陪餐のために必要な備え
NO. 2647
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---- 1899年11月5日の主日朗読のために 説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年秋、主日夜の説教「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」。――Iコリ11:28
私たちは、あらゆる人を無差別に主の晩餐にあずからせることが正しいとは考えない。私たちの信ずるところ、聖餐式は交わりの場であり、私たちと真にキリスト者的な交わりを持てないような人々は誰ひとりそこにいさせたいと思わない。私たちは、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人々と交わりを持つことができる。教理上のいくつかの点で、そうした人々がいかに異なる見解をいだいていようと関係ない。私たちは、自分が交わりを持てると分かる人である限り、私たちの主の晩餐に迎え入れることを自分の義務と信ずる。逆に、陪餐者になりたいと申し出た人々が、生活の汚れや、敬神の思いの欠如や、福音の根本的な諸真理における不健全さを伴っているために、彼らとは交わりを持てないと感ずるときには、神がその《教会》内で私たちに権威を与えておられる以上、彼らをこの卓子に近づかせないことこそ自分の本分と思う。そうした人々は、ふさわしくないまま聖餐を受けることになり、自分にもたらされる審きを飲み食いすることになるからである。それが、29節の言葉を文字通りに訳した意味である。私たちのバプテスト諸教会は、私たちの知る他の一部の人々よりも、より聖書的な秩序に近い形で形成されたものと信ずるが、そのバプテスト諸教会の間で私たちは、少なくともある程度の戒規を執行している。私たちは、教会員の人々、そして、その会員籍を理由として聖餐にあずかる資格のある人々にこう要求するものである。彼らが聖餐式に出席する際には、その回心を証しするに足るいくつかの証拠――と私たちが考えるもの――を私たちに示すべきである、と。また、その後でも私たちは彼らに、そのふるまいがキリストの律法と首尾一貫したものであることを要求する。そうでない限り、私たちはまず最初から彼らを受け入れない。受け入れた後であれば、聖書的な除名手順に則って、すみやかに、ある種の会員を私たちの中から排除する。そうした会員とは、その生活と生き方が私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの福音に合致していない者らである。
しかし、私の兄弟たち。私たちが何をしようと、――たとい私たちが細心の注意を払ってこの聖餐台に垣根を巡らし、絶えずあなたに向かって、私たちを欺かないようにしなさい、神を欺くことはできないのだから、と警告しても、――それでも私たちはは完璧に自覚している。この聖餐台の守りの最大の部分はあなたがた自身に存さなくてはならないことを。私たちは、神が与えてくださる恵みに従って、できる限り注意を払って、ふさわしくない人々を聖餐式に受け入れないことが自分の本分であると信ずる。それでも、人は定命の者で、過りがちで、間違いを犯すものである。私たちが、あなたを判断することはできない。それで、《主人》のこの神聖な卓子の前にやって来る前のあなたを吟味することは、その大半をあなた自身にゆだねなくてはならない。覚えておくがいい。愛する方々。牧師によるいかなる承認も、また、教会の執事や長老たちによるいかなる承認も、もしあなたが主の晩餐に集うためやって来たとき、実は回心した人間でなかったとしたら、そこに集ったことについて、何の弁解にもならないのだ、と。確かに、あなたがそこに集うことは、教会そのものがそう同意しない限り、決してありえない。だが教会は決して、あなたをふさわしい者とする責任を負ってはいない。教会はあなたに対してこう云う。「あなたは聖餐式の卓子のもとに集っても良い。だが、もしあなたが私たちを欺いていたとしたら、その罪はあなたの頭上にあるがいい。もしあなたが自分の告白する通りの者――キリストを真に信ずる者――でないとしたら、最後の審判の日にあなたは、これ以外のそむきの罪に加え、この儀式に不法に服したことについても、申し開きをしなくてはならない」、と。そして、私は今、この教会の《牧師》として、この教会の名において、また、この教会を代表して、この卓子に近づこうとしているすべての男女に向かって、この上もなく厳粛かつ熱心に警告する。