HOME | TOP | 目次

「十字架のつまずき」

NO. 2594

----

----

1898年10月30日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1856年某月、主日夜の説教


「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです」。――ガラ5:11


 イエスの宗教は、いまだかつて宣布された宗教の中でも、最も平和的で、最も温和で、最も情け深い宗教である。人間が発明したいかなる一連の教義とくらべても、それらの1つとして、優しさや、温和さや、愛にかけて、これと比肩しうるものはない。マホメットの宗教について云えば、それは禿鷹の宗教である。だがイエスの宗教は鳩の宗教である。――すべてがあわれみであり、すべてが温和である。それは、その《創始者》のように、純然たる慈悲心と恵みと真理の体現にほかならない。

 だがしかし、こう云えば奇妙なことだが、福音がいかに優しく、その信仰告白者たちがいかに――正しく身を処しているときには――悪に立ち向かわずに、何であれ服従し、常に無害な者であることを証ししてきたかにもかかわらず、――それでも、この世の何にもまして世界に騒擾を引き起こしてきたのはキリスト教信仰であった。それは剣ではないが、この世に戦争をもたらしてきた。それは火ではないが、多くの古来の制度を焼き尽くし、人々が永遠に続くと考えた多くのものを焼却してきた。それは平和の福音だが、しかし親友同士を引き裂き、至る所で凄惨きわまりない不和と混乱を引き起こしてきた。これは、それ自体としては、完全に優しいものでありながら、あたかも丁子(ちょうじ)の軍旗が戦闘旗であるかのように、また、平和の十字架を掲げることが戦闘信号であるかのように――例えば、古のスコットランドで各氏族を戦闘に召集するのは、血の赤に燃える十字架を送り渡すことであった――思われた。これは奇妙なことだが、奇妙にも真実なことである。キリストの十字架は常につまずきであったし、それは、いまだかつて人間がその同胞に対して有したことのある、最も熾烈な戦いと、最も呵責のない争いを引き起こすものであった。

 本日の聖句の考察に当たり、私がまず多少とも語りたいのは、「十字架のつまずき」とは何か、ということについてである。第二に、人々はいかにして十字架に対するそのつまずきを現わすかである。第三に、十字架につまづいている人々に向かって私は、いささかなりとも、その愚かさを示したいと思う。そして最後のしめくくりとして、二、三の推論を引き出し、キリスト教の教役者たちと、教会一般に特に益をもたらしたい

 I. では第一に、このことを調べてみよう。《「十字架のつまずき」とはどこに存しているのだろうか?》

 ここで詳細を述べるいとまはないが、まずこう云えよう。「十字架のつまずき」は、第一に、それがあらゆる人間的な知恵を扱うしかたのうちにある。哲学者は、眼鏡を目に当てて十字架を眺めてから、こう云う。「私が見るに、ここには大して素晴らしいものはない。この私の素晴らしい眼鏡をもってしても、そこらの貧しく卑しい百姓が見てとれる以上のものは何も見当たらない。私は、そんな宗教体系に関心はない。どんな間抜けにでも十字架は理解できるではないか」。それで彼は十字架を見過ごしにし、単に鼻であしらうのである。論争を愛する人が福音のもとに来ると、そこには純然たる独断的主張があることに気づく。これこれの事がらが真実であると云われており、罪人はそれを信じなければ断罪される。「私は信じないぞ」、とその人は云う。「私は盲目的に福音を信仰したりするものか。私は教理の点について討論したい。それらについて論争したい。いくらあなたがたの説教者が、『これが真理だ。すべての真理だ。真理以外の何物でもないのだ』、などと云っても耳を傾けはしない。そうした権柄づくで語る人間の話など聞いたりしない。私が好むのは、十分に疑いの余地を残してくれる人々である。私の好きなことを信じさせてくれて、それ以上のことを求めない人々である。私は自分の理性と常識を用いる方がずっと好きなのだ」。こういう人のもとへ行き、「これを信じなければ滅びますよ。これを信じなければ救いの枠から閉め出されますよ」、というような宗教について話をすると、その人はプイと立ち去り、「そんなしろもの信じるものか」、と云う。そして、何を信ずるべきかを問うとき、その人は、自分は神のことばすら越えて賢いのだと公言する。「何と!」、とその人は云う。「贖罪を信じろですと? そんなことはできませんよ。それは私の常識に反しています。選びの教理を信じる? 何と、それは私の人間性にとって衝撃ですよ! 人間の性質が全的に堕落しているとか、新生しなくては救われないとか信じろですと? 何と、一瞬だってそんな教えは受け入れられませんよ。それは、学者たちがこれまで教えてきたすべてのことに反していますし、どんな哲学者が編み出したこととも違っています。だから私はそれを受け入れないのです」。そして、その人は十字架に対する憎悪とともにそっぽを向くのである。その人は、十字架の途方もない単純さのゆえに十字架に耐えられない。もしそれが、一般民衆には会得できないほど素晴らしいもの、自分の巨大な知性をもってして初めて理解できるものだったとしたら、その人もそれを受け入れることに否やはないであろう。だが、それがあまりにも素朴で単純であるため、その人は不快そうに背を向けるのである。その人は十字架の福音に耐えられない。そこには、その人を満足させるほどの世的な知恵が足りない。そしてその人は、十字架につけられたキリストという知識が、ありとあらゆる科学を越えて、はるかに卓越したものであることも、理性がいかなる場合にもまして栄光を与えられるのは、それがへりくだって十字架の陰に腰をおろすときであることを知りもしないか、忘れているのである。

