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年老いた者への良い知らせ

NO. 2602

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説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1855年12月30日、主日夜の説教


「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていた」。――マタ20:6


 私たちは、また一年の終わりを迎えようとしている。年の終わりは、年の《始め》よりも良い。一年は、恐れとおののきとともに始まるが、喜びと感謝とともに暮れる。年の始めには、私たちは港を離れるときの船乗りのように、自分の帆を掲げ、遥かなる土地をめざして広漠たる海へと出て行く。年の暮れに私たちは、時として自分の錨を降ろし、停泊地で静かに安らう船員のようになることがある。私たちはいま年末を迎えて入港している。そしてここに私たちは安らい、感謝をもって私たちの航海を思い起こしている。

 しかし、1つの年の終わりを迎えるに当たって私たちは、めでたく喜べることと同じく、粛然とさせられる事がらについても語らなくてはならない。それが今晩の主題である。願わくは神がそれを、旧年のしめくくりにとって厳粛かつ有益なこととしてくださるように。「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていた」。この言葉が語られているたとえ話では、ある主人が朝早く出かけて、自分の葡萄園で働く労務者を雇っている。彼はその後、九時にも、十二時にも、三時にも出かけ、そしてとうとう五時にも出かけては同じことをした。そして労務者たちが賃金を受け取りにやって来ると、彼は五時に雇われた者たちにも、一日の初めに雇われた者たちと同じだけの報酬を与えた。私たちが本日の聖句で注目したいのは、第一に、天来の恵みの主権である。第二に、神のあわれみである。そしてその後で私たちは、老人と若者の双方に、この箇所を厳粛に適用するよう努めたい。

 I. 第一に、本日の聖句には、《非常に顕著な神の主権》が示されている。神の主権というとき私たちが意味しているのは、神には絶対君主と同じ権利がある、ということである。神は、古のユダヤ律法――あるいはメディヤとペルシヤの法律――の下における主権者が、臣下に対して思うがままに何でも行なう権利を有していて、だれもその手を差し押えて、「あなたは何をされるのか」と云うことがなかったのと全く同じ権利を持っておられ、ただそれよりも無限に高く、はるかに正当な意味において、この世界の絶対《君主》なのである。神は、いかなる人に対しても、みこころのままにいかなることも行なう権利を疑う余地なく有しておられる。使徒パウロは賢明にもこう尋ねている。「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」[ロマ9:21]。この神の主権の教理は――悲しいかな! あまりにも多くの人によって打ち捨てられているが――、いかに人間たちが切歯扼腕しようが、宣言されなくてはならない。人々は、自分がちりの中にへりくだらされ、神なるエホバが自分たちの《主人》として高く上げられるのを聞いて激怒するかもしれないが、関係ない。

 このたとえ話が示しているのは、特定の人々をお召しになることにおける神の主権である。この主人は朝早く出かけて、多くの人々を召し出した。九時にも出かけて、さらに多くの者を召した。十二時にも、三時にも、五時にも出かけたが、それでも多くの者らが職にあぶれているのを見いだした。彼が見いだしたのは、仕事を期待している者たち、仕事を求めている者たちだっただろうか? 否。彼が見いだした人々は、「市場に立っており、何もしないでいた」[マタ20:3]。彼らは働いているのでも、何をするのでもなく、何もせずに立っていた。それで主人は、自分の思い通りに、彼らの中のある者に向かって、「私の葡萄園に行って働きなさい」、と云った。救われることになる人々の選びには、神の主権がある。もしだれかが救われ、別の人が救われないとしたら、神がその違いを生じさせたのであり、神にはその違いを生じさせる権利がある。たとい私の兄弟が天国に入り、私が地獄に送られるとしても、神には私の兄弟を救う権利があり、私を地獄に落とすことにおいて正しくあられるであろう。私はそれに値するからである。また、もし私の兄弟に救われる価値がないとしても――また実際、彼にその価値はないが――、それでも神には、みこころであれば彼に救いを与える権利があり、私からそれを引き上げる権利がある。私の魂は、神の御足元に突っ伏して服従する。《全能者》の前に出るとき、私には何の権利もなく、いかなる訴えを主張する権利もない。私は罪の限りを尽くし、過ちの限りを尽くしてきたので、もし神が私の魂を地獄に送り込んでも、私はそれに十二分に値している。神はみこころのままにご自分の被造物に行なう権利があり、この権利を、ご自分の葡萄畑で働くために召される人々の選びにおいて振るわれる。

 しかし、さらに神の主権が現わされるのは、この主人がご自分の雇い人を召しかかえる時間においてである。ある者たちは朝早く召された。ある者は九時に、ある者は十二時に、ある者は三時に、ある者は五時に召された。五時に召された男は、「なぜあなたは私を朝召してくれなかったのですか?」、などとブツクサ云わなかった。朝に召された男は、後になると、最後に雇われた者たちよりも多く払ってもらえなかったために文句をつけたと云われてはいるが、それでも、正気であれば、この主人に対して感謝していたはずである。彼は、その葡萄畑で働く栄誉を与えられ、しかも、それほど早くからそこに行くように召されたからである。いついかなる時にも、有効な召命を受けることはあわれみである。そして私たちは、いつ神がその恵みを自分に与えてくださるかを神に指図してはならない。神は、みこころの時に罪人たちを召し、回心されることにおいて、その主権を振るわれる。私たちの諸教会の中には、四歳や五歳の頃からずっとキリスト者であった人々がいる。他の人々は、六十歳や七十歳になるまで回心することがなかった。神は、ご自分の民をこの世から、また罪とサタンに仕える道から、人生のあらゆる時期においてお召しになる。そして、このようにみこころの時に人々をお救いになることにおいて、ご自分の神聖な主権を現わしておられる。

