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ツォアルへの逃亡

NO. 2642

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1899年10月1日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年秋、主日夜の説教


「太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた」。――創19:23


 ソドムの滅亡は、疑いもなく文字通りの事実であった。そして、創世記におけるその記録は、真正な歴史の一片である点にかけては、タキトゥスやヨセフスの記録したいかなる事件にも劣ってはいない。しかし、それはまた、1つの偉大な教訓をたとえ話的に私たちに教えるためのものでもあった。――たとえ話の形をした教訓、私たちに教えと祝福との双方を与えてくれる教訓である。旧約聖書という大いなる《本》は、数々の聖句を記載しており、新約聖書はそうした聖句を主題聖句とする数々の説教を含んでいる。ロトの妻は旧約聖書においては1つの聖句として記されているが、新約聖書においては、それを主題とした説教、「ロトの妻を思い出しなさい」、があるのである[ルカ17:32]。そして、私の兄弟たち。いついかなるときであれ、私たちの主イエス・キリストが、あるいは、主の使徒たちの誰かが、旧約聖書の一事件に言及しているときには、私は常に、彼らの言及している出来事を眺めることが、私たちの務めであると思うのである。私は古書で清教徒たちの著作を喜んで読むものだが、しばしばその欄外に、ある特別な言葉を指し示すしるしがつけられていることに気づく。読者は、その言葉に特別な注意を払い、それを丁寧に読むべきだというのである。そして私は、過去の時代にその本を読んだ、真理を愛する古人の誰かが、その箇所の向かい合わせに手書きでしるしをつけているのを見いだすとき、普通は真剣にその箇所に目を向け、それがいかなる珠玉を指さしているのかを見てとろうとするものである。さて私が思うに、私たちの《救い主》は、「ロトの妻を思い出しなさい」、と云われたとき、いわば聖書の欄外に注のしるしをつけて、このソドムの滅亡を描写している事件全体を指し示されたのである。そして、いわばこう云っておられるのである。「あの出来事に注意するがいい。それを、綿密に調べるがいい。というのも、そこには一見したところ以上のものが含まれているからである」。そして、ロトの妻が塩の柱になることに教えとなるものがあるのと同じく、ロトの旅路の一歩一歩には、また、そこに関わるあらゆる事件には、学びとるべきことがあるのである。だとしたら、私がこう主張するとしても、決して突飛であるとか荒唐無稽であるとかみなされる筋合いはない。すなわち、この聖句では、ここで記された単純な事件の中に、大きな教えがあると私は信ずるものである。「太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた」。

 手早くこの説教の筋立てを示してみよう。ロトはツォアルに達するまで、ほとんど暗闇の中にいた。それが第一の項目である。第二に、ロトがツォアルに着くや否や、太陽は地上に上った。第三に、太陽がロトの上に上ったのを見たのと同じ瞬間に、燃える雹がソドムに降り注いだ。ここには3つの事実があり、それは3つの比喩であると思う。それは、罪人の経験に関する3つの大きな真理を例証しているのである。

 I. まず第一に、《ロトは、ツォアルに着くまで駆け通した間ずっと、ほとんど暗闇の中にいた》

 注意するがいい。彼が最初に出立したのは、15節で聖書の告げるところ、夜が明ける頃であった。夜が白み始めた明け方に、あの御使たちは、彼をせき立ててソドムから出て行かせた。それは、まさにしののめの頃であった。そして、ここで云われているように、ロトがツォアルに着くや否や、太陽は完全に上りきったが、それまではそうではなかった。彼は暗がりの中を難儀しながら進み、相当程度まで暗闇の中を走らなくてはならなかった。あゝ、愛する方々。それは厳粛な瞬間であった。かの傑出した客人たちは、自分たちの亭主を戸口から外へ出した。それも、全く愛といつくしみによってそうした。このふたりの御使いは、ロトと、その妻と、その娘たちの手を取って引きずり出し、走れと命じたのである! それは厳粛な瞬間であった。諸天が神の御怒りで重く垂れ込め、ただロトが無事にかくまわれるまでの間だけ、かの呪われた町々に熾烈な奔流をぶちまけるのを待っていた。あなたには彼らが見えないだろうか? あるいは、彼らの黒い人影が薄明の暗がりの中に浮かぶのが見えるような気がしないだろうか? あなたには、それが一体いかなることか、ほとんど理解できない。そこでは、ふたりの人が一家族を路上に追い立てている。次にふたりが彼らの手をつかみ、愛のこもったしかたで急いで前へと追い立てているのが見える。それから1つの声が聞こえる。地上の声音をどこか越えた、天界の言葉遣いで語る大きな声が発されている。「いのちがけで逃げなさい」。すると、見よ。この男と、その妻と、その娘たちは逃げ出している。――自分自身の家から逃げ出し、――自分自身の親戚知人たちのもとから逃げ出している! ひとりの女が自分の婿たちを、また、妻たちが自分の夫たちを、町で滅びるにまかせて逃げ出している! 彼らの逃走を眺めるがいい! 彼らが低地を横切って逃げていくのを見るがいい。何度となく彼らは蹴つまずく。彼らの前にある道はおぼろでしかなく、彼らは自分がどこに向かっているかほとんど知らなかったからである。彼らには、ただ彼方に浮かび上がる黒い山影しか見えず、そこを目指して暗闇の中を懸命にひた走っている。

