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天の生活の前味

NO. 2607

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1899年1月29日の主日(C・H・スポルジョン記念安息日)朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年前半の説教


「また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、『私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。』と言った」。――申1:25


 あなたは、この言葉が記された際の出来事を覚えているであろう。イスラエル人は十二人の者を斥候としてカナンの地に遣わし、彼らはその地の果物を携えて戻ってきた。その中には、エシュコルから刈り取ってきた一房の葡萄があり、ひとりの人が背負うには重すぎたため、棒に通して、ふたりがかりでかつがれて来た[民13:23]。今回、私は、このイスラエル人たちについては多くを語るまい。むしろ私があなたに示したいのは、彼らが斥候たちの持ち帰ったカナンの地の果物によって、その土地がどのような場所であるかを、ある程度まで知ったのと同じように、あなたや私も、主の選びの民であるとしたら、地上にいる間からでさえ、天国がいかなるものであるか――私たちが死後いかなる状態に達するか――を、ある程度は知ることができる、ということである。それは、私たちが地上にいる間でさえ私たちのもとにもたらされる、いくつかの祝福によって分かるのである。イスラエル人は、カナンが豊穣な土地であることを、彼らの兄弟たちのもたらした果物を見たとき、また、それを食べたときに確信した。もしかすると、それは、これほどの大人数のためには少なすぎたかもしれない。だがそれを口にした者たちは、たちまち理解したであろう。このような果物を産する土地は肥沃な土壌である、と。それと同じようなしかたで、愛する方々。私たち、主イエス・キリストを愛する者には、はるかにすぐれたエシュコルに実った葡萄の房があるのである。私たちは、地上にいる間でさえ、天国の果実の何がしかを有している。そして、それによって、パラダイスの土壌の豊かさを判断することができる。かの地は、これほど素晴らしい、えりすぐりの、喜ばしいものを実らせることができるのである。それゆえ私はあなたに、天国についての考え方を一通り提示してみたいと思う。そうすることで、いかにキリスト者が地上にいる間からさえも、今後啓示されるはずの祝福の前味を享受しているかを、それなりに示せればと思う。ことによると、天国について全く同一の考え方をしているキリスト者などふたりといないかもしれない。キリスト者はみな同じ天国を待ち望んではいても、何が天国における最も目立った特徴であるかは、各人の精神のあり方によって異なっているのである! さて、私はあなたに、私にとって何が天国の最も目立った特徴であるかを告白しよう。それは、現時点の判断によるものであって、別の時には、天国の別の点をより愛しているかもしれない。だが、ごく最近の私が学ばされているのは、天国を《安全な場所》として愛することである。

 私たちは、一部の信仰告白者たちが、その信仰告白に泥を塗っている姿を見て非常に悲しまされてきた。――左様、そして、それよりも悪いことに、主ご自身の愛する者たちの中には、嘆かわしい過誤や過ちを犯しつつある者さえある。それは、彼らの人格に不名誉をもたらし、彼らの魂に危害を加えている。それで私たちは、私たちが決して、決して罪を犯さない場所として天国を仰ぎ見るようになったのである。――そこではつまづき倒れることも、過ちを犯すこともない。――過誤などどこにもない。――疲れを知らぬ敵を見張る必要はない。私たちを悩ませる仇は全くいないからである。――昼夜を問わず警戒を固め、仇の侵入を見張ることはない。「かしこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、かしこでは、力のなえた者はいこい」[ヨブ3:17]を得るからである。私たちは天国を完全な安全がある地とみなしてきた。そこでは、衣は常に白く、顔には常に新しい油が注がれ、私たちが自分の主からそむき離れる恐れはない。そこで私たちは永遠に堅く立つからである。そして、私はあなたに問う。もし天国についてそのように考えることが正してとしたら――そして、私は、確かにそれが天国の特徴の1つであると確信しているが――、聖徒たちは地上においてさえ、この意味において、パラダイスの果実の一部を楽しんでいるではないだろうか? 私たちは、こうした下界のあばら屋や村落においてさえ、時として、至福に満ちた安全の喜びを味わうことがないだろうか? 神のことばの教えるところ、《小羊》と結び合わされているすべての者は安全であり、すべての信仰者は進み続け、自分の魂をキリストの守りに預けた者たちはキリストが忠実かつ不変の《守り手》であることを悟らされるのである。こうした教えを信ずる私たちは、地上においてさえ安全を楽しんでいる。あらゆる過ちやつまづきから免れるような気高く、栄光に富む安全ではないが、それにもかかわらず、ほぼそれと同じくらい偉大な安全である。なぜなら、それは、私たちを究極的な破滅から守り、永遠の至福へと確実に達させるからである。