 しかし、キリストの十字架には、それよりも強く人々の高慢を傷つけるものがある。すなわち、それは、人間の能力に関する人々のあらゆる観念に反対している、ということである。自力に頼って救われようとしている人は、十字架の教理を好まない。もしだれかが罪人に向かって、あなたにも自分を救う力はあるのだ、というような福音を宣べ伝えたり、キリストが死んだのは万人を救われうる立場に置くためだったのであり、人は自分の持っている力を行使するだけで自らを救い出せるのだ、というような福音を宣べ伝えたりするとしたら、――もしある人がこのように、被造物の技能や力を持ち上げるような何かを宣べ伝えるとしたら、その人は自分の聴衆の中にいる新生していない人々を決してつまずかせることがないであろう。しかし、もしその人がいったん罪人をちりの中に投げ倒し始め、キリストご自身が教えたように、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」[ヨハ6:44]、と教え出すと、また、聖書では、すべての人が「罪過と罪の中との中に死んで」いる[エペ2:1]と宣言されているのだ、と教え出すと、高慢な罪人はそっぽを向いてこう云うのである。「このような侮辱には我慢がならない。私のあらゆる力がぺしゃんこにされるなど! 私がただの機械になり、一片の土くれになり、《陶器師》の手に全くゆだねて横たわるべきだというのか? そのような屈辱を忍ぶつもりはない」。もし教役者がその人に、少しは自分でもできることを示し、その人自身の偶像に少しは犠牲をささげることを許すとしたら、その人はこの偽りの教理を、雄牛が水を飲み干すように飲み下すであろう。だが、私たちがその人に、あなたは無力です、あのサマリヤ人の出会った血まみれの行き倒れと同じように無力ですと告げるので、その人は云う。「あんたの話など私には何の関わりもないよ」。

 また、やはり十字架が人々をつまずかせるのは、それが人間的な功績に関する彼らの考え方と真っ向から対立するからである。世界中どこを探しても、生まれながらにあらゆる功績をはぎ取られるのを愛する人などひとりもいない。しかり! 人間が何をおいても手放したがらないもの、それは自分の義である。私の知っているあわれな罪人たちは、シナイの山頂に立ち、その膝をがくがく打ち鳴らすほどになっていてさえ、なおも自分自身の義にしがみついている。また、やはり私の知っているある人々は、足元の大地を神の地震で揺すぶられ、頭上で雷鳴と稲妻が轟き閃いていても、それでも自分自身の義を堅く握って手放さなかった。人々からそれを取り上げるのは難しいことである。あなたもバニヤンがいかに語っているか知っているであろう。大勇氏が巨人絶望者を打ち殺したとき、この巨人は、「俗に命を九つ持つと言われる猫のように往生際が悪かった」。そして、私の確信するところ、自分を義とする思いは、それよりもずっと往生際が悪い。これはこの世で最も殺しがたいものである。あなたは自己義という雑草を刈り尽くすかもしれない。だが、あなたがその最後の一本を根絶したと思うとき、それは、あなたが自分の小刀を研いで、もう一度刈り込み出すよりも早く再び生え出すのである。この悪いものは人の心から生み出される。それに反対する説教をするとき、いかに人々が怒鳴り立てることか。彼らはこの教理に我慢がならない。

