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失われたキリストが見いだされる

NO. 2611

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1899年2月26日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年前半、主日夜の説教


「両親は……イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。――ルカ2:44-46


 少年イエスはその両親にとって何と尊い宝であったに違いないことか! あなたがた、わが子を愛している人たち。それも、わが子が自分の子だからというだけでなく、その子のうちに天来の恵みを示す特徴があることに気づいているがゆえに愛している人たちであれば、少年イエスがいかに大切な存在であったかについて、いくらかは想像がつくであろう。超自然的なしかたでその母のもとに生まれた主に、母の心は据えられていた。また、主について御使いにより、シメオンにより、アンナによって語られたすべての驚くべきことの後で、彼女が大きなことを期待したとしても無理はない。(とはいえ、彼女は実際、期待していた以上のものを受けとったのだが)。ヘロデの剣や、エジプトへの逃亡や、アケラオの冷酷さといった、主の両親が主のためにさらされた危険や困難について考えるとき、主が彼らにとって非常にえり抜きの宝であったとしても不思議はない。主は、彼らが注意深く面倒を見、よく守り、保護すべき宝であった。彼らは、もしも主を失うようなことがあったら、いかに恐ろしいことになるか感じていた。彼らは主の価値を知っていた。少なくとも、私たちの主イエス・キリストの完璧な人間性に常に伴わざるをえない、測り知れない価値の何がしかは察していた。

 それゆえ、あなたは、彼らが主を見失うなどということがあったことに驚愕しないだろうか? 彼らがほんの一分でも自分の目の届かないところに主を行かせたというだけでも、少なからぬ驚きと思われる。いくら主がしっかりした子だったとしても、主は彼らの心にとってあまりにも愛しい子どもであり、主のそばにいることは彼にとってあまりにも大切であったため、主の母が自分のそばから主をよそへやることなど、ほぼ一瞬もありえなかったと思われるであろう。あなたはまず想像もしなかったであろう。エルサレムに集まっていたような群衆のただ中で、彼女が主を一時でもひとりにしておいたなどとは。あなたは云うであろう。確かに彼女はこの尊い宝を四六時中見張っていようとするはずである。もし彼女がその子を見失いかねないような場所に連れて行くとしたら、彼女は、その子を連れ帰るまで、一心不乱に見守り続けるであろう、と。だがしかし、マリヤは息子を見失った。――エルサレムで見失った。――その子を見失ったことに気づくまで、一日の道のりを行きさえした。驚愕してはならない。おゝ、信仰者よ。マリヤが息子を見失ったことに、唖然としてはならない。あなたにも、それと全く同じくらい尊い宝がある。それは、同じこのほむべきお方である! イエス・キリストはあなたのものである。あなたの息子ではないが、あなたの《兄弟》である。あなたの子ではないが、あなたの《友》である。否、それ以上に、あなたの《救い主》である。霊的にあなたのものであり、尊い経験によってあなたのものであり、恵み深くも自らを寄贈してくださったがゆえにあなたのものであり、多くの時期に主があなたと保ってくださった幸いな交わりによって、あなたが甘やかに清新にされたがゆえにあなたのものである。それでも、あなたがたの中のある人々は主を見失ったことがある。――主がともにおられなくなったことがある。だが、主があなたを捨てたことはない。主の愛に満ちた心は、なおもあなたに対して不変に同じである。主を失ってしまったあなたは、以前の喜びを思うにつけ、クーパーのこの短詩に力を込めて声を合わせることができるであろう。――

    わが知る幸(さち)は いずこにありや
    主を見そめしときに 知りしかの幸は。
    いずこにありや たましい活かす
    イェスとみことば 示せし眺めは。

    いかに安けき 時のありしか!
    その追憶の いかに甘きか!
    されど今 そは 悲痛な空虚、
    この世は決して そを満たしえじ。

あなたがキリストを見失うとはいかなることか? あなたは決して主から離れまいと思われて当然であろう。このような悪の世界において、サタンが常にあなたを主から奪い去ろうと窺い、一万もの敵が主をあなたから引き離そうと努めている以上、――また、このように尊い《救い主》がおられ、そのご臨在がきわめて甘やかで、そのことばがきわめて美しい調べで、この方とともにいることがあなたにとってきわめて愛しいことである以上、――あなたは、あらゆる瞬間にこの方を見張り、決してこの方が自分からはぐれないようにするはずだと考えられて当然であろう。しかし、悲しいかな! あなたは主を行かせてしまった。あなたのイエスはあなたから去ってしまい、あなたは主を捜し求めて叫んでいる。「ああ、できれば、どこで主に会えるかを知りたい!」*[ヨブ23:3] また、もしかするとあなたは、自分が主を失ったことに気づくまでに、何日もの道のりを行ってしまったかもしれない。あなたは主がまだ自分の魂の中におられると思っていたが、実は主はあなたから退き、一時の間あなたを離れ、いかにあなたが主を大いに必要としているかを悟らせようとしておられる。あなたが心の底から再び主を捜し求めるようになるようにと。