もしあなたが神の子どもでなく、キリストを信ずる何の信仰も持っていないとしたら、罰当たりな手でこの神聖な晩餐のパンと葡萄酒に触れる前に、それをやめるがいい、と。そうした人々に告げておくが、もしあなたがたが、このような警告の後でも、自分を吟味することなく、自分が神から生まれたことを心で徹底的に確信することなく《主人》の卓子のもとに来るとしたら、それはあなたがたにとって何の役にも立たず、あなたがたの罪を増し加え、あなたがたに咎を加えるであろう。陪餐しようとしているすべての人々は、こうした考えをとくと考えるべきである。そして私は、そうした人々の中の誰かが、この卓子に垣根が巡らされた結果、ここから引き下がるようなことをしてさえ、彼らが正しいことを行なう正直さを有していたことを喜ぶであろう。
I. さて、愛する方々。その点からもう少し目を転じて、私が思い起こさせたいのは、《主の晩餐を正しく受けるには必要な備えがある》、ということである。
一部の教会の、名ばかりの信仰者か、形式主義者か、儀式尊重主義者でしかない人々の間では、一週間を備えのために取り分けておく習慣があるという。また、あなたも、ロウランド・ヒル氏が著書『村の会話』の中で、トゥーグッド夫人について何と書いていたかを覚えているかもしれない。彼女は、主の晩餐の備えのために一週間を費やした後で、それが次の安息日まで執行されないことに気づいた。それで彼女はひどい癇癪を起こして、呪ったり、悪態をついたりした。なぜなら、丸一週間無駄にしてしまった、と云ったからである。疑いもなく、ある人々は、省いた方がずっとましであろうような一種の偽善的な備えをこれまでしてきたであろう。私はあなたにそのようなことをするよう勧めはしない。だが、ある正しい事が悪用されているからといって、それは私たちがそれを適切に用いるべきでない理由にはならない。私たちは誰しも、主の晩餐に集う前には、それに正しくあずかることができるように、聖霊の助けのもとで自分の心を整えるべきである。戦闘に突入する軍馬ででもあるかのように、どこに行くかかも知らぬまま、自分の《主人》の卓子に突進して行くべきではない。まるで普通の食卓に着いて飲み食いするかのように、キリストのからだと血の象徴にあずかるべきではない。
私たちは、敬虔な厳かさと、相当な備えとをもって、ここに来るべきである。また、この晩餐を受けることで祝福を受けたいと期待するのであれば、しかるべく自分を備えた後でここにやって来なくてはならない。悲しいかな! このことはあまりにも忘れられている。また人々は、たとい何の備えをしなくとも神に近づくことができると考えている。だがヤコブは、ベテルに行って祭壇を築き、神にいけにえをささげようとしたときには、自分の全家に向かって、彼らの間から彼らの異国の神々を捨て去るよう命ずることが必要だと感じた[創35:2]。神は、シナイに現われようとする前に、民に向かって自らをきよめるように命ぜられた[出19:10-11]。なぜなら、ご自分が彼らに近づこうとしておられたからである。そして、それは古の時代にそうであっただけでなく、今もそうあってしかるべきである。私たちは、あわただしい、無頓着な足どりで神に近づくべきではない。むしろ、あのソロモンの訓令を思い出し、それに従うべきである。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行なっていることを知らないからだ」[伝5:1]。モーセが自分の立っている場所が聖なる地であるがゆえに、その足の靴を脱いだように[出3:5]、私の兄弟たち。私たちもまたあらゆる肉的な思い、あらゆる世俗的な事がらを捨て去って、この最も神聖な場に近づくべきである。――これは、あの燃える柴を取り巻いていた場をさえ越えて神聖な地なのである。というのも、この場が取り囲んでいるのは、カルバリの十字架、私たちの主なる《主人》の死んだ土地だからである。
甘き瞬間(とき)かな、豊けき祝福(めぐみ)、
十字架のもとで われは過ごしぬ。
いのちと健康(いやし)、平安(やすき)得られぬ、
罪人(とがびと)たちの 死にし《友》より。ここにぞ永遠(とわ)に われは立たん
あわれみ流るを 血の川に見ん。
尊き雫よ! わが魂(たま)濡れて
請(こ)い求めたり、神との平和(やすき)を。げにも幸(さち)なり ここにあり
かの十字架(き)の前に ただ伏して
天(あま)つ慈愛(めぐみ)を 目にするは
ちから失し主の 眸(まなこ)より。ここにてわれは 天国(はて)をば見出(え)たり。
十字架(き)をば見る間に 多く愛すや?
