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私たちの天の父のあわれみ

NO. 2639

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1899年9月10日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年、主日夜の説教


「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。――詩103:13


 これは私たちの高慢にとって何たる一撃であろう! 神の子どもたちは、あわれまれるべき対象なのである。神は、彼らに栄光と誉れの冠をかぶらせ[詩8:5]、キリスト・イエスにある完全を与え、彼らに霊的いのちの息を吹き込まれた。にもかかわらず、それでも彼らは、今も、これからも、この下界にとどまる限りは常に、あわれまれるべき対象なのである。神が私たちをあわれまれると語ること、それは、私たちのあらゆる高慢の弔鐘を鳴らすようなものである。何と、私の兄弟たち。私たちは、自分のあわれみを不敬虔な人々に対して存分に注いでいる。私たちはしばしばよこしまな者や、俗悪な者や、冒涜者や、安息日を破る者をあわれんでいる。だが、ここを見ると、神は私たちをあわれんでおられるのである。あの力強い詩篇作者ダビデでさえ、あわれまれている。預言者、祭司、王、そのひとりひとりが神からあわれまれている。というのも、「主は、ご自分を恐れる者をあわれまれ」、彼らをあわれむ十分な理由を見いだされるからである。彼らの地位がいかに高く、彼らの人格がいかに聖く、彼らの状況がいかに幸いなものであっても関係ない。おゝ! 信仰者よ、誇ってはならない。声高らかに自分をほめたたえてはならない。神があなたをあわれんでおられると聞くとき、あなたの唇に指を当てて、黙るがいい。この次に肉的な安心感が忍び込んできたときには、あるいは、肉によるうぬぼれがあなたの上手を取ったときには、思い出すがいい。あなたが誇っている間も、神はあなたをあわれんでおられ、あなたが勝ち誇っている間も、神は同情深いあわれみの眼差しであなたを見下ろしておられるのである。というのも、神は、あなたが誇るべき原因しか見てとれないときにも、同情すべき理由を見いだされるからである。

 ということは、愛する方々。私たちの主題は1つの再検討となるであろう。自分の生き方の再検討である。もし私たちが主の子どもたちであり、主を恐れているとしたら、そうすべきである。私はそれが私たちにとって有益なものとなるだろうと希望している。それは、あなたに目新しい思想を告げることによって有益になるというよりも、むしろ、「記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせ」[IIペテ3:1]、主なるあなたの神があなたを導いてくださったすべての道を振り返らせることによってそうなるであろう。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。まず第一に、このあわれみの表明に注意するがいい。次に、このあわれみの精神に、続いて最後に、この憐れみの対象に注目するがいい。

 I. 《このあわれみの表明》に注意するがいい。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。父親は、いつわが子に自分のあわれみを表わすだろうか? 答えよう。――多くの、様々に異なる機会においてである。

 時として、父のあわれみは、その子の無知に対して向けられる。父親自身はあることを知っているが、それは彼の子どもにとって深遠な神秘である。父親自身はある真理を知っており、それは彼にとって自明の理であり自分の知識の一要素であるが、彼の子どもにとっては知識の金字塔の絶頂のように思われ、いかにして父親がこれほど高遠な知識に到達できたか見当もつかない。そして、おゝ、いかにその子が愚かな推測をすることか! いかに愚図愚図と真理の当て推量をしていることか、また、いかに的外れな理屈に立って誤った考え方をすることか! さらに、いかに父親は、わが子が悪い仲間とつきあい始めたときに、その子をあわれむことか! 彼らはその子に偽りを教え、その思いを真理で満たす代わりに偽りで満たす! 悪人がその小さな耳に満たした奇天烈な話の一切をもってその子が父親のもとにやって来るとき、父はその子をあわれむ。その子があらゆる無駄口の風に吹き回され、口をきけるすべての者を信用し、誰かが云ったからといって何もかも信じ込むほどに無知であることをあわれむ。誰の意見であれ受け入れ、誰が何を正しいと宣言しようと信じるからである!

