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キリスト者の奉仕と誉れ

NO. 2651

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1899年12月3日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年秋、主日夜の説教


「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」。――ヨハ12:26 <英欽定訳>


 ほとんどの人々は仕えることを愛さない。人は自分で自分の主人となることを好み、「おのれ一個の甘美な意志」に従い、好き勝手にふるまい、風のように何物によっても制されないことを好む。だが、神のみこころをはねつけ、神の律法を蔑み、神の命令を踏みつけにするのは、自分の自由にとって自殺行為である。そのように行動する者は、自由になることを求めていながら、全くの奴隷となる。というのも、自分の種々の情欲をほしいままにふるまわせるとき、彼らはそれが、否応なしに自分を引きずっていく悍馬のようであることに気づくからである。種々の情動にふけっていると、それは習慣となり、そうした習慣は人を鉄の把握でつかみ、人はもはや自由でなくなるのである。自由人とは神に仕える人であって、イエスのくびきを馬鹿にして拒絶する者ではない。自由人とはその肩にイエスのくびきを負っている者である。だがイエスに仕えることを拒む者は奴隷である。イエスに従おうとしない者は、サタンと呼ばれる暴君に仕えるか、それより悪いことに自分自身に仕えているのである。というのも、結局において、人にとって最大の暴君とは、自分自身の罪深い自我だからである。この世で何にもまして耐えがたい奴隷状態とは、種々の悪習慣という圧制であり、そうした悪習慣が人の上で強大になり、その人の首にその鎖をがっちり固定するときの圧制である。イエスへの奉仕は完璧な自由である。イエスの首輪を帯びている人々は、それが王家の記章であることを見いだす。ガーター勲章やバス勲章よりも、はるかに高い名誉を授ける記章である。この世の何にもまして人を高く上げるのは、彼をイエスのしもべとすることであり、自ら首をかがめてイエスに仕えている人は、最大の知恵を現わしているのである。

 イエスに仕えるとはいかなることだろうか? この聖句は云う。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」<英欽定訳>。よろしい。私たちがイエスに仕えていると云えるのは、私たちがいだいている信仰において私たちが耐え忍ぶ苦しみにおいて、そして、大きなこととして、私たちが行なう行為においてである。

 第一に、私たちは、自分のいだいている信仰においてイエスに仕えることができる。これは真の奉仕である。私がある特定の教理を信じるのは、神がそれを真実であると云っておられるからである。また、私がそうした教理の真実さについて有している唯一の権威は神のことばである。私がこれこれの教理を受け入れているのは、それらが理性と両立しうると証明できるからでも、私の識別力がそれらを受け入れているからでもない。神がそれは真実であると仰せになっているからである。さて、これは私たちが神にささげることのできる最高の奉仕の1つである。――神の啓示を信ずることにおいて私たち自身を神にささげること、また、その真理が私たちの心の中に堅く据えられ、私たちがそれらに従えるようにと願い求めることである。ある人々は、教理的な信仰内容など無価値だと思っている。だが、もう一度云うが、私たちが神にささげることのできる最高の奉仕の1つは、神のことばの教理を完全に信ずることである。それゆえ、教理的な過誤は、大して重要なものでないどころか、大きな罪なのである。なぜなら、神のことばは平易であり、それを調べることによって真理を発見しない者は、みことばからそれる度合に応じて、神に対する罪を犯すからである。だが、真理の全体を雄々しく宣告する人、心からそれを受け入れる人は、神に従うとともに、《いと高き方》にささげることのできる最高の奉仕の1つを果たしているのである。

 第二に、私たちがイエスに栄誉を帰すのは、私たちがその御名のために苦しむときである。私たちが忍耐をもって迫害の火を耐え忍ぶとき、また、平静に、甘んじて、世間に流布する虚偽や罪人呼ばわりを耳にしているとき、また、イエスへの私たちの献身ゆえに、いかなる種類の悪口を云われようとも、良いわざを行ない続けるとき、私たちはイエスに仕えており、神はそれによって栄誉を帰され、その栄光が現わされるのである。私たちの主イエスは、私たちにこう命じておられる。その日には、喜ぶがいい。喜びおどるがいい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されたのだ[マタ5:12-13]、と。また、さらに、私たちの苦しみが私たちの敵から生じたものでなく、神ご自身が私たちを患難の床に伏させられるとき、私たちは次のようにして神に栄光を帰す。すなわち、たとい痛みにやつれ、輾転反側させられるときも、その病のもとで平静を保ち、忍耐しながら、こう云うことである。――

    父よ、みこころ 日々われ待たん。
    わが受くものを 分配(わ)け給え、常に。
    汝が最善(みむね)を なし給え、我に。
    死と天その余を 啓示(あか)すときまで。

貧困を忍耐強く耐えることは、神への奉仕である。痛みを平静に忍ぶことは御父に栄誉を帰すことである。神の摂理がいかなる方向に転ぼうとも、みこころに服従することは、まさに献身の真髄である。