 私は、いかにしばしば律法的な説教者たちがこう主張するのを聞いたことか。すなわち、人は三十歳になるまでに救われなければ、ほとんど救われる見込みはなく、三十年も神の家に出席していながら救われないでいるような人は、救われる可能性がなくはなくとも、まずそのようなことはありえない、と。これはみな、たわごとであり、あるいは、それよりも悪質な何かである。なぜなら、神は神であられ、みこころの人を、みこころの時にお救いになるからである。

 私たちの主はニコデモに云われた。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」[ヨハ3:8]。神は三十歳の人を回心させるのと同じくらい、頭に白髪を戴いた人を回心させることがおできになる。そこには何の違いもない。私たちはみな神の前に罪人として立っている。もし神が白髪の人を救おうと望まれるなら、神にはそれがおできになる。私がいま述べたように語る人がいるのは、若い人々を奮い立たせてキリストを求めさせるためである。だが彼らはほとんど気づいてないが、こうした言葉は若者にはほとんど、あるいは全く影響を及ぼさない一方で、しばしば老人の霊を落ち込ませ、彼らにこう考えさせるのである。「ならば確かに、私たちのあわれみの時は過ぎ去ってしまったのだ。私たちは救われることができないのだ」。だがしかし、こうした同じ説教者たちは、ウォッツ博士を引用して、こう云うのである。――

   「汝が生きる間(ま)に 仕えよ神に、
    大(お)いなる報い 確保(つか)むは今ぞ。
    ともしび燃える ことやめぬ間(ま)は、
    いかに悪しかる 罪人(もの)も帰りえん。

   「汝が生きる間(ま)を 神は給えり、
    地獄(よみ)よりのがれ 天へ行くため。
    恵みの日には 死すべき民も
    その日の祝福(さち)を わがものとせん」。

しかり。愛する方々。ある人がこの世で生きている限り、また、私も生きている限り、私はその人に福音を宣べ伝え続けるであろう。たとい「さまよえるユダヤ人」を見つけることができたとしても――そのようなものが存在しているとしてだが――、また、彼がほぼ二千歳になっていたとしても、それでも私は、彼にさえも福音を宣べ伝えるであろうし、彼がキリストを自分の《救い主》として信頼したとしたら、彼はあわれみと救いを見いだすであろう。

 そのように、神の主権はまず第一に、特定の人々を召すことにおいて現わされる。次に、そうした人々が召される時において現わされる。

 だが、さらに、神の主権は、召された者たちの最終的な報いにおいても示されるであろう。この主人は全員に一デナリを与えた。五時に雇われた者は、仕事に不慣れな新米で、鍬を入れたり、土を掘ったり、余分な枝をおろしたりといった種類のことしかしなかったが、彼には一デナリが渡された。そこへ別の男が、額の汗を拭き拭きやって来て、「あゝ! この十二時間せっせと働いたぜ」、と云った。そして彼にも一デナリが渡された。どちらが多くも少なくもなかった。その葡萄畑に働きに来た全員が、一デナリをもらった。このように神は、報いの分与におけるご自分の主権を示しておられる。労務者たちの何人かが家の主人に文句をつけたとき、彼はそのひとりに答えて云った。「『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」[マタ20:13]。最後に来た者は、最初に来た者と全く同じだけのものを受けた。

 私は、果たして、いわゆる栄光の程度という教理が真実かどうか、あまり確信が持てない。私はそれが説教されるのを何度となく聞いてきた。だが私はまだ、それを支持するいかなる聖書の裏づけも見たことがない。この教理を主張する人々が普通持ち出すのは、「個々の星によって栄光が違います」[Iコリ15:41]、という箇所である。しかし、文字が読めて、その箇所に目を向ける人ならだれでも見てとるであろうように、使徒は天国における栄光の程度について語っているのではなく、星界の天における種々に異なった栄光について語っているのである。それだけでなく、星々は栄光の程度において何の差がなくとも異なっていることがありえる。あるものは赤く、別のものは緑で、三番目のものは黄色かもしれないが、みなが同じくらい明るいかもしれない。それと同じように、あらゆる聖徒は何らかの点で異なっているであろうが、私はなぜ栄光に程度の差がなくてはならないのかわからない。栄光には程度があるかもしれない。だが、聖書を読んだ上で判断する限り、私はこの教理が真実であることを示す証拠をこれっぽっちも見てとれない。