 それゆえ、あなたに向かって私が語りかけたいのは、この物語には特にあなたにとってふさわしいものがあると思うからである。そこにあるのは、第一に、キリストを失うこと、第二に、キリストを捜し求めること、そして第三に、キリストを見つけ出すことである。

 I. 第一に私は、《キリストを失うこと》について語りたい。手始めに云いたいのは、《贖い主》にとって非常に愛しく尊い魂たちは、それでも、意識において、主の臨在を享受することを失うことがありえるということである。主の母は主を見失った。主の父は主を見失った。彼らは主にとって非常に愛しい人々であり、主は彼らにとって非常に愛しい者であった。だが彼らは主を見失った。主の愛する民の多くは、その《救い主》を見失ってきた。完全に失ったのではない――それは決してありえない――たとい彼らが木の葉を失っても、彼らの随は彼らの中にある。聖なるすえこそ、彼らの敬神の念の髄である[イザ6:13 <英欽定訳>]。だが彼らは、目に見える主の臨在を失った。むろん彼らは、主にとって愛しい者たちである。それは、彼らがシメオンのように[ルカ2:28]主を腕に抱き、熱烈な愛情をこめて主に口づけしたときと変わることがない。聖徒の中の最上の者たちでさえ、時には神の御顔が隠され、太陽の輝きが見えない暗闇の通り道を歩かされることに耐えなくてはならなかった。ここでしばし立ち止まり、そうした例のいくつかを示すのが良いだろうか? 私は聖書の中に、そうした多くの者らを見つけては、あなたに示すことができよう。だが、そうする代わりに、あなた自身の心の中にそうした者らを見つけ出させてほしい。あなたがたの中に誰か、長いこと主を知っていながら、時として私たちの《救い主》がいなくなられたのを嘆き悲しまなかった者がいるだろうか? つがいを見失った鳩が、それが戻って来るまで慰められないように、私たちはひとり寂しく座っては、自分の嘆きと呻きを注ぎ出していた。私たちは、哀調に満ちた調べで歌った。――

    戻れよ、聖き御鳩よ、戻れ、
    甘き安息(やすき)の 使者(みつかい)よ!
    我れは憎まん、汝れを嘆かせ、
    我が胸より汝(な)を 追いし罪をば。

私たちは主に戻ってきてくださいと叫んだが、主は御顔を私たちから隠し、ご自分を暗い密雲の中に隠しておられた。ご自身を私たちに現わそうともなさらなかった。

 この大きな悩みが真のキリスト者を最初に驚かせるとき、その人は普通、そこからこのような結論を引き出す。――「私は主の子どもではないのだ。さもなければ、私は常に主の愛の微笑みを有していたはずだ」。それは誤った結論である。不信仰の論理であり、偽りの論理であり、それゆえ、その結論は正しくない。子どもは常に父親から微笑んでもらえるとは限らない。たとい最愛の子であり、大のお気に入りであってもそうである。その子は、父親の心にかなった子であり、父の愛し子であり、父の腰から出たのと同じくらい父の魂の奥底から発した子であるが、それでもその子が常に父親から微笑みや甘やかな言葉をかけてもらえるとは限らない。時にはキリスト者家庭においてさえ、賢明な親の愛に満ちた口から厳しい言葉が発されなくてはならない。それゆえ、キリストから微笑みかけられていない魂はキリストから捨てられたのだ、と推測するのは公正ではない。おゝ、そう結論してはならない。あなたがた、苦悩する人たち。あなたがた、恵みの証拠を失ってしまった人たち。自分の《主人》の慰めに満ちた臨在を失ってしまった人たち。主が愛のまなざしを閉じてしまったように思われるとき、そのあわれみのの心をも閉ざしておしまいになったのだと結論してはならない。「わたしは眠っていたが、心はさめていた」*[雅5:2]、と主は云われる。「わたしは、あなたから目を閉ざしたが、わたしの心はなおもあなたを愛している。わたしは鞭を取ってあなたを打ったが、わたしの心は、その最も奥まった所では、なおもあなたの名前が彫り刻まれている。わたしはあなたを離れず、また、あなたを捨てない[ヘブ13:5]。わたしはあなたを捨てなかった[イザ41:9]。きびしく懲らしめたが、死には渡さなかった[詩118:18]。雲は太陽を消し去ったのではない。あなたは再び光を見るようになる。わたしは、やがてあなたを照らし、もう一度わたし自身をあなたに現わそう」。キリストの臨在の意識的な実感が失われ、主との交わりが一時中断することは、キリスト者経験の非常に不快な、また非常に悲しい部分である。だが、気をつけるがいい。それがしばしば真のキリスト者の経験であり、神の子どもたちの中の最上の人々、また最も際立った恩顧を受けてきた人々の何人かは、そうした経験を忍ばなくてはならなかったのである。