 私は時々このように告げる手紙を受け取ることがある。「あなたの会衆が全員罪の中に生きているとしても私たちは不思議に思いません。なぜなら、あなたは常に人間の義に敵対する説教をしており、あわれな罪人たちに向かって、単純な信仰によってキリストのもとに来なさい、恵みのみによって救われなさい、と招いているからです」。たぶん私も、そのようなことが起こったとしたら、彼らは不思議に思わないだろうと思う。だが、私の教会の信徒たちの全員が罪の中に住んでいるとしたら、私の方こそ不思議がるべきであろう。そして、神に感謝すべきことに、私はその件について不思議がるべき理由など何1つ有してはいない。というのも、天国のこちら側のどこを探しても、これ以上ないほど聖なる人々は、キリストの転嫁された義という教理を心に受け入れている人々だからである。彼らについて私が云えること、それは、恵みが彼らのうちに良い実を作り出しているのであり、彼らはまさに主を恐れかしこみつつ、互いに愛し合い、敬虔さと正しさを実践しながら歩んでいるのだ、ということである。しかし、世の人々はこの教えを我慢できない。なぜならそれは、彼らが大いに評価している功績を無にしてしまうからである。人々に向かって、あなたがたは非常に善良な性質の人々だと告げれば、彼らはそう聞かされるのを好むであろう。だが、そうしたうぬぼれこそ、幾万人もの破滅となっているのである。私の確信するところ、私たちが救われるのは、こう云い始めるときしかない。――

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

しかし、私たちが生まれながらの罪深い状態にある自分自身に満足している限り、私たちにはこれっぽっちも希望はない。それで、あなたも見る通り、私たちが人々に彼ら自身の功績により頼ませないところに、「十字架のつまずき」があるのである。

 しかし、別のつまづきがある。それは、非常に痛切なつまずきであって、この世は今まで一度も、その「つまずき」について十字架を容赦したことがない。十字架は、人類の間にいかなる区別も認めようとしないのである。十字架は、道徳的な人々も不道徳な人々も、同じ道によって天国に行かせる。十字架は、富者も貧者も同じ扉によって天国に入れさせる。十字架は、哲学者も百姓も同じ聖潔の大通りを歩かせる。十字架は、一タラントしか有していない、あわれな被造物にも、十タラントを有している人が受けるのと同じ冠を獲得する。このゆえに、賢人は云うのである。「何と! 私が、文字も読めないような輩を救うのと同じ十字架によって救われなくてはならないというのか?」 お上品な奥方はこう尋ねる。「私が、私の下女と同じようなしかたで救われなくてはならないんですって?」 家柄の良い紳士はこう云う。「私が、あの煙突掃除夫と同じしかたで救われなくてはならないのだと?」 そして自分の義を誇っている人はこう叫ぶ。「何と! 私が、売春婦と押し合ったり、酔いどれとへしあったりしながら、天国への路を進まなくてはならないのだと?」 ならば、方々。あなたは失われるであろう。天国への路は2つはない。同じ路を通って、あらゆる人が天国へ行くのである。そして、このゆえをもって十字架は、有名人や権力者にとって常に不快なものであった。――その前にへりくだって屈服した王や女王はごく僅かしかいない。人々は十字架を何か綺麗な装飾でくるみ、自分たちはそれを愛していると云ってきた。しかし、彼らの気に入っていたのは十字架ではなく、そのけばけばしい装飾物である。もしもそれが粗末な十字架であったとしたら、彼らは、マホメットの民がエルサレムで十字架をそうしたように、街路でそれを引きずっていたであろう。

