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御民のためのキリストの死

NO. 2656

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1900年1月7日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年冬、主日夜の説教


「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。――Iヨハ3:16


 さあ、信仰者よ。この崇高な真理を熟考するがいい。これは、きわめて簡素に、すっきりと宣言されている。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。この文章には、一言も物々しい言葉はない。これは、ありうべき限り最大限に簡素である。また、これが簡素なのは、崇高だからである。思想における崇高さは、常にそれを表現する言葉が簡素であることを要する。ちっぽけな思想は、大仰な言葉を用いないと説明できない。ちっぽけな説教者は、自分のか細い観念を伝えるのにラテン語を用いなくてはならない。だが、偉大な思想や、そうした偉大な思想の偉大な表現者には、小さな言葉で事足りるのである。

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。ここには、人が自分の雄弁さを披露できるようなものはあまりない。形而上学的な論議や、深遠な思念のための余地はほとんどない。私たちの前に置かれた聖句は、簡素でありながら、崇高な教理である。ならば、私はこれをどう扱えば良いだろうか? もし私が、これについて自分にとって有益になるような話をしようというなら、何の機知を用いなくともこれを分解でき、何の雄弁術を用いなくともこれを宣言できる以上、私は自分の賞賛の念を発揮してこれを礼拝することにしよう。自分の有するいかなる知力や能力も御座の前で倒れ伏させ、自分の務めを終えた際の御使いのように、また、主に命ぜられて飛んで行くべき場所がどこにもない際の御使いのように、私の熟考の翼をたたみ、この偉大な真理の御座の前に立ち、柔和に頭を垂れて、昔いまし、今いまし、これから来られるお方を――「私たちのために、ご自分のいのちをお捨てにな」った大いなる、栄光に富む《お方》を――礼拝することにしよう。

 この講話の取りかかりにあたり、あなたに思い起こしてもらった方が良いと思うが、キリストの死を理解するには、キリストのご人格を理解することが不可欠である。もし私があなたに、神は私たちのために死なれた、と告げていたとしたら、それは真実であったろうし、ことによると、あなたも私の言葉を誤解しないかもしれない。だがそれでも、それは間違いを口にすることでもあったろう。神が死ぬことはありえない。云うまでもなく、神のご性質そのものからして、神が一瞬たりとも存在するのをやめることはできない。それは不可能である。神は、苦しむことができない。確かに私たちは時々、神の側の情緒を表現するような言葉を用いるが、神が何かを耐え忍ぶなどということはありえない。いわんや、神が死をこうむるなどということは不可能である。だが、本日の聖句を含むこの節では、「それによって私たちに神の愛がわかったのです」、と告げられている <英欽定訳>。あなたは「神の」という言葉が、翻訳者の挿入したものであることに気づくであろう。英欽定訳でそれらが斜体字になっているのは、原典にはそれがないからである。より良い翻訳は、「それによって私たちに愛がわかったのです」、である。しかし、英欽定訳に「神の」と記されているため、無知な人は神が死ぬこともありえるのだと想像させられるかもしれないが、神が死ぬことはありえない。私たちはこのことを常に理解し、絶えず覚えていなくてはならない。すなわち、私たちの主イエス・キリストは、「まことの神よりのまことの神」[ニカイア信条]であったし、神として主は《いと高き方》のあらゆる属性を有しておられた。それゆえ、苦しむことも、死ぬこともおできにはならなかった。しかし、それだけでなく、主は人でもあられた。「母の本質から生まれた」[アタナシオス信条]人、罪だけを除き、私たちと全く同じような人であられた。そして主イエスは神として死んだのではなかった。人として主は霊をお渡しになった[ヨハ19:30]。人として主は十字架に釘づけられた。神としての主は、その肉体が墓の中にあった時でさえ天におられた。神としての主は、葦でできた、あの見せかけの笏[マタ27:29]を手にしていたときでさえ、天でその王笏を全世界の上に振るっておられたし、あの兵士の紫色の古外套がみからだの上に着せかけられたときも、主の《神格》の永遠の双肩には全宇宙の君主たる帝衣が打ちかけられていた。主は、人となったときも神であることをやめたことはなく、その《全能》、その永遠のご支配を失ったことはなかった。また、神として主は死んだことも、苦しんだこともなかった。主は、人としてこそ、「私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。