 また、愛する方々。あなたはこれまで一度も、聖徒の堅忍という教理をじっくりと思案したことがなかっただろうか? きっとあるに違いないと思う。そして神は、キリストというお方においてあなたが安全であることを、深く実感させてくださったであろう。神はあなたに、あなたの名前が神の手のひらに刻まれていることを告げ、この約束をあなたの耳に囁かれたであろう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」[イザ41:10]。あなたは、あなたの偉大な、契約の《保証人》を見るよう導かれた。この方は、忠実かつ真実なお方、そして、それゆえ、あなたを――家族の中でも最も弱い者を――、選ばれたすべての種族とともに、確実に神の御座の前に立たせてくださる。また、そうする義務を負っておられる。そして、そのように甘美な黙想を巡らしている際のあなたは、香料のきいた、主の柘榴の果汁を、ある程度は飲みつつあるに違いないと思う。あなたは、天上で完全な者とされた聖徒たちが有している楽しみの一部を、自分もまたキリスト・イエスにあって完璧に、また永遠に安全であるという意味において有している。おゝ、いかに私は、この聖徒の堅忍という教理を愛していることか! それを説教できなくなるような場合、私はただちに講壇を去るであろう。というのも、それ以外の形の教えは、私にとってうつろな砂漠、獣のほえる荒地、神にふさわしくないもの、もろい虫けらである私にすら到底受け入れがたいものと思われるからである。私は、きょうは自分を救ったかと思うと、明日には自分を退けるような福音を決して信ずることも説教することもできない。――ある時は私をキリストの家族の中に入れ、一時間も経つと私を悪魔の子とするような福音、――私を最初に義と認め、それから罪に定めるような福音、――私に赦罪を与え、その後で地獄に叩き落とすような福音、このような福音は、理性だけで考えても忌まわしいものであり、私たちが喜んで仕える神のみ思いには、いやまして相容れないものである。イエスを信ずるあらゆる真の信仰者は、トップレディとともにこう歌うことができる。――

    わが名は御手の 掌中にあり
    永遠すらも よく消すをえじ
    御心(みむね)に刻印(きざ)まれ、つゆ変わるまじ
    拭えぬ恵みの しるしぞあらば。
    しかり。われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは。

しかり。愛する方々。私たちは完璧な安全さを、この戦争と戦いの地に住んでいるうちからさえ感じている。あの斥候たちが、荒野にいる兄弟たちのもとに、カナンの葡萄の房を持って来たように、私たちが享受している安全のうちに、私たちはパラダイスの至福の前味と保証を得ているのである。

 II. 次のこととして、あなたがたの中の大部分の人々は、まず間違いなく、天国を別の面から考えることを愛しているであろう。《完璧な安息の場所》として。

 辛苦の子よ。あなたが聖所を愛しているのは、そこにおいてこそ腰を落ち着けて神のことばを聞くことができ、疲れ切った手足を休めることができるからである。燃える額から熱い汗を拭うときのあなたは、しばしば天国を、自分の労働が終わるであろう場所として考えてきた。そしてあなたは、甘やかな力をこめてこう歌ってきた。――

    そこに 我が倦(う)し 魂(たま)は浸らん、
    天(あま)つ安息(やすみ)の 海の深みに。
    苦難の波は つゆも起こらじ、
    わが安らげる この胸に。

安息、安息、安息。――これこそあなたが欲するものであり、私にとっても、天国のこのような理解は、この上もなく美しいものである。私は、この空の下では決して安息を得られないことを知っている。キリストのしもべたちが、今のように理不尽な者であり続けている間はそうである。私は力の限りを尽くして彼らに仕えてきた。だが私は、ほとんど墓に入る時まで、キリスト教の教役者たちから激しく悩まされるであろう。彼らは、いかなる定命の者の力によっても成し遂げられるはずのない不可能事を行なうよう、不断に私に求めるのである。私は、倒れるまで喜んで労働したいと思うが、今している以上のことはできない。それでも私は不断に、あちらからも、こちらからも攻め立てられていて、どこへ行こうと、私にとっては何の安息もないまでとなっている。それは私が自分の墓で眠るときまで続くであろう。それで私は、真に天国を非常に幸福なものとして待ち望むのである。なぜなら、そこでは、いかに愛しているとはいっても、絶えざる、また至難の労働からの安息が得られるからである。

