罪人の逃げ場
NO. 2621
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---- 1899年5月7日の主日朗読のために 説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年、主日夜の説教「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない」。――民35:11
あなたも承知の通り、血族による復讐という原理は、東方の人々の精神に深く根ざしている。最古の時代からこのかた、それは常に東洋人の習慣であった。人が悪意をもって殺されたとき、あるいは、誤って死なされたとき、その最近親の者、あるいはその跡継ぎ、あるいはその親族の誰かが、意図すると意図せざるとに関わらずその死を引き起こした者に対して復讐することになっていたのである。この復讐は、東洋諸国の人々にとって非常に特別なことであった。血の復讐者は、目指すえものの行方を四十年間でも――左様、それでも捕えることができなければ、自分が死ぬまで――捜し求め、相手を殺そうとして一生追跡し続ける。その殺人者を裁判官の前で裁判にかける必要はなかった。ある部族の場合、被害者が死んでおり、彼を殺した者が処刑されなかった場合、殺人者の父親、あるいはその部族の誰かひとりを殺すことが正当とみなされていた。そして、そうした事故その他の理由によって殺された者の報復として、殺人者の側の部族の誰かが処刑されるまで、双方の氏族の間には、執念深い怨恨が残ることとなり、血によらずには決してそれを消すことができなかった。
さて主がユダヤ人に、のがれの町々に関する律法を与えたとき利用されたのは、こうした、最近親の者が血の復讐を行なうというやり方に対する彼らの根強い愛着であった。そして神は、他の万事においてと同様、このことにおいても事を賢く行なわれた。私の信ずるところ、聖書の中で言及されている2つの事がらは、決して神が賛成していたものではなかったにもかかわらず、ユダヤ人の心に深く根差していたがために、神がお禁じにならなかったものである。1つは一夫多妻である。多くの妻をめとることは、あまりにも定着していたために神は、それを忌み嫌ってはおられたが、ユダヤ人に許された。なぜなら、たとい彼らにひとりの妻しか持ってはならないとの規定を定められたとしても、彼らがその戒めを破ることは避けられないと見越しておられたからである。この血族による復讐という件も、それと同じである。これが人々の精神に牢固として抜きがたくあったため、神は、ユダヤ人が自分の同胞に対して復讐を行なう特権とみなしていたものを禁ずる代わりに、1つの律法をお定めになった。それは、本当に悪意をもって人を殺した者でない限り、いかなる者も殺されることがほぼありえないようにする律法であった。というのも神は、適度な距離を置いた6つの町を定め、思いがけなく他人を殺してしまい、殺人者となった者が、ただちにそうした町々の1つに逃げ込めるようにし、たとい彼が一生そこにとどまっていなくてはならないとしても、彼に罪がなかった場合は、血の復讐者が指一本彼に手出しできないようになさったからである。彼は公正な裁判を受けることとなった。だが、たとい彼に罪がなかったとしても、その町の内側にとどまっていなくてはならなかった。その町の中なら、復讐者が入り込むことは決してありえなかった。だが、もし彼がその町を出れば、復讐者は彼を殺してかまわなかった。それゆえ彼は、引き起こしたのが事故死であったとしても、永久追放の憂き目に遭わなくてはならなかった。そのようにして、神がいかに血の権利を重んじておられるか、また、いかなるしかたであれ人を死に至らしめることがいかに恐ろしいことかが示されたのである。見ての通り、愛する方々。これによって、悪意なしに人を殺した者が殺される見込みはなくなった。というのも、石その他の手段によって、思いがけず他人を殺してしまった者は、すぐさまこののがれの町に逃げ込んだからである。彼の方が追跡者よりも先んじていた。そして、もし彼が先にそこにつけば、彼は安泰で安全であった。
私はユダヤ人のこの慣習を、1つの比喩また予型として用いて、私たちの主イエス・キリストによる人の救いについて述べたいと思う。まず1つの説明をあなたに示し、それから1つの勧告を示したい。
I. 《まず、これを予型として説明してみよう》。