 今ここで、わが魂よ。この人を、この神を、礼拝するがいい。さあ、信仰者よ。あなたの《救い主》を見るがいい。全聖所の最も奥まった内陣に来るがいい。キリストの十字架を含んでいる内陣へ。そして、ここに座り、そこで礼拝しながら、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てにな」ったという事実から、3つの教訓を学ぶがいい。第一の教訓はこうである。――キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになっただろうか? あゝ! ならば、私の兄弟たち。いかに私たちのもろもろの罪は大きなものであったに違いないことか。それは他のいかなる代価によっても贖われえなかったのである! 第二に、キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになっただろうか? あゝ! ならば、愛する方々。いかに主の愛は大きなものであったに違いないことか! 主は、いのちそのものを放棄するまで、止めようとはなさらなかったのである。第三に、キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになっただろうか? あゝ! ならば、わが魂よ。元気を出すがいい。いかにお前は安全であることか! もし、このような贖いがささげられたとしたら、もしこのように確実な償いが《全能の神》に対してなされたとしたら、いかにお前は安泰であることか! このような《贖い主》の血で買い取られた者を、だれが滅ぼせるだろうか?

 I. さあ、それでは、信仰によって、まずこの悲しい事実を黙想してみよう。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになっただろうか? ならば、《いかに私のもろもろの罪は大きなものであったに違いないことか》

 あゝ! 私の兄弟たち。私は少し自分の経験について語ることにしよう。また、そうすることで、あなたの経験を述べることにもなるであろう。私は自分の罪を多くの異なるしかたで見てとってきた。私は、かつてはそれらをシナイに燃え上がる光によって見た。そして、おゝ! 私の霊は自分の内側で縮みあがった。というのも、私のもろもろの罪はこの上もなくどす黒く見えたからである。かの角笛の響きが高く長く鳴り響いたとき、また稲妻と火が私の心に閃いたとき、私は自分の魂の中に不義の地獄そのものを見た。そして、そのとき私は進んで自分の生まれた日を呪いたい気持ちになった。それほど私の有していた心は邪悪で、欺きに満ちていたのである。そのとき私は、自分の罪のこの上もない暗黒さを見てとったものと考えた。悲しいかな! 私は罪を見てとりはしたが、それを忌まわしく思い、それと手を切るほど十分には見てとらなかった。というのも、その罪の確信は過ぎ去ったからである。シナイは火山でしかなく、それは沈黙させられてしまった。その後の私は、再び罪とたわむれだし、罪をそれまでと同じくらい愛した。

 ある日、私は別の光景を目にした。私は、自分のもろもろの罪を天国の光によって見てとった。私は目を上げて、神の指のわざである天を見た[詩8:3]。私は、陽光に神のご性質の聖さが書き記されているのを悟った。神の聖潔が、聖書で啓示されているのと同じく、この広大な世界に彫り刻まれているのを見てとった。そして、自分を神とくらべてみたとき、私は自分がいかにどす黒いものであるかを見てとったと思った。おゝ、神よ! あなたのご性格の栄光を見てとるまで、私は一度も自分の咎の極悪さに気づいていませんでした。ですが今は、あなたの聖潔の輝きを見てとっており、私の魂は私の罪深さを思い、生ける神から自分がいかにかけ離れた者であるかを思って、投げ倒されています。そのとき私は、自分が十分に見てとったものと思った。あゝ! だが私は一瞬でも礼拝しようという気持ちにさせられるだけ見てとってはいなかった。むしろ、私の喜びは、夜明けの雲か朝露のようで、私が立ち去ると、自分がいかなるふうであったかを忘れてしまった[ヤコ1:24]。そうした神の威光の感覚を失ったとき、私は自分の咎の自覚をも失ってしまった。

