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弟子たちに対するキリストの気遣い

NO. 2616

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1899年4月2日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年前半、主日夜の説教


「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。――ヨハ18:8


 このことばがいかなる状況の下で発されたかについて、長々と語る必要はないであろう。私たちの《救い主》は、ゲツセマネの園にご自分の弟子たちとともにおられた。そこへ一団の群衆が、祭司長の命を受けた役人たちとともに主を捕えにやって来た。主は大胆にも彼らの前に進み出るとお尋ねになった。「だれを捜すのか」。彼らは、「ナザレ人イエスを」、と答えた。「それはわたしです」、という主のことばを聞いて彼らは後ずさりし、地に倒れた。そこでイエスは彼らに云われた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。

 さて、私がごく単純なしかたで行なおうと思うのは、まず第一に、この出来事からいくつかの教訓を引き出すこと、それから第二に、私たちの《贖い主》のこの発言において予表されていたと思われる1つの偉大な真理を引き出すことである。

 I. 第一に、《この出来事そのものの教訓を考察しよう》。私たちの《救い主》はこの人々に云われた。「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。

 この事件において、私たちの《主人》は、ご自分が進んで死のうとしていることを証明された。主のこのことばは、非常に強力な命令であったため、弟子たちはそのひとりとして、殺されることはおろか、捕えられることすらなかった。そこにはペテロがいた。自分の剣を抜いて、大祭司のしもべの耳を切り落とした男である。当然彼は、逮捕されるか、殴り倒されるかしていて当然であったと思われる。だがキリストの云いつけはあまりにも力強く、主のこの短慮な弟子の上にはいかなる鉄槌も下されなかった。ペテロとヨハネは彼らの後をつけ、裁判が行われた官邸の中まで入り込んだ。――主の敵たちの虎口に入るようなものである。――だが、二言三言あざけりを受けたほか、全く無傷で立ち去ることを許された。ヨハネはそれ以上のことさえした。彼はローマ兵らの槍の届くところまで行き、キリストの十字架の足下に立って泣いていたからである。だが彼にも、キリストの弟子たちの誰ひとりにも、指一本触れられなかった。――そうする意図がなかったためではない。あなたも思い出すであろうように、彼らに捕まえられそうになったある青年は、服を彼らの手に残して、裸で逃げていったからである[マコ14:51-52]。――これは明らかに彼がキリストの弟子と思われたためであった。ならば、これはキリストの命令の力を示しているのである。この暗黒の時に、主の弟子たちのひとりさえ虐待されず、「このままで去らせ」ることが許された。ならば、もしキリストがただの言葉でご自分の弟子たちを解放された以上、いかにいやまさって主は、ご自分を救うことがおできになったであろう。そして、主がそうなさらなかったことによって見てとらざるをえないのは、主がいかに進んで死のうとしておられたか、ということである。ただの一言で彼らは地に倒れ伏した。もう一言あれば彼らは死の腕の中に投げつけられていたである。だが、私たちの《救い主》は、ご自分を救えたはずのことばをお語りにはならなかった。主は、ご自分を救うためではなく、他の人々を救うために来られたからである。

 「もしわたしを捜しているのなら」。この《救い主》のことばには非常に勇敢なものがある。知っての通り、アダムが罪を犯したとき、神はこの犯罪人を捜さなくてはならなかった。だが、この場面でキリストがご自分の民の《保証人》として立たれたとき、主は捜し出されるのではなく、自らご自分の処刑人たちを捜しておられるように見えた。「もしわたしを捜しているのなら」、と主は云われた。そして主は、「もし」という一言を差し挟まれた。――あたかも、それは彼らが主を捜しているというよりも、主が彼らを捜しているのだと云うかのようであった。――というのも、主は彼らの真っ只中に進み出て、死のうとされたからである。私たちのほむべき主は、ご自分の死の状況をよくご存じであった。主は、その記憶すべき夜、主の晩餐を制定なさったときには食卓に着いておられた。なぜ主はそこで待ち、捕えられてはならなかったのだろうか? しかし、否。決してひるむことのない、「ユダ族から出たしし」[黙5:5]は、前に踏み出して、その敵に大胆に対面された。主は攻撃されるのを待ってはおられなかった。むしろ前進して死に立ち向かい、私たちのためにご自身をおささげになった。いかなる殉教者であれ、このような行為を行なった者はほとんどいない。神は、彼らがその敵どもの手に引き渡されたとき、彼らが死ぬのを助けてくださった。だが私たちの《救い主》は、ご自分の敵たちのもとへ行き、「わたしはここにいる。もしあなたがたがわたしを捜しているのなら、わたしはここに来て自分を明け渡している。わたしは、あなたがたに、わたしを捜す手間をかけさせはしない。わたしを見つけだすために、エルサレムをくまなく捜し回る必要はない。ここにわたしはいるのだ。もしわたしを捜しているのなら、わたしは死ぬ覚悟ができている。わたしを連れて行くがいい。わたしには何の異存もない。『もしあなたがたがわたしを捜しているのなら』、わたしが云いたいのは、このことだけである。『この人たちはこのままで去らせなさい』。わたし自身については、わたしは喜んで死ぬつもりである!」