 さて、イエスの両親がどこで主を見失ったかに注意していただきたい。彼らは主をエルサレムの祭礼の中で見失った。そして、もしあなたがあなたの《主人》とともにいることを失うようなことがあるとしたら、おゝ、キリスト者よ。大概の場合、あなたはそれを祭礼において失うであろう。わたしは決して、葬儀では、わたしの《主人》とともにいることを失わない。それが非常にありがちなのは婚礼においてである。私は、喪中の家では、また、病床や臨終の床のかたわらでは、決して私の《救い主》の臨在を失ったことがない。だが時として、私の主との交わりが中断されるのを感じるのは、私の耳の中でリュートやヴィオルが鳴り響き、喜びや楽しみが支配していたときである。私たちの最も幸いな瞬間は、私たちの最も危険な瞬間である。最も美しい仙人掌――花々の中で最も麗しいもの――が生えているところには、最も猛毒を有する蛇が見いだされると云われる。そして、まことに私たちの楽しみの間には、私たちの危険が見いだされる。クレオパトラが花々の篭に入れられた眼鏡蛇を差し出されたように、私たちにも、喜びの中に入れられた多くの眼鏡蛇が持って来られているのである。あなたが喜んでいるときには用心するがいい。信仰者よ。あなたにとっては、悲しみの折の方が安全なのである。

 嵐はキリスト者にとって最も安全な航海となるが、凪はキリスト者にとって旋風よりも恐ろしいものとなる。大水の底に岩礁はないが、楽しげにさざ波を立てている浅瀬は、私たちの人生という海の難所である。大海原のはるか彼方に乗り出し、一円が水平線となって、何も視界に入らないとき、船はめったに大きな危険に遭わない。だが、水夫の目を喜ばせる白い断崖が切り立った岸辺の近くでは、舵手は自分の舵に細心の注意を払わなくてはならない。あなたが苦難の中にあるとき、神はしばしば特別のしかたであなたとともにおられる。だが、あなたが喜びの中にあるとき、必ずしも神はあなたとともにはおられない。ヨブの息子たちは、祝宴の中に危険があることを学んだ[ヨブ1:18-19]。神の子らは、あれほどすさまじいしかたで同じ教訓を学ぶことはないかもしれないが、非常に嘆かわしいしかたで学ぶことになるかもしれない。ダビデは、病床に伏していた方が、夕刻のそよ風の中で宮殿の屋上をそぞろ歩きしているよりもよかったであろう[IIサム11:2]。そして、あなたにとっても、燃える患難の炉に投げ入れられ、そこで精錬された方が、幸福の牧草地に寝そべるままにされて、陰険な敵の手で毒薬を耳に流し込まれるよりもましであろう。あなたの喜びに用心するがいい! 祭礼の中では、他のどこよりもキリストを見失う恐れがある。あなたは若いキリスト者であり、今週どこかの祝宴に出かけようとしている。自分がすることに注意するがいい。私はあなたに向かって、――行くな、とは云うまい。もしあなたが、そこに行くことに神の祝福を願えるとしたら、行くがいい。だが、このことだけは云っておく。――注意するがいい。注意するがいい。気を配り、気をつけるがいい! そこに着いたら、あなたの帆を縮め、控えめにすることである。自分ひとりでいるときなら、好きなだけ突っ走るがいい。だが、他の人々と一緒にいるときには、自分のすることに注意するがいい。注意するがいい。注意するがいい。注意するがいい。特に、不敬虔な人々と混じり合う場では!