 それから私のもとには別の光景がやって来た。そして私は、自分に対する神の恵みを眺めた。いかに神が私を《摂理》の膝の上であやしてこられたか、――いかに私が生まれてからこのかた持ち運んでこられたか、――いかに私の通り道に豊富なものを蒔き散らし、私にすべての物を豊かに与えて楽しませてくださったか[Iテモ6:17]を見てとった。私は思い出した。試練の時いかに神がともにいてくださったか、暴風の日いかに私を保ってくださったか、嵐の瞬間いかに私を安全に守ってくださったかを。私は、自分に対する神のいつくしみのすべてを思い出した。そして、神のあわれみに打たれて私は自分の罪を神の恵みに照らして眺めた。そして私は云った。「おゝ、罪よ。いかにお前は浅ましいことか。何と凄まじい忘恩を、かくも親切きわまりない神に対してお前は現わしていることか!」

 そのとき私は思った。確かに私は最悪の罪を見てとったに違いない、と。私はすでに罪のわきに、まず神のご性格を置いて、その後、神の恵み深さを置いていた。私は心底から罪を呪い、自分が罪の底を見きわめたと思った。しかし、あゝ! 私の兄弟たち。そうではなかった。その感謝の感覚は過ぎ去り、私は自分がなおも罪に傾きがちで、なおも罪を愛していることに気づいた。

 しかし、おゝ、そこに全く果報な、だが全く嘆かわしい時がやって来た! ある日、さまよい歩いていた私は、1つの叫び、1つの呻きを聞いた。私は、まさかこれは生身の人間が発した叫びではないだろうと思った。そこには、言葉に尽くせぬほど、驚くべき悲哀の深みがこもっていたのである。私は振り返り、何か大いなる光景を目にするものと予期した。そして、実際、私が見たのは大いなる光景であった。見よ。そこには、一本の木の上に、血まみれになった、ひとりの男が吊り下げられていた。私は、彼がその悲嘆のあまり、その肉を骨々の上でぴくぴく震わせているのに気づいた。私が眺めていると、黒雲が天から悲惨の戦車のように駈け降ってきては、彼の眉宇に暗黒をまとわせるのを見た。また、目が開かれた私には、その濃密な闇の中さえ見えた。そして私は彼の心が、暗黒に満ちたその天空と同じくらい憂悶と悲嘆の恐怖とで一杯になっていることを悟った。そのとき私は彼の魂の中をのぞき込んだような気がした。そして私がそこに見たのは、言葉に尽くせない苦悶の奔流――定命の唇では、火傷するような熱で焦がされるのが怖くてすすることもできないような、恐ろしい性格の苦悩の泉であった。私は云った。「この大いなる受難者はだれだろう? なぜ彼はこのような苦しみを受けているのだろう? 彼は、あらゆる罪人の中で最悪の者なのだろうか? あらゆる冒涜者の中で最も浅ましい者なのだろうか?」 しかし、卓越した栄光から1つの声がやって来て、こう云った。「これは、わたしの愛する子。だが、彼は罪人の罪をわが身で引き受けたのだ。それで、その罰を負わなくてはならないのだ」。おゝ、神よ! そう私は思った。私は、その時、生まれて初めて本当の意味で罪を見てとった。罪がキリストの種々の栄光をそのみかしらからむしり取るのを見、――それが一瞬の間、神の恵みをキリストから引き込めさせるかのように見え、――ご自分の血に染まったキリスト、悲嘆の大海の深淵に没入しきったキリストを見たそのときに。そのとき私は思った。「おゝ、罪よ。今こそ私はお前がいかなる者かを知ったぞ。今まで一度も知らなかったほどに!」 それまでのいくつもの光景は、私に悪のすさまじい性格の何がしかを教えたかもしれないが、私は木の上の《救い主》を見たとき初めて理解したのである。いかに人の咎は、人の神にとって卑しい反逆者であるかを。

