリスト者が過ちを犯した場合、彼は非常な苦痛をもって刺し通される[Iテモ6:10]。神の子どもが神の道を捨て、悲しいかな、私たちがしばしばするように、踏み越し段を越えて横道の牧草地に下っていくとしたら、彼が自分の《主人》を横道の牧草地へと連れて行くことはない。もし私たちがわがままになり、自分勝手な通り道を選ぶとしたら、自分ひとりでその通り道を行かなくてはならない。もし私たちが、何か底の浅い快楽、あるいは何か自分の思い描いた利得のために、火と雲の柱に従う代わりに自分の願望という鬼火に従って行くとしたら、私たちはひとりきりで暗闇の中を行くしかない。キリストは、義務が私たちを召し出すところならどこへでも私たちに伴ってくださる。たとい義務が私たちを燃える火の炉へと召し出すとしても、人の子はそこにいてくださる。たとい義務が私たちを獅子の穴の中に召し出すとしても、主はそこにいて獅子たちの口をふさいでくださる。もしダニエルが義務をないがしろにして、目前の破滅を避けようとしていたならば、主は彼とともにそこに下って行かれなかったであろう。確かに主は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴとともに、火の燃える炉の熱の中に入ってくださったが、もし彼らがあの像の前にひれ伏していたとしたら、彼らとともに行くことはなさらなかったであろう。「もしあなたがたが、わたしとは逆方向に歩むのなら」、と主は云われる。「わたしは、あなたと逆方向に歩もう」。

 ここで私は、いま述べたことが誤解されないように説明を加えなくてはならない。私は決して、キリストがその民を捨てて、彼らが滅びるようにされると云っているのではない。むしろ、主が彼らを捨てるのは、ご自分との交わりを彼らから取り上げるためである。というのも、もう一度云うが、救いは良いわざにかかってはいないが、交わりは良いわざにかかっており、キリストと罪に満ちた魂との間にはありえないからである。人は多くの罪にまみれていても救われた人でありえるし、多くのもろさ、弱さが私たち全員にへばりついている。しかし、もし私たちが罪の中を歩んでいるとしたら、もし私たちが何らかのしかたで神の命令を破っているとしたら、私たちの魂とキリストとの間には、私たちの罪の度合に応じた隙間ができるであろう。罪は私たちを殺さないかもしれないが、私たちを病ませる。それはキリストの右の手を私たちの上から遠ざける。それゆえ、キリスト者よ。あなたの《主人》と同じ足取りで歩むよう気をつけるがいい。その律法に従順であるようにするがいい。曲がったよこしまな世代のただ中にあって、正しく、慎み深く、敬虔に生活するがいい[テト2:12]。主に従い通したカレブ[民14:24]のようになるがいい。あらゆる道において主のみこころを学ぶように努め、それを行なうようにするがいい。あなたの主がお定めになったあらゆる道を辿ってあなたの旅を続けるがいい。主のあらゆる規定を覚えておき、主のあらゆる戒めを果たし、主のあらゆる経綸に身を服させるがいい。悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない[詩32:9]。むしろ、あなたは主ご自身の目によって導かれ、主の命令の道を走るがいい。そうすれば、あなたはそれが喜ばしい路であることに気づくであろう。これが第一の点である。ともに歩む者たちは、同じ道を行かなくてはならない。

 さらに、同じ道を行く際には、同じ動機をもって行かなくてはならない。ふたりの人は、同じ道を行くかもしれないが、彼らが非常に相容れない目的を目指しているとしたらどうだろうか。ある弁護士は、自分が金品を巻き上げようとしている人と相並んで歩んでいる。そのあわれな男が、旅の終わりには素寒貧にされていると知ったが最後、ふたりの旅人の間にはいかなる交わりもなくなるであろう。かりにふたりの人が同行していて、ひとりが、もうひとりを訴えようとしているとしたら、彼らの間には何の交わりもないであろう。かりに彼らが互いに相争おうとしているとしたら、彼らの間には何の交わりもないであろう。かりにふたりが同じ選挙に向かっていても、別々の候補者に投票しようとしているとしたら、おそらく彼らはあまり甘やかな会話を交わさないであろう。たとい同じ道を通っていようと関係ない。そのように私たちは、単に同じ路を行くだけでなく、同じ動機をもってそうしていることが必要なのである。

