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人の中における神の働き

NO. 2629

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1899年7月2日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年夏、主日夜の説教


「その日、――主の御告げ。――あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない」。――ホセ2:16-17


 前口上や前置きは一切抜きにして、私たちはこうした言葉から3つか4つの教訓を引き出すことにしたい。

 I. この聖句による第一の教訓は、こうである。《神は、人の中におけるご自分の恵みの目的について語るとき、人の同意や不同意などを全く顧みることなく、そのいずれによってもご自分の目的が変更されることをお許しにならない》

 自由意志による救いという考え方によれば、神は絶対に次のように云い表わさざるをえなかったであろう。「その日、――主の御告げ。――もしあなたが同意するとしたら、あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。また、もしあなたが信じて悔い改めようとするとしたら、もしあなたが同意するとしたら、わたしはバアルたちの名をあなたの口から取り除く。そして、もしあなたが同意するとしたら、その名はもう覚えられることはない」、と。しかし、注意するがいい。神は全く何の「もし」も云い表わしておらず、むしろ人々がこの件に全く何の関わりも持っておらず、ご自分だけがすべてを行なったかのように、人々について語っておられる。ある人は反対するであろう。「しかし、かりに彼らがバアルたちの名を忘れることに同意しなかったとしたら?」 「あゝ!」、と神は云われる。「だが、わたしは彼らの意志をわたしの掌中に握っているのだ。わたしは人の意志の鍵を持っている。わたしはそれを開くことができるし、いかなる人もそれを閉じることはできない。わたしはそれを閉じることができるし、いかなる人もそれを開くことはできない」。「しかし、かりに彼らがかたくなになり、悔い改めようとしないとしたら?」 「あゝ!」、と主は云われる。「だがわたしには、その心を粉々に砕き、粉微塵に吹き飛ばしてしまう大槌がある」。「しかし、かりに彼らが石のような心で、溶かされようとすまいとしたら?」 「否」、と主は云われる。「わたしには、これまで知られた最も堅固無比な岩をも溶かす火がある。しかり。それは、心の中からその岩を焼き払い、完全に焼き尽くすことができる」。それゆえ、バアルたちに仕え、罪に酔いしれ、世俗的な不義にはなはだしくのめりこみ、神から遠く離れてしまったイスラエル人について語りながらも、神は何の「もし」も差し挟まず、決然と仰せになるのである。彼らについてさえ、「わたしはバアルたちの名を彼らの口から取り除く。その名はもう覚えられることはない」、と。

 あなたはこれまで気づいたことがあるだろうか? 神が聖書全体を通じて、人々の救いというご自分の行為に関して、いかにきっぱりと語っておられるかを。「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう」[詩91:15]。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」[イザ53:11]。自由意思論者は立ち上がって云うかもしれない。「しかし、かりに彼らが救われることに同意しなかったとしたら? 神は彼らを彼らの意志に反して救うのですか?」 これに対して私たちは答える。――彼らの意志についてなど何も云われていない。言及されているのは神の意志だけである。明らかに神は、人々の上に強大な権威を有しており、彼らの同意や不同意とは関わりなく、彼らの心の中で思い通りに働くことがおできになるのである。それで、私がこの講壇に立って説教するとき、もし御霊なる神がそうお望みになれば、たといあなたがた全員が怒りに歯ぎしりしていようと、それでも御霊は、みことばの語られる声音により、あなたがた全員を回心させることがおできになるであろう。――たといあなたが自分の心で頑強に神のことばに反抗していようと、また、自分の上に呪詛をへばりつかせながら神の家に入って来ようと、それでも御霊は、あなたがこの場所を離れる前に、あなたを別の精神に変えることがおできになるであろう。また、たといあなたがここに、この上もなく軽佻浮薄な精神でやって来ようと、かたくなな心でやって来ようと、神とその福音を軽蔑しながらやって来ようと、それでも神には強靭な力があり、御口の一言によって、また、御霊の息吹によって、あなたがたをご自分の生きた子どもたちに変容させ、あなたが今しているのとは正反対のことを行なわせることがおできになるであろう。ならば、不信心者が自分は絶対に回心することなどありえないと云っても無駄である。というのも、神は彼を回心させることがおできになるであろうからである。ある人が、「神は決して私を膝まずかせて祈らせることなどない」、と云っても無駄である。神は、あなたの膝がいかに硬直していようと、そのかがめさせ方を知っておられるからである。「私は、臆病者のようにあわれみを求めて決して泣いたりしない」、とある人は云う。しかし神は、いかにすればあなたの心の中に悔悟の泣き声を作り出せるかご存知である。神はあなたを御手に握っておられ、あなたがいかに暴れようとも、いかにあなたが逆らい立とうとも、それでも神はあなたの向きをみこころのままに変えることがおできになる。レビヤタンを縛り、竜を真っ二つに切り裂かれるお方は、あなたのような、あわれで、ちっぽけな、定命の者によって押し止められはしない。むしろ神は、もしあなたに対して恵みの目的を有しておられるとしたら、その目的を実現なさるであろう。あなたを救うことに決めているとしたら、あなたを荒野の中に誘い込み、あなたに新しい心とゆるがない霊[詩51:10]とを与えてくださるであろう。そして、もし神がそのように定めておられるとしたら、あなたがいかに神に反抗しようと、何らかの時点であなたの心は、みことばの大鎚の一撃によって粉々に砕かれることになる。そして、神のほむべき恵みの気付け薬の一口により、あなたの魂は、血で買い取られた赦罪を喜ぶことになる。