 おゝ、天の世継ぎよ。あなたの目を上げて、あなたの主があなたのためにくぐり抜けられた、あの苦しみの光景を眺めるがいい! 月光の中を行き、あの橄欖の木々の間に立つがいい。主が大粒の血の汗を流しているのを見るがいい。その園を出て、ピラトの法廷まで主について行くがいい。あなたの《主人》が、この上もなく粗野で汚らわしい侮辱を受けているのを見るがいい。あの、しみ1つない美しい御顔が兵隊どものつばきによって汚されているのを見つめるがいい。主の頭に茨が突き刺さっているのを見るがいい。主の背中に注目するがいい。その全面は引き裂かれ、かき破られ、傷つけられ、痛めつけられ、恐ろしい鞭打ちを受けて血みどろになっていた。そして、おゝ、キリスト者よ。主が死ぬのを見るがいい! 云って、主の母が立っていたところに立つがいい。そして、主があなたにこう云うのを聞くがいい。「人よ。そこに、あなたの《救い主》がいます!」 今晩、来て、ヨハネが立っていたところに立つがいい。主がこう叫ぶのを聞くがいい。「私は乾く」[ヨハ19:28]。そして、自分が主の嘆きを和らげることも、その苦々しさを理解することもできないことに気づくがいい。そのとき、そこで泣いた後で、あなたの手を掲げて、叫ぶがいい。「復讐せよ!」 反逆者どもを引き出すがいい。どこに奴らはいるのか? そして、あなたのもろもろの罪がキリストの殺害者どもとして引き出されて来るとき、いかなる死に様もそれらにとってむごすぎるものとしてはならない。それが右腕を切り落とすか、右目を失わせ、その光を永遠に消すことになろうとも、それをするがいい! というのも、もしこうした殺害者たちがキリストを殺したとしたら、彼らを死なせるがいい。それらが、いかにすさまじい死に方をしてかまわない。否、死なずにすませてはならない。おゝ! 願わくは聖霊なる神があなたにこの第一の教訓、罪の果てしない邪悪さを教えてくださるように。私の兄弟たち。というのも、キリストが、ご自分のいのちをお捨てになって初めて、あなたの罪が拭い去られることができたからである。

 II. さて、私たちは第二の項目に移ることにする。そしてここで私たちは、自分の心を悲しみの深みから、愛情の高みへと引き上げるであろう。《救い主》はご自分のいのちを私のために捨ててくださっただろうか? 私たちは、今こう読むであろう。「キリストは、私のために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。そして私が主に願うのは、主があなたがたひとりひとりを助け、信仰によってそう読めるようにしてくださることである。なぜなら、私たちが、「私たち」と云うとき、それは総論を扱っており――それは、ほむべき総論であり、真実ではあるが――、だが、このたび私たちは、各論を扱うこととし、私たちひとりひとりがこう云うことにするからである。真実にそう云えるとしたらだが、「キリストは、私のために、ご自分のいのちをお捨てになりました」、と。ならば、《いかに大きな愛で主は私を愛しておられることか》