 そしてあなたも、それは同じであろう。愛するキリスト者の方々。あなたは、自分が熱心に追求している目標を得ようと長い間労苦してきている。あなたは天国に着けば喜ぶであろう。あなたはこう云ってきた。もし自分が切に願っていることに到達することができたなら、喜んで横たわり、休みたい、と。あなたは、ある程度の量の富を積み上げたいと願ってきた。いったんちょっとした資産を作ることができさえしたら、気が楽になるであろうに、と云ってきた。あるいは、あなたは長い間、ある立場を確保しようと労苦してきた。それに達することができさえしたら、一息つけるものを、と云ってきた。左様。だが、あなたはまだそれに達していない。そして、あなたが天国について考えるのを愛しているのは、それが競走者にとっての決勝点であり、存在という矢の的であり、時の疲れ切った労働者のための安楽椅子であり、あわれな、倦み疲れた、地上の苦闘者のための永遠の安息だからである。あなたがそれを愛しているのは、それが安息の場所だからである。では、私たちは決してそうした意味における天国の前味を地上で楽しめないだろうか? おゝ、否。愛する方々! 神はほむべきかな。「信じた私たちは安息にはいるのです」[ヘブ4:3]。私たちの平安は川のようで、私たちの義は海の波のようである。神は地上においてすら、御民に安息を与えてくださる。「休みは、神の民のためにまだ残っている」[ヘブ4:9]。私たちは、世において嵐のような試練と、辛い苦難とを有しているが、こう云うことを学ばされている。「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ」[詩116:7]。あなたは一度も、非常な苦悩を覚えるとき、階上の私室に上り、そこで膝をかがめ、自分の心を神の御前に注ぎ出したことがなかっただろうか? あなたは一度も、そのようにした後で、まるで安息に頭まで浸かったかのような状態になったことがなかっただろうか?――

    憂きや悩みの 氾濫(おおみず)来れど
    よし悲しみの あらし降るとも、

あなたは、それをこれっぽっちも気にかけなかったではないだろうか? 戦争や暴動があなたの回りで吹き荒れても、あなたは完璧な平安の中で守られていた。というのも、あなたはキリストのうちに、大いなる防護の盾を見いだしていたからである。あなたは安らかに落ちついていられた。神の《油注がれた者》の御顔を見つめていたからである。あゝ、キリスト者よ! その安息は、――その穏やかで、静謐で、いかなる擾乱の大波もなく、いかに深い苦難の中にあってもキリストの御胸の上で楽しむことができた、その安息は、――あなたにとっては、天国の葡萄産地から出た一房のごときものなのである。あなたがじきに、死後の地であずかることになる天的な房々からもぎとられた、1つの葡萄なのである。このようにして、やはり私たちは、見ての通り、天国の前味を受けることができるのであり、この地上にある間でさえ、それがいかなるものか悟ることができるのである。

 III. 安息の場所として天国を考えることは、一部の怠惰な信仰告白者の気に入ることであろう。それで私は、この主題をぐるりと反転させて、それとは全く正反対の考え方も真実であり、ある種の人々にとっては、ずっと有益であろうことを示したいと思う。私が強く信ずるところ、人間が犯しうる最悪の罪の1つは怠惰である。私は、怠け者よりは酔いどれの方がずっと赦せる気がする。怠惰な人間は、姦通者となったときのダビデと同じくらい、神の前で悔悟すべき理由がある。実際ダビデの姦淫は、おそらく彼の怠惰さから生じたのであろう。草をあなたの膝丈まで伸ばしておきながら、それを干し草にしないでおくのは、忌まわしいことである。神は決して人間を怠惰にさせておくためにこの世に遣わしたのではない。だが、一部の人々はキリスト者であると告白していながら、一年中、主に仕えることを全く何もしていないのである。