 これは福音の偉大な教理である。――恵みの力という教理――神がみこころの者らをお救いになるのであって、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」[ロマ9:16]という教理である。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「もし私が救われたいと望むなら、神は私を救ってくださるのでしょうか?」 方々。神はあなたをすでに救っておられる。もしあなたが救われたいと望んでいるとしたら、神があなたをそのように望ませてくださったのであり、そのことにおいて神はあなたに、まさに救いの萌芽を与えてくださっているのである。というのも、あなたが神の方法によって救われたいと望むことこそ、救われていることの本質そのものだからである。「ですが」、とある人は云うであろう。「私が救われたいと望んでいなくとも、神は私を救ってくださるのでしょうか?」 否。方々。あなたが望んでいない限り、神がお救いになることはない。だが、それがみこころであれば、神はあなたが望むようにしてくださり、そのとき、神はあなたの中で、救いに至る御力を現わしてくださるであろう。神は誰をも本人の意志に反して救うことはなさらない。だが、それは本人の意志に反することなのである。ラルフ・アースキンはそれをこう云い表わしている。「私は、完全な同意とともに、自分の意志に反して救われた」。彼の云わんとするところはこうである。私は「常に悪を行なうことを望んでいた、私の古い意志に反して、だがしかし、私の新しくされたあらゆる諸力の完全な同意をもって救われた。それらは、キリスト・イエスのうちに新たに創造されたものであり、それゆえ、神が規定されたあらゆるものに、ただちに喜んで服従しようとするのである」。

 おゝ! いかに私はこの福音を宣べ伝えるのを喜んでいることか! 福音は、私から強さを借りるのではなく、神からその力を得ているのである。これは何という慰めであろう。私たちがどこへ云って神のことばを宣べ伝えようと、神のみこころであれば、そのみことばは、最悪の人々の間でも効果を有するようにされるのである。――嘲る者、さげすむ者、軽蔑する者たちの間でも! なぜ人々は、アイルランドのローマカトリック教徒の間に出ていってみことばを宣べ伝えないのだろうか? それは、彼らが自分たちの話を聞こうとしないからだという。おゝ! だが彼らは聞こうとするであろう。そして、少なくとも私たちは、立ち上がって、みことばの証しをしさえしたなら、彼らの血の責任から解放されるであろう。そして、いかに彼らがそうしようとしたがらなくと、神には、そのあふれる恩寵によって、彼らの心を変えることがおできになる。「無駄なことだ」、とある人は云った。「あんな小屋の中に住んでいるベチュアナ人の所に行くなんて。救われっこないもの。彼らが古来の風習を打ち捨てたいと思うようになるはずがないもの」。しかし、あなたは、彼らの意志になど全く依存してはいない。あなたは福音を携えて彼らのもとに行くのであり、神は彼らに新しい意志をお与えになり、大いなる変化がもたらされる。あなたがしなくてはならないことは、ただみことばを宣べ伝えることである。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはみことばによるのです」[ロマ10:17 <英欽定訳>]。というのも、神のことばとともに、神の聖霊が出て行かれるのであり、それが人々を変え、彼らの性格と心を新たにし、彼らをそれまで一度としてそうなったことがない者とするからである。おゝ、私は神の御名をほめたたえる。世界中の人々が《いと高き方》に拳を振り上げ、自分たちは決して救われたくないと云い張ろうと、それでも神は、みこころであれば一瞬のうちに彼ら全員に、その膝を御前でかがめさせ、いちどは退けていたあわれみを叫び求めさせ、一度はさげすんでいた《救い主》を求めさせることがおできになるであろう。ここに福音の力はある。それは人々の悪い意志を征服し、彼らの同意もなしに彼らの性質を変化させ、それから、彼らの性質が変化した後で、彼らの同意を完全に得るのである。

 これが、この聖句から私たちが順当に引き出して良い第一の教理だと思う。

 II. さて第二のこととして、《神は、ある人を聖められるとき、徹底的な働きをなさる》

 こうしたユダヤ人たちが偶像礼拝者であったことに注意するがいい。それでも神はこう云っておられる。「わたしは、単に彼らにその偶像礼拝をやめさせるだけではなく、それ以上のことをする。わたしは、バアルたちの名を彼らの記憶から取り除くことをもする。その名はもう覚えられることはないからだ」、と。神の聖めの働きは、すでに完全であるか、これから完全なものとなる。私は、それが今、完全であるか、今から完全なものとなると云った。それは、彼方の御座の前にいる輝かしい霊たちの場合は完全である。そして、私たち残りの者たちについては、もし神がその良い働きを始めておられるとしたら、それが究極的に完成するまで神は続けてくださるであろう。そのとき、罪という名前そのものが私たちの口から拭い去られ、その追憶は私たちの良心と記憶から取り除かれることになる。

 注目に値するのは、この約束がユダヤ人の場合、文字通り成就したということである。彼らには多くの罪があるが、彼らが――霊的な意味を除き――有していない1つの罪がある。すなわち彼らは、偶像礼拝者ではない。その捕囚の時まで、彼らは絶えず何らかの偽りの神を礼拝していた。この世の何にもまして困難なことは、彼らを木や石の塊の前にひれ伏させないでおくことであった。しかし今や、どこへ行こうと、偶像礼拝者であるユダヤ人などほとんど見いだすことができない。そこここに、ひとりかふたりはローマ教会に加入したユダヤ人がおり、そのようにして聖像や、聖徒の遺物や、脱いだ襤褸切れや、腐った骨といったものを拝むことによって、偶像礼拝者になってはいる。しかし、民族としてのユダヤ人を取り上げると、彼らはこの世で最も偶像礼拝者になりそうもない人々である。かの太古の使信、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」[申6:4]、は彼らに焼きついているように思われ、それを彼らから追い出すことはできない。また、彼らは《神格》の単一性を否定するように見えたり、他のものを礼拝すべきであると暗示したりするような形の信仰を認めようとはしないであろう。彼らが唯一礼拝するのは、かの無限なる神秘の《存在》。彼らが、私たち同様にエホバとして拝んでいるお方だけである。バアルたちの名は、彼らの口からきれいに取り除かれている。彼らはそれを覚えてもいないし、思い出しもしない。