 第三に、私たちは、自分の行なう外的な行為によって神に仕えることができる。そして、それこそ、奉仕の最高の形である。実際、もし私たちがこのようなしかたで神に仕えていないとしたら、全然神に仕えてなどいないのである。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」、とキリストは云っておられる。そして、キリスト者たる人は、その外的な生き方と生活において神に仕えている度合に応じて、神からの誉れを受けるのである。これを行なうには、2つか3つのしかたがある。ある人々は、教会に関わる種々の義務を果たすことによって神に仕えることができる。他の人々は、キリスト教信仰に関わる、より私的な種々の義務を果たすことによって、また、他の人々は、格段に多くの場合、日常生活の種々の行為によって、そうすることができる。神に対する愛から、また、神の栄光のために福音を宣べ伝えている人々は神に仕えており、その労苦において誉れを受けるであろう。神の《教会》のために骨の折れる仕事をしている執事は神に仕えており、自分の行なうことにおいて祝福されるであろう。《日曜学校》の教師は神に仕えている。また、あなたがた、野外で説教するか、ごく小さな礼拝所で真理の証しをしてきた、そして、疲れ切ったあらゆる兵士にとって必要な休息を取るためにこの場にやって来たひとりひとりは――また、あなたがた、それよりも地味な働きに携わり、小さな学級を教えたり、小冊子を配ったりしているあなたがたひとりひとりは――、それぞれみな、何らかの程度において神に仕えている。しかし、もしあなたがこのようなしかたで、きょうは神に仕えていないとしても、明日は、あなたの店で、あるいは、あなたの家庭で、神に仕えることができる。女中は、日々の食事のために食器を整える際にさえ、また、それらを下げる際にさえ、神に栄誉を帰すことができる。看護婦は、弱っている人、苦しんでいる人の傷口を優しい手で包むとき、神に仕えることができる。また商人も、自分の取引のしかたを清廉潔白なものにしておき、その後で、惜しみない手によって自分の物品の一部を施しては貧者を養うことによってそうできる。神に仕えるには、絶対に教職者になり、法服を着る必要があると考えてはならない。あなたは、店番をしながらも、耕作をしながらも、馬車を走らせながらも、神に仕えることができる。あなたの手にできることなら何であれ、神の栄光のために行なうことができる。平凡な行動は真の敬神の念の本質を明らかに示す。私たちが平凡と呼ぶ事がも、神はそうとは考えておられない。それが正しい動機をもって、また正しい精神においてなされるとき、それは、神の御目においては、いかに大勢の聴衆に向かって説教する教役者の説教とも同じくらい、偉大なものとなるのである。そして、私の思うところ、御座の前にいるある人々は、彼らが人知れず行なった行為のゆえに、《救い主》のごく間近に置かれているであろう。その間近さは、かつて《教会》において非常に高い地位を占めていた人々の何人かさえしのぐほどであろう。そうした人々は戦闘の日には真っ先に出て行き、世間から大きな賞賛を受けていた。だが、神はご存知なのである。そうした人々は実は、魂の善のため神の栄光のために、主の前で熱心に、また信仰深く膝をかがめて嘆願していた極貧の作男や、卑しい農民の半分ほども、自分の《救い主》に対して忠実でなかったことを。

 私はこうした点を細かく述べることができない。家に帰ってから、ぜひともこうしたことを思い返してほしい。あなたは、神の諸教理においても、神の摂理の配剤による苦しみにおいても、神のあらゆる戒めに従うことにおいても、神に仕えることができる。信仰者のバプテスマに関する戒めを忘れないことにおいてもそうである。さてそこで、この《救い主》の宣言の中にある、本日の講話の主題に入ることにしよう。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」。ここから私が学びたいのは、神はその人にこの世で誉れを与えられ、未来の中間状態で誉れを与えられ、最後の審判の日に誉れを与えられ、永遠を通じて誉れを与えられる、ということである。

 I. 《父なる神は、この世においてすら、《救い主》に仕える人に誉れを与えてくださる》

 あなたがたの中のある人々は、一驚して私を眺め、今にもこう云おうとしているであろう。「それは本当ではありません。神は原則として、この世ではご自分のしもべたちに誉れを与えることをなさいません。誰でも知っている事実として、神に仕える人々はこの世で最もひどい不名誉を受けざるをえず、真理のために最も勇敢な人々は、最も大きな恥辱を耐え忍ぶよう召されるものです。最大の栄誉どころか、この世の非難と、嘲弄と、軽蔑との大部分を受けるのです」。しかり。私も、「世を愛することは神に敵することであること」[ヤコ4:4]は承知しているし、もし誰かが神の友となろうとしたら、一般にはこの世の敵となるであろうことは分かっている。しかし、そうしたすべてにもかかわらず、キリストのしもべたちは、この時の間の状態においてさえ、敬意と尊敬を受けるのである。