 あゝ、主イエスよ! 私があなたの愛を初めて知ったのは、私があなたの死の意味を理解したときでした。愛する方々。私たちは、もしできるものなら、私たち自身の経験を再び告げてみたいと思う。それによって、あなたに、神の愛をいかにして学ぶべきかを示すためである。来るがいい。聖徒たち。腰を据えて、あなたの創造について黙想するがいい。いかに奇しいわざによって[詩139:14]、あなたが形作られ、あなたの骨が組み合わされたことか注意するがいい。そして、そこに愛を見るがいい。次に注目すべきは、あなたが今いるところに、あなたを立たせた予定である。というのも、測り綱は、あなたの好む所に落ちたのであり、あなたのあらゆる苦難にもかかわらず、あなたは、多くのあわれな魂にくらべて、「すばらしいゆずりの地」[詩16:6]を有しているからである。それから注目すべきは、あなたを今のあなたにし、あなたを今あなたがいる場所においた予定である。それから、振り返って、今に至るまでのあなたの旅路のすべてにおいて明らかに示された、あなたの主の恵みを見てみるがいい。あなたは年老いつつある。あなたの髪は額の上で白くなりつつある。だが神は、昔からずっと、あなたを抱いて来られた[イザ63:9]。あなたの神、主が約束してくださったすべての良いことは、1つも違わなかった[ヨシ21:45]。あなたの生涯の物語を思い起こすがいい。いま立ち戻り、あなたの人生の綴れ織りを眺めて見るがいい。神が日々その愛という黄金の繊維で織り上げておられるその作品には、いかなる恵みの絵柄が浮かび上がっていることか。あなたは、イエスがあなたを愛してこられたと云えないだろうか? あなたの目を過去に向け、永遠の契約という古代の巻物を読み、あなたの名前が初子たち、選民たち、生ける神の《教会》の中にあるのを見てとるがいい。さあ、神はあなたの名前をそこに書かれたとき、あなたを愛していたではないだろうか? 行って思い起こすがいい。いかに永遠の財産授与がなされたかを。また、いかに神がすべてのことを定め、整え、あなたの救いが実現するようにしてくださったかを。では、そこには愛がなかっただろうか?

 あなたの罪の確信を思い出して立ち止まるがいい。あなたの回心のことを考えるがいい。あなたがいかに保たれてきたか、神の恵みがいかにあなたの上に働いてきたか、子とされることや、義認や、新しい契約の個々の項目すべてがいかになされてきたかを思い起こすがいい。そして、あなたがこうしたすべての事がらを総括するとき、この単純な質問をさせてほしい。――こうした事がらのすべては、私が今から言及する1つのことほどの感謝の念を、あなたのうちに生み出すだろうか? その1つのこととは、私たちの主イエス・キリストの十字架である。というのも、兄弟よ。もしあなたの思いが私の思いと似たものだとしたら、あなたは、神によって与えられたこうした事がらすべてをいかに高く評価していようと、こう告白せざるをえないであろうからである。十字架上におけるキリストの死は、それらすべてを呑み込んでしまう、と。このことを私は知っている。私の兄弟たち。私は過去を振り返ることも、先を見越すこともできるが、たとい永遠の聖定を振り返ろうと、かの真珠の門のある町を見越そうと、また神がご自分の愛する子どもたちのために蓄えておられる光輝のすべてを見通そうと、私の見る限り、何にもまして御父の愛が余すところなく燦然と輝き渡っているのは、私がキリストの十字架を眺めるときであり、そこで主が死ぬのを見るときにほかならないからである。私には、永遠の契約の巌のごとき文字の中に、また死後の天国の燃え輝く文字の中に神の愛が見える。だが、私の兄弟たち。この真紅の線、血で書かれたこの線には、他のどこにも見られないほど驚くべきものがあるのである。というのも、その線はこう告げているからである。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。あゝ、ここにおいてこそ、あなたがたは愛を学ぶ。あなたは、ダモンとピュティオスという古い物語を知っているであろう[シュラクサイ王ディオニュシオスに死刑を宣せられたピュティオスの身代わりに、友のダモンが一時入獄し、ピュティオスが約束を守って出頭してふたりは許された]。――このふたりの友人は、相手のために死ぬのはどちらであるかについて、いかに争ったことであろう。そこには愛があった。しかし、あゝ! ダモンとピュティオスの話は、あわれな罪人とその《救い主》の話とはくらべものにならない。キリストがそのいのちを、その栄光に富むいのちをお捨てになったのは、あわれな虫けらのためだったのである。主はそのあらゆる光輝を脱ぎ捨て、それからご自分の一切の幸福を脱ぎ捨て、それからご自分の義を脱ぎ捨て、それからご自分の衣を脱ぎ捨て、ついには恥ずかしいことに素裸になり、それから、最後に残されたご自分のいのちをお捨てになった。私たちの《救い主》は何1つご自分のものとして取っておかれなかったからである。