 やはり注目すべきは、私たちがしばしば見てきたように、人々が回心するときには、普通、それまでの彼らが最も汚れ果てていた当の罪と全く関わりがなくなるということである。あなたはひとりの人が目につくであろう。その回心前には、とんでもない酔いどれであったのが、ある場合に、後にはきわめて素面になるばかりでなく、できるものなら、その見解を極端にまで押し進めるようになるのである。彼は、かつて自分を傷つけたあらゆるものにはなはだしく対抗するようになるあまり、適度にたしなんでいる他の人々をも猜疑の目で見るようにさえなる。常習的に安息日を破っていた人についても同じである。それで彼は、自分の回心を強烈に確信するあまり、あなたの出会ったことのある中でも最も厳格に安息日を厳守する人となるのである。彼を傷つけた罪は、可能であれば彼が殺す罪となるであろう。あつものに懲りた人はなますを吹く。それと全く同じことが、罪という火傷を負った人について云える。彼はそれに二度と触れたくない。そこから遠く離れていたい。それを見捨て、素通りし、完全に忌み嫌う。ユダヤ人もそうであった。バアル礼拝は彼らの愛好する罪であった。それで、バアルの名は、彼らの口から取り除かれ、その名がもう覚えられなくなった。

 しかし、私の兄弟たち。あなたや私は、単に私たちの罪が払拭されるばかりでなく、私たちの日々の腐敗が鎮静されるばかりでなく、私たちの罪深い性質のすべてが完全に取り除かれたとき、何と高貴な存在となることであろう! いみじくも使徒は云う。「後の状態はまだ明らかにされていません」[Iヨハ3:2]。しかり。兄弟たち。私たちは自分がどのような状態になるかはほとんど推測できない。だが、ほんの一瞬、それを黙考することはできる。人は、完全に精錬されるとき、――そのすべての罪が消え失せるとき、――悪の情動が1つ残らずなくなるとき、――どこかの片隅にぬくぬくとひそんでいる情欲が1つもなくなるとき、そして、むしろ、その魂が完全にきよくなり、その心が全く新しくされるとき、いかに高貴な者となるに違いないことか! おゝ、何と高貴な被造物であろう! そして、このことだけを覚えておくがいい。あわれな、弱く、価値のない者ではあっても、私たちが内側に有している信仰は究極的には私たちを完全にきよめ、私たちは、彼方の御座の前にいる輝かしい霊たちのように聖なる者となるのである。自らの中に何の罪もなかったとしたら、人はいかに壮大な者となっていたことであろう。考えてみるがいい。人がこの世に生まれ出て、私たちの主イエス・キリストが送られたのと全く同じような生涯を送ることを。そして主は、万人に秀でて壮大な者であった。主のご生涯に表わされている、その性格の個々の属性について考察すると、そこには驚異が満ちている。だが、思い出すがいい。私たちも、主のありのままの姿を見るときには、主のようになるのである[Iヨハ3:2]。私たちは、あの園にいた頃のアダムのようにきよくなるのである。それに加えて、私たちのきよさは、単にしみのないものであるばかりでなく、純白すぎるため、今後しみがつく可能性を越えたものとなるのである。私たちの性質は、ただきよくなるばかりでなく、きよくなりすぎるため、決して汚れることがありえなくなるのである。神はそれに消すことのできないきよさの刻印を押されるので、それは永遠を通じてきよいままとなるであろう。おゝ! 何というほむべき考えであろう。バアルたちの名は私たちの口から去り、罪は私たちの心からなくなり、情欲に満ちた一瞥は私たちの目からなくなり、悪しき事がらは私たちの想像からなくなり、そうした一切がなくなる! おゝ! 私たちは、私たちの主と似た姿で目覚め、私たちの栄化された霊は吹きだまりの雪のように純白になり、無垢の、清浄で、完璧な者たちと喜ばしく相集う、あの輝かしい瞬間に、主をほめたたえるではないだろうか? おゝ、そのとき私たちは、何という歓呼の声をあげることになるであろう! いかなる合唱交響曲、いかなる賛歌の爆発、いかなる感謝のハレルヤであろう! まことに、そのとき私たちが感ずることになる感慨を表現しようとしても、言葉にならない。そのとき、きよく、聖なる、清浄で、浄化された私たちは、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」[エペ5:27]ものとして、神の御座の前に立たされるのである。「わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない」。私は実際にこう思う。天国における最初の日は、驚きに満ちた日となるであろう。私たちは、それをどう考えて良いか分からないであろう。それ以前の私たちの生涯には、決して何の苦難もなく、何の罪もないという日はないであろう。だが天国での最初の日には、私たちを誘惑する何の悪魔もおらず、私たちを痛めつける何の罪もなく、私たちを悲しませる何の悩みもなく、自分自身もまた完全にきよい者となっているのである。私たちは、自分が何をすれば良いかほとんど分からないだろうと思う。私たちはそれほど驚くことになるであろう。メドレー氏の賛美歌は、まさに正鵠を射ている。――

    われを上らせ 高く舞わせよ
    いとも明るき 尽きぬ日の世へ。
    歓喜し驚異(おどろ)き 歌わせよ
    主の御慈愛(みめぐみ)を 天空(そら)の彼方で。