われ多く赦さる 恵みの奇跡ぞ。否、われなおも かく感じたり、
何を欠乏(か)くとも イエスに向かい
御傷を試して 日ごと癒やされ
主ご自身を より知らん、と。主の晩餐のためのしかるべき備えとして何が必要かについて、二、三の思想をあなたに深く考察させてほしい。第一に私が思うに、信仰を告白するキリスト者はみな、主の晩餐に集う前に、ある程度まで黙想と瞑想に専心すべきである。私たちは、自分が何をしようとしているかについて、ふさわしく考察することもなしにここに集うべきではない。まず私たちが考察すべきなのは、自分がより直接的に神の御前に出て行くのだということである。確かに、神の家で聖なる集会を行なっている間の私たちは、特に《いと高き方》の御前にいる。だが、夕暮れに《主人》の晩餐を食べて飲むときは、信者のバプテスマという儀式だけを除き、他のいかなる信仰の勤めを行なうときにもまして主に近づくのである。聖餐式礼拝には、非常に哀切なもの、優しいもの、交わりに満ちたもの、私たちをキリストに近づけるもの、キリストが私たちにいや近くおられるものがある。それゆえ私たちは、自分が《いと高き方》の奥の間に入っていくのだと感じずにこれに集うべきではない。そして、確かに、もし神を凝視することが御使いたちにもその翼で顔覆いをさせるものだとしたら、私たちはこの卓子に、大いなる畏敬と霊の厳粛さをもって集わされるべきである。
次のこととして私たちは、ここに集う前に、自分がこの儀式を記念する根拠となっている権威を黙想するべきである。もしあなたがたの中の誰かがこの卓子に集う理由が、私がそれを執行するからであるとか、古のバプテスト諸教会の正統的教理に従って、これが天来の規定であるとみなされているからというものだとしたら、あなたは過ちを犯している。主の晩餐を受けることにおいて、あるいは、バプテスマの儀式に服すことにおいて、誰の権威によってそうするかを考察するのはあなたの義務である。また、ここに集うことにおいて、自分が神のみこころを行なっているのだと、また、神から命ぜられたことを実行しているのだと確信するのはあなたの義務である。もしあなたが、天来の儀式に集うものとして聖餐式に集うのでないとしたら、正しく集っているのではない。単に形式としてこれにあずかるだけで、神がこの形を命じて、御子イエス・キリストを具体的に表現されたことを全く分かっていないとしたら、あなたはここに集う際になすべき備えをしていなかったのである。
さらに、聖餐式に集う前には、あなたと神との間にある大いなる隔たりを考察しなくてはならない。たとい今のあなたが、主イエスとのほむべき神聖な交わりを有しているとしても、思い出すがいい。この晩餐の中には、あなたの咎の記念があるのである。確かに、ここでは、あなたのもろもろの罪がいかに主イエス・キリストの裂かれたからだと流された血によって取り去られたかが見てとれる。だが、あなたがきよめられた沐浴そのものによって、自分の罪深さを思い出すがいい。そして、おゝ、私の兄弟たち。この席に着くときには、まるで何か感心な行為を行なってでもいるかのように、これみよがしなしかたで食べたり飲んだりしないようにしようではないか。逆に、自分はキリストの《教会》の末席にすら着くのがふさわしくないと感じているかのようにそうしようではないか。願わくは神がこの時を、私たちが自分をへりくだらせ、御前のちりの中にはいつくばる時としてくださるように! 私たちは、聖餐台の前にいる代わりに居酒屋の席についていたかもしれない。悪霊の杯[Iコリ10:21]を飲み、ベリアル[IIコリ6:15]との交わりを持っていたかもしれない。だが、恵みが、無代価の恵みが私たちをこの場へと至らせてくれた。ならば神の臨在の前で自分を卑下しようではないか。御前でへりくだろうではないか。そして、信仰によって私たちの《主人》のからだで養われる間、私たちの《贖い主》キリストと私たちが有する交わりそのものによって、私たち自身の高慢な網細工がずたずたに切り裂かれ、鼻をへし折られるように感じようではないか。