 ならば、キリスト者は学ぶがいい。あなたの《主人》は、あなたのために、喜んで苦しみをお受けになったのである。主は決してしぶしぶ《救い主》となったわけではない。あなたは時々友人から借金したことがある。だが、その金を受け取るのは、あなたにとって悲しいことであった。相手があなたを物乞いとみなすか、自分の分捕り品を要求する盗人とさえみなしたからである。しかし、あなたがキリストの恩顧を語るときには、このように甘やかな考えがある。それらはみな進んで与えられるのである。霊的にあなたが飲む血、あなたが食べる肉は、決して無理矢理しぼり取られたお慈悲の施しではなく、むしろ、あなたとあなたの兄弟たちに対する、イエスの全く惜しみない、心からの贈り物なのである。ならば、喜ぶがいい。キリストはあなたのために進んで苦しまれたのである。

 第二のこととして、本日の聖句の表面からさえ読みとれるのは、ご自分の民に対するキリストの気遣いである。「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。おゝ! この瞬間における、この《救い主》の心の苦悶がいかほどであったことか。苦難の中にある友人は忘れっぽいものである。非常な悲嘆の中にある人に、あなたのことを忘れないよう期待してみるがいい。そのときのその人は、自分自身の悲痛で心が一杯で、他人のことを考えている余裕など全くない。私は、病気にかかっている人が町通りで私に気がつかなくとも大目にみるであろう。誰かが苦痛と悲しみを背負い込んでいるとしたら、そうした人々が物忘れをすることがあっても、私は容易にその人を赦すであろう。確かに、愛する方々。私たちは、イエスがその悲嘆の時にご自分の弟子たちのことを忘れ果てていたとしても、イエスを無情だとは思うまい。しかし、注意するがいい。主の心がいかに思いやりに富んでおられることか。「もしわたしを捜しているのなら」――わたしはあなたがたがわたしをいかに扱おうと何の文句もない。――だが、「この人たちは」――この弟子たちこそ主が気遣われた唯一の者たちであった。主はご自分のことは全く気遣われなかった。――「この人たちはこのままで去らせなさい」。猛吹雪に襲われた母親が服を脱ぎ、寒くて震えている自分の赤子をそれでくるむかのように――凍てつく風に芯から凍えさせられようと、からだが氷のように冷え切っていようと、わが子が生き延びられさえするなら、何ほどのことがあろうか? 彼女が意識を取り戻した後で、真っ先に思うのは、自らは危うく凍死しかかり、親切な人によってこすり暖められたばかりだというのに、その赤子のことなのである。イエスもそれと全く同じであった。「この人たちはこのままで去らせなさい」。

    正義が われらの 罪に怒りて
    その恐るべき 剣抜きしに
    主は魂(たま)ささげ やいばを受けぬ
    かこつことなく。

    こは神のごと 思いやりなり、
    救主(きみ)は赦しの
    代価(かた)ぞわがみの 血なるを知りても
    その憐憫(あわれみ)を つゆも引かさじ。

    今や主はいと 高きに統べるも
    その愛なおも 大いなるまま、
    カルバリの丘 よく覚えおり
    そを聖徒(みたみ)にも 忘れはさせじ。

彼らは全員が覚えられており、全員がその心にかけられており、今も気遣われている。それゆえ、あなたがた、群れの子羊たち。あなたは気遣われている。あなたは気遣われているのである。足なえ者よ。あなたは覚えられているのである。落胆嬢よ。あなたは愛のまなざしで見守られているのである。臆病な恐怖者よ。あなたがいかなる石につまずこうとも、あなたの《救い主》の愛は尽きることがない。主はあなたを覚えられておられる。主はご自分の最大の悲しみの時にも、ご自分の弟子たちを気遣われたからである。