 ことによると、あなたは尋ねるかもしれない。「私たちがキリストと同じ路を行きながら、同じ動機からそうしていないなどということがありえるでしょうか?」 確実にありえる。ある人は、全くキリスト者と同じくらい聖い人に見える。《主人》に本当に従っている人と同じくらい主に対して従順に見える。種々の儀式について云えば、その人は真っ先にそれを守る。道徳的な義務について云えば、この上もなく几帳面にそれを果たす。だが、なぜそのようにするのかと彼に尋ねると、彼は云うのである。それによって自分の魂を救いたいからです、と。たちまち彼とキリストはよそよそしい関係になる。キリストはそのような者を反キリストと呼び、両者は不倶戴天の敵となる。あなたは自分で自分を救おうとしているのではなかろうか。ならば、あなたは一個の救い主となろうとしているのである。一方、キリストは《救い主》であられる。それで、あなたと主は敵対しているのである。だが、もしあなたがこの路を旅しているのは恵みによって救われるためであり、あなたの唇によって、あなたの生き方において感謝を表わしたいと願っているとしたら、あなたはキリストの王としての、あるいは祭司としての職務からそのいかなる威厳も奪いたがってはいないのである。あなたは自分を別の王としてシオンに立てようとは願っていないのである。しかし、もしあなたがこの路を歩んでいる動機がキリストに反するものだとしたら、あなたはキリストといかなる交わりも持つことができない。

 主の晩餐においては、キリストとの非常にほむべき交わりを持てる。だが、もし誰かが主の晩餐のもとにやって来るとき、それを自分に善を施し、自分の魂を救ってくれるものとしか考えていないとしたら、その人にとってはキリストとのいかなる交わりもない。なぜなら、それがキリストの目的ではないからである。バプテスマについても同じである。この規定は、その死と埋葬におけるキリストとの交わりを持つためのほむべき手段である。だが、もし誰かがバプテスマを受けたいと願うのが、この規定を守れば自分の魂が救われるだろうと考えてのことだったとしたら、そこには何の交わりもない。もし誰かがその行為に、キリストがお命じになった以上のことをつけ加えるとしたら、また、それゆえに、それを果たすことが私たちの義務となるとしたら、――もしある人が水そのものに、また、からだがそこに沈められることに、何らかの効験を想定したら、その瞬間に交わりはやんでしまう。というのも、私たちは、キリストの動機をもって、あるいはキリストの心にかなった何らかの動機をもって何事かに取り組むのでない限り、キリストとともに歩むことができないからである。ふたりの者は、一致しない限り一緒に歩くことができない。彼らが歩く道において一致するのみならず、その道を歩く目的においても一致していない限りそうである。