 聖徒の栄光とは何だろうか? それはキリストの義ではないだろうか? そして私は、すべての聖徒の中で最も小さな者であるからといって、最大の聖徒よりも少なくしかキリストの義を持っていないだろうか? 聖徒の栄光とは、その《主人》の愛ではないだろうか? そして、私の《主人》は、狭い四階に住み、誰にも知られずひっそりと死んでいった貧しい老女を、最も人気のある教役者を愛するよりも、少なくしか愛そうとしないだろうか? あゝ! 愛する方々。下界では恵みに程度はある。だが、栄光にいかなる程度があるかは私たちにわかっていない。なぜ病床で寝たきりの、長年自分の《救い主》により頼んでいた、あわれな人が、主への奉仕に困苦することを許されてきた別の人よりも少ない栄光しか持てないのだろうか? 確かに、地上で忙しく良いわざに励むことは私たちにとって栄誉である。だが私たちは、栄誉のための栄誉を受けたいとは思っていないし、神が地上で私たちに少しばかり多く栄誉を与えておられるからといって、私たちと御民の他の人々との間に永遠の違いがあればいいとも思っていない。しかり。愛する方々。葡萄畑で働いた全員が一デナリをもらえたのであり、あらゆる聖徒は、神ご自身の時に、天国に行くことになり、キリストとともにあり、キリストのようになるであろう。いかにしてある者が他の者よりも格段にキリストと1つになるなどということがありえるだろうか? すべての信仰者は血で洗われており、すべてが同等に義と認められ、すべてが同等に聖められている。また、彼らの人格がみなきよくなるように、私たちの信ずるところ、彼らの天国は同等であろう。たといそうでなくとも、聖書は確かに栄光の程度という観念に何の支持も与えていない。

 この永遠の報いという件において、神はその主権を現わされるであろう。そこには、九十歳になるまで生きて、人生最後の年にやっと救われた老人がいるであろう。だが、天国に入るときその人は、テモテのような者と同じくらいキリストのみそばに座ることであろう。テモテは、ほんの若年の頃に召されて、長い間福音を宣べ伝えて用いられ、その頭に光栄を戴いて死んだが関係ない。そこには、あの十字架にかけられていたときに救われた強盗のような、あわれでみじめな罪人がいるであろう。だがその人は、使徒パウロや使徒ペテロと同じくらい甘やかな、また同じくらい声高で、力強い歌声を上げるであろう。「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません」。――ある人と別の人との区別はない。「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」[ロマ10:12]。このように、神はその主権を、救われる人々を選ぶことにおいて、彼らが救われる時を選択することにおいて、彼らの究極の報いにおいて、現わしておられる。

 II. ここから私たちが考察すべく至らされるのは、《その主権において提示されている神の大いなるあわれみ》である。

 この主人が自分の葡萄畑のために人を雇おうとして出かけたのは、人手が必要だったからではないだろうか。しかり。だが、神が人々を雇おうとして出かけ、彼らをご自分の葡萄畑に連れて来られるのは、彼らを必要としておられるからではない。この世には、神にとって欠かせない人間などひとりもいない。時として、人々のこう云う声を聞くことがある。「おゝ! もし誰それ先生がお亡くなりになったら、教会はどうすればいいでしょう?」 何と! 以前にしていたようにするがいい。――おのれの神に頼って生きることである。というのも、――

   「被造(つくられ)し川 みな干(かわ)くとき
    御いつくしみぞ つゆ変わらざる」

からである。そして神は、そのしもべのだれかを召して取り去られるとき、私たちがいなくとも、私たちがいるときと全く同じくらい、その永遠のご計画を成し遂げることがおできになる。このたとえ話の主人は人手が必要だったが、神は人間たちからは全く独立しておられる。そして、ここに神のあわれみは明らかに示されている。すなわち神は、はっきり人間たちなどなしで済ますことができるときにも、ご自分の葡萄畑にやって来させる人々を探しに出かけてくださるのである。神は私たちのだれかを必要としておられるだろうか? 何と! 星々を導き、指先1つでそれらに自らの軌道を回らせているお方が、私たちのひとりのような、取るに足らない一原子をご自分に仕えさせる必要があるだろうか? 何と! 御使いの万軍が礼拝しているお方、その御座の前で智天使が翼で顔を隠しつつ叫んでいるお方が、人間のようにちっぽけな被造物にご自分をほめさせ、あがめさせる必要があるだろうか? たとい人間たちを必要としておられたとしても、神はご自分の心のままに、たちまち強大な王や君主たちを数多く作り出してはご自分に仕えさせ、ご自分の足台の前で王侯たちを額ずかせ、皇帝たちを凱旋行列の先駆けとすることがおできになったであろう。しかし神に人間たちは必要でなかった。神はみこころであれば、彼らなしで済ますことがおできになった。おゝ、お前たち、星々よ! お前たちは輝かしい。だが、お前たちは神の道を照らすともしびではない。神はお前を必要とされない。おゝ、太陽よ! お前は輝かしい。だが、お前の熱はエホバを暖めない。おゝ、大地よ! お前は美しい。だが、お前の美しさは神の心を喜ばせるために必要ではない。神はお前なしでも十分に喜んでおられる。おゝ、お前たち、稲妻よ! お前たちは神の御名を真夜中の暗黒に焔で書き記すが、神はお前たちの輝きを必要とはされない。そして、お前、すさぶる大海よ! お前は力強いが、お前がその厳粛な合唱によって神への讃美を歌っても、お前の嵐が神の栄光をいや増すわけではない。お前たち、風よ! お前たちは道なき大海を神に供奉して練り歩くが、――お前たち、雷よ! お前たちは神の声をすさまじい威厳とともに発し、神の軍勢が前進していく後を辿るが、神はお前たちを必要とされない。お前たちなしでも神は偉大であり、お前たちを越えて偉大であり、お前たちを絶して偉大であられる。そして神は、お前たちを必要としないように、私たちをも必要とされない。