 II. ここから第二のこととして告げたいのは、《いかにして人々は、キリストの十字架に対するそのつまずきを現わすか》ということである。

 昔の時代、彼らはキリスト者たちを焼き殺し、拷問にかけ、責め苦を与え、ありとあらゆる種類の、言語に絶する苦しみを味わせることによってそうした。しかし、その手ではうまく行かなかったので、悪魔は今は他の方策を採っている。彼らは、キリスト者たちを抑圧すればするほど、エジプトにおけるイスラエルのように彼らが増え広がることに気づいた。それで、今の彼は別のしかたで活動している。いかにしてそうしているだろうか? 必ずしも公然たる迫害によってではない。しかし、「十字架のつまずき」は時として、人目につかない迫害によって姿を現わすことがある。あなたがたの中には、主の民に迫害が加えられ続けているのを聞いていない人々もいるであろう。だがこの種の事がらは、あなたは知らないかもしれないが、しばしば私の注意にとまることがある。いかに多くの酔いどれの夫が、その妻をほぼ絶え間なく迫害していることであろう。その理由は、彼女たちが神に堅く結びついているからである! この場にいるいかに多くの青年たち、いかに多くの若い婦人たちが、キリストゆえに、父母や兄弟姉妹からの迫害に苦しむべく召されていることか! 迫害はまだやんではいない。それは陰険なしかたで働いており、世の前に公然とやって来はしない。古の時代のように、スミスフィールドとなって明るみに出はしない。もっともスミスフィールドの近隣にある多くの家には、その悪臭がしみ込んでいるかもしれないが。迫害は正々堂々とした装いでやって来はしないが、ひそかなしかたでその餌食を見張っている。それは獅子ではないが、うろついている野犬である。その荒々しさや貪欲さに変わりはない。そして、迫害が積極的な行為で自らを現わさないとき、それはあざけりや物笑い、冷やかしによって働く。そして、一言云わせてもらえば、正面からの中傷よりも、こうした手口によって、ずっと多くの人々が破滅させられているのである。冷笑して肩をすくめる人々は、自分では知らなくとも、普通は多大な害悪を及ぼす。あるとき、食卓に着いていた私が、ある人物の名を口にしたところ、だれかが肩をすくめて、「おゝ!」、と云い、その人物の人格の半分をかたなしにしてしまった。もしある人が別の人に何か物云いをつけたいことがあるとしたら、なぜ彼はそれを率直に口にできないのだろうか? なぜ私たちに何も知らせず、ただ揣摩憶測をたくましくさせるのだろうか? 別の人は云うであろう。「私はあなたを迫害したいとは思いません。あなたは好きなだけ会堂に出かけて行って良いのですよ」。だが、その顔つきには冷淡なあざけりが浮かび、その唇には冷酷な笑みか中傷が見てとれる。ありとあらゆる愚にもつかない悪口が蔓延し、福音の教役者とキリスト者たる人々に反するあらゆることがでっちあげられる。――こうしたすべてによって、なおも示されているのは、使徒たちの時代と同じように、今も「十字架のつまずき」はあるということである。

 しかし私は、近頃とみに愛好されている手口を告げることにしよう。それは十字架に反対するのではなく、十字架をグルグル巻きにして、その形をねじ曲げようとすることである。十字架の諸教理を憎む人々は云う。「私たちも福音を宣べ伝えていますよ」。こうした人々は十字架を変えて、変形して、それを「ほかの福音」――「といっても、もう一つ別に福音があるのではありません」――にしているのである[ガラ1:6-7]。他の人々は、もしもそう云いたければ、「しかり」と「否」は一致すると云うがいい。火と水が口づけし合えると云うがいい。キリストとベリアルが双子だと云うがいい。だがイエス・キリストの真の教役者にそのようなことはできない。真理は真理であり、真理に反対するものは、いかなるものであれ真理ではありえない。真理は1つであり、それに反対するものは確実に過誤であり偽りであるに違いない。しかし、いま流行っているのは、この2つを混ぜ合わせようとすることである。非常に多くの教会を見てみるがいい。彼らは真理を奉じていると云う。彼らの信仰箇条を見れば、カルヴァン主義の五特質がそこにはある。そして、その教役者たちに向かって、彼らが選びの教理を信じているかどうか尋ねるとしたら? 「もちろんですとも」、と彼らは答える。福音の偉大な枢要真理のすべてを信じているかどうか尋ねるとしたら、彼らは云う。「おゝ、もちろんです。確かに私たちはそれを信じていますとも。ですが、私たちはそれを一般の人々に向かって説教すべきだとは思わないのです」。あゝ、方々! あなたがたは、自分をよほど立派だと思っているのであろう。「一般の人々」があなたほど優秀ではなく、あなたのように恵みの諸教理を受け入れることはできないと思っているとしたら、そうである。「おゝ! ですが、これらの教理は危険です。これらは人々を無律法主義へと駆り立てるものです」。彼らはこういうことを云う。だが、私たちが彼らに手紙を書くと、彼らは答えるのである。「おゝ、私たちはあなたと同じくらい健全ですよ!」 しかり。だが、健全であることと、健全な真理を宣べ伝えることは別物である。私は決して、ある人がその宣べ伝えていること以上に良い人であるとは考えない。もしある人が、「真理を、すべての真理を、真理以外の何物でもないものを」宣告していないとしたら、私たちはそれで特にその人のことを好ましく思うことはなく、十倍も悪く思う。なぜなら、その人はそれを信じていると口では云っているからである。私たちは、彼らが自分の真の意見を包み隠すくらいなら、むしろそれを全然信じていなければよいのにと思う。真理を隠すそうした人々は、十字架の諸教理に公然と反駁しようとしたのと全く同じくらい、十字架につまずいていることを証明しているのである。願わくは神が、純粋でまじりけのない、神の恵みの諸教理――キリスト・イエスのうちにある真理――があらゆる会堂で宣言され、あらゆる街通りで耳にされ、信仰を告白するあらゆるキリスト者によって受け入れられる日を送ってくださるように!