 さらにまた、ふたりの者は同じ路を歩み、かつ、同じ目的をもって歩んでいながら、だがしかし、同じ歩調で旅をするのでない限り、互いに語り合うことができないかもしれない。もしある人が今晩さっさと自分の家に帰って行き、同じ家に住んでいるもうひとりの人がのろのろぐずぐずと帰って行くとしたら、ふたりは同じ街路を行くかもしれないが、互いに一言も口をきかないであろう。ひとりは、もうひとりが帰り着くずっと以前に家に着くからである。それで、私たちは自分が旅をする歩調において一致しなくてはならない。なぜ多くのキリスト者たちはイエスと何の交わりも持っていないのだろうか? それは、彼らが天国に赴くのがあまりにものろいため、主イエスは彼らを後に残して去ってしまわれるからである。彼らはあまりにもなまぬるく、冷たく、無関心で、ほとんど熱心さがなく、ほとんど愛がなく、神の栄光を現わしたいという真の願いがほとんどない。それでイエスの敏捷な心は、彼らと一緒にとどまるよう抑えておけないのである。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は自分にできる限り早く旅をしています。ですが、あわれな、か弱い生き物でしかありません。私は他の人々が走っているのを見るとき、しばしば這いずっています。また、私が走っているとき、私はしばしば他の人々が飛んでいるのを見るのです」。愛する方々。キリストはあなたの歩みを、あなたが先へ進む速度で測ってはおられない。あなたの願いがだれているとしたら、主イエスはあなたを置き去りにして、先に進んで行くであろう。そして、あなたはおそらく、自分の背後に患難の鞭が迫り、あなたの魂をもっと迅速に旅をするよう追い立てることに気づくであろう。ジョン・バニヤンはそれを見事に描写している。彼は云う。「もしもあなたが薬を買いに下男を遣わし、彼が自分にできる限り早く行ってきたとする。もしかすると、彼はあわれなやせ馬に乗って行くかもしれない。そして、彼はそれを早く走らせることができないかもしれない。だが、主人は、その馬の速度で早さを測るのではなく、そのしもべがその馬を走らせたいと願った速度で測るであろう。そして、こう云うであろう。『あの男は、それができたとしたら、速く行ったであろう。もし彼が元気盛んな馬に乗っていたとしたら、とっくの昔に戻って来て、あの薬を持ち帰っていることであろう』」。私たちのあわれな血肉もそれと同じである。これほど情けないしろものに乗っていては、私たちはお話にならない歩調でしか進むことができない。だが主イエスは私たちの歩調を実際に移動した距離によってではなく、私たちの願望によってお測りになる。祈る際の私たちが、このあわれな血肉を献身や熱心のようなものに上らせようと、いわば、蹴ったり、拍車をかけたり、手綱を引いたり、さんざん苦労しているのをご覧になるとき、主はそうしようという意志を受け入れてくださり、キリストは、このようにあわれな弟子である私たちとさえ交わりを保つために立ち止まってくださる。しかし、私たちの願いが冷淡で、私たちが怠惰になり、キリストのために僅かしか、あるいは全く何も行なわない場合、主イエスがこう仰せになるとしても何の不思議があるだろうか? 「彼はわたしのことばを守らず、わたしの云いつけに従っていない。わたしは彼とともに食事をせず、彼もわたしとともに食事をすまい。わたしは彼を生かしておくのに十分なだけの慰めを与えよう。彼の魂を本当の意味では飢えさせないだけの霊的食物は与えよう。だが、わたしは彼に粗末な食物を食べさせ、彼が心底からわたしに立ち返るのを待とう。そのとき、わたしは彼をわたしの胸に抱きしめ、わたしの愛を示すことにしよう」。

 もう1つのことがある。ふたりの人が同じ路を、同じ意図をもって、同じ歩調で旅していながら、互いに交わりを持つほどにともに歩んではいない場合もありえる。それは、彼らが互いを好きではないからである。何の愛もないところには(そして、ことによると、それこそ、この聖句の完全な意味かもしれない)、何の交わりもありえない。ふたりの者は、心において一致していない限り、ともに歩むことができない。あなたも知っての通り、私たちには、非常に卓越した超カルヴァン主義者の友人たちがいる。さて、かりにそのひとりがアルミニウス主義者に出会った場合、このふたりがいきなり親しい会話を始めるとは考えられないであろう。そこには、口やかましい云い争いか、罵り合いしかないであろう。かりに、善良な厳格バプテスト派のある兄弟が、ずっと広範な原則に立っている私たちに向かって話をしているとする。彼はその重い武器で私たちを打ち、主イエス・キリストを愛するすべての人々を愛するという大罪のかどで私たちを切り伏せるであろう。私たちは、主が受け入れておられると信ずるすべての人を主の晩餐に迎え入れる。しかし、交わりに関する限り、私たちの兄弟は、路の別の側に行かざるをえないであろう。彼の考えるところ、彼自身の見解の沽券にかけても、多少の区別、多少の分け隔てが保たれなくてはならないのである。そして、私たちの知る通り 一部の兄弟たちは、ことのほか気にさわる気質をしている。彼らは逆鱗と針を身にまとっているかのように思われる。たまたま彼らと行き会うあらゆる人を突き刺し、苛立たせるのである。そうした人々と交わりを持つことはできない。彼らと同じ路を歩むことは不可能である。彼らはあなたの云うことを誤解するに決まっているので、道中ずっと沈黙を守っている方がましだと感じるであろうからである。心における一致、意見における一致がなければ、ふたりの者はともに歩めない。