 それから、神のあわれみが、私たちのいずれかの者の後を追ってくることを眺めるがいい。私の後を追い、あなたがた、私の姉妹たち、兄弟たちの後を追ってくるのである。神の恵みをあがめるがいい。このたとえ話の主人を眺めるがいい。彼は朝早くに出かけている。夕方遅くに出かけている。そして、その間も何度も出かけている。それと同じように、神はそのあわれみにおいて倦むことがない。この主人は朝早く起きては、自分の葡萄畑で働く人々を見つけに出かけた。神もそれと同じである。ある人々のもとに、神はいかに早くからお出かけになることか! 神の愛する御名はほむべきかな。私たちの中のある者らは、非常に幼い頃に、聖所のともしびによって、私たちの眠りに照らされていた。私たちは、小夜の寝ざめに、古の幼子サムエルのごとく主が、「サムエル。サムエル」[Iサム3:10]、とお呼びになったとき、また、私たちが、「はい。ここにおります」、と答えたときのことを思い出すことができる。おゝ! 私たちは、私たちの祖母ロイスが、また、私たちの母ユニケが[IIテモ1:5]、私たちに聖書から教えてくれたのを思い出すことができる。私たちが敬虔の膝の上であやされていたときのこと、聖なる歌の息吹をついていたときのこと、天の芳香の満ちた雰囲気に包まれていたことを思い出せる。それを私たちは、物心つく前から吸い込んでいた。あゝ! 聞くがいい。あなたがた、恵みの子らよ。神はあなたがたの中のある人々のもとに非常に早くから来てくださった。だが、愛する方々。神は倦み疲れない。神はある人々のもとに朝早くから来てくださったが、彼らは行こうとしなかった。神は福音説教によって彼らを追いかけてくださったが、彼らは教役者の云ったことをすべてはねつけた。だが、神は救おうと心に決めておられるとき、倦み疲れず、五時に至るまでも求め続けてくださる。

 さて今、おゝ、あなたがた、白髪の人たち。神はあなたがたの中のある人々を追いかけておられる! あなたが、ごく幼い頃から神の聖所に通ってきたことは、これまでの所ほとんど、あるいは全く役に立たなかった。だが今、私は切に願う。この五時においてすら、神があなたのもとに来ておられることを考えてほしい。というのも、神のあわれみは疲れを知らず、神の恵みは不変だからである。ある人に心を定めておられるとき神は、第一のときに来なければ、次のとき、あるいは別のときに来てくださる。天来のあわれみによって神は、おいでになる気持ちを甘やかに起こされる。私たちの神の御名はほむべきかな。私たちの諸教会の中に加わったある人々は、世界中のいかなる軍隊にも入隊を認められなかったであろう。老齢のため弱り果て、戦えないからである。彼らの目はかすみ始めており、時の翁は彼らの額に自分の名を書き記し、彼らの頭髪は漂白され、白くされ、彼らは杖に寄りかかりながらやって来ては、主の贖いの愛について自分の知っていることを私たちに告げてくれる。私が聞いた中でも最も甘やかな話のいくつかは、白髪の罪人たちによって語られたものである。そうした人々は、その後半生になり、墓場の瀬戸際で震えていたまさにそのときに救われたのである。あなたは、自分もそのような光景が見える気がするだろうか? あわれな、老いた罪人がよたよたと歩いている。次の瞬間には、地獄の中にいることになるであろう。神の御声を聞くがいい。「ガブリエルよ。あの男をとどめよ! もう一歩で、彼は底知れぬ所にいることになる!」 ガブリエルが急降下し、彼の腕をつかまえ、しばし彼を引き留めると、その間に聖霊が彼にささやく。「必ず来る御怒りから逃れよ!」 そして、後ずさりし始めて彼は、自分がほとんど落ち込みそうになっていた底知れぬ所を眺める。彼はうつろな時が永遠へと落ち込みつつある音が聞こえる。だが、彼は救われる。

 確かに、五時に召された白髪の人にまさって神をほめたたえる人は、ひとりも天国にいないであろう。そのような罪人たちが導き入れられたことについて、神の御名はほむべきかな。あわれな、老いさらばえた被造物たち、働ける年齢はとうに越えて、何の役にも立たない。だが、彼らは救われている。しかり。サタンに奉仕することで自分をすりへらしてきた者たちでさえ、神は喜んで受け入れてくださる。悪魔の老いぼれ馬をキリストは廃棄しない。この世で役立つものを何1つ有していない人々を、イエス・キリストは五時に恵み深く受け入れてくださる。主は彼らに、この主人が市場にいる人々に語ったように、こう云われる。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか」。