第一に注意してほしいのは、こののがれの町が供されていたのは、いかなる者のためであったかということである。それは、故意に人を殺した者のための避難所ではなかった。もしそうした者がそこに逃げ込んだとしたら、彼はそこから引きずり出され、公正な裁判にかけた後で復讐者に引き渡されなくてはならなかった。そして、血の復讐者は彼を殺し、血に代えて血を、いのちに代えていのちを奪うこととなった。しかし、事故の場合は、ひとりの人が別の人を殺しても、前々から悪意をいだいていたわけではなく、それゆえ、単に死に至らせただけであるため、そこに逃れて行く人は完璧に安全であった。
しかしながら、ここにある予型は、私たちの主イエスのみわざを適切には表わしていない。主が逃げ場として供されているのは、罪のない人々のためではなく、咎ある人々のためである。――何の気なしにそむいた人々のためではなく、故意に道を踏み外した者らのためである。私たちの《救い主》がこの世に来て救おうとされたのは、意図せずに誤って罪を犯した人々ではなく、自分でも重々承知していた天来の戒めの数々に対して、はなはだしいそむきの罪を犯した人々、また、自らの自由意志の罪深い指図に従い、自らの強情さに従って、神に反逆するに至った人々なのである。
次に注意してほしいのは、この血の復讐者である。この予型のこの部分を説明するに当たり、もちろん私はこの象徴のあらゆる部分を取り上げなくてはならない。この血の復讐者は、先に述べたように、通常は、殺された者にとって最近親の者であった。だが、私の信ずるところ、家族の他のどの者であれ、復讐者として行動する資格があると思われていた。例えば、もし私の弟が殺されたとしたら、彼の血の復讐をすることは、その時その場でそうできた場合、家族の長子として、私の義務であったろう。――私はその殺人者を、あるいは、弟を死に至らせた者を追いかけて、そのかどで彼を殺すべきであったろう。もし私にそうできなかった場合、その男を追跡し、神が私たちの手に彼を引き渡してくださるまで追い続けて彼を殺すことは、私の務めであり、私の父の務めであり、実際、家族のあらゆる男子の務めであったろう。これは、それが今の私たちの義務だという意味ではなく、古のユダヤ人の経綸の下にあってはそうみなされていたはずだということである。モーセ律法によってそのことは許されていた。殺された者の親類縁者である者たちが、彼の血の復讐者となるべきだった。
私たちは、罪人のためのこの予型に相対するものを神の律法のうちに見いだす。罪人よ。神の律法は、あなたを追跡してくる血の復讐者にほかならない! あなたは故意にそむきの罪を犯した。あなたは、いわば神の戒めたちを殺したのである。それらをあなたの足で蹂躙したのである。律法は血の復讐者となっている。あなたを追いかけている。そして、じきにあなたをむんずと掴むであろう。断罪は今あなたの頭上に吊り下がっており、やがてあなたに降りかかるに違いない。たといそれが現世であなたに追いつかなくとも、来世になれば、この血の復讐者、このモーセ、この主の律法は、あなたに復讐を行ない、あなたは完全に滅ぼされるであろう。
しかし、さらに、律法の下で1つののがれの町が供されていた――否、それ以上である。――六つののがれの町が供されていたのは、その1つが国中のいかなる場所からも好都合な距離にあるようにするためであった。さて、キリストは六人いるわけではない。ひとりしかいない。だが、ひとりのキリストがどこにでもおられるのである。「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」[ロマ10:8-10]。
のがれの町は祭司の町であった。――レビ人の町であった。そして、それが殺害者にとっていのちを保護するものとなった。彼は、そのとき在任中の大祭司が死ぬまで、決してそこから出て行くことができなかった。その後は、血の復讐者に危害を加えられることなく自由になれたが。しかし、その町に滞在する期間中、彼は無料で家と食べ物が与えられた。何もかもが彼には供され、彼は全く安全に保たれていた。そして、注目してほしいことだが、彼がこの町で安全にしていられたのは、その城壁のためでも、桟のためでも、閂のためでもなく、単にそれが避難所として天来の指定を受けた場所だったがためであった。あなたには、そこへ向かって走っている人が見えないだろうか? 復讐者が彼を追って、怒りに燃えて全速力で走っている。その殺害者は、この町の境界にまさに達する。その途端、復讐者は立ち止まる。これ以上、彼を追いかけても無駄であると分かっているからである。それは、その町の城壁が強固であるためでも、その門に閂がかかっているためでも、その外側で一軍が妨害しようとしているためでもない。むしろ、人がその境界を越え、その町の放牧地に入るや否や、その人は安全であると神が仰せになったからである。