 III. さて第三のこととして私は、《十字架につまずいている人々に少し語りかけてみる》ことにしたい。

 第一に云いたいのは、福音を信じない人が、信じている人に反対するのは非常に愚かなことだということである。もしある人が自分自身、福音を愛していないとしたら、そうした人々は福音を愛している人々を放っておくがいい。あなたがたは、飼い葉桶の上に座りこんで、馬に食べさそうとしない意地悪犬の話を何度も聞いたことがあるであろう。だが、ここにはそれよりも悪いものがある。ここにいる犬は、飼い葉桶の外に出ているのである。干し草の上に自分で横たわってもいないのに、それを食べようとしてやって来る者に吠え立てるのである。彼は福音を愛していない。そして、他の者らがそれを愛しているというので、彼らを憎んでいる。何と、もしそれがあなたの欲しくないものであるというなら、他の人々がそれを有することを黙って許してやっていいではないか! あなたは、自分では無価値ながらくたとみなしているものを、彼らが持ち去っていくことに反対する必要はない。なぜそれほど腹を立て、しゃにむに真理に逆らい立たなくてはならないのだろうか? 今のあなたの状態では、そこから何1つ得ることができず、指を焼いて痛い目を見るかもしれないというのに。

 それから次に、十字架に腹を立てるのは、その進展を止めることができない以上、何と愚かなことか! ジャガナート像を載せた車の前に身を投げ出す者も、福音に反対しているあなたと同じくらい賢いであろう。もしこの教えが真実であるとしたら、「真理は強く、勝利せざるをえない」ことを思い起こすがいい。これに抵抗しようとするあなたは何者なのか? あなたは押しつぶされるであろう。だが、あなたに云わせてほしい。その車があなたの上に乗っても、その車輪はあなたの大きさによって、ほんの1吋も上がらないであろう。というのも、あなたは何なのか? ちっぽけなぶよ、地べたの上の虫けら、その車輪によって無以下のものに潰されてしまうもの、そして福音の反対者としての名前さえ残らないだろう者である。これまでにも、「われわれはキリストの戦車を止めてやろう」、と云って立ち上がった人々はいた。幾千もの人々が彼らを見て恐れた。彼らの喇叭は高く長く吹き鳴らされ、何人かのあわれなキリスト者たちは云った。「わきへ寄れ! ここにいる人々は主イエスの戦車を止めてしまうだろう」。あるとき、それはトム・ペインであった。それから、ロバート・オーウェンであった。だが、彼らはどうなっただろうか? 彼らによって戦車は止まっただろうか? 否。それはトム・ペインだのローバート・オーウェンだのが一度も地上にいなかったのと全く同じように進み続けた。世界中のあらゆる不信心者は確かに知るがいい。福音は、あなたがたが何をしようと勝利をおさめるであろう。あわれな生き物たち! それに反抗しようとする彼らの努力に、私たちが注意を払う値打ちなどない。そして、彼らが真理を止めてしまえるのではないかなどと恐れる必要はない。ぶよが太陽を消せると考えた方がましである。行くがいい。小さな昆虫よ。そして、できるものならそうしてみるがいい。自分の羽を焼かれて死ぬのが落ちである。蝿が大海を飲み干せると考えた方がましである。できるものなら、大海を飲み干してみるがいい。それよりは、お前がそこに沈み、大海の方がお前を呑み込んでしまうであろう。あなたがた、福音をさげすみ、それに反対する人たち。あなたがたに何ができるだろうか? 福音は、「勝利の上にさらに勝利を得ようとして」出てくる[黙6:2]。私が常に思うところ、福音には敵が多ければ多いほど、より遠くへ前進する。かの老戦士が云ったように、「群がる敵が多ければ多いほど、それは殺されるべき者、捕虜にされるべき者、敗走させられるべき者が多いということだ」。あなたがた、反対する人たち。あなたの軍勢を二倍にするがいい! より強大な力をもって私たちにかかってくるがいい! より激しくわめきちらすがいい! より汚く私たちを中傷するがいい! あなたがたに何ができようと、勝利は私たちのものである。そう予定されているからである。《天来の予定》の重厚な柱は堅く立っており、その頂上には、あらゆる信仰者の、またキリスト教会全体の勝利を予兆する鷲の羽がついている。神の真理は勝利をおさめざるをえず、勝利をおさめることになる。ならば、愚かな被造物よ。なぜあなたは福音があなたをつまずかせるからといって、それに反対するのか? 人手によらずに切り出された石[ダニ2:34]が、あなたによって砕かれることはありえない。だが、もしそれがあなたの上に落ちかかるなら、それはあなたを粉々にすりつぶすであろう。