 そのように、私たちが、自分の想像上の知恵を全きものと思いみなし、無謬であると考えるとき、神は私たちの知恵を子どもじみた愚劣さとして見下ろされる。私たちが自分の素晴らしい雄弁にのぼせあがって大言壮語するとき、神は、片言を話す幼児がぺらぺらと、だが愚にもつかないことを話しているのを見るかのように私たちを見下ろされる。そして、しばしば、私たちが自分の同輩たちの前に出て、自分の突きとめた驚くべき発見を開陳するとき、天で御座に着いておられる方は、嘲笑することはなくとも、同情の微笑みを浮かべられる。私たちが、何も発見していないのに、自分をそれほど賢者だと考え、真理でもないものを見いだしたことで、それほど自分を至高の学識者だと考えているからである。また、いかに神は、ご自分の愛する家族が偽りの教理や過誤によって道をそらされるのを見いだして、彼らをあわれまなくてはならないことか! 神の民の中のいかに多くの者らが、いわゆる祈りの家に行っては、天国の真理を聞いてくる代わりに、ありとあらゆる種類の奇妙な事がらを教え込まれてくることか。そこで彼らは、「ほかの福音」を聞く。「といっても、もう一つ別に福音があるのでは」なく、彼らを「かき乱す者たち」がいるのである[ガラ1:6-7]。そこでは、あらゆる何々主義が、また人の空想が説教されており、神の真理がそのあらゆる識別力と、そのあらゆる力と、そのあらゆる恒久性と永遠性とにおいて説教されることも、神の御霊によってそれが力強く魂に適用されることが求められもしない。いかに神はこのように惑わされたご自分の子どもたちの何人かをあわれまれることか! 彼らの中のひとりは、ことによると、自分たちの教役者のことをこう云っているかもしれない。「うちの先生は知的じゃないですか。素晴らしい教役者じゃないですか。まあ、きょうはイエス・キリストについて何も云わなかったとしても、あんなに才知に富んだ講話だったんですよ! 確かに神の福音については説教しませんでしたよ。とはいえ、見てください。形而上学上のあの問題点を、何と美しく解決したことでしょう! むろん、私の《贖い主》との、よりすぐれた交わりに私を導くことはしませんでした。とはいえ、話に出した2つの類義語を何と精妙なしかたで区別したことでしょう! 私は、うちの先生ほど才気に長けた人の話を一度も聞いたことはありませんよ。私には、ああした無教養な説教者の誰かれの話なんか聞きに行けませんよ。あんな、女中や修理工にでも分かるようなしかたで話をする連中なんか。私はうちの先生の話を聞くのが好きですね。だって、あれほど深遠な叡知の持ち主なんですから。私くらい先生の話の真価が分かる人間は、会堂内にそうたくさんはいないと思いますよ! やはり私は、行ってうちの先生の話を聞くでしょうよ。確かに時には目を白黒させられて、一体何の話をしてるんだろうと思うこともあるし、講話が終わったときに、それがあまりにも頭をこんがらかせるもので、道に迷い、こう云うこともありますがね。『オヤオヤ、時間が来てしまったぞ。だのに自分は、あの説教が何についての話だったか見当もつかないや!』」

 神はご自分の子どもたちがこうした状態にあるとき、彼らをあわれまれる。彼らが真理を聞いているときには、あわれまれない。――彼らが真の福音という食物を与えられているときには、その肉がいかに粗雑に切り分けられていようと、また、人間の弁舌の供しうる中で最も粗末な大皿の上に乗せて出されようと、あわれまれない。彼らがそうした霊的食物を得ているときには、あわれまれない。だが、彼らが間違いへと導かれているとき、「まちがって『哲学』と呼ばれる」*[Iテモ6:20]ものによって押し流されているとき、人間の知恵のように見えながら、結局は何の知恵も含んでおらず愚でしかないものによって誤り導かれているとき、神は彼らをあわれまれる。最高の知恵とは、神が仰せになったことを信じ、神の真理をただ神の真理として受け入れ、それについて何の異論も唱えないことだからである。しかしながら神は、ご自分の子どもたちを、そのあらゆる無知においてあわれまれる。彼らに向かって怒ることも、厳しく叱責することもせず、むしろ、ご自分の御霊によって彼らを導き、ついに彼らが神の真理を理解し、みことばを受け入れるようにさせてくださる。