 天国について真に考えるべきしかたは、それを《間断なき奉仕の場所》とすることである。それは人が、昼も夜も神にその宮で仕えている所である。そこでは決して大儀さを感じず、決して眠りを必要としない。愛する方々。あなたは働くことが、いかに爽快なものか知っているだろうか? 私は、人々から不可能を期待されることには不平を云わざるをえないが、私の人生における最高の喜びは、キリストのために忙しく立ち働くことなのである。説教することができない日、それは私にとって不幸せな日である。だが、福音を宣べ伝え、神のために労苦するという特権を与えられている日、それは通常は、結局のところ私の安らかな、また穏やかな喜びの日となる。奉仕は楽しみである。神を賛美することは快楽である。神のために労苦することは、定命の者に知りうる最高の至福である。おゝ、神への賛美を歌って、のどがひりつくことを決して感じないというのは、いかに甘やかに違いないことか! おゝ、永遠に翼をはばたかせ、決してそれが衰えるのを感じないというのは、いかに幸いであることか! おゝ、何と甘やかな喜びであろう。神の使いとして常に飛び回り、天国における神の御座の周囲を永遠が続く限り回っていること、そして決して一度たりとも頭を枕に横たえることなく、決してくたくたに疲労することなく、全く、もう止すようにと警告する痛みを感じることなく、むしろ永遠そのもののようにとこしえに行ない続けるということは。――労働が尽きざる洪水となって流れつつある大河となることは! おゝ、それは喜びに違いない! それは天国に違いない。昼も夜もその宮で神に仕えることは! あなたがたの中の多くの人々は地上で神に仕えてきた。そしてその至福の前味を味わってきた。

 私は、あなたがたの中のある人々が、労働の甘やかさをもう少し知っていたらよいのにと思う。というのも、労働は汗を生むが、甘さも生むからである。――特にキリストのための労働においてそうである。働きの前には満足がある。働きの中には満足がある。働きの後には満足がある。そして、働きの実を探すことの中に満足がある。また、その実を得るときには、大いなる満足がある。キリストのための労働は、実際、天国の更衣室である。たとい天国そのものではないとしても、それは天国の最も至福に満ちた前味の1つである。神に感謝するがいい。キリスト者よ。もしあなたが自分の《主人》のために何かできるとしたら。感謝するがいい。もしあなたが、神のためにほんの小さなことでもできる特権にあずかっているとしたら。だが、思い出すがいい。そのようなとき神は、あなたにエシュコルの葡萄を多少とも味わせておられるのである。しかし、あなたがた、怠惰な人々がエシュコルの葡萄を得ないのは、あなたがその大きな房をかかえようとしないからである。あなたは、それを集める苦労をすることもなしに、それらが口の中に入ることを好んでいる。あなたには、行って神に仕えようとする気持ちが全くない。あなたはただ座って自分の面倒ばかり見ているが、他の人々のために何をしているだろうか? あなたは自分の礼拝所に通っている。自分の《日曜学校》について語り、《病者訪問の会》について語る。だが、あなたは一度も《日曜学校》で教えることなく、一度も病人を訪問することがない。あなたは非常に多くのものを自分の手柄にしているが、自分では全く何も行なっていない。もしもあなたが天的な栄光を大いに喜ぶようになりたければ、天の御国において働く楽しさを多少とも地上で経験するようにならなくてはならない。