 しかし、そのことを考えてみるがいい。主は天において冠を有しておられたが、それを投げうたれた。それはあなたや私が永遠に冠を戴くためであった。主は輝く帯を――星々よりも明るい帯を――腰に巻いておられたが、それを解かれた。それは、あなたや私が永遠に義の帯を締めるためであった。主は智天使や熾天使の歌を聴いておられたが、それらをみな捨て去られた。それは私たちを、御使いたちの歌う場所に永遠に住まわせるためであった。それから主は地上に来て、多くのものを得られた。その貧困の中にあっても慰めとなるようなものである。主は最初に1つの栄光を、次に別の栄光を、その愛の要求するままに投げ捨てられた。そしてついに、主には一枚の貧しい衣しかなくなった。上から全部1つに織ったその衣[ヨハ19:23]は、血に染まったその背中にへばりついていたが、それすらも主は投げ捨てられた。その後には何も残っていなかった。何1つ主は取っておかれなかった。「さあ」、と主は仰せになったかのようであった。「わたしの有する、一円一銭までに至るすべての財産目録を取るがいい。わたしはそれを、わたしの民の贖いの代価としてことごとく放棄しよう」。そしてそこには、主ご自分のいのちのほか何も残っていなかった。おゝ、飽くなき愛よ! あなたは、そこでとどまれなかっただろうか? 主は罪を棒引きにするために一本の手を引き渡し、私たちを神に和解させるためにもう一本の手を引き渡された。私たちの罪深い足が永遠に突き刺され、釘づけられ、二度とうろつかないよう固定されるために一本の足を引き渡し、私たちの足が自由に天国への競走を走れるようにもう一本の足を木に固定させなさった。そして、そこには主のあわれな心臓しか残されなかったが、主はその心臓をもお引き渡しになり、人々はそれに槍で穴を開け、そこから血と水が流れ出した。

 あゝ、わが主よ! あなたがわたしのためお与えになったものにくらべれば、私が何をあなたに差し上げたことがあるでしょうか? 下らないしろもの、錆びついた小銭数枚です。ですが、あなたが私に下さったものにくらべて、それらの何と僅かなことでしょう! わが主よ。時々私はあなたに、調子外れの楽器に合わせてあわれな歌をささげてきました。わが主よ。時々私はあなたのために多少とも僅かな奉仕をしてきました。ですが、悲しいかな! わたしの指はあまりにもどす黒く、雪のように白いままあなたに差し出そうとしたものをだいなしにしてしまいました。わが主よ。私があなたのためになしたことは無です。しかり。たとい私が宣教師となり、家も友人も放棄しようと――、しかり。たとい私が殉教者となり、からだを焼かれるために引き渡そうと――、私は最後の時には云うでしょう。「わが《主人》よ。私は、あなたが私のために行なわれたことにくらべれば、結局あなたのために何事もしてきませんでした。ですが、私にこれ以上何ができるでしょう? いかにして私は、あなたに対する私の愛を示せるでしょう? 私に対するあなたの愛がこれほど比類無く、これほどたぐいまれなものだというのに。私は何をすればよいでしょうか? ただこうする以外にありません。――

   『「慈悲(めぐみ)に赦さる われ地に伏して、
    受けしあわれみ たたえて泣かん」。
   『かく為(す)る他なく これに励まん』」、と。

 III. さて愛する方々。私は主題を変えて、もう一段と高い調べを奏でてみよう。私たちは、この音階の全域をずっと弾いてきたが、今この八音の最高音に達した。しかし、私たちにはさらにこの聖句、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」、から引き出せるものがまだある。私の《救い主》は、私のためにいのちをお捨てになっただろうか? ならば、《いかに私は安全なことか!》