 さて、闇の中を走るロトは、まさにひとりのあわれな罪人が、ソドムを出て行くときの姿にほかならない。あなたがた、覚醒させられ、罪を確信させられたばかりの人たちは、自分がすぐさま神の恩顧の陽光を受けられると期待してはならない。最初、あなたの家の中には確信という御使いが入り、あなたの破滅の住居からあなたを追い出さなくてはならない。しばらく走った後であなたは日光と、喜びと、平安を得るであろう。だが、《救い主》を求めて走っている間は、暗闇の中を走ることを予期しなくてはならない。また、そのような予期が裏切られることはないであろう。おゝ、あわれな罪人が、最初に自分の生まれながらの状態を知らされたとき、また、恵みというほむべき妙薬を聖霊によって適用される前には、それは何という闇であろう! 彼を見るがいい。涙の粒が止めどなく頬を流れ落ちている。ほとんど日夜を問わず泣いている。そして、まさにその悲しみゆえにしばし眠りにつくとしても、夢という夢が彼をかき乱し、彼は常にみじめにしている。人々は彼の気が触れたと云う。まるで発狂したかのようだからである。彼は陰鬱な口調で独り言を云う。仕事に手をつけるときも、呻き声をあげ、吐息をつき、「おゝ、もし」、だの、「あゝ!」、だの、「もう遅い!」、だのと云う。こうした切れ切れの言葉は、他の誰にも理解できない。だが神にも、彼自身の心にも、その内なる意味がよく知れたものである。彼は一条の希望も有していない。自分が永遠に神から閉め出されていると信じている。そして、神が御顔の光を自分から隠しておられるのは正しいことだと考える。《いと高き方》に対してつぶやきはしない。だが、いまだかつて、これほど不平を鳴らす寸前に至っている人はいない。今にも闇雲に自らの手で死を選びかねない。生きていることに耐えられないからである。彼はダビデとともにこう云う。「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します」[詩6:6]。「御手が昼も夜も私の上に重くのしかかっています」*[詩32:4]。彼はヨブ記に目を向け、この族長の陰鬱な叫びを読んでは、自分も同じように云えると宣言する。また、ダビデあるいはエレミヤの悲嘆の言葉をみな自分に当てはめる。「私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました」[詩102:7]、と彼は云う。「私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています[詩102:6]。私には、何の慰めも、何の平安も、何の喜びもありません。神の恵みは、私にとって永久に絶たれました! 神はもはや私のことなどみこころにとめておられないのです!」

 さて、愛する方々。どうか覚えておいてほしい。多かれ少なかれ、これは今まで、また今後も常に、罪人が《救い主》を求めているときの状態なのである。おゝ、あなたがた、闇の中にある人たち。覚えておくがいい。あなたは単に何万もの他の人々がかつていた所にいるにすぎない! あなたがこのような光の消滅した状態にあることを怪しんではならない。他の人々の光もやはり消滅したことがあるのである。そして、《義の太陽》[マラ4:2]を見いだしたすべての人々は、彼に到達するまで闇の中を走らなくてはならなかったのである。暗い隧道を経なければ、私たちはキリストのもとに行き着けないのである。また、あのエジプトの夜闇よりも悪いものの中を手探りしない限り、喜びをもって神の御顔を眺めることはできないのである。

 ことによると、私はこう尋ねられるかもしれない。キリストを求めつつある、あわれな罪人にとって、なぜそれがこれほど暗いものとなるのだろうか、と。私にはあなたに告げられると思う。ごく手短に云って、それは、部分的には本人の無知のためである。あわれな魂よ。彼は元気づくほど《救い主》についても、救いの計画についても分かっていない。おそらく彼は、救いの道が宣べ伝えられるのを一生の間一度も聞いたことがなかったであろう。たとい長年の間会堂に出席していたとしても、――これは当世の会堂の通弊だが――そうした状態であることはありえる。彼は、福音の単純なイロハも分かっていない。罪人は罪人なるがゆえにキリストの救いにあずかる権利がある、という理屈が全く分かっていない。彼は贖罪を理解していない。いかにして神が正しいお方でありながら、自分のようなろくでなしを赦すことがおできになるか分からない。こうしたすべての無知は必然的に暗闇を引き起こす。そして、よく聞くがいい。福音に関するこうした間違いは決して小さなことではないのである。それらは常に危険なものであり、常に痛ましいものである。罪人たちは、感じなくてもいい悲嘆まで感じさせられてきた。それは、彼らが持っていてしかるべき知識よりも僅かな知識しか持ち合わせていなかったからである。