 IV. 天国についてのもう1つの考え方は、それを《完全な勝利と、栄光に富む凱旋の場所》とすることである。現世は戦場だが、来世は凱旋行列である。現世は剣と槍の土地だが、来世は花輪と冠の土地である。現世は血糊と戦塵のふりかかる衣をまとう土地だが、来世は喇叭の喜ばしい響きを耳にする土地、白い衣をまとい、凱歌を上げる土地である。おゝ、天において自分たちの征服が完全になるとき、祝福された者たち全員の胸には、いかなる喜びの戦慄が走ることであろう。そのときには、最後の敵である死そのものすら打ち倒され、サタンがキリストの戦車の車輪に捕虜として引き具され、イエスは罪を覆滅し、町通りの泥のように腐敗を踏みにじり、全地にわたる勝利の大いなる歌が贖われた者たち全員の心からほとばしるのである! それは、何という楽しみの瞬間となるであろう! しかし、愛する兄弟たち。あなたや私は、そうした喜びの前味さえ有しているのである。私たちは、自分がいかなる争闘、いかなる魂の戦いを得ているか、地上においてさえ知っている。あなたは一度も不信仰と戦い、とうとうそれに打ち勝ったことがないだろうか? おゝ、いかなる喜びとともにあなたは目を天に上げ、涙で頬を濡らしながら、こう云ったことか。「主よ。あなたをほめたたえます。私は、この罪を打ち破ることができました」。あなたは一度も強い誘惑に出会い、それと激しく格闘し、歓喜とともにこう歌うのがいかなることか、知ってはいないだろうか? 「私の足はすべらんばかりでしたが、あなたのあわれみが私を支えてくれました」。あなたは、バニヤンの記す基督者のように、老獪なアポリュオンがその竜の翼を羽ばたかせ、飛び去って行くのを見たことがあるだろうか? そこであなたは、天国の前味を得たのである。あなたは、究極の勝利がいかなるものとなるかについて、かすかな暗示を得たのである。かのひとりのペリシテ人の死の中に、あなたは全軍の破滅を見たのである。かのゴリヤテが、あなたの石投げ器と石によって倒れたのは、天の鳥の前に屍をさらすはずの大群衆のひとりとしてでしかなかった。神はあなたに部分的な勝利を与え、それが究極的で完全な勝利の保証となるようにしてくださる。行って勝ちを得るがいい。あらゆる征服を、いかに苦しい奮闘とともに得られたものであっても、自分にとってエシュコルの葡萄のようにするがいい。天国の喜びの前味と!

 V. さらに、疑いもなく私たちが天国について示しうる、最善の見方は、《完全に神に受け入れられている状態》とすることである。それが良心の中で認められ、感じられるのである。祝福された聖徒たちが覚える喜びの大きな部分は、自分のうちには神が敵視するものが何もないという自覚に存していると思う。彼らの神との平和は、何物からも傷つけられることがない。彼らは、《いと高き方》の意見や思いに完全に調和しているため、神の愛は彼らの上に据えられ、彼らの愛は神の上に据えられ、彼らはあらゆる点で神と1つになるのである。よろしい。愛する方々。では私たちは、この下界において受け入れられているのを感じていないだろうか? 多くの疑いや恐れに汚され、曇らされてはいるものの、私たちには、自分が受け入れられていると分かる瞬間があった。やがて御座の前に立つとき知るであろうのと全く同じくらい、はっきりそれと知る時があった。私たちの中のある者らには輝かしい日々があった。そのとき私たちは、神が真実であることに自分の証印を押すことができた。そして、その後で、「主はご自分に属する者を知っておられる」[IIテモ2:19]と感じながら、「私たちも自分が主に属する者であると知っている」、と云うことができた。そのときの私たちには、ウォッツ博士がこう歌ったときの気持ちが分かった。――

    主をわがものと 呼びうべきとき、
    われ、捨てえたり、すべての嘆きを。
    われ世を足で よく踏みえたり、
    いかな地の富 ほまれをも。

    かくも聖けき 喜びの光景(さま)
    われらが目と魂(たま) 見得しかぎりは
    われらは地上(ここ)に 座して仰がん
    長く果てなき とこしえの日を。

私たちは、キリストの義がいかに完璧なものであるかを明確に見てとっていたため、神が私たちを受け入れてくださっていると感じた。また、それ以外のしかたでは幸福になれなかった。私たちは、キリストの血がいかに効果あるものかを感じとっていたため、自分のもろもろの罪がすべて赦され、二度と私たちを責めるものとして言及されることは永遠にないと感じた。そして、愛する方々。ここまでいくつか他の喜びについても語ってきたが、一言云わせてもらえば、この、自分が神の御前で受け入れられていると知ること、これこそすべての喜びの精髄なのである。おゝ、私が――この咎ある虫けらが――、今や御父のみ胸の中で安らいでいると感じること。私が――この失われた放蕩息子が――、今や父の食卓で喜びをもって珍味佳肴を食しているいると感じること。私が――かつては御父の怒りの声を聞いていた者が――、今やその愛に満ちた声音を聞いているのを感じること! これこそ、全世界を合わせたよりもすぐれた喜びである。人は、天上でも、これ以上のこととして何を感じられるだろうか? そして、もしもそれを感じることがこれほど不完全でなかったとしたら私たちは、天国を地上に引き下ろし、たとえかの天の都の門を通って中に入る特権は与えられないとしても、少なくもその都の郊外には住めるであろう。それで、見ての通り、やはり私たちには、その意味においてエシュコルの葡萄の房を持てるのである。天国が受け入れられている状態であることを見てとって、私たちも、そのように受け入れられていることを知り、感じ、喜ぶことができるのである。