それから、キリスト者よ。あなたがここに集う前に黙想すべきさらなる主題は、ここであなたに向かってそのからだと血が象徴されている《救い主》について、あなたが正しい考え方を有しているということである。私たちはこの儀式に集う前に、少なくともある程度の時間を費やして、私たちの主イエス・キリストのこの裂かれたからだと、流された血と、苦しみと、苦悶と、死と、復活とを敬虔に考察すべきだと思う。私たちはみな、この卓子に着く前に、自分がどなたの死をここで記念しようとしているのかを思い出そうではないか。私たちは《救い主》を神の子とみなし、処女マリヤから生まれた人の子とみなすべきである。その悲しみの道を歩いておられた際の主を思い描くべきである。真剣な黙想によって、かの園で打ち伏しておられた主を思い描くべきである。ガバタ[ヨハ19:13]で背中に血みどろの畦溝を刻まれている主を思い描き、カルバリの山の恐ろしい苦悶の中で死につつある主を眺めるべきである。私の兄弟たち。そのようにするまで、あるいは、神の御霊によって特別のしかたでそうできるようになるまで、私たちは、ただパンを食べ、葡萄酒を飲むだけで何らかの益を引き出せると期待してはならない。あなたは自宅で自分のパンを食べ、自分の葡萄酒を飲むことができる。普通の晩餐を取ることができる。自分の家で自分のパンの皮を砕き、自分の杯から飲むことができる。だが、そうしたすべてが何の役に立つだろうか? それが主の晩餐になるわけではない。そして、この場も、あなたにとって主の晩餐となるためには、あなたの心が神の臨在と、神の御前におけるあなた自身のむなしさと、ここで如実にあなたの前に示されているイエス・キリストの栄光に富むいけにえと贖罪とについての敬虔な黙想で満たされなくてはならないのである。
次のこととして、ただ単に黙想だけでなく、嘆願もまた、この晩餐のための私たちの備えの一部をなすべきである。正しく行ないたければ、説教を聞くために集う前にすら、決して祈りを欠かすべきではない。私たちの心がふさわしい霊的状態にあるとしたら、私たちは決して自分の家を出て祈りの家に行く前に、まず神が教役者を助け、自分たちを助けてくださるよう嘆願することを欠かすべきではない。私たちは、雲の柱がはっきりイスラエルの幕屋の上にとどまっているのが見えることを願わずに、ヤコブの天幕を離れるべきではない。私たちは、神の聖所に来るとき、そこに入る一瞬前に祈りを囁くべきである。聖霊がその日一日私たちの上にとどまってくださるように声を上げるべきである。そして確かに、たとい私たちが種々の聖なる義務の前に祈りを怠ることがあったとしても、決してこの聖なる晩餐の前にそれを省くべきではない。おゝ、私の兄弟たち。残念ながら、私たちの中の多くの者らは、この儀式に祝福を祈ることを忘れていたために、その甘やかさを失ってきたのではなかろうか! 私は、きょうの当日になるまで、この場所に来る備えを自分でもしていなかったことに気づいた。その時まで、イエスとまず交わりを有そうとしていなかったのである。私は、自分がいかに厳粛な席に着こうとしているかを忘れるほど咎深い者であったことに、霊の悲しみと苦悩を感じた。そこで、ただちに静かな瞑想と神への祈りとに、ある程度の時を費やそうと努めた。いかなる教会員も同じようにすべきである。おゝ、そのようにするとき、それはいかに幸いな聖餐式礼拝となるであろう! 