 愛する方々。あなたは、このように人々を五時に召しては作り替える、神のこの途方もない、驚くばかりの、めざましい恵みをあがめないだろうか? かりにある若者が非常にあわれな人生の状況にあるとする。あなたは彼のもとに行き、こう云う。「私の家に来て、私の息子になりなさい。私はあなたを洗いきよめ、暖かい着物を与えよう。あなたを金持ちにしてあげよう」。しかし彼はぷいと背を向け、あなたの招きを侮辱する。面と向かってあなたを辱め、あなたの友人たちをあざけり、あなたの聖なる日々を破り、徹底的にあなたを軽蔑する。あなたが再び彼を眺めるとき、彼は中年になりかかっている。あなたは彼のもとに行って、こう云う。「もう私のところに来て、私の息子にならないかね?」 「いやだね」、と彼は云う。「行くもんか」。彼が四十歳か五十歳になる頃には、あなたは彼について、ほとほとうんざりしているとは思わないだろうか? そして、もしも彼が七十歳か八十歳になったとき、あなたのもとにやって来て扉を叩き、あなたの養子にしてほしいと頼むようなことがあったとしたら、あなたは彼のもとに出て行き、こう云わないだろうか? 「何と! よくも図々しく私の前に顔を出せたものだな。この四十年、五十年、六十年の間、お前は私の招きを受け入れるのを拒んできたではないか! この薄汚い恩知らずめが。もうお前とは一切関わり合いは持たん。お前は、今のお前を私が受け入れるとでも思っているのか? 受け入れてもらう値打ちなど何1つ残っていないお前を? この年月の間中お前がいたところに戻って行け。お前が若かった頃に仕えていた者どもに、年取った今も仕えればいい! お前が若かったときには罪を散々楽しんだものだ。今も楽しんで来るがいい! 自分の宗教の救貧院を持つというのは大したものだな。年を取って自分で自分の面倒が見られなくなったら、私のところにやって来るというわけだ。とっとと出て失せろ!」 あなたや私なら、そのように行動するであろう。だが主は違う。主は、老いた白髪の罪人を追い払わないだけでなく、ご自身でその人の後を追う。さもなければ、その人はやって来はしないであろう。主はご自分のしもべたちを遣わしたが、その人は何度も何度も彼らを拒絶した。主は、「わたし自身が彼のもとに行かない限り、彼はやって来るまい」、と云われた。それで主は、そのあわれな中風の男のもとに出かけた。その、ご自分にとっては何の役にも立たない男のもとに行って、こう云われた。「わたしのもとに来なさい! あなたさえも、わたしは永遠の愛で愛した。それでわたしは、あなたさえも救うのだ! あなたは底知れぬ所に下ることから救い出され、あなたの目は涙から、あなたの足は落ちることから救われるであろう」。そこにあるのが神の主権である! 比類なきあわれみである!

 III. さて、神の御助けによって私たちは、《努めてこの主題を厳粛に適用したいと思う》。最初は、《老人に対して》である。

 若者が、単に若者として、年老いた人々に語りかけたとしたら、それは増上慢であろう。だが、説教者としての私は神の使節であり、神が私を遣わしておられる以上、いかなる人も私の若さを蔑むことは許されないし、それをこれっぽっちでも考慮するべきではない。私自身それを考慮すべきではない。私は、最高齢の教役者が引き起こせるのと全く同一の権威をもって語る。というのも、私にはその人が有しているのと同じ任務があり、その人の使信と全く劣らない使信を有しているからである。老人よ。ここに来るがいい。私はあなたに、厳粛な語りかけをしよう。来たるべき御怒りについてあなたに警告しよう。

 白髪の人よ。まず第一に切に願いたいが、自分がいかに多くの歳月を無駄にしてきたか思い出すがいい。あなたの浪費してきた人生を振り返り、あなたの年月を何度も何度も数えるがいい。あなたは自分の六十年、七十年、八十年について何と云うだろうか? あなたの収穫期は過ぎ去り、あなたの夏は終わり、あなたは救われていない。あなたの若い頃には、おゝ、そのときなら、いかに多くのことをあなたはできていたはずか! あなたの中年の頃には、おゝ、いかにあなたの精力を、あなたの同胞に善を施すために費やせたはずか! あなたの老年の何年かさえ、いかにそれが無駄にされ、濫用されてきたことか! 私は切に願う。泣くがいい。激しく泣くがいい。時の荒廃によって畔を刻まれた、あなたの頬が、しばしの間、厳粛で痛烈な、悔いる涙を感じるように、と。なぜなら、あなたはこうしたすべての年月を無駄にしてきたからである。