 また時として、この暗闇が生ずるのは、福音に関する間違いからである。福音については、無知な人たちよりは、誤っている人たちの方が多い。――私が間違いというのは、故意に犯された間違いというよりも、無知ゆえに犯された間違いのことである。私の知っているある人々は、救いの理屈はきわめて良く知っているが、彼らはその適用について間違った考え方をしている。さもなければ、それを逆さまに読みとっているのかもしれない。私の知る多くの人々は、聖書をないがしろにはしないが、罪の確信についてまるで何も知らないうちから、選びと予定について読むことを始めるのである。それで、しばしば、この罪人の暗闇は福音についての思い違いから生ずるのである。

 また、しばしばよくあることだが、このあわれな魂がキリストを求めて闇の中を走ることになるのは、自分の主について律法的な観念を抱いているからである。かの《遵法者》は多くの人々の破滅の因である。そして、私たちが彼に対して何を行ない何と語っていようと、彼はなおも生き続けている。あなたも知るように、マルチン・ルターは、自分は信仰による義認を毎日説教すると云った。それは、人々がそれを毎日忘れることに気づいたからである。その奇抜な説教の1つで彼はこう云っている。「私は、私の本を手にとって、この教理をあなたがたの頭に叩き込んでやれたら良いのにと思う。なぜなら、あなたは決して自分が救われるのは自分自身の善行によってではなく、キリストの義によってであることを思い出さないからだ」。罪人は、彼が行なうことのできる一切のことは無以下であり、救いは最初から最後まで全く恵みによるものだと、これ以上ないほど平易に告げられるかもしれない。だが、かの奸知に長けた古の悪魔は彼にそれを信じさせまいとするであろう。彼は常に罪人を導いては、自分が何かをしなくては――何かにならなくては――何かを感じなくては――決してキリストを自分の《すべてのすべて》として受け取ることはできないのだ、と考えさせようとする。そして、そのようにして律法精神は、一匹の黒龍のように、魂と神の光との間でその翼を広げ、慰めの日射しが一筋もこのあわれな意気消沈した霊に射し込まないようにするのである。