 私たちは今晩、この真理を見てとっていない人々とは何の論争も行なわないであろう。願わくは主が、彼らの盲目の目を開き、この真理を示してくださるように! それで私たちが云うことは尽きる。福音を知る私たちは、キリストの死という事実のうちに、いかなる論理の力をもってしても揺るがすことができず、いかなる不信仰の力をもってしても取り除くことができないものを見てとっている。それは、なぜ私たちが救われるべきかという理由である。一部の人々はあまりにもゆがんだ精神をしているために、キリストが後々失われてしまう人のためにも死んだ可能性がある、などと平然と思い描いているであろう。私は云うが、そうした人々がいるのである。残念ながら、なおもそうした人々が見受けられるのである。彼らは、幼少期に脳味噌を腐らせてしまったために、自分たちのいだいている考えが、いかに途方もない虚偽であると同時に、冒涜的な中傷であるかを見てとれないのである。キリストがある人のために死なれるが、やがて神はその人をもう一度罰する。キリストがある罪人の代わりに苦しみを受けるが、やがて神は結局その罪人を断罪するというのである! 何と、愛する方々。私はこのようなすさまじい過ちを口にするだけでも呆然とさせられる気がする。そして、それがこれほど流布していなかったとしたら、私は確かにそれが受けてしかるべき軽蔑の念とともに黙殺していたであろう。聖書の教理はこうである。キリストはご自分の民に代わって死なれた。また、神は正しいお方である以上、アダムの種族の中で、《救い主》がこのようにご自分の血を流してくださったただ1つの魂といえども、決して罰することはないであろう。実際、この《救い主》は、ある特定の意味においては万人のために死なれた。万人が、主の血を通して多くのあわれみを受け取っている。だが、主が万人のための《身代わり》であり《保証人》であったなどというのは、理性とも聖書とも全く反しておるため、私たちはそうした教えを怖気を振るって拒絶せざるをえない。しかり。わが魂よ。もしお前の主がお前に代わってお前の罰を忍んでくださったとしたら、いかにしてお前が罰されることなどあるだろうか? 主はお前のために死なれただろうか? おゝ、わが魂よ。もしイエスがお前の《身代わり》でなかったとしたら、また本当にお前に代わって死なれなかったとしたら、彼はお前にとって全く《救い主》ではない! しかし、もし主がお前の《身代わり》だったとしたら、もし主がお前の《保証人》としてお前に代わって苦しまれたのだとしたら、ならば、わが魂よ。「罪に定めようとするのはだれですか」[ロマ8:34]。キリストが死なれたのである。いや、よみがえって、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのである。そこに最大の論拠がある。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。そして、「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのこと」[ロマ5:10]ではないだろうか? もし《救い主》の苦悶が私たちのもろもろの罪を始末してしまったとしたら、《救い主》の永遠のいのちは、主の死の功績がそれに加えられた上で、御民を最後まで保つに違いない。

 ここまで語ったことを私は知っている。――あなたがたは、これを語るとき人々が口ごもるのを聞くであろう。――だが私が説教していることは、古のルターの、カルヴァンの、アウグスティヌスの、パウロの、キリストの真理なのである。――神の書には、信ずるいかなる者を責めるような罪も記されてはいない。私たちのもろもろの罪は、かの《アザゼルのための山羊》[レビ16:8]の頭の上で数えられた。そして、ある信仰者の犯した罪のうち、1つたりとも彼を地獄に落とせる力を持つものはない。というのも、1つの大胆な比喩によって語ってよければ、キリストは罪がご自分を地獄に落とすのをお許しになることによって、罪から人を地獄に落とす力を取り去ったからである。実際に罪はキリストを断罪し、罪がキリストを断罪した限りにおいて、罪は私たちを断罪できないからである。おゝ、信仰者よ。これがあなたの担保である。あなたの罪と咎のすべて、あなたのそむきの罪とあなたの不義のすべては贖われている。また、それらが犯される前から贖われたのである。それであなたは、大胆にやって来ることができる。たといいかなる犯罪によって朱に染まっていようと、いかなる情欲によってどす黒く汚れていようと、あなたの手をかの《アザゼルのための山羊》の上に置き、その山羊が荒野に追い放たれるのを見たならば、あなたは喜びのあまり自分の手を叩き、こう云って良いのである。「完了せり。罪ゆるされたり」、と。