 次のこととして、この事件から、私たちの《救い主》の知恵を学ぶがいい。主が、「この人たちはこのままで去らせなさい」、と云われたとき、そこには知恵があった。なぜ? なぜなら、彼らは苦しみを受ける備えができておらず、たとい備えができていたとしても、そのとき彼らに苦しみを受けさせることは賢くなかったであろう。というのも、もし彼らがそのとき苦しんだとしたら、彼らは、人間を贖う誉れの、少なくとも一部にあずかったと考えられただろうからである。それゆえ、キリストは、かの非命の丘の上に盗人たちしかいないようにされたのである。主には助け手がいたのだと考える者があるといけないからである。主はひとりで酒ぶねを踏まれた。民のうちに、主と事を共にする者はいなかった[イザ63:3]。それに加えて、この弟子たちは恵みにおいて幼子でしかなかった。御霊の充満を受けていなかった。苦しみを受けるにふさわしい者となっていなかった。それゆえキリストは、「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」、と云われたのである。こうした新兵たちは、まだ戦闘の矢面に立たせてはならない。彼らもやがては、より経験を積み、より大きな恵みを受けることで、勇敢に死ねるようになり、ひとりひとりが順番に殉教者の冠を戴くことになるであろう。だが、今はそうではない。キリストはその時にはご自分の民の命を助けられた。そのとき彼らを死なせるのは賢いことではなかったからである。

 さらにまた、キリスト者たち。あなたの《主人》の模範から、兄弟たちを救えるときには、自ら苦しみの場につくべき義務をも学ぶがいい。おゝ! キリストが、まずご自分の身を危険にさらした精神には、栄光に富むものがある。「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。これこそ、あらゆるキリスト者が捕えるべき精神である。――弟子たちのための英雄的な自己犠牲の精神である。口先だけの信仰告白者は云うであろう。「私はこのままで去らせてください。誰か別の者を捜して殺してください」、と。だが、もし私たちが真にあるべき姿にあるとしたら、私たちひとりひとりがこう云うべきである。「もし私を捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせてください」。私たちの中のいかに多くの者らが殉教を逃れるためなら、自分の兄弟たちが焼かれるのを見殺しにするであろう! しかし、それは私たちの《主人》の精神ではないであろう。いかにしばしばあなたは、わが身さえ無事なら、教会に汚名や恥辱が降りかかっても平然としていることか! いかに頻繁にあなたは、ある兄弟が非常に難儀しながら奉仕するのを見過ごしにしていることか。あなたなら事もなく行なえる奉仕だというのに! さて、もしあなたがあなたの《主人》に似ているとしたら、あなたはこう云うであろう。「『この人たちはこのままで去らせなさい』。もし何か十分な根拠があるのなら、私を苦しめなさい。もし何か骨の折れる奉仕があるなら、私にそうさせなさい。他の人たちは逃れさせなさい。自由に行かせなさい。見よ。私は、この件において喜んで彼らの身代わりになります」。おゝ! 私たちは至る所でこうした精神をより多く必要としている。あわれな聖徒に対してこう云うことのできる精神を。「貧困があなたを追い求めていますね。私はある程度までその不便をになって、あなたが守られるようにしてあげましょう。あなたは病気ですね。私があなたを寝ずに看病してあげましょう。あなたは裸ですね。私があなたに服を着せてあげましょう。あなたは飢えていますね。私が食事をさせてあげましょう。私は自分にできる限りあなたの代わりになってあげましょう。あなたがそのまま去ることができるように」。

 こうしたことが、私たちの《救い主》のことばから学ぶことのできる教訓であると私には思われる。「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。