 そして、あゝ! 残念なことに私はこうも云わなくてはならない。――キリスト者であると告白する人々と一緒にいるときにも、注意するがいい。というのも、時としていかにご立派な「キリスト者同士の集まり」が見られることか。自分たちのための十分な楽しみを見いだすことができないキリスト者たち、主イエスについて語ることができず、その御名を口にすることができず、聖書に関する事がらに十分な楽しみを見いだすことができず、他の卑しい事がらに目を向けては、それで喜びを補わないではいられないキリスト者たちが時として見受けられる。疑わしげな人々と一緒にいないように注意するがいい。あなたがたの集まりのいくつかにおいては、ほとんど何の益も得られない。もしあなたがたが祈ることや、イエスのことばや行ないを数え上げることに時間を費やせないというならば、家にとどまっていた方がましである。キリストはしばしば祝宴の中で見失われる。主の臨在はしばしば私たちが人交わりをするときに引き込められる。私たちのイエスは、ひとり引きこもることを愛しておられる。主は争わず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない[イザ42:2]。家の中で隠れてご自分の民とともに住まうことを愛される。主の使信はこうである。「さあ、わが民よ。あなたの奥まった部屋に入り、戸を閉じるがいい」。あなたがそこであなたの《主人》を失うことはない。あなた自身の家の中で主をあなたのものとするがいい。そこで主を失うことはないであろう。ひとり主とともに歩むがいい。そのとき主を見失うことはないであろう。私は――祭礼をするな、とは云わない。

    などて王子(みこ)らが 嘆きの生涯(ひ)過ごさん?

私は、――楽しみの時を持ってはならない、とは云うまい。――寄り集まってはならない、とは云うまい。あなたがたの集まりが、ひとりひとりにとって有益なものとなるならば、そうするがいい。だが、このことは云っておく。――自分がしようとしていることに注意するがいい。キリスト・イエスをその母は祭礼の中で見失った。そしてあなたも、よくよく注意していない限り、主を失うかもしれない。

 真剣に心を寄せつつあるが、まだ神を信ずる決心をしていない若い人々に対して、厳粛に云わせてほしい。悪いつきあいは悪魔の罠である。おゝ、いかに多くの人々がそれによって滅ぼされてきたことか! もしサタンがあなたを古馴染みのつきあいに引き戻すことができさえしたら、サタンはそれで十分と考えるであろう。最後には確実にあなたを手中にできると思うであろう。悪い仲間とすっぱり手を切らず、つきあいを続けているような人には、何をしても役に立たないであろう。あなたは、そうしたつきあいのあらかたに我慢できない。ならば、全くつきあいをやめてしまった方が良い。そうすれば、あなたは全く安全になるであろう。さもないと、ひとり、また、ひとりとあなたを少しずつ元の生き方へと誘う者がいるであろう。そして、さらに少しずつ引き戻して行き、最後にどうなるか誰にわかろう?――こうした、麗しいきっかけ――とあなたが考えるもの――は、肉的で、凍るように寒い生き方という毒気で枯らされ、破壊されるという末路に至らせかねない。主が私たちを、祭礼の中でイエスを失うことから救い出してくださるように!