 さらに、この暗闇を引き起こすのは、主として良心とサタンである。これは奇異なことだが、時として罪人の良心と悪魔は手を組むことがある。《良心氏》は、そのすさまじい喇叭を吹き鳴らし、眠っていた罪人を驚かせるとき、良い奉仕をしている。だが、時として、罪人が完全に目覚めさせられた後で、悪魔がやって来ては《良心氏》に囁くのである。それも、まるで御使いが云ったと思われるかのようなしかたで囁くのである。「吹き続けなさい、《良心氏》。もっとすさまじい音を鳴り響かせなさい。私もあなたをお助けしましょう」。そして悪魔が現われると、その物凄い叫び声で、良心が行なうより一千倍も耳障りな騒音を立てる。そこであわれな魂はうろたえさせられ、恐怖に駆られ、ほとんど気が違いそうにさせられる。「おゝ!」、とサタンは叫ぶ。「お前はこれまで、キリストのあわれみも及ばないほどの罪人だったのだ」。「しかり」、と良心は云う。「お前はそうした者だった!」 「おゝ!」、と悪魔は云う。「お前は人間の犯しうる罪悪という罪悪を犯してきたのだ」。「しかり」、と良心は云う。「まさにその通り!」 そして、サタンが口にするあらゆる言葉に同調する。悪魔がやって来て、こう云う。「お前は、赦されることのできない罪を犯したのだ」。「無論そうだ」、と良心は云う。「私はずっとそう云ってきた」。「ということは」、とサタンは云う。「お前には何の望みもないのだ。お前は永遠に投げ捨てられるに違いない」。「しかり」、と良心は云う。「お前は永遠に投げ捨てられるに違いない。お前のようなろくでなしには何の逃げ道もないのだ」。そして、良心と悪魔が同じ喇叭を吹き鳴らし出すとき、それは実に恐ろしい喧噪となる。そして、サタンと良心の双方がこのように猛烈な騒音を立てているときに、そのような生活に長く耐えられるような魂はない。愛する方々。罪人が天国への路を走っているときが闇になるとしても不思議はない。もしサタンと良心の双方が彼に襲いかかるとしたら、《救い主》を見いだす前の彼の耳に陰鬱な叫びが響くのも不思議はない。私も、自分の良心が、悪魔を抜きにしてさえ私に逆らい立つとしたら、それを好ましく思わないことは確実である。良心は、騒がしくしているときには、あまり愉快な同居者ではない。確かに私たちは、彼が常に私たちの耳の中で鳴り轟いているよりは、おとなしく静かにしていてほしいと思うに違いない。しかし、地獄と良心が同行するとき、もう一度云うが、いかなる魂もそのようなあり方に長く耐えられるものではない。神がその主権のあわれみによって、その魂を支えてくださるか、その騒音をすみやかにやませてくださらない限りはそうである。ことによると、あなたは私に尋ねるかもしれない。「なぜ、そのあわれな罪人はイエスを仰ぎ見ないのですか?」 あゝ! それこそ彼のまさに困難な点なのである。彼がイエスを仰ぎ見ないのは、イエス・キリストが自分のようにみじめな者のために死んだとは考えていないためである。知っての通り、罪人が闇の中にいるならイエスを仰ぎ見れば良いのに、と云うことと、あなた自身がその闇の中にあるときにそうすることとは、全くの別物である。主がひとりのあわれな罪人の目をカルバリに向けさせ、イエスの輝きを見させることはほむべきことである。だが、罪人が自分自身の罪深さを悟ってから、《救い主》を仰ぎ見るようになるまでには、しばしば、いくつもの長い昼と暗鬱な夜があるのである。「ですが」、とある人は云うであろう。「なぜ彼は善良な教役者が説教するのを聞きに行かないのですか? そのようにしたら、確実にその困難から抜け出る助けとなるでしょうに」。愛する方々。私たちは、自分にできる限り平易に福音を宣べ伝えようと努めている。だが、ある人々にとっては、その鎖を鋲締めにしているだけのように思われるのである。今もこの場には、ひとりのあわれな魂がいる。私は彼女と何度も話をしてきた。私は彼女の悲しい状態を知っている。そして私はしばしば、自分の講話が彼女の場合に当てはまるものになるように云い表わしてきた。幾度となく私は、主が私に何らかの甘やかな言葉を与えてくださったように思った。青銅の門をも打ち砕き、幽閉された者を自由にするだろうような言葉である。だがこれは、私から多少とも高慢を取り除く役に立ったにすぎない。そして私は、人がいかに懸命に労苦しても、主が約束された贖いの時が来るまで、魂を束縛から引き出すことは不可能であると示された。「ですが」、とある人は云うであろう。「なぜ彼らは聖書に目を向けないのでしょう。またなぜ、そこにある何らかの尊い真理をつかまないのでしょう! 私ならそうしますよ。そして、そこから慰めを見いだしますよ」。しかり。愛する方々。そして、彼らも実際、あなたと同じく聖書に目を向けるのである。だが彼らは何の慰めも見いださない。というのも、彼らは、そうした約束をつかめないからである。私は、自分が何箇月もの間束縛状態にあったとき、聖書を通読するのを常としていたことを知っている。だが、その数々の脅かしはみな大文字で印刷されていたというのに、その約束はどれもこれも、あまりにも小さな活字で印刷されていたので、私には長い間まるで判読できなかった。判読できたときにも、それが自分のためのものだとは信じられなかった。しかし脅かしはすべて私自身のものであった。「さあ」、と私は云った。「『信じない者は罪に定められます』[マコ16:16]と書かれているとき、それは私のことを意味しているのだ」。だが私は、キリストについて、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:25]、と記されているのを読むときも、自分は除外されているのだと考えた。「涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした」[ヘブ12:17]、と記されているのを読むとき、「あゝ!」、と私は思った。「これもまた私のことだ」。そして、「いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け……ます」[ヘブ6:8]、と読むとき、「あゝ!」、と私は云った。「これは一字一句、私に当てはまっている」。そして、《主人》が、「これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」[ルカ13:7]、と云っているのを聞いたときには、「あゝ!」、と私は思った。「これは私の聖句だ。じきに主は私を切り倒し、これ以上、土地をふさがせておかないようにされるだろう」。しかし、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い」[イザ55:1]、と読んだとき、私は云った。「これは私にはふさわしくない。確実に」。また、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」[マタ11:28]、と読んだとき、「否」、と私は云った。「それは私の弟や妹にこそふさわしいものだ」、あるいは、私の回りにいる知人の誰かれにはふさわしいものだ。彼らは疲れて重荷を負っているのだから、と私は思った。だが私はそうではなかった。そして、神もご存知の通り、私は身の裡で心が張り裂けるほど泣いて、叫んで、嘆くのを常としていたが、もしも誰かが私に、果たしてあなたは罪のために悲しんでいますかと尋ねたとしたら、私はその人にこう云ったはずである。「いいえ。私は罪のために真に悲しんだことは一度もありません」。「よろしい。あなたは罪ゆえの重荷を感じてはいないのですか?」 「いいえ」。「しかし、本当はあなたは罪を確信させられた罪人ではないのですか?」 「いいえ」、と私は云っていたはずである。「私はそんな者ではありません」。あわれな罪人たちが、キリストのもとに来つつあるときに闇の中にいすぎるあまり、自分の手の見分けすらつかないというのは、奇妙なことではないだろうか? 彼らは、闇の中にいすぎたために、自分自身を見てとれないのである。そして、神が彼らの中で良い働きを行ない、彼らに敬虔な恐れと鋭敏な良心を与えておられるにもかかわらず、彼らは立ち上がっては、自分にはそのような祝福などどちらともありません、自分の中には良いものなど何もありません、神は自分に目をとめも、愛してもおられません、と云い張るのである。しかし、これは奇妙なことではありながら、これこそ魂がキリストのもとに行くしかたである。彼らはツォアルに向かうロトのように全く闇の中にあり、《救い主》のもとに行くまで何も見えないのである。