 しかしながら、我慢しなくてはならないことが無知しかなかったとしたら、まだ良かったであろう。だが、親はしばしば、それよりも悪いことによって、わが子から苦しめられるものである。親は、つむじまがりで、わがままな人間性を辛抱しなくてはならない。そこには、絶えず起こり立つ、よこしまな情動がある。不断に不従順へと向かう傾向がある。往々にして義の道からさまよい出すことがある。そして、何度となく父親はそれを、多少の小言は口にするかもしれないが、顔をしかめることも、辛辣な言葉を発することも、手をあげることもせずに見過ごしにしなくてはならない。父は云わなくてはならない。「坊や。全部赦してやるよ」、と。そして、堪忍袋の緒がみちみちと引き絞られても、父にはわが子に対する忍耐がある。というのも、その子のつむじまがりをあわれんでいるからである。また父親は、自分もかつては子どもだったこと、その時には、わが子が今しているのと同じようにしていたことを覚えている。それゆえ、父はわが子を忍耐し、あわれむのである。私の兄弟たち。主は私たちの逸脱すべてにおいて、いかなるあわれみをあなたや私に注いでこられたことか! いかにしばしば私たちはさまよい出したことであろう。だがしかし、私たちの逸脱にくらべて、私たちが懲らしめを受けたことは何と少なかったことか! いかに頻繁に私たちは神の戒めを破り、その契約に反抗してきたことか。だがしかし、私たちの咎の重さにくらべて、その懲らしめの鞭は何と軽かったことか。そして、私たちのそむきの罪の頻度にくらべて、神が私たちを苦しめることは、いかに数少なかったことか! いかに神は私たちの短所すべてを忍耐し、ご自分の御手を押さえてくださったことか。もし主の御手が私たちの手のようなものであったとしたら、それは、とうの昔に怒り心頭に発して私たちを粉微塵に打ち砕いていたことであろう。まことに神は、「父がその子をあわれむように」私たちをあわれんでこられた。ただ、その忍耐は、はるかに大きなものであった。神ご自身が、いかなる地上の父親よりも無限に偉大なお方であられるのと全く同じように、神のあわれみは、いまだかつて息をしたことのある、いかなる人間の親にもまして、絶えることなく、忍耐強く、寛容に富んだものなのである。

 また、父がその子をあわれむのは、子どものあらゆるつむじまがりにおいてのみならず、その子の現実のそむきと、まぎれもない罪のすべてにおいてである。子どもが長ずると、単に悪を行ないたいという願いから、現実にその罪悪を犯すようになる。――だが、その愚かしさが最悪の咎へと熟しきったときでさえ、父親がなおもわが子をあわれむのと同じように、神は私たちをあわれんでくださった。私の兄弟姉妹。私たちが、回心前にはなはだしい罪に陥ったときも、左様、ある者らの場合、回心後にそうなったときでさえ、そうである。私たちが迷子の羊のようにさまよい出したとき、神の命令という垣根を破り、そして、そむきの罪という暗い山々をぶらぶら歩き回っていたとき、なおも神は私たちをあわれんでくださった。父の愛が、たといこれ以上ないほど逆らっているわが子に対しても、いかに差し伸べられうるかは驚くばかりである。ある人々は、自分の子どもたちの面前で扉をぴしゃりと閉め、二度とわが家の敷居をまたぐな、近寄りもするな、と云った。彼らはわが子と口をきくこともやめた。子どもの名前など二度と唇に上せまい、もはやわが子だなどとは思うまいと決心したからである。しかし、そのような父親はごく少数であると思いたい。そうした人にはめったに出会うものではない。父親は、普通は多くを、それも長いこと我慢するものである。自分の家庭の平和が破壊され、自分の白髪頭をほとんど悲しみのうちによみに下らされそうになった後でも、また、息子の放蕩によって、自分の家族が見る影もないほど哀れな者とさせられ、自分の持ち物のほとんどすべてを失った後でも、――それでも彼の愛は最後まで屈することなく、息子をいだき続け、見放そうとはしないものである。そして、他の人々が息子に辛辣なことを云うときでさえ、この老人は息子の咎を弁解する。――ことによると、幾分馬鹿げたしかたでそうするかもしれない。だが、息子のため何か1つでも云い訳を見いだせるときには、彼はそうする。自分の息子が他の人々よりも悪いとは認めないし、自分の息子の咎を実際よりも大きく見せることは何者にも許さない。むしろ彼は自分にできる限り、それを少なく見させようとする。

