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不安に満ちた求道者

NO. 2615

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1899年3月26日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年前半の説教


「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい」*。――ヨブ23:3


 このたび私たちは、ヨブについては何も云うまい。この族長のことは割愛して問題とせず、この言葉を、ひとりの罪人の痛む心から絞り出された叫びとして受け取ろうと思う。それは、罪ゆえに自分が失われていること、キリストによって救われるしかないことを見いだした人のあげる叫びである。「ああ、できれば、どこで主に――私の《救い主》に――会えるかを知りたい。その愛と血によって救われるために!」 ある人々によると、人は、望みさえすれば、一瞬のうちに神との平和、また、聖霊にある喜びを得ることができるのだという。こうした人々は、自分の心の中にあるキリスト教信仰については何かしら知っているかもしれないが、他の人々を判断をする資格はないと思う。神は彼らに、信ずることを通して何らかの平安を与えてくださったのであろう。また、たちまち彼らを、喜びの状態へと至らせてくださったのであろう。彼らに、何らかの罪を悔いる心を与え、それから、たちまちイエスにあって喜ばせてくださったのであろう。だが、私の信ずるところ、それはまれなことであって、大概の場合、神はまず石のような心を粉々に砕くことからお始めになる。そして、しばしば何日も、何週間も、時には何箇月もの猶予を置いた後で初めて、ご自分が傷つけた魂を癒し、ご自分が殺した霊にいのちを与えてくださるのである。神の民の多くは、何年間も平安を求めてきたのに、それを全く見いだすことがなかった。彼らは自分のもろもろの罪を知ってきた。自分の咎を感じることが許されてきた。だがしかし、いかに涙をもって熱心に主を求めても、キリストを信じる信仰によって自分が義と認められたと知ることはできなかった。ジョン・バニヤンの場合がそうである。陰鬱な何箇月もの間、彼は見捨てられた者として地上で身を引きずり、自分は失われた者で、キリストから離れていることを知っている、と云った。膝をかがめて祈りつつ、目から滂沱と涙しつつ、あわれみを求めたが、それを見いださなかった。恐ろしい言葉が絶えず彼につきまとった。すさまじい聖書箇所が彼の耳で鳴り響き続けた。だが彼がとうとう慰藉を見いだしたとき、神は、あふれんばかりに豊かな恵みをもって彼に現われ、彼を導いては《救い主》に身をゆだねさせてくださった。

 この場にいるある人々は、長い間、神の御手の下に置かれてきた人だと思う。――天国の間近に近づけられているため、もしキリストによって救われないとしたら、自分はもう駄目だと分かっている人である。私が今から語りかける人々の中には、祈ることをすでに始めた人々がいるであろう。幾度となく、その人たちの私室の壁は彼らの嘆願で満ちてきた。一度や、二度や、五十度すらをも越えて、しきりに彼らは自分の膝をかがめては、悶々と祈りをささげてきた。だがしかし、この瞬間に至るまで、彼ら自身が感じとる限りにおいて、彼らの祈りはかなえられなかった。キリストが彼らに微笑むことはなく、彼らがキリストの尊い血の適用を受け取ったこともない。そして、ことによると彼らはみな、今の時こう云っているかもしれない。「私は絶望のあまり、もうあきらめかけています。イエスは、ご自分のもとに来る者は誰でも受け入れると云いましたが、どう見ても私のことは、はねつけておられるのですから」。しっかりするがいい。嘆く人よ! 私には、あなたに伝えるべき甘やかな使信がある。そして、私は主に祈るものである。あなたが、いま立っているか座っているかしているその場でキリストを見いだし、血をもって買い取られた赦罪を喜べるようになるようにと。

 ここで一歩踏み込んで、ある人の場合を考察してみたいと思う。その人は、覚醒させられ、キリストを求めてはいるが、現在のところ、自分に分かる限りは、まだキリストを見いだしていない。第一に私が注目したいのは、この人の場合に見られる、いくつかの有望なしるしである。第二に示そうと思うのは、なぜ恵み深い神が、悔悟した罪人たちについて、その祈りをかなえるのを遅らせなさるのか、といういくつかの理由である。それから第三のこととして短く示してしめくくりたいのは、これまでキリストを求めていながら、現在に至るまで、それが望みなき求めであることを見いだしてきた人々に対する、いくつかの適切な助言である。

 I. まず第一に注目してほしいのは、《キリストを求めてきながら、まだキリストを見いだしていない、このような人には、非常に有望なしるしがいくつかある》、ということである。

 この聖句を土台とした場合、私は1つの有望なしるしに注意する。すなわち、この人にはたった1つしか目的がなく、それはキリストを見いだすことでしかない、ということである。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 この世の子らの叫びは、こうである。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか[詩4:6]。――この良いもの、あの良いもの、さもなければ、別の良いもの。――五十種類もの良いもの。誰かわれわれに、そうしたものを見せてくれないだろうか」。しかし、息を吹き込まれた罪人は、ただ1つしか良いものを知らず、こう叫ぶ。「ああ、できれば、どこで《神に》会えるかを知りたい!」 罪人は、真に覚醒させられ、自らの咎を感じさせられるとき、たとい印度の黄金を足元に積まれても、こう云うであろう。「あっちへやってくれ。私は《神に》会いたいのだ」。ならば、たといあなたが、その人に肉のあらゆる喜びと楽しみを与ええたとしても、彼はあなたに云うであろう。自分はこうしたすべてを試してみたが、もううんざりだ。彼の唯一の叫びはこうである。「ああ、できれば、どこで《神に》会えるかを知りたい!」