《天来の》定めこそ唯一、こののがれの町を安泰にしていたことであった。さて、愛する方々。私たちの主イエスは、救いの道として《天来の》定めを受けたお方である。私たちの中の誰でも、自分のもろもろの罪から急いで離れ、自分の咎を確信し、神の御霊に助けられてこの路に入って、キリストのもとに逃れて行くとしたら、その人は疑いもなく絶対にして永遠の安泰さを見いだすに違いない。律法の呪いは私たちに触れることがない。サタンは私たちに危害を加えることがない。復讐が私たちに達することはない。というのも、鉄や青銅の門扉よりも強い《天来の》定めが、福音において「前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た」[ヘブ6:18]私たちのあらゆる者を保護するからである。
また、ぜひ注目してほしいことだが、こののがれの町には、非常に広範囲にわたる放牧地がその回りにあった。祭司たちの家畜のために二千キュビトが放牧地として許されており[民35:5]、これらの中の一千キュビトは畑や葡萄畑のためであった。さて人は、その町の放牧地に達するや否や安全となった。城壁の中に入ることは必要なかった。むしろ、町の郊外そのものが十分な保護となっていた。ここから学ぶがいい。もしあなたがたがキリストの衣のすそにでも触れるなら、あなたがたは健やかにされるのである。たといあなたがたが「からし種ほどの信仰」[ルカ17:6]でしかキリストをつかんでおらず、それがごくか細い信仰であっても、真に生きた原理であるとしたら、あなたは安全である。
小(ち)さき、まことの恵みは安(やす)んず われらが罪のすべての欠けを。 こののがれの町の境界内のどこにでも達すれば、あなたはすぐさま、そして永遠に復讐者から安泰になるのである。
さらにいくつか興味深い詳細がある。それは、古代ユダヤの人々の居住地から、こうした町々までの距離に関する点である。伝えられるところ、どこで殺人事件が起きようと、その犯人は半日以内に、いずれかののがれの町に行き着くことができたという。そして、まことに、愛する方々。咎ある罪人から、隠れ家なるキリストの御胸までの距離は決して遠くない。それは単に、私たち自身のもろもろの力を放棄し、キリストをつかんで自分の《すべてのすべて》となっていただくこと、それだけしか、こののがれの町の内側に入るためには要求されていないのである。それから、この町に至るまでの路について告げられているところ、いずれの路も、正常に通れる状態に厳格に保たれていたという。いずれの川にも橋が架けられていた。可能な限り、その路は平坦なものとされており、あらゆる障害物は取り除かれていて、逃げてきた者が容易に町まで通れるようにされていた。一年に一度、その町の長老たちは、その道筋沿いに、それがしかるべく補修されているかどうか点検して回り、できる限りの手を尽くして、決して壊れた橋や、道をふさがれた大路によって、いずれかの殺人者がその逃亡を妨げられ、捕まって殺されるようなことがないようにした。脇道や曲がり角があるたびに、そこには道しるべが斧で削られており、そこには、この「のがれの町」――「のがれの町」――という言葉が墨黒々と記され、その町に達したい人がどの方向へ逃げて行けば良いかが指し示されていた。ふたりの人が常に路を守っており、血の復讐者が人に追いついた場合、彼をさえぎり、その人が町に着くまで、その手を抑えるように嘆願することになっていた。それは、もしかして罪のない者の血が公正な裁判もなく流されて、復讐者自身が殺人の咎を負う者になってはならないためであった。死ぬに値しない者を死なせた場合、その危険は、もちろん復讐者の頭上にあるからである。
さて、愛する方々。これはキリスト・イエスに至る路を示す1つの象徴だと思う。それは決して律法のような迂回路ではない。この戒め、あの戒め、他の戒めに従え、というようなことではない。真っ直ぐな路、「信ぜよ。そして生きよ」、である。この路は、あまりにも険しいために、自分を義とするいかなる者もそこを踏み歩こうなどとしないほどである。だが、その路は、あまりにも歩きやすいために、自分を罪人と知るあらゆる人がそれによってキリストに、また天国に辿りつけるほどである。そして、誰も道を間違えないように、神は私や、教職についている私の兄弟たちを道標のように立てては、罪人たちにイエスを指し示させておられる。そして私たちが常に願うのは、私たちの唇がこう叫び続けることである。「のがれの町! のがれの町! 《のがれの町!》」 罪人よ。これが道である。そこへ歩き入るがいい。そうすれば、あなたは救われる。