 また、注目するがいい。マリヤとヨセフは、三日間もイエスを見失っていた。ここから私が学ぶのは、信仰者は、その《主人》と長いこと一緒にいなくなっても、結局は再び主を見いだすであろう、ということである。彼らは実際三日の後に主を見つけたし、あなたも――あわれな嘆き悲しんでいる信仰者も――、神なるあなたの《救い主》を再び見いだすであろう。そちらには、あわれな、疑いを感じている人がいる。その人は心が病んでいる。自分の主を失ってしまい、見いだせずにいるからである。おゝ、いかにその人が神の御前で呻き、自分の心を注ぎ出してきたことか。だが、それでも彼の叫びへの答えはやって来ない。それゆえ、その人は、自分は滅びるに違いないと結論する! 否。あわれな、意気阻喪した人よ。イエスの両親は主を三日目に見つけたのである。そのように、もう一度主を捜し求めるがいい。主がおられないのは一時のことである。それは長いかもしれないが、いかに長く主の御顔が隠されていようと、終わりはやって来る。おゝ、あわれな、臆した子どもたち。日食を見て泣いてはならない。それが一時間続いたとしても、太陽の光が消し去られはしない! おゝ、あなたがた、あわれな薄信者たち。あなたは吐息をついても良いが、絶望してはならない! たといイエスが一時の間あなたを離れたとしても、やがてあなたのもとに帰って来られるであろう。あなたは再び主の御顔を拝し、再び主の愛という陽光に浴し、主があなたのものであること、あなたが主のものであることを知るであろう。たといあなたが主を見失っていることが何箇月――左様、何年、とさえ私は云いそうになったが――続こうと、それでもあなたは再び主を見いだすであろう。心を全く尽くして主を捜し求めるなら、主はあなたによって見いだされるであろう。ただ、主を捜し求めることに自分をささげ尽くすがいい。主は完全にあなたから離れはしないであろう。むしろ、あなたは再び主をあなたの喜び、楽しみとして見つけ、髄とあぶらみによる宴会でもてなされるであろう。三日間、少年イエスは失われていたが、それでも主はヨセフとマリヤによって見つけられた! そのように、キリストは長い間おられなくなるかもしれないが、それでも神は、そのあわれな聖徒をもう一度主にあって慰めてくださるであろう。

 II. さて、私が次に注意したいのは、《キリストを捜し求めること》である。イエスの父母は主を捜し求めた。そして、キリストの臨在を失った人々は彼らの模範にならうのが良いであろう。

 第一に注意したいのは、彼らは非常に思慮深く主を捜し求めたということである。どういうことかというと、彼らは主を正しい場所で捜し求めたのである。彼らはエルサレムに戻って行き、そこで主を捜し求めた。エルサレムにおいてこそ彼らは主を見失った。それで、エルサレムにおいてこそ当然主を見つけられると期待したのであろう。あなたは、どこでキリストとともにいなくなったかが分かりさえすれば、まず間違いなく再び主を見いだすはずの所は分かるであろう。あなたがキリストとともにいることを失ったのは、祈りを怠り、静思の時をおろそかにしたことによってであろうか? あなたは密室でキリストを失っただろうか? ならばあなたは、そこでキリストを見いだすであろう。あなたがキリストを失ったのは、何らかの罪を通してだろうか? ならば、あなたが主を見いだすのは、他のいかなるしかたにおいてでもなく、その罪を放棄し、その情欲が巣くっているからだの部位を、聖霊によって抑制することによるしかないであろう。あなたがキリストを失ったのは、聖書をないがしろにすることによってだろうか? ならば、あなたはキリストを聖書の中に見つけなくてはならない。あなたが主を失った所で、あなたは主を見いだすであろう。この言葉はまことである。「捜し物は、落としたところで見つかる」。そのように、キリストは、あなたが主を見失ったところで探すがいい。というのも、主はよそへ行ってはいないからである。キリストを求めて後戻りするのはつらいことである。ジョン・バニヤンが告げるところ、あの巡礼は、かの安逸のあずまやまで戻っていく路こそ――腰掛の下で自分の巻物を見つけるため旅しなくてはならなかった後ろ向きの旅こそ――自分が通らなくてはならなかった中でも最も困難な旅路であることに気づいた。失われた救いの証拠を求めて一哩後戻りすることにくらべれば、二十哩の路を先へと進むこともごくごく容易である。ならば、あなたが自分の《主人》を見いだしたときには、より堅く主にしがみつくよう注意するがいい。だが、もし主を失ったならば、後戻りして、あなたが主を失った所で主を捜し求めるがいい。