 II. さて私が第二に注目したいのは、《この事件が予表しているように思われる偉大な教理》である。

 この聖句の次の節に注目してもらえるだろうか? 「それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。』とイエスが言われたことばが実現するためであった」。もし私がこの節との関わりにおいてこの箇所を引用したことがあったとしたら、あなたはそれが引用違いだと私に告げていたことであろう。「何と、先生。これは弟子たちが自由に立ち去るか立ち去らないか、とは何の関係もありませんよ!」 あゝ! もしあなたがそのように云ったとしたら、あなたは完全に考え違いをしていたことであろう。神の御霊は、私たちとは違い、いかに引用すべきかをご存じである。往々にして私たちは、自分の前にある点に直接関係があり、当を得ていると思う聖句を参照するよう聴衆に告げるが、実はそれは問題とは全く無関係なことがある。また、しばしば聖霊は、私たちが不適切だと思う聖句を引用されるが、よくよく吟味してみると、結局その聖句の要点は、問題とじかに関わっていることに気づくのである。これこそ、キリストが永遠を通じてご自分の子どもたち全員にお与えになる救出の手始めであった。そのとき主が、「この人たちはこのままで去らせなさい」、と云われたからには、これは、代償という偉大な行為の予兆であり、象徴であった。その行為によってキリストは、「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」、と云うことがおできになるのである。この点は、もし私たちが、いかにキリストが《摂理》において、また《正義》の法廷においてご自分の民を扱われるかを眺めれば、尊いことと思われるであろう。

 常々思ってきたことだが、キリストがご自分の民のために《摂理》の矢面に立ってくださったからこそ、いま御民のためにはすべてのことが働いて益となっている[ロマ8:28]のではなかろうか。キリストが世に来られたとき、主は霊においてこのようなことを云われた。「あなたがた、野の野獣たち。あなたがたはわたしの民に逆らっている。さて、わたしに逆らうがいい。そして、その後では、この人たちはこのままで去らせなさい」。これは、この古の預言に従ったことであった。「わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結ぶ」*[ホセ2:18]。キリストはこう云っておられると思われる。「石よ。あなたがたはわたしの群れの敵である。いま彼らの《代理者》としてわたしを憎むがいい。わたしに敵対するがいい。そうすれば、こう記されるであろう。『野の石と彼らと契りを結ぶ』[ヨブ5:23参照]」。キリストは、いわば、《摂理》に対してこう云われたのである。「あなたの黒く苦々しい顔をわたしに向けるがいい。あなたの、燃える矢を詰め込んだ矢筒を空にし、このわたしの胸板をそのすべての的とするがいい。あなたの非常に恐ろしい面をわたしに見せるがいい」。だが、「この人たちはこのままで去らせなさい」。

 《摂理》は、その悪をキリストの上に負わせており、今や神の民には善だけしか加えていない。「何と! 先生。善だけですと?」、とあなたは云うであろう。「何と、私は貧乏人ですよ。病気ですよ!」 しかり。だが、それは善でしかない。というのも、それは益となる善だからである。「神を愛する人々……のためには、すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]。キリストは王たちにさえこう云われる。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな」[詩105:15]。「この人たちはこのままで去らせなさい」。地の王たちは、キリストの《教会》を捜し求め、それを滅ぼし、むさぼり食らおうとしてきた。それでキリストは彼らにご自分を見つけさせ、ご自分を殺させ、その死に際に、この王たちに向き直って、こう云われるのである。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな」。主は、苦難や、試練や、悲嘆や、事故や、危険に向かってこう云いつけておられる。「あなたがたはわたしを捜してきた。今、わたしの民はこのままで去らせなさい」。もしキリストが死なれなかったとしたら、私たちは決してこの賛美歌の甘やかさを知ることはなかったであろう。――

    神をおのれの 隠れ場とせば 上なく安けき 住まいをぞ得ん。

あなたや私が隠れ場を持てる唯一の道は、キリストが私たちの苦難の矢面に立ってくださることによってしかない。盾はいかにして私たちを救うだろうか? それが私を救うのは、いかなる打撃も自ら受け止めることによってである。いわば、盾は敵の剣に向かってこう云っているのである。「もしわたしを捜しているのなら、この戦士はこのままで去らせなさい」。そのように、私たちの《盾》にして、神に《油注がれたお方》なるキリストは、《摂理》の矛先を身に受け、その悪と災いを忍ばれる。そして今や主は、主のあらゆる子どもたちに関して、神の神秘的な経綸に向かってこう云っておられるのである。「『この人たちはこのままで去らせなさい』。決して、決して彼らに悪を働いてはならない。むしろ彼らに善だけを行なうがいい」。