こは決して 満ち足らわせじ。キリストなくば、われは死ぬのみ。

人が自分のあれこれの願望を1つの焦点に合わせるとき、それは1つの祝福である。五十もの相異なる願いをいだいている人の心は、沼沢地の上に広がる、よどんだ水のようなもので、瘴気と疫病の発生源となる。だが、あらゆる願望が1つの経路に流れ込まされるとき、その人の心は清流のようになり、田畑に沿って流れ、それを肥沃にする。幸いなことよ。ただ1つの願いしか有しておらず、その1つの願いがキリストに据えられている人は。たといその願いがまだかなえられていないとしても関係ない。もしそれが彼の願いだとしたら、それは天来のみわざが彼の内側でなされつつあるという、ほむべきしるしである。そのような人は、決して単なる儀式では満足しないであろう。他の人々は神の家に通い、説教を聞いてしまうと、満足する。だが、この人は違う。彼は云うであろう。「ああ、できれば、どこで《神に》会えるかを知りたい!」 彼の隣人は、講話を聞くと満足してしまう。だがこの人は云うであろう。「私はそれ以上のものを欲している。私はその中にキリストを見いだしたい」。他の人は聖餐台のもとに行くであろう。パンを食べ、葡萄酒を飲むであろう。だが、息を吹き込まれた罪人は云うであろう。「どんなパンも、どんな葡萄酒も、私を満足させない。私はキリストを欲している。私はキリストを自分のものとしなくてはならない。ただの儀式など私には何の役にも立たない。私が欲しているのは《救い主》の服ではない。《救い主》ご自身なのだ。そうした事がらなど私には差し出さないでくれ。あなたは、のどが渇いて死にそうな私に、空っぽの水差しを持ち出しているにすぎない。水をくれ。いのちの《水》を。さもないと私は死んでしまう。キリストをこそ私は欲しているのだ」。この人の叫びは、本日の聖句に記されている通りである。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」

 愛する方々。これが今現在のあなたの状態だろうか? あなたにはただ1つの願いしかなく、その願いはキリストを見いだすことだろうか? ならば、主にかけて云うが、あなたは天国から遠くない。あなたの心にはただ1つしか望みがなく、その1つの望みとは、あなたのもろもろの罪からイェスの血で洗われることだろうか? あなたは本当にこう云えるだろうか? 「私はキリスト者になるためなら、自分の持っている何も惜しみません。自分がキリストのご人格と死とにあずかっていると感じられさえするなら、いま私が持っているもの、希望しているもののすべてを投げ捨てるでしょう」。ならば、あわれな魂よ。いかなる恐れをいだいていようと、元気を出すがいい。主はあなたを愛しておられ、あなたはじきに日光の中に出て来て、キリストが人々を解き放ってくださる自由を喜ぶことになるであろう。

 この不安に満ちた求道者には、他にも有望なしるしがある。この人は、この1つの願いを有しているだけでなく、それは強烈な願いなのである。この聖句をもう一度聞くがいい。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」 ここには、「あゝ!」、がある。これは、願いの強烈さを証明している。ある人々は見るからに信心深そうだが、その信心は面の皮一枚以上のものでは決してない。彼らの心まで達していない。彼らは信仰について立派なことが云えるが、決してそれを実感していない。それは心から湧き上がっているものではない。そしてそれは、唇からしか出て来ていない悪い泉である。しかし、私が描写しているこの人物は決して偽善者ではない。彼は自分の言葉を本気で云っている。他の人々は云うであろう。「はい。私たちはキリスト者になりたいです。罪の赦しを受けたいです。赦された者になりたいです」。そして確かに、彼らはそう望んではいるであろう。だが彼らは、罪の中を歩くことも続けたいのである。救われたいとは思うが、罪の中で生きていたいとも思うのである。内股膏薬をしたいのである。自分のもろもろの罪を捨てたいなどとは毛頭願っていない。彼らが欲しているのは、自分の過去のそむきの罪すべてを赦してもらい、それから、それまでと同じような生き方を続けていくことである。彼らの望みは何の役にも立たない。あまりにも薄っぺらなものだからである。だが、罪人が本当に息を吹き込まれると、薄っぺらなものは何1つなくなる。彼の叫びは、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、であり、その叫びは心底から出たものである。

 あなたは、そうした状態にあるだろうか? 愛する方々。あなたの吐息は本物だろうか? あなたの呻きはただの気まぐれではなく、心から出た本物の吐息だろうか? あなたの頬を伝い落ちる涙は、純粋な悔悟の涙、あなたの霊の嘆きを証しする涙だろうか? あなたがこう云っているのが聞こえる気がする。「先生。もし私のことをご存知だとしたら、私にそんなことはお尋ねにならないでしょう。友人たちは、私が毎日みじめな様子だと云いますし、実際に私はみじめなのです。私は屋根裏にある自分の部屋に行き、しばしば神に向かって泣き叫びます。そうですとも、先生。私は誰にも聞かれたくないと思うようなしかたで泣きます。呻きと涙をもって泣きます。神に近づけられたいと願っているからです。私は本気でそう云っているのです」。ならば、愛する方。あなたは救われるであろう。それが本当に心から出た情緒であることがこれほど確かである以上、神はあなたが滅びるのをお許しにならないであろう。その内奥の霊から救いを主に叫び求めた罪人のうち、ひとりとして、前々から神から愛されていなかった者はいない。また、ある人が、その力の限りを尽くして救われたいと願い、切なる祈りをこめて魂の底からそうした願いを呻いたとしたら、その人は決して神から投げ捨てられはしない。神のあわれみは遅れるかもしれないが、必ずやって来る。祈り続けるがいい。神は最後にはあなたの祈りをかなえてくださるであろう。やがてあなたは、「神の栄光を望んで大いに喜」ぶ[ロマ5:2]ことになるであろう。