 また、やはり注意したいのは、彼らは主をその親族や知人の中で捜し求めたということである。これもまた、私たちが主を捜すべき正しい場所である。もし私が魂の苦悩のうちにあるとしたら、どこで救いが得られるだろうか? ここにやって来る途中で私は、大きな看板を見た。その看板は、心痛をかかえている人に向かって、チャールズ・マシューズの所に来れば治されます、と薦めていた。――つまり、演劇を見ることによってである。あゝ! 人々の心痛が本物である場合、彼らはどれほど長く通っても、それが除かれることはないであろう。劇場は、彼らが心痛を得ている場所であって、それを失う場所ではない。人々は、一般には、病気にかかった場所で病気が治るものではない。もしあなたがどこかで熱病にかかったとしたら、それを治すために同じ家に行くことを私は助言しはしない。もしあなたが何らかの罪にふけることを通して心痛を得たとしたら、罪をより深々と呑み込むことによって、その心痛を治すことはできない。飲酒はしばらくの間あなたを麻痺させ、酩酊させ、そのことを忘れさせるかもしれないが、本当の治療薬の代わりに酒を用いるのは良くないことである。おゝ、あなたがた、心痛をかかえている人たち。あなたがた、失意のうちにある人たち。あなたがた、頭の上を幾多の苦難が乗り越えて行きつつある人たち。どこであなたがたはキリストを見いだすと期待できるだろうか? 何と、主の親族や知人の中でである! 悪徳や罪がたむろする軽薄な場所へ行ってはならない。歓楽や浮かれ騒ぎがある場所へ行ってはならない。むしろ、イエスの弟子たちが集まるのを常としている場所へ行くがいい。主の民と話し合い、主の愛と主の救いの力とについて最も知識を有している人々と語り合うがいい。まず間違いなくあなたは、あなたの《救い主》を、主の親族や知人の中で見いだすであろう。だが、主を捜してこの世に行ってはならない。真珠は、それが横たわっている深海で捜すがいい。だが、そのような宝が一度も発見されたことのない所を捜してはならない。さもないと、まぎれもない骨折り損をすることになるであろう。

 さらにまた、注目したいのは、彼らは、このように思慮深くイエスを捜す一方で、たゆむことなく主を捜し続けた、ということである。彼らはほんの一日だけ主を捜して、後は捜索をあきらめたのではない。むしろ、主を見つけるまで捜し続けた。そのように、キリスト者よ。もしあなたがあなたの主との交わりという尊い賜物を失ったとしたら、それを捜し続けるがいい。それを取り戻すまで、祈りをやめてはならない。この真珠を求めて一回深みに潜っただけで満足してはならない。むしろ、何度も何度も、うまずたゆまず潜り続け、ついにそれを発見するまでそうするがいい。

 だがしかし、やはり私たちに告げられているのは、彼らが悲しみながら主を捜し回ったということである。マリヤはイエスに云った。「父上も私も、悲しみながらあなたを捜し回っていたのです」[ルカ2:48 <英欽定訳>]。私はこのことを知っている。真の信仰者であれば誰でも、自分の主がともにいなくなったとしたら、主を失ったことを悲しまずにはいられないであろう。そうならないことは不可能である。私は、あなたがたの中のある人々がこう云っているのを耳にした。あなたは最近キリストとの交わりを有していないという。だが、もしあなたがそうした告白をしながら、顔に微笑みを浮かべているとしたら、私はあなたの敬神の念について深刻に疑うものである。真のキリスト者であれば、自分の《主人》の臨在を失うことを自分にとって最大の嘆きと考え、そのことについて軽薄に語ることはしない。あわれみの《君》が自分たちとともにおられないことは、彼らの悲惨なのである。彼らは、不断に主とともにいたいと願っている。そして、もし一瞬でも主がともにおられなくなると、日光が彼らの目から取り去られたかのように感じる。

    主に抱擁(いだ)かるは 天国にして
    余のいずこにも そはあらず。

イエスの両親は悲しみながら主を捜し回った。そして私たちも、主を失ったならば、同じようにしなくてはならない。キリストを見つけ出す最上の使者たちは、主の聖徒らの悔悟の涙である。涙は、磁石が針に及ぼすような働きを天来のあわれみに及ぼす。キリスト者の涙は、神の心を見つけ出すのである。濡れた目であなたの《主人》を捜し求めれば、主はすぐにあなたのもとに来てくださるであろう。キリストと涙する目との間には神聖なつながりがある。というのも、悲しむ者の目を拭うことはキリストの職務だからである。そしてあなたが泣いているのを主がご覧になるときにはいつでも、主の指はそれを拭うことに熱心である。主はそれらを拭わないではいられない。そこに涙が見えることに耐えられない。そして、もし主がそれらを拭うとしたら、主はあなたのもとに来ざるをえない。そのように、主を見いだす最も確実な道は、悲しみながら主を捜し求めることである。悲しみという荒々しい手で振り絞られた心からの祈りは、万軍の神の耳に最も受け入れられるものである。もしあなたが悲しんでいるとしたら、おゝ、キリスト者よ。捜し続けるがいい。そして、自分の悲しみが増し加わるときは、いやまさって主を見いだす時が近いと信ずるがいい! 涙は魂という船底にたまった汚水であり、目はその吸水器である。そして、このようにして神はあなたを浮かべ続け、再び安息と平安という港へとあなたを導いてくださるのである。キリストを捜すことができるということは、それが悲しみを伴っているにせよ、ほむべきことである。