 II. さて、第二の事実について考えてみるがいい。《ロトがツォアルに来るや否や、太陽が上った》

 ひとたび彼が、この小さな町の門の内側に入るや、太陽はその輝きを余すところなく照らし出した。たぶんロトは思ったであろう。「あゝ。もう少し早く上ってくれれば良かったのに。おゝ、あの低地を横切って走っている間に、この光の幾分かでも受けられたとしたら、どんなに私は喜んだことか!」 そのように私たちは、主イエスのもとに導かれるとき、しばしば云うのである。「私が束縛されていたときに、この平安の幾分かでも受けることができていたとしたら、どんなに良かったことか。おゝ、もし私がいま飲んでいるこの喜びの川の水を、あの渇ききっていたときに、杯一杯分でも得ることができていたとしたら、それは何という祝福だったことか!」 しかし神は最善のことを知っておられる。嘘ではない。私の兄弟たち。もう一筋でも多くの日光がロトにとって良いものであったとしたら、彼はそれを得ていたことであろう。そして、あわれな試みられている罪人よ。あなたがいま得ているものよりも、もうほんの一閃でも多くの慰めがあなたにとって良いものだとしたら、神はそれをあなたに拒まれないであろう。しかし、神があなたを闇の中にとどめておられるのはあなたの益のためなのである。やはり神が、最終的にはあなたを光の中へ導き入れてくださるのが、あなたの益のためであるのと同じである。

 ロトはツォアルに達したときに太陽の光を得た。そして、罪人がキリストのもとに至ったとき、そのとき彼も太陽の光を得るのである。あわれな魂がそのすべての希望を奪われ、そのすべての頼りを失わされるとき、また、その魂が乞食の生活へと、また、無一物の境遇へと引き下ろされているとき、また、それが両足を切り落とされ、両手を撃ち飛ばされているとき、また、それが自分のものと呼べるものを何1つ有しておらず、死の扉の前に引き下ろされ、まさに破滅寸前になっているとき、そのときこそ、神の恵み深い機会なのである。そのときこそ、すなわち、霊が全く、何の留保もなしに、イエスの血と義とに自らを投げかけ、イエスを盲目的に信頼し、この生きていたが死なれたお方があわれな罪人たちのために義を作り出し、編み出し、紡ぎ出してくださるのだと信ずるとき、――私は云うが、そのときにこそ、初めて罪人はこの心に喜びを得るのである。話をお聞きの愛する方々。あなたがキリスト以外の何かに向かって走っている間は、いかなる慰めも得られると期待してはならない。慰めが得られるのは、ただキリストに達したときだけだと期待するがいい。ロトがそうであったように、それ以前にも、一閃か二閃は光が得られるかもしれない。だが、それ以上は大して得られないであろう。そして、覚えておくがいい。キリスト以外の何に向かって走っても、それは何の役にも立たない。というのも、あなたは、いかに速く走ろうと、キリストにもとに走るのでない限り、いや深まる暗黒の中へと走り込むことになるからである。

    罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    全き救い 御血(ち)によりて。

まさにその瞬間に、彼の重荷はその両肩から転がり落ち、彼の鎖は地に落ち、彼は自由になるのである。その瞬間に、彼の痛手はことごとく癒され、彼の傷口はみな包まれ、彼の流れ出ている血は永遠に止血されるのである。愛する方々。あなたは、これほどの喜びを作り出す、瞬間的な変化を感じたことがあるだろうか? あるとしたら、太陽があなたの上に上ったのだと私が云うとしても特に奇異なことを口にしたことにはなるまい。おゝ、その瞬間よ。罪人が自分の良心にへばりついた咎をきれいに取り除かれ、最初に歩み出したその瞬間よ! 私は、自分のもろもろの罪が《贖い主》の血にずぶずぶと沈んでいったのを初めて見たとき、自分が一跳びで地上から天国へと跳躍できたかのように思った。あなたは、ジョン・バニヤンが何と云っているか知っているであろう。――しばしば引用された話を繰り返すが、――彼はこう云うのである。「私は、耕地にいるからすにさえ、神が私の魂に何をしてくださったかを語りたい気がした!」 あなたは、主を知った直後の、あわれで素朴な回心者の後をついて行ったことがあるだろうか? 彼は走って家へ帰ると、近所の人々を呼び集めては、「私は主イエスを見いだしました」、と云うのである。おそらく彼らは、彼を笑い者にし始めるであろう。だが、彼はそこに笑うべきものがあるとは全く理解できない。というのも、彼はこう云うからである。「私の《主人》は尊くほむべき《主人》です。彼は私のもろもろの罪をことごとく取り去られたのです」。そして、彼はこの単純な物語を告げ続けるであろう。ことによると、彼らの何人かがそれによって次第に態度を改めるまでそうするであろう。残りの人々がいかにあざ笑うとしても関係ない。その喜び、嬉しさ、有頂天、狂喜、新しく生まれたその回心者の心の中で始まった若々しい天国は、地上がこれまでに見たことのある中で、最もパラダイスに近いものである。私たちのもろもろの罪が赦されるその日、神は天国のあらゆる鐘を鳴り響かせてくださる。そしてそのとき、私たちの心の中にあるあらゆる鐘がそれに合わせて美しく鳴り始める。神が私たちのもろもろの罪を拭い去ってくださるその日、神は《人霊》の町のあらゆる路地や小路に素晴らしい旗や小旗を翻し、金箔を被せたともしびと、輝かしい宝石を掲げてくださる。それから神は、甘やかな音楽がその町の至る所で奏でられるように命じ、泉から葡萄酒を流れさせ、その尊い液体の大樽を、それまで気を失いかけ、死にかけ、渇ききっていた貧しい魂たちに与えて飲ませてくださる! おゝ、魂がキリストのもとに進み出る、かの婚礼の日よ。それが初めてあわれみの戦車に乗り、その《愛する方》と同じ座席に乗るその日よ! おゝ! イエスがその永遠の愛の指輪を私たちの経験の指に嵌め、「あなたはわたしのもの」[イザ43:1]、と囁き、私たちの心がイエスに向かって、「私はあなたのもの」[詩119:94]、とお告げする最初の時よ。おゝ、その瞬間よ! 確かに、天国そのものも、これ以上に幸いではないに違いない。その瞬間と天国との違いは、天国は目もあやな綴れ織りであり、この瞬間はその縫い糸の一本というだけのことでしかない。「太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた」。そのように、神の御顔の光は、あわれな罪人たちがイエスのもとに行くときに上るのである。

 III. さて第三に私たちは、それよりも悲しい事実を考察しなくてはならない。《神は2つのことを一度に行なうことがおできになる》

 その右の御手で、神は太陽に天国の急坂を押し上らせ、ロトを照らし出せとお命じになったが、もう片方の御手では、天国の砲列を開き、その火と硫黄を降り注がせなさった。覚えておこうではないか。神の2つの御手は常にそのようなしかたで働いているのである。そもそもの最初から、それこそ常に神がなさってきたことであった。一方の御手で、神はノアを箱舟の中に閉じ込め、もう一方の御手で、永遠の貯水池から大水を送り出し、巨大な大いなる水の源[創7:11]を張り裂いては、地上に流れ出させられた。一方の御手で神は葦の海を打っては、イスラエルに足もぬらさずにそれを歩き渡るように命じながら、もう一方の御手では、その水を元通りに返して、パロとそのすべての軍勢をそこで溺れさせられた。そして、いま神を見るがいい。その一方の御手で、神は太陽を照らさせ、もう一方の御手で、むさぼる火焔の煙によりソドムを暗くしておられる。あゝ、愛する方々。覚えておくがいい。これがすべての歴史のしめくくりとなることを! やがて来たるべき日、私たち、あわれなロトのように闇の中を、多くの恐れの雲、また、山なす憂いと悲しみとともに天国めざして走っていた者たちは、死の川にたどり着くであろう。そして、キリスト者が死ぬことになるとき、力強い《救い主》なる神は、彼の目から曇りを取り去り、御使いたちを見ることができるようにしてくださる。彼の目を大きく開かせ、高みに建てられた栄光に富む都を、また、その街路を絶え間なく行き交う輝ける者たちを眺めるようお命じになる。彼の耳を開き、祝福された者たちのハレルヤの声を聞くようお命じになる。それから、時には、彼の霊を捕えては、ふわりと持ち上げ、ヨルダン川のほぼすべてを越えさせ、彼が死ぬ前に、こう云えるようにしてくださることがある。「肉体のままであったか、肉体を離れてであったか私は知りません。神だけがご存じですが、私は第三の天にまで引き上げられ、定命の者には口に出すことのできないことを見聞きしました」*[IIコリ12:3-4]。おゝ、誰が描写できようか、死に行く聖徒の歓喜を、また、私たちを私たちの土くれに縛りつけている枷を神が断ち切り、ご自身の御前へと舞い上がることを私たちに許してくださる瞬間の栄光を!