 私が最初に指摘したいこととして、キリストのしもべたちは、教会において誉れを受ける。神に忠実に仕える者は誰でも確実に、主の真のしもべたちによって誉れを与えられる。もしもある人が、真理を恐れなく、余す所なく、熱心に、心から宣べ伝えているとしたら、その人は、教会にいる自分の兄弟たちから誉れを与えられないのではないかと恐れる必要はない。善良な人々は間違いなくその人の回りに結集し、その人に敬意を示すのを嫌がりはしないだろうからである。また、もしその人が《日曜学校》において骨の折れる仕事をしているとしたら、その人が誉れを与えられないことはない。たとい一介の教会員であっても、自分の主の栄光だけを求めているとしたら、誉れに欠けることはない。それぞれの人は、主に仕えている度合にまさに応じて誉れを受けるであろう。時々次のような言葉が口にされることがあるが、私はそれを否定する。すなわち、たまたま社会的に体裁の良いとされるような地位を占めていない教会員には、誉れが与えられないものだ、というような言葉である。私の信ずるところ、もしも、例えばこの教会の働きの実状について何らかの調査が行なわれるとしたら、最大の誉れは、神のために最も働いている人々にこそ与えられるはずであろう。私は確信するが、私たちの教会員の中のある人々は、私たち全員から敬意と尊敬をもって見上げられてはいても、地位や富の持ち主ではない。だが、彼らはそれよりも大きなもの、また、それよりも良いものを有している。その心の中に神への愛を有しており、その愛の効果を自らの生き方において現わしており、それが彼らを誉れある者としているのである。そして、この教会を、あらゆるキリスト教会の見本として表わすとしたら、こう云えるであろう。貧者は善をなそうというその努力によって、富者と同じくらい誉れを受けるであろう、と。身分や財産によって神は何の差別もなさらない。むしろ、各人は《救い主》への愛と奉仕に応じて誉れを与えられるのである。もし富者にも貧者と同じように敬意が払われるのだとしたら、――そして、なぜ貧者が誉れを与えられるのに、富者が蔑まれなくてはならないのだろうか?――それは、その人の世俗的な富のゆえではなく、その人が信仰においても富んでいるがためである。富者の魂は、貧者の魂と同じくらい良いものであり、貧者の魂は、富者の魂と同じくらい良いものである。そして、貧者が富者と同じくらいイエスのために労苦している場合、彼らは同じように誉れを受けるであろう。私の信ずるところ、この場の私たちはそのようになっているし、今後も常にそうあり続けるであろうと信ずる。いずれにせよ、この腕が、社会的偏狭さの精神に対して戦いを挑み続ける限り、そうした精神は私たちの真中から追い出されるであろう。私たちは、私たちの間にいかなる階級制の考えも認めない。そして、私はこう信じざるをえない。すなわち、わが国のあらゆる諸教会における一般的慣行は、人々をその有用さに従って崇敬するというものである。ならばあなたは、たまたま富んでいないからといって、教会内のいかなる立場からも、あるいは、あなたの兄弟たちのいかなる誉れからも、自分が閉め出されているなどと考えてはならない。教会は、主に仕える人々を尊び、神ご自分もそうしてくださるであろう。イエスはこう云われたからである。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」。

 しかし、次のこととして、キリストに仕える人々は、この世からも誉れを受けるものである。すると、あなたは云うであろう。「どうしてそのようなことがありえましょう? 私は朝から晩まで、物笑いと、からかいと、あざけりの的なのですよ。私は、『勿体ぶったメソジスト』とか、そういった類の名前で呼ばれているのですよ。ですから私は、この世から誉れを受けているとは思えません。むしろ不名誉を加えられていると思います」。しかし、結局においてあなたは、実際には誉れを与えられているのである。あなたが、そのことを分かっていなくとも関係ない。あなたは、そのようにあなたの悪口を云う当の人々の良心において、誉れを与えられている。彼らが何と云おうと、心の中では彼らはあなたを尊崇しているのである。彼らはあなたに悪口を云うかもしれないが、彼らは自分があなたと同類ではないことを知っている。彼らはあなたを犬呼ばわりするかもしれないが、あなたが御使いであると信じている。彼らはあなたを黒と呼ぶかもしれないが、あなたが白であると信じている。ここにその証拠がある。あなたが罪に陥るのを見るとき彼らはたちまち云うであろう。「あいつも、結局、集会信者のひとりなのさ」。なぜそう云うのだろうか? それは、彼らが実は、あなたが聖く、裏表のない者であることを期待しているからである。そして、あなたがそうした者でないという事実の証拠をつかむまで、彼らは自らの良心がいだく敬意と誉れを否定できないのである。不敬虔な人といえども、その良心が内々にあなたに誉れを帰すよう強制するのをやめさせるわけにはいかない。サタンそのひとでさえ、ミルトンが私たちに告げたように、――

    恥じて悪魔は佇(たたず)みて、いかに善に威あるかを感じ

たとしたら、聖さの尊厳を認めざるをえないのである。善良さは、悪人にとっては、すさまじいものである。彼は、自分の語る悪口をあなたが忍耐強く我慢していることを目にする。あなたが種々の危害を赦すとき、それは彼を驚かせ、彼の心を悩ませる。だが彼にはそれが理解できない。キリスト教には敵をもひるませる力があり、義には彼が震えざるをえない威光がある。あなたは、人々の前におけるあなた自身の人格の世話を焼く必要はない。むしろ、あなたは、それが神の御目の前で正しいものであるように気を遣わなくてはならない。もしあなたが神に仕えるなら、神はあなたに誉れを与えてくださるであろう。