私たちは聖餐台のもとから、不毛な、また冷たい思いで離れて行くべきではない。だが私たちはしばしばそうしてきた。教役者が十分に感動的な言葉を語らなかったからだとか、彼がパンと葡萄酒を有益なしかたで分与しなかったからだと云って彼を非難してきた。その実、その責任は私たち自身にあり、教役者にはなかったのである。私たちはふさわしくないままで食べたり飲んだりした。そのため、そうした誤った心の状態に下る審きとして、主の晩餐そのものが不毛なものとなり、《王》の酒宴の席[雅2:4]にも、あぶらの多い肉の宴会[イザ25:6]にもならなかったのである。
II. さて、愛する方々。私があなたに注目するよう求めたいのは、《本日の聖句が示している、この備えの最上の部分、すなわち、自己吟味》である。「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」。
このように自分を吟味してきた者が、いま私たちの中にどのくらいいるだろうか? 残念ながら、私たちの多くは、何の自己吟味もせずにこの場に集っているのではないだろうか? よろしい。ならば、今すぐ私たち自身を吟味し始めようではないか。そして、この礼拝と晩餐の執行の時との短い合間に、ことによると、私たちが時々歌う賛美歌の1つを読み返すことは不都合でないかもしれない。その中からあなたは、自分が自己吟味においていかなる問いを自問すべきか、また、何が聖餐台に着く権利を有する人々の目印であるのかを見てとれるであろう。
聖き御言(みふみ)は さやに告げん、
主権(たか)き恵みに 改心(かえ)らる者、
信頼(たより)と希望(のぞみ)を キリストの
御血潮と 義に置く者を。真理(まこと)を知りて、その足を
聖潔(きよさ)の道に 導く者、
聖徒(みたみ)の交わり 愛しつつ
嘲(あざ)む者の場 避く者を。過去(ふる)き達成(てがら)を 自足(よみ)せずに
まされるきよさ いや求め
常に廉直(ただし)く あらんとす、
そのなすすべての わざと言葉に。かくなる者を 神は召し、
御教会はその 戸を開かん。
生まれや身分(うじ)は いかにあれ
奴隷(ぬひ)も自由人(あるじ)も 富者(とむ)も貧者(かくる)も。この賛美歌は厳粛な問いを投げかけている。それに答えることなしに、私たちの中のいかなる者も、ここに集う危険を冒すべきではない。私の兄弟たち。あなたは主権の恵みによって変えられているだろうか? 私たちは、ひとりひとり、こう云えないだろうか? 「神の恵みによって、私は今の私になりました[Iコリ15:10]。今の私はかつての私ではありません」、と。私たちは、途方もない思い違いをしているのでない限り、断固たる口調でこう云えないだろうか? 「私たちは自分がどなたを信じているかを知っており、自分が新しく生まれたことを確信しています」、と。もしそう云えないとしたら、――おゝ、愛する方々。もしあなたがたの中の誰かがそう云えないとしたら、私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたに厳かに命ずる[Iテモ5:21]。もしあなたが、自分は新しく生まれたことを信じても知ってもいないとしたら、この《主人》の卓子に集い、それを汚すようなことをしてはならない。あなたは、聖徒たちとともに席に着くなどということをしながら、自分自身は新しくされも、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、新しく生まれさせられ、生ける望み[Iペテ1:3]を持つようにもさせられていないのである!
あなたがたの中のどのくらい多くが、この賛美歌が次に述べている人々の数に入るだろうか?