 III. さて私がしめくくりに語りたいのは、《キリストを見つけ出すこと》についてである。最初に注目すべきことは、見失われたキリストがどこで見つかったかである。あなたは、主の両親が主を捜してどこに行ったか知っているだろうか? 彼らがエルサレムに行ったとき、彼らは自分たちの親族や知人の全員に尋ねた。「あなたは、あの大事な可愛い子を見かけませでしたか?」 全員が主を知ってはいたが、みな、「いいえ、見かけませんでした」、と答えた。そこで彼らは、もてなしの家、自分たちが滞在していた宿屋に行き、こう尋ねたと思う。「息子はここにいませんか? 私たちの子はここにいませんか?――あの、髪の毛のきれいな、見たこともないほど綺麗な子はいませんか?」 「あゝ!」、と人々は答えたであろう。「女たちはよくそう云うものさ。行った行った。そんな子は見かけとらんよ。ここにはいないね」。キリストは宿屋にはいなかった。主が生まれたとき、宿屋には主のいる場所がなかったが[ルカ2:7]、その後も、宿屋には主のいる場所が残っていそうもなかった。彼らは主を捜しに王宮に行きはしなかった。いずれにせよ、その内部には行かなかった。彼らはヘロデのことを恐れていた。もしヘロデに捕まったとしたら、主は一巻の終わりであったろう。おそらく彼らは、あの愛し子が、エルサレムを栄光で飾る壮麗な建物に惹きつけられたのだと考えたであろう。また、その壮大な建築物を眺めている群衆の中にいるに違いないと思ったであろう。それで彼らは、確かに主はここにいるに違いないと考えながら、主要な通りを順番に見て歩いた。そして彼らが、外国から来て、この町のあらゆる驚異を調べている物珍しそうな人々に向かって、その子を見かけなかったかと尋ねたとき、彼らは間違いなく、ふたりをじろりと睨みつけたであろう。というのも、キリスト・イエスは必ずしも好奇心から事を研究する人々には見いだされないからである。通りには、芸人や、それを取り囲んでいる子どもたちがいた。そして、その大道芸はイエスを惹きつけるように思えたかもしれない。だが、愚行はイエスのことを全く知らなかった。

 とうとう主の母はこう思いついた。主は神の宮にいるかもしれない。左様、それこそ、主の居場所であった! 主は宮の《王》であった。そして《王》は自分の王宮にいるべきである。そして、そこで彼らは主を見つけた。主は博士たちの高慢をくじいておられた。それで、このことから学ぶがいい。おゝ、キリスト者よ。あなたがあなたの《主人》を見いだすのは、決して群衆の見守る前で、愚行が姿を現わしている場所ではない。あなたが主を見いだすのは、決して好奇心をもって学識が、深遠な調査によって、驚異に満ちた深遠な事がらすべてを研究している場所ではない。あなたが主を見いだすのは、決して不敬虔な人々が寄り集まって軽薄な浮かれ騒ぎをしている場所ではない。むしろ、もしあなたがキリストを見いだしたければ、主の宮で、祈りの家で、見いださなくてはならない! ここにおいてこそ、主はその栄光を示され、ここにおいてこそ、主はその子どもたちにお語りになる。これは、据えられた審きの御座であり、ダビデの家の王座である。

    《王》自らが 近づかれ、
    きょうその聖徒らを 歓待せん。
    ここにわれらは 座して主を見て、
    愛して、たたえ、祈りをささぐ。
    愛する神の おりし所で
    一日過ぐすは はるかにまさりて
    甘き日々なり。よし罪楽しむ
    千日過ごすも。

罪人よ。もしあなたがキリストを捜し求めるとしたら、主が見いだされる場所で捜し求めるがいい。もしあなたが幸福と平安とあわれみを捜しているなら、主が行かれる所に主を追って行き、ベテスダの池に横たわるがいい。そして、もし神がまだあなたを生かしておられないとしたら、おゝ、あなたがシロアムの池、天来のあわれみの門へと至らされるように。というのも、ここにこそ、イエス・キリストは赴き、その恵みの大いなる不思議を働くことを愛されるからである!