 また、いかによこしまな人々もキリスト者に誉れを与えるであろうとき、それはキリスト者が死ぬときである。私は何人かのかたくなな無頼漢たちを知っているが、彼らは一生の間、公然と神に反抗し、それゆえ、最後までキリスト教信仰を蔑みながら世を去った。そして、一般に、私の見いだしたところ、このように信仰をあざける人々は、死が近づくときにはその口調を変えるのである。「誰かを呼んで、俺んとこに来させてくれよ」、と彼らはそのときには叫ぶ。「誰を呼びにやるかね、悪態つきのジョンにするかい?」 「とんでもねえ! 祈り屋のジョンを呼んでくれ。俺のために祈ってもらいてえとな。さもなけゃ、教会の先生を呼んできてくれよ」。「だけど、何であんたは昔からの仲間に来てもらおうとしないんだい? 前々から云ってたじゃないか、あんなに愉快な連中はいねえだとか、あんなに陽気な奴らには会ったことがねえとか。天国だの地獄だのはどこにもないって分かってるんだろ? あんたは、あの連中と一緒のときはそう云ってたもの。あいつらとは何杯も酒をかっくらった仲じゃないか。なんで最後にもう一杯やらないんだい!」 あゝ! こうした仲間たちは、今の彼には何の役にも立たないであろう。そして、その事実は、こうした人が最後にはキリスト者に誉れを置くことを証明している。そのときの彼の言葉遣いはこうなる。「私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」[民23:10]。不敬虔な人々は、そのときには彼ら自身の仲間が付き添うことを馬鹿にし、私たちの陣営へと走り寄ってくるのである。彼らは、いざ死ぬときには、キリスト教信仰も捨てたものではないと思う。かの最後の敵[死]の声は鉄の舌と、雷鳴の音で語り、いかにかたくなな良心にもキリスト者に誉れを与えさせるのである。

 さらにまた、キリスト者である人は、その死後に誉れを与えられる。もしあなたが良く思われたければ、また、高い栄誉をもって噂されたければ、死ななくてはならない。私たちの中にいる者らはみな、生きている間は中傷され、批判されなくてはならない。だが、私たちが墓に入ってしばらく経つと、今度は私たちが主人となる番である。多くの人々は、今はこの世にとって星々であるが、生前は蛍でしかなかった。人々の間でその本分を尽くしていた間、彼らはこきおろされ、あざけられ、ありとあらゆる悪名を馳せていた。だが、彼らが墓に下り、ほんの数年も過ぎ去ると、今やそれなりに遠目に眺められる彼らは、一般の目にとっては、非常に異なった様相を帯びる。いま彼らを眺めることは、太陽を凝視するようなものである。あなたは、彼らの黒点よりも、はるかに多く彼らの輝きの方を目にする。この世はキリスト者が世を去るとき、それを惜しむ。ことによると、家族の一員が敬虔であり、残りの全員がそうではないとき、彼らは云うかもしれない。「おゝ、私たちはあれのことなどどうでも良いですよ。あれは私たちには信心深すぎますよ!」 しかし、彼がいなくなってみると、彼らはその悲しい隙間を感じ、自分たちにはその穴がふさげないことに気づく。彼が住んでいた近隣の人々も、彼がいなくなったことをさみしく思う。なぜなら、彼の親切な言葉や、あわれみの行為がもはや見られなくなるからである。彼らは云うであろう。「まあ、結局、あいつもいい奴だったんだよな」。いかにしばしば私はこう聞かされてきたことであろう。「あゝ、そうだな! あいつは結局それほど悪い奴じゃなかったさね。生き残ってる奴らの中には、あいつほどの者は滅多にいないもの」。あなたは、なぜこうした変化が人々の精神にもたらされたのかは分からない。だが、こうしたことはしばしばあるのである。死はいかにあわれな信仰者をも永く記憶に留めさせ、彼を王たちの墓所に横たえる。平凡なキリスト者でしかなった彼は、神が彼を銀の鎖をつけた小羊のように掲げ上げ、空から煌めかせるとき、輝かしい光となるのである。

 II. 《神は中間状態においても彼に誉れを与えてくださる》

 キリスト者が死ぬとき、その魂はたちまち天国に上る。彼のからだはそうではない。それは復活の朝まで墓の中にあり続ける。さて時として私たちは、からだから切り離された自分の魂がどのようになるのか知りたくてたまらなくなることがある。では、神のことばに従った確実なこととしてこう云わせてほしい。私たちのからだがよみがえる前から、私たちはパラダイスにいることになる。というのも、イエスはあの悔悟した強盗にこう云われたからである。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」[ルカ23:43]。魂が引きずり込まれて、整えられ、天国にふさわしい者とされる煉獄などというものは決してない。しかし、たとい彼らがたちまち神の天国に行くとしても、また、その御前で安息を得るとしても、それが彼らの至福の完全な完成ではない。彼らは、キリストの似姿のうちに目覚めるときまで、また、からだと魂が再び結び合わされるまで、満足することはないであろう。