信頼と希望を、キリストの御血潮と義に置く者
私は、神の恵みによって、あなたがたの中の多くの人々がそうであることを知っている。それ以外の希望を私は有していない。私の倦み疲れた魂にとって唯一、岩となり、隠れ場となるのは、イエスの贖罪しかない。あなたもそう云えることと私は信頼している。愛する方々。しかし、もしそう云えないとしたら、また、もしイエス以外の何かに頼っているとしたら、また、もしあなたが典礼や儀式や良い行ないに少しでもより頼んでいるとしたら、またもや私は、生きている人と死んだ人とを審かれるお方[IIテモ4:1]によって厳命する。この卓子に着いて、主の晩餐を受けようなどとしてはならない。というのも、そうすることによってあなたは、イエスを信ずる信仰を持たず、その尊い血に対する信頼もなしに、ふさわしくないままで食べ、また飲むしかないからである。
また、あなたは、この賛美歌が語っているように云えるだろうか? あなたは真理を知っており、自分の足を導く聖潔の道を知っている、と。残念ながら、私たちはみな、自分の願っているほどにそうは云えないと告白せざるをえないのではないかと思う。しかしながら、私たちはそれでも、このことについて努めて自己吟味しようではないか。さあ、愛する方。今や前回あなたがこの卓子に着いてから一箇月が経っている。その間あなたは何をしてきただろうか? あなたの足どりはどのように導かれてきただろうか? あなたの話し言葉はいかに整えられてきただろうか! 神に対する、また、人に対するあなたの行為はどうだっただろうか? このときを、過去一箇月のあなたの日記の頁をめくるときとするがいい。さあ、兄弟姉妹たち。自分を吟味しようではないか。そして、このようにしてこのパンを食べ、葡萄酒を飲もうではないか。本日の聖句で命ぜられていることが、無益な実践となるはずがない。では、それに従おう。いま自分自身に問いただすがいい。私たちは真に主のものだろうか? もし主が、弟子たちに対して云われたように、私たちに向かって、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」[ヨハ13:21]、と云われたとしたら、私たちは何と云うだろうか? 私たちはひとりひとりこう尋ねよう。「主よ。まさか私のことではないでしょう?」[マタ26:22]、と。私たちは、ユダのように《主人》に対する陰謀をたくらんでいなかっただろうか? 主の宝を盗んでいなかっただろうか? 自分の誓いの中で約束したものを主から奪っていないだろうか? 私たちが主におささげすると厳粛に契約した時間や奉仕をささげずにしまっていないだろうか?
もう一度私たちの賛美歌を眺めてみよう。あなたは聖徒の交わりを過去一月の間破ってこなかっただろうか? 私たちは、神の子どもたちに反することを口にし、そのときの怒りや憤りや苦々しさによって自分の霊性を損なってこなかっただろうか? 自分と彼らを結び合わせている聖なる絆を断ち切ったと感じたことはなかっただろうか? この一箇月の間、聖徒たちの足を洗ったことがあるだろうか! むしろ、自分が道を踏み外し、彼らをも迷わせることによって、彼らを泥にまみれさせたり、汚したりしてこなかっただろうか! 私たちはこの一箇月、自分をへりくだらせてきただろうか? イエスがなさったように[ヨハ13:4-5]、手ぬぐいを取って腰をまとい、教会のために卑しい仕事をしたことがあるだろうか? 私たちのあらゆる奉仕には、あまりにも多くの高慢が忍び込んではいなかっただろうか? それが私たちのあらゆる行為をだいなしにし、私たちの最上の努力をも駄目にしていなかっただろうか? それから、祈りについてはどうだろうか? 私たちは悲しいほどに、この聖なる勤めにおいて怠慢ではなかっただろうか? そして、私たちの《主人》に対する愛に関して、私たちの心はあまりにもしばしば主に対して冷淡ではかなっただろうか? このお方は私たちのためにその心の飲み口を完全に開き、そこにあった血潮がすべて、私たちのための1つの大いなる奔流として流れ出させてくださったというのに!