 私たちの天の父は愚かになるほどあわれみ深くはないが、それでもあわれみ深くあられる。左様。そして、それ以上である。御父は、その子どもたちのほとんどの過誤について賢明にあわれみ深くあられる。私たちの神は、決してアルミニウス主義者の神ではない。アルミニウス主義者の神は、自分の子らに対して無慈悲な神である。彼は全世界に対しては十分にあわれみ深くする存在として表わされているが、自分自身の子らに対しては無慈悲である。というのも、ある人々の教えによると、子らが罪を犯すとき、神は彼らを契約から切り捨てるからである。そして、もし子らがそむくと、神は彼らを扉の外へ放り出し、もうお前はわたしの子ではないと云い放つのである。そして、彼らのそむきの罪ゆえに、神は、彼らが自分の子どもなどでは決してない、最後には地獄に落ちるのだ、キリストが彼らのために死んでいた事実も、聖霊が彼らを新生させた事実も、彼らが義と認められた事実も関係ない、と云ってきかないのである。彼は自分の前から彼らを投げ捨て、彼らは永遠に失われる。彼は無慈悲な神である。だが、こうした人々の神と私たちの神とは何の関係もない。私たちは彼らの神を信じていなし、彼を恐れも、彼を拝みもしない。私たちの神は、その愛情を守り遠し、ご自分の子どもたちに対してあわれみ深くあられる。彼らが道をさまよい出すとき、この方は彼らの咎と罪のすべてをあわれまれる。確かに神は、鞭をその御手に持っておられ、時にはその懲らしめの苦痛のゆえに、彼らを激しく泣かせることもある。その鞭を彼らの魂そのものに当てて、彼らの内奥の霊にその鉄の棒を突き込まれる彼らを痛い目に遭わせ、叫ばせ、呻かせ、嘆息させなさる。だが、すべてを神はあわれみをもってなされる。なぜなら、神は彼らを救うと決心しておられるからである。彼らを罰も受けないまま放置することはなさらない。なぜなら、彼らの愚かさと彼らの罪にもかかわらず彼らをあわれまれるからである。医者が薬も持たせないまま人を家に帰そうとしないように、――それは、彼が病にかかったその人をあわれんでいるからである。――そのように神は、ご自分の子どもたちを、ご自分から懲らしめられもしないまま行かせはしない。なぜなら、自ら罪に陥った彼らをあわれまれるからである。そしてまた、よく聞くがいい。その懲らしめでさえ、あわれみから出た懲らしめなのである。その鞭には一本たりとも余計な小枝はついていない。また、一打ちたりとも正しい数を越えて打ち下ろされることはない。また、一滴たりとも余分な胆汁は飲まされず、その滴も決して苦すぎはしない。その苦しみはみな測り与えられており、秤と天秤皿で量られたものが、みな、しかるべきしかたで与えられるのである。――それも必要以上には決して与えられない。神はその子どもたちを、彼らの一切の懲らしめにおいてあわれまれ、彼らの咎とさまよいの一切においてあわれまれる。そして、決して彼らを完全に見放すことも、滅びるままにしようともなさらない。なおも彼らをあわれんでおられるからである。

 神はまた、病のうちにあるご自分の子どもたちをあわれまれる。それは、父がわが子を非常にあわれむ時期である。ここでは、「母がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」、とは云われていない。そして、私が思うにその理由はこうである。母のあわれみがそれほど強くないためでも、それほど情愛濃やかでないためでもない。――それは圧倒的に父のそれにまさっているからである。――むしろ、それが時として父のあわれみほど効力がないことがあるからである。母は子どもが病気になったとき、その子をあわれむかもしれないが、その子を敵から守ることはできないかもしれない。母は医者を見つけに行くほど遠くまで旅することができないかもしれない。それゆえ、神はここで、単に愛情だけでなく、あわれみの力をも表わしているのである。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。病床にあって、そのあわれみの力は、神の民の上におけるキリストによって証明される。キリストは、母親がそうするであろうように、手をこまねきながら、子どものことで泣くのではなく、それ以上のことをなさる。主は真の同情を与え、実際に共感してくださる。だが、それ以上に、主は癒してくださる! 傷ついた霊を健やかにしてくださる。良心のずきずきする苦痛を取り去り、砕かれた心を包み、弱い者を強くし、心くじけた者を喜ばせてくださる! 主は私たちにあわれみの力を与えてくださる。そして、私たちの中のある者らは、そのあわれみの力を思い出すことができる。それは、私たちが病気にかかり、自分の寝床を輾転反側し、祈る力もなくなっていたときのことである。私たちは自分の心の中で、この肉体は滅びつつあり、自分は死ななくてはならないのだ、と云っていた。頭は支離滅裂な思いに苛まれ、理性はその王座を捨ててどこかへ行ってしまったかと思われ、全くの絶望が私たちの脳裡で謝肉祭を開き、それが、しばしの間、宴会の司会者のような支配権を振るい、乱痴気騒ぎがそこでいつまでも続いていた。まさにその、私たちが何もできないでいたときこそ、イエスが私たちのもとにやって来られ、単にかすかな同情の言葉を囁くのではなく、力強い癒しの御声をもって、私たちの恐れに向かって静まれと命じ、私たちの疼く心を慰め、それから私たちの肉体を喜びに踊り上がらせてくださった。なぜなら、肉体と双子の姉妹である私たちの霊が、それまでは刑車の上で砕かれていたのに、拷問人から解放され、完璧に健全にされたからである。このようにして主は、その子どもたちをあわれまれる。特に私たちが病床につくときは常に私たちをあわれんでくださる。