 きよい霊は、この土くれの幕屋から解放され、その神の御前に行くとき、いかなる誉れを受けとることになるだろうか? 《全能者》はそのとき、「わたしが目にしているのは、わたしの息子だ」、あるいは、「わたしの目の前にいるのは、わたしの娘だ」、と仰せになるであろう。「わたしは、あなたの霊を永遠の愛で愛した。あなたの名前を選びの契約に記入した。わたしの子をあなたに代わって死なせるために遣わした。わたしの恵みによってあなたを召した。あなたを、あの砂漠を通じて導いた。あなたをわたしの手ずから養った。わたしはあなたを幾多の危険と罠を通して正しい道へ導き、永遠にあなたを守るであろう。果報なしもべよ。よくやった。贖われた霊たちの間に入って、あなたの場所を占めるがいい」。御使いたちもまた、聖徒たちに喜んで仕えるであろう。天国にある聖徒は、御使いの果たすことのできるあらゆる奉仕を受けるであろう。もし御使いのかしらミカエルそのひとが、ひとりの神の子どもに対して、いかにつまらない奉仕でもすることができたとしたら、彼は自分を果報者だと考えるであろう。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」[ヘブ1:14]。私たちは、そのからだがまだ死の家の中にあり、冷たい石板の下にある聖徒たちが、今しも、いかなる栄光を有しているか告げることはできない。だが、このことは分かっている。彼らの魂は御使いたちよりも栄光に富むものとなっており、エホバの御座の前で絶えず歌っている智天使よりも誉れある者となっている、と。

 III. もし誰かが主イエス・キリストに仕えているとしたら、《その人は、大いなる最後の審判の日、誉れを与えられることになる》

 その日は近づきつつある。その光景を私は描写しようとはすまい。その日には、天と地が逃げ去り、生者と死者、義人と悪人が神の御前に立つ姿が目撃されるであろう。この最後の審判の日に神は、そのしもべたちが、よこしまな者たちの口からも、悪魔どもの口からも、御使いたちの唇からも、神ご自身の唇からも、誉れが与えられるようにするであろう。

 最後の審判の日に、神は義人に、よこしまな者たち自身の前でさえ、誉れを与えてくださるであろう。あなたがた、高慢な君主たち。神のしもべを死に至らしめ、彼を天国の燃える戦車へと送り込んだ者たち。いかにあなたがたは慌てふためくことであろう。そのとき、かつてあなたが復讐を加えた、あの卑しい殉教者は、あなたの前に立ち、こう云うことになるのである。「暴君よ。私はあなたの手により、真理のために苦しみを受けた者です」。また、あの尊大な枢機卿はそのとき何と云うことになるだろうか? 彼らは、権力を握っていた間、神の真理を捨てようとはしなかった人々を死に至らしめ、彼らの良心を踏みにじり、《救い主》に対して彼らが忠誠を尽くした結果、火や苦悶を耐え忍ばせた。では、その不敬虔な人々は、いかにして義人を直視するだろうか? かたくなな罪人は、自分が拷問台の上で引き伸ばした神の人に対面するとき、どのように感じるだろうか? その収監令状に署名した、不正な裁判官であった彼は、いかに震えることになるだろうか? そのときキリスト者は自分の迫害者たちを指さすことができるであろう。また、全宇宙は彼らを軽蔑しきって眺めるであろう。「その男こそ」、と彼は云うであろう。「私をあの拷問台の上で引き延ばした男です。その男は、私を投獄した男です。みじめな男よ。あなたこそ私をあの火刑柱に鎖で縛りつけたのです。この男こそ火とふいごを持ち出しては、私を焼き尽くしたのです」。しかし、その殉教者は今やいかに誉れを受けることであろう! 彼は他の者らが着ている衣よりも、いやまさって白くはなくとも、いやまさって栄光に富む服で着飾っている。――同じ《救い主》の腕の冴えを見せてはいるが、いやまさって多くの宝石が散りばめられた衣裳である。――また、彼の頭上には燦爛と輝く玉石で持ち重りのする冠がある。その間、彼を迫害した君主と、それに手を貸したあらゆる者どもは怯えきって沈黙し、絶望のあまり縮み上がり、山々や丘々に向かって自分たちを覆ってくれと呼びかけている。いかに預言者たちは誉れを与えられるだろうか? 私には、エレミヤが彼の数々の予言を笑い飛ばした王たちの前に立っているのが見える気がする。そして、彼の仲間の英雄たちとともに、勝ち誇ってこう叫んでいるのが見える気がする。「おゝ、国王よ。私の預言は成就しなかっただろうか? バビロンは打ち倒されなかっただろうか? ニネベは廃墟となっていないだろうか? エドムの町ペトラはどこにあるのか? バアルの宮は、また、あの神々の神殿はどこにあるのか? それらは倒れて、倒れて、倒れて、私が預言した通りになったではないか?」 こうした古の大預言者たちの凱歌は、いかに大きなものとなるであろう。そのとき彼らは、自分たちをあざ笑い、馬鹿にした人々の前に立ち、そのときその者らは彼らの言葉が1つとして地に落ちなかったこと、神の御口から出たあらゆる脅かしが成就したことを告白せざるをえない!