私たちは、ほとんど、あわれなカスパー・ハウザーのようになるであろう。彼は、何年もの間――事実、幼少の頃から――暗い穴蔵に閉じ込められていた。そこは一筋の光がかろうじて射し込むだけであったが、後に番人によって彼はそこから連れ出され、太陽の光を見て、それまで一度も見たことのなかった人々の間に入り混じり、彼らの声を聞くことになった。それまでの彼は理解できる言葉をほとんど一言も口に出すことを教わっていなかった。おゝ、もし彼がその幽閉によって傷つけられていなかったとしたら、それは何と心楽しいことであったであろう! しかし、あなたや私は、この下界の洞窟における自分たちの幽閉によっても傷ついておらず、たちまち地上からひったくられて、パラダイスの町通りに置かれ、自分がきよくなっていることに気づくのである。一夜明けて目覚めると、自分が王様になっていることに気づいた乞食の驚きも、キリストに似た者となって目覚め、自分が神のきよいかたちに変容されていることに気づいた聖徒が感じる驚愕の半分にもなるまい。このことを喜びと心楽しさをもって黙想しよう。そして、私たちの日々のあらゆる争闘の最中で、勝利を予期していよう。信仰による勝利を期待しよう。そして、すでに棕櫚の枝を手に握り、自分の頭に冠を戴き、希望に陶酔し、信仰の完全な確信をいだいていよう。というのも、もし私たちが戦えば、統治することになり、もし苦しめば、勝ちを得ることになり、もし耐え忍べば、しぼむことのない「いのちの冠」[黙2:10]を受けることになるからである。

 これが、本日の聖句の第二の教訓である。キリストは、救いと聖めを始めたところではどこでも、徹底的な働きをなさるであろう。

 III. さて、あなたに第三の教訓を示したい。《ある種の事がらは、それ自体は悪でなくとも、キリスト者が決して関わりを持ってはならない。なぜなら、それらは悪しき事がらと関連しているからである》

 私は、主が、「あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい」、と仰せになった意味を説明しよう。「私のバアル」は悪い名だろうか? 決してそうではない。神はご自分のことを聖書の二、三箇所で「私のバアル」と読んでおられる。あなたは、かのほむべき箇所、「あなたの夫はあなたを造った者」[イザ54:5]を覚えているであろう。これは本当は、「あなたのバアルはあなたを造った者」、なのである。そして、他の何箇所かにおいても、《夫》という言葉が神を指すために使われているとき、それを翻訳しないまま残しておくなら、それはこのように読めたはずである。「あなたのバアルはあなたを造った者」、と。では、なぜ神は「私のバアル」と呼ばれるべきでないのだろうか? ユダヤ人たちは一時期、神をそう呼んでいた。彼らはその称号の下で神に祈りをささげてきた。なぜそうし続けてはいけないのだろうか? それは、異教徒がその言葉を間違って使ってきたからである。彼らは自分たちの偽りの神を「私のバアル」と呼んだ。それゆえ、神は云われたのである。「その称号をわたしに当てはめてはならない。それは、彼らがそれを彼らの偽りの神々のために用いてきたからだ」。私は、近頃のどこかの若者のように、ひとりのユダヤ人がこう云っている姿が目に浮かぶ。「さて、私は、誰にも私と私の良心との間に割り込ませはしませんよ。私は、『私のバアル』が良い名だと信じています。私はそれをずっと使ってきましたし、多くの善良な人たちが使ってきました。私はそれを祈りの中で心をこめて用いていますし、他の人々がそれを悪用したことは私とは何の関係もありません。これは、しかたのないことなのです。私はそれが私の考えを表現していると知っています。それは夫のことです。君主のような夫のことです。そして私は、預言者ホセアほど几帳面になることはできません。私はそれを使い続けますよ」。これこそ、近頃の多くの人々の論じ方である。ある人は云う。「私はキリスト者です。私は神に仕えようと思います。ですが、ある種の快楽は、許されることと許されないこととの境界線上にあるのです」。ある若者は云う。「私はそうした快楽を追求しようと思います。なぜなら、そこに何の害悪をも見てとれませんから。確かに、それらは、他の人々にとっては大きな危害を及ぼす原因となりますが、私には何の害も及ぼしません。私はこの世にいるときも、それを実践してきたものでしたが、それらは今のわたしに何の害悪も及ぼしません。それが悪であることは決して聖書から証明できません。これこれの場所があります。私は時々そこで本当に神を礼拝します。人は誤解するかもしれませんが、私はなぜ自分がこれこれのことをすべきでないか分からないのです。厳密に間違っているものがそこにあるとは思えないのです。それが間違ったこととある種の関連があること、また、他の人々がそれによって害を受けたことは認めますが」。それこそ、肝心な点である。あなが「私のバアル」という称号を使うべきでないのは、それが悪い名だからではなく、他の人々がそれを悪い目的のために用いてきたからである。そのように、キリスト者よ。多くの事がらをあなたは行なうべきではないし、多くの場所にあなたは出入りすべきではない。――それは、それらが絶対的に悪だからではなく、それらと悪に一種の関わりがあるからである。そして、もしあなたがそれらを大目に見るとしたら、あなたは、それらによって犯されている罪にあずかることになるであろう。さらにまた、あなたが知っていようといまいと、あなたがそこに赴くことは、こう書かれている少しまた少しでしかない。「あなたがたは少しまた少しと倒れていく」[『ベン=シラの知恵』19:1]。それで、そうした少しに対抗してあくまで立っている最上の道は、しまりがなさすぎるよりは、厳格すぎるようにしていることである。そして、そのようにすることによって、神はあなたに報いを与えるであろう。というのも、神は肉の楽しみにあずかるよりも、それらを控えることの方を、あなたにとってより大きな幸福としてくださるからである。「あなたはわたしを……もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい」。なぜなら、その名前は、それ自体では何の問題もなくとも、他の人々がそれを悪用してきたからである。