 そして、私の兄弟たち。あなたの天の父は、ご自分の子どもたちであるあなたを、あなたの幾多の苦難の一切の下であわれまれる。それがいかなる種類の、どの方面から発した苦難であっても関係ない。このようにして、迫害されるときもあなたには、主のあわれみがあったのである。不敬虔な人々の嘲りと皮肉があなたに投げつけられたとき、また、それよりも悪いことがあなたの人格に対してくわだてられたとき、また、あなたが貧困の猛攻に耐えなくてはならなかったとき、あなたには、神のあわれみが注がれていた。また、やはりあなたが有していたあわれみは、単なる言葉だけによるあわれみではなかった。助けのあわれみを得ていた。神は窮乏していたあなたに糧を与え、小川が涸れきったときにも、あなたの水は確保された。あなたがた、自分の友人たちをなくした人たち。また、数多くの別離に涙せざるをえなかった人たち。あなたがた、ひとりまたひとりと運び去られていった家族について悼み悲しんできた人たち。一度としてあなたは、家族に死なれたとき、あなたの神からあわれみを受けなかったことはない。一度として、かの土くれが棺桶の蓋に落ち、かの悲しい使信、「灰は灰へ、ちりはちりへ」が口にされたとき、あなたの神のあわれみが、天からの優しい露のようにあなたの心に注がれていなかったことはない。神はあなたが意気消沈したとき、あなたをあわれんでこられた。あなたがいかなる苦難を受けるときも、あなたとともにおられたし、決してあなたから離れ去ったことはなかった。

「混乱(まどえ)るさなか、被造物(もの)不平(つぶや)けるとき」、

――神はあなたのそばにとどまり、あなたをあなたの旅路のすべてで導かれた。そして、ここにあなたは、自分のエベン・エゼル[Iサム7:12]を建てて、その上に本日の聖句の言葉を書き記すことができる。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。そして、主はこの時まで私をあわれんでくださった」、と。

 だが、もう1つ、時として神の民には不正が加えられる。そして、父は自分の子どもたちを、彼らに加えられた不正に復讐がなされない場合も、あわれまれる。私の知っているひとりの父親は、時としてこう云う。「もしあなたが私をぶつとしたら、もう一度ぶってもかまいません。私はあなたに別の頬を差し出しましょう。そして、あなたは好きなだけ私を打ち叩いて良いでしょう。しかし」、とこの善良な人は云う。――そして、彼は平和な人でもある。私のように、徹底的に平和な人である。多少、首尾一貫しないところはあるが、――「もし私の子どもたちを打つようなことがあったら、私はあなたをぶっ倒しますよ。私にできるものなら! 私はあなたが子どもたちに手出しするのを許しません。もしあなたが私を殴るなら、私は抵抗しません。私のことは好き勝手にしてかまいません。ですが、もしあなたが私の子どもたちをぶったりしたら、私は決して我慢していませんよ。私はいたく子どもたちを愛しているので、それを非とするどんな原則も破りましょう。親としての私の情はとても強いので、たとい自分では間違ったことをしていると思うとしても、私はそうします。間違いなく」。嘘ではない。人の憤りを何にもましてかき立てるのは、その人の子どもに手出しをすることである。そして、同じことが神にもあてはまる。たといあなたが神を呪っても、神の子どもたちに手出しをしたときほど神があなたに激怒することはない。預言者ゼカリヤは、その古の民にこう宣言した。「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」[ゼカ2:8]。もしあなたがたの中の誰かが、地獄に落ちる最短の道を知りたければ、私がそれを教えよう。神の小さな子どもたちを蔑むことである。神の民に意地悪をするがいい。そうすれば、あなたは超特急で自分を罪に定めるであろう。私たちの主のことばを思い出すがいい。「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです」[マタ18:6]。