 おゝ、信仰者よ。あなたは主イエスと心が一致しているだろうか? さあ、あなたはキリストを愛しているだろうか? キリストのことで心が一杯になっているだろうか? 一度でも、キリストを賛美しよう、その御名をほめたたようとしたことがあるだろうか? キリストのことを万人よりすぐれ、そのすべてがいとしいお方と思っているだろうか?[雅5:10、16] また、キリストがあなたのことを好ましく思っておられると感じているだろうか? 主はあなたに向かって、「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」[雅4:7]、と云われたことがあるだろうか? あなたの心に向かって、優しいことばをかけてくださったことがあるだろうか? それによって、主のあわれみの心は自分に親愛の情を寄せているのだと思わされたことがあるだろうか? あゝ、ならば、あなたとあなたの主において交わりはたやすいことである。あなたがたの2つの魂は、同じいのちのうちに束ねられているからである。それゆえ、あなたとキリストがともに歩むことは可能である。あなたと主は意見を同じくしているだろうか? キリストのことばはあなたの教理だろうか? あなたは、イエスから出たもの以外のあらゆる神学を放棄するように教えられているだろうか? 主についてこう云えるだろうか? 「彼こそ律法および福音における私の唯一のラビであり、私の唯一の《教師》です。彼の足元に私は、マリヤとともに座って、そのことばを受け入れることができます。彼が口にしたあらゆることを神の真理そのものとであると信ずることができます」、と。だとすれば、信仰者よ。あなたとキリストが互いに交わりを持つことはたやすい。というのも、ふたりの者が思いと、意図と、道と、情愛において一致しているとき、彼らはともに歩むことができるからである。

 私はこの最初の点に時間をかけすぎてしまった。それで、もう2つの点はごく手短に示唆するだけとしなくてはならない。

 II. 第二の点は、《この一致の必要性》である。

 最初のこととして、私たちがご自分と一致しない限り、キリストが私たちとともに歩まれないのは、そのようなことをすれば、ご自分の誉れの汚点となるからである。否、それより悪いことに、それはご自分のご性格を否定することになるであろう。キリストはベリアルと調和しようとすべきだろうか?[IIコリ6:15] 肉の欲にふけり、主の命令に背いている者たちに対して、気安く声をかけられるようなお方となるべきだろうか? 国王の息子が謀反人たちと手に手を取って歩んでいるのは、見苦しい姿であろう。一国の精華たる者が、極悪人とともに群がっているのを見るとしたら、私たちはそれを良いしるしと考えるべきではない。キリストは交際する相手を選ぶ。そして、もし私たちの心が聖霊によってきよめられていないとしたら、主は私たちのもとにやって来もしないであろう。ご自分の子どもたちであっても、彼らが罪をかくまっている限り、彼らととどまりはしないであろう。あなたの心の前室に悪魔を入れたなら、キリストもやって来ることはないであろう。しかり。そのようにすることは主ご自身の威厳を失墜させ、ご自分のご性格を侮辱することとなるであろう。もしもあなたが、自分の心を何らかの野心的な願望にふけらせているとしたら、私のもとにおいでください、と招くことによって、《救い主》に侮辱を与えることなどできないはずである。私たち自身の家においても、私たちは敵対し合っているふたりの人を招待しはしない。では、キリストは、罪が統治している場所、あるいは、罪が甘やかされ、ほしいままにふるまわされている場所においでになるだろうか? 否。兄弟たち。主は最善の人の心にも罪があることを知っておられる。だが、それが抑えつけられている限りにおいて、また、私たちの願いがそれを打倒することにあるのをご覧になる限りにおいて、そこにやって来てくださる。だが、ご自分の宮殿となるべき場所で罪が愛玩され、養われているのをご覧になるとき、自分を義とし、自分を安泰だとする思いがそこでいだかれているのをご覧になるとき、主は云われるのである。「わたしは、彼らが自らの罪を悔い改めない限り戻って来るまい」。