 しかし、もう1つの考えだけ語って、私の主題のこの部分のしめくくりとしよう。おゝ、人よ! もしあなたが福音を憎んでいるとしたら、あなたに向かって厳粛に云わせてほしい。あなたが、あなたを救うことのできる唯一のお方であるキリストに腹を立てるとは、いかに二重に愚かなことか! 溺れかけた人が、自分に向かって投げられた綱に腹を立てた方がましである。だが、それはその人が救出される唯一の手段なのである。死にかけた患者が、自分の口に差し出された薬の杯に腹を立てた方がましである。だが、それだけがその人のからだを死から救い出せるのである。家が火事になった人がその窓に乱暴に避難梯子をかけた消防士に腹を立てた方がましである。――こうしたことは、あなたがキリストに腹を立てることにくらべれば、ずっとましである。あなたを「火から取り出した燃えさし」[ゼカ3:2]のようにひったくろうとしておられるお方に腹を立てる? その血潮だけがあなたを白く洗うことができ、永遠の栄光において、みそばにあなたの場所を設けることができるお方に腹を立てる? このお方に腹を立てる? ならば、あなたはまさしく狂っているのである。ベドラム癲狂院でさえ、あなたほど愚鈍な狂人を差し出すことはできない。

 あゝ、あなたがた、さげすむ者たち。驚け。そして滅びよ![使13:41] あなたは、福音によって自分に何の功績もないと云われたからといって福音につまずいている。だが、あなたには何の功績もないのである。ならば、なぜ腹を立てるのか? あなたは、自分が救われるために何1つ福音から求められないからといって、福音につまずいている。だが、もし福音があなたの救われる条件として何かをあなたに要求したとしたら、あなたは失われるであろう。これこそ、まさしくあなたのための福音なのである。これは、わざわざそのようなものとして作られたのである。あなたの状態にうってつけのものなのである。あなたに誂え向きのものなのである。――だがしかし、あなたはそれにつまずいている! おゝ、どうすればそれほど愚かになれるのか? あなたは一度でも、自分を乗せている馬車に車輪がついているからといって腹を立てた人の話など聞いたことがあるだろうか? なぜあなたは、福音の戦車が、無代価の恵みという車輪以外によっては前進できないからといって、それに腹を立てなくてはならないのだろうか? 何と! あなたは福音があなたを低くするからといって、腹を立てるのか? あなたは、それがあなたにとってまさに最上の場所であることを知らないのだろうか? 悪魔は、できるものならあなたを非常な高みに置こうとしたがるであろう。だが、それはただ彼があなたを滅ぼせるようにするためである。私の愛する方々。私は、主イエス・キリストご自身の御名によって切に願う。自分がなぜ福音に腹を立てているのか、よくよく考えるがいい。それがあなたの偏見に反していることは重々承知している。あなたが最初にそれを聞くとき、あなたはそれを愛さない。だが、覚えておくがいい。それはあなたが救われる唯一の希望なのである。あなたは、あなたを救える唯一のものに腹を立てるだろうか? あなたの頭に冠を乗せ、あなたの手にしゅろの枝を握らせ、あなたに永遠の至福を与えることのできるものに腹を立てる? ならば私には、あなたが地獄に沈むとき、あなたが天国を見上げてこう云うであろうという気がする。「あゝ、キリストよ! 私はあなたにつまずきました。そして、いま私は、あなたが唯一の《救い主》であったことがわかります。私はあなたの名を憎みました。『イエスの御名によって、すべてがひざをかがめる』*[ピリ2:10]と書かれている御名を憎みました。私は、罪人たちを罪から贖う唯一の《救い主》であられた《救い主》を憎んだのです」、と。