 しかし、次にやはり注意してほしいことだが、そこでは無知が認められており、これもまた非常に有望なしるしである。「ああ、できれば知りたい!」 多くの人々は自分が何もかも知っていると思っている。その結果、何も知ることがない。確かセネカは、こう云っている。「多くの者は、自分が賢いと思っていなかったとしたら、賢かったであろう。自分が愚かであると知っていたら、賢くなっていたであろう」。知恵の神殿を開く扉の上がり段は、私たち自身の無知を知ることである。自分が何も知らないことをまず教えられていない者は、正しく学ぶことができない。無知のしるしは、この上もなくすぐれた恵みのしるしである。とんでもないことに、あらゆる人は自分が神学博士になれる資格があると考えているように見える。他のいかなる科学についても何も知らない人が、あらゆる科学の中で最大の科学たる神学を完璧に理解していると妄想しているのである。そして、悲しいかな! あゝ! 自分は神の事がらをことのほか良く知っていると考えていながら、一度として神から教えを受けたことがない人々は! 人間の学び舎は、神の学び舎ではない。人は被造世界に立つすべての大学に行けたとしても、その卒業時には、入学時と同じくらい僅かしか神学について知っていないことがありえる。人が、自分は単に学び始めたにすぎないのだと感じること、また、自分の精神を神の御霊の教えに対して喜んで開いて、あらゆることにおいて御霊の導きを受けようとしているのは良いことである。自分は何もかも知っていると思い込むほど愚かな人間は、自分をキリスト者だと考えるには及ばない。自分はあらゆる奥義を理解していると自慢する者は、自分の真の状態について恐れを感じるべきである。だが、息を吹き込まれた魂は、主に向かって、「あなたが私に教えてください」[ヨブ34:32]、と祈る。神が私たちを取扱い始められるとき、私たちは小さな子どもとなる。それ以前の私たちは、大きく、丈高く、おゝ! いかにも賢かった。だが神は、私たちを御手に取り上げたとき、私たちの背丈を子どものように縮められ、私たちは謙遜の姿を身にまとう。そうした後で、私たちは御国の奥義を教えられるのである。幸いなことよ、おゝ、人よ。もしあなたが、自分は何も知らないことを知っているとしたら! もし神があなたから、あなたの肉的な知恵を空っぽにされたとしたら、あなたを天的な知恵で満たしてくださるであろう。もし神があなたにあなたの無知を教えてくださったとしたら、あなたにご自分の知恵を教え、あなたをご自分のもとに引き寄せてくださるであろう。そして、もしあなたが、自分の知識や発見をことごとく拒否することを教えられているとしたら、神は確かにご自分をあなたに啓示してくださるであろう。

 本日の聖句には、言及しなくてはならない有望なしるしがもう1つある。それは、私の語っているこの人は、キリストを見いだすことができさえするなら、どこで見いだすことになろうと全く頓着していない、ということである。愛する方々。あなたは知っているだろうか? 人は、本当に自分のもろもろの罪の重さと咎とを感じるときには、種々の宗派を支持するのに最も不向きな者となるのである。他の人々は、自分の同胞たちと、様々な枝葉末節について争っていられる。だが、あわれな覚醒した罪人は云うのである。「主よ。私はどこであっても喜んであなたとお会いします」。私たちは、自分が罪人だなどとは全く見てとっていなかったときには、この世で最も体裁の良い信心家である。私たちは、教会や会堂の扉の釘一本一本を尊び、いずれの教理あるいは実践の点においても自分と異なる者には我慢がならなかった。だが、自分のもろもろの罪を知るとき、私たちはこう云うのである。「主よ。もし私があなたをどこかで見いだせるとしたら、私は喜びます。もし私があなたをバプテストの集会所で見いだせるとしたら、あるいは、もし私があなたを独立派の会堂で見いだせるとしたら、私は喜んでそこに参ります。私は常に大きくて、見場の良い教会に出席していました。ですが、もしあなたをあの小さな、見下されている集会所で見いだせるとしたら、喜んでそこに参ります。たといそれが私の身分や体裁を下落させることになっても、私はそこに行って私の《救い主》を見いだしたいのです」。ある人々は非常に愚かで、キリストが自分たちの教会以外のどこかに行くとしたら、キリストを自分のものにしない方がましだと考えている。彼らは自分の宗派にしかとどまっていることができず、何としてもその線を越えることができない。

 こう云うと信じがたく思われるが、これは、いま私が話しかけている多くの人々の実体験にすぎないと私は信ずるものである。すなわち、ごく僅かな人々を除き、あなたがたはみな、自分が常々通っていたのとは別の所で主を知るように導かれたのである。回心して以来のあなたは、そこで礼拝してきたかもしれない。だが、それはあなたの父の教会ではなかったし、あなたが生まれ育った教会でもなかった。むしろ、あなたが一時的にとどまっていた、どこか別の場所においてこそ、《王》の矢はあなたの心臓に突き刺さったのである。私は、自分がそうであったことを知っている。私は、自分が最初に主を知るように導かれた会堂へ行こうなどとは一度も思ったことがなかった。だが、雪があまりに激しく降っていたため、いつも通っていた礼拝所に行くことができなかったのである。それで私はやむなく小さな原始メソジスト派の集会に行った。そして、私が中に入ったとき、説教者がその日の聖句を読み上げた。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。それはほむべき聖句であった。そして、私の魂にほむべき適用がなされた。だが、もしも他の場所に行くことについて意固地にこだわるものがあったとしたら、私はそこに行かなかったであろう。それで、覚醒した罪人は云うのである。「『ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!』 キリストがどこで見いだせるかを教えてくれさえするなら、たといその教役者が世界で最も軽蔑されていようと、私は行って彼の話を聞くであろう。彼の属している宗派がいかに悪口雑言を云われ、中傷されているとしても、そこに私は行って主を求めるであろう。キリストを見いだすことができさえするなら、私はどこでキリストに会うことになろうと満足だ」。潜水夫が真珠を引き上げるために深海に潜るのだとしたら、私も、時として深淵に潜っては恵みの尊い宝石を引き出すことを恥じるべきではない。人々は黄金を得るためなら何でもするであろう。いかに泥だらけの濁流の中をも、いかに焼きつけるような日差しの下をも歩こうとする。ならば確かに私たちは、金銀よりも尊いもの、すなわち、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」[Iコリ2:2]を見いだせるとしたら、いかに深く身をかがめようと気にするべきではない。これもまた、あなたが感じていることではないだろうか? ならば、愛する方々。私はあなたについて希望を有するだけではない。むしろ、あなたについて確信を有するものである。もしあなたが、私が言及してきたようなすべての意味において、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい!」、と叫べるように導かれているとしたら、確かに主はあなたのうちで良いわざを始めておられ、それを最後まで成し遂げてくださるであろう。