私はこのようにして、この予型の説明を示すことができたと思う。キリストは、真の《のがれの町》であり、あわれみを求めてご自分のもとに逃げてきたいかなる者をも保護してくださる。それは、主が天来の定めによる《救い主》であり、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになるからである[ヘブ7:25]。
II. さて、次のこととして、《私は1つの勧告を与えなくてはならない》。
ぜひ1つの情景を思い描かせてほしい。あなたは、畑に人がいるのが見える。彼は野良仕事をしている。手には牛追い棒を持ち、それを農作業の一部に用いている。不幸なことに彼は、まるで願いもしなかったことに、農夫仲間の心臓を突き刺してしまい、相手は倒れて死んでしまう! あなたは、このあわれな男が顔に恐怖を貼りつけているのが見える。彼に咎はない。だが、おゝ! 自分の足元に横たわる死体を見つめる彼は、何という悲痛さを覚えることか! 彼の心には、あなたや私が決して感じたことのないような激痛が走る。――恐怖と、怯えと、みじめさ! しかり。私たちの中のある者らは、それに近いものを霊的には感じたことがある。――それがいつ、なにゆえにかは、口にすまい。――だが、仲間がいのちを失ってかたわらに倒れているのを眺めている男の苦悶を誰が云い表わせよう? 彼の霊の苦悩は言語を絶している。彼は相手を見下ろす。彼を抱き起こそうとする。――本当に死んだかどうか確かめる。――次に何をするだろうか? あなたに彼が見えるだろうか? 即座に彼は、自分の働いていた畑から飛び出し、全速力で路を駆け出して行く。彼の前には何哩もの、駆け通しで六時間もかかる難儀な道のりがある。そして、門を通り過ぎるときに頭を巡らすと、そこにあの男の兄がいる! 彼はちょうど畑に出て行き、弟が死んで倒れているのを見たのである。おゝ! あなたは、この殺人者の心臓が恐怖のあまりいかに動悸するか思い浮かぶだろうか? 彼はほんの少しだけ先に路に出ている。血の復讐者を見ると、激怒のあまり真っ赤な顔をして、ちょうど畑から走り出て来るところである。あの牛追い棒を手に持って追いかけて来る。道は、死んだ男の父親が住んでいる村を突っ切っている。このあわれな逃亡者が、いかに素早くその通りを駆け抜けてゆくことか! 彼は自分の細君に暇を乞うため立ち止まりさえしない。子どもたちに口づけすることもしない。むしろ、前へ前へと、いのちがけで疾走する。親戚があの男の父親に、また、その別の友人たちに呼びかけるや、彼ら全員が彼を追って走ってくる。今や路には大人数がひしめいている。この男は、なおも先頭切って逃げつつある。休む間はない。彼を追う者のひとりがしばし立ち止まっても、あるいは、引き返していっても、他の者らはまだ彼を追いかけている。その村に一頭の馬があり、彼らはそれに乗って彼を追いかけてくる。もし彼らが、少しでも素早く追跡できる助けとなる動物を見つけられたら、彼らはそれに乗るであろう。あなたはこの殺人者がこう叫んでいるのが思い浮かばないだろうか? 「おゝ、私に翼があったなら、あののがれの町に飛んで行けるものを!」 彼がいかに地べたを足で踏みつけて行くか見るがいい! 彼にとって左右の緑の田畑など何であろう。せせらぐ小川など何であろう? 彼は唇を濡らすために立ち止まることさえしない。太陽は焼きつけるように彼を照らしている。それでも前へ、前へ、前へと彼は走る! 彼は自分の衣を次から次へと脱ぎ捨てる。それでも彼は疾走し、追跡者たちは彼の後ろにぴったりと貼りついている。彼は猟犬に駆り立てられているあわれな牡鹿のように感じる。彼らが自分の血を渇望していることを知っている。いったん彼らが自分に追いついたなら、一言が発され、一撃が見舞われ、自分が死人となることを知っている。いかに彼が急ぎ走っているか眺めるがいい。あなたに今の彼が見えるだろうか? 1つの町が視界に浮かび上がってくる。彼は、のがれの町の住民を遠くから認める。彼の倦み疲れた両足は、これ以上彼を運ぶことをほとんど拒否している。鞭縄のような青筋が、彼の額には浮かび上がっている。鼻の穴からは血が噴き出す。彼は全力を振り絞って突進し続ける。これ以上できないほど早く進もうとする。追跡者たちが彼を追っている。――彼らはほとんど彼をつかもうとした。だが見よ、そして、喜べ! ちょうど彼は、その町の放牧地に達した。そこに町境の線がある。彼はそれを跳び越えて、意識を失って地面に倒れる。だが、彼の心には喜びがある。追跡者たちがやって来て、彼を眺める。だが、彼らはあえて彼を殺そうとはしない。彼らの手には短刀があり、石もある。だが、あえて彼に触れようとはしない。彼は安全である。安泰である。彼の疾走は、十分に間に合ったのだ。彼はいのちの王国へと逃げ込みおおせた。そして、むごたらしく恐ろしい死を免れた。