 聖徒たちに対しては、ただこのことを云いたいと思う。――もしあなたの主とともにいることを失ったとしたら、じっとしていてはならない。あなたの目を眠らせてはならない。あなたのまぶたをまどろませてはならない。一時中断された交わりがあなたに取り戻されるまで、そうしてはならない。一刻たりとも、おゝ! 私は切に願う。そうした状態のまま生きていては――生きていて?――そんなものは生きていることにならない。――単に存在を続けるだけであってはならない。もしキリストとのあなたの交わりが断たれているとしたら、あなたの家に走って帰り、膝まずき、主に叫ぶがいい。あなたの主の愛を清新に現わしてくださるようにと。遅れては危険である。おゝ、神の子どもよ。主から離れていては危ない! それは、あなたを羊飼いのいない羊のようにしてしまうであろう。根元に水のない木、大嵐の中で、いのちの木に結びついていない枯れ葉としてしまうであろう。おゝ、願わくはキリストが、あなたの心に影響を与え、あなたがまず自分の危険を見てとり、次には心底から主を捜し求める者となるように。主はあなたから見いだされるのを待っておられる! 私は切に願う。よく用いられる、幸福な者となりたいというあなたの願いにかけて。私は切に願う。キリストの愛すべきご性質にかけて、キリストとの交わりのうちにないことを見いだされる恐ろしい状態にかけて。私は切に願う。すでにあなたが苦しんできたあなた自身の悲しみにかけて、また、主を見いださない限り増し加わるに違いないであろう悲惨にかけて。私は切に願う。再びキリストを見いだし、あなたの霊の喜び、また楽しみとなっていただくまでは、決して安んじてはならない。

 あなたがたの中にいる、《救い主》を知らない人々にとって、私が語ってきたことは全く無意味である。あなたは、こうした、きわめて重要な事がらについて無頓着である。だが、私はあなたに対しても切に願う。いま生きているが、かつて死んだお方[黙1:18]にかけて、地獄の厳粛さにかけて、永遠の恐るべき神秘にかけて、天国の至福にかけて、最後の審判の日の恐怖にかけて、私は切に願う。死に行く者が死に行く者らに向かってするかのように。もしあなたが、これまで一度もキリストを見いだしたことがなかったとしたら、この言葉をあなたの耳の中で鳴り響かせてほしい。――あなたは神もなく、キリストから離れ、望みもなく、イスラエルの国から除外されている![エペ2:12] 弔鐘を鳴らすようなものだが、もう一度この言葉を云わせてほしい。――神もなく、キリストから離れ、望みもなく、イスラエルの国から除外されている! この言葉をよくよく考えるがいい。「キリストから離れ! キリストから離れ!」 そして、もしこれがあなたをぐらつかせないとしたら、神があなたを助け給え! しかし、もし、話をお聞きの方々。これがあなたをぎょっとさせるとしたら、もし神がこの言葉であなたを砕かれるとしたら、そのときは、罪人よ。神があなたを粉々に砕かれたときには、思い出すがいい。キリスト・イエスは、救われたいという願いをある者らに起こさせ、その者らを全員救うことを望んでおられるのである。あなたがキリストを欲しているのと同じくらい確かに、キリストはあなたを欲しておられる。主を捜すがいい。そうすれば、主を見いだすであろう。ただ叩くがいい。そうすれば、あわれみの扉が開かれるであろう。ただ求めるがいい。そうすれば、受けるであろう。おゝ、目覚めさせられた罪人よ。ここにあなたのためのキリストの使信がある。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。おゝ、あなたがキリストを信じて、バプテスマを受けるとしたらどんなに良いことか! おゝ、神があなたがた全員を――自分のものは何も持っていない者たち全員を――助けて、自らをキリストにゆだねさせ、キリストをあなたの《すべてのすべて》として受け取らせてくださるとしたら、どんなに良いことか! しかし、かたくなな罪人よ。私は、この身の毛もよだつ言葉とともにあなたを家に帰らせよう。それは、私がいま繰り返したばかりの言葉であり、私はそれが今週中あなたの耳で鳴り響いていてほしいと願う。あなたが町通りを歩くときも、寝床に横たわるときも、食事をしているときも。神もなく、キリストから離れ、望みもなく、イスラエルの国から除外されている。そして、それゆえ、天国がない! 今でさえ天国の手付けを受けている人々には、「失望に終わることがない希望」*[ロマ5:5]がある。願わくは、話をお聞きの方々。その希望があなたにも与えられるように。キリストのゆえに! アーメン。

 

失われたキリストが見いだされる[了]

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