 しかし、私が思うに、福音の教役者たちの上にも大きな誉れが授けられるであろう。神ご自身がお選びになった者たち、自らの魂の内なる神聖な衝動につき動かされて、語らされた人々――人によって作られた教役者でも、主教や長老の按手によって作られた教役者でもない人々。――彼らが、そのときには、彼らの使信を軽蔑していた人々に対面することになるのである。そうした者どもに向かってエホバは、ご自分が選んでその福音を宣告させた人々の面前で、こう仰せになるであろう。「お前たちが、このわたしのしもべたちの言葉をあざ笑ったからには、お前たちはわたしに対してそう行なったのだ。お前にとっては、石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましであったろう[ルカ17:2]。のろわれた者ども。ここから離れて、永遠の火にはいれ[マタ25:41]」。それから、キリストの《教会》のあらゆる成員がその日、誉れを受けることになる。私は時として、選民のもろもろの罪が世界中の前で読み上げられることになるのかどうか疑わしく思うことがあるが、たといそうだとしても、私はこう確信している。それは彼らを何ら非難するためではなく、むしろ、審きを公正なものとするだけのためであろう。だが、このことは確かである。彼らの正しい行為は公然と宣告されるであろう。この者は嘘つきと呼ばれていたが、正直であったことが証明されることになる。別の者は偽善者と称されていたが、完璧に真摯な者であったことが示され、彼の偽りの非難者たちは面目を失うことになる。神の筆によって記された聖徒たちの伝記が、《永遠者》の唇によって読み上げられることになる。そして、宇宙が彼らに誉れを授けるであろう。だが、よこしまな者たちは、彼らが暗闇の中で何を行なっていたにせよ、それが白日の下で宣言されることになる。あなたが真夜中に行なっていたもろもろの罪は、陽光の下にさらけ出される。あなたの最も内密の行為が全宇宙の凝視の前に暴かれる。そして、あなたの、あらゆるごまかしや詐欺といった行為は逐一世界に対して読み上げられ、人々も御使いたちもそれを聞くことになる。そして、あなたに不名誉が帰される一方で、義人には、あなたの唇からさえも、誉れが帰される。彼らはその日、あなたから絞り出される言葉によって誉れを与えられることになる。その日、神は、その民を太陽のように明るい、月のように美しい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいものとされるのである[雅6:10]。

 さらに、聖徒たちは悪魔そのひとからさえ誉れを与えられることになる。あなたは聖徒たちが世界を審くことになるのを知らないのだろうか?[Iコリ6:2] 彼らは、単に人々を審くことになるだけではない。というのも、神と人との大敵たるサタン自身が、雷鳴の瘢痕の残る、その青銅の額を持ち上げては、その最終判決を受け取り、新たに自分の地獄を味わい出すことになるのである。私は神がその聖徒たちにこう尋ねておられるのが聞こえる気がする。「あなたがたは、わたしがサタンに宣告した判決を裁可するだろうか?」 私は、贖われた者の全群衆から一斉に大きな「アーメン」が発されるのが聞こえる。そして、私としてもまた、彼の断罪に賛成して、声の限りに、「アーメン」、と云うであろう。これまで私は何度となく彼と戦ってきた。時として彼は、まるで私に勝利をおさめんばかりに思われ、その燃える矢を投げつけてはこう叫んでいた。「さあ、これでお前にとどめをさしてくれるわ」。しかし、何度も何度も私は再び攻勢に転じては、こう叫ぶことができた。「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる」*[ミカ7:8]。そしてすぐに、彼はまたもや逃げ出させられてきた。そして、私の信ずるところ、かの大いなる最後の審判の日に、主はその聖徒たちが、このアガグの首根に足をかけることを許されるであろう。そして私は、いかにか弱い聖徒も――《薄信者》その人でさえ――その足を悪魔の首に載せているのが見える気がする。そして、私は知っている。もし私がひとたび私の足を彼の上に載せることができさえしたら、彼が受けるであろういかなる蹂躙にもまさる心底からの蹂躙を彼は私から受けるであろうことを。私が彼に何の恩義も負っていないことは請け合っても良い。何度も何度も彼は私を投げ倒してきた。だが、そのとき私は彼を踏みにじるであろう。それは勝利の日となるであろう。実際、かの古き竜は這いつくばらされ、神のあらゆる子どもたちから襲撃を受け、宇宙の物笑いとなり、嘲弄の種となるであろう。そして、このようにして――

    最弱(よわ)き聖徒も 勝利(かち)をおさめん、
    死と地獄(よみ)その道 よしふさぐも。

 こうして聖徒たちは、よこしまな者たちからも、また、かの古い蛇そのひとからも誉れを受けることになる。だが、御使いたちも、あなたがたの名前をその歌の中で言及するであろう。御使いたちは、天国の詩人である。そして、あなたは、地上の英雄たちが、この世でそのほめ歌を歌われているというのに、あなたの行為が栄光の中で歌われることがないと思うだろうか? 御使いたちによる戦いの叙情詩の中には、アレクサンドロスや、ハンニバルや、ナポレオンよりも名高い者たちがいるであろうし、ブレニムやワーテルローといった戦場をたたえて口にされた勝利感謝の歌よりも豊かな、また、神々しい旋律の歌があるであろう。いかなる賛美にもまして大いなるものは、聖徒たちがその《救い主》に帰する賛歌を除けば、御使いたちが聖徒たちにささげる歌であろう。