 私は、賽子を嫌悪をいだくことなしに眺めることができない。なぜかと問われるとしたら、こう答えよう。――それは、十字架の根元であの兵士たちが賽子を振って、私の《救い主》の衣を分けたからである。そして、私は賽子の転がる音を聞くたびに、キリストがその十字架についておられた、また、その根元で、あのばくち打ちたちが、主の血しぶきをつけたその賽子を手にしている、あのおそろしい光景を眼前に思い出さずにいられないのである。私はためらうことなく云うが、ありとあらゆる罪の中で、人々を、何にもまして確実に断罪し、かつ、それより悪いことに、他の人々を断罪する悪魔の道具としてしまう罪は、賭博である。だがしかし、多くの人は云う。「よろしい。私は単にそれを楽しみのためにしているのですよ。それが、無害なことはご存知でしょう」。もちろん、それそのものに害はないが、それと何が関連しているか見てみるがいい。誰それ卿は、競馬見物に出かけることはしごく結構なことと考えている。彼は、それが間違っていると証明することはできないと私に云う。結構な連中と、彼はそこで会うことであろう! 彼らは、そのことをあまり良く云わない。他の人は云う。「私はこのことも、あのことも、他のこともできます。私には害になりません」。たぶん、あなたにはそうできるであろう。だが、その事がらに何が結びついているか見てみるがいい。あなたは、道徳的に間違ったことがそこになくとも、あなたに何ら害が及ぼされなくとも、それが他の人々を励まして罪に向かわせるがゆえに、あることを慎むべきである。善良で、敬神の念に富むひとりのユダヤ人が、祈るために膝まずき、神に向かって、「私のバアルよ、お聞きください!」、と云うとする。そのそばに、ひとりのあわれな偶像礼拝者がいると、彼は云う。「これは結構。高徳な様子をした人が、いま私のバアルに祈ったではないか。ならば私もそうして良いのだ」。「ねえ君、それはとんでもない間違いですよ」、とそのユダヤ人は云うであろう。「私は、『私のバアル』に祈ったのではありません。《全能の神》に祈っていたのであって、あなたのバアルに祈っていたのではありませんよ」。「しかし、あなたはバアルと云いましたよ」。「あゝ、君、君! それは誤解というものですよ。私は天と地の神に祈っていたのであって、あのあわれな、卑しい、あなたがバアルと呼ぶ偶像に祈っていたのではありません」。だが、このあわれな異教徒は、このユダヤ人が偽りの神を礼拝していたと考えて当然であった。

 私たちは、他の人々の目にとって間違いに見えるようなことを行なわないように注意すべきである。彼らに道を踏み外させないためである。私たちは、他の人々の良心によってさばかれることはない[Iコリ10:29]。だが、それと同時に、他の人々をつまずかせるべきでもない。自分にできる限りにおいて私たちは、他の人々に害を及ぼす見込みのある事がらを断つべきである。もし私が、自分の教会員の誰かが劇場に行くと聞きつけたら、私は彼らの後をつけていくべきだと思う。だが、彼らは二度と教会員としてそこに行くことはないであろう。ことによると、私はロウランド・ヒルがしたようにするかもしれない。彼は劇場の特等席の券を取って、自分の教会員の何人かをそこに見いだした。「諸君がこんなところにいるとはな」、と彼は云った。「噂で聞いただけでは決して信じられなかったろうよ」。それから彼は歩き去ると、即座に彼らを教会から除名した。あなたがた、キリスト教信仰を告白していながら、それを実行していない人たち。もしかすると私は、あなたがたの中のある人々の面倒を見るという惨めなことをしているのかもしれない。私は今、そうした場所を足繁く訪れているあなたがた、世俗的な人々に向かって語りかけているのではない。むしろ私は、キリストに従う者だと告白しているあなたに語っているのである。「そうしたものの名さえ取り除くがいい。あなたの務めは、それが許されることだと云い張ることではなく、それを取り除くことだ。なぜなら、他の人々がそれを悪用しているからだ」。あなたは、「バアル」と云うとき、ことによると、さほど大きな罪を犯しているのではないかもしれない。だが、そうすることによってあなたは、他の人々が罪を犯すことを助長しているのである。キリスト教信仰を告白する人は、他の人々にまさる者でなくてはならない。恵みによって救われ、イエスの尊い血で洗われたと語る者は、――天上で生きること、白い衣を着ること、《永遠者》の賛美を御座の間で歌うことを期待している者は、――他の人々と異なっていなくてはならない。他の者が大手を振って行なって良いことも、その人が行なおうなどとしてはならない。印度の原住民は密林の中でも生きられるし、死なないであろうが、同国の原住民でない私たちは、たちどころに密林熱で死んでしまうであろう。そのように、キリスト者でない人は、ひょっとすると多くの娯楽に打ち込んでも、前よりも堕落するということはないかもしれない。だが、キリスト者がそうした所に行ってはならない。なぜなら、その国の住民ではないからである。それは彼の生国の大気ではなく、彼のいるべき場所ではない。そして、彼もそのことは承知している。それゆえ、彼の務めは自分にできる限りそこから遠ざかることである。私は、御者をひとり求めていたひとりの上流夫人の話を読んだことがある。彼女が広告を出すと、三人の志望者がやって来た。彼女は彼らをひとりずつ呼び入れて、まず最初の者にこう云った。「あなたは御者の勤め口を求めていますのね」。「へえ、奥様」。「よろしい。では、1つお尋ねします。――あなたは私を乗せて、どのくらい危険の近くまで馬車を走らせることができますか?」 「さいでがすな、奥様。一米をちょっと切るくらいまでならできやす」。「あなたでは、私の役に立ちませんわ」。二番目の者が招じ入れられ、彼女は彼に、いくつか質問をしてから、こう云った。「あなたは私を乗せて、どのくらい危険の近くまで馬車を走らせることができますか?」 「さいですな、奥様。そうしたことであれば、髪の毛一筋くらい近くまでできやすよ」。「あなたでは、役に立ちませんわ」、と彼女は云った。「あなたは私が求めているような種類の御者ではありません」。三番目の者が案内されて来た。彼は慎重な人間で、「あなたはどのくらい危険の近くまで馬車を走らせることができますか?」、と質問されたとき、こう答えた。「恐れながら、奥様。あっしは一度もそんなことを試したことがありません。あっしは、いつでも自分にできる限り危ないとこから遠くを走ることにしていますんで」。彼女は云った。「あなたは、とても私の役に立ちますわ。あなたこそ、私の求めている御者です」。私はあなたがた全員がこの御者の真似をするように勧めたい。自分が危険にどれだけ近づけるか試みるのではなく、こう云うがいい。「私の務めは、できる限り遠くを走ることです」、と。正しくないことにどれだけ多く耐えられるか試すのではなく、むしろそれをできるだけ避け、通り過ぎ、それと入り混じらずにいるようにするがいい。