   「こは古き そむきの罪の赦しなり。
    いかに黒きも 消されたり。
    わが魂、見るべし、驚きて。
    罪ある所に 赦しもあらば!」

これこそ、私が知りたいと願うすべてのことである。《救い主》は私のために死なれただろうか? ならば、私は恵みが増し加わるために、罪の中にとどまりはすまい[ロマ6:1-2]。だが、何物も私が主イエスの諸教会の中でこのように喜ぶのを止めることはできないであろう。私のもろもろの罪が完全に私から取り除かれたことを。また、神の御前において、私がハートのようにこう歌えることを。――

   「わが主のしみなき 衣まといて
    聖なる方に ひとしく聖し」。

おゝ、驚嘆すべきキリストの死よ。いかに堅くお前は神の民の足を、永遠の愛の岩に立たせることか。また、いかに堅くお前は彼らをそこに保つことか! さあ、愛する兄弟たち。この蜜蜂の巣から多少の蜂蜜を吸うがいい。信仰者の味覚にとって、このあらゆる栄光に富む真理にましてうっとりするほど甘やかなものがあるだろうか? 私たちはキリストにあって全き者となっているのである。その死と功績によって私たちは、《愛する方》にあって受け入れられている[エペ1:6 <英欽定訳>]のである。おゝ、これほど崇高な事実がいまだかつてあっただろうか? 神はすでに私たちを、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に――主が座しておられるのと全く同じ所に――あらゆる支配と権威をはるかに越えて――座らせてくださっているのである[エペ2:6]。確かにこれほど崇高なものは何もない。唯一、それをしのぐものがあるとすれば、こうしたすべてのことに、それ自体を越えた値打ちを刻印している1つの支配的思想である。――その支配的思想とは、たとい山々が移り、丘が動いても、神の愛の契約は決して私たちから移らない、ということである[イザ54:10]。エホバは云われる。「シオンよ。わたしは決してあなたを忘れないからだ」。「わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」[イザ49:16]。おゝ、キリスト者よ。これは堅固な土台であり、血で固められている。その上にあなたは永遠に築くことができる! あゝ、わが魂よ! お前はこれ以外にいかなる希望も必要としてはいない。イエスよ。あなたのあわれみは決して尽きません。私はこの真理を苦悶で打ち伏すときも申し立てるでしょう。――あなたのあわれみは決して尽きません。私はこれをサタンが次から次へと誘惑を私に投げつけるときも申し立てるでしょう。良心が私の罪を私の眼前に突きつけるときもそうするでしょう。私は常にこのことを申し立て、今もそうするでしょう。――

   「イエスよ、汝が血と 汝が義とは
    わが麗しき 栄えのころも」

しかり。そして私が死んだ後、また、私があなたの――恐るべき《至高者》の――御前に立つときでさえ、――

   「死のちり払いて よみがえり
    天空(そら)の邸宅(やかた)を 得しときも
    こは我が唯一(ひとつ)の 主張(わけ)とならん。
    『主はわがために 生きて死す』。

   「かの日も大胆(つよ)く われは立たん、
    そは誰(た)ぞわれを 非難(せ)めうべき。
    主の血のまたく われ解(と)きたるに、
    罪のすさまじ 呪い、恥辱(はじ)より」

あゝ、兄弟たち。もしこれがあなたの経験だとするなら、あなたはいま聖餐台のもとに正しく幸いにやって来ることができよう。それは葬儀に来るのではなく、楽しみの祝宴に来ることであろう。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」。

 

御民のためのキリストの死[了]
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