 IV. 最後に私は、《2つの推論を引き出したい》

 第一のことはこうである。もしキリストの十字架がつまずきであり、常につまずきであったとしたら、なぜ信仰を告白するかくも多くのキリスト者たちは、一年中のどかに暮らし、決してそれについて難儀をこうむることがないのだろうか? 老ジョン・ベリッジはこう云っている。「もしあなたが福音を宣べ伝えなければ、あなたは全く無事に眠ることができよう。だが、もしあなたがそれを忠実に宣べ伝えるとしたら、あなたは、からだ中にほとんど無傷の部分がなくなるであろう。というのも、すぐにあなたは、あなたを攻撃する敵を何人も作るからである」。非常に多くの教役者たちについて、何の中傷も全く聞こえてこないのはなぜだろうか? 彼らを悩ませるものは何もなく、すべてが安楽であり、だれひとり彼らの説教に腹を立てるような者はいない。むしろ人々は彼らの会堂の扉から出てきては、こう云う。「何と素敵な説教でしょう! これは、まさに万人のためのものでしたな。だれひとりつまずこくとなどありえませんでしたな」。彼らは余すところなく福音を説教していないのである。さもなければ、一部の人々をつまずかせることは確かだからである。かりに、だれかが私にこう云ったとしよう。「先生は、誰それ夫人が、こないだの先生の説教にかんかんになって怒ったことをご存知ですか?」 それは、私が真理を宣べ伝えたとわかっている限り、私にとって何の悩みでもない。ひとりの高名な説教者がかつて、先生のお話には聴衆全員が喜ばされました、と告げられたという。「あゝ!」、と彼は云った。「またしても、説教を1つ無駄にしてしまったか」。最も力ある説教とは、福音の反対者に唇をかませ、歯ぎしりさせるものである。ロウランド・ヒルも、このように云うのが常であった。「悪魔を吠えたけらせないような説教に、ほとんど値打ちはない。かの古き獅子から吠え立てられないような者は、ごく僅かしか真理を語っていないのである」。嘘ではない。サタンはその人と同じくらい福音を好んでおらず、この世はサタンと同じくらい福音を好んではいない。そして、もし近頃は、以前ほど迫害も憎しみもないとしたら、それは人々が。父祖たちのようには平易で、率直な真理を宣言していないからである。人々は、素敵な、天鵞絨のように耳障りのよい説教者の話を聞きに行く。彼らは、教役者が心地よいことを預言してくれるのを好む。「私は誰それ氏の話を聞きには行かない」、とある人は云う。「あの人の話を聞くと決まって腹立たしくなるのだから」。さて、その理由は何だろうか? それは、その教役者が福音の全体、神の純粋な真理を説教しているからである。しかし、人々は、私たちが好きこのんで彼らをつまずかせたがっていると思うのだろうか? 否。神はご存じである。私たちがしばしば語る厳しい言葉は、私たちの聴衆を痛ませる以上に私たちを痛ませるものである。しかし、私たちが人々の意見をほとんど意に介さないとき、また、世評などものともせずに生きるすべを学んでいるとき、それは良いことである。いったん教役者たちが忠実に、平易で率直な福音を宣言するが早いか、たちまち笑い声や、あざけりや、冷やかしが聞こえてくる。神の子らが人々の娘たちと縁を結ぶとき、それは悪い時代である。そして、キリスト教会がこの世からほめられ、万人から推賞されるとき、それは教会にとって悪い時代である。通常は最も悪口を云われている教派こそ、最もキリストが豊かに住んでおられる教会である。だが、美服に包まれ、栄誉の膝の上であやされている教派は、通常は最も腐敗した教派である。福音を大胆に、堅実に、たゆみなく、力強く、徹底的に宣べ伝えるがいい。そうすれば、すぐにもあなたは、「十字架のつまずき」について何がしかを聞くことになるであろう。