 また思い出すがいい。あなたが決してそれを取り戻せないことを。あなたは、いくら長生きしようと、決してそうした歳月を少しも取り返すことができない。それらは羽根をつけてあなたの後ろに飛び去ってしまった。それらは、とうに大昔のこととなっている。そして、あなたが今いくら苦労しようと、あなたは決して失った時を取り戻すことはできない。その取り返しをつける見込みは全くない。たといあなたが、国王の身代金でさえたちまち数えて出せたとしても、ほんの一時間すら取り戻すことはできない。ならば、考えるがいい。愛する年老いた方々。いかにあなたの時間の多くがすでに無駄にされてきたことかを。また、いかに多くの年月が消え去ってしまい、いまだにあなたが救われていないかを。

 次に考えるべきことは、かりにあなたが、いま救われたとしても、あなたがいかに僅かなわざしか神のために行なうことができないかということである。あなたは、せいぜい、ほんの数年しか神に奉仕することができないであろう。死はあなたの門前に来ている。その門は、年齢という破城槌の下でぐらついている。死はすでにあなたを包囲している。あなたの《人霊》の町の城壁は、腐敗という破壊兵器の下で揺らいでいる。まず間違いなく、あなたは、もう数年しか生きられないであろうし、ことによると、もう数箇月か、数週間か、あるいは、ほんの数日の命かもしれない。その後であなたは、すべての肉なる者の辿る道を行かなくてはならない。

 また、考えるがいい。おゝ、年老いた人よ。たといあなたが、この五時にこの葡萄畑に寄こされたとしても、あなたが他の人々のためにいかに僅かしか行なえないことか! あなたは、今は福音を説教することはできない。あなたの目はかすみすぎていて、神のことばを他の人々に読んでやることができないかもしれない。あなたの声は美しい調べを失ってしまっている。かつては情欲がのぞいていた窓は暗くなってしまい、いのちの火がそれを再び燃え立たせる見込みは全くない。今あなたが救われるとしても、いかに僅かしか行なえないかを考えるがいい。もしあなたの救いがなおも延ばされるとしたら、いかにさらに少なくなることか。そして、あなたは来たるべき何年もの間、罪から解放されないのである。過ぎ去ったものを考えて、あなたがた、白髪の頭をした人たち。今すぐ主に立ち返るがいい。

 おゝ、年老いた罪人よ。いかに多くの労苦があなたのため無駄になったことか考えてみるがいい。あの葡萄園の番人は、実を結ばないいちじくの木についてこう云った。「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」[ルカ13:8]。いかにあなたが回りを掘られて、肥やしをやられてきたことか! また一年の間、あなたは百四回もの説教を耳にしてきたが、しかしあなたは救われていない。五十年間、六十年間、あなたは安息日ごとに聖所に通っていたが、大理石の板から垂れる油のように、みことばはあなたから流れ落ちてきた。何千もの説教を語られても、あなたは変わらず死んだままであった。無数の警告が、いわば海に放り込まれた小石のように、沈んでは失われ、なくなってしまった。あなたのすべての安息日において、あなたは天国と確かな取引をすることを全くしなかった。あなたは、この世のためには十分に骨折り仕事をしてきた。ならば、今あなたが得たすべてはどこにあるだろうか? あなたは、あなたの宝を穴だらけの袋に入れてきたのである。あなたは「風を蒔いて」きたのであり、急いで悔い改めて、主を求めない限り、「つむじ風を刈り取る」[ホセ8:7]であろう。

 もうひとたび考えるがいい。老人よ。あなたはいかに長い間、またいかに大いに、あなたの神を怒らせてきたことか。あなたの若い時の罪[詩25:7]を思い起こすがいい。いま死に触れられて震えている、あなたの手は、いかにしばしば若い頃には、大酒のみの葡萄酒杯をつかんできたことか! あなたの成人時代を振り返ってみるがいい。それはサタンにささげられたもの、咎の極悪さに黒々と塗られてきたものではないだろうか? そして今、この時に至るまで、あなたは、なおもあなたの神を怒らせ、あなたを打ちのめさせている。神の寛容な御腕はあなたを打ち砕いてはおらず、神のあわれみは正義の剣を差し控えている。だが、このように恵み深い扱いがそれほど長く続くと期待できるだろうか? 神は永遠にあわれみ深くあられるだろうか? 神は永劫にわたっていつくしみ深くあられるだろうか? そして、もし神のあわれみが尽きたとしたら、神の正義があなたの魂をさっさと始末するではないだろうか?