 別の思想はこうである。キリストは、ご自分の民のためのこのことばを、《正義》に対してさえ云われた。神の御前で、燃え上がる《正義》はかつて自分の剣を抜き放ち、罪人たちを追い求めて出ていった。そして数多の罪人を見つけ出しては、彼らを穴に投げ込んだ。彼の剣は、罪を犯したすべての者の血に飢えていた。だがそこに、大勢の選ばれた者たちが立っていた。愛によって守られ、恵みによって選ばれていた人々である。そこで《正義》は云った。「こいつらは罪人だ。私は、こいつらも自分のものにしよう。私はこの剣をやつらの心臓に突き立てよう。こいつらは罪人で、滅びなくてはならないのだから」。そのときキリストが進み出て、彼に向かって、「だれを捜すのか」、と尋ねられた。「罪人どもです」、と《正義》は答えた。そこでイエスは云われた。「彼らは罪人ではない。かつては罪人だったが、今や私の義をまとわされた義人なのだ。もしあなたが罪人を捜しているなら、わたしはここにいる」。「何ですと!」、と《正義》は云った。「あなたが罪人なのですと?」 「いや、罪人ではない。だが、わたしは罪人の《代理者》なのだ。あらゆる罪人の咎は私に転嫁された。罪人のあらゆる不正はわたしのものだ。そして、わたしのあらゆる義は罪人のものなのだ。わたし、《救い主》は罪人の《代理者》である。わたしを受けとるがいい」。《正義》はその代償を受け入れ、《救い主》を受けとり、十字架につけ、その十字架に釘づけにした。このお方の苦悶を私たちは聖餐式の食卓で記念するのである。その時にイエスは叫ばれた。「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。このままで去るべき者とは誰だろうか? 何と、その以前のあり方が不義であった当の人々、そして、イエスの頭上に呪いが降りかからなかったとしたら、その末路が滅びとなっていたはずの人々である!

 「この人たちはこのままで去らせなさい」。おゝ、この驚くべきことばよ! 私は、主を見いだすまで、決してその甘やかさを知らなかった。だが、その力をいくらかは知っていた。「それはどういうことです?」、とあなたは云うであろう。何と! 人は、主を知るはるか以前から、キリストの血の力がその人の上にとどまっているのである。「どういうわけですか?」、とあなたは問う。何と、あなたは、次のことが事実であると知らないのだろうか?――

    救いを決意(き)めし主、わが行路(みち)守りぬ。
    盲目(めしい)し悪奴(ぬひ)とて、われ死を弄(もと)めど。

また、そのように、キリストの死の恩恵は、そのいくつかに限り、私たちが主を知る前、私たちが主を愛するようになる前から私たちのものとなっていた。私が《救い主》を知る前に地獄に堕ちなかった理由は、主がこう云っておられたからである。「この人はこのままで去らせなさい。わたしは彼のために死んだのだ」。聖徒よ。あなたはこの二十年間、地獄の中にいた。そのときあなたは新生していなかったからである。だがキリストは云われた。「この人はこのままで去らせなさい。もしわたしを捜しているのなら、彼は罪人ではあっても、このまま去らせるがいい」。そして今、陰鬱な恐れが巻き起こり、暗い考えが私たちの思いに押し寄せるとき、このことを私たちの慰めとしようではないか。私たちはなおも罪人であり、咎あり、よこしまな者ではあるが、同じ御声はこう云っておられるのである。「この人たちはこのままで去らせなさい」。これは命令の「なさい」である。そして、そうした意味で神が「なさい」と云われるとき、誰にそれが妨げられるだろうか? 「この人たちはこのままで去らせなさい」。あなたは、バニヤンの《難儀が丘》を登りつつあり、その頂上には何頭もの獅子がいる。キリスト者よ、この使信を思い出すがいい。「この人たちはこのままで去らせなさい」。ことによると、あなたは巨人絶望者の地下牢に入るかもしれない。ここに、その錠前に合う鍵がある。「この人たちはこのままで去らせなさい」。あなたは《落胆の沼》の中でもがくことになるかもしれない。ここにあなたの足を乗せて、抜け出す助けとすべき踏石がある。「この人たちはこのままで去らせなさい」。なぜ? 彼らが祈るからだろうか? 否。彼らが神に仕えるからだろうか? 否。この命令が与えられたのは、彼らがそのどちらも行なっていないときであった。「この人たちはこのままで去らせなさい」。なぜなら、キリストが彼らに代わって死なれたからである。