罪人よ。私があなたに示してきた情景は、一点を除き、全くあなた自身の姿を示している。一点というのは、この男には咎がなかったが、あなたは咎ある者だということである。おゝ、血の復讐者があなたを追っていると知りさえしたら、それはあなたにとって、どんなに良いことか! おゝ! 神があなたに恵みを与えてくださり、今晩あなたに自分の危険が感じられたならどんなに良いことか。そのときあなたは、一瞬も止まることなくキリストへ逃げて行くであろう。あなたは、自分の会衆席に座っている間からさえ云うであろう。「私は逃げて、逃げて、逃げて行こう。あわれみが見いだされる所まで」。そして、あなたは、自分の咎ある霊のための逃げ場を見いだすまで、自分の目に眠ることも、自分のまぶたにまどろむことも許さないであろう。ならば、私がやって来たのは、今あなたにこう勧告するためである。イエスのもとへ逃げて行くがいい、と。
あなたがたの中のひとりの人を、残り全員の見本として取り上げさせてほしい。この場には、咎あるひとりの若者がいる。彼の咎の証拠は手近にいくらでもある。彼は自分がたいへんなそむきの罪を犯してきたことを知っている。彼は神の律法を汚いしかたで破ってきた。若者よ、若者よ。あなたに咎のある間は、血の復讐者があなたを追いかけているのである! おゝ! あの復讐者よ。――神の燃えさかる律法よ。あなたは、今までそれを見たことがあるだろうか? それは、炎のような言葉を発する。火のともしびのような目をしている。もし一度でも神の律法を見ることができたとしたら、また、その恐ろしい剣のすさまじい鋭利さに気づいたことがあるとしたら、あなたは自分の会衆席に座っていながら、自分に差し迫る破滅に恐怖して、死ぬほど身震いするであろう。罪人よ。とくと考えるがいい。もしこの復讐者があなたを捕まえたとしたら、あなたが受けることになるのは単に一時的な死ではないであろう。永遠の死であろう。罪人よ。思い出すがいい。もし律法がその手をあなたにかけたとしたら、また、もしキリストがあなたを救出してくださらないとしたら、あなたは断罪される。では、断罪とは何を意味するか知っているだろうか? さあ、あなたは、永遠の御怒りという波浪がいかなるものか、決して尽きることのないうじ虫がいかなるものか、火の池がいかなるものか、底知れぬ所がいかなるものか告げることができるだろうか? 否。あなたは、こうした物事がいかにすさまじいものか知っているはずがない。あなたに知っていたとしたら、人よ。あなたはすっくと両足で立ち上がっては、いのちがけで、いのち、永遠のいのちを求めて駆け出さずにはいられないに違いない。あなたは、バニヤンの『天路歴程』に出てくるあの男のように、指を耳に入れ、逃げ出して行くであろう。近所の人々が後を追ってきたが、彼は叫んだ。「とこしえの命! とこしえの命!」 おゝ、鈍感な愚かさよ! おゝ、馬鹿げた無知さ加減よ! おゝ、畜生にも劣る愚鈍さよ、人をそのもろもろの罪の中に座り込ませ、得々とさせておくとは! あの酔いどれは、いまだに冒涜しながら、がぶ飲みしている。彼は、いつの日か自分のついた悪態が自分の頭上に戻って来ることを知らない。あなたは行って、上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲み[ネヘ8:10]、陽気で楽しげに生きるであろう。だが、あゝ! あわれな魂たち。もし血の復讐者があなたを追っていることに気づいていたとしたら、これほど愚かにはふるまっていないであろう! あなたはあの男が、自分の隣人を殺した後で、また、復讐者がやって来るのを見た後で、のがれの町が供されているにもかかわらず、平然と座して殺されるの待っていたなどと思うだろうか? 否。そのような途方もない愚行は、あなたのような者のために取っておかれている。神は、それを人類の愚行の中の冠石として、また、自由意志の冠の中で最もまばゆく輝く宝石、自由意志が自らにまとわせる死の衣裳として保持された。おゝ! あなたはキリストのもとへ逃げ去ろうとしないであろう。自分が今いる場所にとどまっているであろう。得々としているであろう。そして、いつの日か、律法はあなたを捕えて、そのとき御怒り、永遠の御怒りがあなたをつかむであろう! のがれの町を目の前にしていながら、また、血の復讐者を後にしていながら、自分の時間を浪費し、無頓着にぶらぶらしている人の何と愚かなことか!