おゝ、愛する方々。私は、本日の聖句によって命じられているような吟味において、あなたが自問する必要のあるすべての質問を示唆することはできない。前回の聖餐式の晩から始まる数度の安息日を通じて、また、数度の月曜日、火曜日、水曜日、そして、あらゆる週日について、振り返ってみるがいい。そうするとき、確かにあなたや私の双方には、次の一時間の間、自分を吟味するためになすべきわざが十分にある。あゝ! 私たちはそれを済ませておくべきであった。そして、今のこの時には、自己吟味よりもむしろ、より厳粛な交わりへと自分を適用できるようにしておくべきであった。しかし、いま私はもう一度あなたに切に願う。そうせずにはおけない。どうか私の神に対して忠実であるがいい。もしあなたがたが私たちの主イエス・キリストを愛しているとしたら、また、もしあなたがたが真理に忠実な者であるとしたら、私はあなたを《主人》の卓子に招くものである。そして、願わくは神の御霊があなたの上にとどまってくださるように! しかし、正直な教役者として私はあなたに警告する。あなたがた、自らあるべき姿にはなっていない人たち。この卓子に集ってはならない。おゝ、もしあなたがたの中の誰かが口先だけの告白者であったり、偽善者であったりするとしたら、私はあなたがここに集ってはならないと命ずる! あなたは、自分の臨終の日には、かつての自分の形式的な行為や偽善の数々を思い出すであろう。ならば、私は切に願う。このパンを不浄な唇で触れたり、その葡萄酒をすすったりしないでほしい。それらを受けとるのは、自分が神の御霊を内側に有していること、《小羊》に真に結び合わされていることを感ずるようになってからにするがいい。
残念ながら、あなたがたの中のある人々は、何箇月もの間、この象徴を受けてきながら、本当に自分自身について知ることになるとしたら、今晩初めて、それを味わうことなく帰宅するのではないかと思う。こう云うのは嘆かわしいことだが、この教会の中にいるある人々と私は、ごく僅かしか交わりを持つことができない。それは、彼らが時々、ちょっとした意見の違いにより、私たちの中のある人々に対して辛辣な言葉を口にすることがあるためである。また、多くの他の人々と私たちは、全く何の交わりを持つこともできない。なぜなら、彼らの生活は非常に汚れ果て、彼らのふるまいが非常に非キリスト者的であるため、いかに彼らが信仰的には十分健全であっても、私たちは不思議に思うしかないのである。あれだけ多くの真理を知っている彼らが、いかにしてキリストの霊をあれほど僅かしか身の裡に有していないのか、と。あゝ、愛する方々! 光るもののすべてが黄金ではなく、信仰を告白するすべての者が信仰告白者ではない。至る所のキリストの《教会》にいるある人々は、――そして、私はこの教会にへつらうつもりなど毛頭ない。――、また、この場にさえいるある人々は、彼らの苦々しさと、憤りと、悪口雑言によって教会を真っ二つに引き裂くことが簡単にできる。他の人々は、その汚れた生き方によって神の鞭を私たちの上に引き下ろすことが簡単にできる。しかり。そして、私たちの中の最上の者ら自身でさえ――ヨハネたちやエノクたちでさえ――、自分の幾多の短所や悪事のゆえにへりくだるべき理由があるではないだろうか? キリスト教信仰を告白する者はみな、自分を吟味しようではないか。彼らが自分を欺き、他の人々を欺いてきたことになるといけない。――自分が義人であるとし、自分をより頼みながら、実は死からいのちに移っていないことになるといけない。
あゝ、愛する方々! 私は、このような折に自分が願うほどの厳粛さをもって語ることができない。私は、あなたがたの中のいかなる人に対しても、この卓子を立入禁止にすることはできない。そのようなことは決してあってはならない! あなたがた、主イエスを愛する人たちは、来て、迎(い)れられるがいい。しかし、私は、あなたがたの中の回心していない者を誰ひとり排除することができず、あなたがここに集う権利を有しているとしたら、あなたを押しのけることもできないが――なぜなら、あなたはこの教会の、あるいは、どこか別の教会の教会員だからである――、それでも私は、人間の力の及ぶ限りにおいて、厳粛にあなたに警告する。あなたが真に聖霊によって新しく生まれていない限り、聖餐式に集ってはならない、と。私はシオンにおいて生きた魂となっている六名の教会員に出席してもらう方が、口先ばかりの六百人の信仰告白者に出席してもらうよりも好ましく思う。おゝ、主なる神ょ。この教会をさらにもう一度ふるいにかけ、あおぎ分けてください! もし誰かがもみがらでしかないとしたら、そこから吹き飛ばすか、彼らをあなたの麦としてください。彼らがあなたの倉に納められるように。また、消えることのない火で焼かれることがないように! おゝ、主よ。私たちひとりひとりを真摯な者としてください。この行為の厳粛さを私たちの肝に銘じさせてください。そして、私たちがこの卓子に近づくとき、願わくはそれが特にあなたの微笑みのもとにあり、あなたの祝福の伴うものでありますように。私たちの主イエス・キリストのゆえに! 父なる神、子なる神、聖霊なる神に、栄光が代々限りなくあらんことを! アーメン。
陪餐のために必要な備え[了]
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