 キリストの《教会》は、そのとき誉れを与えられるであろう。何度となく《教会》は、神殿の廃墟のただ中に見捨てられた者として、ざんばら髪のまま、涙を頬からしたたらせ、この世の侮蔑を忍びつつ座らなくてはならなかった。哀惜の声とともに、私たちは《教会》が、「私の主はいなくなってしまいました」、と叫ぶのを聞いてきた。そして、私たちは、《教会》が嘆きと悲哀のためにその衣を引き裂くのを見てきた。しかし、《教会》の心はなおもその主に対して真実であり、このお方を、たとい見てはいなくとも愛している。そして、時として、その荒廃にもかかわらず、《教会》は、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びを有している[Iペテ1:8]。地上の高ぶる者たちは、《教会》のわきを通り過ぎては、これを偽善者と呼び、《王》なるイエスの《花嫁》であるという申し立てを笑っては、こう云っている。「この女の《夫》は、この女を投げ捨ててしまい、この女を自分のものとは認めないであろう。この女はさげすまれた女ではなかろうか?」 このように、あわれな《教会》は座り込んでは叫んでいる。「よく見よ。私のこのような痛みがほかにあるかどうかを」*[哀1:12]。しかし、しかるべき時には審きの日がやって来る。イエスはその御座から下り、古のアハシュエロスのようにその王笏を差し伸ばしては、こう云われる。「わが妃よ。わが花嫁よ。このあわれみの象徴に触れて、生きよ」。主は、彼女にご自分の高い御座への階段を上らせて、彼女をご自分の隣に着かせ、相集った全宇宙に向かって彼女を《花嫁》として、《小羊》の妻としてお示しになるであろう。それから、普遍の主権の冠を取ると、それをご自分の頭に戴かせるであろう。主以外のいかなる者も、その栄誉にはふさわしくないからである。その一方で、もう1つの王冠が主によってその選ばれた妃の頭上に載せられることになる。そのとき、《教会》に御顔を向けて主は仰せになるであろう。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」[エレ31:3]。彼女の悲哀はそのとき歌となり、彼女は憂いの心の代わりに賛美の外套を身にまとい[イザ61:3]、その間、彼女の幾多の敵は面子を失って、恥を見るであろう。

 IV. 最後に、《神は永遠を通じて義人に誉れを与えてくださるであろう》

 敬虔な者たちの誉れは、束の間のものではない。過ぎ去っていく、一時だけの安ピカ物ではない。先週の木曜日、ウィンザー城にいた私は、ひとりの男が、最近新しく作られた勲爵士の紋章入りの盾を、同じような紋章の並びの最後につけ足して描いているのを見た。それは、広間に長々と続いていた。私は彼に云った。「勲爵士全員の紋章がここにあるのですか?」 そして、確か彼はこう答えたと思う。彼らは、この勲位のそもそもの起こりまで辿ることができるでしょうよ、と。私は内心思った。「これは大した栄誉を授けられるものだな。何本かの縞と星々、それに後足立ちの獅子や、双頭の虎や、そうした類の模様とは! 確かに、こうしたものは、人を素晴らしく栄光に富む者とするに違いない!」 ちょっとした図案がこうしたすべてを行なうことができ、その画家か刷毛でちょいちょいと消し去ることもできるのである。だが、人によっては、戦場で死と相対することになろうと、このような誉れを与えられたいと願うものである。あるいは、自分たちの彫像を石で刻まれ、それを台座の上に置かれ、人々から熱い眼差しを受けたいと願うものである。人が死ぬのは素晴らしい栄光のためではないだろうか? だが、想像するに、私たちの中でそうした誉れを心にかける者はほとんどいないであろう。というのも、こうした類の栄光は過ぎ去るからである。しかし、キリスト者が受けることになる誉れは決してしぼむことがない。百万年を経たとしても、それは常に変わらず清新であろう。キリストの約束は常に立ち続ける。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」。キリスト者よ。あなたが誉れを受ける時、あなたの名がかの大いなる《審き主》であり万物の《裁決者》であるお方によって宣告される時がやって来つつある。そして、あなたはこの方によって、《小羊》に従う者たちのひとりであると認められることになる。あなたはこの世の人々が授けることのできる誉れにまさる不朽の誉れを受けることになる。あなたは地上的な宝冠という報いは受けないかもしれない。だが、あなたは神に対する祭司また王となり、キリストとともに代々とこしえに統治することになる。キリスト者よ。全世界に直面することを恥じてはならない。というのも、神の御目においてあなたは王だからである。それゆえ、神の前を謙遜に歩み、《主人》があなたをあなたの王国に移すまでは忍耐強く待つがいい。そこであなたは栄光を着せられ、心に願える一切の所有者となる。誉れと、富と、幸福と、尊厳と、言葉に尽くすことのできない喜びとがあなたのものとなり、永遠に去らないのである。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に誉れを与えてくださいます」。