今ここで、別の例を取り上げてみるとする。この場に、こう云っている若者がいるとしよう。「ですが、先生。私などが救われようとしても無駄なことです。私は祈りや、信仰や、そうした類のどんなことについても考えません。私のためには、何ののがれの町もないのですから」。だが、あの隣人を殺してしまったあわれな男が、そのようなことを語ったと考えてみるがいい。彼がそこに座ったまま、手をこまねいて、こう云っていたと考えてみるがいい。「私のためには、何ののがれの町もないのだ」。そのような愚劣さは考えられない。そして、確かにあなたは、自分がいま云ったばかりのことを本気では云っていないに違いない。もしあなたが、自分のためには何ののがれの町もないと考えていたとしたら、私にはあなたが何をするか分かっている。あなたは金切り声をあげ、泣き叫び、呻くであろう。そこには、ある人々の有する、まやかしの絶望でしかない一種の絶望があるであろう。私は、「自分が救われることがありえるなんて信じられません」、と云う多くの人々に会ってきた。そして彼らは、自分が救われようが救われまいが、まるでどうでも良いように見えた。もしあの男が、自分などあの町には入れないのだと空想したため、ただ座して復讐者に殺されるがままになっていたとたら、何と愚かであったろう! しかし、もしあなたがただ座して、「主は私などにあわれみをかけてくださらないでしょう」、などと云っているとしたら、あなたの愚劣さは、それと同じくらい大きく、それ以下である。ある薬が自分を治しはしないだろうと信じて、それを拒否する人間は、短刀を手に取って心臓を突き刺す人と同じくらい自殺者である。方々。あなたには、神の約束に対する勝利を自分の絶望におさめさせる権利は全くない。神はこう云われたのであり、本気でそう云われたのである。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」[使2:21]。もし神が、あなたの咎をあなたに示しておられるとしたら、嘘ではない。あなたのためにはのがれの町があるのである。そこに急ぐがいい。そこに急ぐがいい。願わくは神が、あなたを助けて一目散にそこに行かせてくださるように! おゝ! もし人々が、必ず来る御怒りがいかにすさまじいものか、また、最後の審判の日がいかに恐ろしいものかを知りさえしたら、いかにすみやかに彼らはイエスのもとに逃げ去ることであろう! この場で私の話を聞いている方々の中には、もしキリストから離れている自分の状態がいかに恐るべきものか知りさえしたら、キリストのもとに逃れ行くのを一時間でも遅らせるような人はひとりとしていないであろう。もし聖霊なる神がひとたび私たちに自分の罪を確信させてくださるとしたら、そのときには決して立ち止まっていることはない。御霊は、「きょう、もし御声を聞くならば」[ヘブ4:7]、と云われる。すると私たちは叫ぶ。「きょう、主よ。きょう、私たちの声を聞いてください!」 そのときには、誰ひとり立ち止まってはいない。ただ、いのちがけで前へ、前へ、前へ進むだけである。私は切に願う。兄弟たち。あなたがた、神に対して罪を犯してきた、そして、それを知っている人たち。あなたがた、必ず来る御怒りから救い出されたいと欲している人たち。私は切に願う。死んだが、いま生きているお方[黙1:18]にかけて願う。キリストのもとに逃れ行くがいい。
キリストのもとにこそ逃れ行くよう、用心するがいい。というのも、もし自分の隣人を殺した者が、別の町に逃げていったとしたら、何の役にも立たなかったからである。もし彼が、のがれの町としては定められていなかった町に逃げていったとしたら、いかに猛烈な願いをこめて駆け通したとしても、町の門の内側で殺されたであろう。そのように、あなたがた、自分を義とする人たち。あなたがたは自分の良い行ないに逃げて行くかもしれない。あなたがたはバプテスマを受け、堅信礼を受け、自分の教会に、あるいは、自分の会堂に通っているかもしれない。あなたがたは、どこから見ても善人で、非の打ち所がないかもしれない。だが、あなたがたは間違った町に向かって逃げているのであり、血の復讐者は結局あなたを見つけるであろう。あわれな魂よ! 主キリスト・イエスが咎ある罪人にとって唯一の逃げ場であることを覚えておくがいい。主の血、主の傷、主の苦悶、主の苦しみ、主の死、これらこそ、救いという町の門であり城壁である。しかし、もし私たちがこれらに頼っていないとしたら、どこに私たちの信頼が置かれていようと、私たちの希望は折れた葦のようなものとなり、結局私たちは滅びるに違いない。
この場には、最近覚醒させられたばかりの人がいるかもしれない。その人は、あたかも自分の足元に殺された人の死体が横たわっているのを見ているかのように、自分の罪を見てとるよう導かれたばかりである。私は、神が特別に私を、そうした個々人のもとへとお遣わしになっているように思える。方々。神はあなたに、あなたの咎を示しておられる。そして私を遣わして、あなたのための逃げ場があることをあなたに告げておられる。あなたには咎があるが、神は恵み深いお方であられる。あなたは神に逆らい、反逆してきたが、神は悔い改めて御子の功績に信頼するすべての者をあわれんでくださる。神は、あなたにこう云うよう私に命じておられる。「逃げよ、逃げよ、逃げよ!」 そして、神の御名により私はあなたに云う。「キリストのもとへ逃げよ」。神は私に命じて、決して愚図愚図しないようあなたに警告させておられる。神は私に命じて、死が思いもよらぬときに人々を驚かせるものだとあなたに思い起こさせておられる。神は私に命じて、かの復讐者には容赦がなく、その目には憐れみが浮かばないことを、あなたに請け合わせておられる。彼の剣は復讐のために鍛えられたものであり、復讐せずにはおかない。また神は私に命じて、あなたにこう勧告させておられる。主への恐れにかけて、最後の審判の日にかけて、必ず来る御怒りにかけて、いのちの不確かさにかけて、死の間近さにかけて、今この瞬間にキリストのもとに逃れ行くがいい、と。