 神の民のひとりに対してなされた不正という不正は、確実に神から復讐されてきた。彼らに対していかなる悪行がなされようとも、それをなした者は必ず神によって罰されてきた。確かに神はアッシリヤをしてイスラエルを散々に打ち破らせなさったが、アッシリヤを墓から立ち上がらせ、語らせてみるがいい。神はいかにひどくアッシリヤを鉄の杖で震わせたことか。それは、アッシリヤが《いと高き方》の民に対して高ぶったからである。古のローマに証言させてみるがいい。自分は今なお殉教者たちの血をつけています、と。見よ。私たちの神はこの帝国をばらばらに打ち砕かれた。ローマ皇帝は存在をやめ、そのけばけばしい虚飾は立ち消えた。左様。そして現代のローマもまた、やがてすさまじい破滅を迎えるであろう。彼女には、他のあらゆる町にもまして、恐ろしい未来が待っている。彼女は緋色の衣で身を包み、七つの山の上に座っているバビロンの淫婦であり、聖徒たちの血に酔いしれたが[黙17:5-6]、これから黙示録で予言された破滅を迎えるであろう。見よ! 神はそう語られた。彼女はばらばらに引き裂かれ、火で焼かれ、完全に焼き尽くされることになる。神は、殉教者の血のためでなかったとしたら、彼女を赦すこともありえたかもしれない。だが、ご自分の子どもたちの血が彼女に逆らって叫んでおり、神の呪いは彼女の上にとどまっている。ローマ教会は決して再びキリストの諸教会の隊伍に入れられることはありえない。神は他の諸教会のもろもろの罪は赦してこられたし、その教理と実践上の過ちにもかかわらず、それらを生ける教会の中に保ってこられた。だが、ローマのバビロンについては、こう仰せになっている。「この女はその衣をわたしの子どもたちの血糊で赤く染めてきた。その両手を聖徒たちの血で汚してきた。この女は決定的に切り捨てられるし、永遠に投げ捨てられる。わが民よ。この女から離れるがいい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないために[黙18:4]!」 神はその子どもたちをあわれまれる。いかなる殉教者もあわれまれずに死んだことはなく、いかなる殉教者も復讐を遂げられないまま死んだことはない。その墓場から彼らは叫んでいる。「復讐してください。復讐してください。背教したローマ教会に!」 そして、それはなされるであろう。見よ! あの祭壇の前にいる聖徒たちの魂は叫んでいる。「いつまでですか。主よ。いつまでですか?」*[黙6:10] それは長くはないであろう。剣は天で用意されている。それは磨きたてられている。そして、ご自分を恐れる者たちをあわれまれる神は、ご自分の選民の血で衣を染めた教会に復讐しに来られるとき、同情することも、あわれみをかけることもなさらないであろう。

 II. さて今、愛する方々。この主題の次の部分として手短に注意してほしいのは、《神のあわれみの精神》である。

 あわれみにも種類がある。ある種のあわれみを私は、いくら大金を積まれても受けたいとは思わない。あなたは今まで、軽蔑のあわれみを見たことがあるだろうか? あなたは、ひとりの紳士が、あれこれのことをしている貧者を見て、「可哀想にな。全くお前はあわれな奴だよ」、と云うのよく見たことはないだろうか? あなたは、それまで「適正な」種類の説教しか聞いたことが全くなかった非常に体裁の良い貴族がのが、くるりときびすを返して会堂の扉から出て行き、こう云うのを一度も見たことはないだろうか? 「よろしい。全くこうした代物を聞いていられるような連中は、実にあわれな奴らだよ」。私たちはしばしば、そうした軽蔑のあわれみを見たことがある。しかし、それは神のあわれみの種類ではない。神は決してご自分の民を軽蔑するようなしかたであわれまれない。父は決してわが子をそのようにあわれんだりしない。時として、ある男児が習字をしているときに、よその人が学校にふらりとやって来て、こう云うことがある。「よろしい。あの子には学がないな」。そして、彼はその子をあわれむかもしれない。だが、そのあわれみには、冷笑が伴っている。しかし、その子の父親が教室にやって来る。その男児は習字の初歩を始めたばかりだが、父親は、こんな小さな子にしては非常によくやっていると考える。彼は、まだまだ稚拙にしか書けないことでその子をあわれに思うかもしれない。だが、そのあわれみには全く何の軽蔑も伴っていない。神のあわれみにも、全く軽蔑は伴っていない。神は私たちがあるがまま姿をご覧になり、私たちをあわれまれる。だが、そのあわれみには、ご自分の民のいかなる者に対する軽蔑も、ほんの一粒たりとも含まれていない。