 やがて来たるべき日、すぐにも地上にやって来るはずの日には、あなたや私は自分の翼を伸ばし、非常に遠く離れた国へと飛び去って行くであろう。私は自分の想像の中で、からだを離れた後の魂について思い描けるような気がする。信仰者は、自分の生まれ故郷エルサレム――「私たちの母」[ガラ4:26]――へと旅路を急いでいる。しかし、門の外に立っている者がいて、こう云う。「その方には、ここに入る権利があるのか? こう書かれているのだ。『正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住む』*[イザ33:15-16]。その方は、このような者であるか?」 「あゝ!」、とその魂は云うであろう。「私は恵みによってそのような者とされていれば良いと希望します。ですが、私はいつもそうであったと申し立てることはできません。というのも、『私は罪人のかしらです』から」。「ならば、いかにしてその方はここまで来たのか? この門は罪人である者らを決して通すことはないのだ」。このように御使いが談判している間に、1つの声がこう叫ぶのが聞こえる。「この人たちはこのままで行かせなさい」。すると、たちまち天国の門が開け放たれ、キリストが死んでくださったあらゆる魂はパラダイスに入るのである。

 さあ、聖徒よ。この単純な瞑想のしめくくりに、彼方を眺めるがいい。キリストを見るがいい。正義と、復讐と、御怒りとが、みな主を捜している。見よ。彼らが主を見つけた。彼らは主を殺した。主は埋葬される。よみがえる。おゝ! 彼らが主を捜しているのを見るがいい。そして、主の聖餐の食卓に着くとき、こう考えるがいい。「彼らが主を捜したとき、彼らは私をそのまま行かせたのだ」。そして、そのように行かされるのは、いかに甘やかなことか! 私は主の聖餐の食卓に来ることが許されている。なぜ? 彼らが主を捜していたからである。私はイエスとの交わりを持つよう招かれている。なぜ? 彼らが主を捜していたからである。私は恵みによる素晴らしい望み[IIテサ2:16]を受けることが許されている。そして、それにもまさって、「私の住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私は知っています」*[IIコリ5:1]。なぜ私はそのような道を行けるのだろうか? なぜ?それは、彼らが主を捜していて、主を見つけたからである。さもなければ、私は今頃どこにいただろうか? 私の場所は居酒屋の腰掛けの上か、ことによると、あざける者の座[詩1:1]だったかもしれない。また私にはいかなる見込みがあっただろうか? 何と、最後には私は、悪鬼や、底知れぬ所の失われた霊たちとともに、地獄にいるべきであった。だが今の私は義人の通り道、また恵みの道を踏み歩いている。おゝ、なぜ私がそうしているのかを思い出そう。それは、おゝ、彼らがあなたを捜していたからです。尊いわが主よ! 彼らはあなたを捜していました。私の愛する《贖い主》、私の神よ。彼らはあなたの心臓を捜し、それを打ち破りました。あなたの頭を捜し、いばらの冠をかぶせました。あなたの両手を捜し、それを木に釘づけました。あなたの御足を捜し、それを刺し貫きました。あなたのからだを捜し、それを殺して埋葬しました。そして今や吠え猛る獅子[Iペテ5:8]は、いかに私を捜そうとも、私を食い尽くすことはできない。決して私は引き裂かれることはなく、決して滅ぼされることはない。というのも、私は、この天の《王》の甘やかな通行状、「この人たちはこのままで去らせなさい」、を所持しているからである。おゝ、神の子どもよ。これをあなたの通行証として、いずこに行こうと肌身離さず身につけておくがいい! 人々は、外国を旅するときには、この町、あの町を訪れる許可証を携行するものである。この小さな一言を持って行くがいい。イエスにある兄弟姉妹たち。そして、不信仰が行く手を阻むときには、それを取り出して云うがいい。「主は云われました。『この人たちはこのままで去らせなさい』、と」。また、サタンがあなたをさえぎるときには、この天来の命令を突きつけるがいい。「この人たちはこのままで去らせなさい」。また、死があなたをさえぎるときには、あなたの《主人》からの、この甘やかな許可証を取り出すがいい。「この人たちはこのままで去らせなさい」。そして、審きの座が据えられ、あなたがその前に立つときには、この言葉を申し立てるがいい。あなたの《造り主》の前でさえ、これを申し立てるがいい。「私の《主人》は云われました。『この人たちはこのままで去らせなさい』、と」。おゝ、心励ます言葉よ! 私はその一言一言について涙しながら語ることができる。だが、これ以上は云うまい。私は、あなたがたの中の多くの人々が、この言葉の甘やかさを楽しみながら、聖餐台の回りに集まって来てほしいと思う。それは、主のこの恵み深い戒めに従うことである。「わたしを覚えてこれを行ないなさい」[ルカ22:19]。

 

弟子たちに対するキリストの気遣い[了]

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