疾(と)く、旅人(ひと)よ、行け。夜闇は近く、
安息(いこい)と家は、汝が遠方(はて)にあり、
疾く、旅人よ、行け!しかし、おゝ! 私たちが、「疾く、罪人よ、行け!」、と叫ぶとき、その叫びはいかにいやまして熱心なものであろう! 夜闇が近づいているばかりではない。むしろ、見よ! 血の復讐者が背後に迫りつつあるのである。すでに彼は幾多の者を打ち殺してきた。すでに断罪された魂たちの悲鳴を、あなたの耳に立ち上らせるがいい! すでにこの復讐者は、御怒りの驚異を成し遂げてきた。ゲヘナの咆哮に飛び上がるがいい。地獄の苦悶に驚愕するがいい。何と! あなたは、このような復讐者がみるみる追跡しつつあるときに立ち止まろうというのか? 何と! 若者よ。あなたは今晩、歩を止めるというのか? 神はあなたに、あなたの罪を確信させておられる。ではあなたは、赦罪を求める祈りもせずに、もう一度寝床に入ろうというのか? キリストのもとに逃げて行きもせずに、もう一日過ごそうというのか? 否。私には、神の御霊があなたのうちで働いておられるしるしが見えるように思う。そして、御霊があなたに云わせておられることが聞こえるように思う。「神がお助けくださるなら、私は今すぐキリストに自分をゆだねます。たとい神が私の心にご自分の愛を今すぐ注いでくださらないとしても、私は堅く決意します。キリストが私に目をかけ、その聖霊によって、血で買い取られた私の赦罪に証印を押してくださるまで、私は決して安んずることはしません、と」。
しかし、若者よ。それでもあなたが座したままだとしたら――人が自分の自由意志にまかされたとしたら、そのようにするものだが――、私があなたのためにできることはただ1つ、あなたのためにひそかに泣くことしかない。そして私は実際に泣くであろう。あゝ! あなたは。話を聞いている方々。あゝ! あなたは。屠殺人のもとに引かれていく雄牛でさえ、あなたよりもずっと賢い。その死に向かって行く羊も、あなたほど愚かではない。あゝ! あなたは! 話を聞いている方々。あなたの鼓動が地獄への行進の拍子を取っているとは! あゝ! 向こうにあるあの時計が、布でくるんだ太鼓のように、あなたの魂の葬送行進曲となっているとは! 悲しいかな! 悲しいかな! 短刀が心臓に押し当てられているというのに、あなたが快楽の中で腕をこまねいているとは! 悲しいかな! あゝ! あなたは。いま歌いさざめき、浮かれ騒いでいるあなたの首には絞首索がかけられており、あの致命的な落下が今にも起ころうとしているとは! あゝ! あなたは。自分の道を進みつつ、喜ばしげに、楽しげに生きていながら、失われているとは! あなたを見ていると私は、火焔の回りで踊っている愚かな蛾を思い出す。それは、しばらくの間、自分を焦がしてから、最後にはその死へと飛び込んでいく。あなたもそれと同じである! 蝶々のような衣裳をまとった若い婦人よ。あなたがその回りで飛び跳ねているその炎は、あなたを滅ぼすことになる! 軽く、浮ついた生き方をし、陽気に人生を起こっている若者よ。あなたは踊りながら地獄に向かっている。歌いながら断罪への道を進んでいる。破滅への道をそぞろ歩いている。悲しいかな! 悲しいかな! 悲しいかな! あなたがたが自分の死衣を紡ぎつつあるとは。あなたがたが日々自分のもろもろの罪によって自分自身の絞首台を組み立てつつあるとは。自分のもろもろのそむきの罪によって、自分自身の墓を掘りつつあり、さんざん労苦しては、自分が永遠に焼かれるための薪束を積み上げつつあるとは! おゝ、あなたがたが知恵を得て、このことを悟り、自分の終わりをわきまえるとしたら[申32:29]どんなに良いことか! おゝ! あなたがたが必ず来る御怒りから逃れようとするとしたらどんなに良いことか! おゝ、話をお聞きの方々。必ず来る御怒りのことを考えるがいい、必ず来る御怒りのことを! その憤りの何とすさまじいことであろう。この唇はそれを描写しようなどということはできない。それを考えただけで、この心は苦悶で満たされてしまう。おゝ、話をお聞きの方々。あなたがたの中のある人々は、必ず来る御怒りが本当はいかなるものかすぐにも実証することになるではないだろうか? あなたがたの中のある人々は、もし今あなたの会衆席の中でばったり倒れて死ぬとしたら、地獄に落ちるしかない。あゝ! あなたがたはそれを知っている。それを知っている。否定などしないであろう。私には、あなたがそう知っていることが分かる。頭を垂れているあなたは、こう云っているように見える。「たしかにそうです。私には、頼るべきキリストが全くなく、身に着るべき義の衣が全くなく、望むべき天国が全くありません!」 話をお聞きの方々。あなたの手を取らせてほしい。この世に生を受けたいかなる父親が息子に対していだく真剣な熱情にもまして、私はあなたに切に訴える。なぜあなたは、地獄がほとんどあなたの面前で燃えているというのに、ただ座しているのか? 「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」[エゼ33:11] おゝ、神よ! 私がこの人々を渇望するのは無駄になるしかないのですか? 彼らに説教し続けても、それは彼らにとって「死から出て死に至らせるかおり」にしかならず、「いのちから出ていのちに至らせるかおり」[IIコリ2:16]にはならないのですか? また私は、彼らの地獄をいやまして耐えがたいものとすることしかできないのですか? そうするしかないのですか? いま私たちの話に耳を傾けている人々は、私たちの主が地上におられた時代のコラジンやベツサイダの人々のように、ソドムとゴモラの住民よりもすさまじい破滅を受けなくてはならないのですか? おゝ、あなたがた、自分の自由意志にまかされ、――いかなる者も自分自身にまかされればそうするように――地獄への道を選んでいる人たち。この両の眼は、あなたのための涙でつぶれてしまうがいい。なぜなら、あなたがあなた自身のために泣こうとしないのだから!