 しかし神は、右の御手でこうしたことをしている間に、左の御手で何をしておられるだろうか? 神はご自分の子どもたちが墓へ赴く通り道をなだらかにしているが、悪人に対しては何をしておられるだろうか! 彼らの通り道をなだらかにしてはおられない。「主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風」[詩11:6]。彼らが死につつあるとき、神が彼らの回りに巡らされる帷は、ただ破滅という暗黒の帷しかない。彼らが息を引き取るときには、いかなる御使いも彼らの臨終の床に付き添わず、むしろ、残忍な悪鬼たちがそこで待ち受けている。神の左の御手は、悪人に重く落ちかかり、彼が霊たちの世界に入りつつあるとき、神は時として、地獄の恐怖の前味と前触れを彼にお与えになることがある。その右の御手は太陽を上らせてキリスト者に光を照らさせ、彼に天国を仰ぎ見るよう命じているが、その左の御手は悪人の上に大嵐を降り注ぎ、死に怯えよと彼に命ずる。

 そしていま、この世を離れた2つの霊の後を追ってみるがいい。キリスト者の生の火花は消え失せてしまった。

    無駄(あだ)なり われら 空想(おも)い描くは。
    死出に続ける 瞬間(とき)いかに、
    聖徒(みたみ)を栄光(さかえ) 囲むかを。
    いまわの息を つきしそのとき。

神の右の御手は聖徒の下にあり、愛によって神は、彼を抱きしめてくださる。神はご自分の子どもを大水の中で支え、こう囁いてくださる。「わたしはあなたとともにいる。イスラエルよ。流れの中を通るときも、恐れるな。永遠の腕[申33:27]が下にあるのだ」。その勝利の叫びを聞き、その沈着な顔つきに注目し、その目に輝く喜びを見るがいい! それこそ神の右の御手が義人に対して行なっていることである。だが、その左の御手が悪人に対して何を行なっていることか! 私の愛する兄弟たち。私は罪人が死ぬ様子を描写するなどということはできない。そして、彼が死ぬとき、また、その霊がそのからだから離れた瞬間に、彼がどう感じるかを思うことは、私にとってすさまじすぎることである。おゝ、地獄の最初の激痛がその魂に走るとき、それはいかにすさまじい感覚に違いないことか! 私の想像力は、そこまでは上ることができる。だが、それ以上先には進めない。その男は冒涜者であった。自分が冒涜した神と対面するとき、また、自分が怒らせてしまった《創造主》の燃える両眼の前に立つとき、彼がいかに感ずるに違いないことか! あなたは想像できるだろうか、ただ一度限りのその瞬間を。――というのも、私が思うに、そうした瞬間は一回しかないからである。――確かに永遠はぞっとするほど恐ろしいものであるが、いかなる瞬間にもまして鮮烈な恐怖と、いかなる瞬間にもまして陰鬱で新奇な苦悶に満ちているのは、火焔を波浪とし、地獄をその深淵とする、この永遠の大海に、魂が送り出された瞬間でなくて何だろう? 私にはその意味すべてを告げることはできない。私が知っているのはただ、これが主ご自身のことばだということである「神を忘れる者よ。……このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう」[詩50:22]。

 そして今、かの最後の大いなる日がやって来る! 世界が神の法廷の前に立っている。神がその右の御手で何をしておられるか見るがいい。義人を栄光へ招き寄せておられる。彼らの頭を、太陽よりも光輝く冠で飾っておられる。彼らに無垢できよらかな雪白の衣をまとわせておられる。彼らの唇に触れ、彼らを智天使のように歌わせておられる。彼らの心を天国の至福で燃え立たせ、彼の霊を永遠の栄光で輝かせておられる。彼らを引き上げ、あらゆる主権、力、となえられるすべての名の上で[エペ1:21]、キリストとともに座らせておられる。太陽がいかに彼らの上に上っているか見るがいい! できるものなら、それを描写してみるがいい。あえてそうするというなら、想像してみるがいい。この栄光の陽光の輝きを。最後の精算の日に、贖われた者の上にそれが明け初めるそのときを! 見るがいい。これは雲1つない陽射しである。曇ることなき太陽である! 見るがいい、見るがいい、彼らの幸いな顔を! 聞けよ、聞けよ、彼らの喜ばしい歌を!