 IV. さて、この聖句から得られる最後の教訓に移る。《神には、信仰者によってだけ用いられるべき尊い称号がある》。「その日、――主の御告げ。――あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい」。

 私がこの主題のこの部分を最後に残しておいたのは、これから私が云おうとすることが、ある人々がそれに伴わせたがるだろうほどの重みの一切を有しているかどうか心許ないからである。「私の夫」という言葉と「私のバアル」という言葉には違いがある。「私の夫」という言葉はもちろん、「私のバアル」という言葉も、「私の夫」という意味である。だが、ここで「私の夫」とされている原語は、妻が自分のいとしい愛情を表わす、愛の表現として夫に対して用いる言葉なのである。「私のバアル」は、妻が、へりくだった表現として、自分が彼に従属していると感じる一瞬の、ごくまれな折に夫に対して用いる言葉である。それは妻の謙遜を表わしている。サラが、いささか通常のしかたから外れて、自分の夫を「主と呼んで」[Iペテ3:6]崇敬したときのような種類の言葉である。「私の夫」という言葉は、彼女が彼を、単に「私自身の愛しい夫」、彼女の男、彼女の愛する者という愛のこもった形容で呼ぶとき用いたであろうような用語である。「私のバアル」は、夫がやや厳しく彼女に語りかけ、夫の有するかしら性をある程度主張するときの言葉だが、それよりもずっとくだけた雰囲気で、ふたりが隣り合って座るとき、彼女は彼をもはや「私のバアル」とは呼ばないであろう。むしろ、それは「私の夫」、私の大いに愛する者――恐れるべき者ではなく、大いに愛する夫――となるであろう。「さて」、と神はその《教会》に云われる。「あなたはもはや私を『私のバアル』――『私の《主人》、私の主、私の高貴な《夫》』――とは呼ぶまい。結局、夫たる正しい属性のすべてを有している者でありはするが、それでもむしろ、あなたはわたしを、『私の夫』――『私の愛する《夫》』――と呼ぶことになるのだ」。よく聞くがいい。先に述べたように、「私のバアル」という言葉には何も悪いものはない。それは、「あなたの夫はあなたを造った者」[イザ54:5]という当の箇所で神に当てはめられているからである。そして、そこには、優越性という面と同じように、優しい意味もある。だが、それでも、「私の夫」という言葉は、この2つの中では、より情け深い称号であり、はるかにすぐれたものである。私たちが常に神に対して用いたいと願うだろうような称号である。もし私たちが神の民であるとしたら、神は私たちがご自分の御前に這いつくばり、卑屈にへつらいながらやって来ることを好まれない。私たちがやって来て、「私のバアル」と呼ぶことを望まれない。むしろ、私たちが愛する友また父のもとに来るかのように、「私の夫」という甘やかな言葉を唇にしつつ、みもとにやって来ることを欲される。神は私たちが、キリストを《私の夫インマヌエル》――「私たちとともにおられる神」――として語りつつやって来ることを望んでおられる。《私のバアル、インマヌエル》――「私たちの支配者なる神」――としてではなく。神は私たちがキリストのことを、「私たちの骨の骨、私たちの肉の肉」、「私たちの《男》、私たちの《夫》」として語ることを望んでおられ、「私たちの《男》、私たちの《主君》」として語ることは望んでおられない。

 ここには、非常にほむべき区別がある。それは、この世の子らには無理でも、キリスト者には認識できることだと思う。ある罪人が自分の罪の中にあるとき、時として彼は、神に仕えようとすることがある。罪の確信によって彼の中には、ある種の律法的な悔い改めが作り出される。彼はもっと善人になろうとする。だが、罪人は常に「私のバアル」という名を唇にしつつ善人になろうとする。「おゝ、主よ。私は善を行なわなくてはなりません。さもないと、私はそのために罰されてしまうでしょう。自分の生き方を改めなくてはなりません。でないと、地獄が私を睨めつけるでしょう。私は、もっとましな人間にならなくてはなりません。さもないと、私は死んで、永遠の苦しみにあずかることでしょう」。それでその人は、恐れによって、ましな人間になろうとする。キリスト者はそうではない。彼は自分の神に仕えようとするが、彼は即座に「私のバアル」という名を捨ててしまう。「おゝ、私のほむべき神よ!」、と彼は云う。「あなたは、私に本当に大きなことをしてくださいました。私は心からあなたを愛します。あなたを愛さずにはいられません。私は、あなたにお仕えし、あなたのために生き、あなたのために死にたいと思います。あなたにお仕えするのは楽しいことです。たとい天国が消し去られ、地獄が拭い去られても、それでも私はあなたにお仕えしたいと思います。あなたは『私の夫』、私の愛するお方、私が心を尽くしてお仕えするお方なのですから」。しかし罪人はそうではない。罪人が最初にあわれみを求めるとき、彼はひれ伏して、自分をあわれんでくださいと神に祈るが、その間ずっと彼は、「私のバアル」に対して語りかけている。彼は、罪の確信の下にある間は、決して「私の夫」と云うことができない。彼の叫びはこうである。「おゝ、主よ。私は罪人のかしらです」。「私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」。これはみな「私のバアル」である。だが、主が彼に現われ、「わたしはお前の罪を見過ごそう」、とお語りになるとき、彼は以前にしていたような祈りを決してささげない。彼は大胆にやって来ては、こう云う。「主よ。私はあなたの子どもです。イエスのゆえに、これらのことを下さい」。そして、彼は確信に満ちた心から祈る。というのも、今やそれは「私のバアル」ではなく、「私の夫」だからである。それは以前と同じ神であったが、様相が異なっているのである。それは以前も親切な神であったが、「私のバアル」なる神であられた。今や神は親切な神であるが、より一層親切であられる。神は、信仰者全員にとって「私の夫」なる神であられる。