 他の人々のあわれみは、不活動のあわれみである。「おゝ、本当にあなたのことはあわれに思いますよ!」、とある人が病気の婦人に云うとする。「ご主人を亡くして、お子さんたちを養わなくてはならないあなたは、働き通しですものね。よろしい。私の善良な婦人よ。私は本当にあなたをあわれに思います。ですが、私には何もあなたに差し上げることができません。私にもあれこれしなくてはならないことがあるものでね」。この世には、こうした類のあわれみが何と多くあることであろう! あなたはそうした種類のあわれみなら、ふんだんに得ることができる。もしあなたが、自分の行き会う最初の扉の叩き金を持ち上げるとしたら、その種のあわれみを山ほど得られるであろう。もしそれがすべてだとしたら、この世であわれみほど安上がりなものはない。しかし、神のあわれみはそうした類のあわれみではない。それは単なるあわれみでしかないあわれみではない。不活動のあわれみではない。むしろ、その心が動かされるときには、その御手も動くのであり、神はご自分のあわれまれる者たちのあらゆる欠乏を満たしてくださる。

 そして、さらにこう云わせてほしい。神のあわれみは、ただの傷つきやすい心のあわれみではない。私は先日、ある紳士があれこれの事故の話をしながら、こう云っていたのを小耳に挟んだ。「私はひとりの男の子が細路を駆けていくのを見ていたのですよ。そこに一台の辻馬車が猛然と走ってきましてな。私はその子が馬の足で踏まれるか、車輪に轢かれてぐしゃぐしゃになるに違いないのを見てとりました。私は雷に打たれたように瞬間立ち尽くしていました。そして、その子が車輪に轢かれてぐしゃぐしやになのを見たのですよ! 私はすぐに走って隣の通りに行きました。私は傷つきやすい人間なので、そんな光景に耐えられませんでしたからな」。自分に何か助けができるかもしれないと思うどころか、彼は逃げ出したのである。「それでも」、と彼は云った。「私がそうしたのは、思いやりが少しでも欠けていたからではありませんぞ。あわれみが足りなかったためでもありません。私は足を止めたとき、自分が引き返しても何の役にも立たないと思ったのですよ。私のように傷つきやすい人間は自然と、どんな悲惨な光景も避けるものなのです」。それは、神があわれみをお示しになるしかたではない。神のあわれみは、逃げ出していく赤の他人のあわれみではない。もしそれがその人の実の息子だったとしたら、その人は立ち止まって、事態を見てとり、懸命に援助したことであろう。だが、神のあわれみは父のあわれみなのである。単なる一時の興奮によるあわれみではなく、苦悩のうちにあるご自分の子どもたちを助けるために何かをしてやりたいと願うあわれみなのである。

    主のあわれみは
    御名を恐るる 者にあり
    優しき親の 感ずるがごと
    主は知り給う、われらが弱きを。

 では、試練に遭っている信仰者よ。あなたの問題を今晩あなたの神の御前に祈りによって持って行くがいい。神はあわれみの神であり、ただのあわれみの神ではない。もしあなたが貧しいとしたら、いま神のもとに行くがいい。あなたの心労をお告げして、神があなたを助けてくださらないか見てみるがいい。行って神に、自分の霊が苦悩していますとお告げするがいい。そして、神があなたを励ましてくださらないか見てみるがいい。神に、自分はいま八方塞がりで、自分の通り道が分かりませんとお告げするがいい。そして、神があなたを導いてくださらないか見てみるがいい。自分は無知で、何も知りませんとお告げするがいい。そして、神があなたを教えてくださらないか見てみるがいい。自分は倒れてしまいましたとお告げするがいい。そして神があなたをあなたの足で立たせ、腕をとって引き起こし、さあ行けと仰せにならないか見てみるがいい。自分は自分の転倒によって真っ黒になっていますとお告げするがいい。そして、神があなたを洗いきよめてくださらないか見てみるがいい。倒れたときに、石で怪我をしてしまいましたとお告げするがいい。そして、神があなたの傷口に薬をつけてくださらないか見てみるがいい。自分は罪を犯したために苦悩していますとお告げするがいい。そして、神がその愛の口づけであなたに口づけし、わたしはあなたを赦しているよ、と仰せにならないか見てみるがいい。行って神を試してみるがいい。というのも、神のあわれみは天的なあわれみであり、それはパラダイスのナルドそのものであつて、数々の傷口を効果的に癒すからである。