 II. しかし、ここで私の第二の点として、《なぜ恵み深い神が、悔悟した罪人たちの祈りに対する答えを遅らせるのかという理由をいくつかあげてみたいと思う》。誰かがこう尋ねているような気がする。「どうして神は、人が悔い改めたときすぐに慰めを与えてくださらないのですか? なぜ主は、ご自分の民のある者たちが自由を焦がれ求めているとき、奴隷状態のままにしておかれるのですか?」

 第一のこととして、それはご自身の主権を現わすためである。あゝ! この言葉は、あまり講壇で言及されることはない。神の主権は非常に不人気な教理である。ほとんどの人は、ご自分のお望みのままに事を行なう神のことなど聞きたいと思わない。人の上に立つ絶対君主である神、ご自分のみこころの他いかなる法も認めない神のことなど聞きたがらない。常に正しいことを行なおうとし、ご自分が永遠のいのちに定められた者たちに善を施そうとし、ご自分の被造物すべてにふんだんにあわれみをまき散らそうとする、そのようなみこころのことなど聞きたがらない。しかし私たちは主張するが、この世には神の主権というものがあるのであり、救いのみわざにおいては、とりわけそうなのである。神はこう論じておられるように思われる。「もしわたしが、すべての者に、彼らが求めるなり平安を与えたとしたら、彼らは自分にそれを受ける権利があるのだと思い始めるであろう。では、彼らの何人かは待たせることにしよう。そうすることによって彼らが、あわれみは絶対的にわたしの手中にあること、また、もしわたしがそれ全く差し止めることを選んだとしても、そこにはいかなる不正義もないことを見てとらせるためだ。また、そうすることでわたしは人々に、それがわたしの無代価の恵みであること、彼ら自身のいかなる功績によるものでもないことを見てとらせよう」。わが国の広場のいくつかは、その所有者たちが自分の手にしている権利を守ることに熱心で、時々その門を閉ざすことがある。それは私たちを困らせてやろうと思うからではなく、公衆にこのことを見てとらせたいからである。すなわち、確かに彼らは人々の通行を許してはいるが、人々がその道の所有権を有しているのではなく、持ち主がそう望めばそこから排除されることになるのだ、と。神もそれと同じである。神は云われる。「人よ。もしわたしがあなたを救うとしたら、それは全くわたし自身のこころから出たものなのだ。わたしの恵みをわたしが与えるのは、あなたがそれに値しているためではない。というのも、その場合、それは恵みでも何でもなくなったであろう。むしろ、わたしはそれを最も受ける価値のない者たちに与える。それは、自分の望む通りにそれを施与するわたしの権利を保つためなのだ」。そして、私はこれが、神の主権を証明する最上の方法だと思う。すなわち、神が悔悟と信仰の間、すなわち、悔悟と、神との平和および聖霊にある喜びとをもたらすあの信仰との間に遅れを生じさせなさるということである。これは、非常に重要な理由の1つであると思う。

 しかし別の理由もある。神が時としてご自分の赦しを給うあわれみを人々に現わすのを遅れさせるのは、彼らが何らかの隠れた罪を見いだせるようにするためである。彼らの心の中には、彼らの知らないものが隠れている。彼らは自分のもろもろの罪を告白しつつ神のもとにやって来ては、自分たちのあらゆるそむきの罪について包み隠さず告白したと思う。だが神は、「否」、と云われる。「わたしは、まだあなたに赦罪を与えまい。あるいは、今のところは、それをあなたの良心に当てはめまい。あなたがまだ悟っていない隠れた罪があるのだ」。そして、神はその心にもう一度自らを――エルサレムがともしびをかざして捜されたように[ゼパ1:12]――吟味させられる。そして、見よ! そのとき何らかの不義が、ひそんでいた片隅から引きずり出されるのである。良心は云うであろう。「私は以前はこの罪について全く知らなかった。これが罪であるとは全然感じていなかった。主よ。私はこのことについて悔いています。私を赦してくださいますか?」 「あゝ!」、と全能の《造り主》は云われる。「今やわたしはあなたを調べ、あなたを練って、あなたからこの金滓を追い出した。わたしはあなたに慰藉と慰めのことばを語りかけるであろう」。あなたは、安息を求めながら、それを見いだせずに嘆いているだろうか? 私は切に願う。もう一度、あなたの心をのぞき込んでみるがいい。ことによると、そこには何らかの隠れた情欲、隠れた罪があるかもしれない。もしそうだとしたら、その裏切り者を追い出すがいい。そのとき、聖霊がやって来て、あなたの魂に宿り、あなたに「人のすべての考えにまさる神の平安」[ピリ4:7]を与えてくださるであろう。