 VI. そしてまた、天国は《偉大な、また栄光に富む現われの状態》である。天国において経験することを待ち望んで、あなたはこう歌っている。――

    その時われら 見て、聞き、知らん
    下界(した)でわれらの 願うすべてを
    すべての力は 甘く仕えん
    永遠(とわ)の喜び 満つるかの世で。

あなたは今それを鏡にぼんやり映るように見ている[Iコリ13:12]。だが、天では顔と顔を合わせて見ることになる。キリストは聖書を見下ろし、聖書はキリストの鏡となる。あなたがそれをのぞき込むと、鏡に映っているかのようなキリストの御顔がぼんやりと見える。だが、じきにあなたは顔と顔を合わせてキリストを見てとることになる。あなたは、天国を格別な現われの場所として期待する。あなたは、そこでイエスがご自分の御顔をあなたに顕してくださると信じている。――「百万歳(とせ)もて汝が眸は見張らん/救いの主の麗しきをば」。あなたは主の御顔を見るのを期待しており、もう二度と決して罪を犯すことはなくなる。あなたは主の御心の秘密を知ることを切望している。あなたの信ずるところ、その日あなたは、主のありのままの姿を見て、霊たちの世界で主と似た者となる[Iヨハ3:2]。よろしい。愛する方々。キリストは天上で輝く者たちに対するのと同じようには、私たちにご自分を現わしていないとはいえ、私たちは、この涙の谷にいる間でさえ、ほむべき現われを有してこなかっただろうか? 語るがいい。信仰者よ。あなたの心に語るがいい。あなたはカルバリの光景を見たことがあるではないだろうか? あなたの《造り主》は時としてあなたの目に目薬を塗り、あなたに十字架上のご自分を見せたことがなかっただろうか? あなたは、こう云ったことがなかっただろうか?――

    甘き瞬間(とき)かな、豊けき祝福(めぐみ)、
    十字架のもとで われは過ごしぬ
    いのちと健康、平和を得たり
    罪人たちの 死ぬる《友》より。

    ここにぞ永遠(とわ)に われは立たん
    あわれみ流るを 血の川に見ん。
    尊き滴よ! わが魂(たま)うるみ
    訴え、求めん、神との平和(やすき)を。

あなたは、自分のため木に釘づけられ、自分のためにいのちを流し出しておられるお方を見て、悲喜こもごもに泣いたことがなかっただろうか? おゝ、しかり! 私はあなたがそうした主の現われを得たことがあるのを知っている。また、あなたは、その復活の栄光に包まれた主を見たことがなかっただろうか? あなたは、主が天に高く上げられてその御座に着いておられるのを見たことがなかっただろうか? 信仰によってあなたは、生きている人々と死んだ人の《審き主》としての主[IIテモ4:1; Iペテ4:5]、地上の王たちの《支配者》としての主[黙1:5]を見たことはなかっただろうか? あなたは、おぼろな未来を貫いて、見たことがなかっただろうか? この方が、あらゆる王国の冠をかしらに戴き、あらゆる王侯の王冠を足で踏みしめ、あらゆる玉座の王笏を御手に握っている姿を。あなたは、主の最も栄光に富む、この勝利の瞬間を予期したことはなかっただろうか? ――

    世界中 主は統べ治め
    そのご支配に 果てしなし。

しかり。あなたはそうしたことがある。そして、そこにおいてあなは天国の前味を得ているのである。キリストがこのようにご自分をあなたに現わされたとき、あなたは幕の内側を眺めたのであり、それゆえ、そこに何があるかを見たのである。あなたは、地上にいる間から、イエスをある程度は望み見てきた。そうしたイエスの望み見は、決して終わりのないものの始まりにすぎない。こうした喜ばしい賛美と感謝の旋律は、パラダイスにおける歌の序曲にほかならないのである。