 私が最後に指摘したいのは、このことである。おゝ、私の兄弟たち。もしキリストの十字架が私たちをつまずかせていないとしたら、私たちの恵み深い神をほめたたえるべき、いかに大きな理由が私たちにはあることか! 私は、この場にいる多くの方々が、私とともに声をそろえて、聖書の中に自分をつまずかせるものは何1つない、福音の中に自分をつまずかせるものは今や何1つない、と云えることを願いたい。たとい何かあなたに理解できないことがあるとしても、それをあなたは憎んでいない。たといそれが難解で謎めいているとしても、それをはねつけはせず、むしろ自分にできる限りそれについて学びたいと願っている。あゝ、私の神よ! たとい私がこれまで説教してきたすべてのことが偽りだったとしても、私はいつなりともそれらと縁を切る覚悟をしています。ただ、あなたがよりよく私を教えてください。もしも私がこれまで学んだすべてのことが間違いだったとしたら、また、私がそれをあなたから学んでいなかったとしたら、あなたご自身が私を教え、私の過誤を示してくださるとき、それらを撤回することを恥とは思いません。私たちは聖書の鋳型に自分をはめこみ、あるがままの聖書を取り上げ、それを信じ、それを受け入れることを恥とは思いません。そして、もしあなたがそうした状態にあるとしたら、よく聞くがいい。あなたは救われているのである。というのも、いかなる人も、自分は福音をすべて受けて入れており、そのすべてを愛しており、それを自分の心で受け入れています、と云いながら、福音と無縁であることはできないからである。私は、ある説教者たちが、無知なことに、福音に対する「生まれながらの」愛などというものについて語るのを聞いたことがある。そのようなものは、ありえない。私はだれかが、人にはキリストに対する「生まれながらの」愛がある、と云うのを聞いたことがある。それは、みなたわごとである。天性はキリストに対する愛を生むことも、いかなる良いものに対する愛を生み出すこともできない。それは神から来るのでなくてはならない。というのも、あらゆる愛は神から出ているからである。生来、私たちのうちには何1つ良いものはない。あらゆる確信は、何らかのしかたで、聖霊から来たものに違いない。たとい、それが一時的なものであっても、それが良いものであるとしたら、御霊から発したものに違いない。おゝ、私たちに福音を愛さしめた大いなる恵みをあがめ、賛美し、ほめたたえようではないか! というのも、私が、私たちの中のある者らとともに確信するところ、私たちも、全世界のいかなる者にも負けないくらい、それを憎んでいた時があったからである。老ジョン・ニュートンは常々こう云っていた。「あなたがた、カルヴァン主義者と呼ばれている人たち。――むろんあなたがたは単にカルヴァン主義者というだけでなく、昔ながらの、正当な、キリストの後継者たちなのだが、――あなたがたは、他のいかなる人々にもまして、あなたの反対者たちに対して優しさの限りを尽くさなくてはならない。というのも、思い起こすがいい。あなた自身の原理に従えば、彼らは、神によって教えられるまで、真理を学ぶことができないのである。そして、もし彼らがまだ学んでいないとしたら、あなたは彼らに怒りを発するべきではない。むしろ、彼らがより良い教育を得られるよう神に祈るべきである」。私たち自身の不機嫌さによって、「十字架のつまずき」を余分に作り出すようなことはせず、むしろ十字架に対する私たちの愛を示すため、それにつまずかされている人々を愛し、祝福を与えるようにしようではないか。

 あゝ! あわれな罪人よ。あなたは何と云うだろうか? あなたは十字架につまずいているだろうか? 否。つまずいてはいない。というのも、そこでこそ、あなたは自分のもろもろの罪をなくしたいと思っているからである。あなたは今この瞬間に、キリストのもとに行きたいと願っているだろうか? あなたは云っている。「私は、キリストに全くつまずいてはいません。おゝ、どこでキリストを探せばよいかわかっていればどんなに良いことか! 私はキリストの御座にまで行きたいのです」。よろしい。もしあなたがキリストを欲しているとしたら、キリストがあなたを欲しているのである。もしあなたがキリストを願い求めているとしたら、キリストがあなたを願い求めているのである。しかり。それどころか、もしあなたがキリストを求める願いを火花1つほども有しているとしたら、キリストはあなたを求める願いを紅蓮の炎と燃やしているのである。主は、あなたがいかなるしかたで主を愛そうとも、それをはるかに越えた愛であなたを愛してくださる。確信するがいい。あなたが最初に神とともにいたのではない。もしあなたがイエスを求めているとしたら、イエスが最初にあなたを求められたのである。ならば、来るがいい。すべてに欠けた者、倦み疲れた者、失われた者、無力な者、破滅した者、罪人たちのかしらたる者よ。あなたの信頼を、主の血潮と、主の完璧な義とに置くがいい。そうすればあなたは、罪から自由にされ、咎から解き放たれ、キリストを喜びながら帰って行くであろう。あなたは、いま《いと高きお方》の御座の前で高らかにホサナを歌っている御使いたち自身と同じくらい幸いとまでは云えなくとも、同じくらい安全にされるのである!

----


《C・H・スポルジョンによる講解》

ガラテヤ1

 

「十字架のつまずき」[了]

HOME | TOP | 目次