 神がそのあわれみを遅らせなさるもう1つの理由は、私たちを後々、格段に用いられる者とするためである。キリスト者は、徹底して用いられる者となるためには、苦しみをくぐり抜けることが絶対になくてはならない。私は、一度も患難に遭ったことのない人によって大した善が施されるとは思わない。私たちは、最初に自分自身の心と生活において証明した真理を後で宣べ伝えなくてはならない。さもないと、それを力強く宣べ伝えることは決してできないであろう。また、たとい私たちが信徒キリスト者であるとしても、自分の同胞たちにとって大いに役に立つ者となりたければ、彼らが忍ばなくてはならないようなものに似た種々の試練をくぐり抜けることが絶対に必要である。それで神は、ご自分の民のある者たちを長い間待たせた上で、彼らの赦罪の現われをお与えになるのである。それは、後の日に彼らが他の人々を慰められるようにするためである。主は、試みられている多くの魂にこう云っておられる。「わたしには、あなたが他の人々にとっての慰藉となることが必要なのだ。それゆえ、わたしは、あなたを悲嘆で飽き足らせ、苦よもぎで酔わせよう[哀3:15]。それは、後の歳月にあなたが嘆く者に出会ったとき、こう云ってやれるようにするためだ。『私も、あなたがくぐり抜けつつあるのと同じ試練を苦しみ、耐え忍んだのですよ』」。誰にもまして他の人々を慰めるのにふさわしい者とは、自分でもかつて慰めを必要としていた人々にほかならない。ならば、元気を出すがいい。あわれな、苦しめられつつある人よ。ことによると、主はあなたを何か偉大なみわざのために予定しておられるのかもしれない。神はあなたを束縛と、疑いと、恐れとの中で意気消沈したままにしておられるが、それは、神があなたをより明確に救い出し、あなたの光を七つの日の光のようにし[イザ30:26]、あなたの義を、さながら「月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」[雅6:10]として引き出すためである。ならば、忍耐をもって待つがいい。神はこの遅れによって、あなたに善をはかっており、あなたを通して他の人々に善をはかっておられるからである。

 しかし、しばしばこの遅れを生じさせているのは、神というよりも、私たち自身である。救いの道に関する無知こそ、もっとよく知っていたならそうならなかったほど長々と、多くの人々を疑いの中に引きとめているものなのである。私はためらうことなく警鐘を鳴らすものだが、罪人にとって最も理解することの困難なこと、それは救いの道である。それは世界中で最も平易なものに思われる。何にもまして単純に見えるもの、それは、「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]、ということである。しかし、罪人が自分を罪人であると感じるよう導かれているとき、彼は思っていたほどそれを理解することが容易でないことに気づく。私たちはある人に向かって、いかにどす黒い罪人であっても、赦罪を受けることはできるのだ、いかなる罪を犯してきた者も、キリストのゆえに価なしに赦されることができるのだ、と告げる。「ですが」、と自分のどす黒さを感じている人は云うであろう。「あなたは、私が雪よりも白くされるなどと云うつもりなのですか? 本当にあなたは、この私、失われている私が、私の行なう何事によってでもなく、また、私が行なおうと希望している何事によってでもなく、ただただ《他のお方》の行なわれたことによってのみ救われることになると意味しているのですか?」 彼はそのようなことが可能であるとはほとんど信じられない。彼は、自分が何かをしなくてはならないはずだと云ってきかないであろう。あれや、これや、他の何かを行なって、キリストを手助けしなくてはならないのだ、と。そして、この世で最も困難なことは、救いが主だけのものであり、人から出た何物でもない、と人に見てとらせることなのである。それが神の無代価の完璧な賜物であり、私たちがつけ足すべきことを何も残しておらず、頭の天辺から爪先まで、私たち自身のものは何1つなしに、すっぽり覆うべく私たちに与えられている、ということを見てとらせることである。人々は、神が彼らに想像させようと望んでもおられないことを思い描くものであり、神が彼らに信奉させようと望んでおられることを受け入れようとしないものである。ある種の治療剤について口にしたり、その記事を読んだりすることは非常にたやすいであろう。私たちは云うかもしれない。「これこれの薬にはとても効き目があるのだな。これこれを治すことができるのか」、と。だが、いざ自分自身が病気にかかると、しばしばその薬について非常に疑り深くなる。そしてもし、それを何度飲み下しても、全然良くならないように思われると、私たちはこう考えるように仕向けられるかもしれない。これは他の人を治すことはできるだろうが、自分を治すことはできないのだ、その働きがこれほど遅れているのだもの、と。それで、このあわれな魂は福音について、「確かに、それは私を癒せないのだ」、と考える。そして、この神聖な薬の性質について完全に誤解しては、福音の代わりに律法を取り上げ始める。さて、律法はいまだかつて誰ひとり救ったことがない。むしろ、これまで、あまたの人々を断罪してきたし、福音を受け入れない限り私たち全員を断罪するであろう。

 もしこの場にいる誰かが無知ゆえに疑いの中にあるとしたら、できる限り平易に福音を述べさせてほしい。私の信ずるところ、福音はほんの一言で要約できる。――《代償》である。私は常々、ルターおよびカルヴァンとともに思っていたが、福音の要諦はこの《代償》という言葉に存している。《代償》――キリストが人の身代わりに立つこと。もし私が福音を理解しているとしたら、それはこういうことである。私は失われ、破滅して当然の者である。私が地獄に落ちずにすむ唯一の理由は、キリストが私の身代わりに罰を受けられたので、同じ罪に対する刑を二度執行する必要がないからにほかならない。それとは逆に、私は、自分が完璧な義を有していない限り天国に入れないことを知っている。私は絶対的に確信しているが、私には自分自身の義などただの1つもない。というのも、私は自分が毎日罪を犯していることに気づくからである。だが、その一方でキリストは完璧な義を有しておられ、こう云われた。「さあ、わたしの衣を取って、それをまとうがいい。あなたは、あたかもキリストであるかのように神の御前に立つことになる。そしてわたしは、あたかも罪人であったかのように神の御前に立つであろう。わたしは罪人の身代わりに苦しみを受けるであろう。そして、あなたは、あなたが行ないもしなかった、むしろ、わたしがあなたに代わって行なった行ないのゆえに報いを受けることになるのである」、と。私が思うに、救いの実質の全体は、キリストが人の身代わりに立つという思想に存している。その囚人は被告席に着いている。まもなく死へ連れ去られていくことになっている。彼が死ぬのも当然である。途方もない重罪人だったからである。しかし、連行される前に、裁判官が、この囚人のいのちを助ける手立ては何もありえないかと問う。そこにひとりの人が立ち上がる。自分自身はきよく完璧で、いかなる罪も犯したことのない人である。裁判官の許可を得て――というのも、それが必要だからだが――彼は被告席に入って、こう云う。「私をこの囚人だと考えてください。私に刑を宣告し、私を死なせてください。この囚人を私であるとみなしてください。私は母国のために戦ってきました。私は、自分の功績のための報いに値しています。彼が善を行なったかのように彼に褒美を与え、私が罪を犯したかのように私を罰してください」。あなたは云うであろう。「そんなことが、この世の法廷で起こるはずがありません」。しかり。だが、それは神の法廷で起こったのである。神が万物の《裁判官》であられる、かの《王座裁判所》の法廷で起こったのである。《救い主》は云われた。「この罪人は死に相当します。彼に代わってわたしを死なせてください。そして、彼にわたしの義を着せてください」。