 あなたがキリストと一致しない限り、キリストと交わることができない理由がもう1つある。それは、あなた自身、そうすることができないからである。あなたの魂がキリストと一致していない限り、また、動機と、目当てと、意志においてあなたが、可能な限りあなたの《主人》に似た者になっていない限り、あなたは主との交わりという尊厳さに上ることはできない。キリストとの交わりは高貴な特権であり、悪い肉的な卑しい願いにふけっている限り、いかなる者もそこに達することはできない。心はキリストの似姿になっていなくてはならない。聖霊によってきよめられ、新しくされていなくてはならない。さもなければ、それはその翼を失い、キリストが御民のその愛をお示しになる地の高みに舞い上がることができない。

 私たちがキリストと一致していない限り、キリストが私たちと交わることをなさらない理由はもう1つある。すなわち、私たち自身の益のためである。キリストは、御民がご自分と調和しない限り、彼らと甘やかな交わりを持てないし、持つおつもりもない。もしキリスト者たちがキリストの通り道からそれ、主の道から後退していくのに、なおもキリストが彼らを愛の饗宴で楽しませなさるとしたら、彼らは自分の罪を悟らず、そこにとどまり続けるであろう。過ちを犯している子どもに、父親が以前と変わらない愛情をふんだんに表わし続け、その鞭を遠ざけ、決して何の峻烈な言葉も発さず、罪を犯している子どもを、義務を果たす従順な子供に対するのと同じ愛をもって遇するとしたら、その子が自分の過誤を捨て去る見込みなどどこにあるだろうか? もしキリストが、義務を果たす者、義務を果たした者に対して与えるのと同じ愛、同じ楽しみを、罪を犯している者、罪を犯した者に対してお与えになるとしたら、主の民は到底自分たちの罪を悟らず、そこにとどまり続けるであろう。だが主は、痛みを病の告げ口屋とし、頭痛がすれば五体に何か悪い所があるしるしとなさったのと全く同じように、ご自分との交わりの不在を告げ口屋として、それによって私たちが自分の魂の内側に何か主に敵対するもの、それを追い出さなくては神聖な《鳩》が慰めの翼をもって私たちの心の中に宿るためやって来られないものがあることを分かるようにしてくださったのである。「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか?」 否。それは不可能である。

 III. さて第三に私があらゆるキリスト者に促したいのは、《キリストとのこの一致を求める》ということである。

 愛する兄弟姉妹。あなたがキリストと一致できるようになるため、私はまず、このことをあなたに思い起こさせたいと思う。あなたには、聖霊の絶えざる内住が伴っていなくてはならない。キリストに宿っておられるのと同じ御霊があなたに宿っていない限り、あなたの一致は決して、いかなる深さの、あるいは間近な結び合いを許すほどの高さにも決して上ることはできない。よくよく注意して、高みからの油注ぎを、《イスラエルの聖なる方》の内住を絶えず求めるようにするがいい。あなたの心に天来の影響と、御霊の聖なる火によるバプテスマとが授けられている程度、割合に応じて、あなたの魂はキリストと一致するようになり、あなたの結び合いは真実で、親密で、永続的なものとなるであろう。そのことに留意するがいい。

 それから次に、そうした天来の影響の下で、あなたのあらゆる動機によくよく気を配るがいい。あなた自身の誉れ、あるいはあなたの同胞の誉れを得ようとするような、いかなる目当ても求めてはならない。あなたが行なうすべてのことにおいて、あなたの《主人》の誉れだけをひたむきに目指すよう注意するがいい。というのも、あなたの目が健全でない限り、あなたの全身は暗くなるからである[ルカ11:34]。もしあなたがあなたの《主人》の御顔の陽光をかちとりたければ、主の栄光を――主の栄光だけを――求めなくてはならない。

 それから、もしあなたがキリストと結び合いたければ、次のこととして、すべてのことを主に頼って行なうように注意するがいい。もし、あなたの魂の事がらにおいて、あなた自身で事を始めるとしたら、キリストはあなたと敵対なさるからである。あなたの目を導きのために主に注ぐだけでなく、支えのためにも主に注ぐようにするがいい。そして、祈るときも、説教するときも、説教を聞くときも、あらゆることにおいて、主を頼りとするがいい。そのようにしてキリストとあなたの魂は一致するのであり、あなたはキリストと交わりを持つからである。