これは奇妙なことである。私があなたの魂について案ずる懸念の方が、あなたがあなた自身のために案ずる懸念よりも大きいとは。私の神もご存知であられる通り、あなたがたひとりひとりを救うためなら、私はあらゆる手を尽くすであろう。人間になしうる力の中で、また、人間の研究によって学びうることの中で、もしあなたを地獄から救う手立てとなるためできることがあるとしたら、私が追い求めないものは何もないであろう。だがしかし、あなたは、それが自分にまるで関わりないことででもあるかのようにふるまっている。誰にもまして関わりがあるはずのあなたが。これは私の務めではあるが、はるかにまして、あなたの務めなのである。方々。もしあなたがたが失われるとしたら、覚えておくがいい。失われることになるのはあなた自身なのだということを。また、もしあなたがたが滅びることになるとしたら、私にこう証言させてほしい。私はあなたの血には何の責任もない、と。もしあなたがたが必ず来る御怒りから逃れられないとしたら、私があなたに警告していたことを忘れてはならない。私は、最後の精算の日に、ある人々が自分の頭上に招くであろうような大水が、自分の頭上にやって来ることに耐えられない。だが、残念ながらある人々は――健全な教理を愛している人々の中の一部の人々でさえ――そうした大水を頭上に招いているのではないかと思う。私は、自分の知っているある人々のために震えるものである。彼らは神の福音を、ある意味ではむなしく語っていながら、決して罪人たちに警告しない。私の教会の、ある教会員は、最近私にこう告げた。「私は、誰それの説教を聞いていました。健全な教理の人だと云われています。私は、彼の話を九年も聞いていました。それでいながら私は、その間ずっと劇場通いをしていたのです。私は呪うことも、悪態をつくことも、罪を犯すこともできました。ですが私は、その九年の間、あの人の唇から、一度も警告を聞いたことがありませんでした」。あゝ、何たることか! 私は、私の話を聞いている誰ひとりとして、私の説教についてそのようなことを云わせたくはない。この世は私に、叱、と云うがいい。私にけばけばしい衣裳を着せ、道化を飾るような帽子をかぶらせるがいい。地は私を非難するがいい。満天下の愚か者たちは私をはねつけるがいい。だが私は、私の話を聞いている方々の血について責任がないであろう。私がこの世で求める唯一のことは、自分の話を聞いている方々に対して忠実であることである。もしあなたが罪に定められるとしたら、それは忠実な説教が欠けていたためでも、熱心な警告が欠けていたためでもない。うら若い青年子女たち、白髪頭の老人たち、商人や小売店主たち、しもべたち、父たち、母たち、子どもたち。私は今晩あなたに警告してきた。あなたは地獄の危険の中にある。そして、私の仕えている神は生きておられる。もしあなたが必ず来る御怒りから逃れられないとしたら、あなたはじきにそこに行くことであろう! 覚えておくがいい。イエスのほか何者もあなたを救うことはできない。だが、もし神があなたにあなたの危険を見てとらせてくださるとしたら、また、キリストのもとに逃れる恵みを与えてくださるとしたら、神はあなたをあわれんでくださるであろう。血の復讐者は決してあなたを見つけ出さないであろう。しかり。最後の審判の日に、神の御手から赤い稲妻が閃くときでさえ、そうであろう。のがれの町は、永遠にあなたをかくまうであろう。そして、あなたはイエスとともに天国にあり、勝利と祝福と安泰を得て、キリストの血と義について歌うであろう。このお方こそ、悔悟した罪人たちを必ず来る御怒りから救い出してくださるのである。神があなたがたをみな祝福し、救ってくださるように! アーメン。
罪人の逃げ場[了]
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