 その例証として、あなたに2つの実例を示すことにしよう。1つは、古代のひとりの王である。彼は、ある特定の犯罪に対して1つの法を制定した。そして、その犯罪を犯した者の罰は、両目をえぐり出すことであった。ところが、彼の息子がその犯罪を犯してしまったのである。王は厳格な裁判官としてこう云った。「私は、法を変えることはできない。私は、両目を失うことが刑罰であると告げた。では私の片目と息子の片目を取るがいい」。それで、見ての通り、彼は厳格に法を執行したが、それと同時に部分的には息子にあわれみをかけることができたのである。しかし、キリストの場合はそれをさらにしのいでいる。キリストは、「その刑罰の半分をわたしに、半分を罪人に課してください」、とは仰せにならなかった。「わたしの両目をえぐり出してください。わたしを木に釘づけにしてください。わたしを死なせてください。わたしに、その咎のすべてを取り去らせてください。そうすれば、この罪人は自由の身となるでしょう」。私たちは別の事例も耳にしている。それは、ふたりの兄弟の話である。彼らのうちひとりは重罪人であり、死ぬことになっていた。そこへ彼の兄が法廷にやって来た。数多くの勲章で身を飾り、多くの傷跡を残したままの彼は、立ち上がって裁判官を相手に訴えた。どうか自分のために、この犯罪人にあわれみをかけてほしい。それから彼は服を脱ぎ始め、自分の傷跡を見せた。――いかに彼は、母国を守るために、その広い胸板のそこここに軍刀の切り傷を受けてきたことか。「この傷1つ1つにかけて」、と彼は云い、一本の腕を差し上げた。――もう片方の腕は切り落とされていたのである。――「これらの私の傷と、私が母国のために耐え忍んだ苦しみにかけて、私はあなたに切に願います。彼をあわれんでください」。この兄のおかげで、この犯罪人は頭上にのしかかっていた刑罰から逃れることを許された。キリストも全くそれと同じであった。「この罪人は」、とキリストは云われた。「死に値します。ならば、わたしが彼に代わって死にましょう。彼は天国に入る価値がありません。律法を守ってこなかったのですから。ですが、わたしは彼に代わって律法を守ってきました。わたしは彼にわたしの義を与えます。そして、わたしは彼の罪を取りましょう。そのようにして、正しい者が悪い者のために死に、彼を神のみもとに導くことにします[Iペテ3:18]」、と。

 III. 私はこのようにして、この主題からは幾分脇道にそれてしまったが、それは、福音の計画におけるこの本質的な点について、話をお聞きの何人かの方々の精神に存在しているかもしれない、いかなる無知をも取り除くためであった。さて私は、この講話のしめくくりとして、《キリストを求めていながら、まだ一度もキリストを見いだしたことのない人々に対して、いかにすればキリストを見いだせるかに関する、いくつかの助言》を与えたいと思う。

 第一のこととして、こう云わせてほしい。キリストが行くところに行くがいい。もしキリストが再びこの地上を歩くことになり、かつて現世にいたときしていたように病人を癒すことになったとしたら、多くの病んだ人々はこう尋ねるであろう。「キリストは明日どこに行かれますか?」 そして彼らは、主がどこへ出歩くかを突きとめるや否や、その近辺の舗道に身を横たえ、主が通りかかる際に癒してもらえるだろうとの望みをいだくであろう。ならば、病んだ魂よ。キリストの家に出かけるがいい。そこでこそ主は、ご自身の民とお会いになるのである。主のみことばを読むがいい。そこでこそ主は、数々の甘やかな約束を御民に適用し、彼らを祝福なさるのである。主の儀式を守るがいい。それらをないがしろにしてはならない。キリストはベテスダの池に来られる。では、その水辺に横たわり、主が到着するまで待っているがいい。あなたが自分の足を入れることができないとしても、キリストが来られる所にいるがいい。トマスが祝福を受け損なったのは、他の弟子たちのもとに《主人》が来られたとき、彼らとともにいなかったからである。神の家から離れていてはならない。あわれな、求める魂よ。扉が開いているときには、いつでもそこにいるがいい。そのようにすれば、イエスが通りかかるとき、あなたに目をとめ、こう仰せになるかもしれない。「あなたの罪は赦されました」[ルカ5:20]。