 だがしかし、もしそう考えてもあなたが悔い改めに奮い立たされないとしたら、もうひとたび考えるがいい。もしあなたが救われないでいるとしたら、あなたのために定められている場所がいかに身の毛もよだつ恐ろしいものとなることか! あなたが受けることになる破滅がいかにぞっとさせられるものであることか! あなたは若い罪人ではない。――彼も地獄に落とされるであろう。あなたは老いた罪人である。――あなたの運命は、いかにいやまさって恐怖させられるものであることか! あなたは、単なる若者の情動のゆえに罪を犯してきた者ではない。情動が衰え失せたときも、また思慮があなたの魂を手中に収めたときも罪を犯してきた。あなたは、青春の情熱と激発が消えたときも罪を犯してきた。それゆえ、あなたは若者以上に悪い罪を犯してきたのである。おゝ、老人よ。子どもがあなたに警告してよいだろうか? 私は確かにあなたを心の底から愛しているし、今でさえ私の若い目はあなたのために泣いている。あなたは今まで、目の見えなくなった老人が幼子に手を引かれているのを一度も見たことがないだろうか? 今あなたに語っているのは子どもである。おゝ、白髪の人よ。もし私が、若者が、救われ、あなたが、年老いている者が失われるとしたら、それは、あなたにとって永遠のみじめさの源泉とならないだろうか? おゝ! あなたが若いキリスト者を見るとき、涙があなたの頬を流れ落ちないだろうか? 恵みのうちにある子どもを見るとき、悔悟の吐息があなたの胸をついて出てこないだろうか? もし私があなたのように老いており、若い子どもたちが救われているのを見るとしたら、私はみじめさのあまり手をもみしぼってこう云うような気がする。「おゝ、主よ。このような子どもがキリスト者だというのに、私は救われておらず、赦されておらず、なおも罪の赦しを受けていないのですか?」 震えて、震えて、震えるがいい。おゝ、年老いた罪人よ! 恐れて、恐れて、恐れるがいい。おゝ、新しく生まれていない老人よ! 自分が失われるだろうことを思って、あなたの膝をがくがく鳴らし、あなたの血を凍らせ、あなたの心臓をおののかせ、あなたの肌に粟立たせるがいい。主なる神にかけて云うが、あなたと死の間には、ただ一歩しかないのである。――あなたと地獄の間には!

 しかし、ここには《若者》がいる。そして、この人々は、もしかすると、微笑みながらこう云っているかもしれない。「あゝ! こうしたすべては老年に良い忠告だ。老いた人々が信心深くなることは全く正しい。だが、なぜ私たちが今からそうしたことを考えなくてはならないのか? 私たちはまだ自分の五時には達していないのだ」。あなたは何と云ったのか、若者よ? 「私はまだ自分の五時には達していないと云いましたよ」。あなたは何と云ったのか? その言葉を繰り返せるだろうか? 否。そうはできないであろう。というのも、あなたは、あなたの五時がいつになるか、知らないからである。いつが自分の五時になるか知っているような者がいるだろうか? あなたがたの中のだれか、あなたの生きていられる日があとどのくらいあるか知っているだろうか? 私は知らない。あなたも知らない。私の愛するあなたがたの中に、自分の死の時はまだまだ先のことだと考えている人がいるだろうか? 否。愛する方々。この世には、会堂の会衆席に座っていながらの死というものがある! 死の御使いは今朝、その扉から入ってくるかもしれない。その黒い翼をこの場所ではためかせて、破滅のしるしをつけられただれかを見つけ出すかもしれない。そして、あなたは自分の家に入り、あなたの魂は旅立ち、あなたはこの生の段階から去ってしまっているかもしれない。

 ならば、私は云う。考えるがいい。というのも、あなたがたはみな、恵みによって召されていない限り、五時になった人のように、仕事もせず市場で立ちつくしているからである。考えるがいい。たといあなたがたがごく若くとも、あなたはあまりにも多くの時間を、すでにサタンとこの世にささげてはこなかっただろうか? 私は悪魔がある人の人生の最初の二十年間を所有してほくそ笑むことを好まない。考えるがいい。若者よ。サタンは、あなたから十分以上に奉仕されてきたではないだろうか? あなたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、種々の情欲や情動にふけったものだが、それは過ぎ去った時で、もう十分ではないだろうか[Iペテ4:3]。あなたは、死の床についたとき、自分が何年もの間罪のうちを生きてきて、早くから救われなかったことを思い起こして慰めが得られると思うだろうか? そして、あなたは知らないのだろうか? キリスト教信仰は非常に甘やかなもので、たとい自分の魂の安全のために必要でなかったとしても、その甘やかさのゆえにそれを求めてよいものであると知らないだろうか? あゝ! あなたがた、五時になった人たち。というのも、あなたがたはみなそのような者だからであるが、願わくは私たちの《主人》が、今まさに、あなたのもとに来てくださるように。そして、もしあなたがたが何もしないでいるのを見いだしたとしたら、こう云ってくださるように。「私の葡萄園に行って働きなさい」、と!