    いかな呻きも 入り混じりえず、
    不死の舌にて 歌わる歌に。

《救い主》の愛の輝かしい陽光が、幸いな聖徒たちひとりひとりを照らし出すとき、それがいかなるものかは、到底、私の言葉で描き出すことなどできない。永遠の御父が、ご自分の愛する子どもたちに笑顔を向けてくださるとき、その眉宇からいかなる栄光の輝きが流れ出すか、いかに考えてもそれを告げることはできない。そして、《神聖なる御霊》が、血で買い取られたあらゆる魂の目と心に、その満ち満ちた豊かさのすべてをもって微笑みかけてくださるとき、その栄光を誰が云い表わすことができるだろうか? これこそ、神がその右の御手で行なっておられることである。神はその聖徒たち全員を天国へ導き、彼らを永遠に御座に着けてくださる!

 では、神はその左の御手で何を行なっておられるだろうか? 否。私を赦してほしい。その恐ろしい審きのみわざを描き出す務めは勘弁してほしい。ことによると私は、ぞっとするほど忌まわしく、恐ろしく、陰惨な事がらを語ることができるかもしれない。だが、それでも私の語ることは、その恐るべき現実を無限に下回っているであろう。神は悪人に対して何をしておられるだろうか? 神は勇士の腰を砕けさせ、彼らのうなじの鉄の腱を叩き割っておられる。神は悪人に対して何をしておられるだろうか? 彼らに恐怖を吹き込み、絶望で狂気に追いやっておられる。彼らが神の御前から逃げ去る姿を見るがいい。彼らがその苦悶の中で悲鳴を上げるのを聞くがいい。そこで彼らは下っていく。下へ、下へ、下へ、永遠の災厄という深淵へ! 神はその左の御手で何をしておられるだろうか? 彼らに火を浴びせかけておられる。雷電を投げつけておられる。神は何をしておられるか! おゝ、地よ。私にはお前が震えているのが見える。おゝ、星々よ。私にはお前たちが夜の蒼穹から姿を消しているのが見える。太陽よ。お前は消される。月よ。お前は血糊となる! 私は諸天がその光を奪われ、栄光に富む神の御子がその雪白の御座に着き、罪人たちがその永遠の破滅に震えおののいているのが見える。私には、彼らが自分の舌を噛んでいるのが見える。それは、燃え木のように彼らの口を焼け焦がしている。私の見える彼らは死んでいくが、死ぬことがない。断罪されても、消滅しない。いなくなりはしない。永遠に復讐の足の下で痛めつけられるが、決して粉微塵に砕かれて存在しなくなることはない。おゝ、私の神よ。いかなる定命の舌にも、この陰鬱な物語を告げることはできません! もし私が死んで、あの燃える池をくぐり抜け、あの硫黄の業火を嗅いだとしたら、そのときには、ことによると、私にもこうした恐ろしい現実のすべてについて物語ることができるかもしれない。だが、今晩の私には語ることができない。あなたの聖書を手に取り、消えることのない火と、尽きることのないうじと、底知れぬ所について読むがいい。そして、覚えておくがいい。これこそ神がその左の御手で行なっておられることだということを。

 太陽はツォアルの上に上っており、火はソドムに降り注いでいた。あゝ、罪人よ。あなたと義人とを引き比べて見るのは、すさまじいことになるではないだろうか? もしあなたがあなたの不敬虔な状態のまま滅びるとしたら、あなたの地獄をいやまさってすさまじいものとすること、それは、はるか彼方の天国で、義人たちが高く上げられている姿を見ることであろう。飢えた人にとって、自分には何もないのに、他の人々がご馳走を食べているのを見ることほど空腹をつのらせるものはない。おゝ、若者よ。あなたの母上が天国にいるというのに、あなた自身は投げ捨てられているのを見るときには、いかなる気持ちがするだろうか? おゝ、若い婦人よ。あなたの友だちがイエスとともに栄化されているときに、あなた自身は悪魔どもとともに投げ捨てられているのをあなたは見たいのだろうか? おゝ、夫たちよ。あなたは自分が、あの金持ちとともに一滴の水を求めて泣き叫んでいるというのに、あなたの妻はイエスの御前にいることになって良いのだろうか? あゝ、息子たち。あなたは、自分の両親が栄化されているのに、あなた自身は投げ捨てられているのを見たいのだろうか? この2つを対比させてみるがいい。こちらの場面と、あちらの場面を眺めてみるがいい! 願わくは神が、あなたに恵みを与え、膝をかがめさせ、「御子に口ずけ」[詩2:12]させてくださるように。そして、もし神があなたに、自分は《救い主》を必要としているのだと教えてくださっているとしたら、願わくは神が、あなたに恵みを与え、私が神の御名によってあなたに差し出したいと願っている、心からの招きを受け入れさせてくださるように。「来て、迎(い)れられよ。罪人よ、来よ」。

 

ツォアルへの逃亡[了]

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