 さて、しめくくりとして私は、神に仕えていない人々に対して何と云おうか? よろしい。私は今晩はあなたにほとんど云うことがない。私がしばしば気づくところ、こうした事がらについて説教するとき、私が罪人たちに向かってほとんど何も語らなくとも、神は私よりもずっと多くのことを彼らにお語りになるものである。というのも、義人の至福に関して語られてきたすべてのことは、彼らに、もしそれが自分の運命であったらとしたら、と願わせてきたからである。少なからぬ場合に、格別に聖徒たちを慰めるのに適していると思われる説教が、特に罪人たちの回心にとって力強いものであることを明らかにしてきた。なぜなら、彼らは内心こう云うように導かれたからである。「こうした約束のすべては、われわれ向けのものではないのだ」。ならば、あなたに尋ねさせてほしい。私の兄弟姉妹たち。もしこれが現在のあなたの場合だとしたら、いつあなたはこうした事がらをあなた自身のものとするだろうか? 私はあなたに、義人は誉れを受けると告げてきた。さて、その義人の何があなたにまさっているだろうか? あなたは不敬虔であるが、義人も天来の恵みが介入しなかったとしたら、同じような者のままであったであろう。あなたは大罪人だが、私たちの中のある者らもそうした者であった。あなたの不義がいかなる形のものであったとしても、いま神の家族としてある者の中には、あなたと同じくらい悪人だった者らがいるのである。私はあなたに1つ質問しよう。聖書のどこででも良い。あなたは、あなたが救われることができないというような宣言を見いだせるだろうか? どこでこう述べられているだろうか? イエス・キリストのもとに来る人でも、失われることはありえる、と。もしそれを見いだせるとしたら、あなたも絶望して良い。だが、そうするまでは、あなたが絶望する必要はない。しかし、ことによるとあなたは云うかもしれない。「私は、どうすればキリストのもとに正しく行けば良いか分からないのです」。私があなたに教えよう。どうであれキリストのもとに行くことそのものが、正しく行くことなのである。というのも、主はこう云われたからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。走って来ようが、びっこを引き引きやって来ようが、這って来ようが関係ない。――キリストのもとに達しさえするなら、その人は正しいしかたでやって来たのである。「私は悪人すぎるので救われません」、と云ってはならない。覚えておくがいい。たった今私たちが歌ったばかりの賛美歌の中で、私たちは何にもましてイエスの心を嘆かせるものを教えられている。――

無情(こわ)くも不正(あし)きは、主をば赦しを渋(しぶ)る方とす。

実際、私は思う。あわれな罪人よ。主は、このよこしまな不信仰には思いもよらぬほど迅速にあなたを赦されるであろう。もしキリストがもう一度この地上におられたとしたら、また、もう一度、千八百年前にそうされたように肉において苦しみを受けることがありえるとしたら、私の信ずるところ、あなたはもう一度主につばきを吐きかけ、殴りつけ、十字架につけるであろうが、しかし、主の御顔にはいかなる渋面も見ないであろう。だが、あなたが立ち上がって、こう云うとしたらどうか。「私は、キリストが私を赦すほどの愛を持っているとは信じません。私はキリストが私のもろもろの罪を喜んで赦すとは思いません」。私は、ほむべき主の心がこのような冷酷な言葉によってほとんど張り裂けんばかりになるのが見える。「何と、あわれな罪人よ」、とキリストは叫んでしかるべきである。「わたしには、あなたの咎を取り除くに足るだけの愛がないのだろうか? わたしの血をもってあなたを買い取ったというのに? わたしの手と、わたしの足を眺めるがいい。あなたのために負ったこの傷口を見るがいい」。私は、主があなたの顔を直視して、この上もない優しさと同情のこもったことばで、こう云っておられる姿が見える気がする。「あわれな魂よ。そのように云ってはならない。それほどわたしの心を嘆かせるものはないのだ。愛する者から信頼されないことは、わたしが経験できることの中でも最も痛ましいことだ。わたしは、あなたから、わたしがあなたを赦せないと云われるくらいなら、あの園で味わった苦渋の杯の何滴かを飲む方を選びたい気がする。わたしはあなたを赦すことができるし、《赦そうと思うし、実際に赦すのだ》。今この時、わたしはあなたに云う。『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り』」――覚えておくがいい。罪人よ。あなたのためではなく、あなたに誉れを与えるためでもなく、主ご自身の栄光を現わすために――「『もうあなたの罪を思い出さない』」[イザ43:25]。それゆえ、元気を出すがいい。あわれな魂よ。もしあなたが主のもとに行くなら、そこにはあなたのための恵みがあり、あなたは救われることになる。しかし、知って覚えておくがいい。あなたがた、パリサイ人たち。主が来られたのは義人を招くためではない。罪人たちだけを、イエスはやって来て救おうとされたのである。

 そして今、神の聖徒たち。あなたには、こう熱心に勧めさせてほしい。人々のあざ笑いやさげすみを軽蔑するようにと。あなたがすぐにも受け継ぐことになる栄光の数々を、また、あなたの魂とからだが最後の審判の日に受け取ることになる誉れを思うがいい。私たちの精神に、天国の栄光の思いを、神のことばを、永遠にして栄光に満ちた数々の祝福を、イエスの愛を、そして、エホバの数々のあわれみを張り付けることによって、私たちは恵み深いしかたで強められ、戦いの中で勝利者となり、天国への路に立ち続けることになるであろう。主の力によって私たちは叫ぶ。「Nil desperandum[なんら絶望の要なし]」、と。私たちはなおも信ずる。キリストが私たちの盾であり、キリストが私たちの太陽である、と。そして疑ってはならない。私たちは必ずや最後にはこう云われるのを聞くことになるのである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」*[マタ25:21]。

 

キリスト者の奉仕と誉れ[了]

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