 しめくくりに私は、私たちの間にいる、最も高齢の人々を励ます言葉を少し語ることにしよう。自分が年老いているからといって、希望の埒外にいると考えてはならない。サタンが、「おゝ! お前は救われるには年を取りすぎている罪人だ」、と云っても信じてはならない。彼に告げるがいい。お前は嘘つきだ、お前はこのことについて何も知っていないのだ、と。というのも、救われるのに年を取りすぎている者などひとりもいないからである。神は、ご自分のもとに来るすべての者をあわれんでくださる。神は若さに何の異議も唱えない。老齢に何の異議も唱えない。これを聞くがいい。あなたがた、年老いた罪人たち! もしあなたがたが今、罪の感覚のもとにあり、もし救われることを願っているとしたら、主イエスのうちには、あなたに対してすら、あわれみがある。そして、おゝ、愛するひとりびとりの方々。あなたは今晩あわれみを叫び求めているだろうか? あなたは赦しを願っているだろうか? いのちの短さ、死の確かさを感じているだろうか? あなたは、ほんの数日で、数箇月で、数年で、狭い数枚の板があなたのからだを納めて、あなたの魂がそこから永遠へと立ち去ることを知っているだろうか? あなたは、天国か地獄へと至る、道なき砂漠を越えて行く《道案内》を欲しているだろうか? あなたをパラダイスに至らせてくれる《案内人》を欲しているだろうか? 《天の都》へとあなたを運び上げてくれる御使いの翼をほしがっているだろうか? あなたをきよめるキリストの血を求めているだろうか? あなたをきよめる神の恵みを求めているだろうか? ならば、あなたのためにはあわれみがある。こうした必要を感じ、それを主に願い求めるすべての人々のためにはあわれみがある。そのみじめな人間が道を外れていればいるほど、ここでは歓迎される。その人格が悪辣であればあるほど、主イエスのもとに行くべき理由がある。私たちが宣べ伝えているのは無代価の恵みである。そして、最も卑劣な者、最も咎重い者、最も年老いた罪人、最も若い罪人――自分に《救い主》が必要だと感じるだれもが、今その《救い主》のもとで喜んで迎えられるのである。主がこのお方を求める恵みをあなたに与えてくださるように! 覚えておくがいい。いかに小さな祈りも聞かれるということを。いかに弱い願いも、いかにかすかな呻きも、天では認められるであろう。そして、たといあなたが、自分があわれみを見いだすことなどほとんど考えられないとしても、もしそれをキリストによって求めるならば、あなたは何にもまして確実に見いだすはずである。

 では、いとま乞いの時である! おさらばだ! 老人よ! 私はあなたがどのような人かを知らない。だが、私の心には、あなたを求めよという思いがのしかかったため、私はあなたを求めてきた。おゝ、あわれな老人よ。あなたは、かつて松葉林で道に迷った人に似ている。その人の回りには雪が降り積もり、空は暗く、湿っていて、寒かった。遠くから狼の吠え声が聞こえ、その人は夜の闇の中で自分が食い尽くされるのではないかと恐れた。彼の守りとなるものが1つだけ残されていた。それは、火をつけて、それによって身を暖め、野獣を恐れさせて遠ざけることであった。彼は、手当たり次第に松の木と乾いた枯葉を集め、自分の燐寸箱を取り出した。一本の燐寸を擦ろうとしたが、何にもならなかった。もう一本、もう一本、さらに一本試してみた。そして、一度火がともったと思った彼は、それを慎重に手で守りながら、積み上げた木の下に置いておいたたきつけまで持っていこうとした。だが、苦く失望させることに、それは消えてしまった。何度か彼は自分の燐寸を擦り続けた。最初は、全くぞんざいに行なっていた。だが、その数が減っていくにつれ、彼は一本一本をずっと気をつけて擦るようになり、とうとう最後の二本になった。彼は最後から二本目を擦って、それを自分の松の木の下につけた。それは一瞬、燃え上がったが、一陣の風によって消えてしまい、今や最後の燐寸しかなくなってしまった。狼は吠え、荒々しい風は吹きすさみ、雪は降り続け、夜は深まりつつあった。彼は、火もなく一晩中そこで過ごさなくてはならないのかと震え上がった! すでに彼のこわばった関節は凍りつくようであった。彼の指は凍えんばかりであった。あなたも思い描けるであろう。いかにこの人がしゃがみこみ、火をたきつけようとする付近で、最後の燐寸を擦ろうとしているかを。あなたも想像できるであろう。いかに熱心に彼が、最後には成功するよう神に祈りをささげたかを。「おゝ、主よ。この最後の燐寸がうまく行きますように」、と彼は叫んだ。そして彼は、それがまた失敗しないようにと、何度となくその燐寸をしげしげと眺めた。彼はその燐寸を擦った。それに彼の命がかかっていた。それが彼のすべてだった。だが、彼は擦った。あゝ、何と素晴らしい! 火がついた。炎が燃え上がった! 彼は尻餅をついて、歓声を上げた。彼は救われたのだ! 救われたのだ! さもなければ、火は消えてしまい、狼が彼をむさぼり食っていたであろう。そのように、そこに白髪の老人がいる。その人の燐寸箱には最後の一本の燐寸が残っている。その人は、その六十九本を擦ってきたが何にもならなかった。そして今その人は七十本目を取り上げている。おゝ、神よ。もしあなたがその人のために七十本目を擦ってくださらなければ、その人は永遠に失われてしまいます! もしあなたがその人に天からの光を与えて、上からの炎を与えてくださらなければ、その人は永遠に滅びてしまいます! 神が、その最後の燐寸をあなたのためにうまく燃え上がらせてくださるように。おゝ、老人よ!

 神の祝福があるように! 愛する方々。あなたがた全員が良い年を迎えることができるように! あなたがたの中の、天国へ向かいつつある人々がさらに多くの年を重ねられるように。また、来年が巡り来る前に神がお取り去りになる人々は、天国で新しい年を迎えられるように! さらば!

 

 

年老いた者への良い知らせ[了]

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