 また、あなたが他に何をするとしても、キリストが通りかかるときには、声の限りを尽くしてキリストに叫ぶがいい。主を立ち止まらせるまで、決して満足してはならない。そして、たとい主が一時的にはあなたを渋面で見るように思われても、口をつぐんだり、押しとどめられてはならない。もしあなたが、ある説教によって多少は心をかき立てられることがあるとしたら、その説教のことについて祈るがいい。幸先の良い瞬間を取り逃がしてはならない。もしあなたに何らかの希望を与えてくれるようなことが読み上げられるのを聞いたとしたら、すぐさま祈りによってあなたの心を掲げ上げるがいい。風が吹くときにこそ出帆すべきである。そして、ことによると、神があなたに恵みを与えて、港口まで行き着かせてくださり、あなたは永久の安息という港を見いだすことになるかもしれない。生まれつき盲目であったひとりの男がいた。彼は目が見えるようになることを切望していた。ある日、道路沿いに座っていると、イエスが通りかかると告げられた。そこで彼は、そう聞かされるなり、イエスを求めて叫び出した。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」[マコ10:47]。人々はキリストの説教を聞きたかったので、このあわれな男を黙らせようとした。だが彼は再び叫んだ。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。ダビデの子は振り向かなかった。その男を見もせずに、その講話を続けた。それでもなおも男は叫んだ。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。そのとき、イエスは立ち止まった。弟子たちがこのあわれな男のもとへ走りより、「静かにせんか、先生の邪魔をしてはいかん」、と云ったが、彼はますます大声で叫んだ。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。そこでイエスがとうとう彼に尋ねた。「わたしに何をしてほしいのか」。彼は答えた。「先生。目が見えるようになることです」。彼は見えるようになり、「イエスの行かれる所について行った」。ことによると、あなたのもろもろの疑いは、あなたに云うかもしれない。「叱! これ以上祈ってはならない」。あるいは、サタンが云うかもしれない。「静かにせんか。これ以上キリストに叫んではならん」。だがあなたの疑いや、恐れや、悪魔にはこう告げるがいい。自分は、キリストが愛のこもった眼差しを自分に向け、自分の病を癒してくださるまで、休みなくキリストを呼び立てるつもりだと。おゝ、あなたがた、覚醒された罪人たち。主が通りかかられるときには、主に向かって大声で叫ぶがいい!

 私があなたに与えたい次の助言は、こうである。キリストのことを大いに考えるがいい。私の知る限り、何にもましてあなたにキリストを信ずる信仰をもたらす方法は、キリストについて考えることである。あなたがた、良心に責められている罪人たち。私はあなたが、一時間を費やしてキリストについて思い巡らすよう助言する。その時間をあなた自身について思い巡らすために使う必要はない。そうしても、ほとんど何の善も引き出さないであろう。あなたは、前々から自分のうちには、自分のための何の希望もないことを知っていたであろう。むしろ、一時間を費やしてキリストについて思い巡らすがいい。愛する方々。あなたがひとりになれる、最も奥まった所へ行き、座して、あの園におられたキリストを思い描くがいい。そこで、あたかも大粒の血のような汗を噴き出させ、地に突っ伏しておられる主の姿を見ているものと思うがいい。それから、ピラトの官邸に立っておられる主の姿を見るがいい。両手を縛られ、背中から血を流しておられる主を眺めるがいい。それから、主の後について行き、カルバリと呼ばれる丘をお上りになるのを見るがいい。主が仰向けに投げ倒され、木に釘づけられる姿を見ているものと思うがいい。それからあなたの想像力をして、あるいはむしろ、あなたの信仰をして、あなたの前に十字架を掲げ上げ、それを軸受に打ち込むがいい。そこでキリストの骨々はみな、はずれたのである[詩22:14]。主を仰ぎ見るがいい。そのいばらの冠を仰ぎ見るがいい。そして、玉なす血の滴が頬を伝い流れるのを眺めるがいい。

    見よ、主のみかしら、御手と御足を
    悲しみ恵みぞ こもごも流る!
    いまだかくなる 恵み悲しみ、
    いばらの冠、世にぞありしか!

    主の死に給う 真紅(あけ) 外衣(きぬ)のごと
    木の上(え)のからだ おおいたり、
    かく我れ全地(つち)に 全(また)く死に
    全地(つち)我れにとり 死に失せぬ。

私の知る限り、神の下にあって、信仰を生み出すため何にもまして有益なのは、キリストについて考えることである。というのも、あなたが主を仰ぎ見ている間、あなたはこう云うだろうからである。「ほむべきイエスよ。あなたが罪人たちのために死なれたのですか? ならば、わが魂よ。確かに主の死はお前のために十分であるに違いない」。主は、ご自分に信頼を置く者すべてを完全に救うことがおできになる。あなたは、たといある教理について永遠に考えていても、すでに救われていないとしたら、そこから何の善も得ないことがありえる。だが、キリストのご人格について、また、特にその死について考えるがいい。それはあなたに信仰をもたらすはずだからである。あなたがどこへ行こうと、どこででもキリストのことを考えるがいい。あなたのあらゆる手すきの時間に、キリストについて思い巡らすがいい。そのとき、キリストはご自分をあなたに啓示し、あなたに平安を与えてくださるであろう。

 私たちの中の誰ひとりとして、否、最上のキリスト者でさえ、キリストについて十分に考えたり語ったりしてはない。私はある日、ひとりの友人の家の中に入った。すると彼は私に、ある種の遠回しと思われるしかたでこう云った。「私は、誰それのことは、この三十年間知っていますが、その信仰については全く聞いたことがありませんよ」。私は云った。「私と知り合う人は、三十分もしないうちに、私の信仰について何かを聞かずにはすまないだろうね」。事実、キリスト者である多くの人たちは、日曜日の午後を、他のあれこれの主題について語ることに費やし、イエス・キリストのことはほとんど全く口にされない。もちろん、あわれな不敬虔なこの世の子らについて云えば、彼らはキリストについて何も云わず、何も考えない。だが、おゝ、自分が罪人であると知っているあなたは、かの《悲しみの人》[イザ53:3]を蔑んではならない! その血を流す御手があなたの上に置かれるようにするがいい。その刺し貫かれた脇腹を眺めるがいい。そして、そのように眺めている間に、あなたは生きるであろう。というのも、思い出すがいい。ただキリストを仰ぎ見ることによってのみ、私たちは救われるのであり、自分で何かを行なうことによって救われるのではないからである。