 III. しめくくりに注意したいのは、《神があわれんでくださる人々》である。誰が神のあわれみの対象なのだろうか? 「主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。

 あなたがたの中のある人々を、神は全くあわれまれない。あなたがた、主を恐れずに、むしろ、主をいいかげんに扱う人たち。――あなたがた、主を憎む人たち。――あなたがた、主を蔑む人たち。――あなたがた、主について無頓着な人たち。――あなたがた、主について決して考えることをしない人たち。――あなたは、主のあわれみを全く受けていない。あなたが病んでいるとき、神はあなたの病を当然の報いとみなされる。あなたが道を踏み外すとき、神はあなたのさまよいを単にあなたの咎ある性質から当然起こったこととみなされる。そして、主はあなたに対して怒っておられる。――あなたに憤っておられる。あなたの種々の患難は、主に鞭打たれているのではない。主に剣で斬られているのである。あなたのもろもろの罪は、主が見過ごしにされるものではない。むしろ、今のまま、咎ある救われていない者としてあなたが死んだときには、覚えておくがいい。あなたが神によって投げ捨てられる時でさえ、正義は涙も浮かべない目つきであなたを眺め、あなたにこう云うであろう。「あなたがたは自分の義務を知っていたが、それを行なわなかったのだ」。そして神の厳格な御声は、あなたが絶望的な咎を有しているために、ご自分の御前から永遠にあなたを追い出してしまうであろう。この聖句があなたに、この世でも、来たるべき世でも何らかの慰藉を供するだろうと考えてはならない。あなたがたは地獄では自分の舌を冷やすための水一滴さえ与えられないであろう。いかなるあわれみもそこではあなたに与えられないであろう。もしあなたが、あなたの罰の領域において、あわれみを授けられうるとしたら、それはあなたの舌の上に慈雨のごとく降り注ぐであろう。しかし神は、ご自分を愛することも、ご自分を恐れることも、自分の誤った生き方から立ち返りもしないあなたに対して、何のあわれみもお授けにはならない。

 おゝ、あなたが神を恐れるようになるとしたらどんなに良いことか! 願わくは神が今あなたを、神を恐れる者としてくださるように! おゝ、あなたがたがその御前で震えるようになるとしたらどんなに良いことか。そうすれば、おゝ、あなたがたは自分が神の子どもであることを知り、子どもたちがその両親を恐れるように神を愛するであろう! おゝ、あなたがたが神の御名を畏敬するとしたら、また、その安息日を守るようになるとしたらどんなに良いことか! おゝ、あなたがたが神の戒めに従い、その恐れを常にあなたの目の前に置くようになるとしたらどんなに良いことか! そのときには、あなたの平安は川のようになり、あなたの義は海の波のようになるであろう。おゝ、あなたが賢くなって神を拝し、自分の咎を告白するとしたらどんなに良いことか! おゝ、あなたが、「ありのままの汝れにて、誇れるもの何もなきまま」、イエス・キリストのもとに来るとしたらどんなに良いことか! おゝ、あなたが自分を義とするあらゆる襤褸切れをはぎ取られ、キリストの義を着せられたとしたらどんなに良いことか! そのときあなたはキリストを自分の《救い主》としていだき、それ以後は、主があなたのあらゆる病において、あなたのあらゆるさまよいにおいて、あなたをあわれんでくださることを喜べるようになるであろう。神は現世であなたをあわれみ、最後には、あわれみの必要がなくなる上つ方へ導かれるであろう。それは祝された者たちの国、死後の家であり、そこでは、力のなえた者がいこい、悪者どもはいきりたつのをやめる[ヨブ3:17]。しかし、地獄で悪者どもはいきりたつのをやめない。彼らはあわれみもなくいきりたち、同情もなしに苦痛を受け、容赦なく鞭打たれ、微塵の憐憫もなしに断罪され、厳格な正義と曲げることのできない峻厳さとに引き渡される。彼らが神の叱責を受けても立ち返らず、その数々の警告を顧みず、むしろ、神の真理を自分の背後に放り投げたからには、また、いかにしばしば叱責されてもうなじをこわくしたからには、それゆえに彼らは、「たちまち滅ぼされて、いやされることはない」[箴29:1]。彼らが自分で自分を滅ぼしたからには、また、度重なる福音の招きをはねつけたからには、また、神の御子を軽蔑したからには、また、自分自身の義をキリストの義よりも愛し、天国よりも地獄の方を、義人の報いよりも不義に対する刑罰を好んできたからには、それゆえ、あわれみなしに彼らは永遠に幸福の領域から閉め出され、ご自分を恐れる者たちをあわれみ、ご自分を恐れない者らを罰されるお方の御前から追放されるであろう。願わくは主が、私たち全員をそのような恐ろしい破滅から救ってくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

 

私たちの天の父のあわれみ[了]

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