 おゝ、愛する兄弟姉妹。私は、あなたがたがみな、この「私の夫」[イシ]という言葉をあなたの唇に上せていてほしい! これはヘブライ語である。私は神が多少のヘブライ語を聖書[英欽定訳聖書]の中に保っておられたことについて神をほめたたえる。それによって私たちはユダヤ人のことを思い出させられるからである。しかし、それを離れても、このイシという古い言葉には非常に甘やかなものがある。――私の《男》、私の《夫》! 愛する方々。家に帰って、じっくりこの称号について考えるがいい。神はあなたが今晩ご自分のもとに大胆にやって来て、「私の夫」と呼びかけるよう命じておられる。腰を落ち着けて、人となられた神の御子について考え始めるがいい。その揺りかごの中におられるこの方を見るとき、「私の夫」とお呼びして、その幼子をあなたの胸でいとおしむがいい。成長した人となったこの方を見るとき、そのみもとに行き、信仰によって両腕でかきいだき、山上の説教をあなたに語っておられるこの方を「私の夫」と呼ぶがいい。あの園の中でこの方を探すがいい。立って、この方を見つめるがいい。あなたのはるか上位に立つ、どこかの超人的な人、あなたに優越する者、あなたにとっての「私のバアル」としてではなく、行ってこの方のかたわらに膝まずくがいい。そして、黙想の中で膝まずいたとき、この方の額からなおも血の汗が流れ落ちているのを見るがいい。前かがみになり、御顔をのぞき込みながら云うがいい。「おゝ、『私の夫』よ。私の《男》、私の《夫》よ。あなたは、私のため高価な代価を払っておられるのですね。この恐ろしい血の汗によって!」 それから、あの石畳に沿ってこの方について行くがいい。その背中がピラトの鞭打ちによって血みどろになっているのを見て、そのとき「私の夫」とお呼びするがいい。そして、十字架上のこの方を見るとき、おゝ! そこにおいてこそ、「私の夫」はそれまで以上に明確に意味されている。この方の心臓が開かれ、その血管が血を流しているとき、そのときあなたには、その血によって「私の夫」という名が記されているのが見える。――あなたとともにいる男、あなたの《夫》、と。そして、それから、その墓の中にあるこの方を見て、そこでも「私の夫」とお呼びするがいい。その昇天において天までこの方を追いかけて行き、多くのとりこを引き連れておられるお方を「私の夫」とお呼びするがいい。この方が、両手を差し伸ばして神の御座の前で嘆願している姿を見るがいい。その胸当てを眺めて、あなた自身の名前を読み、この方を「私の夫」とお呼びするがいい。それから、先を眺めて、この方が天の雲に包まれてやって来られるのを見て、そのときも「私の夫」とお呼びするがいい。この方と、その御民の全員が栄光の家へと集め入れられるとき、この方を見るがいい。そのときも、この方はあなたの「私の夫」なのである。――あなたの「私のバアル」、あなたの主君、あなたの優越者ではなく、あなたの「私の夫」、あなたの《男》、あなたの《夫》、抱擁され愛されるべき方、あなたとの甘やかな交わりのうちにある方、あなたの《旧友》、あなたの《友》、あなたの「仲間」なのである。それは、この方の御父、またあなたの御父がほむべきしかたでこの方を呼んでおられる通りであられる。

 そして、キリスト者よ。あなたが明日、働きに出て行くときには、奴隷のようにそうしないよう気をつけるがいい。この「私の夫」を日々実践するがいい。神に仕えるのは、神に仕える以外のことをするのが怖いからであってはならない。神に仕えるのは、神に仕えないのを恐れるからであってはならない。恐怖からそうしてはならない。主人の鞭の下にある黒人奴隷のように働いてはならない。むしろ、純粋な喜びから、行って、あなたの《主人》にお仕えするがいい。なぜなら、この方はあなたの「私の夫」、あなたの《男》、あなたの《夫》でもあられるからである。

    われらはもはや、伏さずあらん、
    御座の下にて 奴隷(ぬひ)のごと。
    信仰 叫ばん、我夫(イシ)、イェスと、
    汝れは認めん、その縁者(みうち)をば。