 そこから私はしめくくりに、あらゆる覚醒された罪人に向かってこう云うものである。――もしあなたが神との平和を得たければ、それも、いま得たければ、キリストに賭けるがいい。私たちはキリストに身を賭さなくてはならない。それも全くそうしなくてはならない。さもなければ、決して救われることはできない。だが、賭すという云い方は到底正しいものではありえない。というのも、これは何の賭け事でもないからである。そこに危険なものは微塵もない。自らをキリストにまかせる者は決して恐れる必要がない。「ですが」、とある人は尋ねるであろう。「どうすれば私はキリストにまかせることができるのですか? キリストにまかせるとはどういうことなのですか?」 何と、私はいま云った通りのことを意味しているのである。キリストが罪人たちの救いのために行なわれたことに完全に頼るがいい。ひとりの黒人が、どのように信じているのかと問われてこう云った。「旦那様、おらの信じ方はこうですだ。おらは御約束の上にべたっと寝そべってますだ。それより下には落ちていかねえですだ」。彼は、まさにイエスを信ずることについて正しい考え方をしていた。信ずるということは、キリストの上に身を投げ出し、キリストがあなたを支えてくださるのを当てにするということである。このことを私は、これまで何度も語ったことのある1つの逸話によって例証しよう。ひとりの少年が船に乗っていた。帆柱上りが大好きな彼は、ある日、大檣楼に登って降りられなくなった。海は非常に荒れており、もうしばくすれば、少年は甲板に転落し、ぐしゃぐしゃに潰れてしまうだろうと見られた。彼の父親は息子のいのちを救える唯一の方法を見てとった。拡声器をひっつかむと彼は叫んだ。「坊主、次に艦が傾いたら、海に飛び込め」。次に船が傾いたとき、この少年は下を見下ろしたが、海に身を投げるという考えにぞっとして、まだ帆柱にしがみついていた。父親は、息子の力がすぐにも尽きてしまうことを見てとり、銃を手に取ると、こう叫んだ。「坊主。次に艦が傾いたとき海に飛び込まないと、俺がお前を撃つ!」 少年は父親が本気で云っていることが分かり、次に船が傾いたとき、海に飛び込んだ。これで確実に御陀仏かと思われたが、筋骨逞しい十数人もの男たちが海に飛び込み、彼は救われたのである。罪人は、嵐の最中で、自分の良いわざという帆柱にしがみつき、それで救われなくてはならないと思う。だが福音は云う。「あなた自身のわざを手放し、神の恵みという大海に飛び込みなさい」。「いやです」、と罪人は云うであろう。「私と神の恵みの間は、遠く離れています。恵みに頼るなんてことをしたら、もうおしまいです。私は何か別のものに頼らなくてはなりません」。「もしあなたがそれとは別の何かに頼るとしたら、あなたは失われますよ」。そこへ雷鳴を轟かす律法がやって来て、罪人にこう告げる。あらゆる頼みの綱を手放さない限り、お前は失われる、と。それから幸いにして罪人がこう云うときがやって来る。「愛する主よ。私は自分のあらゆる頼みの綱を手放し、あなたに身をゆだねます。イエスよ。私はあなたを、自分の人生の唯一の目的としま、私の唯一の頼り、私の魂の避け所とします」。あなたがたの中に誰か、心の中でそう云える人がいるだろうか? 私は、あなたがたの中のある人々はそう云えることを知っている。だが、この場に来たときにはそう云えなかったのに、今はそう云えるという人が誰かいるだろうか? おゝ、もしそうした人が神のもとに至らされるとしたら私は喜ぶであろう! 私は、自分に願えたほどには、あなたに説教してこなかったことを自覚している。だが、もしひとりでもそうした人が《救い主》を信じて、信頼するように至らされたとしたら、私は喜ぶ。というのも、それによって神の栄光が現わされるからである。

 しかし、あゝ! この場を出ていって、こう云うであろうあなたは! 「あの男は救いについて話してたが、それがわれわれに何の関係があるんだ?」 あなたは、きょうは神とその福音を笑い飛ばして差し支えないと考えている。だが、覚えておくがいい。人々は、自分の乗船が嵐の中で沈没しかかっているときには、端艇を馬鹿にできないのである。陸の上でそうできるとしても関係ない。死はあなたに追い迫っており、すぐにあなたを捕まえるであろう。あなたの脈拍はじきに打つのをやめるであろう。今のあなたは強壮でも、あなたの骨々は青銅ではなく、あなたの肋骨は鋼ではない。遅かれ早かれ、あなたは自分の粗末な藁布団の上に横たわり、息を引き取らなくてはならない。もしあなたがたいへんな金持ちだとしたら、帷を巡らした寝台の上で死ぬに違いなく、自分のあらゆる楽しみから離れて永遠の罰へと入るに違いない。あなたもそのときには、キリストを笑い飛ばすことが非常に難しいことに気づくであろう。そのときには、キリスト教信仰をあざ笑うのが恐ろしいことであると気づくであろう。その日、死はあなたをむんずとつかみ、問うであろう。「今でもお前は笑うのか? あざ笑う者よ?」 「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「私が考えていたのとは違うことが分かりました。私は、死が身近にいる今は笑うことができません」。ならば、警戒するがいい。死がやって来る前に警戒するがいい! 火災に遭う前から自宅に保険をかけておかない者は、あわれな無知な人間である違いない。また、最期の瞬間になるまで、そして、自分のいのちが危険にさらされるまで、自分の魂の救いを求めることなど不必要だと考えているのは、最大の馬鹿者に違いない。願わくは神が、あなたに事をよくよく考えさせてくださり、あなたが導きを得て罪から逃れ、イエスのもとに逃げて行けるように。そして、願わくは、永遠の父なる神があなたに、私には与えることのできないもの――その御恵み――を与えてくださるように。神の恵みだけが魂を救い、罪人を聖徒とし、彼らを天国に行き着かせるのである! 結びとして私は、福音のこの言葉を繰り返すことしかできない。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。このように云いさえすれば、それ以上何も云わなかったとしても、私はキリストの福音をあなたに宣べ伝えたことになるのである。願わくは主があなたに、すべての事がらを理解させてくださり、あなたを助けて信じさせてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

不安に満ちた求道者[了]

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