 VII. 最後に、天国について最高の考え方は、それを《最も神聖で至福に満ちた交わりの場所》とすることである。私は天国の種々の特徴について、神のことばの中で述べられたものの半分もあなたに示してこなかったが、交わりこそは最高である。交わり! この言葉はほとんど語られることがなく、めったに理解されることがない。何とほむべき言葉であろう。交わりとは! 愛する方々。あなたは私たちが、「聖霊の親しき交わりが、あなたがたとともにあらんことを」、と云うのを聞いている。だが、あなたがたの中の多くの人々は、この言葉の中にある甘やかな天国の意味が分かっていない。――交わり! それは言葉の花である。言葉の蜜である。――交わり! あなたが最も語ることを好んでいるのは、腐敗についてではないだろうか? よろしい。もしあなたがその醜い言葉を好んでいるとしたら、あなたは、嬉々として、それについて瞑想しているのである。私も、そうせざるをえないときにはそうする。だが、交わりは私にとって、それよりもはるかに甘やかな言葉である。あなたが大いに語るのを好んでいるのは、薬物中毒についてではないだろうか? よろしい。もしあなたがその暗黒の言葉を好んでいるというのであれば、――それを愛する理由があるのであろう。また、もしあなたがそれについて幸せになれるというのであれば、そうして良いであろう。だが、私の絶えざる聖句、絶えざる喜びとしては、交わりを与えてほしい。それがいかなる交わりであろうと選り好みはしない。甘やかな《主人》よ。たといあなたが、あなたの苦しみにおけるあなたとの交わりを私に与えるとしても、たとい私があなたの御名のために非難や恥辱を忍ばなくてはならないとしても、私はあなたに感謝します。たとい私がそうしたことの中であなたと交わりを持つとしても、また、たといあなたが私にあなたのゆえに苦しむことをお与えになるとしても、私はそれを栄誉と呼ぶことでしょう。そのようにして私はあなたの苦しみにあずかる者となれるのですから。また、もしもあなたが私に甘やかな楽しみを与え、私を引き上げ、キリストにあって天の所に座らせてくださるとしたら、私はあなたをほめたたえます、と。私は昇天の交わり――そのご栄光の中におけるキリストとの交わり――ゆえに神をほめたたえます。あなたは同じように云うだろうか? そして、死におけるキリストとの交わりにゆえに。あなたは、キリストご自身が世に対して死なれたように、この世に対して死んでいるだろうか? また、あなたは、復活におけるキリストとの交わりを有しているだろうか? あなたは、キリストが墓からよみがえらされたのと同じように、いのちにある新しさへとよみがえらされているだろうか? また、あなたは、昇天におけるキリストとの交わりを得ているだろうか? それによって自分が栄光にある1つの王座の相続人であることが分かっているだろうか? そうだとしたら、あなたは、自分がパラダイスの喜びを受け継げるという最上の保証を得ているのである。天国にいるということは、自分の頭をイエスの胸にもたせかけることである。あなたは地上でそのことをしてきただろうか? ならば、あなたは天国がいかなるものかを知っているのである。天国にいるとは、イエスに語りかけ、イエスの足元に座り、自分の心臓をイエスの心臓に重ねて鼓動させることである。もしあなたがその至福を地上で有してきたとしたら、あなたはすでに天国の葡萄のいくつかを味わっているのである。

 ならば、こうした前味をいとおしむがいい。人に応じて、それがいかに異なる種類のものであろうと関係ない。異なった成り立ちをしているあなたがたはみな、天国を異なった光に照らして眺めるであろう。あなたの前味を、神があなたに与えてくださった通りのものとしておくがいい。神はあなたがたひとりひとりに、それについて相異なる経験をさせておられる。それは、あなた自身の状態にとって最も適切なものである。それを尊ぶがいい。重んずるがいい。だが、あなたの《主人》の方をずっと重んじるがいい。というのも、思い出してほしいが、それは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」[コロ1:27]だからである。それこそ、あなたにとって最高の天国の前味である。そして、このほむべき真理を悟れば悟るほど、あなたは、かの幸いな者の国で喜ぶ者たちが受けている至福に対して、より完全な備えができることであろう。

 

天の生活の前味[了]

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