あなたの勤めに赴き、愛と喜びと楽しみをもってあなたの主に仕えるがいい。

    愛こそ我らが いとわぬ足を
    御旨に従い 疾(と)く歩ましむ。

 さて、しめくくりにあたり、愛する方々。この場にいる多くの人々は、「私の夫」と呼ぶことができないであろう。キリストは、彼らにとって「私の夫」ではないからである。「私のバアル」という言葉しか、彼らは神に対して用いることができない。彼らのために私たちは何をしてやれるだろうか? 愛する方々。この場にいる、主を知っている人たち。こうした人々のために何をしたら良いだろうか? 私たちの妹は若い。彼女に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう[雅8:8]? もし、彼女が城壁だったら、その上に銀のように尊い、多くの祈りを建て上げよう。彼女が戸であったら、私たちの嘆願という杉で囲もう[雅8:9]。私たちは日夜、まだ導き入れられていないあわれな魂たちのために祈るであろう。だが、その多くは導き入れられ、1つの群れ、ひとりの《牧者》[ヨハ10:16]となるに違いない。あわれな罪人よ。私は、あなたを家に帰す前に、あなたに福音を宣べ伝えよう。あなたは震えおののき、神の御前で這いつくばり縮こまっているだろうか? あなたは神を恐れているだろうか? あなたは神の剣が鞘から抜き放たれ、あなたを捜し求めていると思っているだろうか? 血に飢えた復讐の矢が、殺すために飛ばされたのを見ているだろうか? 神の律法があなたを追いかけているのが見えるだろうか? ならば、あなたは、「私のバアル」までは達しているのである。あゝ、魂よ。もしあなたが罪をその暗黒さにおいて知っているとしたら、また、もしあなたがそれゆえに泣いているとしたら、また、もしあなたが赦罪を得たいと願っているとしたら、また、もしあなたがあらゆる罪と、あらゆる自分の義を捨てたいと望んでいるとしたら、ここに救いの道がある。「私の夫」は、あなたにこう告げるよう私に命じておられる。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。「私を外に出してください。家に帰って祈らせてください」。否。方々。主イエス・キリストを信ずるがいい。「この会堂から外へ出させてください。そうしたら、家に飛んで帰って、聖書を一章読みます」。否、方々。もし自分が《救い主》を必要としていると分かっているとしたら、あなたはそこに立っているままで、主イエス・キリストを信ずるがいい。そうすれば、あなたは救われるのである。あの看守を見るがいい。彼はパウロとシラスの足を足枷で締めつけ、彼らを、自分と同じけだもののように、監獄の奥にぶち込んだ。だが、あの地震が起こり監獄を揺さぶったとき、彼は云った。「救われるためには、何をしなければなりませんか?」 「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」、とパウロは云った。看守は信じ、神の子どもとなり、その後ただちにバプテスマを受け、イエスを恐れつつ歩んで行った。回心は非常に多くの場合、徐々に起こると私は信ずる。だが、必ずそうならなくてはならないわけではない。もし神があなたを今、自分が失われ、滅びていることが分かる状態にしておられるとしたら、あなたは、キリストがあなたのために死なれたと信じ、誇れるもの何もなきまま、ただイエスがあなたのために死なれしゆえに、あなたの身をキリストにゆだねて何の差し支えもない。あなたは罪の確信の下にあるだろうか? 神があなたを滅ぼすとしても、正しくあられると感じているだろうか? あなたは、こう問うているだろうか? 「私の一切の罪が一瞬にして拭い去られることなど可能だろうか?」 可能である! 方々。そうされることは確実である。そうなることは確実である。もし今あなたがキリストを信ずるとしたら、そうであることは確実である。

 先週の月曜日、ひとりの奥方がこの悩みをもって私を訪ねてきた。彼女は私の説教を聞いたことはないが、私の説教集を読んでいると云い、神はそれを彼女にとって祝福としてくださり、彼女を罪の確信へと導いたばかりでなく、回心へも導いてくださった。彼女は、《救い主》を見いだした喜びに満ちて、教区の聖職者のもとに出かけた。彼女は自分の心楽しさについて彼に話し出し、自分の罪がすべて拭い去られたことをいかに喜んでいるか物語った。彼は彼女の話を遮り、こう云った。「婦人よ。それはみな迷妄ですぞ。あなたには、あなたの罪がみな赦されたと信ずる権利などありません。まずは何年か敬虔と献身の生活を送った後でなければね」。彼女は悲しんで立ち去り、その聖職者の語ったことが本当かどうか私に尋ねに来たのである。そこで私は、このような詩を引用した。――

    罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    全き救い 御血(ち)によりて。

「おゝ!」、と彼女は云った。「はっきり分かりましたわ」。そして私が、多くの人々は、ある一瞬にはどす黒い罪人であったのに、次の瞬間には、ただ単純にイエスに身を投げかけただけで雪のように白くなり、たちどころに平安を見いだした話を彼女に告げていくと、彼女にはキリストの尊い約束を心に銘記するほか何もできなかった。そしてイエスを信じ、信仰によって義と認められた彼女は、人のすべての考えにまさる神の平安[ピリ4:7]を得た。私は、主がそれを、今あなたに与えてくださるよう祈る。あなたがたの中の誰でも、いまキリストを見上げるなら、あなたがたの中の誰でも、自分の心をキリストに掲げ上げるなら、あなたがたの中の誰でも、神が永遠のいのちに定めておられ、それゆえに、キリストを信じるなら、そのあなたは、古のあの取税人のように、この建物を出るときには、「義と認められて家に帰」[ルカ18:14]ることであろう。そこには、躍り上がるような喜びがあるであろう。自分の咎を告白し、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」、と叫ぶためにこの場所に来たあなたは、イエスを「私の夫」と呼び、イエスを自分の両腕で、罪の死として、死の死として、あなたの《贖い主》として、あなたの《救い主》として、あなたの《すべてのすべて》として抱きしめながら、この建物を出て行くことができるのである。願わくは主があなたがた全員にそうした信仰を与えてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

 

人の中における神の働き[了]

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