 そして最後に、より聖くなることを絶えず慕いあえぐがいい。決して今のあなたに満足してはならない。さらにさらにキリストに似た者になろうとするがいい。そして、そのようにして、そうした聖さへの願いが最も強くなるときに、あなたはキリストが有しておられるのと同じ願いを持つであろう。というのも、主の願いは、主が聖くあられるように、あなたが聖くなることだからである。そして主はこう命令しておられるのである。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」[マタ5:48]。そして、あなたの願いがキリストの願いとなるとき、そのとき、あなたがキリストとともに歩むことは可能になるであろうが、それまでは不可能である。

 私が切望するのは、教会が主イエス・キリストと完全に一致することである。というのも、それはハデスの門も決して打ち勝てない教会となるからである。もしある教会が、ひとりの人によって建てられているにすぎなければ、その人が死ぬとき、その教会も滅びてしまうであろう。もしある教理が、ひとりの人によって教えられているにすぎなければ、また、あなたがそれをその人の権威に基づいて受け入れているとしたら、その人の権威は、地上のあらゆるものがそうであるように過ぎ去ってしまうであろう。だが、もしそれが神から出たものだとしたら、それと戦おうとする者は災いなるかな! 決してそれには打ち勝てないからである。この石に自らを打ちつける者は災いなるかな。その人はばらばらに砕け散るからである。だが、もしこの石がその人の上に転がってきたとすると、それはその人を粉微塵にしてしまうであろう! いかなる教会をも、その教理において、規定において、祈りと賛美において、神の《教会》としようではないか。そうするとき私たちは、その《教会》がダニエル書に記されたあの「人手によらずに切り出され」た[ダニ2:34]石のようになると分かるであろう。何者も《教会》を打ち砕くことはできないが、《教会》はあらゆる敵対者を粉々に砕き、全土に満ちるであろう。

 さて、ここにいる何名かの方々は、このバプテスマ槽の中にキリストとともに歩み入ろうとしている。ここで、ふたりの者は一致していないのにともに歩めるだろうか? あなたは、この水槽に歩み入ることはできるかもしれない。だが、キリストと一致していない限り、キリストを自分とともにやって来させることはできない。もしあなたがキリストとの一致なしにやって来るとしたら、あなたは、このことをあなたの人生から脱ぎ捨てるか、後退するかして、もはや主とともに歩まなくなり、主につまずくであろう。覚えておくがいい。兄弟姉妹。あなたがたの2つの心が一致していない限り、また、キリストとあなたの心が1つにされていない限り、あなたがたはじきにばらばらに離れてしまうであろう。キリストは、長いことあなたと仲良くしてはおられないであろうし、あなたもキリストと仲良くしていられないであろう。あなたの信仰告白は、それが真実で、現実のもの、心の内側を云い表わしたものでない限り、結局は短命なものとなるであろう。私は願う。今晩のあなたがたの信仰告白が真摯なものであり、あなたがこの世に対して、あなたの主であり《主人》であるお方との真の、救いに至る、全き一致を証しするようにと。そして、もしあなたがたの中の誰かがキリストと一致していないとしたら、私は切に願う。この期に及んでも良いから、これ以上先に進んではならない。徹底してキリストと一致していない限り、この水槽に入ってはならない。生ける神の御名において、私はあなたに命ずる。最後には神の法廷に立たなくてはならない以上、いま偽善者となってはならない。真摯であるがいい。というのも、もしあなたが自分自身を全くキリストにささげないとしたら、あなたは、ふさわしくないままで主の晩餐に着き、その飲み食いによって自分の魂に審きを招く者たち[Iコリ11:29]と同じようなことをしているのである。というのも、偽善者としてバプテスマ槽に沈められる者たちは、自らの断罪へと沈み込まされるからである。しかし、おゝ、あなたがた、イエスに従う者たち。あなたは私たちに、信仰にあるあなたの交わりを証ししてくれた! 今それを人々の前で告白することを恐れてはならない。そして、願わくは神があなたがた全員の名前を、最後のとき、《小羊》に従う者の間に認めてくださるように。その愛する御子のゆえに! アーメン。

 

キリストとの交わり――バプテスマ式における説教[了]

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